まだ猛暑とは程遠い日射しの下、空と海の二つの青に包まれて、坂井悠二とその友人たちは釣り糸を垂らしていた。
それも、只の釣りではない。平井ゆかりの祖父が駆る漁船の上、大海原での本格的な海釣りである。
「ひゃっほー! デケェのきたー!」
「何て魚だこれ」
泳げもしない季節に海か、と言葉に出さずとも訝しがっていた佐藤と田中が、掌を返したようにテンションを上げる。
「ヘカテー、虫 平気なんだ?」
「……もっと大きいのも、知っていますから」
釣りの経験どころか、釣りという言葉すら知らなかったヘカテーに、平井が手取り足取り付きっきりでレクチャーする。
そして、坂井悠二はと言えば………
「はい、出来たよ吉田さん」
「あ、ありがとうございます坂井君。こんなに何度も……」
餌である虫を釣り針に着ける事も出来なければ、釣った魚を針から外す事も出来ない吉田一美の世話ばかり焼いていた。
意外にも頻繁に魚を釣り上げる吉田に構っているせいで、まだ悠二自身は二、三匹しか釣れていない。
「(………吉田さんって、あんまり目を合わせてくれないんだよな……)」
カチカチと ぎこちない動きで釣竿を受け取る吉田を見ながら、悠二はそんな事を思う。
“あれ”から、体育教師から助けたお礼として手渡した弁当を、吉田は毎日作って持って来てくれている。『お礼』はとっくに時効だと思われるので、あれは完全に建前……或いは切っ掛けに過ぎなかったのだろう。
この素朴な好意を、一人の少年として喜びたいのに……『一人の少年』ではない悠二は、素直に喜ぶ事が出来ずにいた。
―――坂井悠二は人間ではない。
中途半端な期待を抱く度に、現実との違いを考えて沈んでしまう。理屈や打算で考えるような事ではないと解っていても、どうしても頭を過る。
「(まあ、今すぐ何が変わるわけでもないよな)」
と言っても、そんなにしょっちゅう落ち込むほど気に病んでいるわけでもなかった。毎度毎度、吉田の持って来る弁当をチェックしては おかずのトレードを要求するヘカテーによって、この行為も何だか微妙に重みを失っている。
「(……いいじゃないか、今くらい)」
開き直りに近い現実逃避の下、控え目ながらも実は可愛い少女との一時に興じる悠二。
一方、船の反対側では………
「……………………」
無表情な上にも無表情なヘカテーが、目の前の釣り針を微動だにせず凝視していた。引き上げた釣り針には何も付いていない。魚はもちろん、さっき付けた餌すらも。
「焦っちゃダメとは言ったけど、食い逃げを許しちゃいかんよヘカテー。奴らが口を開いた瞬間、この鋭い釣り針をザクッとだねぇ……」
「…………………」
硬直するヘカテーを横から覗き込みつつ、平井が片手で一匹釣り上げる。
「っしゃあ! 八匹目ぇ!」
「なんの俺もぉ!」
「………………」
釣果を競っているらしい田中と佐藤が行儀悪く叫ぶ。
「わっ、釣れた……! 坂井君! また釣れました!」
「っと、ちょっと待ってて!」
「…………………」
竿の手応えに戸惑いながらも、また一匹吉田が釣り上げ、悠二が緩んだ顔で駆け寄った辺りで………
(バシャン!!)
悠二の背後で、元気な水音が響いた。
『…………………』
誰もが、何が起きたのか理解できずに数秒固まった。真っ先に我に帰ったのは、ヘカテーのすぐ隣にいた平井。
「ヘ、ヘヘ、ヘカテーがダイブした!」
その一言で何が起きたのか把握した悠二が、頭を抱えて触角を暴れさせる平井の肩を掴んだ。
「ヘカテーが落ちたの!?」
「……何か『捕まえれば良いんですね』とか言って飛び込んだ。手掴みでもする気かも知んない」
訊かれるまま質問に応えてから、「言ってる場合じゃないね」と零した平井は、徐に上着を脱ぎ捨てる。
「ちょっと待った、何する気だ!? まだ5月だよ!」
「はーなーせー! 幼気な仔アザラシがサメに食べられるのを黙って見てろと言うかー!」
そんな平井を羽交い締めにして止めつつ、悠二は全く別の意味で心配していた。
ヘカテーが溺れたり、鮫に襲われたりする心配は……正直、全くしていない。逆に、ヘカテーが手掴みで何を獲ってくるかが心配で仕方ない。もし鮫だの鮪だのを捕まえて来たりしたら……どんなに皆が大らかでも『普通の人間じゃない』と気付くだろう。
「解った! 僕が行くから、平井さんは大人しく待ってて!」
「むっ……! 待てサカイ君! 二次遭難にでもなったら……」
平井の祖父が制止するのも聞かず、悠二は準備運動も無しに冷たい海水に飛び込んだ。海中の様子を見せたくないのは平井の祖父相手でも同じ事。何事も起こらない内にヘカテーを回収すべく、悠二は頭から海面を突き破り、刺すような冷たさを抜けて―――
「(う、わぁ……)」
今の状況を一瞬忘れて、思わず息を呑んだ。
どこまでも遠く、深く広がる青の世界。射し込んだ日の光を受けた小魚たちが宝石のように輝いている。
「(テレビで見るのとじゃ大違いだ)」
あまりに美しい光景に目を奪われること数秒、悠二は本来の目的を思い出して視線を巡らせる。
海中と言えどヘカテーの容姿は目立つ。小さな水色の姿を遠方に見つけて、反射的にギョッとなった。遥か下方で泳ぐヘカテーの傍に、人を優に凌ぐ大きさの何かが佇んでいたからだ。
「(人間離れした事はするなってあれほどっ………いや、違う……?)」
心配した通りに鮫でも仕留めたのかと一瞬思った悠二だが、よくよく見ればそうではない。鮫でも鮪でもなく、古びて沈んでしまったボートのようだった。
何をしているのか訝しみつつ、悠二はヘカテーを追って海の深くへと潜っていく。普通の人間には辛い水圧に平然と耐えている、という自覚もなしに。
「(? あのボート、何で……)」
そして潜水の最中、可笑しな事実に気付く。ヘカテーは海底まで潜っているわけではないし、ボートを掴んでいるわけでもない。なのにボートは、浮かびもせず沈みもせず半端な所に留まっている。
「(ヘカテー)」
疑問が解決するより早く、ヘカテーに追い付いた。肩を指先でつつくと、水色の少女は振り返って悠二を見た。そして、何を思ったか自分の足下を指差す。
「(……立ってる?)」
思う間に悠二の身体は沈み、足裏が“何かの上に着地した”。
「(何か、ある)」
目には今も、変わらず海が広がっているようにしか見えていない。しかし視界とは裏腹に、悠二は、ヘカテーは、朽ちたボートは、確かに何かの上に乗っている。
「(自在法? でも、何の気配も感じない……)」
水中ではまともに話も出来ない。解の出る筈もない自問自答に陥る悠二の足下で、ヘカテーの自在式が刹那輝き、
「ごぼっ!?」
直後、二人は問答無用に“落下”を始めた。
「なぁああああ~~~~ッ!!?」
一瞬で景色が一変し、そこは海中ではなくなった。否、海中に擬態していた空間に落ちた。今、周りに海水は無い。遮る物無き重力の必然によって、二人は地面に向かって速度を増す。
「存在の力を、足に集中して下さい」
その一言で、ヘカテーに助ける気が無い事を知る。知って、絶望して……だからこそ悠二は、恐慌状態に陥りそうな自身を理性で繋ぎ止める。
「足に……集中っ!!」
毎夜刻み込んで来た感覚を、今だからこそ懸命に再現する。そして―――
「くっっ……はぁ……!!」
両足で、確かに、落下の衝撃を受け止めて見せた。
「………ヘカテー、頼むからこういうテストの仕方は勘弁して欲しいんだけど……」
人間のままだったら確実に寿命が縮んでいただろう激しい動悸を胸に感じる悠二の文句……を、残念ながらヘカテーは聞いていない。魅入られるような足取りで、常より僅か見開いた眼で“それ”を見ていた。
「あ………」
視線を追って、悠二も漸く目にする。青空から暖かな陽光に照らされた、古めかしくも神秘的な宮殿と、その宮殿を支える緑溢れる大地を。
「どうなってるんだ………」
何故、海の中にこんな場所があるのか。そもそも、ここは一体何なのか。無知から来る困惑を呟く悠二の驚きと、
「……『天道宮』」
ヘカテーの驚きは、もちろん違うものである。
「天道宮?」
「私の実家……『星黎殿』と対を為す、気配を隠蔽する『秘匿の聖室(クリュプタ)』に覆われた移動要塞です。……まさか、こんな場所に沈んでいるとは思いませんでした」
穏やかな宮殿から目を離さず、悠二には半分も解らない答えを返すヘカテー。
悠二に解ったのは、気配の隠蔽された移動要塞だ、という事くらいだ。
「(まあ、それだけ解れば充分かも知れないけど)」
と、能天気に思う悠二とは違い、ヘカテーの表情は少し険しい。
ヘカテーにとってこの『天道宮』は、単なる珍しい宝具ではない。『大命』を阻み得る天敵を内に秘めた忌まわしい卵なのだ。
この『天道宮』が最後に目撃されたのは、数百年前の“大戦”。姿を消した『天道宮』で、彼の魔神が次なる契約者を探し求めているというのが、ヘカテーの属する『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の立てた推測である。
「………無人ですね」
そして、その『天道宮』が今、こんな海底に放り出されている。そこから導き出される結論は一つ。
「(二代目は、既に世に放たれている)」
気配の端すら感じ取れない宮殿に、ヘカテーは傍目にも判るほどに眉を険しく寄せた。
と、その時………
「………いる」
「え……」
傍らの悠二が、僅かに怯えを含んだ声でヘカテーの言葉を否定した。言われたヘカテーも、もう一度注意深く宮殿に感覚を集中させるが………
「……何も感じません」
「いや……いる。微かな気配だけど、確かに紅世の徒がいる」
さっきよりもハッキリと、悠二は断言した。
そういえば、とヘカテーは思い出す。以前の“狩人”との戦いでも、悠二はヘカテーでも察知出来なかった燐子の爆発を看破していた事を。
「………少し、探ってみましょう」
気配が小さいわけがない。あの魔神はこの上なく強大で、しかも気配を隠せる器用な自在師でもないのだから。
それでも何かしらの手掛かりを求めて一歩、足を踏み出したヘカテーを……否、一帯を、
「っ!?」
―――山吹色の結界が、包み込んだ。