「貴方はもう、人間を越えられる」
託宣にも似た清らかな声が、否が応にも心の奥に染み入って来る。
その声が綺麗であるからこそ、零れ落ちてしまった日常……人間としての坂井悠二への未練が、無慈悲に踏み躙られているように感じた。
「(人間を……捨てる……?)」
否、とっくに失っている。ヘカテーは絶望を与える為にこんな事を言っているわけではない。ただ……彼女が“事実”として当たり前に語る言葉が、今の悠二には重すぎるだけ。
「『零時迷子』の戒禁は“狩人”と私の腕を奪い、貴方はその力を取り込んだ。今の悠二は、紅世の王にも匹敵する存在の力の塊になっています」
「紅世の、王………?」
立て続けに告げられる容赦の無い事実に、悠二はただ馬鹿みたいに繰り返す事しか出来ない。……だが、冗談にしか聞こえない宣告のおかげか、少しずつ頭が冷えても来た。
「(………………まあ、冗談なわけないんだけど)」
やはり、ヘカテーの瞳には一片の曇りすら無い。嘘だの冗談だのと疑う事すら許さない、純真無垢な輝きだった。
「(……感傷なんかじゃ、何も変わらない)」
人間を捨てたくなかった。変わらない日常の中に居たかった。燐子に襲われたくなかった。“狩人”に狙われたくなかった。ヘカテーが紅世の徒だと、今でも認めたくない。
叫びたくなるほどに強く拒絶して……一つとして叶ったものは無い。
悠二がどれだけ悩んで、どれだけ苦しんでも、『この世の本当の事』はお構い無しに動き続ける。
「………うん、解った」
だったら、事実の再確認などに躊躇ってはいられない。せめて自分の身くらい護れるように……その為の力になるのなら、フリアグネの腕だろうと受け入れる。………そう、心ではなく理屈で納得した。
「……って、ヘカテーの腕!?」
納得して、聞き流していた重要な部分に今さらながら気付いた。
「……“狩人”から奪った片腕の力で、“狩人”を倒せるわけがない。だから私は、最後の一撃の寸前、余力の大半を片腕に込めて悠二の戒禁に喰らわせたのです」
一歩間違えれば玉砕に終わっていたという事実、あの状況で躊躇わず片腕を差し出したヘカテー、その双方に冷や汗を流す悠二に、やはりヘカテーは平然と続ける。
「その一撃も、がむしゃらに力を暴発させただけのもの。これが無ければ、私たちも一緒に吹き飛んでました」
少しだけ呆れるように言って、ヘカテーは右腕を……“悠二の胸に潜らせた”。
「な……!?」
突然の暴挙に心底から震え上がる悠二。何でいきなり。『戒禁』があるのに。このまま消えるのか。数秒の内に思考の断片が千々に乱れて………
「……これです」
「……へ?」
そうしている間に、ヘカテーは何事も無かったかのように右手を引き抜いた。その指が開き、掴み出した物を悠二に見せる。それは、
「……火除けの指輪『アズュール』、と言っていました。“狩人”の左手に嵌められていた物です」
後退りつつ腕を突っ込まれていた胸の辺りを しきりに触りながら、悠二は言われた事をゆっくりと飲み込む。
フリアグネの左腕と言えば、悠二が『戒禁』でもぎ取った腕だ。つまりその時、悠二の体内にこの指輪が腕と一緒に残された、と。そして『戒禁』が施されているのは『零時迷子』のみだから、ヘカテーは何の苦も無く取り出せた、と。
「火除けの指輪って事は……あの時ヘカテーは、それを使ったのか」
思った以上の理解の早さに、ヘカテーは内心で密かに感心した。感心して、やはり表情には出ない。
「はい。全身に使うと爆炎も出ないので、左腕以外を火除けの結界で覆いました」
それで左腕だけ炭になってたのか、と、痛みすら薄れる消滅の前兆を思い出す悠二。だが、ヘカテーの話ならば あれでもマシだった事になる。運良く『アズュール』が悠二の中に残らなかったら、零時を待たずに二人とも焼失していた。
まとめると……悠二の『戒禁』がフリアグネの腕を取り込まなければ、ヘカテーが咄嗟の機転で自身の腕を差し出さなければ、奪った腕に火除けの『アズュール』が無ければ、そして悠二の中身が『零時迷子』でなければ……今ここに二人は存在していない。
「………奇跡だ」
「………はい」
本当に……奇跡としか呼べない偶然を味方にギリギリの綱渡りを幾つも越えた上に、あの勝利はあったのだ。遅過ぎる実感に背筋が寒くなる。
「……しかし、怖れるべきは強大な敵のみではありません。悠二の場合、今のままでは 持て余した自分の力にいつ呑み込まれても不思議ではない。力の使い方を覚えるのはその為でもあります」
「……解った。よろしく頼むよ」
今度は理屈ではなく、切実な危機感から首を縦に振る悠二。紅世の王並の力を、把握も出来ずに内に秘めている事への不安がある。自分の炎で焼け死ぬなど冗談じゃない。
「今日から毎晩、存在の力が回復する零時前に鍛練する習慣をつけます」
「了解」
完全に迷いの消えた悠二の様子に、ヘカテーは満足そうに頷いて、そして………
(ひしっ)
悠二の後ろに回り込み、背中に飛び乗った。行動の不可解さ以上に、抱きつかれるという行為自体に悠二は内心で大いに慌てる。
「あの……た、鍛練は?」
もちろん、そんな動揺を必死に押し殺し……きれてはいなかった。
「もう始まっています。感じませんか?」
そしてもちろん、ヘカテーは遊んでいるわけでも甘えているわけでもない。鈴の音のような声に耳元で囁かれて、悠二は何とか気持ちを平静に………
「………………え?」
戻そうとした途端、自身の異変にはっきりと気付いた。さっきまで半ば他人事みたいに聞いていた事実を、今は間違えようのない実感として思い知る。
『今の自分は途轍もない力の塊だ』と、誰でもない自分自身の感覚で確信出来てしまっていた。
別に、いきなり力の総量が上がったわけではない。今までもずっと在ったモノに気付いただけ。
「昼も言いましたが、私は接触によって他者と感覚を共有する事が出来ます。呼吸に等しく存在の力を繰る私の感覚を、今の悠二は共有しているのです」
「こういう……事か」
昼は今一つしっくり来なかったヘカテーの能力が、今は痛いほどに良く解る。
フリアグネの腕を自分のモノとして取り込めたのも、迫り来る燐子の攻撃を躱せたのも、稚拙にだが炎を出せたのも、全てはヘカテーの感覚を共有していたからこそ。
存在の力の統御、身体の動かし方、攻撃の仕方、避け方、炎の出し方、それらの体感が、まるで最初から自分のモノであったかのように身に付いている。
「僕を構成している存在の力……それを統御する意思総体の支配下に置いて、端から零れる一欠片を……」
教わってもいない事を感覚だけで理解して、口に出して確認しながら、何の躊躇いも無く実行する。“こんな簡単な事”を、間違えるはずがなかった。
「炎のイメージで、具現化する」
握り拳を作り、また開いた。
ボッと破裂にも似た音を立てて、開いた掌の上で炎が燃える。
「……これが、僕の炎」
燦然と輝く銀色の炎を見つめて、悠二は感嘆の吐息を漏らす。さっきまで感じていた不安や恐れなど全く無い。自分を真に自分のモノに出来た充実と感動だけがあった。
「あの時と、同じだ……」
仮初めの感覚に酔い痴れて忘我に耽る悠二の背中から、ひょいっとヘカテーが飛び降りる。途端、悠二は掌中の炎を“どうすればいいか解らなくなった”。
「あっちぃ!!」
炎が弾けて、悠二の頬を焼いた。屋根の上で転げ回る少年の顔を、悪意の無い瞳が覗き込む。
「私を常に背負って戦うわけにもいきません。これからは共有と離脱を繰り返して、さっきの感覚を自分の身体に刻み込みましょう」
「………了解」
気持ち一つで急に変わるものなど無いと、陽炎の空を仰ぐ悠二は改めて思うのだった。
(ヒュンッ)
朝の坂井家。さして広くもない庭で、二つの影が忙しく動き回っている。
「うわっ!? 今の当たったら痛いだろ!」
「半端な鍛練ならしない方がマシです」
正確には、粗末な棒切れを振り回すヘカテーから、悠二がひたすら逃げ回っている。
ヘカテーの言い出した悠二の訓練は、夜だけに留まらなかったのだ。
「く……うわっ……!」
夜の鍛練でヘカテーの感覚を身に付けても、その感覚で戦うのは悠二自身。共有ではない戦闘訓練も必要だった。ぶっつけ本番で巧く動ける保障は無いし、フリアグネの時のようなマグレ勝ちはそう続かない。……いや、二度と無いと考えた方が良い。
「痛っ!?」
因みにこの訓練、別にルールなど一切決められていない。ヘカテーが棒切れを持ち、悠二も棒切れを持ち、後はひたすら叩き合うだけ(一方的にやられているのは、別に攻撃を禁じられているからではない)。
ヘカテー曰く、「ひたすら慣れなさい」。そうすれば、共有した感覚が少しずつ身に付いて来るはずだと。
「ぐほぁ!」
棒切れに胴を打たれて、悠二の身体が宙に舞う。ドサッと大の字にひっくり返った息子の姿を鍛練の終了と見てか、母・坂井千草がカラカラと窓を開けて縁側から顔を覗かせた。
「はい二人とも、そろそろ朝ご飯にしないと学校に遅刻しちゃうわよ。まずヘカテーちゃんからお風呂入っちゃいなさい」
例によって、千草はヘカテーの素性に頓着しない。この、ただ息子をぶっ叩くようなトレーニングもむしろ楽しそうに眺めていた。
詮索されなくて助かるものの、どうにも納得し難い気分になる悠二である。
そんな悠二とは対称的に、ヘカテーは既にすっかり千草に懐いていた。今も倒れた悠二など放置して、千草に言われた通りテテテと小走りに風呂に向かっている。
「(人間と変わらない、か………)」
本当にその通りだと、悠二は皮肉な世の理に嘆息した。