――――地獄。
もし本当にそれがあるとすれば、こんな光景なのだろうと思った。
『はあっ……はあっ……はあっ……!』
何度も襲われた。何時も逃げ延びた。
いつか必ず、逆転の糸口を見つけて返り討つと念じながら。その逃避の先に待っていたのが、“これ”だった。
『流石は音に聞こえた戦技無双。彼奴らだけならこれほど手間取る事も無かったろうが……いや、過ぎ行く日々の廻り合わせもまた、世に生きる者が引き寄せる因果の力か。だがそれも、俺という力の前では一時凌ぎに過ぎなかったというわけだ』
封絶ではない茜の炎が大地を埋め、煉獄の中で渦巻く無数の剣が獲物の血を求めている。
その剣が、怖気を誘う圧倒的な怒涛となって押し寄せて来た。防ぐ力も、避ける力も残っていない。
終わったと、そう覚悟した眼前に………
『させないよ』
琥珀の自在式が顕れ、障壁となって自分を守った。圧倒的な力に怯まず立ち塞がる少年が、取り返しのつかないモノを削っている事は、一目見て解った。
だから叫んだ。今すぐ逃げろと、消えてしまうと。だが彼は、振り向けた横顔で頬笑んだ。
『残念だけど、もう保たない。どうせなら友達を助ける為に使うとするさ』
何かを悟ったような声に目を向ければ、彼のコートは元の色が判らないほどの血に汚れていた。もう……今すぐ離脱に成功しても、助からないほどの重傷。
『罪滅ぼしってわけじゃないけど、君まで僕らに付き合う事はないよ。こいつに“これ”を渡すのも癪だしね』
自身の胸、何かを撃ち困れた己が核に手を当てて、彼は不自然なほど落ち着いた声で呟き、そして………
『僕は幸せだよ。これから何が起こっても、この身がどうなっても、フィレスと一緒なら』
自分そのものを琥珀の暴風と変えて、放った。茜の怒涛が吹き散らされ、砕けた剣が舞わせる細雪を裂いて、また別の琥珀が踊り出た。
『……ええ、私もよ。ヨーハン』
涙で顔をクシャクシャに歪めた、彼女が。
愛する彼に想いを馳せて、しかし彼女は自分を抱き上げた。その瞬間、視界が吹っ飛んだ。
『フィレス……!』
茜の煉獄も暴風となった彼も遥か下方に置き去りにして、自分たちは空の彼方を飛んでいた。
『………私は、ヨーハン無しでは生きていけない』
風となって解けた彼女の声が耳元をそよぐ。
『でも、貴女は違う。だから………』
優しくも寂しい声が、薄れゆく意識に痛いほどに響いていた。
『だから、貴女は生きて……ヴィルヘルミナ。ヨーハンが生まれ、私の愛した、この世界で………』
自分を運ぶ彼女もまた、いつしか彩飄となって消え去っていた。
「―――――――」
そんな、夢。
夢という名の癒えない傷から、彼女は目覚めた。
「…………眠ってしまったのでありますか」
「疲労困憊」
肩までの桜色の髪に、同色の瞳を持つ美女。机に突っ伏す体勢で眠っていた彼女は、奇妙な口調で呟いて額の汗を拭った。額と言わず全身が、身に付けたメイド服をじっとりと湿らせる冷や汗をかいている。
「煮沸消毒」
単語だけの言葉が頭上のヘッドドレスから発せられた。直後に桜色の炎が彼女の全身を包み、また一瞬で消える。炎が消えた後には、汗も汚れも綺麗に消え去っていた。汚れや毒を焼き払う洗浄の自在法『清めの炎』である。
「…………………」
手早く汗を払ってくれたパートナーに礼を言うでもなく、女は机の上に広げた書類の山に視線を落とす。
傷心しては逃げるように使命に没頭する。これが彼女の、全く不器用な逃避の仕方なのだった。
「………直接的な目撃情報は、やはり完全に途絶えてしまったようでありますな」
「目標消失」
今も、香港で取り逃がした紅世の徒“愛染の兄妹”を追い掛けて、日本へと渡り来たばかりのところだった。
彼らの護衛役だった“千変”シュドナイとの戦いには決着がつかなかったが、もし未だに合流を果たしていないとすれば兄妹を討つ好機でもある(“千変”の目撃と交戦情報はあるので、この可能性は低くなかった)。
通常、彼女らが特に因縁も無い徒をしつこく追い回す事は珍しい。が、今回は少し事情が違う。
この兄妹、存在の大きさの割りに異様なほど人間を喰い荒らすのだ。普通なら、いくら徒でも“余計な戦い”を呼び込まない為にある程度は自重するラインを簡単に踏み外す。
その気配隠蔽の力に自惚れて「見つかりはしない」と高を括っているのだろうが、だからといって無論、放置は出来ない。そこに在るべき人間の欠落は、そのまま世界の歪みへと直結する。
「む………トーチの大量発生、でありますか」
「大食漢」
とはいえ、手掛かりらしい手掛かりが無い以上は通常の手管で探すしかない。歪みの気配や、あり得ない現象の跡から徒を見つけ出す。
「関東外界宿(アウトロー)第八支部。……御崎市でありますな」
トーチが多いという事は、それだけ多く人が喰われた証だ。或いは………
「…………………」
無作為転移して来ているかも知れない。そんな思考の断片を声には出さずに思い浮かべて、パートナーも同じく察して、やはり声には出さない。
「行くのであります」
「出発」
テキパキと書類や小物を登山用の大きなザックに詰め込んで、立ち上がる。
その一歩を踏み出した時………ハラリと、一枚の写真が落ちた。
「あ………」
反射的に拾おうとして、その写真を目に入れて、思わず金縛りに遭った。
掌ほどの大きさに切り取られた景色。不自然に遠くから撮られた写真に映るのは、誰かに肩を組まれて体勢を崩したような自分一人。
………一人きりしか、映ってはいなかった。
―――フレイムヘイズ。
紅世の徒が『歩いて行けない隣』から渡り来て、欲望に任せた気儘な放埒を繰り返すようになってほどなく、それは起こった。
紅世とこの世の境界たる、両界の狭間。そこを渡ろうとした徒たちが、傷つき、行方不明となり、時には消滅するといった異変が続発したのだ。
一人の紅世の王はこの異常の原因を見つけるため狭間を探り、辿り着いた。辿り着いて、愕然とした。
徒がこの世の存在を奪う事によって生じた歪みが、両界を支える柱………世界のバランスそのものに、甚大な影響を及ぼしていたのだ。
膨れ上がった歪みが柱を揺るがせ、やがて紅世もこの世も崩壊させる―――後に『大災厄』と呼ばれる危機を前にして、王たちは漸く動き出した。
今すぐにでもこの世での徒の放埒を止めねばならない。しかし、言って止まるものでもなければ、単純に力づくというわけにもいかなかった。
この世の徒を止める為には、自身もこの世に渡らねばならない。しかし、彼らがこの世に顕現するには人間の存在を喰らわねばならない。歪みを止める為に歪みを招く。これでは本末転倒だった。
そんな現状を打ち破る術を、一人の王が見つけだす。
それは、『召喚』。
祈りと生贄によって神を降臨させる神威召喚、その応用である。
この世に生きる人間に、過去、現在、未来、全ての存在を捧げさせ、そうして生まれた『運命という名の器』に自らを召喚させる。
この世に在るべき存在である人間の身体は、徒のように そこに在るだけで力を消費したりはしない。そして未来を失った身体は成長する事も老いる事もなく、失った力は在るべき存在として通常の体力と同様に回復する。
人間という器に入った紅世の王。言わば世界への誤魔化しによって、彼らは世界を救う使命を為し得る手段を手に入れた。
そうして生まれた使命の剣、或いは討滅の道具。其が名を、『炎の揺らぎ(フレイムヘイズ)』。
「って事は、その人たちは元々人間なのか」
「はい。人間を失った存在という意味では、悠二の同族と呼べなくもありません」
旅行から御崎市に帰って来た、その日の夜の11時。だんだんと馴染んで来た習慣として、坂井悠二は夜の鍛練に勤しんでいた。
「彼らは同時に、復讐者でもあります。紅世から人間を探す際には強烈な感情を目印にしますし、召喚する側である人間にも代償を払う理由が必要ですから」
「……ああ。徒に復讐したい人間と契約すれば、互いに利害が一致するわけか」
相も変わらずヘカテーを背中に乗せての素振り。但し、今日は悠二の手に握られている得物が違う。
片手持ちの柄と幅広い刀身を持つ、西洋風の大剣。宝具『吸血鬼(ブルートザオガー)』。
先日ヘカテーを襲撃した“愛染自”ソラトの所持していた魔剣である。
日頃から悠二を鍛えているヘカテーが、結果的に残されたこれを持ち帰らない理由は無かった。
「たとえ会っても、油断しない事です。彼らはあくまで自身の復讐と世界のバランスの事しか考えていません。人間を助けるというのは、あくまでも結果論。必要とあれば人間の存在を使うのもまた、フレイムヘイズです」
そんな鍛練の最中に、こんな話を聞かされている悠二である。
殊更にフレイムヘイズとやらを悪く言うヘカテーに、悠二は白い眼を向けざるを得ない。
「(そりゃ、ヘカテーから見れば同族殺しとか言いたくなるのも解るけど……)」
自然への危機意識が行き過ぎて人間を殺し回る環境保護団体、みたいな認識なのだろうと勝手に想像する。
しかし、元人間の悠二からすれば「フレイムヘイズは悪い奴だ」などと思えるわけもない。少なくとも、人間を喰って遊ぶのを目的としている徒よりは百倍マシだとしか思えない。
「…………………」
そんな内心を思い切り表情に出している悠二を見て、ヘカテーは悠二の肩口に額を押し当てる。
……何となく、こういう反応をするだろうなーという予感はあったから今まで黙っていた。しかし、いざフレイムヘイズに会った時に余計な事を吹き込まれても不味いので渋々教えた結果は、やはりこうである。
「いいですか? フレイムヘイズが悠二を見つけたら、まず間違いなく中の宝具を奪おうとします。私が近くにいなかったら、とにかく逃げる事です」
「ふぅん」
せっかくの忠告にも生返事されたので、ジャンプというには強い力で背中を蹴って屋根に着地する。
“虹の翼”の時と言い、全くもってなってない。
「け、けどさ……僕には『戒禁』も掛かってるんだし。いざとなったら存在の力も奪えぶぐげぇ!?」
無言の抗議が流石に伝わったのか、言い訳っぽく馬鹿な事をぬかす悠二。鍛練の一環として『トライゴン』で足下を払い、地面に落下させてみる。
「己の統御力を越えた存在の力は、所有者の意思総体を呑み込んで消滅させます。『戒禁』には二度と頼らないで下さい」
楽観的な少年を見下ろすでもなく、ヘカテーはこの場にいるもう一人へと振り返る。
本日の“生徒”は悠二だけではない。ネグリジェの上から黒いマントを羽織り、同色の学者帽子を被るヘカテー。
「では、今日の授業を始めます」
「…………………」
両手を頭の後ろで組んで寝転ぶ“虹の翼”メリヒムが、興味なさそうに視線を寄越した。