昼過ぎの強い日差しの下、影も無いトラックを男女交えた大勢の生徒が回り続ける。
御崎高校一年二組、本日五限目の授業は体育。内容は無制限マラソンである。
「はあっ……何でマラソンなんだよ」
「う〜、めし食った後に走るのキッツイなぁ」
「一美、揺れてる……!」
「え? 何が……?」
「………ゴホンっ」
一般的な例に漏れず、ゲーム性に乏しい走るだけ、疲れるだけの授業は、このクラスの生徒にも受けが悪い。
これを有意義に受け取っているのは、授業内容を決定した体育教師……息を切らせて汗だくになる体操着の女子高生たちに鼻の下を伸ばす中年と………
「はあっ……はあっ……はあっ……!!」
「もっとペースを上げてください」
白いジャージにサンバイザーまで被り、ピッピッピッとリズミカルに笛を鳴らしながら竹刀を振りつつ……坂井悠二を追い回す近衛史菜ことヘカテーのみである。
「ぜーっ……はあっ……ちょっ、ヘカテー! 何でマラソンでこんなペース……!?」
「口ではなく、足を動かすのです」
ゴールも無いのに無意味なハイペースを強いられて既に疲労困憊な悠二とは違い、当然だがヘカテーは汗一つかいていない。あまり常人離れした真似はするな、という忠告を必ずする
と誓う悠二。その耳のすぐ傍で、竹刀の先が風を切る。
「うわっ……! もう無理だって! これ以上は!」
「……確かに人間としての悠二なら、この辺りが限界でしょう。だからこそ、意味があります」
脅かしてもペースの上がらなくなった悠二の横に、ヘカテーが並ぶ。並んで、悠二だけに聞こえる声で語りだす。
「今これ以上を引き出すには、悠二の持つ存在の力を僅かでも使いこなす必要があります。“狩人”と戦った時を思い出してやってみて下さい」
とても、無茶苦茶な事を。
「だっ……だから、何が何だか解らなかったんだって……!」
抗弁しながらも、悠二はヘカテーの言い回しに小さな違和感を覚えた。喉に小骨が引っ掛かるような感覚は、掴めそうで掴めないもどかしい状態のまま燻る。
「まず試しに、あれです」
ヘカテーはやはり気にしない。竹刀の先でちょいっと差した先には、佐藤と一緒にダラダラと走っている田中がいた。
「田中がどうした?」
「見たところ、彼がこの集団で最も高い身体能力を持っています。彼と競走して打ち勝って下さい」
「んな無茶な………」
帰宅部の癖に部活連中を差し置いて一番とヘカテーに評される田中にも驚きつつ、悠二は露骨に渋い顔を作った。
お喋りのおかげでやっと呼吸が落ち着いて来たような状態で、競走などしたくない。相手がクラス1というなら尚更だった。
「っておい!」
しかしヘカテーからすれば、普通のやり方では勝てないからこそ意味があるのだ。水色の少女は悠二を置いて小走りに田中に近づいて行く。
不本意ながら悠二もこれを追った。一人にしておくと、何を言われるか解ったものじゃない。
「ん? うおっ、近衛ちゃん!?」
走っている最中に体操着を引っ張られ、振り返り、その姿に驚く田中。密かに噂していた人物に、向こうから話し掛けられたのだから無理もない。
驚く田中、焦る悠二、面白そうな佐藤の視線を集めるヘカテーは………
「……悠二と競走して下さい。勝者には、これをあげます」
ジャージのポケットから、あめ玉を一つ取り出して見せた。
『……………………』
リアクションに困った三人は、思わずトラックの中で立ち止まった。
「? 一美?」
まず異変に気付いたのは、彼女の隣を走っていた平井ゆかりだった。
竹刀を持った可愛らしい転校生に追い回されるマブダチ、という面白い構図を眺め続け、しかし隣を走る幼馴染みの事を考えると条件反射で突撃するわけにもいかない。
何とも歯痒い気持ちで成り行きを見守っていたら、お目当ての二人が田中と佐藤を捕まえて止まった。この好機に嬉々として喝采を上げた平井は、隣から返事が無い事に気付いて振り返った。
そこで………吉田一美はバッタリと倒れた。
「一美………!?」
と、そんなクラスの大半の注目を集める転倒事件を背にしながら……
「うおおおおおおーーー!!」
平井の悲鳴を掻き消す雄叫びを上げて、田中栄太は爆走を開始した。
当たり前だが、別に飴が欲しいわけではない。面白そうな転校生の面白そうな提案に乗っかっただけだ。悠二の知人であるなら、彼にとっても友人となる可能性が高い相手でもある。
「くっ……あいつ、あんなに速かったのか……!」
勝負は単純明快。先にトラックを一周した方の勝ち。だが、既に最初の20メートルで勝負は決したようなものだった。スタートダッシュに生じた僅かな差は見る見る内に広がり、今も広がり続けている。
「(存在の力を制御って……一体どうやればいいんだよ……!)」
身体能力で勝てないのは最初から判っていた。ならばヘカテーの言う通り、あの時のような不思議を起こすしかないのだが……はっきり言って見当もつかない。
「(良く考えろ……今だってヘカテーの気配は感じるんだ。それが自分の中にもトーチ一人分あって、それは自分の存在の力で……)」
解らないながらも頭を捻って、どうにかしようと気合いを入れる悠二。意気込みのまま踏み出される一歩、その直前に………
「こんな感じです」
涼しい顔で追い付いたヘカテーが、悠二の腰の辺りに手を当てる。
………それがいけなかった。
(ドンッ!!)
人間が筋肉を動かすくらい当たり前に、ヘカテーは存在の力を扱う。その感覚を共有した悠二は、力強く一歩を踏み込み、そして………高々と空に舞い上がった。
「うわぁあああ!?」
「これはいかんな、先生が保健室に連れて行こう」
息を切らせ胸を押さえて蹲る吉田を見て、体育教師がそんな事を聞く。台詞だけ見れば特に可笑しい発言でもないが、鼻の穴が膨らんでいる。
「いえ、一美なら あたしが連れて行きますから、先生は授業を続けといて下さい」
そんな教師ににこやかに言って、平井は吉田を担ぎ上げようとする。その肩を、体育教師が掴んだ。
「休みたいからって調子のいい事を言うな。吉田が倒れたのを理由に授業をサボるつもりか? 平井」
笑顔のまま振り返る。平井のにこやかな笑顔の額に、ビシリと青筋が浮いた。
「いえほら、やっぱり女の子ですし。汗かいた状態で男の人に運ばれるのはちょっと………」
「お前は教師を何だと思っとるんだ。いいからランニングを続けなさい。お前らも立ち止まってるんじゃないぞ!」
平井の言葉になどまるで聞く耳持たない。思わず足を止めて見ていた他の生徒にまで注意する体育教師に、しかし平井が引き下がるわけもない。
「(お望み通りボイコットしてやろうじゃないの)」
吉田を抱えて問答無用のエスケープを決めてやろう。平井がそう決断した時………
「うわぁあああ!?」
何やら情けない悲鳴が聞こえて来て、
「痛っ!?」
「ぎぴ……!」
上から降って来た何かが、カエルみたいに体育教師を押し潰した。
体育教師をいい感じにクッションにして事なきを得た少年は、頭を押さえながら目を白黒させる。
「………坂井君が降って来た!」
僅かな沈黙を経て、見たまんまの事実を叫ぶ平井。そのテンションに釣られてか、クラスの皆が一斉に喝采を上げる。それは、今朝や昼休みのものとは まるで種類の違う喝采だった。
「………何の騒ぎですか?」
「………さあ、僕にもよく解らない。って言うか、吉田さん大丈夫!?」
「あっ、その…えっと……大丈夫です!」
騒ぎに気付いて放置していたヘカテーが歩み寄って来る。答えられない質問への返事はそこそこに、悠二はやっと呼吸の落ち着いてきた吉田の顔を覗き込む。何故か、吉田は先ほどよりも顔を紅潮させて慌てた。
当の悠二にはワケの判らぬままに大団円の空気が流れるが、だが……まだ終わりではない。
「さ……坂井キサマ…何のつもりだ……」
未だ這いつくばったままの体育教師の口から、呻くような呪咀が漏れ出る。
「あ、その……転びました」
「嘘を吐けぇ! どこの世界に何も無いグラウンドで転けて上から降って来るヤツがいるかぁ!!」
悠二のあり得ない言い訳に顔を真っ赤にして飛び起きる体育教師。至極もっともなクレームであるようにも聞こえるが、事実なのだから仕方がない。教師の怒りは、すぐ傍のヘカテーにも飛び火する。
「転校生! お前もその格好は何だ!? ちゃんと学校指定の体操着を……」
唾を飛ばす勢いで捲し立てる教師の苦情が、最後まで言い切られる事は無かった。
ヘカテーが微かに目を光らせる……ただそれだけの行為で、体育教師は真下から正体不明の衝撃を受けて、ギャグマンガのように吹っ飛んだ。
「口がタバコ臭いです」
可憐な容姿に似合わないハードボイルドな捨て台詞に、今度こその喝采が二人を包み込んだ。
忙しなくも賑やかで、慌ただしくも温かい、何とも奇妙な新しい学校生活を送ったその夜。深夜11時を迎えようとしている坂井家の屋根の上に、影が二つ佇んでいる。言わずもがな、坂井悠二と“頂の座”ヘカテーである。
本来は紅世の住人であるヘカテーは、この世に顕現しているだけで存在の力を消費する。その消耗を補う為に永久機関『零時迷子』を使う事は、悠二も既に納得済みの決定事項だ。……ただし、この状況には些かの疑問が残る。
「……なぁヘカテー。力の受け渡しは構わないけど、何でわざわざ屋根に昇るんだ?」
そう、存在の力を受け渡すだけなら悠二の部屋で十分。それどころか、別に千草の目の前でやっても構わないのだ。傍から見れば手を繋いでいるだけにしか見えないのだから。
倦怠感の漂う悠二の質問に、ヘカテーは応えない。その代わりとして一言、力の発現を口にした。
「封絶」
「なぁ……っ!?」
瞬間、陽炎のドームが坂井家を包み込み、水色の火線と炎が内に在る世界を彩った。
トラウマとも言える自在法の発現に反射的に後退りする悠二に、ヘカテーが変わらぬ無表情で振り返る。
「……『零時迷子』の力によって、悠二は時の運命から解放されました。……しかし貴方は、依然として外れた存在。戦いの運命からは逃れられない」
一片の曇りすら無い澄んだ水色の瞳が、それを見る悠二を金縛りにする。
「今の貴方が何を望むにしても、弱いままでは生き残れない。だから、強くなりましょう」
体育の授業の時から微かに在った違和感。それがここに来て……確信に変わる。
「貴方はもう、人間を越えられる」
坂井悠二は人間ではない。その事実を……誰でもないヘカテーが、当たり前の日常として突き付けていた。