「ふぅ……。案外妖怪にも出くわさないもんだな……」
まだ日も高いある日、僕は妖怪の山を登っていた。
早苗に会いに、というか守矢神社を見学するためだ。
『きっと来て下さいね!!』
東風谷早苗が僕にそう言ったのは、もう一か月も前のことだった。
「…………」
紅魔館の大図書館を利用できるようになってから、書物に関して困るといったことはほぼ無くなった。
その蔵書数はただただ凄いの一言に尽き、おかげでここ最近は用事がない限りほとんど外出しない毎日を送っていた。
そんなある日に来店した早苗は、僕を指差し開口一番、
「わ、私を崇めなさい!!」
……だった。
無音が店内を支配する中、僕はまるで我が子がぐれてしまったかのような寂しさを覚えていた。
とりあえず立ち上がって早苗の肩に手を置き、一言。
「幻想郷は、全てを受け入れるよ」
早苗は泣き崩れた。
「まあ、大方そんなことだろうと思っていたよ」
「う、ううぅ……」
「ほら、鼻をかみなさい」
「は、はいぃ」
ことの顛末はこうだ。
僕からの信仰を得たいと早苗が八坂の神様に相談したところ、
『素っ気ない態度? ハハァ、分かったよ早苗。そいつは隠れMだ』
という『森近霖之助、隠れM説』なるものが浮上したらしい。
これには僕も多少の憤りを感じたものの、神様なんてのは気まぐれの代名詞みたいなものだと思い直し、未だにすすり泣く早苗の頭を撫でてやった。
「やりたくないって言ったんです。でも……」
「やってこいと言われたのか。……まあ、君の神様だしね。断ることもできないか」
「うぅ……忘れて下さい……」
「ああ、分かっているよ」
信仰する気は完全に失せたけれど。
「あの……お世話になりました……」
「いや、楽しかったよ。色んな意味で」
「も、もう! 忘れて下さいって言ったじゃないですか!」
「はは、そんなすぐには忘れられないよ」
「あぁ……だから嫌だったのに……」
涙目になりながらがっくりとする早苗に、僕は真剣な顔で言う。
「早苗……聞いてくれ」
「は、はい。ななな、なんでしょう……?」
「僕は……」
「ぼ、僕は……?」
「僕はいたって、ノーマルだから」
「は、はぁ……? あ、いや、それはそれで嬉しいんですけど、でも、えぇ……?」
なにか納得できませんと、複雑そうな顔で早苗は店を出ようとしたが、一度振り返って言った。
「そうだ、霖之助さん。まだうちの神社に来たことはなかったですよね?」
「うん? ああ、そうだね。行ったことないよ」
「その、都合が良い時でいいですから……うちの神社に来てみてくれませんか?」
「守矢神社に? そうだな……確かに興味はあるけど」
如何せん、僕が妖怪の山に行くには準備が必要なわけであり。
「僕に急ぎの用でもあるのかい?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「そうかい。……まあ、気が向いたらお邪魔させてもらうよ」
「そうですか! 私、待ってますから!」
はっきり『行く』と言ったわけでもないのに、早苗は嬉しそうに言ったのだった。
「きっと来て下さいね!!」
そして今、僕は山を登っている。
さらに言うなら、いきなりピンチを迎えている。
「ここから先は強力な妖怪がうじゃうじゃいるんですの。ですから、貴方を通すわけにはいきませんわ」
「そんなこと言われても……困ったな。じゃあ僕はどうすればいいんだい」
「貴方が自衛の手段を持っているというのならその限りではありませんが……」
「自衛の手段、ね」
どうやら早速、用意した“準備”を使うことになりそうだった。
目を付けられたのが天狗だったら、守矢神社に問い合わせてもらうことでいざこざは回避できただろうに。
「幻想郷らしく、スペルカードでの勝負といきましょうか?」
目の前には緑色の髪を前で結んだ、ゴスロリ風の服を着た女性が立ちはだかっていた。
「すまないが、自作のスペルカードはまだ一枚しか所持していないんだ。だからやるなら一本勝負ということになるが……」
「あら、そうなんですの。私は構いませんわ」
「……お手柔らかに頼むよ」
「と言いつつも、私との決闘を受諾したあたりになかなかの自信を感じますわよ?」
「まさか。このスペルカードを実践で使うのは君が初めてでね。自信なんてないよ」
「ワタクシを、馬鹿にしてますの?」
「いやいや。馬鹿になどしていないさ。自分で言うのもなんだが、なかなか良い出来だと思ってる」
「へぇ……期待させてもらいます」
「君の期待に添えるように、精々頑張るさ」
「どっちでもいいですわ。では、始めましょうか。……ああ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたわね」
「ああ、そうだな」
「私の名前は鍵山雛。人々の払った厄を受け持つ厄神ですわ」
「僕の名前は森近霖之助。魔法の森にある香霖堂という店の店主だ」
僕の初陣の開始だ。
「悲運『大鐘婆の火』」
「うお……!!」
チカチカと眩しい、紫のオーラを纏った赤い弾幕が僕に向かってくる。
「くっ……」
左右へ動き、それを避ける。
意図しないグレイズがこんなにも恐怖だとは、実際に戦わなければ気付かなかった。
何しろスペルカードルールに基づく実践は、今回が初めてなのだから。
スペルカードルールという画期的なルールは、既にこの幻想郷に定着しつつある。
決闘に美しさを求めるというこの新しいルールに、実のところ僕はかなり興味があった。
だが僕の力では、自分のスペルを作ったところでたかが知れている。根本的に力が足りないのだ。
もちろん、それを補う術がないわけではないが、そうまでして作り上げようとは思っていなかった。
「ほらほら! 早くあなたのスペルを見せて下さいまし!!」
「そうだね……。草薙の剣」 『そうだね……。天叢雲剣』
手を前に伸ばし、虚空から草薙の剣を取り出す。
自分で取り出しておきながら、どうやって取り出したのか、その方法がわからない。
魔理沙と取り引きをして手に入れたこの草薙の剣。
この剣が僕に話しかけてきたのは、はたしてどのくらい前のことだっただろうか。
「雨符『叢雲の霹靂』」
草薙の剣は、自身の召喚方法ともう一つの名前を僕に教えてくれた。
召喚方法はいたって簡単で、僕が自らの意思を以て求め、その真名を呼び、念じるだけだ。
剣の担い手としてはまだ認められていないが、所持することの許しは得たと僕は解釈している。
「雲が急速に集まってくる……。貴方、天候を操作できるんですの?」
「いや、これは僕が持つ力の副産物のようなものだ」
「わけがわかりませんわ」
「だろうね。……僕が言うのもなんだが、気をつけろよ。降ってくるのはただの雨じゃない」
一粒、また一粒と。
雨粒が降ってくる。金色の雨粒が。
「弾幕のスコール。これが僕のスペルカードだ」
「な……!?」
ザアアアアアアア!!!!
黄金の弾幕。
雲の中から幾重にも降り注ぐ金色で、空が染まる。
(……綺麗だ、草薙の剣)
正直、もう飛んでいることすら辛い。
今さらではあるが、飛び慣れていないというのに弾幕ごっこをするなんて、さすがに無謀だったかもしれない。
(あと、七秒)
「なんて美しい、黄金の弾幕。これでは私の弾幕がくすんでしまいますわね。さて、どうやって避けましょう……」
(あと、五秒))
「これは……無い。無いですわ。雨。避けた先にも、弾幕の雨粒が」
(……あと、三秒)
「ああ……それにしても綺麗ね……このままだと被弾してしまうのに……」
(二秒)
「どこでしょうね……。この辺りで一番“厄の薄い”場所は……」
(一)
そこで。
彼女は僕を見て、口を歪める。
「あなたの周りは、随分と厄が少ないのね」
(零だ……!!)
鍵山雛は一直線に僕めがけて飛んでくる。
そう。
この弾幕の唯一の安全地帯は、僕を中心に半径五メートルの範囲。
空から僕の弾幕が落ちてくるまで約十秒。彼女が全速で僕に向かって飛んだとして、半径五メートルの範囲に至るまで約三秒はかかるだろう。
タイミングとしてはどうなってもおかしくない。紙一重で僕が勝つか、紙一重で彼女が勝つかだ。
「っ……!!」
鍵山雛は加速するが、間に合わない。やはり紙一重。
(勝った)
僕の目の前で彼女は被弾する、はずだった。
「『大鐘婆の火』!!!」
間に合わない、そう判断したのだろう。
彼女は今まで僕に向かって放ち続けていた弾幕の照準を、前方斜め上へと変える。
僕と彼女の弾幕が衝突する。
接触は一瞬。だがその一瞬で勝敗は決した。
金色の弾幕は赤の弾幕をものともせずに打ち破った。ただ少し、その落ちる速度を犠牲にして。
「チェックメイト、ですわよ」
「ああ……そうみたいだな」
ぎりぎりで回避した鍵山雛は、僕の喉元を指さしながらそう言った。
「それにしても、この弾幕の密度は異常ですわ……。貴方、力を隠していたのね」
「いや……ただ単に、力を制御できていないだけさ」
「まぁ、なかなか楽しかったですわ。一瞬とはいえ、この私を焦らせたんですもの」
「……そうか」
正直、この勝負を受けたことを後悔していた。
自分で作った結界の中でかなり修行はしたのだが、やはり実践は違うようだ。
具体的に言うなら、草薙の剣が暴走しかけている。
「私の能力は危機回避にも使えますの。厄を集めるためには、厄を感知できなければならないでしょう? だからあの瞬間、貴方の周りだけ異常に厄が少ないことが分かっただけです。それがなければ……多分、自力では気付きませんでしたわ。勝負を忘れて見惚れてしまうほどに、貴方の弾幕は美しかったですもの」
「そう、かい。」
限界だった。
草薙の剣は、勝敗が決したのにも関わらずまだ僕から力を吸いだそうと弾幕を放ち続ける。
力を制御できていない。それは紛れもなく、ただの真実だった。
「いつまで弾幕を張り続けているんですの。もう勝負はついたでしょう?」
半径5メートル?
そこまで細かい弾幕の軌道指定を、僕にできるはずがない。
このスペルカードで僕が決めたのはただ二つ。
展開範囲の指定と、その中に穴を開ける範囲の指定だけだ。
だが、実際に僕ができているのは前者だけ。
このスペルカードの展開中に一瞬でも気を抜けば、その瞬間に僕まで巻き込まれてしまう。
「……そうだね……」
ぐらりと、自分の体が傾いたのが分かった。
急激に奪われていく自分の妖力に、僕の意識は暗くなっていく。
「貴方、すごい汗ですわ。……どうかしまして?」
鍵山雛が何か言ったが、それに返事をする余力など僕には残っていなかった。
「え? ちょ、ちょっと! 貴方!!」
このままでは彼女を巻き込んでしまう。それだけは避けなければならなかった。
(戦いは終わったんだ、天叢雲剣。もう弾幕は張らなくていい。頼むから、もう眠ってくれ)
そこまでだった。
柔らかい何かにぶつかり、どうなったかわからないまま僕の意識は完全に落ちた。
「まったく。弾幕は止みませんし……閉じ込められてしまいましたわ」
本当に変な男。
「……それにしても、所有者が気を失ってなお展開し続けるスペルカードなんて……」
ようやく薄れてきた金の弾幕に、また目を奪われる。
きらきらと、空を彩る金の粒。
それは本当に、本当に綺麗だった。
「金の粒子。……やだ、もう。こんなの、綺麗すぎですわ……」
私の腕の中で気を失っている男がこんなにも美しいスペルカードを作ったなんて、とてもじゃないが、信じられない。
同時に、もったいないとも感じる。
確かに綺麗だ。でも、その輝きは弾幕単体のもつもの過ぎない。
弾幕の軌道は単調そのもの。そこには美しさのかけらもないのだ。
だというのに、この弾幕は、ただ其処にあるだけで。
(なぜこうまでも、私の心を震わせるの……?)
俄然、この男に興味が湧いてきた。
男をよく見てみれば、発汗量が異常に多い。
体も熱くて、私に触れる部分からその熱が伝わってくる。
ようやく弾幕も引いたようだし、とりあえず私の家へ連れて行こう。
(イロイロと、教えてもらいますわよ?)
半日もすれば起きるだろうと、私は軽い気持ちで彼を家まで運んだのだった。
「う……ぐ、ああ……!!」
全身を襲う筋肉痛で目を覚ます。
辺りを見回そうとして、首を上手く回せない、正確には回すための力が入らないことに気付いた。
それでも無理やり動かして現状を把握しようと試みる。
右手側が壁だったので、左へと首を回す。
もはや、首を回すと言うより押し出すと言った方が正しいと思わせるほど、今の僕は疲弊していた。
(ここは……寝室……?)
白と黒、それと少しの赤で彩られた、全体的に落ち着いた雰囲気の全く見知らぬ部屋だった。
普通に考えれば鍵山雛の家か、彼女に負けた後、気を失った僕を発見した誰かの家ということになるだろう。
そう思いつつも、僕はここが鍵山雛の住処だと確信していた。
理由は単純。それほどまでに、この部屋は彼女自身が纏う雰囲気と似通っているというだけのことだ。
全体的に少女趣味で、外の世界ではゴシック・アンド・ロリータと呼ばれる様式を基調とした室内装飾である。
僕の店にも同じ様式だと思われる服が何着かあり、余談だが、魔法の森に住む人形遣いは新作が入る度に足を運ぶほどこれが好きだ。
(……ん?)
つかつかと、部屋の外から足音がする。
どうやらこの部屋の主人がここへ向かってきているようだ。
コンコンとノックをし、間髪いれずに部屋へ入ってくる。
ノックという行為が全くその意味を成していない。
「あら、起きましたの?」
入って来たのは、案の定鍵山雛だった。
いったん起きようと思ったが、腕にも全く力が入らないことに気づいてやめた。気だるさに満ちた今の僕の体は、身を起こすだけでも重労働のようだ。
鍵山雛は僕の額に手を添えると「だいぶ下がったわね」と呟き、そのまま手を伸ばして僕の右頬の辺りからタオルを取った。
机を見ると、中に水が入っているかまでは確認できないが洋風の桶が置いてあったので、多分濡らしたタオルを僕の額に乗せていてくれたのだろう。
ベッドの傍の椅子に座った彼女は、静かに僕を見下ろした。
「ああ。……ここは君の家かい?」
「ええ。普通の人間には厄っぽくて息をするのも辛いのでしょうけど、貴方は大丈夫そうでしたので」
「ん……ああ、大丈夫だよ。僕は半人半妖だから、このくらいなら何の問題もない」
体は碌に動かないが、ただ話すだけなら問題ないようだ。
「あらまぁ、半妖の殿方さんでしたの。それにしては強力な力をお持ちのようですが……?」
「あれは……」
弾幕ごっこで使った力は草薙の剣の持つものだが、それを言ってしまってもいいのかと少し迷った。
結局、まだ僕自身その力を完全に把握しているわけではないし、わざわざ言うようなことでもないかと結論づけて適当に話を合わせることにする。
「あれは、僕の持つマジックアイテムの効果だよ」
「マジックアイテム? いくらなんでも、ただのマジックアイテムであそこまで強力な弾幕が作れるとは思えないのですけど」
「ただのマジックアイテムなら、そりゃあ無理だろうね」
「貴方の持つ物は、そうではないと?」
「ああ。勝負の前にも言ったけど、僕は香霖堂という古道具屋をやっていてね。自分で作ったりもする」
「そう言われましてもねぇ……」
目を細めて苦笑いをする鍵山雛。完全に僕を疑っているようだ。
信じてもらえなくても別に構いやしないが、彼女は僕の弾幕を強力だと言った。
それが本当に僕の作ったマジックアイテムの力だと説得できれば、彼女は店に興味を持ってくれるかもしれない。
ツケの支払いにも目をつぶってやっていることだし、ここは店の常連である彼女たちに協力してもらうことにしよう。
「ちなみに。前にこの山へ来た博麗霊夢という紅白の巫女が使う神具、それに霧雨魔理沙という白黒の魔法使いが使う魔道具なんかも僕が作った物だ」
「あぁ……なるほど。貴方の作るマジックアイテムがどれだけ凄いのか理解しましたわ」
説得力は抜群のようだった。
「とは言っても、これは極端な例だけどね。使い手の能力が元々高いことも事実だ」
「……正直ですのね。彼女たちの強さの秘訣は僕が作ったマジックアイテムだ、とでも言いだすのかと思いましたわ」
「まさか。僕はそこまで身の程知らずではないよ。道具とはあくまで使い手を助け、支えるものだ。使いこなされてこそ、一流の道具。持ち主が扱いきれない道具なんて、道端の石ころと大差ないよ……いや、持ち主に迷惑をかけないという点では石ころの方がまだマシか」
これは、今のところとてもじゃないが僕には扱いきれない草薙の剣への皮肉も込めて言った。
「ふぅん……。機会があれば、一度お邪魔してみたいものですわ」
「いつでもどうぞ。僕がいる時ならいつでも店は開いているから」
どうやら彼女は僕の店に興味を持ってくれたようだ。
虚栄や驕りは、商売において全くと言っていいほどに無意味なものである。
もちろん商売のためにわざとそういった類の言葉を使うこともあるが、自分の店が扱う商品に自信があればその必要もない。
いくら言葉で飾ったところで事実は変わらないし、実際商品を使えばそれが嘘か本当かなどすぐに分かってしまう。
特に幻想郷ではただの人間が生きていける場所は限られているので、詐欺などで大量に金銭を手に入れたとしても、そのせいで里のコミュニティから排除されてしまったらその大金も使いようがない。
「お店は貴方一人でやっているんですの。……なら、お店は丸二日もお休みになってしまいましたわね」
「……丸二日?」
目だけ動かして、窓を見る。
カーテンから漏れる光は明るく、今が朝か昼か、少なくとも午前中であることを示していた。
「ええ。丸二日」
「……すまないが、今日が何日か教えてもらえるかい?」
「お安い御用ですわ」
鍵山雛が告げた日付は、僕が彼女と弾幕ごっこをしてから丸二日が経過していることを示していた。
「ふぅ~、ふぅ~。あ~ん、してくださいな」
「…………」
丸二日も店を空けるなんて。最近は用事で店を休むことが多かったのに。
「ふぅ~、ふぅ~。はい。あ~ん、してくださいな」
「…………」
こうしている間にも誰かが店を訪れているかもしれないと思うと、とてもじっとしてなどいられない。
だが現実は無情で、僕の体は首を動かすのも億劫なほど疲労の極致にある。
「あ~んしろですわ」
「熱っっ!! なにするんだ! 熱いじゃないか!!」
「助けてもらった分際で私を無視するなんて、いい御身分ですこと」
「う……いや、すまない。少し考え事をしていて……」
「お店のことでしょう? なんなら、今から私がひとっ飛びして『破産しました』という看板を出してきてもよろしくてよ?」
「おいおい……笑えない冗談だ」
「そうされたくなければ、今は体力回復に努めることですわね」
そう言って、鍵山雛は再び僕の口にスプーンを寄せてきた。
「これは、コーンスープか」
「ええ。栄養と厄がたっぷり入った、雛特製のコーンスープですわ」
「や、厄がたっぷり……?」
「冗談です。さっさと飲んで下さいな」
体がほとんど動かせないので、今の僕は鍵山雛に手伝ってもらい、やっとこさ上半身を起こした状況にある。
さらに背もたれがないと後ろに倒れてしまうので、毛布を重ねて僕の背中に当ててもらっていた。
その状態で、ちびちびと鍵山雛にコーンスープを飲ませてもらう。特製と言うだけあって、とても美味しかった。
「お味の方はいかがです?」
「とても美味しいよ」
「それは良かったですわ。最近は誰かと食事をすることもあまりなかったもので、少し心配でしたの」
「そうか……ん?」
気のせいか、体が軽くなった気がする。
試しに腕を上げてみた。
「あら? もう動けるんですの?」
腕は簡単に上がった。先ほどまでの疲労感や筋肉痛などがまるで嘘のように。
「永遠亭のお薬はすごいんですのね」
「永遠亭? もしかして、わざわざ行ってきてくれたのかい?」
「ええ。あの薬師、八意永琳、でしたわね。噂通りの天才のようですわ。貰ったお薬をスープに混ぜただけですのに、こんなに早く効果がでますのね」
「それは……すまないな。何から何まで」
「お気になさらず。とは言っても貴方は気にするのでしょうから、元気になってからお返しして頂ければそれでいいですわ」
「あ、ははは。分かったよ」
永琳が天才だということには全面的に賛同だ。
いくらか四肢に痺れのような疲労感は残るものの、僕はもう自力で立つことができたのだから。
それにしても、鍵山雛は僕のことを人間と妖怪のどちらだと言って薬をもらったのだろうか。半人半妖である僕には、どちらの薬も副作用がない代わりに大した効果もないはずなのだが。
「貴方、薬師さんとお知り合いでしたのね。簡単に貴方の外見の特徴を伝えたら、すぐに貴方の名前を当てましたわ」
「ああ。最近、ちょっとね」
大方、永琳は半人半妖に効く薬をわざわざ調合してくれたのだろう。手間をかけさせたのだから、時間を見つけて永琳にお礼をしなくてはいけない。
まだ医学書を借りたことの代価を払っていないというのに、やっかいなことだ。
鍵山雛にも大きな借りができてしまった。
慣れないことはするものではないと、心から思った。
「とりあえず、体の方は大分戻ったみたいだ」
「それは何よりです。でも、まだ病み上がりには違いないしょう? スープはまだまだありますから、たくさん食べて下さいな」
もう自分で食べられるのだが、鍵山雛は僕にスプーンを渡そうとはしなかった。
「なんだか楽しくなってきたので、私が食べさせますね」
「は?」
「あ~ん」
「いや……もう腕は動くんだが……」
「あ~ん」
「…………」
「あ~ん」
…………鍵山雛には、多大な借りがある。
「……わかった、わかったよ。君には大きな恩があるからね。君の好きにするといい」
「そうですか? では私、いくつか聞きたいことがあるんですけれど……」
「僕に答えられることなら」
「うふふっ。二日も待たされましたからね。それはもう貴方に聞きたいことがたくさんあるんですのよ?」
「そうなのかい? まあ、お手柔らかに頼むよ」
「それは無理ですわ」
鍵山雛はいったんスプーンを置き、机の上に置いてある大量の紙の束を指差した。
「それは?」
「貴方が寝ている間に貴方への質問を考えていたのですけど、数が多くなってきてこんがらがってしまったので紙に書き留めておくことにしたんですの」
厚い紙束から一枚を取り、それをひらひらと僕の前で揺らしながら、鍵山雛はそう答えた。
その裏表にびっしりと、僕への質問だろう、文字が書き込まれている紙を見て、僕はうんざりして言った。
「随分と、量があるみたいだが」
「そうですわね」
「……ちなみに、質問は全部で何個あるんだい?」
「数えないと正確な数は分からないのですけど。……まぁ、ざっと千は下らないと思います」
「…………そう、かい」
香霖堂、三日連続の無断休業が決定した瞬間だった。
彼女には貸しがあるから、断ることもできない。
それになんとなくだが、彼女には嘘が通用しない気もする。つまり、適当にだまくらかしてその場を凌ぐこともできそうにないということだ。
しかし。
(……まあ、いいか)
そう思った。
それは単に僕が彼女に恩を感じているというだけでなく、彼女が持つ独特の柔らかさのような、そんな雰囲気がそう思わせるのだろう。
多分だが、彼女は僕という存在の核心を衝くような質問はほとんどしないのだと思う。
例えしたとしても、僕が「答えたくない」と言えばそれで許してくれるような気がする。
まだ僕も本調子ではないし、ここで一気に治してしまおうと開き直る。
「ではまず一問目。貴方は何者ですか?」
「…………」
一問目から、なかなかに深い内容だった。
「僕が何者か、ね。……そうだな。長い夜になりそうだし、まずはお互いに自己紹介をやり直そうか」
「……そうですわね。確かに、長い夜になりそうですわね」
「僕の名前は森近霖之助。魔法の森にある香霖堂という店の店主だ。森近でも霖之助でも、君の好きに呼んでくれ」
「私の名前は鍵山雛。人々の払った厄を受け持つ厄神ですわ。私のことは雛と、そう呼んで下さいな」
結局。
この後始まった僕らの問答はその日の夜はもちろんのこと、翌朝になっても終わることはなく、それどころか翌晩になっても一向に終わる気配を見せなかった。
それは予想以上に話がはずんでしまい、途中から質問と質問の間の単なるお喋りの時間が段々と長くなっていったのが一番の原因だろう。
体の調子も大分戻っており、さすがに四日連続で店を空けるわけにもいかず、続きは雛が香霖堂に来た時にということで、僕は雛の家を後にすることにした。
雛は途中まで送ると言ったが、それは丁重に断った。
スペルカードでの戦闘でなければ、僕はそこいらの妖怪に遅れをとるつもりはなかった。
何でもありの戦闘なら、多少の経験はあるのだ。
「それじゃあ、また今度」
「ええ。貴方のお店へ行くまでに、また新しい質問を考えておきますわ」
「おいおい、それじゃあ永遠に終わらないよ」
「ふふっ。でも、貴方とのお喋りは楽しくて」
「まあ、暇な時にでも店においで。僕も暇なら、その時はお互いの暇を潰し合おうじゃないか」
「そうですわね。……お喋りもいいですけど、もう一戦、いかがかしら?」
「……悪いが、もう弾幕ごっこはこりごりだ。必要が無ければ、二度とやらないよ」
「あははっ。貴方が倒れたら、また私が看病して差し上げますわよ?」
「その度に店を空けるのかい? そんなことになったら、そのうち店が潰れてしまうよ」
「それは、物理的に?」
「そこまで凶暴なお客はいない……こともないが、まあ、心配の種は無いに越したことはない」
「本当に楽しい人ね、貴方は」
「ここでその言われ方は、何か納得できないんだが……?」
「ふふふっ。……お時間は大丈夫? 明日の準備があるのでしょう?」
「ああ。もう行くよ。……そうだ、薬の代金を聞いていなかったね。いくらだったんだい? まだ払っていないのなら、僕が直接永遠亭に行って払ってくるから」
「……私も言っておくのを忘れていましたわ。代金は払っていません。後で直接回収に行くと、そう言っていましたわ。イイ笑顔で」
「そ、そうか……。うん、分かった。あと、服も貸してくれてありがとう。わざわざ里まで行って買ってきてくれたんだろう?」
目が覚めてからしばらくして、僕は自分が里で売られている寝巻きを着させられていたことに気づいた。
触り心地やその匂いから新品のものであることが分かったため、お礼を言わなければと思ったまま今の今まで忘れていたのだ。
僕が着ていた服は綺麗に洗濯され、先ほどこの家を出る前にそれに着替えさせてもらった。
その時に思い出してもいいものだが、なんだかんだ言って僕はまだ本調子ではないということなのだろう。
「いえいえ。こちらこそ、素敵な時間をありがとうですわ。服は確かに里まで行って買った物ですけど、そんなに高い物でもありませんし」
「それでも、だよ。今はあまり持ち合わせが無いから無理だけど、それも含めて今度君が店に来た時は歓迎しよう」
「そうですか。そうね……そういうことなら、御代は今、頂きますわ」
言い終わる前に、雛は動いていた。
「チュッ」
「へ?」
その瞬間、ズドオオオオン!!!!! という轟音と共に、雛の家の周りにある木々が根元から吹き飛ばされていった。
頬にキスをされ、ほとんど同時にそんな現象が起こったというその奇怪な事態に、僕はただ呆然とすることしかできない。
「……あら、ごめんなさい。慣れないことをしたものだから、能力が暴発してしまったみたいですわ」
若干顔を赤くしながらそんなことを言う厄神様。
「今のキスと安い寝巻きの御代が釣り合うとは思ってはいませんけれど、ついでに今ので貴方の厄を払っておきましたわ。厄得……もとい、役得ですわ♪」
「……厄を払ってもらったのでは、御代どころか僕の借金が増えたようなものじゃないのか?」
「まぁ、それは各々の受け取り方次第ですわね。貴方がそう感じたのなら、お返しして頂ければ嬉しいのですけれど」
「お返し?」
「ワタクシが今、貴方へしたことは、なんですか?」
「キス……だが」
「そう。ちゅーですわ」
「それを僕から君にしろ、と?」
「そんなに深く考えることはありません。頬へのキスは、むしろ親愛の証だと思って頂ければ」
「そういうことか。……そうだね、君が嫌でなければ」
「されて嫌な相手に自分からする馬鹿はいませんわ」
「ははっ。それもそうか」
僕は少し屈んで、雛の右頬に口を寄せようとした。
その瞬間、ズドオオオオン!!!!! という轟音が再び鳴り響き、雛の家の周りにかろうじて残っていた木々が今度こそ根こそぎ吹き飛ばされていった。
思わず身を引いてしまった僕に、雛は「……残念ですわ。今日はもう無理そうですわね……」と呟き、一歩後ろへ下がった。
「今日は日が悪いようですわ。続きはまた今度、貴方のお店で」
「それは構わないが……。それよりも、雛。その、これは、いいのかい……?」
雛の家の周りから緑が消えている。
元々家の庭にあった花壇は無事のようだが、家の周囲の木々はほとんど消えてなくなっている。
「ええ、お気になさらず。二、三十年もすればまた元通りになりますわ」
「君がそう言うならいいが……。じゃあ、僕は行くよ」
「はい。また会える日を楽しみにしていますわ、霖之助」
軽く手を振り、雛の家を後にする。
しばらく歩いて、本来の目的を思い出した。
「あ……そういえば、守矢神社に行くためにわざわざ妖怪の山まで来たんだった」
……早苗には悪いが、行く時間まで決めたような細かい約束ではなかったので、またの機会にするとしよう。
「さて、もう出てきてもいいですわよ」
言い終わる前にお札が飛んできた。後ろに飛んでそれを避ける。
背後で爆発音がしたが、今さらなので気にしない。
「……死にたいの? お前」
「あら怖い。私はただ、自分の交友関係を広げただけでしてよ?」
巫女服に身を包み、クマで目元をどす黒くした博麗霊夢が家の裏手から歩いてきた。
「やりすぎでしょ? どう考えても。何よ、あのキス。唐突にも程があるじゃない。やっぱりアンタに任せるんじゃなかった」
「嫉妬ですの? そんなに心配しなくても大丈夫ですわよ。私より貴女の方が彼との親交は断然深いのでしょうからね。実際、彼が目を覚ましてから一日中お喋りしていましたけど、貴女の名前がでてくることの多いこと多いこと。女の前で他の女性を褒めるだなんて、あの人も分かってないですわね。ま、そういうのが逆にイイと言えばそうなんですけど」
「ほ、褒める? わ、私のことを!? ねぇ、霖之助さんはなんて言ってた? どんな風に褒めてた?」
「あ、ごめんなさい。褒めてたのは貴女じゃなくて、紅魔館のメイド長のことでしたわ」
「メイド長って、咲夜ぁ!? なんで咲夜がでてくんのよ。あいつはレミリアにぞっこんのはずじゃあ……」
「私に聞かれてもわかりませんわ。その方とは交流がないので」
「くっ……全くの想定外だわ」
「それより、私に何か言うことがあるのではないですか?」
「……あ、あなたが能力を暴発させた件についてかしら……?」
「暴発させたのは貴女でしょう! しれっと事実を歪曲させないで下さいな!」
「……そうね、それについては、悪かったわ。上手くフォローしてくれてありがとう……って、元はと言えばあなたがき、キスなんて、変なことをしたのが原因でしょうに!」
「特に禁止された覚えはありませんわ。全く……修行が足りないんじゃありませんこと?」
「少なくともアンタよりは強いわよ」
「そうですわね。少なくとも、“弾幕ごっこ”で貴女に勝てるとは思っていませんわ」
「……何が、言いたいのかしら?」
「恋という名の勝負では、どっちが勝つのでしょうね?」
「なっ」
「なんて、ね」
「……冗談、よね。そうよね、いくらなんでも、あんな短時間で好きになったりは―――」
「でも、とても興味深いですわ」
「なったりは……」
「面白いですわ、彼。ずっと一緒にいても、例えそこに一切の会話がなくても、彼となら生きることに飽きたりはしない。そんな風に思いますの」
「なったり……するのよね……霖之助さんだし」
「それに、あの弾幕」
その瞬間。
巫女の体が強張るのを、私は見逃さなかった。
「あれは、一体何なんですの?」
「……貴方には、関係ないわ」
「誰が彼を、二度と弾幕ごっこなんてしない、という思考に誘導したかお分かりで?」
彼は既に弾幕ごっこなんて二度とするものかと考えていたようなので私が特に何をしたわけではないのだが、それはわざわざ巫女に言うことでもないだろう。
「それには感謝している。でも、これは私が、“博麗の巫女”が解決すべき異変だから」
「つまりそれは、幻想郷の存続に関わる事態、ということですの?」
「…………」
巫女は答えない。……ここまでですわね。
「…………」
「……わかりましたわ。もうこれ以上は聞きませんし、このことを誰かに言ったりもしません」
「……ありがとう。迷惑をかけたわ。私はもう行くから」
「待って」
泣きそうな……いや、泣いている。
無表情な仮面の下。その心で涙を流すこの少女に、それでも私は聞かなければならない。
「もし、彼の持つ力が、幻想郷に破壊をもたらすものだった時。……その時、貴女は、」
「殺すわ」
「……できるんですの? 好きなのでしょう? 彼を、森近霖之助のことを」
「ええ、好きよ。大好き。でも、幻想郷に仇為す存在は、私が、滅ぼさないといけないから」
その“私”とは、どちらの“私”なのだろうか。博麗の巫女? それとも―――
「大丈夫よ。私は大丈夫。物心ついた頃には、不思議だけど、もう既にそういった覚悟があったのよ。……大切な誰かを、殺す覚悟が」
予感していたのかもしれないわね。そう言って、笑顔で泣く小さな巫女。
この巫女が私の家に来たのは、彼が起きる半日ほど前の話だった。
曰く、『理由は詳しく話せないが、そこで寝ている男がこれから先、二度と弾幕ごっこをしたくなくなるように誘導してほしい。自分が身柄を預かってもいいが、極力不審に思われるようなことは避けたいから私に任せる』と。
理由が話せない、というのは、存外その言葉自身が理由を説明しているようなものだ。
あの黄金の弾幕を見て、一向に起きない彼の世話をして、実際に彼と話して。
……別れ際のキスには心が躍った。自分からしたくせに頬を染めるなんてと恥じ、冷静になろうと努めたが、それがまるで背伸びしたい子供のようで、また更に頬を赤くしただけだったが。
そんな自分が恥ずかしくて彼も同じ目に合わせてやろうと思ったけど、今となっては未遂で終わって良かったと思う。
彼からの初めてのキスはそんな不純な理由ではなく、もっと純粋で、単純な理由を以てされたい。
……話が脱線した。
今は、この巫女だ。
「……なによ」
「いいえ。私にできるのは、厄を預かることだけ。そこからの幸せは、貴女が自分で掴まなければならない」
目元のクマを見る限り、結界で自分を隠しながらずっとこの近くに潜んでいたのだろう。
私はすっかり巫女は神社に帰ったものだと思っていたので霖之助と話し込んでしまったが、もしそうなら巫女には悪いことをした。
「そんなこと、わかってるわよ」
「……そうですか。少々おせっかいだったようですわね」
言いながら、私は巫女を抱きしめる。
「ちょっ、なに!?」
「暴れないで下さいな。貴女の厄を払って差し上げていますのよ?」
「わ、私、ソッチの気はないんだけど!?」
「安心して下さい。私にもありません」
私がはっきりと否定したことで少しは安心したのか、巫女は抵抗を諦めて私に体を預けてきた。
「貴女は、少し頑張り過ぎです。確かに貴女に課せられた使命はとても大きく、重要なものでしょう。けれど……月並みな台詞で申し訳ないのですが、もう少し周りを頼ってもいいと思いますよ? あの失礼極まりない魔法使いでもいいですし、同じ“人間”が嫌だというのなら妖怪でも神様でも構いません。貴女の力になりたいと思っている存在は決して少なくないはずです。ならば頼りなさいな。貴女を慕う友人も、貴女の財産です」
「……うん。ありがと」
「私でよければ、いつでも相談に乗りますわ。貴女の厄は、この雛がまとめて受けましょう」
体を離す。本来ならば、体に触れなくても厄は回収できるのだ。
「あの人のことですから、どうせ貴女の気持ちにも気付いていないのでしょう?」
「う……あ、アピールは、してるつもりなんだけどな……?」
「……まぁ、それも含めて相談に乗りますわ。それと」
がくりと頭を垂らす可愛い巫女に、つい私だけが知る情報を教えてあげたくなってしまった。
あまりに偉大な、その剣の名を。
「『くさなぎのつるぎ』」
「っ……!!」
「読唇術には自信がないので確信はできませんが、彼がスペルカードを展開する前に呟いた言葉だと思います」
「草薙の、剣……」
「楽観はできませんが、悲観することもありませんわ。まだ何も起こってはいないのですし」
「……そうね。霖之助さんなら、きっと大丈夫よね。野心とは縁遠い人だから」
「そうですか」
私もそう感じた。
一緒にいたのは三日だが、実際に話したのは一日だけなので、私が彼の本質に気付いていない可能性はもちろんある。
しかし、この巫女がどれほど彼と親しいのかは知らないが、恋にうつつを抜かして“幻想郷にとっての悪”を見逃すような真似はしないだろう。
「そういえば彼、結局こちらの巫女さんには会わないで帰っちゃったのかしらね」
「え……なにそれ。こっちの巫女って、早苗のことよね。……え? なんで早苗? ちょっと説明しなさい!」
「そんなこと言われましても」
ああ、私よ。なんて迂闊な一言を放ったのだ。
「今日も一日、随分と話し込んでたみたいじゃない。そのことも聞きたいし、まずは腰を下ろしたいわね。お茶でも飲みながら」
「帰るのではなかったんですの? ……うちには紅茶しかありませんけど」
「この際我慢するわよ」
「偉そうですわね」
「“幻想郷の異変の解決”のためよ。博麗の巫女である私には聞く権利があるわ」
「職権濫用ですわ~」
結局ただのお喋りとなり、霊夢は「たまには紅茶も悪くないわね」と言って帰って行った。
帰り際に「また来るわ」と言われたが、私は確信していた。
とりあえず、次に会う時はきっと香霖堂なのだろうと。