薄い微睡みが全体に蔓延する教室、英語教師が教科書の内容を黒板に模写するだけの退屈な授業。
それでも真面目にノートを取っていた吉田一美は、今日何度目か、斜め前方の席に視線を向ける。
「(………今日は三人、お休みなんだ)」
昨日は近衛史菜が、今日はそれに加えて平井ゆかりと坂井悠二が欠席。並んだ三つの机が齎らす空白は、教室の活力を三割ほど濾し取ってしまっていた。
「(……たまたまだよ。大丈夫、きっと違う。近衛さんの風邪が坂井君に感染って、お見舞いに行ったゆかりちゃんにも感染って、それで三人共……あれ? でもゆかりちゃん、今朝着ぐるみと一緒に……あれ……?」
その中でも、『ムードメーカーがいなくてつまらない』で終わらないのが、この吉田である。
悠二と、その親友である平井。少しずつ距離を縮めていたつもりだった二人が今は、不思議と遠く感じられてならない。……近衛史菜の登場以来。
悠二と近衛の周りに、見えない壁があるように思えた。その壁を、平井は易々と越えて行った。
「(学校休んで、三人で一緒に……でも、そんな……マサカ……)」
無駄に身悶えていた吉田は、隣席の池速人に保健室行きを勧められた。
「病院とか、連れてくべきですかね?」
「問題危惧」
「あっ、やっぱ不味いか。でも包帯だけじゃ……」
「自然治癒」
「……な〜る、それもフレイムヘイズの体質って奴ですか」
平井のマンション、そのリビングで、平井がヴィルヘルミナの全身に包帯を巻いている。必然的に服を脱がさねばならない為、悠二は廊下で待機である。
「ねー、坂井君も病院は不味いー?」
その悠二に、全く常と変わらぬ声が掛けられる。僅かに言い淀む悠二の隣から、ヘカテーが応えた。
「零時になったら全快します。それが悠二の宝具の力」
訊かれたから応えた、という平然とした様子で。
「(ヘカテーは……何も気にしてないんだろうな)」
自分が徒である事、それを平井に知られた事、平井が……非日常に触れてしまった事。それらに対する怒りも戸惑いも、ヘカテーには見られない。
「終わったから入って良いよー。次、坂井君ね」
いや、ヘカテーだけではない。当事者たる平井自身も、“こんな自分たち”に接する事に躊躇いを持っていない。
開けっ放しのドアを潜り、リビングに入る。包帯やガーゼで小綺麗に治療されたヴィルヘルミナが、ソファーに横たえられていた。
「ぼーっとしてないで、ほれ脱げ少年。そこ座りんさいっ!」
「うわっ!? 判った! 判ったから! 自分で脱ぐから!」
複雑な気分でその寝顔を眺めていると、平井に学ランを引ん剥かれた。つい普通に応えてしまいつつ、背中を向けて服を脱ぐ。下は流石に恥ずかしいので、裾を引っ張り上げて傷を見せた。
「…………………」
テキパキと平井が包帯を巻く間の、短いのに長い沈黙。平井は傷を見ている。悠二は平井を見ている。ヘカテーは、ヴィルヘルミナを睨んでいる。
「………落ち着いてるんだね」
気まずさに堪えかねて、結局率直に訊ねていた。そんな気まずさを悠二が感じていると気付いて、平井は少し淋しそうに笑う。
「大体の話はカルメルさんから聞いてたし、エンカウントバトルになった坂井君と違って、あたしには考える時間たっぷりあったもん。……まぁ、“二人共”とは思わなかったけど」
「っ……」
判り切っていた事実を何気なく言われて、悠二は殆ど物理的な衝撃を受けて息を呑む。
「…………ごめん」
思わず、謝っていた。その俯いた顔を無理矢理に起こすように、平井のデコピンが悠二の額を打った。
「あたしが首突っ込んだ結果でしょ。坂井君がそんな顔しないっ」
呆気に取られる悠二の眼前で平井が立ち上がる。左手を腰に当て人差し指を鼻先に突き付けた、何とも勇ましいポーズである。
「『平井さんを巻き込んだ』とか、『平井さんは“こっち”に居ちゃいけない』とか、そういうの全部要らないからね。自分の居場所は自分で決めるし、坂井君にだって決めつけさせない」
「あ…………」
人差し指がそのまま、ボタンよろしく悠二の鼻を押す。文字通りに圧倒されて、悠二は辛うじて両手を後ろに着いて転倒を避けた。
「(そうだ、平井さんは………)」
その傍らでずっと、思っていた。明るくて、眩しい……まるで太陽のような女の子だと。
―――その輝きは、この世の真実に触れた程度で翳るものではなかった。
「ごめん」
「んむ♪」
今度はさっきとは違う、彼女を見縊った事を謝る。平井もまた、籠められた意味の違いに気付いて満足そうに頷いた。
「「さて、と………」」
その二人の首が、同時に振り返る。さっきから二人の会話の意味が解らずに首を傾げていた、ヘカテーの方へ。
「何で徒のヘカテーが、外界宿(アウトロー)の構成員である“近衛史菜”さんの名前を使ってんの?」
「……外界宿の、構成員?」
まずは平井から、このややこしい状況についての詰問。しかしこれは、ヘカテーも訳が解らなかったので頭上に疑問符を浮かべる。
御崎市で最初にヘカテーが出会った、御崎グランドホテルの受付嬢。彼女の名前である近衛史菜を、ヘカテーは勝手に使っていた。
本名を名乗るのも不味かろうという程度の認識でしか無かったし、普通は単なる同姓同名で片付けられる問題だった。
だがここで、一つの問題が浮上する。ヘカテーが騙った近衛史菜は、よりにもよって、外界宿の構成員だったのである。
その構成員に会おうとしていたヴィルヘルミナに、偶然居合わせた平井が『近衛史菜=ヘカテー』と誤解したまま、成り済ました。
名前を勝手に使われまくった『本物の近衛史菜』は、最初にヘカテーに名札を見られて以来この場の誰とも接触していなかったりした。
「何たるミラクル……!」
それら、まことにややこしい裏事情を会話の中で整理して、漸く近衛史菜関連の疑問は解消される……が、
「で、ヘカテー?」
「!?」
まだ悠二の疑念が残っている。訝しげな半眼を向けられて、ヘカテーの小さな肩が判りやすく跳ねた。
「ヘカテー、『零時迷子』に刻まれた自在式を欲しがってたよな。『約束の二人(エンゲージ・リンク)』ってのを襲った奴について、何か知ってるんじゃないか」
質問でありながら、その声には確認の色が濃い。
ヴィルヘルミナに関する経緯に関しては、既に道すがら伝えられていた。
「……“壊刃”という徒の名は知っています。依頼を受けて標的を狩る『殺し屋』、強大極まる紅世の王」
あからさまに視線を逸らしつつ、言っても良さそうな事だけ言うヘカテー。当然、悠二の質問は終わらない。
「殺し屋……なら、それを依頼した誰かについては?」
「…………………」
訊かれ、ヘカテーは暫し躊躇う。『万条の仕手』は気絶しているが、その契約者たる“夢幻の冠帯”はヘッドドレスに意識を表出させてテーブルの上からこちらを見ている。
「……おじ様だと思います」
「おじ様?」
「“探耽求究”ダンタリオン。世に名立たる天才にして、周りの迷惑を考えない“まっどさいえんてぃすと”です」
結局、自業自得だと割り切って暴露した。ついでに、最近覚えた単語で表現してみる。とても良く似合う響きだった。
「……で、その自在式についてなんだけど……」
「秘密です」
続く質問。今度は絶対に応えられない問いに、ヘカテーは身体ごと後ろを向いた。
「……昨日から何してた?」
「内緒です」
次いで、両手で耳を塞いで、「訊くな」と全力でアピールする。背後から平井が手を伸ばして擽ってくるも、やはり言えない。ひたすらに堪える。
「(おじ様のバカ)」
声もなく全身を悶えさせながら、ヘカテーは脳裏に浮かぶ顔に全力で光弾を叩き込む。
……実のところ、と言うより当然、ヘカテーは『零時迷子』に刻まれた自在式が何か知っていた。
『大命詩篇』。神の巫女たるヘカテーだけが授かり、振るう事の出来る力の結晶。……が、何事にも例外というものがあり、その数少ない例外である天才が、“探耽求究”ダンタリオン。通称“教授”である。
「っ……ッ……!?」
『大命詩篇』は門外不出、秘中の秘、何があっても他に知られてはならない極秘事項。
それを勝手に持ち出して“壊刃”に預け、『零時迷子』などに撃ち込み、挙げ句の果てには『万条の仕手』に狙われているとは、開いた口が塞がらない。
“銀”とかいう徒の事といい、数百年前の『大戦』の事といい、迷惑どころの騒ぎではなかった。
「(おじ様なんて、勝手に狙われていれば良いんです)」
懐いているヘカテーにそう思わせるほど、教授の暴走は果てしなかった。
「むぅ、ダメか……」
「……自分の中に得体の知れない物があるって、僕としても気が気じゃないんだけど」
黙秘権を主張して譲らないヘカテーに、平井と悠二も一先ずは諦めた。
挙動不審極まりないが、本当にヘカテーが犯人ならその自在式をさっさと回収して然るべきである。
「………………」
悠二に害を及ぼすような物ではない、そう言おうとしたヘカテーは、寸前で口をつぐんだ。
既に、悠二の『大命詩篇』はヘカテーの手を離れている。『戒禁』に阻まれているのが良い証拠。そして、それらの改変を行ったのは間違いなく“あの”教授、害が無いとはとても言いきれない。
「……まっ、坂井君が消えなくて、ヘカテーが人を食べないんなら、とりあえずあたしは文句ないよ」
これ以上の問答が無為と判断してか、平井は唐突に腰を上げた。何をするのかと悠二が見れば、そのままスタスタと玄関に歩いて行く。
「どこ行くの?」
「内緒です」
意味深な笑顔でヘカテーの物真似などする平井は、そのまま本当に出て行ってしまった。
「………………」
家主の居なくなったリビングで―――桜色の瞳が、ただ天井だけを見つめていた。
「………ふぅ」
人気の少ない平日の昼間の道を、ややの早足で歩く。今は誰にも見られていないと思うと、自然と溜息の一つも出てしまう。
「(怪我……痛そうだったな)」
彼がミステスとなったのが、ほんの一月前。今まで何度こういう事があったかは判らない……でも、これから何度も起きるだろう。たった一月で、少なくとも二回はあった事なのだから。
「(おかげで決心ついた)」
二人の真実を明確に突き付けられても、気持ちは変わらない。それどころか、より一層の意欲が心底から沸々と湧いて来る。
「(いざ、御崎グランドホテルへ………!)」
少女の日常は回り続ける。
隣を進む真実を見て、在るべき己を先に見据えて、形を変えて回り続ける。