ある日、霊夢が怪我をした。
いきなり香霖堂に来た霊夢は肩から出血していたので、僕は急いで手当てをした。
彼女は博麗神社から香霖堂に来るまでに弾幕ごっこをしてきたらしく、その際に敵の弾幕に掠ってしまったようだ。
怪我自体は軽いもので、巫女服から露出した肩を少し擦り剥いただけだった。
彼女の手当をしながら、僕は言った。
「珍しいじゃないか。君がそこらの妖怪に後れを取るだなんて」
「……別にそんなんじゃないわ。掠っただけで被弾したわけじゃないし、その後すぐに夢想封印で倒したし」
「それはそうかもしれないが、掠るほどの相手でもなかったんだろう?」
「まぁ、そうなんだけどね。……でも、せっかく霖之助さんに会うんだから、服を汚されるのが嫌だったのよ。結局、そのせいで掠っちゃったんだけど」
「服を気にしながら無傷で勝てるほど相手も弱くなかったわけか」
「…………」
「どうした?」
「……私、今、すごく勇気を出して言ったんだけど……」
「何をだい?」
「……もう、いいわ……」
「? そうか。……っと、よし。こんなもんでいいだろう」
包帯を巻き終わり、お茶でも入れてこようと台所へ行く。
「……はぁ。霖之助さんの本当の能力は、『他人の好意に気付かない程度の能力』なんだとしか思えないわ……」
お茶を持って帰ってくると、なぜか霊夢は不機嫌そうだった。
霊夢はしばらく店にいたが、夕方には神社へ帰った。
いつもより少しばかり早かったが、怪我をしていることもあり僕が帰宅を促したのだ。
霊夢の巫女服は弾幕ごっこで多少の傷を作っていたので、彼女は店に置いてある替えの巫女服に着替えていった。
というか、僕の部屋にある箪笥の一段が霊夢の巫女服専用となっているのは、修繕を任されるのがほとんど僕であるという点を差しおいてもどうなんだろうか。
巫女という特殊な立場ではあるが、霊夢だって年頃の女の子だ。
半妖とはいえ男である僕に対して、少しは恥じらうような気持ちがあってもいいと思うのだが。
(まあ、信頼されていると思えばそれも悪い気はしないな……)
最近の霊夢はこれといった用事もなく店に来ることが多い。
博麗神社には参拝客がほとんど来ないらしいから、彼女も暇な時間が多いのだろう
とはいっても閑古鳥が鳴いているのは香霖堂も同じなので、客でなくとも話し相手がやってくるのは僕も嬉しい。客として来てくれればもっと嬉しいということは言うまでもないけれど。
僕は静寂を好むが、けしてお喋りが嫌いというわけではないのだ。
(それにしても、怪我、か……)
僕には医学的な知識というものがあまりない。
病気にかかることはめったにないし、あってもすぐに治ってしまう。
外に出ること自体が少ないので、怪我をすることもほとんどない。
それでも長く生きていれば怪我はするものなので、消毒の仕方や包帯の巻き方は自然と身に付いた。
あくまで素人の知識ではあるが、そもそも半妖の僕は傷の再生も人より早いので困ったことはなかった。
だが今日、霊夢の手当てをして少し思うところがあった。
もし、もっと深い傷だったら。
もし、怪我をしたのが頭や胴体だったら。
僕は霊夢に適切な処置を施すことができただろうか。
もちろん、重傷であるならば永遠亭に連れて行くのが一番いい方法だろう。
だがもし、その場から動かすことも危ういような状況だったら。
(応急処置の重要性は理解しているし、人間という種族の体の脆弱さも知っている)
巫女という立場にいる霊夢は、とにかく荒事に巻き込まれることが多い。
霊夢と一緒にいることが多い魔理沙も、能動的か受動的かはさておき、荒事に関わることが多い。
咲夜は、まあ、僕が関与するところではないのだろうけれど、あの吸血鬼の従者がいつも平穏に、とはいかないだろう。
早苗は信仰獲得のために、自ら進んで異変に向かっていく傾向がある。
(……そしてこの娘たちが人間の少女だってことも、僕は知っている)
この娘たちは強い。人間でありながら、妖怪を真っ向から倒せる程の力を持っている。
そして偶然にも、この四人の人間は香霖堂の常連である。皆往々にして何を買いに来るわけでもなく、お茶を飲み少し喋ると満足して帰るような客ともいえない客ではあるが、それでも僕にとって大切な人間であることに変わりはない。
(少し、勉強してみるかな)
医学の知識は、僕にとってもあれば役に立つものである。
さしあたっては永遠亭で医学書でも借りてこようかと、そう思った。
永遠亭に行くには迷いの竹林を抜けなければならない。
竹林の地理を熟知しているわけではないが、永遠亭にたどり着けないほど道を知らないわけでもない。
一人で竹林に向かって歩いていると、不意に地面が揺れた。
見上げれば、竹林の方で昼間から弾幕ごっこをする元気な奴らがいるようだった。
といってももう決着はついているらしく、空を飛んでいるのは一人だけのようだが。
(あれは……妹紅か?)
大きな炎の翼。
遠目に見ると火の鳥のようなその姿は、間違いなく妹紅だろう。
(ということは、相手は永遠亭のお姫様か)
しかし、空を飛んでいるのは妹紅だけである。
さらに妹紅は、地面に向かってありったけの弾を放ち始めた。
……心なしか、風に乗って高らかな笑い声が聞こえてくるような気もする。
(前にも似たようなことがあったな……)
妹紅は最後に特大の一発を放つと、満足そうに去って行った。家に帰るのだろう。
(これから永遠亭に向かうというのに、見捨てて行くわけにも行かないじゃないか……)
いっそのこと日を改めて見なかったことにしたい気持ちもあったが、同じような状況で妹紅をおぶって家に送ったこともあったので、ここで引き返すのはなんとんなく気が引けた。
「まあ、これで医学書も借りやすくなるかもしれないしな」
わざわざ口に出してから、輝夜のもとへ向かった。
輝夜はすぐに見つかった。
だがここで予想外の事態となってしまった。
当初は、輝夜を見つけたら、意識があればどうするか彼女に相談し、なければ妹紅と同じようにおぶって永遠亭に連れて行くつもりだった。
輝夜は意識がなかった。しかし、僕があることで固まっている間に少し回復したのか、しばらくすると薄目をあけて僕を見た。
「…………」
「…………」
「……えーりん? ……ぼさっとしてないで、はやく屋敷に連れてってちょうだい……」
「あ、ああ……?」
呟くようにそう言うと、輝夜はまた目を閉じた。
(えーりん? 僕を八意永琳と間違えたのか?)
意識が朦朧としていたのだろうが、長年付き添っている自分の従者と、性別すら違う僕を間違えたりするものだろうか。
ともかく、お姫様は自分を屋敷に連れて行けとのことだ。
もともとそのつもりだったので、輝夜をおぶるか抱き上げるかして永遠亭に連れて行きたい。
行きたい、のだが。
(む、胸が……)
はだけている。見事に全部が。
はだけているというよりかは、右袖から胴体にかかるところまで着物が燃えてしまっていて、めくれてしまっているというほうが正しい。
全身ぼろぼろで、特に右肘から手先までが黒こげになっているので、官能的な美しさよりも先に瀕死状態の危うさの方を思わせるのだが、逆にそれが真っ黒の右腕と対照的に雪のような胸の白さを際立たせる結果となっていると言えば、その通りであるとしか言いようがない。
(とにかく、何か被せなくては……)
持っていた手ぬぐいでは色々と覆いきれないと思い、仕方なく僕の上着を輝夜の体に被せる。
僕の上着も着物のように帯で固めるものなので、しっかりと留め、それから輝夜をおぶった。
遠くで誰かが輝夜を呼んでいる声がする。どうやらお迎えが来たようだ。
(危なかった……。もう少し迎えが早かったら嫌な誤解をされていてもおかしくなかったな……)
上着を脱ぐと少し肌寒い気がしたが、背中から輝夜の体温が伝わってきて、すぐに気にならなくなった。
迎えに来たのは鈴仙とてゐだった。
「も、森近さん!? ど、どどど、どうしてここに!!」
「少し永遠亭に用事があってね。ついでに君のとこのお姫様も拾って来た」
「ひ、姫さま!」
「あー。おんぶいーなー。あたしにも後でしてー」
「残念だけど、今日のおんぶは輝夜で売り切れだ」
「えー」
「こら、てゐ! わがまま言わないの!」
「じゃあいつものちょうだい! そしたら我慢してあげるから」
「ああ。そう言うと思って用意して来たよ」
鞄から小さな袋を二つ取り出す。輝夜をおぶっているから取り出しづらく、少し手間取った。
「ほら」
袋の一つをてゐに差し出す。
「えっへへ。ありがと!」
「ほら、鈴仙も」
「へ? は、はい、ありがとうございます」
「おいしー」
「それはよかった」
「これは……金平糖、ですか?」
「ああ。前にてゐにあげたら凄く気に入ったみたいでね。それ以来ここに来る時はそれをてゐにあげているんだよ」
「そ、そうだったんですか……」
「帰りにもちょうだいね」
ぽりぽりと金平糖をかじりながらてゐが笑顔で言う。
もちろん僕は何の見返りも無しに金平糖を供給しているわけではない。
てゐの能力は『人間を幸運にする程度の能力』だ。
僕は半人半妖なので効果も半分なのだろうが(半人半妖は人間ではないので効果は全くない無い、とは思いたくなかった)運とは努力や根性でどうにかなるものではない。
そういった意味で、てゐの能力はそこいらの妖怪よりもずっと価値のあるものだ。
金平糖をあげるくらいでその恩恵をこうむるころができるのならば安いものである。
それに、そういった損得勘定を抜きにしても、てゐの笑顔はそれだけで僕を和ませる。
「てゐ! 森近さんに迷惑かけない!」
「えー。でも、レイセンちゃんだって金平糖好きでしょ?」
「そ、それは……好きだけど」
「だったら一緒にもらおうよ」
「で、でも……」
「まあまあ落ち着け二人とも。そんなに騒ぐと君たちの姫さまが起きてしまう」
「あ……す、すみません……」
「店主ー。姫さまは大丈夫?」
「まあ、輝夜は不死だから体は大丈夫だろう。今は疲れて寝ているだけだと思う」
「そうですか……」
「君たちは輝夜と妹紅の決着がつくのをいつも待っているのかい?」
「はい。昔は姫さまの圧勝でしたからいちいち勝敗の確認なんてしなかったんですけど、最近は妹紅にやられることも少なくないんです」
「そうなのか……」
「でも、姫さまは負けても楽しそうだよ」
「楽しい?」
「そうですね。こうでなくちゃ面白くない、って言ってましたし」
「ふうん……」
不死である二人は、寿命のある僕たちにはわからない何かを共有しているのだろう。
そこに親近感や連帯感といった感情が生まれ、二人を運命共同体のようなものに変化させたのだと思う。
(まあ、いくら考えたところで僕が理解することはないだろうが……)
「そういえば、さっき用事って言ってましたけど、もしかしてどこか具合が悪いんですか……?」
「ん? ……ああ、いや違うよ。医学書を借りにきたんだ」
「医学書ですか?」
「勉強するの? えらいねー、店主は」
「ははは。まあ、そんなところだ」
「でも、一口に医学書と言っても、妖怪用と人間用では内容もかなり違いますよ。それに……」
「半人半妖に効果があるかはわからない、かい?」
「……はい。すみません……」
「君が謝ることじゃないよ。それに今回は、人間用の医学書を借りれればそれでいいんだ」
「そうなんですか?」
「店主は、どっちかっていうと人間寄りなの?」
「……どう、だろうね。自分は半人半妖であると昔から思っていたから、どちらに寄っているかなんて考えたこともなかった」
確かに半人半妖とはいえ、その割合が五分と五分であるとは限らない。
これはなかなかに面白い着眼点だと思った。
だが同時に、これを追究した先にあるのは自分が半端者だという証明だけだとも思った。
「あ、お師匠さまだー」
「ん?」
「ホントだ。いつもなら治療室で待ってるのに……って、アレ? なんか、師匠の機嫌、最悪じゃない……?」
永遠亭の入口が見えてくる。
門の前には、額に青筋を立て、絶対零度の笑みを浮かべる八意永琳が仁王立ちしていた。
「や、やあ。こんにちは、永琳」
「ええ。こんにちは、霖之助」
「突然ですまないね。その、少し用事があって……」
「後で聞くわ」
「そ、そうかい……。そうだよな。いきなり来て、そっちにも都合というものがあるからね……」
「ええそうね。とりあえず一刻も早く姫様を渡してもらいたいのだけれど」
「あ、ああ。わかった」
輝夜は小さな寝息をたてていたので、揺らさないように永琳に引き渡した。
永琳は輝夜を鈴仙に預けて、僕に言った。
「ねぇ霖之助」
「な、なんだい?」
「私、今とても気になることがあるのよ」
「そ、そうか。何が?」
「なんでウチの姫様は、あなたの服を着ているのかしら?」
当然といえば当然の質問だ。
だが取り乱す必要など全くない。
僕はあの状況で最善を尽くしたと胸を張って言える。
そう、胸を張って。
胸を……。
胸……。
「悪気はなかったんだ」
「歯を食いしばりなさい」
女性に思いきりグーで殴られるというのも、ある意味貴重な経験だと思った。
そう思わなければ、やっていられなかった。
その後、永琳は輝夜を連れて奥へ行き、僕は鈴仙に治療をしてもらっている。
「痛くありませんか?」
「ああ……。心以外は痛くないよ……」
「そ、そうですか……」
「処置なし、ってやつだねー」
「て、てゐ!」
「いや、不可抗力とはいえ殴られるだけのことをしたんだ。納得は……してるよ」
「してないんだねー」
「してるさ。というより、こういったことには慣れてるんだ」
「慣れてる……?」
鈴仙がじと目で僕を睨む。
「いや、勘違いしないでくれよ。こういったことというのは、理不尽な目に遭うことだ」
「あぁ、そっちですか……」
ほっとしたように、うつむき気味に笑みをこぼす鈴仙。
そこでほっとするのは僕に対して失礼ではないかと思ったが、特に何も言わなかった。
「ああ。なぜかはわからないが、僕の店には冷やかしのような客が多くてね。来ても何も買わずに僕と喋るだけで帰って行くような客ばかりなのさ」
「それって、もうお客さんじゃないと思うんですけど……色んな意味で」
「全くだ。それでいて人のことを鈍感だの朴念仁だのと罵倒する、嫌がらせに来たとしか思えないようなやつらばかりさ」
「店主は商売の才能がないからねー。あたしの方がよっぽど上手くできるよ」
「て~ゐ~!!」
「ははは。いいんだよ。自分に商才がないのは自覚しているから」
「そ、そんなこと……」
「あるんだな~、これが」
「いい加減にしなさいっ!」
「やあねえ。そんなに怒んないでよ。ちょっとした冗談じゃん」
てゐは怒鳴る鈴仙の脇をするりと抜けて、くるんとこちらに振り向いた。
「じゃあ、あたしはお師匠さまに報告してくるね」
「はぁ……わかったわ。いってらっしゃい」
「はーい」
そう言うと、てゐは軽快に部屋を出て行った。
「……ふぅ。なんか、すみません。り、りり、りんのすけ、さん……」
「君も相変わらずだね。二人きりにならないと僕の名前を呼ばない」
「だって、その、他の人の前だと……恥ずかしくて」
「まあ、いいけどね」
鈴仙は人前だと絶対に僕の名前を呼ばない。
反対に、僕は彼女の『レイセン』という名前の響きを気に入っていて、どちらかといえば好んで彼女の名前を呼ぶ。
鈴仙は寒くないですか?と聞きながら、患者用なのだろう、男物の上着を僕に渡した。
「うぅ~。私ももっと、霖之助さんって呼びたいんですけど……」
「呼びたいのなら呼べばいいだろうに」
「そ、そうはいかないのが女の子なんですよぅ……」
「? よく分からないな。……あ、もしかしてアレかい? 月の兎は家族や恋人のような深い関係でないと、相手の名前を呼んではいけない風習があるとか」
「こっ! 恋人ですか!!」
「とか、家族もね」
「か、家族……そ、それはつまり、夫婦ですね!?」
「まあ、夫婦でもいいが……」
「…………」
「鈴仙?」
「……うふ、ふふふ……」
鈴仙の眼が、爛爛と赤く輝いている。
どこかに旅立ってしまったようだ。
「う……」
頭がズキンと痛む。
鈴仙の瞳を見てしまったせいで、彼女の能力にあてられたみたいだ。
(……能力?)
赤く赤く、真っ赤に光る鈴仙の瞳。
「暴走してるじゃないか……」
なんてやっかいな能力だ。
暴走して自滅するというのならまだ可愛げもあるというのに、自分の瞳を見た者を片っ端から狂わそうとするなんて。
「仕方ないな……」
鈴仙からは禁止されているが、彼女を正気に戻すためだ。非常時ということで許してもらおう。
僕は鈴仙の長い耳をむんずと掴み、軽く引っ張った。
長い両の耳を頭の上で一つにまとめる感じだ。
「うきゃう!!」
「なかなか個性的な悲鳴だ」
「ひゃ、ひゃめれくらはい!!」
「君のその癖もまだ直っていないんだね」
「みょ、みょりひかひゃん~!!」
鈴仙は耳を掴まれると、ろれつが回らなくなってしまう。
体からも力が抜けてしまうようで、今も立っている足がぷるぷると震えている。
涙目になって僕を下から睨みつけるが、なんとも間抜けな構図であるため効果は全くない。
「お、おちちゅいて、ひゃなしあいまひょう!」
「君さえ落ち着けば全ては解決するんだよ」
「ど、どうゆうきょとでしゅか……?」
鈴仙の目からじわっと涙が溢れそうになる。
ついにはへなへなと座り込んでしまい、無言で僕を見つめ出した。
さすがにやりすぎたと思い、耳を離そうとした時、てゐが部屋に飛び込んできた。
「姫さまが起きたよー!」
てゐの登場で機を逸してしまい、僕は鈴仙の耳を掴んだままだ。
てゐは力なくうなだれる鈴仙を見て、ニヤリと笑った。
「なぁにぃ? どういう遊びなのぉ?」
「て、てゐ! たしゅけちぇ!」
てゐは座り込んでいる鈴仙の目線に合わせてかがむと、彼女のほっぺたをつまんだ。
「レイセンちゃんをいじめて楽しむ遊び?」
「ひゃ、ひゃめ……!!」
「おい、てゐ……」
「さっすが店主。兎の扱い方というものをわかっていらっしゃいますねー!」
「……!!」
そこで鈴仙が反撃にでた。目の前にあるてゐの耳を掴み上げたのだ。
「ちょ!みゃ、みゃって!やめれ!!」
「きょれであんらもひゃべれないれしょ!!」
「ひ、ひやー!」
「あらしだっていやらったにょ!!」
「やーめーれー!!」
「あんらがひゃきにひゃなしなしゃいよ!!」
「れいしぇんちゃんのばかー!!」
「ばかにゃのはあんられしょ!!」
「!!」
「!!」
「!?」
「!!」
もう、泥沼だった。
お互い相手の悪口しか言わない、子供の喧嘩だ。
傍から見ていたなら微笑ましくもあるのだろうが、鈴仙の耳を掴んでいる限りは僕も当事者だ。
はっきりいって、このレベルの低い口喧嘩の関係者だとは思われたくない。
だがここで鈴仙の耳を話したらてゐの圧倒的不利となってしまう。
どうでもいいといえばどうでもいいのだが、どちらかに肩入れすると後が怖い。
そんなこんなで迷っていたが、僕の迷いは第三者の登場によって見事に断ち切られることになった。
「あなたたち……大丈夫?」
扉の向こうに、憐みの表情を浮かべた八意永琳が立っていた。
(そういえば、ここは病院だったな……)
治療室の前に、『辛いこと、悲しいこと、心の悩みなど、なんでも相談してください。 八意永琳。』と、そんな張り紙があったのを思い出した。
「あなたはもっと落ち着いた、静寂を好むタイプだと思っていたんだけど……」
「間違ってないよ。僕はそういうタイプだ」
「認識を改めないといめないようね」
「おいおい、間違ってないと言っているだろう?」
「でも、さっきのあれを見ちゃったら、ねぇ?」
「……あれは、不幸な事故だったんだよ……」
僕は今、鈴仙たちとはいったん別れ、永琳の案内で輝夜の部屋に向かっている。
僕としては医学書を借りたらさっさと帰りたかったのだけれど、輝夜を拾って来たことで彼女に面会しなければ帰れない状況になってしまった。
どのみち目的は果たしていないので、まだ帰ることはできないが。
「なあ、永琳」
「なに?」
「あの娘は怒っているのかい?」
「姫様? ……あぁ、見ちゃったことね。別に怒ってはいないんじゃない?」
「と、言うと?」
「私は姫様に、自分をここまで運んでくれたお礼を言いたいから呼んできて、って言われただだから、なんとも言えないわ」
「思いきり殴っておいてよく言うよ……」
「やあねぇ。私が思いきり殴ってたら、今頃あなたの首はもげてるわよ」
背筋がぶるりとして、鳥肌がたった。
「は、ははは。そうかい……。というか、彼女は僕が、その、見てしまったことを知っているのかい?」
「うーん……っていうかね、姫様は自分を運んだのが私だと思っていたらしいのよ」
「ああ……そういえば、僕のことを永琳と呼んでいたよ」
「だからね、はっきりとは言ってないけど、実は姫様を運んだのは霖之助ですって言った時に分かっちゃったんじゃない?」
「じゃない?って……、随分と無責任だな」
「……私も、共犯みたいなものだからね」
「共犯?」
「姫様が妹紅に負けた時は、いつもうどんげとてゐに迎えに行かせてるのよ。私は治療室で治療の準備して」
「治療は必要ないだろう?」
「まぁ、そんなんだけどね。治療しなくても勝手に治るから、問題はないんだけど……」
一瞬、永琳の雰囲気が暗く、重いものになる。
(……たとえ周知の事実でも、指摘されたくないことはある、か)
誰にだって、知られたくないことや話したくないこと、言われたくないことがある。
もしかしたら。
彼女達は昔のように、永遠を手に入れる前のように振る舞うことで、自分を保っているのかもしれない。
もちろんその恩恵を受けることも多々あっただろう。
なにせ死なないし、怪我も勝手に治るのだ。病気などにもかかることはないのだろう。
だが、死とは、全ての生き物が共通に持つものである。
生きるということは死ぬということであり、ならば死なないということは生きていないといえる、のかもしれない。
断定はできないが、もしこれが成立するならば、彼女たちはとても大きな、当り前の枠組みからはじき出されることになる。
(寿命を失った生き物は、万物の中で自分をどこに位置づけるのだろうか?)
知り合った瞬間に、自分より先に相手が死ぬことを確信する。
そういう前提で、出会いがあるのだ。
(間違っているのかもしれないし、こんなことを考えること自体が彼女たちを侮辱しているのかもしれないけれど……)
彼女たち。
それは輝夜であり、永琳であり、妹紅である。
僕だってまだしばらくは生きるだろうが、いつかは死ぬ。これは絶対だ。
万が一、僕が輝夜か永琳を娶ることにでもなったら、僕もまた蓬莱の薬を飲まされ永遠の存在にされるかもしれない。
もちろん、そんなつもりは毛頭ないし、もしそうなっても薬の服用だけは断固として拒否するが。
「……それで、何で君が共犯になるんだ?」
少し強引だったが、話を戻すことにした。
「……えぇ。私は永遠亭の薬師、医者である前に姫様の従者でしょう? だからというわけではないけれど、うどんげたちを迎えに行かせる前に、姫様の状態を確認するのよ」
「確認? 永遠亭から?」
「別に、遠くからでも様子を見る方法はいくらでもあるわ」
「まあ、確かに」
「それで、今日もいつも通り。やられる時はだいたいこんなもの、って感じだっだの。それでいつもと同じようにあの娘たちを迎えにやらせたんだけど……」
「そこで僕が竹林に入って来たということか」
「そう。私もすぐに誰かが竹林に入って来たのを察知して、あなただったから特になんのアクションも起さなかったわけ」
「だが、お姫様は衣服に多少の……いや、多量の乱れがあったというわけか」
「……えぇ。私が確認した時、着物はまだちゃんと機能してたんだけどね。燃えていた右袖から、その熱が段々と胸の方まで侵食していったみたい」
「それで、見抜けなかった君は共犯か。もしかして、君にお咎めがあったりは……?」
「まさか。そこまで暴君じゃないわよ、うちの姫様は。せいぜいお小言をもらう程度でしょ」
「そうか。まあ、なんというか、君にも迷惑をかけたね」
「私はいいのよ。……それより、さっきは思わずカッとなっちゃって、殴ってしまってごめんなさいね」
「ん? ああ、それはしょうがないだろ。僕が男である以上、この手の問題で僕が優位に立てるとは思ってないよ」
「ふふっ。それもそうね」
そこで永琳は立ち止まり、ガーゼで手当てされた僕の右頬に手をかざす。
「……うどんげも、なかなか良い腕になってきたわ」
「そういうのは本人の前で言ってやったらどうだ。……それに、たかがガーゼをあてるくらい、誰にだってできるだろう?」
「それは素人の考えよ。たかがガーゼ一つとっても、一番効率の良い治療をするのが医者ってものだわ」
「ふうん……。そういうものなのか」
「ええ。……それにね、うどんげは医者としては大成しないわ。それよりも遥かに薬師としての才能がある。私のように天才というわけではないけれど、この私が直々に指導をするくらいの光るモノを持ってるのよ」
「ほう……。君がそこまで鈴仙を評価していたとはね。知らなかったよ」
「これはまだ姫様にしか言ってないから、他言無用でお願いね」
「ああ。承知した」
「ええ、ありがとう。……次の角を曲がった奥の部屋が、姫様の部屋よ」
永琳の手が離れる。
先ほど、もし僕が永琳を娶ったら、なんて考えてしまったことによる錯覚だろう。
離れていく永琳の手を、少しばかり名残惜しいと思うなんて。
「姫様、私です」
「入りなさい」
襖の向こうから返事があり、僕と永琳は中に入った。
輝夜の部屋は思っていたより質素だったが、それでも調度品やちょっとした装飾品などはかなり高級な物だと一目で分かった。
「お邪魔しているよ」
「ええ。歓迎するわ、覗き魔さん」
「…………」
とりあえず、絶句した。
「姫様……」
永琳は静かに溜息をつく。それがどういう意味をもつのか、混乱する僕にはわからない。
にこにこと笑顔で毒舌を吐く輝夜に、僕は慌てて言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。確かに君の体の一部を見てしまったことは謝るよ。だが、それは不可抗力だ。決してわざとではないし、ましてや覗きなどではない」
「でも、見たのよね」
「う……た、確かに見た、いや、見ましたけど……」
無駄に貫禄のある輝夜に、思わず敬語になってしまった。情けない。
しかし、ここで引き下がるのは覗きだと認めるようなものである。
「ええと、その、つまり僕が何を言いたいのかというと……」
「そうね。堂々と見れば、それは覗きではなく痴漢行為になるのかしら」
「いや、君が体を触られたり、嫌悪感を抱いたりしなければ痴漢ではなく覗きなんだろうが……」
「そう。じゃあ、痴漢かしらね。私を着替えさせたと聞いているし」
「いやいや。ちょっと待ってくれ。僕だって見たくて見たわけじゃないし、触りたくて触ったわけじゃない」
「…………は?」
「霖之助……」
輝夜は呆気にとられたような顔になり、永琳はもう一度溜息をついた。
「僕はね、君自身に興味はない。ただ、これから向かう場所の主が道中で倒れていたら、放っておくわけにもいかないだろう?」
「な、なんですって……!」
「霖之助……あなた、もう少し女心を知るべきよ……」
怒りに震える輝夜を見た。
自らの無実を証明するためとはいえ、とんでもない地雷を踏んでしまったらしい。
「あ、あなた……! この私に、興味がないですって……!?」
「い、いや、そうじゃなくてだな……」
実にまいった。どうやら完全に怒らせてしまったようだ。
僕の返答次第では生きて帰さないと、そんな空気が部屋を支配する。
「君に興味がないというわけではなくてね、僕はそういったこと全般に……」
「ふ、ふふ、ふふふふふふ……。聞いた? 永琳。この男、世の男どもを心酔させ、帝でさえ求めずにはいられなかったこの私に、興味がないんですってよ……?」
「はぁ、そうみたいですね……」
「いったい僕はどうすればいいんだ……」
よくよく考えれば、輝夜の怒りももっともだ。
胸を見られた相手に「お前に興味はない」などと言われれば、それは腹もたてるだろう。
(僕はかなりひどいことを言ってしまったんじゃ……)
だとしたら、とにかく謝ろうと思った。
女性に恥をかかせたのだ。この際僕の評判がどうなろうと、輝夜に許してもらえるまで謝り続けよう。
「……だったのに」
「え?」
口を開こうとした時、輝夜が何か言った。
「初めて、だったのに……」
「…………」
ここで、何が?などと聞くほど、僕は阿呆ではない。
「その、輝夜。本当にすまなかった」
「反省してる?」
「ああ。大いに反省している」
「じゃあ、責任、とってくれる?」
「ああ。セキニンでもなんでも……って、責任?」
「とって頂けるのね。まぁ嬉しい。聞いた? 永琳。この殿方は責任をとって、何でもしてくれるそうよ」
「はぁ……。霖之助、あなた、最初から騙されていたのよ」
「な……」
にやりとほくそ笑む輝夜。
言質は取ったぞと、その表情が語っている。
(僕はまんまと一杯食わされたというわけか……)
「まさか、香霖堂の店主ともあろうお方が、ご自身のお言葉をひるがえしたりはしませんわよねぇ」
「……それはもちろん。たとえ性格の悪いお姫様に騙されて言ったこととはいえ、僕にできることなら何でもしましょう」
もともと何をしてでも許してもらおうと思っていたのだ。
その過程で些か許容できない出来事はあったが、騙された僕にも問題がある。
「うふふ。そうねぇ、何をしてもらおうかしら。永琳、あなた今、部下が欲しかったりする?」
「いえ、私はうどんげで充分間に合っていますよ。それに霖之助は医学的な知識が不十分なので、使えるようになるまである程度教育しなければなりませんし」
「そうなの。……そういえば、貴方ここに用事があって来たんですってね。どんな用事?」
「……医学書をね、借りに来たんだ。できれば人間用の」
「医学書? なんで?」
「はっきりとした理由はないよ。強いて言うなら、知っていて損はないからだ」
「それは、確かにそうね。貴方らしい理由だわ」
貴方らしい、なんて言われるほど輝夜とは親しくなかったような気もしたが、今は立場が弱いので黙っていた。
「でも、まさか対価もなしに借りるつもりだなんてことはないんでしょう?」
「それはもちろん。ただ、医学書を借りる対価として何がふさわしいのか迷ってね。ちゃんとした対価は後日ということで、今日はこれを持って来たんだ」
「献上品ね。懐かしいわぁ、昔は、それはそれは毎日山のように届いたものよ」
届けに来た奴らは輝夜の本性を知らなかっただけだと、そんなことを思いながら、鞄からてゐの大好きな金平糖を取り出す。
「口に合うかはわからないが……」
「なぁに? これ、金平糖?」
「そういえば、てゐが霖之助から金平糖を貰ったって嬉しそうに言ってましたね」
「ほら、永琳にも」
「わ、私の分もあるの?」
「当たり前だろう。なぜそこで驚くんだ」
「あ、ありがとう。……これ、今食べても?」
「ははは。構いやしないよ。もうそれは君たちのものなんだから」
「そうね……あ、ごめんなさい。先にお茶を用意するわ」
「それこそ、構いやしないよ。なにせ、今の僕はお客ではなく犯罪者らしいからね」
「冗談だと分かった途端にそれを武器にするんだから。あなたも姫様に劣らず、いい性格してるわよ」
「ちょっと永琳、それどういう意味よ」
「いえいえ、お気になさらず。ではしばしのお待ちを」
そう言って、永琳は一旦部屋を出て行った。
「ふう。それにしても、君は彼女に愛されてるね」
「なによ、いきなり」
「聞いているかもしれないが、この頬は永琳にやられたんだよ。僕が君の体を見たから、カッとなってやったと言っていた」
「聞いたわ。永琳も反省してるし、許してやってちょうだい」
「ああ。彼女からも直接謝られたし、もう許してるよ」
「……永琳は何年たっても、私に対して過保護なのよ」
「過保護、か。……ありがたいことじゃないか。羨ましいかぎりだよ」
「嘘おっしゃい。貴方は束縛されるのを何よりも嫌うでしょう?」
「それでもだよ。ずっと孤独であるよりは、多少煩わしくても家族がいた方が良いさ。家族でなくても、友人や恋人でもいい」
「貴方も、そうなの?」
「無い物ねだりはしない主義なんでね」
「貴方、今自分で言ったじゃない。家族でなくても、友人や恋人でもいいって。友人や恋人なら、新しく作ることができるでしょう?」
「ああいや、まあ、そうなんだがね……」
半人半妖の自分。どっちつかずの半端者。
僕は自分の存在に自信がない。
自身はないが、生きていくために自分を信じている。
存在の土台がぐらついているため、自分が自分を信じなくなったら、そのまま消えてしまうのではないかという恐怖が僕にはあるからだ。
そんなことあり得ないとは思っているけれど、ならば誰がそれを保障、証明してくれるというのだろうか。
遥か昔、僕の精神がまだ幼かった頃に、僕はそう結論づけてしまった。
中途半端な僕は、考えに考え抜いた結論さえも他人任せで中途半端だったのだ。
自分に価値を見い出せず、その結果得たのは、価値がなくても生きているという自分だった。
価値だのなんだの、考えても考えなくても事実は変わらない。
ならばせめて中途半端なこの生涯を全うして、僕を完成させようと、そう思ったのだ。
能力さえも中途半端だと知った時には、さすがにへこんだが。
「僕にも多くはないが、友人がいるよ」
「……そう。かくいう私も、友人は多くないわ。貴方と同じよ」
「同じ、ね……」
同じなわけがない。
でもそれは輝夜も分かっているはずなので、厚意として受け取った。
「…………」
「…………」
二人きりの部屋に、ぽりぽりと輝夜が金平糖をかじる音が響く。
時計の針は、なかなか進まない。
「……ちょっと。貴方、自分の分はないわけ?」
「ないよ。君たちの分しか持ってきてない」
「お菓子はこの部屋にはないし……仕方ないわね、ちょっと口を開けなさい」
「? なんでだい?」
「私にだけぽりぽりと音をたてさせて、なんだか恥ずかしいじゃない。少し分けてあげるわ。もともと貴方のだけど」
「そ、そうか。それは気がきかなくてすまない。じゃあ、少し貰おうかな」
そう言って、手を差し出す。
しかし、輝夜は急に不機嫌そうな顔になり、金平糖を持つ手を引っ込めてしまった。
「貴方、私の話を聞いてないの? 私は口を開けなさいと言ったのよ」
「あー、できれば普通に分けて貰いたいんだが……」
「さっそく前言をひるがえすのね……。これだから男って嫌だわ。女なんてその場しのぎの嘘でどうにでもなると、本気で思ってる」
「くっ……。そこまで言うのなら、君の言うとおりにしよう。さあ、来い」
「ふふ。そうそう、貴方は私の言うことを聞いていればいいのよ。……はい、あーん」
「う……あ、あーん」
輝夜の手から僕の口に、金平糖が落とされる。
頬が熱を帯びる。こんなことをされるのは生まれて初めてなので、たぶん、今僕の顔は赤くなっているのだろう。
純粋に恥ずかしい。鈴仙とてゐとの痴態を永琳に見られたのとは別の恥ずかしさが、僕を支配していく。
ぽりぽりと金平糖をかじる。
食べ終わると、ただ底なしの甘さだけが残った。
「……ありがとう。もう、充分だよ」
「充分? 私はまだ満足してないわ」
見なければよかった。
そう、はっきり思えるほど間近で、輝夜の笑顔を見てしまった。
「うふふっ。あーん、して?」
「……あーん」
もう、逆らえない。
輝夜の指が、僕の唇に軽く触れてしまった時、正気に戻ったのか、あるいはイカれてしまったのか、思考は混濁となり、意識だけが鮮明になった。
(なんだこの感じ。何も考えられない。永琳は、永琳はなぜ帰ってこない?)
だいぶ時間はたっているはずだ。お茶を入れるだけにしては長すぎる。だが帰ってこない。時間? 本当に時間は進んでいるのか?)
目線だけを動かして時計を見る。
(秒針が……動いていない?)
疑問をもったことがきっかけか、思考が段々と鮮明に、というか、元に戻っていく。
代わりに意識が濁っていく。ありていに言えば、気持ち悪い。
(時が止まっている? そんな馬鹿な。ここに紅魔館のメイドはいない。そもそも時が止まったらこの思考はありえない)
時が止まれば、思考も止まる。だから、時は止まっていない。だが時計の針は動かない。
ならば答えは一つだ。
知覚を超えた時間を、生かされている。
これは異変だ。異変には必ず原因がある。僕にこんな芸当はできない。
だったら、誰だ。
「かぐ、や」
「なぁに? 霖之助」
僕の目の前には絶世の美女。
顔を少し傾ければ、互いの距離は零になるだろう。
「なぁに? 霖之助」
徐々に距離が近くなる。
輝夜が目をつぶる。
僕もそれにならおうとして、ふと、視界に入った時計を見上げた。
カチリと、針が進んだ気がした。
その瞬間、此処が僕の居場所ではないとこを悟った。
「霖之助、お茶がはいったわよ」
「え?」
「なにを呆けているの。大丈夫? まだ私が殴ったダメージが残っているのかしら」
「ここ、は……」
先ほどと同じ、輝夜の部屋だ。
永琳が持ってくると言ったお茶が、今僕の前に置かれている。
(夢、か……?)
輝夜は今までと変わらず、同じ位置でお茶を飲んでいる。
「あらあら、重症のようね。これは彼の目を覚ましてあげる必要があると思わない? 永琳」
「そうですね。……姫様? 能力を使っていたずらとか、してないですよね?」
「まさか。この私が、お客様相手にいたずらなんて」
「あ、いや。二人とも、僕は大丈夫だから」
「そう? 顔色が優れないような気がするけど……」
「アレじゃない? さっきまで永琳が私をどれほど愛しているか、なんて話をしていたから、嫉妬してしまったんじゃないかしら?」
「おいおい。勘弁してくれ」
「そうですよ、変なこと言わないでください」
「……ねぇ、永琳」
「なんですか?」
「私たちは、一心同体よね?」
「なんですかいきなり。……まぁ、それは、そうだと思っていますけど……」
「貴女には、まだ彼に私の胸を許した罰を与えていなかったわね」
「はい、確かにまだですけど……」
「輝夜。悪いのは僕なんだから、永琳を罰するのは許してやってくれないか」
「罰なんて与えないわ。言ったでしょ? 私と永琳は、一心同体だって」
すっと、輝夜は永琳の後ろに回り込む。
「え、姫様?」
「私が見られたんだから、貴方も見られなきゃ、ね!」
ぶちっ!と音をたてて、永琳の服の前を留める紐を輝夜が千切った。
永琳の大きな胸が、ぷるんと揺れながらでてくる。
呆然とする僕と永琳。一人楽しげに笑う輝夜の笑顔が、なぜかとても印象的だった。
輝夜はさらに永琳のブラジャーに手をかけ、いつの間に留め金を外していたのか、一気に上へと投げ捨てた。
たぷん、という音が聞こえた気がした。
それほどまでに見事な女性の象徴を、永琳は持っていた。
「きゃあっ!!」
さすがに焦った永琳は手を交差させて胸を隠そうとするが、輝夜はすかさず永琳の脇の下へ手を通し、羽交締めにした。
「ひっ、姫様!!やめ!やめてくださいっ!!」
「駄目よ、永琳。私はもっと長い間、じろじろとこの男に観察されちゃったのよ? だから、もう少し、ね?」
拘束を解こうとして永琳が体を左右に振るたびに、彼女の胸はぶるんぶるんと左右に揺れる。
僕は輝夜に、じろじろなんて見ていなければ観察もしていないと抗議したかったが、開いた口がふさがらず、言葉を紡ぐことができない。
輝夜を止めるか目を逸らすかしなければと思うのだが、僕も男だ。目が釘付けになってしまい、目を逸らすどころか逆に熱心に見てしまう。
「見ないでええええ!!!!!」
「ちゃんと見なさい!!!!!」
「ど、どうすれば……」
「いやああああああ!!!!!」
「ほら!!あと5分よ!!!!」
「な、長いな……」
僕の頬を汗が伝い、永琳の頬を涙が流れる。
泣き叫んでいやいやをする永琳が、普段の落ち着いた物腰の彼女からは想像もできなくて、思わずごくりと唾を飲んだ。
「り、りんのすけ……みないでぇ」
「ぅあ……」
美しすぎた。
そういった経験が全くないというわけではないが、永琳は女性として理想的な体型であり、その胸を見るなといわれて顔を背けることができるほど、僕はまだ枯れてはいなかった。
輝夜がいなければ、このまま勢いに身を任せて何をしてしまってもおかしくはなかったと思う。
そう、輝夜さえいなければ。
「あっはははははは!!! はしたない娘ね、永琳!!!!!」
「…………」
なにか、色々と台無しだった。
いや、もともと永琳とどうにかなりたいというわけでもなかったので、かえっておかしなことにならず、助かったというべきか。
ともかく、輝夜を止めなければ。
「離して!!お願いです姫様!!!」
「あと3分! 口答えすると時間増やすわよ!!!」
「おい、輝夜。そこまでに……え?」
止めに入ろうと一歩前に出た時、永琳の頭が前に傾いだ。
「やめてって……言ってるでしょ!!!!!」
「ごふっ!!」
そのまま勢いよく後ろに頭突きを食らわした。
永琳の頭突きは見事に輝夜の顔面を捉えたらしく、盛大にこぼれる輝夜の鼻血で畳が染まっていく。
永琳は一度鼻をすすると、輝夜の前に立ち彼女を見下ろした。
「ちょ、いたいぃ……」
「反省しなさい!!」
「ご、ごめ、ごめんなさ……」
「謝ればいいってもんじゃないでしょ!!」
「ひぃっ!! ごめんなさい、ごめんなさい!!!」
「全く……成長しない子ね、輝夜は」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「何千年私に同じことを言わせれば気がすむの? あなたももう子供じゃないんだから、物事の分別くらいつけなさい。そもそも……」
正座で鼻血を出しながら自らの従者に説教される姫と、ほぼ上裸で主君を諭す従者。
(どういう主従関係なんだ……?)
兎にも角にも、僕は永琳に言わなければならないことがある。
「永琳」
「ですからあなたはもっと姫としての自覚を……なに、今忙しいのだけど」
「まずは、服を着ろ」
「…………」
「…………」
「……ぷっ」
「ふんっ!!」
永琳の後ろ回し蹴りによって、ドゴォ!!という轟音と共に壁にめり込む輝夜。永琳の言う通り、確かに成長しない子であった。
永琳は首をがくりとたらして意識を失った輝夜から着物を剥ぎ取ると、それを肌の上に羽織る。
「……忘れなさい」
「……あ、ああ。善処する」
「……別に私は、あなたの脳味噌を直接いじって忘れさせてもいいのよ……?」
「わ、わかった。絶対に忘れる」
「それでいいわ」
ふぅ、と一息ついてから、永琳は続けた。
「人間用の医学書、だったわね。ついてきて」
「ああ。でも、あれはいいのかい?」
僕は輝夜を指さす。
「いいのよ。そのうち起きるでしょ」
とてもじゃないが、この屋敷の主に対する扱いとは思えなかった。これが彼女たちの日常なのだろうか。
「ほら、行くわよ」
「わかったよ」
僕は振り返り、もう一度壁にめり込んだままの輝夜を見て、それから部屋を後にする。
てゐではないが、処置なしだと思った。
途中、永琳の部屋に寄って彼女は服を着替えた。
月の服なのだろう、先ほどと似たような雰囲気のものだった。
「行きましょうか」
「ああ」
少し歩くと、治療室の前で鈴仙が所在なさげに壁に寄り掛かっていた。
「あ、師匠」
「うどんげ? 今日はもういいと言ったはずだけど」
「はい、聞きました。でも、あの、差し出がましいかとも思ったんですけど、これを……」
そう言って、鈴仙は永琳に三冊の本を渡した。
横目に表紙を見ると、それが医学書の類であることが分かる。
「あなたが選んだの?」
「えと、はい。私が師匠に薬学を教えてもらう前に、まずこれを読みなさいと言われたのを思い出して」
「あぁ、こんなのを読ませたこともあったわねぇ……」
ぱらぱらとページをめくりながら、永琳はじみじみと言った。
鈴仙はそわそわとどこか落ち着かない様子で、そんな永琳を見ていた。自分の選んだ本でいいのか心配なのだろう。
「……いいわ。内容も初級だし、これにしましょう」
「あ……え、えへへ。ありがとうございます」
「はい、霖之助。これを全部覚えれば、とりあえず日常で起こり得る怪我や病気のほとんどには対処できるはずよ。こっちの分厚いのは辞書。月の言語で書いてあるから、わからない言葉はこれで調べてちょうだい」
「月の言語か……。これは、覚えるのに一苦労しそうだな」
「私としては、あなたがここに来て私が教えるというのが一番わかりやすいかとも思ったんだけど……」
「ありがたい話だが、店を空けるわけにもいかないからね。月の言語にも興味があるし、翻訳してみるのも楽しいかもしれない。まあ、やってみてわからないところがあったら聞きにくるよ」
「そう。なら、頑張ってちょうだい」
「ああ。鈴仙も、わざわざ選んでくれてありがとう」
「い、いえ。私でよければ、何でも聞いて下さいね」
「……そういえばあなた昔、勉強中にこれを枕にして寝ちゃってたことあったわね。よだれとかついてなければいいんだけど……」
「なっ! し、失礼ですね師匠は!! よだれなんてこぼしてま……せん、よ?」
「いや、僕に聞かれても……」
「まぁいいじゃない。月の兎の唾液は健康にいいのよ?」
「そ、そうなのかい?」
本気で驚いた。
思わず鈴仙の口元を見てしまう。
「う、嘘言わないでくださいっ!!」
「ちょっとしたお茶目よ」
「…………」
この永琳が、輝夜の教育係だというのだ。そう考えると、輝夜はなるべくしてあの性格になったのかもしれない。
「医学書も借りたし、今日はこれで帰らせてもらうよ。……ああ、そうだ。肝心なことを聞いていなかった。このお礼はどう返すべきかな?」
「そうね……。姫様に聞いてみないとなんとも言えないから、近いうちにこちらから連絡するわ」
「僕としては、今この場で言ってもらった方が気が楽なんだが……」
「じゃあ、とりあえずうどんげの頭でもなでましょうか」
「ふぇ! な、なんでそうなるんですか!?」
「そんなことでいいのかい? ほら鈴仙、こっちを向いてくれ」
「ちょ、森近さんまで! やっ! 耳は、耳はだめです!!」
「うふふ。可愛いでしょ? うちの兎は」
鈴仙の長い耳ををこちょこちょと弄りながら、永琳は楽しそうに微笑んでいる。
「兎といえば、もう一匹の兎はどうしたんだい?」
「て、てゐは今お風呂に行っちゃってて。それで、金平糖をよろしくと私に……」
ようやく永琳から解放された鈴仙が、力なく答えた。
「そうなのか。もう金平糖はないし……まあ、ちょうどいいか」
「あ、あはは。てゐには私から上手く言っておきます」
「助かるよ」
「あら……?」
ふと、永琳が後ろを振り向いた。
すると、しばらくしてとてとてと誰かの足音が聞こえてきた。
「てーんしゅっ!!」
てゐの声がしたので振り向こうとした僕の背中に、彼女が飛びついて来た。
「うわっ!!」
「もう帰るのー?」
「て、てゐ!」
てゐは僕の首に手を回し、半ばぶらさがるような形となる。
しっとりと濡れた髪の毛から、鼻をくすぐるような良い匂いがした。
鈴仙がてゐを叱るが、当のてゐはどこ吹く風といった様子でぶらぶらと足を振っている。
どうしたものかと思ったが、永琳が僕の持つ本を取り、「金平糖、もうないんでしょ?」と言ったので、仕方なくてゐの足を掴んでおんぶの形をとる。
「おんぶは輝夜で売り切れだと言っただろう?」
「金平糖、もうないの?」
「ああ、おんぶの代わりにそっちが品切れになってしまったよ」
「えー。じゃあ、また今度来る時にも絶対持ってきてね」
「了解したよ」
「えっへへー。店主に幸運が訪れますようにっ!」
てゐをおんぶしたまま玄関に着く。ぴょんと、てゐは僕の背中から飛び降りた。
靴を履き、永琳から医学書と辞書を受け取る。
「なあ、永琳。すっかり忘れていたんだが、僕の上着はどうなったんだ?」
「あ……私も忘れてたわ。……そうね。泥とかでかなり汚れていたから、洗って店に持って行かせるわ。今日のところはそれを着て行ってちょうだい。患者用だけど、外に着ていってもおかしくないデザインだからいいでしょ?」
やれやれ。
近頃は上着を失くしてばかりだ。
「ああ。というか、やっぱり患者用なんだな……。これ、需要というか、患者が着る機会はあるのかい?」
「そういえば私、それを患者さんに渡した記憶がありません」
「あたしもー」
「血や吐瀉物なんかで、来た時と同じ服で帰れないような患者のために用意したんだけど……。ま、それだけ幻想郷が平和ってことよ」
用意した服が全くの無駄であったにも拘らずそう言い切る永琳に、医者としての彼女を見た気がした。
月の技術は幻想郷とは比べ物にもならないくらいに発達している。
それを知っている僕は、心のどこかで永遠亭の病院としての機能は片手間な、それこそ永琳にとっては暇つぶしのようなものだと思っていた。
だが実際はガーゼの当て方一つをとっても弟子にしっかり指導をしていた。
これでは、僕の接客態度の方がよっぽどいい加減というものだ。
「うどんげ、てゐ。彼を入口まで送っていきなさい」
「はい」
「はーい」
「輝夜によろしく言っておいてくれ。それじゃあ、また」
「ええ。おやすみなさい」
「おやすみ」
永琳が小さく手を振る。
その手が描く軌跡を、玄関が閉まるまで目で追った。
(ふう……。今日はとんだ一日だったな)
色々と大変な一日だったが、医学書を借りることができたし、なにより月の辞書も同時に借りるという予想外の嬉しい出来事があった。
(そうなると、対価が恐いな。一体何を求められるのやら……)
まあ、それはそれだ。
終わり良ければすべて良しともいうし、今日に限っては収穫の方が遥かに上回っているので良しとしよう。
「じゃあ、行こうか」
「はい、森近さん」
「しゅっぱーつ! といっても、竹林出るとこまでだからすぐだけどねー」
てゐの掛け声で僕たちは歩き出す。
両脇で揺れる四つの耳に、少し落ち着かない。
「…………」
「森近さん? どうかしました?」
「……いや、なんでもないよ」
「? そうですか」
「なになに? 隠し事?」
「ははは。違うよ、そんなんじゃない」
いつかは彼女たちのこの愛らしく揺れる耳が二つとなり、やがて零になる。
ついそんなことを考えてしまっては、何もできない自分を知る。
命が続く限り、僕はこうやって生きていくのだろう。
(この竹林から兎が消えてしまった時、輝夜は、永琳は、何を思うのだろうか……)
竹林の終わりが見えてきた。
笹の葉が風に遊ばれ、よりいっそう強く歌う。
「いい風。きもちいいねー」
「てゐ、頭ちゃんとふいたの? まだちょっと髪の毛が濡れてるけど……風邪ひいちゃうわよ?」
「あとでレイセンちゃんにやってもらうから大丈夫ー」
「もう、しょうがないわね……」
「ここまでででいいよ。てゐが風邪をひくといけないからね」
「え、でも……」
「早く帰って、てゐの髪をふいてやってくれ。幻想郷の病院に住むてゐが風邪を引いたなんてことになったら、永遠亭の評判も下がってしまうだろう?」
「そ、そうですか……? じゃあ、そうさせてもらいます」
「医者の不用心だっけ?」
「惜しい。不用心でなく不養生だ」
二人が立ち止まる。ここでお別れだ。
「森近さん。また、永遠亭に来てくださいね」
「店主ー。今度もあまーいのをお願いね!」
「ああ。君たちも機会があれば香霖堂に来るといい。お茶くらいしか出せないが、歓迎するよ」
手を振る二人に僕は手を上げて返し、歩き始めた。
(……さて。まずは、月の言語だ)
辞書だけで理解できるとは思わないが、それでも片言の月語なら話せるようになるかもしれない。
話せるようになったら、まず永遠亭に行って輝夜たちに月語で挨拶をしてやろうと思う。
そうなったら、面白い。
この幻想郷で騒がしいことが嫌いな奴は多い。
だが、面白いことが嫌いな奴はいない。
一生は長い。それが人間であれ妖怪であれ、一生は長いのだ。
(僕もまだ当分死にそうにないし、月語を学ぶのはこれ以上なく良い暇つぶしになるだろう)
月語を習得したら、また次を探すだけだ。
その探す作業を楽しめるようになれば、それはもう無敵である。
僕は永琳から渡された辞書を出し、少し中を見てみる。
「…………」
これは、しばらく……いや、当分は新たな暇つぶしを探すことはなさそうだが……。
(まあ、いいさ。なにせ時間は有り余っているのだからな……)
文字も道具だ。
はたして僕の能力が未知の言語に通用するのかどうかは、家に帰ってからのお楽しみとしよう。
これもまた、一つの暇つぶしだ。
(それにしても、治療室には随分たくさんの医学書があったな……)
月の言語は分からないので表紙などから判断したのだが、治療室に置いてある本なのだ。
まず医学書とみて間違いないだろう。
(月の医学、か……)
遠い昔。
もしあの時、あの医学書があったのならと。
そう思ってしまうのは……。
(……未練、だな)
永琳たちが悪いなんてことには決して繋がらないのに。
「……ん?」
鞄の奥の方に見覚えのない包みがあった。
何かと思って取り出すと『お店に帰ってから開けてね。姫さまからのお土産だよ。』という紙が張り付けてあった。
「ふむ……てゐかな?」
まあ、店に帰ってから開けろと書いてあるのだから、その通りにしよう。
暇つぶしの種が一つ増え、僕は上機嫌で家路を行くのであった。
「うどんげ、てゐ。彼を入口まで送っていきなさい」
「はい」
「はーい」
「輝夜によろしく言っておいてくれ。それじゃあ、また」
「ええ。おやすみなさい」
「おやすみ」
玄関が閉まるまで手を小さく振った。
ドアが完全に閉まり、外でうどんげ達の話す声が聞こえる。
「ふぅ……ようやく帰ったわ」
心臓の鼓動はまだ大きい。
彼の前で平静を保つのはなかなかに苦労した。
「さて、輝夜を起こしにいきますか……」
輝夜に対して少しやりすぎたかと思うが、彼の前であんな醜態を晒されたのだ。それを考えると、むしろ殺さない程度では軽かったくらいねとすんなり結論が出た。
「あんなことするなんて……。輝夜ったら、なに考えてるのかしら?」
あんなこと。
先ほどのソレを思い出し、また少し鼓動が速くなる。
「別に、体に自信がないってわけじゃないけど……って、そういう問題じゃなくて」
輝夜も部屋に着くまでぶつぶつと文句を言って、鼓動の速さを誤魔化す。
本気で怒っているわけではない。
輝夜の言うとおり輝夜と私は一心同体。姫と従者なんて形だけのものだ。
とはいっても、気まぐれな輝夜にほとほと困っているのももう何千年と変わらない。
いくら永遠の存在だからといって、頭の成長まで止まってしまっているのではないかと少し心配である。
「輝夜、起きてる?」
「……あら、私の美しい鼻を頭突きでへし折った永琳じゃない」
「ちょっと、あれはあなたの自業自得でしょう?」
「そうね。……彼はもう帰ったの?」
「ええ。ついさっきにね。あなたによろしくって言ってたわ」
「そう……」
「輝夜?」
「ねぇ永琳、まだ怒ってる?」
「そりゃあ怒ってるわよ。いきなりあんなことされれば誰だって怒るわ」
「そうね。ごめんなさい」
「まぁ、もういいわ。……で、一体なんであんなことしたの」
「彼……少し、貴女と似てたわ」
こちらの話なんて聞きやしない。
仕方なく輝夜に合わせる。
「似ているって、雰囲気とか?」
「ええ。凪いでいるような雰囲気が、貴女とそっくりよ」
「そう? 確かに私も彼も、自分からは動かないようなタイプだとは思うけど……」
「二人とも、自分に大して価値はないと思い込んでいるところなんて、瓜二つじゃない」
「そう、かしら?」
「そうよ。……ねぇ、永琳。女って、嫌ね。特に私のような古い型の女は、もう全然駄目」
輝夜はいつだって唐突に話題を変える。
「なに、いきなりどうしたの?」
「裸……といっても全てではないけれど、それを見られたというだけで、もう彼を相当意識しちゃうのよ」
「別に、おかしくないと思うけど。たとえ半裸でも見られたら多少は意識するわよ」
「じゃあ、永琳も?」
「う……私も、ちょっとはね」
「そうなの。ねぇ、永琳。これって、もしかして恋かしら?」
「まさか、霖之助相手に?」
「これが恋だというのなら、そうなるわ」
「……あなたは昔から、恋というものに憧れてたものね」
「もうとっくに諦めてたけどね。地上に下りてきてから色んな男がいたれけど、私に釣り合う男なんてまずいなかったもの」
「姫ですものね」
「それもそうだけど……。でもそういうのとは別に、私の精神に釣り合うというか……なんか、上手く言えないのだけれど」
「言いたいことはわかるわ。地上の人間は『かぐや姫』の美貌に興味があって、そしてソレを独り占めしたいというだけだった」
「あぁ、そんな感じ」
「つまり、誰もあなたを真に愛してはいなかった」
「そうそう。だから私の心も動かせなかったのよ、あのへたれ共は」
「あらあら、酷いわね。中には帝もいたのでしょう?」
「確かに帝はいい男だったわ。顔は好みじゃなかったけど、私に媚びない崇高な精神を持っていた。だから迷惑をかけたお詫びに蓬莱の薬をあげたのよ」
「帝でさえ駄目なんじゃあ、もういないわね」
「そうなのよ。……でも、今日彼に出会ったから、今までのことはもういいの」
「え? あなた、それ本気で?」
「ええ。……永琳、私、三人目を見つけたわ」
「三人目って……」
三人目というのは、輝夜が生涯を共に過ごすと決めた相手の人数のことである。
一人目は私。二人目は藤原妹紅。そして、今決まったらしい三人目が森近霖之助、とのことだ。
「薬はいつでも作れるのでしょう?」
「それは……作ろうと思えば作れるけど……」
「できるだけ近いうちに完成させなさい。妹紅は放っておいてもここへ来ることになるけれど、彼はそう簡単にはいかないわ」
「とりあえず妹紅に関して言うけど、あなたは楽観しすぎだと思うわ」
「そう? あの半獣が死ねば、間違いなく妹紅は私のところへ来るわよ」
「確かにあの白沢は妹紅にとって必要な存在だから、彼女が死んだら一つのきっかけにはなるでしょうけど。……そう簡単にいくかしら?」
「いくわよ。不老不死は伊達や酔狂ではやってられないもの。妹紅は時間が導いてくれる。でも、彼は違う」
「……輝夜、あなたやっぱり何かしたわね?」
「ちょっとね。貴女がお茶を入れに行ってる間に、彼を私の永遠に閉じ込めてみたの」
「……ま、そんなことだろうと思っていたわ」
「でもね、すぐに破られちゃったわ。破られたこと自体は別にいいのよ。彼が私を拒んだだけで壊れる程度の永遠だったから」
「……つまり、あなたに手をださなかったってこと?」
「…………ぅ、ん」
「自分から誘ったくせになに恥ずかしがってるのよ」
「誘っただなんて、そんな、恥ずかしいわ……」
「はぁ……。からかうつもりが、あなたが本気にさせられちゃって……馬鹿なの?」
「永琳にはわからないわ。口づけの一歩手前までいって、相手に拒否された私の気持ちは」
「く、口づけって……。あなた、自分の安売りはやめなさい」
「安売りなんかじゃないわ。永遠の中で彼と恋人ごっこをして楽しかったし、彼に私の永遠を拒否された時は殺してやろうと思ったもの。それに……」
「それに?」
「どんな手段を用いても彼を手に入れたい。拒まれたまま終わるなんて許せないわ。尽くすことで彼が手に入るのならば、それでもいいと思ったの」
「あなたから『尽くす』なんて言葉が出てくるとはねぇ……」
「全ての男が、私を求めた。たとえ妻子があったとしても、一目私を見るだけで夢中にさせた。でも彼は違った。二人きりで、しかも私が許したのにも拘らず、私を拒んだ。私の前で平静を保てる男なんて、それこそ帝くらいよ。その帝ですら、私を手に入れるために月の民と……貴女と戦おうとまでしたわ。……あぁ、森近霖之助。彼を私と同じところまで……ふふふ。しばらくは、退屈しなくて済みそうね……」
「はぁ……。それで、持て余した気持ちを誤魔化すために、私をダシにしたのね……」
「それは……悪かったわ。でも、どうせなら貴女も一緒がいいなって思ったから」
「それはつまり、私も霖之助に惚れろってこと?」
「というか、私が見られてそういう気持ちになったのだから、貴女も見られれば同じ気持ちになるのかなって」
「……そうね。あなたのおかげで、我ながら無様なほど彼を意識しちゃってるのは認めるわ」
「…………長く」
輝夜は、霖之助に出した湯飲みを何度もつつきながら言った。
「長く、とても長く生きてきたわ。でも、私にも貴女にも、まだ知らないことがあるし、知りたいこともたくさんある。……時間はいくらでもあるわ。でもそれは私たちだけ。普通の生きモノの時間は無限じゃない。欲しいと思った物は朽ち、愛おしいと想った人は死ぬ。イナバも、てゐも、いつか死ぬ。あの巫女でさえ、あと五十年生きるかどうか。残るのは私と貴女と妹紅だけ。たったこれだけよ、いつまでも私と共に在るのは」
勢いを誤ったのか、湯呑みは机の上から畳へと落ちた。
「ねぇ輝夜。恋愛感情ほど不確かなものはないわ。想いは強力だけど、何より移ろいやすく、飽きやすい。それが理由では、蓬莱の薬は作れない」
「……そう」
「でも、まさかあなたがここにきて恋なんて乙女なことを言いだすなんてね……」
「……これが、恋だったらいいな。まだ私にはわからないけれど、これが恋だというのなら…………悪くない気分」
「とりあえず、百年ほど彼を愛し続けてみなさい。話はそれからよ」
「百年かぁ。……長くもないけど、短くもないわね」
「不死は伊達や酔狂じゃやってられないんでしょう? 彼を不死にするのなら、百年じゃ全然短いわ。百年たって、彼の方から不死にしてくれと頼んできたのなら、そこで初めて考えましょう」
「そう。……はぁ」
「なに、もう恋煩い?」
「いえ……。やっぱり、幻想郷に来て良かったわ。この私に興味がない男に会えるなんて……もう、私の方が興味津津よ」
「ま、あなたが楽しいのならそれでいいわ」
輝夜が落とした湯飲みを拾う。
底に残った茶葉が、少し畳にこぼれていた。
「彼が私のお土産を気に入ってくれるといいのだけど……」
「お土産? 何を渡したの?」
「あなたのブラジャー」
「…………は?」
「だから、さっき私が取ったあなたのブラジャーを、彼の鞄に入れておいたの」
「…………冗談でしょ?」
「やあねぇ、永琳ったら。いくら私でも、殿方が女性の下着を好むものだってことくらいは知ってるわよ」
「…………」
誰だ、そんな偏った知識を与えたやつは。
「でも、私のを渡すのは少し恥ずかしかったから、そこに落ちていたあなたのをあげたってわけ」
「え……え? い、いつ?」
「お風呂に入ってたてゐに頼んで、彼の鞄に忍ばせてって頼んだの。だって、手渡すなんて、それこそ恥ずかしくて無理だわ」
「…………」
パリン、という音がした。
持っていた湯飲みを無意識に握りつぶしてしまったようだ。
「どうしたの永琳?」
「いえ……不死殺しの薬でも作ろうかなと思っただけよ」
本気で怒っているわけではない。
輝夜の言うとおり輝夜と私は一心同体。姫と従者なんて形だけのものなのだ。
「不死殺し? ……あ、わかった。あなた、妹紅に嫉妬してるんでしょう? 最近私があの娘にばっかり構うから」
「……えぇ。あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」
駄目な子には、何を言っても駄目なのだ。ならば、体で分からせてやるほかあるまい。
「もぅ、永琳ったら。構ってほしいならそう言えばいいのに」
「……そうね。それじゃあ、構ってもらおうかしら? 天呪『アポロ13』」
「え? ちょ、ま」
輝夜は最後まで言い切ることはできず、凄まじい破壊音と共に部屋ごと竹林の彼方へ消えていった。
(ふぅ。少しは気も晴れたわ……)
『私にも貴女にも、まだ知らないことがあるし、知りたいこともたくさんある。』
そう言った輝夜に対して、私が今一番知りたいのは、あなたの脳味噌に一本でも皺があるのかどうかよと、そう思った。