『約束は三つ。もう人を喰わないで』
左手を飛ばされ、下半身も落とされた。もう立ち上がる事すら出来ない。
―――完全なる、敗北。
『もう世を騒がす事はしないで』
ただ、見上げる。自分を斬った女を。自分が愛した、紅蓮に燃える討ち手の女を。
『私の後に現れる“炎髪灼眼の討ち手”を、“私の愛の為に”可能な限り鍛えて。約束破ったら酷いわよ?』
勝った方が負けた方を好きに出来る。
自分から言い出した約束だった。その……完全に自分の為だけに交わした約束を、逆に彼女に強いられた。
『嫌よ、待たない。さよならなの、“虹の翼”メリヒム………』
どんな言葉も届かなかった。いくら叫んでも止められなかった。
去り往く背中を、散り往く紅蓮を、ただ見送る事しか出来なかった。
遺されたものは、三つの誓い。酷い女と最期に交わした、意地悪な約束だけだった。
湿気の強い六月の黄昏の中を、一人の男が歩いている。
季節に合わない紺色のロングコートの背中に眩しい銀髪を靡かせる長身の男。その容貌もそうだが、それ以上に彼の持つ壮絶な違和感が日常的な風景を異質なものへと変えていた。
「(……また、海か)」
男は人間ではない……どころか、この世のモノですらなかった。
歩いて行けない隣の住人……紅世の徒。名を、“虹の翼”メリヒム。
かつて紅世の徒最大級の集団と謳われた『とむらいの鐘』という組織の最高幹部・『九劾天秤』の両翼に数えられた程の強大極まる紅世の王。
しかし、彼は人を喰らわない。自儘な放埒で世を荒らす事もしない。全ては、かつて交わした約束を護る為。その為だけに数百年生き永らえ、力尽きたのだ。今さらそれを違える事など有り得ない。
「(狭い島国だ)」
彼は数百年の艱難の末、数年前に誓いを果たして力尽きた。己が存在を最期の試練としてぶつけ、そして敗れた。一片の悔恨すら残らぬ至上の結末を迎えた筈の彼は……しかし今、生きている。
水盤型の宝具『カイナ』。沈没した宮殿で海流に攫われた彼は、その上に倒れたのだ。
この宝具は、水盤の上にある存在の異能を使わせない代わりに、顕現の力を消耗させない。その効力によって絶命を免れた彼は、ほんの一月余り前に予期せぬ復活を遂げたのだ。
「(これじゃ、俺の噂が広がる範囲も限られるか。そろそろ海を越える事も考える必要があるな)」
そうして復活した彼が今こうしているのもやはり、約束の為だった。
『可能な限り鍛える事』が三つ目の誓い。完遂した後に生き永らえたのは今一つ締まらないが、可能となった以上は再び鍛える。その為に彼は、自分が鍛え上げた一人の少女を捜していた。
「(船は度々見掛けるが、金も無い。まず金を稼ぐか、それとも忍び込むか。……くそ、俺が『天道宮』に居る間に、こうも下界が様変わりしてるとは)」
捜していると言っても、少女の情報を集めているわけではない。この世の真実を知らない人間は元より、紅世の徒も彼女の情報を持っている筈が無いからだ。
彼女に遭遇した徒は残らず討滅されているか、紅世に帰っているかしかない。少女を鍛えた親の一人として、メリヒムは当然そうだと確信している。
フレイムヘイズならば少女の事を知っている者も居るだろうが、当のメリヒムが徒なのだからそっちから情報を得る事は不可能に近い。……ので、メリヒムは見付けるのではなく、見つけて貰う方針を採った。
具体的には、フレイムヘイズと遭遇する為に、彼らと同じくこの世の歪みを探し歩き、封絶と見れば迷わず飛び込む。そして姿と存在感を見せつけてから逃走する。
こうしてメリヒムを見つけたフレイムヘイズが、別のフレイムヘイズに情報を流して、いつしか少女の耳にも入る、という算段だった。
かつては白骨の姿で顕現の規模を抑えていた彼が今、無駄に違和感を撒き散らしているのも、フレイムヘイズに発見され易くする為の措置である。
「(どちらにしろ、肝心の俺が動き回っていては意味が無い。もう十分釣り餌は撒いた。一度ミサキに戻るべきか)」
つらつらと考える傍ら、ふと思う。
「(………ミサキは、どこだ?)」
数百年『天道宮』から出なかったメリヒムにとって、今の日本は正しく異界。そんな世界を適当に歩き回った現在、元の場所への帰り道など皆目見当も着かない。
しかしメリヒムも、ただ黙々と歩き回っていたわけではない。金の瞳が鋭く光る。
「(“あれ”を使う時が来たか)」
『天道宮』で目覚めた彼は、彼を復活させた二人の強い勧めによって一度、御崎市を訪問していた。そこに向かう手段として使ったのが、“高速で動く鉄の塊”である。
「(あれは予め決められた道筋しか進まんらしい。だが裏を返せば、決まった道筋ならば知らぬ場所へも行く事が出来る)」
静観な表情の裏で時代錯誤な確信を得るメリヒムは、ならば金を稼がねばと意気込む事にした。強盗はやはり『世を騒がす事』になるだろうから控える。
不意に、懐かしいというほどもない甘い香りが、鼻腔を擽った。
「(………そう言えば、好きだったな)」
良くご褒美として与えられたそれに噛り付く少女の、満面の笑顔が脳裏を埋める。今でもやはり、大好きなのだろうか。頻繁に買いに行ったりしているのだろうか。
「(…………よし)」
僅かでも確率が上がるなら、試さぬ理由は無い。決して、再会した少女に振る舞って喜ばせたいとかそういうアレではない。断じて。
“勝手に開く扉”を抜けて、メリヒムは匂いの許たる店に入り。芳ばしい香りに満たされた店内で、一人の店員を上から見下ろして………
「雇え」
端的に自分の要求を告げた。
平井ゆかりの日々は目まぐるしい。
帰宅部の女子高生という表の顔とは裏腹に、彼女は紅世に関わる人間の組織・外界宿(アウトロー)の末端構成員として励んでいた。
より正確には、御崎市に滞在するフレイムヘイズ『万条の仕手』とのパイプ役を買って出ていた。
何故『この世の真実に触れた』という最低ラインを満たしただけの平井が外界宿と関われているのか。それは、このフレイムヘイズの存在が殆どだった。
ヴィルヘルミナ・カルメルは現在、御崎市に居る……のみならず、平井のマンションで厄介になっていたりする。もちろん、今の彼女が御崎市を離れる筈がないと確信した平井の提案である。
根無し草のヴィルヘルミナが断る理由もなく、平井からすれば外界宿と関わる為に不可欠なキーパーソン。所謂ギブアンドテイクだ。
もちろん悠二は猛反対した……と言うより今もしているが、平井は断固として譲らない。そして、やはりと言うべきか、単なる雑用で満足するほど殊勝でもなかった。
……と、いうわけで―――
「わぉ……!?」
週末に届きそうで届かない木曜日の放課後、一同は薄暗くも広い一室に集結していた。
一同と言うからには一人ではない。平井ゆかりは勿論として、坂井悠二、“頂の座”ヘカテー、そしてヴィルヘルミナ・カルメルまでが揃っている。
「これ全部、宝具とか言わないよな……?」
ここは旧依田デパート上層部。かつて御崎市の存在を乱獲した、“狩人”フリアグネの拠点だった場所である。
ヘカテー達に討滅された“狩人”が熱心な宝具のコレクターでもあると知った平井は、彼の根城たるこの場所に遺された宝具があるのではないかと一考し、探索に乗り出す事を決めたのだった。
そんな危険な場所に一人で行かせられるわけもなく、悠二とヘカテーも自動的に同行決定といった運びだ。因みに、ヴィルヘルミナもヘカテーにこの場を預ける気は全く無い。
蓋を開けて見れば、広い室内を満たすのは種々雑多なオモチャの山だった。この光景見るのは、悠二だけが二回目である。
「何か、ボンヤリと光っているようでありますな」
「心霊現象」
そんな薄暗い一室を、下からの青白い光が照らしていた。ここはとっくにデパートとしての機能を失った廃屋部であり、無駄に電気を通わせているとも思えない。
「……………!」
瞬間、何を思ったかヘカテーが跳んだ。オモチャの山を飛び越えて、ミニチュアの箱庭らしきビルの上へと着地する。
「たわっ!?」
「それいけシルバー!」
すぐさま、悠二の背中に乗った平井とヴィルヘルミナが続く。
辿り着き、見下ろした先に、光の正体があった。
「トイレの標識?」
「って言うかコレ、御崎市?」
御崎市を模した箱庭の中で蠢く、人型の光だった。
何の為の宝具なのやら解らず首を傾げる悠二らを余所に、ヴィルヘルミナは腕を組んで顎先を撫でる。
「これは、『玻璃壇』でありますな」
「はりだん?」
聞き慣れない言葉に、悠二の背から降りてミニチュアのビルを跳ねて詰め寄る平井。訊き返した言葉にヴィルヘルミナが応える……前に、
「回収します」
ピッと、ヘカテーが人差し指を立てた。と同時に、箱庭が淡い光を発しながら形を失いだす。
「うわぁああ!?」
足場を失った悠二が、雪崩れ込んで来たオモチャの山に攫われた。平井はと言えば、ヴィルヘルミナに掴まってフワフワと浮いている。
数秒にも満たない発光を経て、箱庭は簡素な銅鏡となってヘカテーの両手の中にあった。
「“頂の座”、それは……」
「うちのです」
抗議のような声を出すヴィルヘルミナに一言で返して、虚空から生み出した白帽子の中にいそいそと銅鏡をしまい込むヘカテー。
その姿は、見る者に有無を言わさぬ大きな喜びを感じ取らせた。
「僕……飛べないんだぞ……」
オモチャの山から、震える右手が生えていた。