/001
「こんにちは」
「いらっしゃい」
妖怪の山での一件から数日後、アリスが店に来た。
今日来ることはほぼ分かっていたので、僕の方も歓迎の準備ができている。
と言うのも昨晩、雛の家から帰って来たら、香霖堂の玄関横に設置してあるポストにアリスからの手紙が入っていたのだ。
留守のようなのでまた来ます、といった内容の物で、日付はさらに前日のものだった。
今日のお昼あたりにもまた来たのかもしれないと思い、またそうなると二日連続でアリスを空振りさせたことになる。
きっと変に意地の強い彼女は明日も来るだろうと半ば確信を持ってそう思った僕は、眠い目を擦りながらある物を用意するための下準備に入った。
そして今、僕の予想通りに彼女は来店してきたというわけである。
“いつもの”手提げ籠を持っていることから、今日は客としてではなく先生としてここに来たようだ。
「今日は大丈夫?」
「ああ。いつも通り、お客はいないよ」
「……お店、大丈夫?」
「……ああ。贅沢さえしなきゃ、生きていける」
アリス先生による人形作り講座、とでも言おうか。
僕は十年ほど前から、彼女に人形作りを教えてもらっているのだ。
もっとも、十年間毎日というわけではないがそれなりの数はこなしており、既にただの人形を作るだけなら里に納品できるレベルの物を作れるくらいの腕にはなっている。
「二日くらい連続で店が開いてなかったけど、どこか行ってたの?」
「あー、それはすまなかったね。少し山の方に行ってて、予定より帰るのが遅れてしまったんだ」
本当は三日なんだが、わざわざ言うこともないだろう。
「山に? 一人で?」
「ああ。守矢神社、知ってるだろう? あそこに見学に行こうとしてね」
「へぇ。物好きね」
……早苗よ。
どうやら君のとこの神社に行く奴は、物好きな奴だと言われるらしい。
早苗の頑張りとは裏腹に、評判はむしろ落ちていないかと心配になった。
「いや、結局行けなかったんだ。行くまでに怪我をして、しばらく知り合いの家に泊めてもらってた」
細かく説明するのがめんどうだったのと、弾幕ごっこのことを知られたくなくて、適当に誤魔化す。
雛は今では立派な知り合いなので、嘘は吐いていない。
「怪我!? 大丈夫なの!?」
「ああ。怪我というよりも疲労なんだが。まあ、永遠亭の薬ですぐに治ったよ」
薬で思い出したが、僕はまだ永琳に薬の代金を払っていない。
この前の医学書の件も未解決であり、前途多難であった。
「そ、そうなの。よかった」
「心配かけたね」
「べ、別にそんなんじゃないわよ」
「あはは。ありがとう」
「ちょ、なにそれ!」
「じゃあ僕はお茶を持ってくるから」
「私の話を聞いて!!」
そう叫ぶアリスを背に、僕はお茶を淹れるため台所へ行く。
どうせ後でアリスの好きな紅茶を淹れることになるのだが、最初はいつもお茶である。
店内へ戻ると、アリスは既に定位置となりつつある勘定台の向かいに腰かけていた。
僕と彼女は、勘定台を挟んで向かい合う形となる。
「はい」
「ありがと」
アリスにお茶を差し出し、僕も腰かけようと椅子に手を伸ばす。
指導を受ける立場とはいえ、その度に店を休むのでは商売あがったりである。
店は開けたまま、客が来たら一旦は作業を中断して接客へ移る、という形で、アリスには納得してもらっている。
だが不思議なことに、もともと来店する客数は微々たるものであるが、アリスが客としてではなく人形師としてこの店に来る時はほぼ誰かとかち合うことは無い。
これに関しては偶然としか言い様がなく、またアリスは邪魔が入らなくて嬉しい限りだと喜んでいるようなので問題視しているわけではない。
だから、僕が彼女から人形作りを学んでいることを知る存在はほとんどいない。
というか僕としても作業に集中したいため、商売人としてはあるまじき考えではあるが、どちらかと言えばこの時間は素直に客を歓迎できない。
自分のことながら、つくづく商売に向いていない性格だと思う。
僕は椅子に腰かけて台の下から作りかけの人形を取り出し、彼女にそれを見せた。
「どうだ?」
「……まぁ、この辺までならもう私の確認はいらないわね」
「もう十年だしな。さすがに基礎は心得てるよ」
「そうね」
「そろそろアリスの手を煩わせることもなくなるかな」
「そ、それはまだまだ、すっと先の話よ。まだ全然なってないんだから」
「そうか……」
自分なりになかなか自信もついてきていたので、アリスの言葉に内心ショックを受ける。
それがアリスに伝わったのか、彼女は慌てて弁明した。
「でも霖之助さんはかなり上手くなってるわよ。里にもいくつか納品してるんでしょう?」
「そりゃあ十年も針を弄ってれば“普通の人形”くらい誰だって納品できるよ」
「それでも、人気がなければ追加で注文なんてこないわよ」
そうなのである。
僕が里に納品した何体の人形はなかなかに評判が良いらしく、またぜひ作ってほしいという手紙が何回か届いた。
ちなみに、手紙を届けるのは決まって慧音で、やはり里の人間が入口とはいえ森に近づくのは嫌らしい。
「君には及ばないけどね」
さすがにアリスは格が違い、彼女の人形は家宝になるレベルである。
それはアリス自身が里への納品に関してきまぐれであるため滅多に里に出回らず希少価値が高いという点と、後はやはりその手腕に依るものであろう。
アリスに人形作りを習うならせめて足下に及ぶくらいにはなりたいと意気込んだものだが、未だ至らず、その兆しさえ見えない状態だ。
「わ、私は、だってそれが専門なんだし」
「まあ、確かに。年季が違うか」
「そうよ。私を超えようだなんて、百年早いわ」
「はなから超そうとまでは思ってないんだがね」
その中途半端な諦念がいけないのだろうか。
それでも人形作りに生涯を費やす気は毛頭ないため、結局のところ身近な巨匠に甘える形となる今の状況は、僕にとって好ましい以外の何物でもなかった。
「まあ、末永く頼むよ」
「そ、そんな……末永くなんて……」
「ああ、もちろん、迷惑になるようだったらいつやめてもらっても構わないから」
「そんな! 一生付き合ってあげるわよ!!」
さすがにそこまでは遠慮したい。
だがそう力強く宣言するアリスを疎ましく思うはずもなく、僕はただ苦笑いでありがとうと答えた。
/002
ちくちくと針を進めていると、ふと視界を揺れる何かがちらついた。
顔を上げてそれを確認する。
アリスの髪だった。
(ふわふわだなあ)
触ったらさぞ気持ち良いのだろう。
「…………」
僕の視線に気付かないほど真剣に人形を作るアリス。
その横顔にかかる金の髪を、しばらくぼんやり眺めていた。
アリスはいざ人形を作り始めてしまえば、一切口を開かず、黙々と、それに没頭する。
こういった彼女の在り方に僕は大いに共感しており、だから基本的に作業は無言で進んでいく。
その沈黙を打ち破るのは大抵彼女に教えを請う側の僕であるが、今回は完全に人形とは関係ないことで彼女の手を止めさせた。
ほぼ無意識に、僕は声を出していたのだ。
「アリス」
「なに?」
「君の髪」
「うん?」
「ふわふわしてて、触ったら気持ち良さそうだな」
「なんなの……って!! ばっ……馬鹿じゃないの!? いきなり、ここ、この変態!!」
顔を真っ赤にしてアリスは怒鳴る。
怒鳴った拍子に髪がふわりと揺れ、やはり触ったら気持ち良さそうだと僕は再び思った。
「変態とは心外だな。僕はただ褒めただけじゃないか」
「褒めたって、どこをよ!」
「いや、だから君の髪を」
「そ、そんな褒められるような大層なもんじゃないわ……」
「まあ、僕が個人的に気に入ったというだけの話ではあるけどさ」
「個人的に、気に入った?」
アリスはきょとんとした顔になった後、なぜか先ほど怒鳴った時より顔を赤くして俯いてしまった。
「気に障ったなら謝るよ。深い意味はなかったんだ。ただ、なんとなく見てたらそう思っただけで」
「そ、そうなの……」
「…………」
「…………」
「あの、アリス?」
「は、はいっ。なにかしら……?」
さっきとは打って変っておとなしくなるアリスに拍子抜けてしまい、僕は何も言えなくなった。
「あー、いや……なんでもない」
「そ、そう……」
「…………」
「…………」
この空気。もの凄く気まずい。
まさかあんな一言が引き金でこんなことになるとは、正直予想できなかった。
「「あ、あの……」」
なぜ悪いこととは、こうも続くものなのだろうか?
「「そ、そっちから……」」
どうぞ、と二人とも言おうとして、二人とも言えなかった。
「…………」
「…………」
このままでは埒が明かない。
僕は作りかけの人形を机に置き、席を立つ。
「!」
びくっと、アリスは肩を震わせた。
「り、霖之助さん……?」
「ここらで一旦休憩にしよう。紅茶を持ってくるよ」
「そっ、それなら私が……」
「でもほら、今の君は僕の先生なわけだし」
アリス先生は休んでいて下さい、と大仰に振る舞ってみる。
そんな僕を見てアリスも肩の力が抜けたらしく、少し呆れたように言った。
「霖之助さん、あなた私より紅茶を上手く淹れる自信あるの?」
僕は霊夢のような根っからのお茶派ではないが、飲み物で何が好きかと聞かれれば、それはやはりお茶である。
自分で淹れることもなくはないのだが、紅茶至上主義者であるアリスに敵うほどの腕はまだ僕にはない。
「……適材適所といこうか。僕は菓子を、君は紅茶を」
「紅茶におせんべいとかはやめてよね」
「安心してくれ。君のためにマドレーヌを用意してあるよ」
「わ、私のためって……」
「好きだろう? マドレーヌ」
「そりゃあ、好き、だけど」
そこまで言って、アリスも作りかけの人形を置いて立ち上がった。
「その……あ、あ、あ」
「? なんだい?」
「あ……ぅ、なんでも、ない」
「変な娘だな」
「……うるさい、ばか」
アリスは僕の腹に軽くパンチを入れ、さっさと台所に行ってしまった。
過去の経験から彼女が何を言おうとしているのかは分かっていたが、先ほどの気まずい空気の名残か「分かってるよ」と言いだすことができなくて、変な娘だなどと柄にもなく悪態とも言えない悪態を吐いてしまった。
その後すぐに、自分も先ほど今のアリスと同じように口ごもって何も言えなくなったことがあったのを思い出した。
「…………」
「りんのすけさーん? なにしてるのー?」
台所の方から僕を呼ぶ声が聞こえる。
すぐに行くと答え、とりあえずアリスには一つ多くマドレーヌを用意しようと、そう思った。
/003
「遅いじゃないの」
「いや、ごめんごめん」
「もうっ」
「でももうこの台所は何回も使ってるんだから、物の配置とかは分かってるだろう?」
実際アリスは既にティーポットを出していて、一人で紅茶を淹れる準備を進めていた。
何を隠そう、このティーポットはアリスからの贈り物である。
かなり前の話だが、僕がアリスに出した初めての紅茶があまりにもお粗末な出来だったらしく、人形作りより先に紅茶の入れ方を教わるはめになったのだ。
何回目かのテストでなんとか及第点に至ったらしく、このティーポットはその記念にアリスから贈られた物である。
「それはそうだけど」
「ほら、お手本を頼むよ“先生”」
「……まあ、いいわ」
アリスはポットを温めるためにお湯を沸かし、その間に茶葉を用意する。
僕はというと、もうマドレーヌはとっくに用意し終わっていて、なんとなくアリスの姿を見ていた。
一連の作業を行うアリスは本当に様になっていて、何でもない指先の動き一つに熟練度の差を感じる。
「……なに?」
「ん? ああいや、様になっているな、と思って」
「そう? 普通よ」
「君が普通なら、僕はどうなるんだ」
「まあ、下の中ってとこかしら?」
「ひどいな」
僕はアリスが上の中で、自分は中の下くらいにはなっただろうと思っている。
「ふふっ。でもいいじゃない。下手なら、後はもう上達するだけなんだし」
「及第点はもらったはずだが……」
「あれでようやく下の下になったのよ」
「君は鬼だな」
「あら、こんないたいけな少女を鬼だなんて、あなたの方がよっぽどひどいじゃない」
「いたいけ、ねえ……」
「……なにか納得のいかない視線を感じるのだけど」
「まあ、僕と比べたら君の友人たちもみんな鬼さ」
「それもそうね」
そう即答するアリスは、やっぱりひどい娘だと思う。
「なによ」
「いや、なんでも。……ほら、用意ができたなら行こう」
「……思いっきり渋いのを淹れてやれば良かったわ」
「その時は、ありのままをブン屋に話すだけさ。幻想郷中が君の紅茶はお粗末なものだと認識するようになる仕掛けだ」
「さ、最悪ね……」
僕らは店内ではなく居間へと移動し、ちゃぶ台に紅茶とマドレーヌを乗せる。
腰を下ろす時、無意識のうちに「よっこらせ」なんて声が出てしまい、アリスにくすくすと笑われた。
「ふふっ。もう、おじいさんみたいね」
「似たようなもんさ」
今だって無意識だったのだ。
もしかしたら、普段も自分で気付いていないだけでこういった声が漏れているのかもしれない。
ちょっとした恐怖であった。
「美味しい~」
焦る僕とは裏腹に、アリスはマドレーヌが相当気に入ったようで、目を輝かせて夢中になっていた。
気に入ってくれたようで良かったと思う。
なんせ、このマドレーヌはアリスのために作ったような物なのだから。
「ねぇちょっと。これすごく美味しいんだけど」
「なんで美味しいか分かるかい?」
「なんで美味しいか? んー、ちょっと待って……」
「ああ」
しばらくアリスは考えていたが、やがて降参とばかりに手を上げた。
「分かんないわ。何か特別な理由があるの?」
そう言いながら、紅茶に口を付けるアリス。
これで分かったかもしれない。
「……ん? あ、もしかしてこのマドレーヌ作ったの霖之助さん?」
「御名答。その通りだ」
「里で売ってるのもたまに食べるけど、ここまで私の紅茶に合うのはなかったはずよ」
「これはね、君の紅茶の味に合わせて作ったんだよ」
「え? わ、私の味に……?」
「ああ。里の菓子屋を馬鹿にする訳ではないんだが、君が淹れた紅茶に釣り合う物がどうにも里では見つからなくてさ。無いなら作ればいいかと思って作ったんだ」
昨晩の下準備とはこれのことであった。
何回かの試行錯誤を経て既にレシピは作ってあり、下準備といっても材料を用意したくらいだが。
というか、今考えればアリスの紅茶に合わせて作ったのに、自分で紅茶を淹れようとするなんて全くの無駄足になるところだった。
「また器用な……でもすごい、本当にすごいわ霖之助さん。これ、すごく美味しい!」
「そこまで喜んでもらえたなら、僕としても頑張ったかい甲斐があったというものだよ」
「もう洋菓子専門店にしちゃえばいいじゃない。収入も絶対上がると思うわよ?」
「そこまではしないけど……注文があれば作る程度ならいいかもな」
「私、絶対注文するわ。……あ、でも私の味に合わせた分だけ他の紅茶には合わなくなってるかも」
「まあ、そうだろうね。このマドレーヌは君の紅茶にしか合わないだろうさ。ほら、この前オーダーメードをやったらどうかと言っていただろう?」
僕は『特注品、承ります』と書いた貼り紙を指差しながらアリスに言った。
「あら、いつの間に」
「やるだけやってみようかと思ってね。これを目玉の商売にするって訳でもないし、不評ならやめるだけだ」
「随分と弱気じゃない。私は結構良い線いくと思うけど」
「そうなってくれれば儲けものだね」
「可愛くないわね」
「僕が可愛いかったら、それはそれで気持ち悪いだろう」
「……そ、そうかしら?」
「おいおい……そこはすぐさま肯定してもらいたいところなんだが」
「か、可愛いってことは、気持ち悪くないってことだから、可愛いことは良いことなんじゃない……?」
「……そう言われると、確かにそうだな。じゃあ僕は可愛くてもいいのか?」
そう自問し、可愛い自分というものを軽く想像してみる。
鳥肌がたった。
「だ、駄目だ。それは認められない」
「なんでよー!?」
「なんでもだ。この話はここで終わりにしよう」
「ちっちゃくて可愛い霖之助さんも、全然アリだと思うけどなぁ……」
ちっちゃくて可愛い僕など死んでしまえばいいと思う。
「さ、話を戻そう」
「うー。……このオーダーメードは、絶対成功すると思うわ」
「まあ、しばらくはやってみるつもりだよ」
「そう……ねぇ霖之助さん。これ、また作ってもらってもいい?」
僕のマドレーヌが相当気に入ったようである。
実を言えば、このマドレーヌは味的には自信作ではあったものの、アリスが気に入るかどうかという点では多少の不安が残っていた。
それと言うのも、味の良し悪しなんてものは、詰まるところ個人の感覚に大きく依存するからだ。
同じ材料を同じ分量で同じ調理方法を用いて作るのなら、出来る料理も同じになって然るべきだ。
にも関わらず料理人や菓子職人が存在するのは、彼らがこと調理において他者よりも優れた感覚を持っているからである。
これは、味の良し悪しは個人の感覚に大きく依存するという先の言葉に矛盾するように聞こえるが、そもそも一般的に“美味しい”と感じる基準は同じ種族であるのなら似通っていて当然である。
例えば人間。
人間が持つ身体の造り、構造というのは同じと言っても過言でないほど似通っている。
だがそこにも細かな差異は存在していて、生まれつき目が良かったり、背が高かったり、足が速かったりなどなど、例を挙げるときりがない。
その差異はプラスに働くものもあればマイナスに働くものもあり、この差異こそがやがて個性へと繋がる重要な役割を担うのである。
今回僕が言いたいのは、味覚において感覚的に優れた差異を持つ者が存在する、ということである。
同じ種族は姿形に限らずその中身、感覚だって似通っていて然るべきだし、似通っているからこそ同じ種族だとも言える。
もちろんこの理論はイコールでは成り立たない。
実際僕の姿形は人間とほぼ同じであり、魔法使いという種族のアリスだってそうである。
だからこそ、人間は僕らを怖がるのだ。
『人の皮を被った化け物』とは上手いこと言ったもので、同じ姿形で人間を遥かに凌駕する力を持つ僕らは、彼らにとって恐怖でしかない。
とはいえ、人間の中にも霊夢や魔理沙のように“こっち側”に来れる者がいるのだから、詰まるところ人間は“一般的に考える人間という枠組み”を超えた者全てに恐怖を抱くのかもしれない。
もっとも“一般的”というのはどこまでがそれに当てはまるのか、などという不毛な議論をするつもりもないけれど。
「構わないよ。事前に連絡をくれて、その時暇だったら考えよう」
「良かった。じゃあ、連絡すればいつでも作ってもらえるのね」
「失礼にも程があるだろう」
「これ、もう一ついいの?」
「人の話を……ああ、いいよ。それは君の分だ」
自分が作ったものをここまで絶賛されれば悪い気もしない。
またアリスの言葉は失礼ではあるものの、半ば的を得ているため強く反論できない僕だった。
「……コレ、やっぱり単体でも普通に美味しいわ」
「そうかい。でも、今のところマドレーヌだけで売り出す気は全くないからなあ」
「そう……なら、これを知ってるのは私だけなのね」
なぜか嬉しそうにはにかむアリス。
こんな姿は、アリスが初めてこの店に来た時の僕には想像もつかなかった。
「さ、そろそろ始めようか」
「そうね。あー、また食べたいなー」
「……わかったよ。作る作る。作ったらまず真っ先に君に知らせよう」
「あは。さすが霖之助さん」
僕は人形を手に取りながら、アリスが初めて香霖堂に来店した時のことを思い出す。
あの不機嫌そうな顔は、今でも鮮明に思い出せた。
それはまだ魔理沙が霧雨の家にいた頃で、多分、歳は四つか五つの頃の話であった。
/000ー1
店を始めて早二年。
残念ながら、客はいないことの方が圧倒的に多い。
そんな繁盛などという言葉とは程遠い有り様であったが、外の世界の道具を扱う幻想郷唯一の店ということもあり、人妖に関係なく幾人かの好事家を常連にすることができていた。
元々趣味が高じてできたような店なので、三食にありつけるだけありがたいというものだろう。
趣味が高じてといっても、人里だと絶対にできないことであったので、後悔は全くない。
あくまで“店を開いたこと”に関してのみではあったが。
(……………………)
ふいに顔を出した郷愁に似た想いを持て余していると、ガラス張りの扉の向こうに人影が浮かぶのが見えた。
がらがらと扉の開く音を聞きながら、僕は気持ちを入れ替えて声をかける。
「いらっしゃい」
とりあえず挨拶をして、入って来たお客の顔を見た。
肩口にかかる柔らかそうな金髪。整ったその少女の顔は、不機嫌そうに眉根を寄せられていた。……多分、見たことのない顔だ。初めてのお客だろう。
「あの」
「はい。何かお探しですか?」
「ええ。このお店で扱っている人形を見たいのだけれど」
「人形ですか? ええ、構いませんよ」
僕はお客の右奥の方を手で示した。
決して広くはない店内だ。隅の棚の一角にこの店で扱っている人形が置いてあるのがここからでも見える。
少量だが、それゆえ価値の高い物しか置いていない。
「随分と統一感のないお店ね」
悪気はなかったのかもしれない。
だが、初来店のはずの美少女にそんなことをいかにも不機嫌そうな顔で言われたので、少々面食らってしまった。
この店を初めて訪れる客の反応は大まかに分けて二つ。
あからさまに胡散臭そうな目で僕を見るか、目を輝かせて僕に質問を繰り返しするかのどちらかであった。
前者が再度ここを訪れることはめったになく、後者はほぼ十割の確率で常連となる。
目の前にいる少女をどちらかに分けるとしたら前者であり、それはつまり、そういうことであった。
常連さんにはなってくれそうにないかと内心残念に思いながら、彼女の言葉に答える。
そんなことは聞き飽きるほどに言われているので、今更気に病んだりはしない。
「はは、すみませんね。ここは古道具屋でして、価値があるという理由だけで店に並べるんですよ」
「…………」
少女は既に店の人形に見入っていて、自分から振ったにも関わらず僕と会話する気はないようだった。
僕としても商品に夢中になってくれるのは嬉しいことなので、無視されたことは気にしない。
こんなことでめげていたら、客商売なんてやっていられないのだ。
「…………」
「…………」
小さな少女であった。
襟や袖口には申し訳程度にフリルが付けられ、本当はもっとたくさん付けたいんじゃないかと、そんなことを勝手に思った。
何より僕が気になったのが、彼女の髪の毛だった。
ふわふわしていて、綺麗というより可愛い髪だな、と思う。
思ってからお客をじろじろと観察するのもどうかと思い、僕は読みかけの本を手に取ったのが、やはりそれが気になってちらちらと盗み見てしまうのだった。
しばらくして、お客は僕に声をかけてきた。
「あの」
「はい、なんでしょうか」
「これ、手に取ってもいいかしら?」
「ええ、構いませんよ」
やはりそこで会話終了。お客は一体の人形を手に取ると、大事そうにその頬を撫でた。
(悪い客ではなさそうだが、なにかひっかかるな……)
正直、僕はこの客を知っている気がしてならなかった。
来店してきた時から、僕はこの顔をどこかで見たような気がしていたのだ。
だがそれが思い出せない。
「あの」
「あ、はい、なんでしょうか」
「これ、動かしてみてもいいかしら?」
「ええ、構いませ……え?」
―――それは、なんと幻想的な光景だったのだろう。
店内の清掃は一応欠かさずやっているが、この娘が言うとおり統一感無く物が乱雑に置かれているため、香霖堂の中は小汚いというイメージを払拭し切れていない。
そんな小汚い僕の店の中で、異色の存在が二つ。
はしゃぐように少女の周りを飛ぶ人形。
そして。
人の形弄びし少女。
「……そうか、君は、人形劇の……アリス」
その光景を見て、少女の名前を思い出した。
里で極稀に行われる、魔法使いによる人形劇。
操る糸の見えない人形劇は、普段能力や魔法に縁のない里の人間にとても好評である。
そしてその魔法使いの名前は、確か……。
「アリス・マーガトロイゾ」
瞬間、人形が突撃してきた。
/000-2
「あと十回復唱しなさい」
もともと不機嫌そうだった顔をさらにしかめて、マーガトロイ“ド”さんは僕にそう言った。
僕は彼女をを“見上げて”それに答える。
「もう何十回も繰り返しただろう? さすがに覚えたよ」
「いい? マーガトロイド。マーガトロイドよ? マ・ア・ガ・ト・ロ・イ・ド。分かった?」
「だから、もう分かったと言っている。……それと、いい加減足が痛いんだが」
屈辱の正座である。
「ったく。人の名前をなんだと思ってるのよ」
「……あのな、マーガトロイドさん。僕は君に一つ、悲しいお知らせをしなければならないんだ」
マーガトロイドさんが顔を怒らせながら怪訝そうな瞳で僕を見る。
これだけ怒るということは、単に名前を間違えられたからということでなく、マーガトロイドという名前そのものを誇りに思っているのかもしれない。
だとしたら、これは本当に悲しいお知らせである。
「……なによ」
「いや、まずは君に謝ろう。勘違いとはいえ、すまなかった」
素直に頭を下げ、彼女に謝った。
名前とは特別な呼称であり、それを間違えるなんてその人への侮辱に他ならない。
霧雨の親父さんに何回も言われた言葉である。
「わ、分かってくれたんならそれでいいわ……」
「……話は変わるが、君の人形劇は里でとても好評なんだ」
「そ、そうなの。……まぁ、別に嬉しくもないけど」
「……里で人気の人形劇の名前は『アリスの人形劇』。そして……その主催者の名前は『アリス・マーガトロイゾ』」
「…………は?」
「僕も何回か君の人形劇を見に行ったんだが、君は公演の告知はすれど、劇が始まる少し前にやってきて黙々と準備をする。みんな邪魔をしちゃあいけないと思って君に声はかけない。かけても一言二言、頑張れだの期待してるだのといった応援だ。劇をやっている最中は歓声こそあがるが、役者である君自身に話しかける輩はいない。そして君は劇が終わったら挨拶もそこそこにさっさと帰ってしまう。だから君は知らなかったんだろうが……」
「…………じ、冗談でしょ?」
「いや、間違いない。里の人間は皆、君の名前をアリス・マーガトロイゾだと思っている」
実際、僕はつい最近まで里にいたから。
そう付け足すと、マーガトロイドさんの顔は絶望に染まった。
「……で、でも、里の子供達は私のことを……」
「アリスさん、とか人形のお姉ちゃん、だね。確か」
「こ、告知の紙には……」
「主催『アリスの人形劇場』とだけあったね、確か」
「…………」
マーガトロイゾは単純に言いにくい(マーガトロイゾでもマーガトロイドでも言いにくいのは変わらないが)ので、里で彼女の事は『アリスさん』か『人形劇の魔法使い』で通っている。
どこでマーガトロイドがマーガトロイゾに変わってしまったのかは謎だが、人から人へと伝わって行くうちに何か悲しい行き違いが起こったのだろう。
当の本人は真実を知って相当ショックだったようで、立ち尽くしたまま固まっている。
「……何とかして」
不意に、マーガトロイドさんが口を開いた。
「何とかしてちょうだい」
「……え? なんで僕が」
「わ、私、駄目なのよ」
「? なにが?」
「人形劇はいいの。あれは演技だから。決められたことをなぞるだけだから」
「僕にも分かるように言ってくれないか?」
「だから、駄目なの! 私、里の人たちと上手く喋れないのよ!」
「……まあ確かに、実質初対面の僕をいきなり正座させるような君のコミュニケーション能力が高いとは決して思っていないけど」
「だって何を喋ればいいの? て、天気とか!? 私は晴れの日しか人形劇をやらないのに!!」
「お、落ち着こう。マーガトロードさん」
慌てて喋ったため、舌が回らなかった。恥ずかしい。
「なに、今度は嫌がらせ!?」
「ああいや、今のは舌が回らなかったんだ」
「……私のことは、アリスでいいわ。それで、協力してほしいんだけど」
「協力って、何をするんだ?」
「里でちゃんと話すのよ。私の名前はマーガトロイドですって」
「話せばいいじゃないか」
「あなた馬鹿なの? 私の話を聞いてた?」
「聞いてたよ……というか、僕相手には充分過ぎるほど普通に喋れていると思うのだが」
「そう言われるとそうね。……なんでかしら?」
「……僕が知るか」
「じゃあ、具体的なプランを考えていきましょうか」
どうやら、僕がマーガトロイドさんを手伝うのは決定事項なようだった。
/000-3
「ちゃんと考えてくれた?」
「考えるまでもなく、やることは一つじゃないか」
「だからそのやり方を考えてって言ったじゃないの!」
次の日、マーガトロイドさんはまた僕の店に来た。
彼女の本名を里の人たちに伝えるためにどうしたらいいのかという、一足す一の答えを協議するような、まるで意味のないこの会議をするためにである。
昨日も同じことをやったのだが、なにぶん突然のことであったので互いに良い案を出せなくてすぐにお開きとなったのだ。
マーガトロイドさんは「また来るから、それまでに考えておいてね」と言って帰って行ったのだが……。
(まさか次の日に来るとはなあ……)
繰り返すが、議題は『どうやってマーガトロイドさんの本名を里の人たちに伝えるか』である。
「昨日も言ったけど、普通に伝えればいいじゃないか」
「昨日も言ったけど、里の人たちと上手く喋れないのよ」
「いや……だから、普通に喋ればいいじゃないか」
「普通って、どうやって?」
「……今みたいにじゃないか?」
「む、無理よ」
「なんで」
「なんでもよ!」
「……さて、そろそろ倉庫の整理を始めるかな」
「ま、待って。頑張るから、私頑張るから」
「…………」
もう訳がわからない。
「……つまり」
「……はい」
「里の人たち相手だと緊張して喋れないのか?」
「ぅ……だ、だって、共通の話題とか、ないし……」
「話題なんてものは何だっていいのさ。少し周りを見まわすだけで、話の種はそこらじゅうに転がっているじゃないか」
「わ、私を全否定するつもり……?」
「……多分君の場合は、緊張で周りが見えなくなってるんじゃないのかな。まあ、自分から話すのが苦手なら、相手の話を聞けばいい」
「どうやって?」
「一番簡単なのは質問することだな。答えを求めるものであれば話題がはっきりしていてお互いに話しやすいだろうし」
「質問ね。分かったわ」
得心がいったとばかりにマーガトロイドさんはメモをとった。
「……先に言っておくが、相手を質問責めにするのは論外だからな」
「う……わ、分かってるわよ」
この反応を見る限り、釘をさした僕は正解だったと思う。
「じゃあ、やってみようか」
「え? なにを?」
「君から僕に話し掛けてくれ。出来るだけ自然にね」
「いっ、いきなりは無理よ! 家で練習してくるから!」
「意味がないとは言わないが、会話という行為自体に慣れた方が楽だぞ? その場その場で会話の相手や内容も変わるんだし」
「それはっ……そう、なんだろう、けど」
よほど自分の話術に自信がないのだろう。
唇を噛んで下を向く少女の姿は、まるで一人ぼっちの迷子だった。
「……なあ、マーガトロイドさん。もしかして、人と喋るときは何か面白いことを言わなければいけない、とか思っていないかい?」
「え……それは、そうじゃないの?」
「やっぱりか。そりゃまあ面白い方が楽しいことは楽しいんだろうが、会話とはそれが全てではないよ」
「……でも、面白くないと、喋っててもつまらないでしょう」
つまりこの娘は、面白いことを言えない私なんかと話してもつまらないだろうと、そう言っているのか。
「じゃあ、今はどうだい?」
「え?」
「今、僕と君は普通に喋っているだろう? 僕は別段、面白いことは言っていない。それを君は、つまらないと思うかい?」
「それは……べ、別に普通よ」
「そうだろう? こんな感じでいいのさ。無理して面白いことを言わなければいけないなんてことは絶対ないんだ」
「で、でも……」
「でも、不安だよな。だから、まずは僕と練習しよう。タイミングの良いことに、君の目の前には閑古鳥の鳴く店があって、暇を持て余す店主がいる」
「う、うー……」
上目に僕を見て唸るマーガトロイドさん。
あと一押しだ。
「失敗したって別にいいじゃないか。会話の内容なんて日々の生活に埋もれていくだけなんだから」
「……そ、そうよね。大したことじゃあないのよね」
「ああ。というか、僕は最初からあくまで暇つぶし程度にしか考えていないしね」
「そう……なら、少し付き合ってもらおうかしら……?」
「お安い御用だ」
それが、香霖堂日常会話教室の始まりだった。
/000-4
「こ、こんにちは。いいお天気ですね」
「ええ。こうも良い天気だと、どこかに出掛けたりしたいですね」
「そ、そうですか……」
「…………」
「…………」
「……終わっちゃったな」
「……終わっちゃったわね」
なんとかやる気になったマーガトロイドさんだったが、先ほどまでとは打って変って全く会話が弾まない。
さあやるぞと意気込んだのが、逆にいけなかったらしい。
「そうですか、じゃあ次に繋ぎにくいだろう? 会話ってのは連想ゲームと一緒で、会話の流れや出てきた単語から使える話題を連想していくんだ」
「は、はい」
「良い天気。良い天気だから、どこかに出掛けたい。ここで『出掛ける』という言葉が出てきたから、ここから『例えばどこへ行くか』『最近どこかへ行ったか』『出掛ける予定はあるのか』などが連想できる。じゃあ、この後を繋げるつもりでもう一回だ」
「はい……。こ、こほん。えー、こ、こんにちは。いいお天気ですね」
「ええ。こうも良い天気だと、どこかに出掛けたりしたいですね」
「そ、そうね。……た、例えばどこへかしら?」
僕の例えをそのまま使うマーガトロイドさんに苦笑しながら、会話を続ける。
「そうだな。無縁塚辺りに何か目ぼしい物がないか見てきたいな」
「む、無縁塚へ? そんなところへ行きたいの?」
失敗した。
つい普通に僕が行きたい所を言ってしまったが、里の人間が無縁塚へ行きたいなんて答えるはずもなかった。
大した問題ではないものの、自分の迂闊さに反省する。
そんなところとは酷い言い方だと思うが、マーガトロイドさんはなんとか食いついてこようとしていたので、そのまま会話を続けた。
「あそこは外の世界から物が流れてくることが多くてね。この店でもあそこで拾ってきた物が多く置いてあるんだ」
「へぇ……あ、もしかしてあの人形も?」
「ああ。一年ほど前かな。状態は随分悪かったが、修理して今はあの通りだ」
「修理って、自分で直したの? あなた器用なのね。重心が微妙に違ってたけど、もしかして素体をいじったんじゃない?」
さすがは人形遣い。
人形に関連する話になった途端に饒舌になった。
「よく分かったな。右腕がほぼ全壊してたから、そこだけ僕が付け替えたんだ。とは言っても同じ素材が無かったから別の物で似せて作っただけで、君のような本職にはすぐにばれてしまう程度だよ」
「私は魔力を通して初めて気付いたのよ。そこまでしなきゃ気付かなかったわ」
この賛辞は腕の代替品を用意するのにさらに半年かかったこともあり、素直に嬉しい。
先ほどの人形は既に元の位置に戻っていて、ちらりと目をやり、直して良かったと心から思った。
「魔力を……ああ、人形を浮かした時か」
「えっと、やっぱりまずかったかしら。触っただけの時点ではっきりと気付いてはいなかったんだけど、違和感みたいなのは感じていてね。自分で動かせば分かると思って」
「いや、構わないよ。むしろ歪みを教えてくれたマーガトロイドさんには感謝してるくらいだ」
使用する側の意見は、いつだって貴重なものである。
物を作るという点においては多少の自信を持つ僕ではあるが、そもそも物は使われてこそその意味を為すのだ。
そういう考え方を含めた商売のやり方、所謂“こつ”を霧雨邸で学ぶことができて本当に良かったと思う。
残念でならないのが、あそこで僕の能力を活かすことはできないことである。
だから出て行くと、そう告げた時の親父さんの顔は今でも忘れられない。
「……あ、アリス」
「うん?」
「アリス!」
「どうした?」
「っていうか! その……アリスでいいって言ったと思うんだけど」
「ああ、うん。確かに聞いたね」
「なんでそう呼んでくれないの?」
「怒らないなら言うよ」
「怒らないわ」
「……僕の中で君はまだ『アリス・マーガトロイゾ』の印象が強くてね。だからそれを修正するために口に出して言ってるんだよ」
「それなら仕方ない、けど……」
「アリスって呼んだ方がいいかい?」
「……またマーガトロイゾさんになるのは御免だわ」
マーガトロイドさんは拗ねたように唇をとがらせる。
僕は何となく微笑ましい心地になり、本人も望んでいることだし、これからはアリスと呼ばせてもらおうと思った。
「あはは、わかったわかった。もう憶えたよ、アリス」
「!!」
「アリス?」
「や、な、なんでも……ないわ」
アリス急に俯くと、ぶんぶんと顔を横に振って気にするなと言った。
「僕も君をアリスと呼ぶんだから、君も僕の事は霖之助と呼んでくれな」
「ええ!? そんな、いきなり」
「……そこまで驚くことか?」
「わ、分かった。分かりました。呼ぶわ……名前で」
お互いの名前を呼び合う。
簡単なことだが、親交を深めるには一番良い方法だと思う。
「ほ、ほら。練習の続きをしましょう」
「ああ。了解だ」
結局、予想外に話が弾んでしまい、日が沈む頃になるまで僕らは楽しくお喋りをしたのであった。
悲しいことに来客は全く無かったため、一日中アリスと話し込んでいたことになる。
帰り際にアリスは振り返って、でも僕と目は合わさずに言った。
「あの……明日も、お願いしていいかしら」
「なにを?」
「……会話の、練習」
「え? ああ。構わないよ。でも、今日一日で随分喋れるようになったんじゃないか?」
今日話して分かったことだが、マーガトロイドさんは決して口下手ではない。
もちろん、今まで里の人間と上手くコミュニケーションがとれていない点においては口下手だという評価もやむなしである。
あるのだが、もともと魔法使いということもあって知識は豊富であり、なおかつ頭の回転も速い。
根底にある人間への苦手意識と自己評価の過小さが、悪く作用してしまっていただけなのだ。
慣れてさえしまえば、意識しなくてもすぐに言葉が湧き出てくるようになるだろう。
「で、でも、練習し過ぎて悪いなんてことはないでしょ?」
「……まあ、それもそうだね。僕も、どうせ明日も暇だろうし、時間があったらおいで」
「ええ! それじゃあまた明日ね。り、り、りんのすけ、さん」
最後の最後でようやくこちらを向き、その顔に花を咲かせて帰って行った。
どうやら明日も来るらしい。
マーガトロイドさんも大概暇なんだなと、そんなことを思った。
/000-5
「いらっしゃい」
「こんにちはー」
三日連続もの来客。とは言っても、商売におけるお客ではないけれど。
「アリス。明日、里へ行くぞ」
香霖堂日常会話教室、二日目にして終了宣言である。
別に飽きたとかそういう訳ではなく、単に良い方法を思いついただけだ。
アリスからすれば、それはさぞ突然の言葉だったのだろう。
きょとんとした顔で「どこに?」と聞き返された時、アリスは当初の目的を忘れているんじゃないかと思った。
「どこにって、もちろん里にさ」
「里? ……え、ああ! そうね、里ね!!」
「まさかとは思うけど……」
「やーね、忘れてるわけないでしょう? もともとそのためにここへ来てたんだから」
「……まあ、そりゃそうか」
「で、でも、早すぎじゃない? まだ二日目よ?」
確かに二日、目的の確認から実質三日目で決行というのは早いのだろうが、元々そんなに難度の高いことをやろうというのではないのだ。
里の人間一人一人に「私の名前は~」等と言い回る訳ではない。
ただ名前を伝えるだけならば、里にいる二人の人間のうちどちらかに伝えれば、すぐに里全体に伝わる。
そのうちの一人である稗田のご隠居は病床の身なので、今回はもう一人にお願いしようと思う。
多分ではあるが、稗田のご隠居は真実を知っているものと思われる。
何か考えがあるというのならばまだいいが、もしかすると表舞台に出られないほどに具合が悪いのかもしれない。
自分の代で御阿礼の子の誕生を目に出来たなら、もういつ死んでも悔いはない。そう言っていたのを思い出す。
近いうちにお見舞いに行った方がいいのかもしれない。
「なに、大丈夫さ。今回君が話すことになる相手は一人だけだから」
「……どういうこと?」
「霧雨店、知ってるだろ? そこの、霧雨の親父さんに頼むんだ。それとなく話を広めてくれって」
「霧雨さんて、あの道具屋の?」
「そうそう。僕はそこに少しばかり縁があってね。大きな商談なんかと被らない限りは普通に会えるはずだ」
「なんか、意外だわ。霖之助さんがそんな強いコネを持ってるなんて」
「コネとかそういうんじゃないんだけどね」
彼に言われせると、僕はもう身内らしい。
そんなことを言われても苦笑しか返せなかった僕は、今でもその時のままだ。
「じゃあそう言う訳で、明日行くから」
「ちょ、ちょっと待ってよ。……無理!!」
「君ならできるよ」
「そ、そうかな……って、やっぱり無理!! というか、随分急な話じゃない。……もしかして、迷惑、だった……?」
「いや、そういうんじゃないよ。ただ単に良い方法を思い付いたってだけで」
「……それが、霧雨さん?」
「ああ。まあ、本当に一番良いのは君が人形劇を里でやって、その時にはっきり言うことなんだけど」
「でも、それだと少し時間がかかるわね……」
「そんなに大した差じゃあないけどね。ただ、こういった認識の齟齬というのは時間が経つのに比例して強まっていくものだからね。早いに越したことはない」
「だから霧雨さん、か」
「今回はそれで広めてもらって、またいつか里で人形劇をやる時にでもそうすればいい。下地があるのとないのだと、浸透するには雲泥の差だから」
アリスは少し考え込んでいるようで、そこからしばらく返事はなかった。
彼女は会話の最中でもこうやって考え込むことが多く、この癖も人と会話する上では悪癖と言える。
まあ、今回話すのは霧雨の親父さんだけの予定なので、特に問題は無いと思う。
まだ三日目ということもありアリスが悩むのも無理はないが、話すだけならそれこそ五分十分で終わるだろう。
よくよく考えれば、かなりの電撃作戦ではあるけれど。
(……いや、そうじゃない。本当は、そうじゃないだろ)
何が電撃作戦だ。自分のくだらなさに反吐が出そうだった。
彼女のために霧雨邸へ、なんて。
(ただ自分が、行く理由を欲しがっているだけじゃないか)
霧雨の親父さん、なんて呼んでいるけど、本当は僕の方がずっと年上だ。
それでも彼は、どこまでも自分と対等だった。
(……魔理沙)
親父さんの宝物。
それは僕にとっても同じで、娘のように、妹のように可愛がった。
だから、離れた。
「……そうよね。霧雨さんなら面識が全くないってわけじゃないし、きっと上手くいくわ。……霖之助さん、聞いてる?」
「え? ああ、うん。明日、頑張ろうな」
「まあ、一人ならなんとかなる……かな?」
「なるさ、うん。じゃあ、また明日」
「ええ、じゃあまた……って、今日まだ何もしてないじゃない!!」
「ああ、そう言えばそうだった」
結局その日も、会話の練習と称したお茶会をする僕らだった。
帰り際に明日の予定を確認する。
「明日は、そうだな……昼前くらいにでも来てくれ。いつ行ってもあそこが忙しいのは変わらないからね」
朝は仕入れに商品の陳列、昼は接客、夜は会計記帳などの事務がある。
アリスは多少緊張気味に「りょ、了解したわ」と言って帰って行った。
そんな彼女を見て、ああ、本当に人間が苦手なんだなと思った。
人間を単なる食料、嗜好品と軽んじるる妖怪が多い中で、彼女のような存在は珍しい。
あの様子だと、今夜はきっと眠れないんじゃなかろうか。
もっとも、どうやら今夜眠れなさそうなのが、ここにも一人いるわけだが。
(……はぁ)
本当なら魔理沙に会わなくて済む時間にしたいのだが、いかんせん霧雨邸へはしばらく行っていないので彼女の予定なんてものは分からない。
本気で魔理沙に会いたくないと思っているわけではない。
もし本気でそう思っているのなら、絶対に会わない時間を選べばいいのだから。
とどのつまり、僕は魔理沙に会いたいのだ。
(……はは、どっちだよ、ほんとに)
我が事ながら、実に混乱していた。
(これだよ、結局。状態は悪化しただけだ……)
離れるなら早い方が傷は浅いと思ったのに、結果は無様なものであった。
霧雨邸で得たものは、商学の知識だけではなかった。
しかしそれは今、僕にとってとてつもない重荷となっている。
(もし明日会えたら……会ってしまったら……)
もう親父さん達に聞いて、知っているかもしれないけれど。
(いっその事、言ってしまおうか……)
僕は人間じゃないんだと。
君とは違う存在なんだと。
(……今夜はあまり眠れそうにないな)
とりあえずお茶でも飲んで落ち着こうと思い、台所へと、とぼとぼ歩く僕だった。
/000-6
翌日アリスは約束通り、昼前に店に来た。
見たところそんなに緊張の色もないようだったので、僕たちはそのまま里へと出掛けることにした。
たわいもない話をしているうちに霧雨店に着き、しかも好運なことに店の前には打ち水をしている親父さんがいるではないか。
これ幸いと声をかける。
「親父さん、久しぶり」
「いらっしゃいませ……って、お前、霖之助か……? いきなりどうし……!?」
久しぶりに会った親父さんは少し老けたように感じられた。
一年会わないだけで、人間の外見は驚くほど変わったりするのだ。
「いきなりで悪いとは思ったんだが、ちょっと頼みたいことが……」
「……そうか。霖之助、おめでとう!」
「え? なにが?」
「いやぁ、めでたいな。わざわざ報告に来てくれてありがとな。まあ立ち話もなんだからウチへ入れよ」
「……いや、ちょっと待ってくれ。何か勘違いしてないか?」
僕はもちろん、アリスも何がなんだかわからないという顔をしていた。
「何ってお前、その娘と祝言をあげるんだろう? ……ん? アンタ、確か……」
祝言とは婚礼の儀、いわゆる結婚のことである。
この場合の『その娘』とは、状況からいってアリスで間違いないだろう。
「いや、違うから」
僕は努めて冷静に否定したが、親父さんは聞いていなかった。
「アリスさんじゃないか? 去年……いや、一昨年の祭り以来だな。そうかぁ、アンタがこいつと一緒になるとはなぁ」
「だから違うと言っているだろう。ほら、アリスからも言ってやってくれ」
アリスは肩をわなわなと震わせながら、口元を引きつらせて言った。
「り、り、霖之助さんとは、まま、まだ、そういうんじゃないから」
どう考えても緊張しずぎだろう。
先ほどまでとは打って変わって、ガチガチである。
里で買い物をすることだってあるだろうに、里の人間が相手だとここまで話せないのかこの娘は。
「ほほぅ、するとあれか。“まだ”ってことは、婚約ってことかい?」
「ちがっ! そうじゃなくて!!」
「……親父さん、分かっててやってるだろう? アリスはそういうのに慣れてないんだ。この辺で勘弁してやってくれ」
「なんだよ霖之助。久しぶりに会ったんだから、こんぐらいはいいだろ?」
「じゃあアリスじゃなくて僕にやれよ」
「ねぇ、どういうこと……?」
アリスは自分がからかわれていることに気付かず、僕に説明を求めてきた。
「まあ、里にも僕たちのような人外に好意的な人がいるってことさ」
だからと言って勘違いしてはいけない。
奥さん、つまり魔理沙の母親に言われたその言葉は、今でも僕の戒めだ。
「そ、そうなの……」
「ハッハッハ! まあ気にしなさんな」
「あんたが言うなよ」
親父さんは特別だった。
保守的な里の人間の中では異端とも言えるだろう。
なにせ半妖の僕を弟子にとるくらいだ。
「それで、なんだよ用事って」
「ああ、それは彼女から話すよ」
「あ、あのですね……霧雨さん、私の名前、知ってますよね」
そこまで分かっていてやったとは思わないが、親父さんの冗談のおかげでアリスの緊張を幾分か和らげることができたようだ。
「ああ。アリス・マーガトロイゾさんだろ?」
さも当然、そんな様子で言われて、アリスの顔が悲しみに歪む。
事が事なだけに、“ゾ”が強調されてるようにすら聞こえる。
落ち込んだ様子を隠せないままアリスは「実はですね……」と今回の来訪の主旨を伝えた。
大方、家で台本でも作ったのだろう。それは実に簡潔で分かりやすい説明だった。
とは言っても、あなた達は私の名前を間違えている、と言えばそれで済む内容なのだが。
「……そうだったのか。いや、それはすまなかった」
話を聞いた後、親父さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
これにはアリスもびっくりしたようで、「た、大したことじゃないから別にいいんだけど!」と慌てていた。
それからは里におけるアリスの名前の認識を修正するといった方へ自然と話が進み、親父さんは率先して引き受けてくれた。
「そういうことなら任せてくれ。まあ、噂としてだけなら一、二週間くらいだな」
「いつやるかは決まってないけど、次の人形劇の時にでも私からちゃんと言うわ」
「それなら問題ないな。霖之助の頼みでもあるし、確かに引き受けた」
「ありがとう」
「いんや、これは俺たちが悪いんだから当然のことだ」
「それでも私のためにやってくれるのだから、お礼を言うのは当然だわ」
「そう言ってもらえると助かるぜ」
結局、親父さんに会ってから実に十分ほどでアリスの用事は終わってしまった。
親父さんは久しぶりに会った僕と話をしたそうだったが、アリスをほったらかしにするのも気が引けるので、早々に退散することにしようと思う。
(……また、言い訳か)
アリスと親父さんの会話を聞きながら、僕の視線は店の入り口に釘付けだった。
正確には、その扉がいつ開いて魔理沙が顔を出すのかと、気が気でなかったのだ。
アリス僕の袖を引き、どうする? と視線で問いかけてきたので、帰ることを伝える。
奥さんや他の顔馴染みに挨拶せずに帰るのは正直失礼だとは思ったが、今の僕は相当不安定だった。
親父さんには「もう帰るのか? 会っていけばいいだろう?」と言われたが、それをやんわりと断る。
また丁度良いことにアリスと僕が並んで歩いてきたことで、周囲は少し騒然としてきていた。
言ってから親父さんもそれを察したのだろう、僕が「また今度の機会に」と返したら、それ以上強く引き留めはしなかった。
「またそのうちに店に来いよ。お前なら、多少の値引きは考えてやる」
「そうかい。親父さんも困ったことがあったら言ってくれ。それと、もう若くないんだ。健康には気をつけて」
「聞き飽きてるよ、その台詞は。……ウチのカミさんに口うるさく言われてんだ」
「はは、皆にもよろしく言っておいてくれよ」
「ああ。任せろ」
アリスも親父さんに別れの挨拶と今回のお礼をもう一度言い、最後は親父さんと握手までしていた。
この短時間で、随分仲良くなったものだ。
「アリス、行こうか」
「ええ」
歩き出してすぐ、反射的に振り返った。
店の入り口が開く音がしたのだ。
親父さんの奥さんが出てきたらしく、親父さんに何かを言っていた。
アリスも僕に釣られて店を振り返っていたらしく、「いいの?」と聞いてきた。
僕は「いいんだ」とだけ返し、アリスの手を握って歩を早める。
アリスは小さく悲鳴をあげたが、抵抗はせずについてきてくれた。
僕は心の中でアリスに謝りながら、それでも歩を緩めることはしない。
後ろからアリスとは別のもう一つの視線を感じていたため、もう振り返ることは出来なかった。
/000-7
通りの角を曲がって、ようやく感じていたもう一つの視線は無くなった。
僕は一息つくと共にアリスを引っ張るようにして歩いていたのを思い出し、すぐに手を離した。
「あっ……」
「その……すまない」
「き、気にしてないから……」
「…………」
「…………」
気まずい雰囲気のまま、僕たちは無言で歩いた。
周りの喧騒がやたらと響き、普段はそういったものはあまり好まないのだけれど、今だけはそれに助けられていた。
魔法の森へと続く里の端が見え始めた頃に、アリスが口を開いた。
「ねえ、霖之助さん」
「……なんだ?」
「今回の件、どうして私に付き合ってくれたの?」
「どうしてって言われても……」
「だって、今回のことで霖之助さんにプラスになることなんてないでしょう?」
「……いや、そうでもないよ。僕には僕の目的があってやったことだから」
「そうなの?」
「ああ、そうさ。僕は昔ね……」
別に隠すつもりではなかったが、今まで何となく話せないでいた、少し前まで霧雨の家でやっかいになっていたことをアリスに伝えようとしたのだが、それは誰かの大きな声に遮られた。
誰かの、とは言っても、それは一声聞けばすぐに分かる、懐かしい響きだった。
「こーりん!」
何度言っても直らない僕の呼び方。
可愛い可愛い、霧雨家の一人娘。
「魔理沙……」
「こー、りん、なん、で、なんで、いっちゃうの? かえって、きたんじゃ、ないの?」
きっと家からここまで走って来たのだろう。
顔は真っ赤で、息も絶え絶えになりながら、魔理沙は僕を見ていた。
「……霖之助さん、この子、知り合い?」
「……あ、ああ。霧雨さんとこの……」
「こーりん!」
魔理沙が目に涙を溜めて、僕を見ている。
多分、僕が今里に来ていることを親父さんか奥さんに聞いたのだろう。
「え、と……私、先に帰った方がいいかしら」
「そうしてくれると助かる」
「分かったわ。じゃあ、お先に」
そう言うと、アリスは早足で先を行った。
悪いとも思ったが、今は少し余裕がない。
「こーりん……」
「ああ、なんだい?」
「また、いっちゃうの?」
「ああ。それとな、魔理沙。僕は行くんじゃない。僕の家に、帰るんだ」
「こーりんのうちは、まりさのうちじゃないの?」
五歳の子供にとって、いわゆる別離とは理解できない概念である。
日が暮れて友達にばいばい、またねと言うのとは訳が違う。
生まれてからずっと一緒だったのだ。
魔理沙のおしめを変えたこともあるし、お風呂だって一緒に入った。
怖い夢を見たと眠れない夜は僕の布団に潜り込んでくることもあったし、僕も実の妹のように彼女を愛した。
毎日一緒だった。
朝のおはようから、夜のおやすみまで。
例え彼女が子供でも、物心がついていなくても、言葉さえ満足に喋れなくても。
魔理沙は僕という存在を、ずっと見てきた。
それがある日突然いなくなった。
「こーりんのうちは、まりさのうちじゃないの?」
繰り返されるこの質問が、今は何よりも辛い。
「……ごめんな、魔理沙。僕の家は、もうあそこじゃないんだ」
「なんでぜんぜんかえってこないの? まりさが、まりさのことがきらいになったの?」
もう二年になるだろうか。
彼女が四歳になる頃には、僕はもう独立して香霖堂を立ち上げていた。
もともと自分の店を持ちたいという願望はあった。
自分のやりたいことと霧雨家での商売が合わないと明確に気付いた、というのも香霖堂設立に踏み切った理由の一つである。
だがもう一つ、あえて理由を挙げるなら―――
「違うよ。僕が魔理沙を嫌いになるはずないだろう?」
「じゃあ、なんで?」
「何回も言ったじゃないか。僕は自分の店を作って、そこが僕の家になるんだって」
本当に、本当に何回も言った。
でもこの子は、頑なにそれを聞こうとはしないのだ。
「じゃあ、まりさもそこがいい」
「そんなことをしたら、君のママが泣いてしまうよ?」
「こーりんといっしょがいい」
「……それはできないんだ。もう僕は、ここにはいられない」
「どうして?」
「僕には、やりたいことがあるんだ。それはここだとできない。だからここにはいられない」
「……また、わたしをおいていっちゃうの?」
こういう存在を、家族、とでもいうのだろうか。
僕には分からない。
僕は実の妹の“ように”魔理沙を愛しただけなのだから。
それがどれだけ無責任なことなのかにも気付かずに。
「ずっと会えない訳じゃないよ。今日だって会えたじゃないか」
「でもこーりん、まりさにあわないでいこうとしてた」
魔理沙は人間。僕は半妖。
この差は絶対である。
それは寿命であり、価値観であり、生物としての根幹であった。
「そんなことないよ
「でも、ママが」
やっぱり奥さんか。
彼女も困った人である。
結局はあの人の思う通りに事は運んでいく。事を運ばされる。
僕に“コレ”気付かせたのは、他ならぬあなたなのに。
「あっ」
僕は魔理沙を抱きあげようとして、結局やめて、彼女の肩に手を置いた。
腰を下ろし、目線を合わせる。
「なあ、魔理沙」
「うん」
「僕は元々、君の家の人間じゃないんだ」
「……ううん」
魔理沙はその言葉を否定するように、固く目をつむって首を横に振る。
その姿がとても愛おしくて、思わず笑みがこぼれた。
「そうなんだよ、魔理沙。……そして、もう一つ」
「…………」
「僕は、人間じゃない」
会うつもりもなければ、言うつもりもなかった。
だがもし会ったなら、その時は言ってしまおうとも思っていた。
今日を最後に、霧雨店には近づかないようにするつもりだったのだ。
アリスからここに繋がるとは最初は思っていなかったが、これも良い機会だと思った。
多分僕は、何かのついでで、軽く済ませたかったのだ。
結果的に出しにしてしまったアリスには申し訳ないとは思うが、彼女も彼女の目的を果たせたのでお相子である。
「人間と同じに見えるかもしれないが、僕は人間と妖怪のハーフ、半妖なんだ。君とは、違う生き物なんだよ」
四つか五つの子供に、この差がどれほど大きなものか分かるとも思っていない。
「こーりん」
「なんだい?」
「にんげんってなに?」
「それは……」
「ようかいってなに?」
「……魔理沙?」
それはきっと、里に住む人間なら生まれて最初に教わることだ。
我が子に冒険気分で森や山に行かれては、親としては堪ったものじゃない。
「にんげんはようかいとなかよくしちゃいけないの? それはだれがきめたの?」
「誰って……」
誰が決めたわけでもなく、そういうものなのだ。
例えば、人間と妖怪とで戦争が起こったとしよう。
その時、僕はどうなるのか。
人間は人間側に、妖怪は妖怪側に。
一人しかいない半妖は、一体どこに行けばいいのか。
「もしこーりんが」
いつの間にか瞳に涙を溜めていた魔理沙が、僕に言った。
それはまるで、僕の心を読んだかのような的確で鋭い言葉だった。
「ひとりぼっちでさみしいなら、まりさがそばにいくよ」
子供の戯言だなんてとても言えない、真剣で、だけどさも当然みたいな、そんな声音で魔理沙は言った。
具体的にどうするかなど、そこまで考えが及んでいるわけではないだろう。
だってそれは、魔理沙にとっては考えるまでもなく当り前なことなのだから。
「……魔理沙、それは、駄目なんだ」
「なんでぇ……!!」
ぽろぽろと、魔理沙は涙をこぼしながら僕に問うた。
頼むよ魔理沙。泣かないで。
僕は君の悲しむ顔なんて見たくないんだ。
「わからないか?」
「……わ、わか、わかん、ない」
「なら、宿題だ」
「しゅく、だい……?」
「そう、宿題。自分で考えて、答えが分かったら僕のところにおいで」
「こたえがわかったら、こーりんといっしょなの?」
「……ああ」
なんという茶番劇であろうか。
その答えが魔理沙にもたらすものは、僕との完全な決別となるのかもしれないのに。
嫌悪や畏怖とまではいかなくても、種族の差は僕らにとって大きな壁となる。
そして魔理沙は、そういった差別意識が最も強い“人間”という種族なのだ。
「……ぅ、ん。わ、わかった。まりさ、がんばる」
「……そうか」
魔理沙は何が嬉しいのか、ついさっきまで泣いていたというのに、今は笑顔を僕に向けている。
くしゃくしゃと魔理沙の髪を撫で、その瞬間、直視した彼女の目線に言葉を失う。
僕は、僕という存在を信じきったその目に恐怖し、すぐにこの場を離れようと思った。
何が一番良い選択かだなんて、僕には分からない。
(……わからない。僕にだってわからないんだよ、魔理沙)
一瞬見えた、魔理沙の瞳。
その目がいつか、負の色に染まって僕を見るのかと思うと、悲しくて恐ろしくて死にたくなる。
だから僕はひたすら目を伏せながら、またな、と言って立ち上がり、後ろを向いた。
背中に魔理沙の視線を感じながら、決して振り返ってはいけないと心で繰り返し、歩き出す。
あるいはこの時、彼女の目を逃げずに正面から見ていれば、何かが分かり、未来は変わったのかもしれない。
だが、僕は振り返らず、彼女の目を見ることはなかった。
(嫌われたくないから先に離れる、か。……全く。どうしようもないな、僕は)
子供ながらに何かを決意したような、その強い瞳を見ることはなかったのだ。
/000-8
香霖堂に着くと、扉の前にアリスが立っていた。
「アリス」
「思ったより早かったわね」
「てっきり帰ったのかと思ったよ」
「か、帰ろうと思ったんだけど……」
「ん?」
「まだ、ちゃんとお礼を言ってなかったなって思って」
「お礼?」
「霖之助さんに、その、あ、あ、あ……」
「『あ』?」
しばらく口をぱくぱくさせた後、アリスは言った。
「……あ、ありが、とう、って……」
「僕は何もして……なくもないか。ということで、その気持ちはありがたく受け取っておこう」
「よ、良かった……言えて」
最後の方は何と言ったか聞こえなかったが、良かったというのは十中八九、名前の件だろう。
僕はアリスを店内に招きながら言った。
「あの人はやり手だからね。きっと上手く広めてくれるよ。こういうことに長けていなければ、商売上手なんて決して言われない」
「え? あ、うん。そうね、霧雨さんにも感謝してるわ」
「なにはともあれ、一件落着だな。……なあ、アリス。まだ里の人間とは話せそうにないかい?」
「……まだ自信はないけど、前よりは何倍もいけそうよ」
それは間違いなく強がりだと思うのだが、本人がいけると言っているのにわざわざ水を差すこともないだろう。
「そりゃ重畳だ」
「……ねぇ、霖之助さん」
「なんだい?」
「さっきのあの子、霧雨さん家の子供?」
魔理沙のことを言われ、反射的にアリスから目を逸らした。
「……霖之助さん?」
「あ、ああ。そうだよ。霧雨魔理沙。霧雨さん家の一人娘だ」
「……なんか怒ってたっていうか、ただならぬ雰囲気だったけど」
「子供の考えることなんて僕には分からないよ」
「まあ、そうかもね」
「……そうだ。アリス、君に頼みたいことがあるんだ」
「なに? 今回のこともあるし、大抵のことは聞いてあげるわよ」
「それはありがたい。君に人形作りを教えてもらいたいんだ」
「人形作り? それは、どういうレベルで?」
「そうだな……。君のレベル、とまではいかなくても、君の足もとに及ぶ程度まではいってみたい。とりあえずは基礎を教えてもらって、どうするかはまたその時に決めたいと思ってる」
「うーん……まぁ、いいわ」
「助かるよ。時間もやり方も君に任せる」
アリスから人形師としての修業をつけてもらえたら、というのは、本当に今思いついた考えだった。
ついでに言うと、僕は別に人形師になりたいわけではない。
マジックアイテムなどは特にそうだが、道具を作る過程において、作る物とは全く関係ない道具の知識が意外な面で役に立つことが多々あるのだ。
アリスから人形作りのなんたるかを、その一端でも吸収することができれば、僕の作る道具の可能性が広がるかもしれない。
とりあえず、プラスになることはあってもマイナスになることはない。
もちろん、これをアリスが知ることは、本人が気付かない限り無いだろうが。
「じゃあまずは、紅茶でも淹れてもらおうかしら」
「はいはい。分かりましたよ、アリス先生」
紅茶を淹れるのは随分と久しぶりだ。
(……でもまあ、なんとかなるだろ)
これが原因で人形作りよりも先に紅茶の正しい淹れ方を教わる羽目になるのだが、そんなことは露知らず、僕は軽い足取りで台所へ向かった。
彼女が今ここにいてくれて良かったと、心から思った。
もし一人だったら、きっと今ごろ自己嫌悪で地面をのたうち回っていたかもしれない。
アリス・マーガトロイド。
聞けば魔法の森に住んでいると言うし、どうやら長い付き合いになりそうな魔法使いだった。
/004
「霖之助さん?」
「え……あ、なんだい?」
「なんだい、じゃないわよ。ぼーっとしちゃって、どうしたの?」
「いや、ちょっと君と初めて会った時のことを思い出しててね」
日もそろそろ暮れるかという頃、僕は人形を縫いながら、ついアリスとの初めての出会いのことを思いふけってしまっていたらしい。
紅茶は完全に温くなっていて、もう飲めたもんじゃない。
どのみち僕が自分で淹れ直した紅茶だから、なんの価値もないのだが。
「初めて……って! ま、まさか、あの忌まわしい名前のことじゃ……?」
「そうそう。アリス・マーガトロ……」
「いいから! 言わなくていいから!!」
「僕たちの縁を繋いだ記念すべき間違いじゃないか」
「う……そ、そうかもしれないけど……」
「いいじゃないか。あの後すぐに里での君の名前も直ったし、魔理沙だって覚えてないような昔の話なんだから」
「……そう言われると、私ってちっちゃい頃の魔理沙と会ってたのよね。あの時は可愛かったのに……なんであんなんになっちゃったのかしら?」
「時の流れには逆らえないものだよ」
「魔理沙に聞かれたらマスタースパークね」
「君が言わなければ大丈夫だ」
「弱味、握っちゃったかしら?」
「言い始めたのは君だ」
「……相変わらずね。あの時だってそう。人形作りを教えてほしいって言ってたくせに、本当の目的は人形じゃなかったじゃない」
「いや、人形作りの腕だって立派な目的だったさ。そっちの道を専門にする気がさらさらなかっただけで」
「私にとっては同じことよ」
じと目で僕を睨むアリスの視線を、紅茶のカップを手に取りながら受け流す。
上目遣いにそれをやられても、ただ可愛いだけだった。
温くなった紅茶はやはりと言うか、美味しくなかったけれど。
(ん? 紅茶といえば……)
今ふと気付いたのだが、アリスは店に来た時、最後に必ず僕に紅茶を淹れさせる。
後味というものを考えれば僕が淹れたものよりアリス自身が淹れた紅茶の方が断然良いに決まっているのに、アリスは必ず僕の紅茶を飲んでから帰るのである。
気になったので聞いてみることにした。
「なあアリス。今気付いたんだけどさ」
「なに?」
「なんで君は、いつも最後の紅茶を僕に淹れさせるんだい?」
「へ!? や、やーね。なんのことかしら」
「いや……誤魔化さなきゃいけないような理由があるのかい?」
「ご、誤魔化してなんかないわよ」
「……まあ、いいけど」
「そ、そうね、いいわよね」
最後に僕に淹れさせることで僕の紅茶を批評してくれているのかもしれないし、これ以上の追及はしない。
少し気になっただけで、瑣末なことである。
「……にしても、僕らが出会ってもう十年か」
この十年で幻想郷は大きな変化を迎えている。
少なくとも十年前は、妖怪が里で人間と酒を酌み交わすことなど考えられなかった。
「そうね。……でも、なんで霖之助さんとは初めて会った時から普通に喋れたのかしら?」
「そうだな……相性が良かったじゃないか?」
「相性?」
「ああ。相性が良くなけりゃ、十年も付き合いは続かないよ」
「そ、そうね。相性抜群なのよ、きっと」
「まあもっとも、僕にしても君にしても、十年はそんなに長くないがね」
「……そんなことないわ。特に、最近は」
一昔では考えられないくらい、幻想郷が輝いている。
そう付け足したアリスが想うのは、魔理沙か、霊夢か。
「……失言だったね」
「ふふ。霖之助さんでも、そういうことあるのね」
「そりゃあね。……ただ、この日常はあまりにも普通すぎて、時々忘れてしまうのさ」
「……駄目よ。私たちは、絶対に忘れてはいけないわ」
これは僕とアリスという意味ではなく、きっと、寿命の短い人間を看取る側の存在が、という意味だろう。
「そうだな。でも、だからこそ僕は心配なんだ」
「なにが?」
「彼女たちは死ぬ。僕たちにしたら、そう遠くない未来に」
「……そうね」
「そうなった時の幻想郷は、どれほど痛ましいものなんだろうな」
幻想郷での暮らしが長ければ長い連中ほど、今代がどれだけ特別なのかを理解している。
そしてそれが有限であることもまた、分かりすぎるほどに理解している。
「……そう、ね。本当に」
「今が楽しいほど、後になって辛くなる。……まあ、魔理沙はまだどうなるか分からないが」
「“魔法使い”になるかもしれないってこと?」
「魔理沙ならどっちに転んでもおかしくないだろ? 絶対人間をやめないような気もすれば、『昨日人間やめたぜ』とか言いながら簡単にやめるような気もする」
「…………」
「なに、どうした?」
「いえ……なんか、霖之助さんは、魔理沙のことだったらなんでも知ってるってイメージがあったから……」
「僕が? そんなわけない。知ってはいるかもしれないが、魔理沙のことは全然分からないよ」
あの別れから十年。
魔理沙は家を出て、魔法使いの道を歩み始めた。
もし今霧雨の親父さんに責任を感じていないのかと問われれば、痛烈に感じていると答えよう。
魔理沙に魔法を見せたのも僕であれば、彼女の才能の片鱗を見出したのも僕である。
霧雨魔理沙の人生を、僕が変えてしまったのだ。
例え魔理沙が「変えてくれて感謝している」と言っても、僕の負い目は決して消えない。
少なくとも魔理沙の家は裕福だったし、両親から溢れんばかりの愛情も注がれていた。
魔理沙自身も文句なしの器量良しであり、あのまま里に残っていたなら男たちの憧れの存在になっただろう。
多少のじゃじゃ馬ではあるが、それも魔法さえ覚えなければ一般に可愛いで収められるレベルだと思う。
魔法にさえ、出会わなければ。
僕のこういった考えは魔理沙にとっては侮辱に当たるのだろうけど、それでも僕は、勝手ながら負い目を感じずにはいれないのだ。
「ふふ。それ、魔理沙もおんなじこと言ってたわ」
「魔理沙が?」
「ええ。あいつは一番私のことを知ってるくせに、一番分かってない。って言ってた」
「……そうか。それは、その通りかもしれないな」
「もっとも、分かられたら困る人はたくさんいそうだけど」
「? どういう意味だ?」
「霖之助さんだけは分からなくていいことよ」
「僕は仲間はずれか」
「……ブッ!!」
何を思ったか、アリスは突然紅茶を吐き出した。
僕の紅茶はそこまでまずい代物ではないと思うのだが、これは認識を改めたほうがいいのだろうか。
まあ、それは違うと分かっているが、あえて言う。
「……口に合わないのなら、無理して飲まなくてもいいんだが」
「ぅ、ちが、ご、ごめ、ごめんなさ……ふ、ふふ、ふふふふっ」
「手遅れか……」
今の会話で一体どこがアリスのツボに入ったのだろうと、置いてある布巾でこぼれた紅茶を拭きながら思った。
「ふふっ、ご、ごめんね、ホントに。ちょっと、想像しちゃって」
「想像って、何を?」
「そ、それは言えない」
「……まあ、いいけど」
どうせろくでもないことなのだろう。
笑いの波もだいぶ引いたらしく、アリスは深呼吸をしていた。
「……ふーっ。あー、笑ったわ」
「そうかい」
「もう、怒らないでよ」
「怒ってないよ。釈然とはしないけど」
「あはは……って、霖之助さん、その人形」
「ああ、気付いたかい? 誰がモデルか」
「わ、わたし……?」
「大量生産して、里にばらまこうかな。このアリス人形」
「ちょっと、それは絶対やめて」
別に隠す気もなかったが、どうやら今縫っていた人形の服でばれてしまったらしい。
アリスがよく着る服をそのまま縮小したような物だから、これを見ればさすがに気付くか。
「でも、なんで私?」
「今の僕の腕で誰かに似せて作ったら、どの程度の出来映えになるのかと思ってさ」
「それで、私?」
「こと人形に関しては君が僕の先生だからね。それに、君の姿なら思い出すのに苦労しなさそうだし」
「な……!?」
「十年もしょっちゅう顔を見てたら、そりゃあ覚えもするさ」
「わ、私だって霖之助さんの顔ぐらい、全然覚えてるんだから!!」
アリスは今、何に張り合ったのだろう。
全然という言葉の使い方がおかしいと思ったが、最近はそういう言い方が主流だと魔理沙が言っていたのを思い出す。
時の流れには逆らえない、である。
アリスは顔を上気させ、さらにまくし立てた。
「か、顔だけじゃなくて、服も、口癖も、仕草も、全部覚えてるわ!!」
「……ええ、と。ありがとう、でいいのかな?」
「あ……ち、違うの!!」
「どっちだ」
苦笑しながら慌てふためくアリスを見ていたが、次の彼女の言葉で、僕は不覚にも顔を赤くさせられてしまった。。
「その、ホントは全部憶えるわけじゃないけど、でも憶えていたいって言うか、大切にしたいというか……」
「……そ、そうかい」
「う、うん……」
全く、異性を相手にその台詞は、遠まわしな告白だととられてもおかしくないだろうに。
頬に軽い熱を感じながら、僕はこう返した。
「……なあ、アリス」
「な、なに?」
「僕は君の髪が好きだよ」
「へ?」
「前に何回か梳いてあげたこともあったな」
「……そうね。確か、一昨年の春が最後だったわ」
「憶えてるよ」
「え?」
「君との思い出は忘れたくないし、大切にしたい。さすがに、全てを事細かに憶えるというのは難しいけどね」
「え、あ、その」
遠まわしな告白には、遠まわしな返事で。
アリスはこれ以上ないくらいに頬を赤く染め、口をぱくぱくとさせていた。
次の彼女の言葉はもう分かっていて、それを言うのにかなりの時間を要するということも知っているので、少しいじわるをしてやろうと思う。
僕の心臓の鼓動を速めた、ささやかな仕返しである。
「あ、あ、あ……」
「どういたしまして」
「あ……って、私まだ、何も言ってないんだけど……」
「『ありがとう』って言おうとしてたんだろう? 昔っから君はそうだったからね。さすがに分かるよ」
「え……!?」
アリスは湯気でも立ちそうなその顔を、ついには両の手で覆い隠してしまう。
その姿がとても可愛くて、つい僕は、アリスの頭を撫でてしまうのであった。
小さく体をよじるアリスを見て、ふいに僕は、今作っているアリス人形に二つほど追加したい機能を思いついた。
「ああ、やっぱり、君の髪は気持ちがいいな」
赤面する機能と、恥ずかしさから顔を手で覆う機能。
「…………ばか」
「そうだな。ごめん」
ついでに「ばか」という言葉も覚えさせようと、そんなことを思った。
~005~
「はぁ……」
頬に刺さる、肌寒い風。
熱くなった私の頬に、それはとても気持ちが良かった。
でも私の顔からは、なかなか熱が引いてくれない。
いわゆる“恥ずかしくて頬を染める”という状態が、現在進行しているからである。
「はぁ……」
もっと余韻に浸りたいから、本当は歩いて帰りたい。
でも霖之助さんが夜は危ないからって、それを許してくれなかった。
心配されてることに嬉しくなって、それを表情に出さないように「それも一理あるわね」なんて、可愛くない私。
でもきっと、霖之助さんは分かっているのだ。
肝心で決定的な気持ちには気付かないくせに、そういうとこはやけに鋭いのである。
(一日が、もっと長ければいいのにな……)
最近は特に強く思う。
それは多分、少し前に魔理沙が私の家で漏らした一言が原因だ。
『寿命、か……』
そんな言葉を、二人だけのお茶会で零した魔理沙。
私に言った言葉ではなく、本当に漏れたという感じの言葉であった。
霖之助さんとのことを言っているのだと気付いたのは、ひとえに彼女が香霖堂の方向をぼんやりと見ていたからだ。
友人である私は? と思わなくもなかったが、想い人を同じくする魔理沙のその気持ちを茶化す気には、とてもじゃないがなれなかった。
魔理沙が霖之助さんに好意を抱いていることは前々から知っていたが、そこまで思いつめているとまでは考えが及んでいなかったのだ。
よくよく考えれば、随分と甘い考えだと思う。
恋は盲目、とはよく言ったもので、少しでも外の歴史を学べば、過去に恋が原因で戦争が起きたことなどいくらでもあるほどなのに。
治世の者が恋に溺れて国を滅ぼすなど愚かにも程があると昔は思ったが、今は少し違う。
戦いの理由足るのである。恋というものは。
そういう意味で、霊夢には少し同情する。
基本的に自由な幻想郷で、彼女だけが“博麗”に縛られている。
誰でもいいが、仮に魔理沙と霖之助さんが晴れて恋人になったとしよう(ここで自分を例にできないのが私の欠点なのだ)
何か問題があるかと言われれば、然したる問題は見当たらない。
もちろん、魔理沙の両親に挨拶を、ということなら話は変わってくるが、彼女はすでに勘当された身である。
後ろ盾もないが、魔理沙は限りなく自由だ。
これは私が知るだろう、ほぼ全ての霖之助さんに想いを寄せる者に適応する。
各人で説得を必要とする誰かがいる場合もあるだろうが、幻想郷全体を通して認められないなんてことはまずないだろう。
博麗霊夢を除いて、ではあるが。
(もっとも、内縁を許容できればそんなこと関係ないんだけど)
実際、最近の霊夢はそこに目をつけている感がある。
何処であれ、誰であれ、問題がないなんてことはない。
みんな何かしら悩みを抱えていて、全てが順風満帆なんてことはありえない。
特に人間は、悩みを見つけ解決するのが趣味のような生き物だ。
(それ以上に、私が把握してるので全員だといいんだけど……妖怪の山で霖之助さんの知り合いっていうと……誰かしら?)
気にはなっていたのだが、結局聞けなかった。
きっと魔理沙なら上手いこと聞きだすのだろうが……魔理沙といえば、先ほどの霖之助さんの仲間はずれ発言には笑ったものだ。
(ナルシストな霖之助さんか……。見てみたい気もしないでもない、かも?)
それで思わず鏡の前で自分の姿を見ながらポーズを決める霖之助さん、というのを思わず想像してしまい、貴重な彼の紅茶を吹き出してしまった。
もっとも、そんな霖之助さんだったら今の気持ちには至っていないだろうから、やっぱりそうはならないでほしいと思い直す。
(紅茶、もったいなかったなぁ、もう。……それにしても、とうとう霖之助さんに気付かれちゃった)
私が香霖堂から帰る時は、いつも彼の淹れた紅茶を飲んでからなのだということに。
理由はある。あるけど言えない。とてもじゃないけど、言えない。
(別れなければいけないのなら、離れなければならないのなら……)
―――せめて、霖之助さんの味を感じながら帰りたいだなんて。