無数の蔓が、鋭い穂先を向けて迫って来る。
「むっ……!」
蔓と言っても、巨大な妖花のそれは樹の幹ほどの太さを持つ。身体ごと縦横無尽に飛び回って回避したヘカテーの帽子が、並々ならぬ風圧で危うく飛ばされそうになる。
その背後、ヘカテーが先ほど躱した蔓が鎌首を擡げて、槍衾となって再び迫って来た。
「(逃げる空間が無い)」
身体を檻に、先端を槍にして獲物に牙を剥く妖花から逃げられないと判断するや、ヘカテーは全身から水色の炎を爆発させ、周囲を取り巻く蔓を纏めて焼き払った。
間髪入れず大杖を翻し、全力の『星(アステル)』を愛染の兄妹目がけて撃ち放つ。先ほどとは比較にならない光弾が、海に津波を起こすほどの大爆発を呼び、
「……やりますね」
その中に在って、山吹の光を灯す妖花の蕾は、無傷。その花弁が優雅に咲いて、内に守られた兄妹が姿を現した。
「御生憎様、あの時とは違いますのよ。実力の違いが理解出来まして?」
『星』の全力を受け切って、なおも余裕の笑みを作るティリエル。しかし、やはり彼女からもソラトからも、それほど大きな力は感じない。
本来ならばヘカテーの全力を止める事も、あれだけの存在の力を妖花に込める事も不可能な筈だった。
「(さっき感じた、力の脈動………)」
そして、この封絶まがいの結界。やはり、どこか別の場所から力を供給しているのは間違いない。
……しかし、タネがあると判っても、肝心の仕掛けを破る術が無い。ヘカテーは巫女として特異な固有能力を持ってはいるが、己が本質に沿わぬ力を幅広く扱える自在師ではないのだ。
長引くと判断すると同時に、ヘカテーは街に向かって一直線に飛翔を始めた。
「あら、かくれんぼの次は鬼ごっこ? 退屈な遊戯ばかりですわね」
それを、嗜虐的な笑みを浮かべたティリエルと、目をキラキラと輝かせたソラトが、妖花に乗って追い掛ける。
もちろん、ヘカテーは恐れを為して逃げ出したわけではない。
「(天道宮から、少しでも遠くに引き離す)」
海中に『天道宮』があるここでは、満足に力を振るえないのだ。
ヘカテーが愛染の兄妹と交戦している頃、一人『天道宮』に取り残された悠二はというと………
(ゴクリ)
大人しく待機するでも、『秘匿の聖室(クリュプタ)』から飛び出すでもなく、燃える宮殿の反対側に回り込んでいた。
目指しているのは、未だに何の動きも見せない、ヘカテーが仕留め損ねた小さな気配だ。
「(実は徒じゃない、とか……?)」
ヘカテーが飛び出した直後は、徒と一緒にこんな空間に居るという事実に戦慄き、一も二もなく逃げ出そうとした。ヘカテーの様に飛ぶ事は出来無くとも、地面を歩いて横から出る事は出来る……と、思った。
結果は失敗。偽りの空を描いた見えない壁に阻まれて、外に出る事は叶わなかったのだ。
悠二には知る由も無いが、この『秘匿の聖室』はヘカテーにとっては馴れ親しんだものであり、出入りに必要な『鍵』も当たり前に知っている。それを知らない悠二が、入った時と同じように出られないのは全く当然の事だった。
脱出を諦める傍ら、悠二はふと疑問に思った。この結界に取り込まれた時も、ヘカテーに宮殿ごと攻撃された時も、最初に感じた小さな気配が一切動いていない事に。
反撃するにしろ逃げるにしろ、攻撃を加えられたら何らかのアクションを起こすのが普通だ。気配を掴めていなかったヘカテーが、禄に確認もせず飛び去ったのも、そういった認識からだろう。
徒ではない、紅世の気配。即ち、
「(宝具、か……?)」
という結論に(素人考えで)達した悠二は、おっかなびっくり気配の正体を確かめに来ているのである。
「(……もしかしたら、この結界の鍵かも知れないもんな)」
ヘカテーのように敵の姿や結界の力を目にしたわけでもないが、単なる封絶ではない以上、当然何らかの仕掛けがあると悠二は考える。
そうして、宮殿の反対側に回り込むと……
「あっ」
いともあっさり、それは見つかった。宮殿の中ではなく、宮殿を挟んだ反対側の庭園にあった。
「こ、これは………」
驚きと同時に、悠二は安堵する。
そこに在ったのは大きな銀の水盤。その上に、不吉なものが乗っている。手も足も無い、水盤の上に打ち捨てられたような人間の白骨である。
「(……良かった、宝具だ)」
気配が分かると言っても、肉眼で視認出来るわけではない。だから悠二は、“違和感の正体が白骨だと”気付けなかった。
恐る恐る、水盤から白骨をどけようと手を伸ばして………
「ッ!!?」
その手から、悠二というトーチを構成する存在の力が抜ける、独特の感覚があった。毎夜繰り返している、間違えようのない喪失感。
「うわあぁぁ!!」
“喰われる”という恐怖に心底から震え上がり、思わず白骨を放り出していた。
後退る足も縺れて無様に尻餅を着き、後悔ばかりが身体中に広がっていく。
「(僕は……馬鹿だ!)」
心のどこかで自惚れていた。この気配は、フリアグネが使役していた燐子よりも遥かに弱い。いざとなったら自力で何とか出来るのでは、という“錯覚”が微かにあった。
自分の力さえ満足に統御出来ない悠二など、いくら存在の力を持っていても徒から見れば極上の“餌”に過ぎない。―――だからこうして、いとも容易く存在を奪われる。
「あ……あ……」
見上げる先で、白骨の姿が変質していく。
欠けていた骨が復元し、胴から手が生え、足が生え、肉に覆われ、皮を纏う。
薄青の上衣を胸甲と草摺りが守り、金冠を模した額当てを着けた長い銀髪と紫の外套が翻る。
そこに顕れたのは、御伽話から飛び出して来たような、精悍な顔立ちの騎士、或いは剣士。その眼が、ゆっくりと悠二に向けられる。
「…………………」
数秒とも、数分とも着かない沈黙を経て……
「………お前は、誰だ?」
男の口が、開かれた。
“それ”は、彼にとっても意識の外の現象だった。
極限まで乾いた身体が、触れるだけで水分を吸収してしまうのと同じく、彼の身体は唐突に接触した存在の力の塊を、無意識の内に吸い取っていた。
「(今、のは………)」
得た力のまま顕現してから、真っ先に感じたのは焦り。『誓いを違えてしまったか』という危惧からの焦りだった。
はっきりしない意識のまま近くにいた何物かを見ると、無様に硬直している無様な餓鬼の胸で灯りが燃えている。とりあえず、『人間を喰ってしまった』わけではないようだ。
「…………………」
そうして次に、意識を失う前の事を思い出す。
赤い飛沫と、暴走。徒の襲来と、導かれた『天目一個』。誓いの成就と、永遠の別離。………その、筈だった。
「(……こいつのせいか)」
見るでもなく、足元の水盤を見る。この宝具の名は、『カイナ』。『天道宮』の要にして、その上に在るモノに存在を消耗させない水盤だった。
この上で力尽きたが為に、彼は死のギリギリでこの世に留まった……ようだ。
命を懸けて旅立ちを見送ったと言うのに、何とも締まらない顛末だった。
それにしても、解らない。あの時、『天道宮』は確かに崩壊した筈だ。
「………お前は、誰だ?」
解らないなら、訊けばいい。何故か腰を抜かして動かない少年を見下ろしたまま、銀髪の剣士は有無を言わさぬ声音で言った。
訊かれた悠二はと言えば、
「……坂井、悠二………」
まずは会話が成立したという事に安堵しつつ、隠す意味も無い名前を譫言のように呟いていた。
「何故ここにいる。この結界は何だ。俺に触れた理由は?」
男の方も、何となく訊いてはみたが悠二の名前などに興味は無い。矢継ぎ早に訊きたい事だけを並べる。
が、残念ながら悠二は半分も答えられない。
「……ここを見つけたのは偶然だ。この結界は、多分、敵の自在法で……今も外で、僕の仲間が戦ってる」
それでも、混乱する頭で懸命に伝えたい事を形にする。敵意が無さそうな男の様子から、或いは味方に引き込めないかと考えたのだ。悠二はともかく、ヘカテーは紅世の王なのだから。
が、
「………要は、単に巻き込まれただけか」
男は興味無さそうに溜め息を吐いて、それ以上悠二に何を訊くでもなく、宝具に興味を持つでもなく、そのまま上空に浮かび上がった。
「なっ……どこ行くんだよ!」
という悠二の呼び掛けも、完全に無視である。あのまま喰われなかっただけマシなのだろうが、それでも何か釈然としないものは残る。
何より、あの男は紅世の徒。放っておけば、別の場所で人間を喰う。複雑な表情で見上げるしかない悠二の頭上で………偽りの空に穴が開いた。
「なっ……なっ……なあぁっ!?」
男が、剣帯に吊られていた凝った意匠のサーベルで『秘匿の聖室』を斬り砕いたのだ。そこから、海水が勢い良く流れ込んで来る。
「(いや、これで、いいのか?)」
これで海水が中を満たせば、悠二も男が開けた穴から脱出できる。これでヘカテーの手伝いが出来る……かも知れないが、徒から姿を隠す事も出来なくなった。
「(どっちにしろ、もう気配は隠せないんだ。ここに残ってる意味が無い)」
それ以前に、溺れる。
海水が満ちるのを水に浮かんで待ちながら、悠二は静かに気持ちを練り直す。
さっきのは確かにミスだった。ヘカテーを手伝おうとした結果、何を考えているか解らない徒を一人、解き放ってしまった。あの男がヘカテーに敵対した場合、手伝いどころか邪魔をした事になってしまう。……だからこそ、このまま全て任せきりには出来ない。
「(何か異変に気付いたとして、それをどうやって戦っているヘカテーに伝える……?)」
悠二が徒に遭遇する、というのは論外だ。かと言って、携帯電話なんて便利な物は持ってないし、持っていたとしても封絶の中では使えない。そんな余裕も無いだろう。
解が見つからないまま海水が満ち、悠二は『秘匿の聖室』から脱出した。海中を一気に泳ぎ、海面から勢いよく顔を出して息を吸い込む。………と、
「………あれ」
海中から顔を出したすぐ近く、この結界を構成しているらしい陽炎の壁の前に、さっきの徒がフワフワと浮いていた。
「……この結界、自在法を破らんと出られんらしいな」
再び、さっきは用済みと言わんばかりに無視した悠二に、男は目を向けた。
そして、上着の背中を乱暴に持ち上げ、
「うわっ!?」
空中で腰のベルトを掴み、手荷物のように持った。
「その徒について聞かせろ。場合によっては、お前の仲間とやらを助ける事にもなるかも知れんぞ」
傲慢に、一方的に、男は要求を突き付ける。一つのミステスと一人の王が、戦場の片隅に舞い降りた。