いつもと変わらず、本を読みながら店番をしていたある日の朝。
ガラガラと扉が開かれる音に顔を上げた。
「こんにちは。香霖堂さん」
「いらっしゃい。咲夜」
来店してきたのは紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。
「店に来るのは久しぶりだね。二か月ぶりくらいか?」
「そうね、ちょうどそのくらいかしら。……それで、香霖堂さん」
彼女が僕の店に来ると、必ずこう尋ねる。
「何か珍しい物は入ったかしら?」
……と。
咲夜は常連客ではあるが、頻繁に来店するのかと言えば決してそうではない。
珍しい物の蒐集が趣味である彼女は、だいたい二、三か月に一回程度で店に来て、珍品を買って行ったりする。
不定期ではあるが、今まで少なくとも三か月に一回は必ず来ているので、僕は彼女を常連扱いしている。
だが如何せん、珍しい物などそう簡単に手に入るものではない。第一、簡単に手に入るような物では珍しい物と言えないだろう。
つまり、咲夜という顧客のために、僕は手に入れた珍品(と思われる品)をすぐには店に出さず、ストックしているのだ。
実用性よりも希少性や珍妙さの高い物を選ぶ彼女に対しては、言うまでもなく僕が用意できる商品は少なくなる。
そういった意味で、咲夜向けかと思われる商品は、まず彼女に見せて、彼女が気に入らないようだったら店に出すという流れなのである。。
とは言っても、これでは他の客に対して不公平なので、他の客が「何か珍しい物はないか」と尋ねてきたら、たとえ取って置いた品でも出そうと決めている。
かくいう僕も、自分が気に入った物は商品にはせず、自身のコレクションとしてしまうのだから、商売あがったりである。
「ああ。外の世界から流れてきた、良い品が入っているよ」
今回は彼女も気に入ると思われる、とっておきの一品を用意できた。
実際手に入れたのは一か月程前だったのだが、咲夜が気に入りそうな珍しい品だったので奥に取っておいた一品が。
「じゃあ、それを見せてもらおうかしら」
「わかった。ちょっと待っていてくれ」
いったん奥へと引っ込み、咲夜が来たら見せようと思っていた品を持ってくる。
「これだよ」
「これは、苗木?」
「ああ。『ニュートンの林檎の木』の苗木さ」
「ニュートンの林檎っていうと、それが落ちるのを見て万有引力を思いついたっていう話の?」
「ああ。林檎が落ちたのを見て思いついたという逸話が本当かどうかは、僕には保証のしようがないけどね」
あるいは、幻想郷の賢者として名高いスキマ妖怪ならそれすらも知っているのかもしれない。
「でも、有名な話ではあるわね」
「まあね。今から売ろうという物に対して僕が言うのもなんだけど、これははっきり言ってただの林檎の苗木だ。幻想郷じゃニュートンは知識の一つというだけで、縁もゆかりもない人間だからね」
「なら、この苗木が縁とゆかりの第一歩になるのかしら?」
「林檎の話が実話だったとしたら、あまり歓迎はしたくないな」
「あら、どうして?」
「人類にとっては大発見だったらしいが、無粋じゃあないか」
「無粋?」
「林檎とは、詰まるところ自然だ」
「ああ、そういうこと……。相変わらず、変なところで潔癖ね」
「そうかな。まあそれは別にして、商品としてはなかなか珍しい物だよ。さっきも言ったが、これ自体は普通の林檎だから、特別甘いだとか、そういった変化は全くない」
「そう。……でも、珍しい物ではあるのでしょう?」
「ああ。僕が知る限り、この幻想郷に『ニュートンの林檎の木』は今ここにある一本だけだ」
「買いましょう。お代はいくら?」
僕の予想通り、咲夜はこれが気に入ったようだ。
代金も普通の苗木に比べてかなり高く見積もったつもりだったが、咲夜は何の躊躇もなく財布を開いた。
「あら……?」
「どうした?」
「ごめんなさい、香霖堂さん。お財布を忘れてきてしまったみたい」
「ああ、そんなことか。ツケで構わないよ。今度来た時に払ってくれればそれでいいから」
「私は紅魔館のメイド長よ。ツケだなんて、お嬢様の顔に泥を塗るようなことはできないわ」
どこぞの巫女と魔法使いに聞かせてやりたい台詞だった。
「うーん、そう言うなら……そうだね。わかったよ。この商品は君のためにとっておくから、また暇ができた時に財布を持って来ればいい。それなら心配いらないだろう?」
咲夜には言っていないが、彼女のために今までもずっと保管してあったので、買い手が決まった今、また苗木の世話をする程度はなんの苦行ではない。
「それは……確かにありがたい話よ。でも、それにしたってタダでそこまでしてもらうのはちょっと気が引けるのだけど……」
繰り返すが、どこぞの働かないぐうたら巫女と窃盗の常習犯である泥棒魔法使いに聞かせてやりたい台詞だった。本当に。
「そうだなぁ……」
名前が名前なだけに、商品として店に陳列してしまうとすぐに売れてしまう心配がある。
僕としては最終的に誰かに売ることができればそれでいいのだが、咲夜のためにわざわざ取って置き、彼女もそれを気に入ったということもあって、今さら他の誰かに売ってしまうというのも心から喜べない。
それなら商品の予約代として料金を少し多めに払ってもらうというのはどうかと言おうとして、その前に咲夜が言った。
「良いことを思いついたわ。代金を払うまで取って置いてもらう分は、ここで働いて払うっていうのはどう?」
「……え?」
「だから、代金はまた別にちゃんと払うけど、この苗木を取って置いてもらう分は代金には含まれていないわけでしょ? それじゃあ悪いから、その分は私がここで働いて払うってこと」
「いや、別にそんなことしなくてもいいよ。そりゃあ早いに越したことはないが、払ってさえくれるのならいつでも構わない。君は常連さんだし、この程度は当然のサービスさ」
「借りを作ったままだと気持ち悪いじゃない。次にいつ休みを貰えるかはお嬢様次第なんだから、私としては今のうちにできることはしておきたいのよ」
「……ふむ。わかった。そういうことなら、ここで少し働いていくといい。お客は滅多に来ないから暇でしょうがないとは思うけど」
「わかりました。お客が来ないのなら、とりあえず掃除をしますわ」
「そうか。とりあえずここはもう掃除してあるから、居間か台所辺りを頼むよ」
「ふふふ。冗談がお得意なのですね」
「……?」
特に冗談を言ったつもりはなかったのだが。
咲夜は僕に掃除用具の場所を聞くと、てきぱきと目の前で掃除を始めた。
(この程度では掃除をしたことに入らないということか? ……まあ、確かにほこりを落とす程度の掃除しかしていないが)
咲夜の掃除の腕前は、本職ということもあってかなりのものだった。
たかが掃除と一蹴するような輩もいるかもしれないが、完璧を求める掃除は一般的な意味でのそれとは遥かにかけ離れたものだ。
ほこりは、人が動けば舞うものである。
それを避けるためには必要最低限の動きで、最高の効率を追及しなければならない。
「…………」
黙々と掃除をする咲夜。
商品が陳列してある部屋の掃除は、ものの十分ほどで終わった。
しかも、僕が毎朝三十分ほどの時間をかけてするより遥かに綺麗だ。
ほこりを落とすだけだが、商品を誤って落としたり傷つけないようにと丁寧にやっているので、場所が狭い割には時間をかけて掃除していると自賛していたのにも関わらずである。
ここまで違うものなのかと、少しばかりショックを受けた。
「ふぅ。狭い割にはごちゃごちゃしていて、なかなか掃除しがいのある部屋でしたわ」
「咲夜……君、能力を使ったかい?」
「能力? いいえ、使っていませんけど」
「……そうか」
「? なにか?」
「いや……気にしないでくれ……」
「そうですか。では御主人様。次は居間の掃除でよろしいでしょうか?」
「ご、御主人様?」
「ええ。今の私は御主人様のメイドです。ですから御主人様とお呼びしているのですが、何か問題がございますでしょうか?」
そういえば、先ほどから咲夜の口調がおかしい。
いつの間にか僕に対して敬語で話すようになっている。
「問題があるわけじゃないが……」
「では、私は居間に行かせていただきます」
「あ、ああ。よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
最後に室内用の掃除用具の場所を聞くと、咲夜は居間へと行ってしまった。
「……はぁ」
いきなりの咲夜の豹変に、思わず溜息が漏れる。
自分がレミリアの代わりを務めることなど到底できそうにないが、それは咲夜も重々承知していると思うし、第一そんなことは求められていないとだろうから気にしなくていいのだろう。
それでも、今までメイドはもちろん、部下や従者を持ったことのなかった僕は、仮初の主従関係とはいえ現状に違和感を感じざるを得ない。
―――詰まる所、とても疲れるのだ。
これならまだ魔理沙が店で暴れる方が対処しやすいというものだ。
「居間のお掃除、終わりました」
「え? あ、ああ。お疲れ様。次は……」
「台所でよろしいですか?」
「ああ、頼むよ」
咲夜は台所に行こうとしたが、ふと足を止め窓から外を見た。
日は高く、太陽は今がお昼時であることを主張していた。
「その前に、もうお昼ですから先に昼食にしましょうか」
「あー、うん。そうだね」
「かしこまりました」
結局その後。
昼食の用意からその片付け。残る部屋の掃除、庭の手入れから畑の世話まで。
僕が特に何を言うわけでもなく、彼女は的確に仕事をこなしていった。
「あの」
「なんだい?」
「もう一通り終わってしまったのですが……」
「そうか。じゃあ、休んでてもいいし、帰ってくれても構わないよ」
「………何かないのですか?」
「と、言われてもね。もう一通りやることは終わってしまったのだろう?」
「はい。裏の倉庫以外の全ては」
「あ……」
そうだった。
裏の倉庫には価値の高い物や僕が個人的に気に入っている者を大量に保管してある。
それには触れないでくれと伝え忘れていたのを、今になって思い出した。
(どうやら、僕が伝えるまでもなく理解していたようだが……)
御主人のプライベートに自分からは干渉はしない、良くできた娘、もといメイドだった。
もっとも、咲夜なら倉庫の物を盗んだり壊したりはしないだろうから、倉庫の掃除や整理を手伝ってもらう人材にはうってつけなのかもしれない。
「倉庫の方もやっておいた方が良かったでしょうか?」
「いや、そこまでやってもらうつもりはなかったから、そのままでいいよ」
どのみち今からやり始めたら咲夜を今夜中に帰せるか分からないので、今日はいいとしよう。
それにしても、咲夜がここまで優秀だとは思わなかった。
いや、優秀なメイドであることはなんとなく理解していたが、実際に働く彼女を見て想像以上であったとその認識を改めた。
今日はいいにしようと決めたばかりなのに、こんなことなら店を臨時休業にして、他よりも先に倉庫を一緒にやった方が良かったかもしれないと、早くも後悔し始めている。
彼女が一緒にいれば、それはそれは円滑に倉庫の整理整頓ができただろうに。
(まあ、今となっては仕方のないことか)
また今度、機会があれば手伝ってもらうとしよう。
「あの、御主人様」
「ん? なんだい」
「それで、何か、ありませんか?」
「何か、かい?」
「はい。何でも構いませんので、何か命令はございませんか?」
「うーん。特にないよ」
「はあ」
「不満かい?」
「御主人様は私の御主人様ですのに、何も命令して下さらないんですもの」
「そうは言ってもね。君は優秀だから、僕が何か言うより前に大抵のことは終わってしまっているんだよ」
現に今、咲夜はやることがなくて困っている。
「……そうですか」
僕としては褒めたつもりだったのだが、咲夜は少し寂しそうに目を伏せてしまった。
「……すまないね。僕では、君の御主人様になるには力不足のようだ」
「……何でもいいんですよ? 来いと言われれば来ます。行けと言われれば行きます。遊べと言われれば遊びます。探せと言われれば探します。奪えと言われれば奪います。使えと言われれば使います。止めろと言われれば止めます。殺せと言われれば殺します。死ねと言われれば死にます」
「おいおい、仮の主でしかない僕が『死ね』と言っても、君は死ぬのかい?」
「それが本気で、真摯な命令であるのならば」
「…………き」
君こそ本気か。
「見くびらないでいただきたいですわ。私は、軽々しく貴方を主としたわけではありません」
「…………」
「仮初とはいえ、今の貴方は私の主です。ここまで言えば、分かっていただけますでしょうか?」
「……それは……」
「私は、何を命令されても構いませんよ……?」
御主人様。メイド。命令。主従関係。主従。主と従者。
(……御主人様と……犬?)
なぜそのような思考に繋がったのかと聞かれれば、それは僕にも分からない。
普通に暮らしていれば、「貴方の言うことを何でも聞きます」なんて言われることはまずないだろう。
強いて理由を挙げるとすれば、そういう事態が何の前触れもなく訪れてしまったためとしか言いようがない。
(……だが、もうそんなことは言ってられない)
僕は今、試されている。
ここで男らしく命令の一つでもできないようでは、明日中にも「香霖堂の店主はメイドに命令もできない幻想郷一のへたれ」という噂が広まっていることだろう。
咲夜は、多少潤んだ瞳で上目遣いに僕を見つめている。
今の僕には、それがまるで品定めされているように感じられた。
仕える側から駄目出しされるなど、そんな情けないことはあってはいけない。
僕は、香霖堂の主なのだ。
今この場所で、僕を見下せる存在などありはしない。
なればこそ、僕はただ堂々と僕のメイドに命令すればいいだけの話である。
「咲夜」
「はい、御主人様」
「お前は犬だ」
「……はい?」
「わんと鳴け」
「…………」
「ま、待ってくれ。なぜナイフを構えるんだ?」
なぜだろう。
本気で真摯な命令だったのだが、咲夜はお気に召さなかったらしい。
「……はぁ。何を言うのかと思ったら……」
「駄目だったか……」
「ああいえ、別に、駄目というわけではないのですけれど」
「いや、よく考えたら駄目だよな、今の命令は。すまない、混乱してたんだ。忘れてくれ。むしろ忘れろと命令したい」
「いえいえ。混乱したからこそ御主人様の本音が出たと、そう解釈させていただきますわ」
「……僕を脅す気かい?」
「まさか。業務上で知りえた機密は、墓まで持って行く所存です。主に言えと言われない限りですが」
「主って、今は僕だがすぐにレミリアに戻るじゃないか」
「まぁ、そうですね」
「……はぁ」
これから口止め料として何を要求されるかを考えると気が滅入る。
「ふふ。冗談です」
「え?」
「言いませんよ、お嬢様には。私たち、二人だけの秘密です」
「それは願ったり叶ったりだが……何が望みだい?」
「嫌ですわ。メイドの私が、御主人様に求めるものなどありません」
強いて言えば、メイドは主人からの命令を欲するものですと、最後にそう加えて、咲夜は笑った。
「よく言うよ」
手を振って咲夜を居間へと促す。
「もう夕方だ。仕事がないなら、お茶を入れてきてくれ」
「わん」
咲夜は台所へと歩いて行った。
…………ん?
「お茶ですわん」
「え……あ、ありがとう……」
「わん」
「…………」
「わん?」
「…………」
「…………」
「…………」
「きゅ~ん」
「僕が悪かった」
「御主人様の命令ですわん」
「分かったから。僕が悪かったからもうやめてくれ」
「そうですかわん……」
しゅんとする咲夜。
「君はもう充分働いてくれた。だからお茶を飲んだらもう帰ってくれて構わないよ」
「そろそろお暇させていただくつもりではありましたが、何か納得のいかない最後ですわん」
「とにかく、その嫌がらせのような犬語をやめてくれ」
すると咲夜は、はぁ、と溜息を吐いて懐からナイフを一本取り出した。
くるくるとそれを回しながら、咲夜は言った。
「……全く。命令は全然しないし、したらしたでやれと言ったりやるなと言ったり。あなたは主人になる才能が皆無ね」
「そんな才能を欲しいと思ったことは一度もないよ」
「まぁ……そうなんでしょうね、あなたは」
咲夜は回していたナイフをついと僕の方へ差し出す。
銀製の、美しいナイフだった。
「これは?」
「お詫びよ」
「……このナイフが?」
「最後の最後で“主人である貴方”に対して不愉快な思いをさせてしまったから、そのお詫び」
「僕は気にしてないが……」
「私が気にするのよ。少し困らせてやろうと思ってやったんだから」
「ははは。そういうことなら、貰っておこうかな」
「……それと、挨拶も含めて」
「挨拶?」
聞き返す時に、咲夜を正面から見る。
目が合ってから、咲夜は一瞬目を下に逸らし、またすぐ目線を戻した。
咲夜が答えないのでしばらく見つめ合う形になってしまったが、しばらくすると咲夜は頬を赤く染め、そっぽを向きながらこう言った。
「……これからも、よろしくってことだわん」
咲夜がくれた銀のナイフ。
外見は見事な、それでいて過度ではない装飾。そして曇り一つない刀身。
売ろうと思えば、かなりの高額で売れるだろう。
しかし僕は、このナイフを売り物にする気は全く起きなかった。
(なにか……咲夜に重大な勘違いをされた気がしないでもないが……)
その日。
僕の秘蔵コレクションに、新たな一品が加わった。