西に沈み往く夕陽を眺めながら、平井ゆかりは青息吐息を溢していた。
場所は自動販売機横のベンチ。両手に持っているのは、二人分のポップコーンである。
さっきまで一緒に映画の感想を話していた少女は今、居ない。いきなり無表情を強張らせたかと思えば、文字通りに飛んで行ってしまった。
「……………ふぅ」
ヘカテーは説明すらせずに行ってしまったが、平井にも大まかな察しは着いていた。
彼女の胸には今、以前には無かったアクセサリーが提げられている。縦と横の長さが等しい正十字のロザリオ。
名を、『ヒラルダ』。ヴィルヘルミナの友人たる“彩飄”フィレスの遺品である。
人間に自在法を使わせるこの宝具を、平井は外界宿(アウトロー)に関わると話した際に、ヴィルヘルミナから譲り受けていた。
いま彼女が異常事態を察知できているのも、この宝具が持つ能力の余禄だった。
「(坂井君、だよね……)」
今ごろ悠二が、人ならざる異能者と戦っているだろう事を解って、しかし平井はヘカテーのように動けない。そうするだけの力が………無い。足手纏いにしかならないと解ってしまう理性が、彼女をここに留まらせていた。
「(でもいつか、きっと………)」
己の無力に対する憤りすらも進む先への原動力に変えて、今は二人に心の中でエールを贈る。
そんな平井に………
「………平井さん?」
眼鏡の反射光が、照らされた。
「……これ、ミステスね」
炎髪を靡かせる少女が、煌めく灼眼で悠二を睨む。しかし呟かれた言葉は、悠二に向けられたものではない。
「囮という事もある。周囲への警戒を怠るな」
「解ってる」
胸元のペンダントが遠雷のような声で応え、少女も短く首肯した。大太刀を握る手から、ギリッと力を入れる音がする。
「ちょっと待て! あんたフレイム―――」
明確な敵意から無駄と知りつつ、それでも制止の声を上げる悠二。だが、その言葉は神速で繰り出された斬撃によって止められる。
「痛……ッ」
横一文字に振り抜かれた切っ先が、身を退いた悠二の二の腕を浅く切る。
堪らず跳び下がるも、間に合わない。悠二の後退に合わせて踏み込んだ少女は、既に二撃目を振り下ろしている。
「くっ……!!」
頭上からの斬撃を、悠二は手にした大剣で危なく弾いた。弾かれた切っ先は頭上で流れるように翻り、斜め下から逆袈裟に跳ね上がる。
悠二はそれを、間一髪のタイミングで受け止めた。
「(駄目だ―――)」
刹那の逡巡。
ここから繋がる次の斬撃は止められないと悟った悠二は、握る大剣に存在の力を流し込んだ。
その刀身に、血色の波紋が揺れる。
「っ………」
瞬間、既に次の動作に移ろうとしていた少女の首筋から血が噴き出した。
「だあっ!!」
不可解な痛みに動きを止めた少女に向かって、悠二は渾身の斬撃を叩き込む。
尋常ならざる膂力に裏打ちされた凄まじい一撃を、少女は大太刀で受け……飛ばされた。
車に撥ねられたような勢いでコンビニのガラスを突き破る少女を見てから、漸く滝のような冷や汗が湧いて来る。
「(危なかった)」
少女の受けた傷は、悠二の魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』の力。刃を流れる存在の力で触れたモノを斬り裂く能力。悠二にとっては、切り札と言って良い宝具だった。
巧く鍔迫り合いに持ち込めれば一撃で勝負を決する事も出来る宝具を……あんな形で使わされた。使わなければ、斬られていた。
「話くらい聞けよ!」
より一層の危機感が悠二に叫びを上げさせる。しかしこれは、反撃の好機を一つ潰すだけの結果に終わった。
何故なら少女は悠二の言葉に全く反応せず、砕けたガラス窓から疾風のように襲い掛かって来たのだから。
「ああもうっ!」
悠二の左手に銀の炎が燃え上がる。それは灼熱の火球となって一直線に放たれ………少女に当たる寸前で両断された。
「っ~~~~!」
炎弾を苦にもせず飛び込んで来る影を振り払うように、悠二は大剣を横に薙ぐ。
その重く疾い斬撃を少女は、今度は受けない。背面に跳び越えて、捻った身体を正面に戻すに合わせて大太刀を振り抜いた。
「――――――」
大剣の上を過ぎ、無防備な首を確実に刎ねる刃。冷たい光が容赦無く奔り……
「……!?」
止まった。
白刃の軌道に突如として出現した、銀の自在式を内に燃やす半透明の切片に阻まれて。
「話聞けって………」
微かな硬直。その一瞬に、悠二は己が存在を燃やす。
「言ってるだろ!!」
陽炎に覆われた世界で、燃え盛る銀が燦然と咲いた。
陽炎に囲まれた異界の片隅に、一人の男が佇んでいる。紅蓮が踊り、銀の舞い散る戦いの一部始終を、男は余さず観察していた。
「………ふぅん」
最初は、標的が違った時点で止めようと思っていた。あんな弱輩を壊したところで得るものは無く、不利益は大きいからだ。
しかし、僅かに制止が遅れた……その結果が、これである。
「(もう少し、様子を見てみようか)」
どんな手品を使ったか知らないが、ほんの一月余で完全に別人になっている。現に今も、彼が手塩に掛けて鍛え上げた少女を相手に随分と健闘していた。
そんな風に戦う一人に感嘆する一方で………もう一人に対する評価は、お世辞にも高いものとは言えない。事前に聞いていた事ではあるが、あまりに芸が無さすぎる。こと自在法に関しては、戦闘経験など皆無に等しいだろうミステスの方がマシという有様だ。
「(まったく、フレイムヘイズになって以降も俺が鍛える事が出来ていれば……。そもそもあんな奴一人に任せる事が失敗なんだ。ヴィルヘルミナ・カルメルは一体何のつもりで……)」
自分のチームの腑甲斐なさを見る監督の心境とでも言うべきか。愚痴のような思考を苛立たしげに巡らせる男は………
「ん?」
ふと、封絶の中に飛び込んで来る新たな気配を感じた。
昼間で人目につく、という配慮も欠いたまま、ヘカテーは屋上から屋上に渡り跳ぶ。
「(『万条の仕手』が、また……?)」
今更の、あまり想像できない仮説を思いながら、ただ急ぐ。その一方で、別の胸騒ぎが疼いている。
「(もし、『万条の仕手』ではなかったら……)」
新たな徒、新たな討ち手。この封絶がそれらの襲来を意味しているなら、それはもう異常事態と言っても良い事件だ。
ヘカテーが御崎市にやって来てまだ三ヶ月も経っていない。こんな異常な頻度で徒やフレイムヘイズが現れるなど、普通ならば考えられない。
何か……見えない渦が、数多の因果を否応なく引き摺り込んでいるような、不気味な予感が背筋を撫でる。
「(でも、今は………)」
気配を感じただけなら、悠二が危険とは限らない。だが封絶が張られた以上、人喰いか戦闘が起きている事は既に確定だ。
桜の炎が、仮面の妖狐が、そして傷だらけの悠二の姿が脳裏に蘇り、焦る気持ちが足裏に爆発を呼ぶ。水色の流星と化したヘカテーは猛スピードで陽炎の壁を突き抜けて、
「これは………」
すぐさま、目にする。
封絶の内を鮮やかに彩る、紅蓮の炎を。
「(『炎髪灼眼』……!)」
見紛う筈もない、それは彼女の盟主と同格に位置する“天罰神”の炎の色。
数百年を経た今でも、目蓋を閉じれば鮮明に思い出せる。青き天使を砕く灼熱の炎を、神の系譜を握り潰す紅蓮の腕を。
それがいま、今度は悠二を………。
「(破壊する―――!!)」
ヘカテーの全身を水色の炎が包み、深緑の制服を呑み込んだ。炎を抜けたヘカテーが纏うは、白き外套と帽子の映える巫女の装束。
「はっ!!」
まずは一撃。大まかに感じる戦いの気配に向けて、特大の炎弾を放り投げる。ヴィルヘルミナの時と同じ、たとえ敵の近くに悠二がいても、彼に炎は届かない。
水色の火球は隕石の如く眼下を目指し………掻き消された。標的から外れたビルの屋上から突然伸びた、“七色の閃虹”を受けて。
「む……っ!」
驚愕する間にも、戦いの気配に紛れていた“もう一つの気配”が膨れ上がる。……というより、物凄い速さで接近していた。
長い銀髪を靡かせ、サーベルを握る美麗の剣士が。
「“虹の翼”……!?」
そう……以前『天道宮』から目覚め、ヘカテーの窮地を救い、また勝手に何処ぞへと旅立った“虹の翼”メリヒムだった。
無表情なヘカテーの眼が僅かに見開くのを面白そうに眺めたメリヒムは、接近と同時に何の躊躇もなくサーベルを振り切った。
薄い刃と大杖『トライゴン』が、火花を散らして衝突し合う。
「いいところなんだ。邪魔するな」
刃の向こうで水色の瞳が明確な敵意に燃えている。そんな事は百も承知で、メリヒムは厭味ったらしい微笑を浮かべた。
「一体、何のつもりですか」
剣と杖が鍔迫り合う所を支点に、ヘカテーは下から押し上げるように『トライゴン』の石突きを振り上げる。
メリヒムは僅かに頭を下げてこれを躱し、大杖に滑らせるようにサーベルを引く。引いてそのまま、神速の刺突へと切り替えた。
迫る切っ先を仰け反って避けたヘカテーは、すぐさま浮遊を解いて落下。メリヒムから距離を取る。
「もう一度訊きます。“これ”は何の真似ですか」
ヘカテーには、メリヒムが何を考えているのか全く解らなかった。
メリヒムが『天道宮』で眠っていた時点で、彼が『炎髪灼眼』を育てたのではと疑ってはいた。そんな彼が自身の鍛えた討ち手を捜したところで驚きはしない。しかし……だからと言ってこんな行動を取る理由にはならない筈だ。
『零時迷子』を欲しているというのなら解るが、それこそ可笑しい。『炎髪灼眼』と“虹の翼”が同時に掛かっていれば、ヘカテーが到着する前に勝負は着いている。
一対一で悠二と『炎髪灼眼』を戦わせる。そんな事に、一体何の意味があるのだろうか。
「歯応えのある敵を用意したくてね。最初は君にぶつけるつもりだったが……気が変わった」
「……………?」
やはり、意味が解らない。解らないが………最後まで付き合う気も失せた。
長くも深くも無い付き合いだが、この傲慢な王が自分の決めた方針を他者の都合で変えはしないという事は判る。
「『星(アステル)』よ」
明る過ぎる流星群が、虹の剣士へと襲い掛かる。
「(最後の気配が、封絶の中に消えた)」
悠二が、ヘカテーが、炎を撒いて戦っている頃。『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルも当然、封絶の発生に気付いていた。
気付いてなお、即座に動かず様子を見ていた。
「隠密行動」
「抜かりは無いであります」
彼女と悠二らの見解の違い。それは、『相手は十中八九 徒だ』と見ている点にあった。
ヴィルヘルミナは既に外界宿(アウトロー)にヘカテーの事を報告し、この一件を自分が預かるという旨も伝えていたからだ。“頂の座”などという、爆弾以外の何者でもない徒に、進んで関わる討ち手はまずいない。ヘカテーは有名な引きこもりでもある為、彼女を仇と狙う討ち手も皆無であろう。
これらの見立てから、ヴィルヘルミナは『敵は徒である』という前提で動いていた。
故に今、確実な奇襲を仕掛けるべく『気配隠蔽』の着ぐるみで全身を覆っている。依田デパートで見つけた宝具のお陰もあって、今の彼女は完全なノーマークとなっている筈だ。
ヘカテーは勿論、悠二とて簡単にやられはすまいという分析もある。
「では、行くのであります」
「作戦開始」
幾つもの好奇の視線を集めながら、白キツネの着ぐるみが街を駆ける。