「「………………」」
御崎大橋の架かった真南川の河川敷、鮮やかな緑が生い茂る原っぱで、棒切れを握る悠二とヘカテーが向かい合う。
如何にも緊張で固まった正眼に構える悠二を、右手に棒切れをぶら下げただけのヘカテーが無表情に眺めていた。
「ふんっ!」
踏み込みと共に突き出されたモーションの小さい一突きが、僅かに首を捻ったヘカテーの襟足を撫でる。
捻った首で引っ張るように身体ごと振り上げた一閃が、悠二の二の腕を強く打った。
痛みに顔を顰めつつも横薙ぎに振り回す悠二の斬撃は、素早く膝を落としたヘカテーの頭上を虚しく通過する。
「(まだまだ甘い、けど………)」
空振りした自分の視界の下に、しゃがみこんだヘカテーが居る。その事に戦慄して振り上げた悠二の前蹴りを、ヘカテーは棒切れでガッチリと受け止めた。………受け止めて、身体ごと数メートル吹っ飛ばされた。
「っ………」
“これ”があるから、二人は坂井家の庭から場所を変えて鍛練に励んでいるのだ。
体術はまだまだ未熟に過ぎるが、純粋な膂力は相当に強いらしい。強大な王たるヘカテーにそう思わせるのだから、凡百の徒から見ればそれだけで充分な脅威だろう。
「うおっ!?」
加えて、『零時迷子』の余禄なのか何なのか悠二に備わっていた鋭敏な感知能力が、経験の無さを充分以上にカバーしている。
フェイントを織り交ぜたヘカテーの連撃から、不恰好ながらも悠二は逃れた。
「(悠二は、確実に成長している)」
恐らく、既に並みの徒なら討ち倒せるほどに。
教え子の成長に対する初めての感慨に密かに目を細めるヘカテーは、鋭く一突き、悠二の顎を撥ね上げた。
「っ〜〜!? ………くちっ、口ん中切った……!」
大の字に引っ繰り返って藻掻く悠二。それを見下ろすでもなく、ヘカテーは肩に掛けたタオルで額の汗を軽く拭く。
これから家に帰ってシャワーを浴びて、千草の美味しい朝食を食べて学校に行き、友人となった平井たちと遊ぶ。いつの間にか新しい日常となっていた温かい日々にヘカテーは思いを馳せる。
ふと、
「……………ねぇ」
仰向けに倒れた悠二が、青空を見上げて不透明な声を漏らした。
「僕はこれから、どうなっていくのかな………」
それは不安とも期待とも着かない、自分自身でも掴みかねているような曖昧な感情の発露だった。
「トーチで、ミステスで……もう人間として生きていくなんて無理なのは判ってる。……けど、『零時迷子』のおかげで、消える事も無い」
トーチである悠二は、成長する事も老いる事もない。そして『零時迷子』が在る限り、通常のトーチのように薄れて消える事も無い。
「……僕はこれから、どんな道を進んで行くんだろう」
自分が何物であろうと、やるべき事をやる。
いつか見出だした自身の行動理念が、今は虚しく響く。
自分が何物かという事に関係なく、今の悠二は肝心のやるべき事そのものが見つからない。
せめて自分の身を護れるくらいに強くなる、という目先の課題が日常の一部となってきた今になって、漸く悠二はそんな根本的な悩みを抱くに到ったのだった。
「…………………」
言葉の裏に隠された悠二の哀惜は、それを受けたヘカテーにも伝染する。
千草の待つ家も、友人のいる学校も、そこにヘカテーが紛れている事も、全ては今という一時を繋ぐ虚構に過ぎない。決して遠くない未来……過去となって置き去りにされる。
「(……全部、失くなる………)」
最初から判り切っていた事実を突き付けられて、何故かヘカテーは胸の奥に氷の杭を打ち込まれたような寒さに襲われた。
……悠二が言った言葉は、そのままヘカテーにも当て嵌まる。
ヘカテーが『零時迷子』に刻まれた『戒禁』を何とかする事に成功するか、『零時迷子』を狙っていると思われる“おじ様”……“耽探求究”ダンタリオンが現れでもすれば、ヘカテーが御崎市に留まる理由も無くなってしまう。
「………私は、どんな意味に於いても、貴方を縛るつもりはありません」
悠二の不安、悠二の迷い、その欠片を共感してしまっている自分自身に戸惑いながらも、ヘカテーが悠二に掛ける言葉は変わらない。
「貴方の思う儘、望む儘に、進んで行けば良いんです」
それは彼女が、祈りを受け未踏を踏み出す神の巫女であるが故に。
悠二は、そんなヘカテーの葛藤には気付かない。ただ言葉の意味だけを受け取って、己に向けて苦笑した。
「自由、か……。でも……それが却って難しいな……」
思えば、人間だった頃から将来の夢などまともに考えた事も無かった。どうも複雑な境遇以前に自身の無精が問題であるらしいと気付いて、それでも簡単に何か思い付くわけでもない。
「「………………」」
どちらともなく、言葉を止めて己が内に目を向ける。そんな沈黙は、ものの二十秒と掛からなかった。
「あーーーーっ! もう終わってる!」
微妙にシリアスな空気を一瞬にして霧散させる騒がしい声が、上方……川沿いの歩道から届いたからだ。
見れば、動き易そうなTシャツとハーフパンツ姿の平井が、頭の触角を怒らせている。
「あたしもダイエットがてら混ぜて貰おーと思ったのに、二人とも何で今日に限ってこんなトコでやってんの!」
いかにも非難がましい口振りで土手を降りて来る平井だが、二人とも彼女の参加について聞いた憶えなど無かったりする。
以前から互いの家に遊びに行くくらい悠二と親しかった平井だが、ヘカテーが居候を始めてからは輪を掛けてアクティブだ。
「うちの庭だと、ヘカテーから逃げ回るのに狭いんだよ。……って言うか、平井さんにダイエットなんか必要ないだろ」
「そーいう油断が一番危険なのっ。特にあたしみたいな帰宅部には!」
それを、嫌だと思った事は無い。しかし、こんな人間離れした鍛練に平井を参加させるわけにもいかないし、出来れば見せたくもない。
遠回しに拒絶するような言葉を口にする悠二に向けて、平井はファイティングポーズからのワンツーを繰り出した。最初から当てるつもりの無い拳が、悠二の掌に当たって小気味好い音を出す。
「それとも………」
不意に、平井の声が僅かに翳った。その事に悠二が何かを思う、寸前―――
「っ……!?」
大きく一歩、平井が悠二に近寄っていた。
すぐ、目の前。腕を閉じれば抱き締めてしまえるほど近くで、潤んだ紫の瞳が悠二の瞳を覗き込んでいる。
「……あたしが居たら、邪魔?」
隠し切れない不安を、否定して欲しい。そんな、懇願にも似た切ない声色に息を呑む。
ゴクリと、生唾を飲み込む音が聞こえた。すると、
「なーんてね!」
満足そうにニンマリと笑って、平井は悠二の胸元から逃げた。何がそんなに楽しいのか、伸ばした両手を背中で組んでクルクルとスキップを踏んで回りだす。
ついでのようにヘカテーを抱き上げて、悠二の前に掲げて見せた。
「こ〜んな超美少女と同棲してるくせに、まだまだウブよのぅ坂井悠二君?」
「………同棲って言うな」
こんなのは悠二にとって日常茶飯事、今さら腹を立てるわけもない。しかし若干悔しいのでソッポを向いて言い返す。
「そーゆーわけで……家まで競争ね!」
その間に平井と、地面に下ろされたヘカテーは背中を向けて走りだした。
「負けた人は今日の放課後にクレープ奢る事!」
「ダイエットするんじゃなかったのか!?」
「……?」
おまけに何やら勝手なルールを追加する平井にヘカテーが手を引かれ、悠二が慌てて追い上げる。
「(………今くらいは、良いよな)」
温かくて、優しい……失いたくなかった日常。これが仮初めに過ぎないと知ってなお、いつか去る今を、坂井悠二は噛み締める。
―――その崩壊が、すぐ目の前に迫っていると気付かぬままに。
悠二の奢りでクレープを食した学校の帰り道。何気なく平井に持ち帰られたヘカテーは………
「…………………」
その日の深夜、唐突に目蓋を見開いた。
どんなに眠くとも、どんな状況でも見過ごす事など無い、彼女の存在意義たる報せを受けて。
「(……行かないと)」
平井の抱き枕にされた状態から、出来るだけ静かに身をよじって抜け出し、ベッドから降りる。
その温かさ……日常の穏やかさに僅かに後ろ髪を引かれて、しかし迷わず全身を燃やす。炎の後に顕れたのは、白い帽子と法衣を纏う巫女の姿。
「(私用で、少し、出掛けます)」
机の上にメモを残して、開いた窓に足を掛ける。………不意に、悠二の顔が浮かんだ。
「(………大丈夫)」
『零時迷子』を宿す悠二を残して行く事に微かな躊躇いを覚えたが、ヘカテーはそのまま飛び立った。
紅世の徒など、そうそう現れはしない。人間の寿命で考えれば一生会わないのが普通だ。
だから、少しの間 自分が御崎市を離れたところで、悠二が襲われる可能性など限りなく低い。
「(………いま参ります、我が盟主)」
使命を帯びて光を纏う少女は、流星となって夜空を奔る。………その小さな胸の奥に、自分でも掴めない不鮮明な靄を抱いて。