/001
「これは……『めんこ』か。用途は……ふむ、『子供の遊び道具』」
「…………」
ーーー無縁塚。恐らくは、僕の能力を幻想郷の中で一番活用できる場所。
僕はそこで、今では恒例となった散策を行っていた。
「ゴミだと思ってずっと放置していた物が、実は歴とした玩具だったとは……僕もまだまだだな」
「…………」
「確か、初めて見たのは『ビー玉』が幻想入りしたのと同じ時期だった気がするが……しかし、この厚紙で何をするというんだ?」
「…………」
よくよく見てみれば、『めんこ』には野球の打者の絵が描かれていた。
土にまみれ、風にさらされ続けたことにより相当に薄汚れてはいたが、少なくとも子供の落書きとは思えない。
「……しかし、子供の遊び道具だというのなら、職人に一から描かせては大量生産できないな」
「…………」
ということはやはり、この絵は印刷されたもので間違いないだろう。
辺りを見回すと他にも何枚か落ちているのが分かる。拾い上げて絵柄を確かめると、実に多種であった。
男だったり、女だったり、武者であったり、力士であったり。
「……ふむ。もしや、これは子供用の絵画、というわけか?」
「…………」
ある程度『文化』という概念が発達してから印刷技術が確立するまでの間、絵画というのはそれはもう高価なものであった。
何しろ、職人が自らの手で零から線を足していって、一つの形に作り上げるのだ。
時間はかかる、道具はかさむ、そして何より、似た物は作れても同じものは作れない。
唯一無二の物を扱うのだ、自然とやり取りされる額は跳ね上がっていき、そこいらの子供が簡単に手を出せるとは到底考えられない。
「……しかし、印刷技術が確立していまえば、同じものを大量生産できる。そこで、子供向けの小さな贋作を作ったというわけか」
「…………」
となると、この絵は子供に欲しいと思わせる働きがあるということになる。
「つまり、子供たちにとってのヒーロー、というわけか」
「…………」
『めんこ』の絵を見返してみれば、男は豪奢なタキシードを、女は煌びやかなドレスを身に纏っていた。
力士や野球の打者も、紙の端に彼らの名前と思しき文字が書いてある。きっとその業界では有名な人物なのだろう。
「しかし、ただ飾るだけの玩具、というものあれだな。子供は風情なんてものは理解できないだろうし、すぐに飽きてしまうんじゃないだろうか?」
「…………」
「やはり、他に何か別の遊び方があるのだろうか」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ハァ」
溜息を一つ。
話し相手がいるのにも関わらず独り言、という状況にいい加減嫌気が差し、この場にいるもう一人に向かって僕は言った。
正確には、先ほどからずっと彼女に向かって口を開いていたのだが、一向に返事が来ないためしびれを切らした、と言うべきか。
「なあおい、返事くらいはしてくれたっていいじゃないか。それに、ここへは君が着いてきたいって言ったんだぞ? さっきから僕一人が喋って、何だか馬鹿みたいじゃないか」
彼女ーーー風見幽香に向かって。
「……私、なにも面白くないんだけれど」
「だから、そう言っただろう? なのに付いていくと言って聞かなかったのは君じゃないか」
幸か不幸か、店を出てから少しした所で見覚えのある日傘を見つけてしまった。
僕が気付くくらいだから、当然相手も僕に気付いてしまう。
それから『どこに行くの?』『無縁塚』『じゃあ、私も付いていこうかしら』『退屈だと思うが』『それは私が決めることよ』といったやり取りを経て、今に至るというわけだ。
「だからって、せっかく私が付いて来たんだから私の方に重きを置くのは当然でしょう?」
「当然じゃないよ。君の常識を僕に押し付けないでくれ」
「ふんっ。こんな物」
幽香は僕から『めんこ』を奪い取ると、苛立ちを込めて地面に落ちていた一枚の『めんこ』に向かって投げつけた。
その衝撃で、ペシッ、という小気味良い音と共に、地面に落ちてあった方の『めんこ』が裏返った。
「はい、アンタのお好きな徘徊の時間はおしまい。ほら、もう家に帰るわよ」
「…………ああ、うん」
僕はしばらく、裏返し、裏返された二枚のめんこを眺めていた。
(これは……いや、しかし……でも遊びだと言うのなら……可能性は無くは無い……が、これに何の意味が……?)
僕の能力で分かるのは「名前と用途」だけであり、「使い方」までは分からない。
この場合は「遊び方」が分からない訳だが、今の幽香の行動から僕は何かが閃きそうな気がしていた。
……していたのだが。
「私といる時に考え事をするな! 早く立つ!」
「……うるさいなぁ。少し黙っていてくれないか」
「紳士じゃないわね。レディを前に思考に没頭するなんて、どこまで失礼な奴なの」
「君が一端(いっぱし)のレディだと言うのなら、そうぎゃあぎゃあと喚き立てないでくれ」
思考は見事に中断させられ、僕は結局、彼女の言うとおりに立ち上った。
「分かったよ。……それと、香霖堂は僕の家で会って君の家じゃあないから『帰る』ってのはおかしい」
「なに言ってるのよ。今から行くのは私の家よ」
「……君こそ何を言ってるんだ。まだ昼過ぎだし、僕は帰って店を開けるつもりなんだが」
「あっそ。じゃあ、今日は閉店ね」
さも当然の様にそう言われ、さすがに頬が引きつった。
「いやいや、そう簡単に店は休みにできないよ。定休日以外に臨時で休めば、信用を失ってしまう」
「未練がましいわね。どのみち、あって無いような信用でしょ? 私が止めを刺してあげるわよ」
「何を堂々と開き直ってるんだよ。それじゃあただの敵対発言だ」
「今朝は孔雀サボテンが咲いたのよ。見たいでしょ? 見たいわよね?」
「孔雀サボテン? それは……聞かない名前だな」
言ってから後悔した。これでは幽香に体のいい理由を与えたような物だ。
しかし、孔雀サボテンなんて、植物に関して決して無学という訳ではないこの僕が聞いたことのない名前である。
興味がない……わけがない。
「ね? 興味あるでしょ? 見てみたいでしょ?」
不意打ち気味に、ずい、と幽香に顔を寄せられ、もう逃すまいとばかりに腕を組まれる。
瞬間、恐怖で顔が強張った。
「……その孔雀サボテンとやらを見に行くだけだからな」
渋面を装うことでそれを誤魔化し、組まれた腕を振り解こうとするが、がっちりと絡められたそれはびくともしなかった。
「ええ、分かっているわ」
そう言って、歩きだした彼女の腕に引っ張られるようにして僕も前に進む。
「飛ばなくていいのか? 此処から歩くと結構時間がかかりそうだが」
今の幽香は太陽の畑の近くを住処としており、無縁塚から森を通って行くとなるとかなりの運動量になりそうだ。
「いいのよ。疲れたら飛ぶから」
「僕が良くないんだが……というか、もう逃げないから腕を放してくれ」
「そのまま腕がもげちゃうことになるけど、それでもいい?」
「……好きにしてくれ」
僕が嫌がることを幽香がやめるはずもなく、そもそも力量差からして自由奔放に生きる彼女を止めることなど僕にはできない。
聞こえないように溜息を飲み込んで、僕はもう何十年も思い続けている言葉を、心の中で口にする。
ーーー風見幽香は、僕を殺そうとしている、と。
/002
無縁塚から幽香の家に向かう途中、僕は香霖堂に寄って臨時休業の看板を出してきた。
飛んで行くなら寄り道であるが、歩きならばほとんど道中と変わらない。
看板を出す際に組んでいた腕は解かれ、たぶん飽きたのだろう、店を出発した時に幽香が再び腕を絡めてくることはなかった。
それでも徒歩には飽きが来なかったらしく、疲れたら飛んで行く、と言っていた幽香は結局最後まで僕の隣を歩いていた。
「相も変わらず、ここの向日葵は絶景だな」
「でしょう? ……あら、あなたのことを覚えている花もいるみたいね」
「え? ああ、そういや君、花と会話ができたんだっけ」
「まあね。もっとも、感覚でコミュニケーションしているわけであって、文字としての言葉のやり取りではないけれど」
「つまり、花の気持ちが分かるってことだろ?」
「そうね、そんな感じ」
うふふ、と上品に笑う幽香。
この花畑にいる時の彼女は、普段より幾らかおとなしく、そして柔らかい雰囲気になる。
「私はてっきり『花に記憶力なんてあるのかい?』とか、そんなことを聞かれるものだと思っていたのに」
「いや、まあそれは確かに疑問ではあるけどね。聞くと君が不機嫌になるだろうと思って」
「お察しの通りよ。まあ、もう言っちゃったから意味ないけど」
こっちよ、と後に着いてくるよう促す幽香。
何も言わずにその背中を追えば、予想通り孔雀サボテンのある一角へと案内してくれた。
「これが孔雀サボテンか」
紅い花。内を固めるかのように前へ突き出る花弁と、その奥から外に向かって延びる花弁。
実に綺麗だ。恐らく幻想郷の知性ある誰もがそう思うだろう。
「ええ。……あぁ、何度見ても可愛いわ」
「…………」
「あら、なによその顔は。花を愛でるに相応しくない表情よ」
「ああいや、この花はとても綺麗だし、見に来て良かったと思ってるよ」
「……でも、と続くのでしょう?」
「ああ。君なら分かるかな、なんだかこう、前にもどこかで同じものを見た気がするんだ」
「……それは多分、月下美人じゃない?」
「そうだ、月下美人。いやぁ、すっきりしたよ」
「同じ種類の花なのよ。まあ、こっちは夜じゃないと花が開かないってことはないけどね」
「言われてみれば、確か月下美人もサボテンの一種なんだっけか」
「ええ。正確にはちょっと違うんだけど、植物についての細かい分類は幻想郷では一般化していないから……まあ、気にしなくていいことよ」
僕は以前、一度だけだが、八雲の家で外の世界の植物図鑑を見せてもらったことがある。
その出来栄えは圧巻の一言に尽き、また幻想入りしていない植物もちらほらと見受けられ、なんとかして手に入れられやしないかと奮闘したものだ。
まあ、結局手に入れることはできず見れたのはその一度だけであるが、その時に僕が一番興味を持ったのは、製本技術でもなく、充実した出来栄えでもなく、どこまでも緻密に分類されているというその一点に尽きた。
パッと見れば同じにしか思えないようなものも、植物図鑑に言わせれば違う種類であることもしばしばであった。
よくもまあこれだけの数の物を、これだけの数に分類しようだなんて思うものである。
「いやしかし、これは見事だな。咲き誇る、という言葉を比喩でなく使えるよ」
「でしょ? ふふ、癒されるわ」
そうだな、と言おうとした時、思わず目を瞑ってしまうほどの強い風が吹いた。
もう昼は完全に過ぎたというのに、風がいつもより強い分、暑さはそこまで感じない。
「今日は風が強いわねぇ」
「ああ。でもまあ、気温が高いから、このくらいの方が涼しくていいよ」
「ええ、全く……っと」
また強い風が吹く。
幽香は髪が崩れないように頭を押さえていて、そんな様子を見ていると、如何な大妖と言えど女の子なんだなと思ってしまう。
もちろん、幽香は否定するだろうし、僕も本心から思っている訳ではないけれど。
「此処に来たのもしばらく振りだし、ここいらを一周くらいしてこようかな」
「そう言えばそうねぇ。ここに来るの、一年振りくらいじゃない?」
「……そうか、もう、そんなに経つのか」
「なんだかんだ言って、もうそんなに経っちゃったのねぇ」
幽香がしみじみとそんなことを言うので、僕はなんとなく、ここ一年を振り返ってみた。
(……幻想郷全体としては、随分と騒がしい一年だったんだろうな)
それはやはり、幻想郷の色々な場所が繋がったことによる結果だろう。
紅魔館や永遠亭はもちろん、つい先日など地底世界との交流があったと聞く。
その全ての始まりは、やはりと言うか、スペルカードルールの制定だろう。
スペルカードルールによる弾遊び。幻想郷共通の競技とでも呼ぼうか。
妖怪を代表する賢妖と、人間を代表する博麗が結んだ、神までをも巻き込んだこのルールが、幻想郷を繋いだのだ。
もっとも、自らのスタンスを変えずにいた僕はにとっては、新しい出会いこそあれど例年通りに落ち着いた一年だった。
「……よくよく考えてみれば、変わらない日常に嫌気が差す時もあったけど、実際はそうじゃなかったかもしれない」
僕は日記を付けているから余計にそう感じるのだろう。
恒久化してこその日常。しかし、変わらない毎日だと思っている割には、読み返す日記の中身は波乱万丈なのである。
そして、そういったことにせっかく気付いても、それもまた日々の中で薄れ、消えていく。
そんなことを思っていたら、幽香が急に一歩前を行き、くるりと優雅に振り返った。
「歩きながら考えるから駄目なのよ。一度止まって、ちゃんと後ろを振り返ればいいの。それで、いいのよ」
幽香はそう言って、にこりと微笑んだ。
普段の意地の悪いそれと違い、とても綺麗な笑顔だった。
「騒ぐだけが宴会じゃない。変化だけが貴いものじゃない。それが分かれば、日常の中にあるとても小さい……そうね、変化とも言えないような小さな変化で、幸せを感じることができるのよ」
朝、目が覚めて布団の中で伸びをした。
昼、窓から入ってきた風が頬を撫でた。
夜、遠くの方で梟の鳴き声が聞こえた。
「そうだな。きっと、そうなんだろうな」
万物は表裏一体。変わることが幸せなら、変わらないこともまた幸せだ。
僕たちはしばらくの間、互いに口を開くことなく、黙々と、淡々と、ただ目に入る景色をぼんやりと眺めながら、流れのままに足を動かしていた。
風が吹いた。花が綺麗だ。良い匂いがする。
まるで幻想郷からここら一帯が切り取られて、僕らだけの世界になったような感覚。
そんな中、日傘をくるくる回しながら、幽香は口を開く。
「良い風ね」
「ああ、そうだな」
「花が綺麗だわ」
「ああ、そうだな」
「それに、良い匂い」
「ああ、そうだな」
「今、私たち、幸せね」
「ああ、その通りだ」
ゆっくり歩いていたつもりなのに、気が付けば目の前には幽香の家があった。
「それじゃあ、中に入ってお昼にしましょうか」
「え? いや、僕は……」
もう帰るからと、そう言い終わる前に、幽香はさっさと家の中へ入ってしまった。
「…………」
確かに、今までの会話内容を考えると、ここで余韻を感じる間もなく帰るというのは自分でもどうかと思う。
しかし、しかしだ。
幽香の話はあまりに唐突である。
話題を真面目な方向へと持っていき、僕が帰りづらくなるよう思考を誘導したように思えてならない。
なんとなく後ろを振りかえると、さっきまではあれほど美しいと思っていた多種多様の花たちが、まるで僕の帰り道を塞いでいるようにすら見えてきた。
まあ、これはさすがに気のせいなのだろうけれど。
「……たまには、いいか」
変わる幸せがあり、変わらない幸せがある。
だと言うのなら、これもまた、一つの幸せなのだろう。
しかし、油断は禁物だ。
決して忘れてはならないその言葉を、僕はまた、いつも通りに心の中で呟いた。
ーーー風見幽香は、僕を殺そうとしている、と。
/003
「ちょっと待ってて。つい最近、良い人肉が手に入ったのよ」
お茶を寄越しながらそんなことを言う幽香に、僕は多少顔を険しくさせながら返事をした。
「待つのは君だ。いらないからな。僕は絶対に食べないからな」
僕は絶対に人肉を食べない。
半人半妖の僕は文字通り半分が人間なので、どうにも共食いの感が否めなくて精神が受け付けないのだ。
それは対象が妖怪の肉であっても同じであり、むしろ嫌悪の度合いとしてはこちらの方が強いだろう。
いつだかてゐに、店主はどちらかと言えば人間寄りなのか、という質問をされたことがある。
聞いた当時は面白い着眼点だとも思ったが、よくよく考ええば、どっち寄りかなんて質問は全くの無意味なのだ。
僕は『半人半妖』という種族であり、それ以上でもそれ以下でもない。
後ろに『半人半妖(○○対○○)』なんて比率がつくこともまた、ないのだ。
「……嫌ね、冗談よ。昔のあなたはもっと話の分かる人だったのに……何があなたを変えてしまったのかしら?」
言葉とは裏腹に、幽香は苦々しい笑みを浮かべている。
その顔から察するに、完全に冗談という訳でもなさそうだった。
ばつが悪いのだろう、「冗談、冗談」と必要以上に繰り返しながら台所へと歩いていった。
「君が言うと冗談に聞こえないんだ」
僕はその背中に嫌味をぶつけ、ふと久方ぶりに訪れたこの家の居間が多少の模様替えを施されていることに気が付いた。
幽香の家は、お世辞にも大きいとは言えない。
住人が彼女だけなのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、居間の片隅にベッドが置かれている、つまり寝室がないほどのこぢんまりとした家なのである。
台所も居間とは薄いレースのカーテンで仕切られているだけで、幽香の顔こそ見えないものの、会話をする分には全く問題がない。
「幽香」
声をかけると、カーテンの向こうから返事が聞こえた。
「なに?」
「大したことじゃないんだが、内装が少し変わっていたみたいだったから」
「本当に大したことじゃないわね……まあ、別に意味なんてないわ。気分よ、気分」
「気分、ね……」
予想通りと言えば、予想通りの答えであった。
「……ん? これは……なあ幽香、この時計」
「ああ、アンタがくれたやつよ。有効活用してやってるわ」
「調度良かった。これは持ちかえらせてもらうよ」
「はあ!? 何言ってんの!?」
僕の言葉を聞き、幽香は濡れた手を拭きながら居間に戻ってきた。
さも理不尽であるかのような態度だが、全くのお門違いである。
「盗まれた品を見つけたから持ちかえる、というのは自然な行為だと思うよ」
「誰が盗んだってのよ、あんたがくれるっていうから貰ったんでしょうが」
「どうやら、記憶力に難ありのようだね。君が強引に持って行っただけじゃないか」
「一目見て気に入っちゃったんだもの。それに、本当に嫌だったら止めるでしょう?」
「僕が止める間もなく飛んで帰ったのは君だろう」
「その後も何も言わなかったじゃない」
「言おうとする度に殺気を放ってた奴の言い草じゃないな」
「殺気なんて放ってませんー」
「子供みたいなことをするなよ……」
ぶすっと頬を膨らませる幽香を見て、さすがに無理があるなと思いながら僕はそう言った。
それでもなお幽香は止めようとしないので、つい魔が差して、ひとさし指で彼女の頬をつついてしまった。
「ぶふっ」
「……可愛げがないなぁ」
「う、うるさい」
正直、僕も幽香が避けるだろうと思って手を出したので、目の前の顔を赤くした幽香がとても新鮮に思えた。
「全く……どっちが子供よ、どっちが」
「う……」
さすがに、反論はできなかった。
バツの悪さから目を逸らした僕に満足したのだろう、幽香はにんまりと笑った後、再び台所に戻った。
「……ハァ」
無意識に手が出てしまっただけに、自省の念に駆られる。
もっとも、意識を介して行った行動ではないので、反省した所で改善できるかはわからないけれど。
「そういえばさぁ」
しばらくして、カーテンの向こうから幽香が話しかけてきた。
「なんでなのかは分からないんだけど、長く生きてると、食べ物の好みってサイクルしない?」
「ああ……それはなんとなく分かる」
最も簡単な例を挙げるなら、肉と魚と野菜が分かりやすいだろう。
長いこと生きていると、肉から魚、魚から野菜、野菜からまた肉へ、とそんな風に好みが変化していくのだ。
もっと細かいと塩と醤油だったり、またお茶の種類だったりもする。
「もっとも、変わりはするが、サイクルかどうかまでは分からないな」
「……まあ、そうかもね。変わるって言っても、元の選択肢が少ないんじゃ確率の問題か」
「いや、しかし言われてみれば、なんだかサイクルしているような気になってきたぞ」
「どっちよ」
トントンという、まな板を包丁で叩く音がする。
意外と、と言うと失礼かもしれないが、幽香には家庭的な一面もあり、料理の腕はなかなかに高い。
「サイクル……循環、か。なあ幽香、ちょっと思ったんだが……」
「蘊蓄はいらないわ」
「……そう言うなよ。君から振った話だろう?」
「ならこの話題は終了よ」
「そうかい……」
「もっと他に話すことががあるでしょう? 例えば、ほら、今のこの状況」
「状況? ええと、君が料理をしていて、僕がその完成を待っている」
「そうそう。なら、今の状況に、何かぴったり当てはまる言葉があるんじゃない?」
「…………?」
いまいち幽香が僕に言わせんとしていることが分からない。
しばらく考えたが結局分からなかったので、少し単純に考えてみた。
すると答えはあっさりと出て、働いている幽香と、働かないでくつろいでいる僕。
つまりは、お前も手伝えと暗に幽香は促していたのだ。
「……ああ、なるほど。それは気が利かなかったな」
「わかった?」
「客の立場としては黙って持て成されるのが礼儀だと思って何もしなかったんだが、何か手伝えと、そういうことか」
「……違う……けど、まあ、いっか」
及第点だったらしい。
よっこらせと腰を上げ、僕は台所に顔を出した。
「なんだ、もうほとんどできてるじゃないか」
「まあ、下ごしらえはできてたからね」
「幽香……さては君、最初から僕を連れてくる気だったな」
見れば、前菜は盛り付けまで完成しており、後はスープが温まるのを待つだけのようだった。
蓋がしてあるので匂いが遮断されていたのだが、味見をしようとしたのだろう、幽香がスプーン片手に蓋を開けた。
これ幸いと、くんくんと鼻を利かせてみると、南瓜(かぼちゃ)と思わしき匂いを捉えた。
実に芳しい匂いである。幽香の料理の腕もあるのだろうが、単純に幽香の菜園で作られた素材の方が一級品ということもあるだろう。
自分で作る淡白な料理とは比べるまでもなく、このスープに在り付けるというのは素直に喜ばしいことであった。
「うん。良い匂いだ」
「ちょ、ちょっと」
「ん?」
「あ、あんたねぇ……」
目の前の幽香が気まずそうに狼狽の色を見せている。
幽香が、あの風見幽香が狼狽するなんて、尋常な出来事ではない。
なんだと思い、ふと現状を把握しようとして、自分が随分と幽香に接近していることに気がついた。
幽香の家は小さく、となればキッチンもそれなりに狭い。
僕がスープの匂いを嗅ごうとすれば、前にいる幽香に、半ば覆いかぶさるような形となってしまうのだ。
「すまんすまん、匂いが気になって」
「べっ……別に、毎日清潔にしているから問題はないけれど」
「え? あ、ああ。そうだね……?」
確かに、汚れがちな台所にしては綺麗な方であろう。
僕が気になったのはそういうことではなくスープのことなのだが、まあ一々指摘することもないだろう。
美味しそうなスープだ、と評して、僕は二人分の前菜を居間に運ぶことにした。
「そうでしょう? ……って、あ、に、匂いって、スープ? スープのこと? ……あ、あはは、そっか、うんうん、美味しそうで、うん、美味しそうな匂いね」
「ど、どうした?」
幽香が急に慌てだした。
理由を聞いても「なんでもない、なんでもない。スープ、スープ」と繰り返すだけだ。
そうこうしているうちに、少し深めの皿に注がれたそれが運ばれてきた。
出来映えに納得がいかない点でもあったのか、スープを運んできた幽香は少し不機嫌な顔をしていた。
/004
幽香の料理はとても美味かった。
かぼちゃのスープは名前ほどかぼちゃが主張しておらず、もっとドロドロとしたものを想像していただけに、良い意味で予想がはずれた。
一応作り方を聞いてはみたが、単純に水との比率の問題というわけでもないらしく、自炊に関しては生きるためとある程度割り切って考えているような僕に出せる味ではないだろう。
「しかし、なんだって香霖堂の方まで散歩なんてしてたんだ?」
昼食を終えた僕たちは、幽香のベッドに腰掛けながら話をしている。
僕の隣には幽香が座っていて、決して大きなベッドではないため、時たまぶつかる肩がもどかしい。
「目的とか理由があったってわけじゃないわ。ただなんとなく歩いてたらいつの間にかあの辺りまで来てて、そしたらアンタとばったり出会ったってわけ」
「ふうん」
「……なによ」
「いや、随分と長い散歩だったなと思ってさ」
幽香の気持ちも分からなくはない。
僕も散歩は好きだし、幻想郷の豊かな自然はしばしば時間を忘れさせる。
「ふん、別にアンタに会いたくて店の方まで行ったとか、そんなんじゃないんだから」
「……………………」
「ちょ、ちょっと待って。今の言い方だと、まるで私が本心ではそう思ってるんだけど素直になれなくてつい憎まれ口を叩いた、みたいな感じにとれなくもないけど、本当に違うから」
「あ、ああ。もちろん分かっているさ」
理解力が試される難しい会話だった。
「……まあ、いいわ。本当に違うから、気にしないでちょうだい」
「分かってるよ。君に会うのは久しぶりだったから、そんな偶然にも感謝だ」
美味しい御飯にもありつけたしね、と付け足し、気にしてないというメッセージを込めてにっこりと笑って見せた。
しかしなぜだろう、幽香は急に顔を背け、げしげしと僕を足蹴にしながら悪態を吐いてくる。
「う……何よ、アンタが中々顔を見せないから私のほうから行ってやったんじゃない」
幽香は事の真相を自分で語ってしまっていた。
聞かなかったことにして話を続ける。
「そうは言ってもだな、基本的に僕は毎日店を開けているんだ。何か用事でもないと遠出なんてできないんだよ」
「言い訳ですらないわね」
「正当な理由だから胸を張って言うのさ。真面目に仕事をして怒られる謂れはないだろう?」
「それはどうかしらね。仕事にかまけて家族や知己を蔑ろにする奴だって地獄に落ちるのよ?」
「そうは言っても、両立は難しいさ。それこそ、人里のように知り合いがみんな近所に住んでいたりしない限りはね」
里では人格者で通っているあの霧雨の親父さんですら、実の娘の魔理沙とは絶縁状態である。
まあもっとも、これに関しては魔理沙に問題があったとしか言えない。
少なくとも、里で生まれた人間がいくら魔法を使えるからって、好き好んで森に住みたいだとか妖怪と戦ってみたいだなんて思うことはないだろう。
「それに僕は、家族ならまだしも知己にはそこまで気を使う必要はないんじゃないと思ってる」
「ちょっとぉ、それは問題発言じゃない?」
「いやいや、今君が思っているようなことじゃなくてね。知己だからこそ、そういう気遣いが必要なのはおかしいんじゃないかって話さ」
言うまでもないが、この場合の知己とは知人や知り合いではなく親友といった類の意味である。
「これは僕の自論だからね。押しつけるつもりはないよ」
「……ま、一里あるかもね。そういうのも“込み”で、親しい間柄だっていうんなら。でもそれ、ちょっと卑怯くさいわ」
「まあ、ね。逃げ腰の意見であることは認めるよ」
相手が反論するということは、僕の自論に真っ向から対立するということだ。
その時点で「そうか、僕たちは反りが合わないらしい」と切り返せば、相手は何も言えなくなる。
こういう事態になることなどほとんどないが、後味が悪くなっても関係を断ち切りたい時には有効な手である。
「逃げ腰どころか、逃げの一手じゃない。商売人としてどうなのよ」
「商売とはまた別の話さ。これはあくまで僕自身の話だから」
商売に私事を持ちこむ奴は大成しない。
霧雨の親父さんの言である。
「……そういえば、アンタはそういう奴だったわよね」
「なんだい、いきなり」
「別に。ちょっと昔を思い出したのよ」
「昔……昔といえば、君と初めて会った場所も無縁塚だったな」
「あら、そうだったかしら?」
「僕を殺しかけた場所くらい覚えておいたらどうだい」
「そ、それはもういいじゃない。ちゃんと助かったんだから」
「勘違いで殺されてはたまらないよ」
「対価は払ったでしょ。……いえ、払い続けていると言うべきね」
「それについてはなんとも言えないな。こんなに付き合いが続くとは思ってなかったし」
ーーー風見幽香は、僕を殺そうとしている。
僕がこう思うのにはそれなりの理由があってのことであり、決して彼女が気まぐれで他者の命を摘んでしまうような妖怪だと言っている訳ではない。
むしろ、そういう意味では、幽香はそこらの妖怪より安全だと思えるような部分もあるのほどだ。
強力であるが故に弱者には一切の興味がなく、もし人里の者が幽香と相対しようとも、その逆鱗に触れない限りは高い確率で生還が望める。
人間が道端を這っている蟻を見て、気にも留めないのと同じことである。
「私もよ。まさか無名の半妖に『風見幽香』を縛られることになるなんて思ってもなかったわ」
「大袈裟だな、正式な契約をしたわけでもあるまいに」
これは四十年ほど前の話。
とある夜、散歩が興に乗った僕は足の赴くままに歩き続け、当時は縁遠かった無縁塚に辿り着いたところで、運の悪いことに幽香と八雲紫が弾幕ごっこをしている場に立ち会ってしまった。
もっとも、当時は未だスペルカードルールが制定されていない時代だったので、弾幕ごっこというよりはただの喧嘩と言った方が正しい。
なんとか見つからないようにその場からの離脱を試みたのだが、結局は紫に見つかってしまった。
そして紫は死闘による酔いのままに、なんと御自慢のスキマで僕を幽香の目の前に放り出した。
僕はいきなり幽香の前に放り出されたかと思うと、一瞥すらされず、彼女の腕で腹を突かれた。
それはまあ見事に貫通し、紫は僕の背中から幽香の腕が生えているのをはっきりと見たそうだ。
この展開にまず紫が正気を取り戻し、次いで幽香が異変に気付いた。
はっきりいって、僕からすれば完全なとばっちりである。
長く生きていればそりゃあ怪我をすることだってあるが、腹に穴が開くのはさすがにそれが初めてだった。
理不尽な仕打ちに憤慨することもできず、痛みから勝手に溢れだす涙を拭うこともできず、ただただ呆然と、目の前にいる幽香を見ることしかできなかった。
そこで僕の記憶は一旦途切れ、一週間後、マヨヒガにある紫の家で目を覚ますことになる。
「幽々子にまで出張ってもらって……おかげで僕は一生彼女に逆らえそうにない」
幽香が僕を殺しかけたというのは決して誇張表現などではなく、正しく彼女は僕を殺しかけている。
なんといっても、あの賢者と呼ばれる八雲紫が焦ってわざわざ冥界から西行寺幽々子を呼び寄せるほどの事態だったのだ。
当時はまだ永夜異変は起こっていないため、当然永遠亭は竹林に隠れていてその存在は知られていなかった。
八雲紫と西行寺幽々子。
この二人の能力を以って、ようやく僕は死の淵から引きずり上げられたというわけだ。
ちなみに、幽香は単純に強さという意味では幻想郷でも五指に入るかというほどのものだが、僕への治療行為に関しては能力も知識も技術も役に立つものは何一つ持っていなかった。
「幽々子、ねぇ。私はあまり話したことないわ」
「君は交友範囲が狭いからなぁ」
「あの頃は結構荒れてたから余裕がなかったけど、最近はそうでもないわよ」
再び、当時を思い出す。
まずは八雲紫。
この頃の僕たちの関係は、お互い名前は知っているが交流はほとんどない、といったものだった。
理由としては、僕が不定期に住居を移していたからだろう。
紫は僕の能力に興味を持ち、僕は『賢者』とコネクションを持ちたかったため、ほとんどは向こうの都合だったが、年に一回程度の割合で会っていた。
そんな顔見知りである彼女を問い詰めたら「魔が差したとしか言いようがない」とのことで、僕としても賢者と名高い八雲紫に貸しを作ったと思えば許せる……なんてことがある訳もない。
命を奪われかけたのだ。それ相応の対価は必要だった。
力量差を考えれば突っぱねられてもおかしくない。しかし、八雲紫の通り名は『賢者』であり、それは決して眉唾ではない。
後に阿求が東方求聞史紀に『ある程度賢くなると、泥棒行為を恥じるようになるものである』という言葉を載せているが、その典型であった。
紫は本心から反省しているようで、できることならなんでもする、とまで言ってきた。
僕はといえば、ここまで平身低頭している紫を見るのは初めてのことであり、この時点である種の達成感を感じていた。
とはいえ、貸しは貸し。
ある条件を出し、紫は少し迷ったが、「貴方なら」とそれを飲んだ。
問題は、もう一匹の方だった。
「そうかい? まあ、最近は幻想郷も変わってきているからね。昔はもっと縄張りというか、各勢力における領域の線引きがしっかりしてたけど、最近はそういうのも無くなってきつつあるみたいだ」
「……私を縛る言の葉も、一緒に無くなってくれればいいのだけれど」
「縛るって言っても、口約束の域を出ないだろう?」
「それにしたって……クク、何度思い出しても笑えるわ……」
紫と話した後、幽香と話をすることになった。
初対面の風見幽香は、実に不機嫌であった。
僕としては自分の腹に穴を空けた張本人な訳であるが、しかし落ち着いて考えてみると、幽香だってある意味では被害者である。
今回の事故は紫の失敗が引き起こした結果であり、幽香は降りかかる火の粉(という名の僕)を払おうとしただけだ。
紫に翻弄されている、という共通項を僕と幽香の間に見つけてしまい、あろうことか、自分を直接害したはずの幽香に対し、僕は親近感すら湧いていたのだ。
幽香本人もそういう見解だったのだと思う。
だからこそ、自分が不当に悪者のような扱いを受けることに対し、理不尽さを感じての機嫌の悪さだったのだろう。
よって幽香には「気にしなくていい」と言ったのだが、それでは彼女の気が済まなかった。
最初は「あんたがそう言うのなら」と言って納得していたが、僕の次の一言でその発言は撤回された。
僕が放った「まあ、今回は君も被害者みたいなもので、悪いのは全部紫だから」という言葉が気に食わなかったらしい。
先ほどまでとは一転して「戦いの最中だったとはいえ、あなたに気付けなかったのは私の落ち度」と言い張るのだ。
多分、僕の「お互い被害者みたいなもんだ」という発言から、自分が紫より下に見られていると思ったのだろう。
紫には遊ぶ余裕があり、お前にはなかったのだから仕方ない、と。
もちろん、実際は違う。
大妖怪である紫に比べれば新参の感はやや否めないが、風見幽香の強さはかなり有名なものであり、当然ながら僕も知っていた。
むしろ、今回の件で『紫と並ぶほどの強さ』と評価を改めたほどである。
それを懇切丁寧に説明したのだが「ならば紫と同様に罰するべき」と返されてしまった。
そこまで言うなら、ということでしばらく思考に没頭していた僕であったが、痺れを切らした幽香が急かすように迫ってきた。
目の前にクローズアップされた幽香の顔を見て、はて、最近似たようなことがあったな……と、僕がそんなことを思った瞬間。
訳もわからないままに腹に風穴を空けられた場面がフラッシュバック。僕はとっさに思い浮かんだ言葉を口走っていた。
「『今後二度と僕に暴力を振るわないこと』……って、どんだけ私が怖かったのよ」
フラッシュバックという現象を馬鹿にしてはいけない。
対象となる恐怖を一気に思い出すのだ。むしろパニックにならなかった自分を褒めたいくらいである。
また、幽香は自身を『縛る』と言い、それに対し僕は『それほどの効力はない』と言っているが、これはどちらも正しく、またどちらも間違っている。
血判状を認(したた)めた訳でもあるまいし、例えば今この場で幽香が僕を本気で殴ろうとしたのなら、それを妨げるものは一切ない。
しかしながら、この口約束は八雲紫の前で正式に行われたものなのだ。
僕の出した条件を幽香が承諾した、という経緯を八雲紫が見届けている。
これはつまり『八雲紫』がその証人となることと同義なのである。
こういった事情の全てを考慮すれば、事実上、幽香が僕に手を出すことは不可能だと言えるだろう。
ある一点の落とし穴を除けば、の話ではあるが。
「君な、そりゃ怖いに決まっているだろう? 喧嘩してる時の自分の顔を見たことがあるのか?」
当然ではあるが、死闘の最中に朗らかな笑みなど浮かべている訳もない。
泣く子も黙るとはまさにこのことだ、と当時は思ったものである。
幽香は足を組み直し、艶めかしく“しな”を作って、僕に言う。
「いいじゃない。その変わり、あなたはこの幽香様を好きにできるんだから」
出た。これだ、これである。
風見幽香が、僕を殺そうとしている。その謀略の一つ。
古今東西、歴史を紐解けば必ずと言っていいほどにその存在を発見できるーーー『色仕掛け』である。
「だからね、もう何年……いや、何十年か、そのくらい言い続けているけど、今僕が健康に生きることができている以上、そっちが気にすることはないってば」
「……チッ」
目の前で舌打ちされた。
この女は本当に、理不尽が服を着て歩いてるようなもんだ。
「あんたさあ、本当に、ワケわかんないんだけど」
「いや……多分、訳がわからないのは僕の方だと思うんだが……」
「私が好きにしていいって言ってんのよ? 何が不満なの?」
「不満がないから、何もしなくていいと言っているんだ」
それに、と。
不機嫌なのを隠そうともしない彼女に、僕はそう続けた。
「要求ならもうしただろう。それさえ守ってくれれば、後は何もいらないよ」
そう。何もいらない。何もしてくれる必要などないというのに、幽香はなにかと僕に対する従順さを示そうとする。
当時の僕はこの女のやっかいさを分かっていなかったのだ。
「だーかーらー」
ぐっと、幽香はいきなり、お互いの吐息が直に感じられる程の距離まで詰めてきた。
「……ねぇ、なんか他にあるでしょ? こんな機会でもなければ、できないようなコトが」
正直に言って、幽香の態度は僕を誘っているようにしか思えない。
また、もし本当にこれが誘惑だとしても、あまりにも風情や情緒に欠けているため、はっきり言って稚拙だとしか言いようがない。
「……前から思っていたんだが、君は欲求不満なのかい?」
普段の彼女を知っているだけにいまいち確信が持てなかったのだが、思い切って聞いてみた。
「……………………」
唐突に、幽香が能面のような無表情になって僕を威圧する。
だが、決して短くない付き合いの僕には分かる。
彼女がこの表情をする時は、本当に怒りが頂点に達した時か、内心の動揺を悟らせまいとする一種の防衛手段として使用する時なのだということを。
無表情ではあるが頬は赤く染まっている、という状況において、今回は後者であることに間違いはなかった。
「……欲求不満ですって? ……ええ、そうね。私はあんたの欲求に不満だらけよ!」
「君に僕の欲求を不満に思われるようなことはないと思うんだけどなあ」
「ハァ!? おお! あり! よっ!!」
風見幽香。
その凶悪な力と性格の中に、意外と可愛いモノを持っている女性だった。
「……じゃあ聞くが、なんで僕の欲求を君が気にするんだい?」
「うっ……そ、それは、あ、アレよ、アレ」
「なんだい、アレって」
僕には分からないな、と詰まる幽香に更なる追い打ちをかける。
「だ、だから……ね? 分かるでしょ? 雰囲気で察しなさいよ」
「雰囲気、ね……」
窓越しに夕日が上っていることを確認し、僕は「さて」と呟きながら立ち上がる。
「ひぅっ……」
幽香は僕の動作になぜか小さい悲鳴をあげ、恐る恐るといった様子で片目を開いてこちらを確認してきた。
「……? じゃあ、雰囲気を察して僕はそろそろおいとまするよ」
「え? え? あ、そ、そうなの……」
「もうそろそろ帰らないと店に帰る前に日が沈んでしまうからね」
僕に言われて幽香が窓を見る。
「あ……もう、こんな時間……かぁ」
「昔話に花が咲き……ってやつさ」
「お後が宜しいようで、って言わせたいの? 別に上手くもなんともないわよ」
「……うん、僕も言ってからそう思った」
「馬鹿ね、ホント」
「ひどいな」
「馬鹿よ、本当に」
「……幽香?」
「ほら、帰るんでしょ? さっさと行っちゃいなさいよ」
幽香はぐいぐいと僕の背中を押しながらそう言った。
無理やり昼食に付き合わせたと思えば、帰り際にはこの仕打ちである。
「わかったよ。そう急かさなくても帰るさ」
家の外まで押しやられたところで、やっと解放された。
「……今度」
「ん?」
「今度会った時には、アンタが欲しがってた野菜の種を分けてあげるわ」
「本当か? そいつは次に会うのが楽しみだよ」
幽香の育てる野菜はとても美味しい。
明らかに僕の家庭菜園の物より美味しいので、前々から興味を持っていたのだ。
同じ種ということは、丹精込めて育てれば、僕でも同じ物が作れるだろう。
「じゃあ、次は……」
「うん?」
「……い……い、いいえ、なんでもないわ。じゃあ、また、次の機会に」
「ああ。それじゃあ」
軽く手を上げ、幽香の家を後にする。
少しして振り向いてみたが、家の中に戻ったのだろう、幽香の姿はもうなかった。
/005
その日の夜。
無縁塚で拾ってきた『めんこ』の一枚を床に置き、それに向かって手に持っているもう一枚を思い切り叩きつける。
ぺしん、という音がした後、床に置いてあった方がくるりと裏返った。
(これは決まりかな)
無縁塚で幽香がやって見せた動作を再現したところ、単純ながらなかなかにゲームとしての質が高いことが判明した。
小一時間ほどやり続けているが、成功率は十回やってせいぜい三回といったところである。
(……まあ、よくよく考えれば子供の“遊び”道具だしな。飾って終わりでは遊びにはならないか)
こればっかりは幽香に感謝しなければならない。
あそこで幽香が『めんこ』を地面に叩きつけていなければ気付くことはなかっただろう。
(幽香か……ふふ、君の策は読めている)
幽香に出した『今後二度と僕に暴力を振るわないこと』という条件には、一つの落とし穴がある。
そもそも『暴力』とは何なのか、まずここから考える。
一般に暴力といえば、殴る蹴るなどの物理的なものが浮かぶだろう。
しかし、本来暴力とは『理不尽な行為』そのものを指すのだ。
殴って言うことを聞かせるのが暴力なら、権力に物を言わせてするそれもまた、暴力と言えるのである。
(この時点で、幽香からの直接的な暴力、また脅しなどの間接的な暴力も封じたわけだが……)
ここで、落とし穴が出てくる。
例えば、ある強力な妖怪が人間を襲ったとしよう。
人間は我が身を守ろうと必死に抵抗し、その結果として妖怪に手傷を負わせてなんとかこれを撃退した。
それを見た第三者ははたして「あの人間が妖怪に暴力を振るった」と言うだろうか、とまあ、そういった話である。
今の例の人間に実質僕に対しては手を出すことができない幽香を、そして妖怪に僕を当てはめて考えてみれば、幽香が僕に対して力を振るうことに何も制限がない状況が出来上がることが分かる。
しかし、僕とて馬鹿ではない。
こっちから手を出さなければ無害であることは約束されているのだ。
確かに幽香は美人だし、スタイルも良い。
それでも、命を懸けてまでして手に入れたいかと言えば、答えは否。二の足を踏むのは仕方がないことだろう。
(あ、そういえば時計を回収し忘れたな)
また近いうちにあの家に行く用事ができてしまった。
別に値打ち物だとか、逸話があるということはない。なんの変哲もないただのゼンマイ時計だ。
少し前に結構な量を入手しているので、一つくらい無くなったところで困るようなこともない。
わざわざ取りに行くこともないだろうし、次の機会にでも回収させてもらうとしよう。
(しかし……相変わらず使い辛い能力だなぁ……)
使い方がわからないからこそ、それを考えることができるという面白さもある。
しかし、この能力の一番厄介なところは、いわゆる“答え合わせ”ができない、という点にある。
僕が『この道具はこういう使い方だ』と思い、実際にその道具がそういう働きをしたとしても、それがその道具にとって最高の使い方であるとは言い切れない。
その実、本来の働きに付随するところであったとしても、それを知る術はない。
(……悩んだところで、何も変わりはしないか)
眼鏡を外し、目頭を軽くマッサージする。
窓の外に綺麗な弦月が見え、なんとなくそれにつられて、そのまま外に出た。
肌寒さを誤魔化すために背伸びをしていたら、チキチキと何かの鳴く声が聞こえた。
森の奥を見ようとして、自然と目を細めている自分に気付く。
一抹の喪失感と共に苦笑した。
(…………昔は、ずっとこうだったな)
目に手をやり、裸眼だった頃を思い出す。
眼鏡が必要になったのは、幽香に腹を突かれ、生死の境を彷徨った少し後からだった。
八雲が言うには、死にかけた際に血を失くしすぎたためらしい。
当時の僕にはまだそこまでの医学知識はなかったので、裏付けが取れたのは永遠亭の存在が明らかになってからだった。
その時永琳に言われた言葉は、恐らく一生忘れないだろう。
『もし、の話だけどね』
『ん?』
『もしも、あなたが完全な妖怪だったなら、こういう障害は発生しなかったわ』
『完全な?』
『あなたは恐らく、寿命に関しては妖怪並。それもかなりのレベルでね。でもそれ以外の部分に関しては……』
『ただの人間?』
『優秀な人間、よ。ま、今の段階ではただの憶測。全部調べていいって言うなら、もっと詳しく分かるでしょうけど』
『それは……遠慮しておこう』
『残念。知りたくなったらいつでも言ってちょうだいな』
『ああ、ありがとう』
それは僕が、自分をあやふやにしてきた罰でもあったのだろう。
ただの妖怪か、あるいはただの人間なら、それで許されたはずだった。
しかし、半妖には許されない罪だった。それだけの話。
(そろそろ……探さなくてはいけないのだろうか……?)
自分を確立するために、自分という存在のルーツを、僕は知りたい。
とても怖くて、恐ろしい。物理的なものでないソレは、底なしの恐怖であった。
一秒後にも世界が続いているとは限らない。
世界と自分との関係など、分かりようがない。
(夢か……現か……)
胡蝶の夢。
なまじ知識があるというのも困りものである。
(或いは……幻、かな?)
眼鏡をかけて、空を見上げる。
(半身の欠けた月……はは、僕とお揃いだな)
天高く浮かんだ半分の月が、幻想郷の一日の終わりを告げていた。
~006~
「じゃあ、次は……」
いつ、会える?
「うん?」
あと一言。
その一言が。
「……い……い、いいえ、なんでもないわ。じゃあ、また、次の機会に」
どうしても、出てこないのだ。
「ああ。それじゃあ」
右手を上げながらそう言って、彼は行ってしまった。
今回もまた、次の約束をすることなく、彼は行ってしまった。
いや、違う。
彼は行ってしまうんじゃない、帰ってしまうのだ。
自分の家に。自分の居場所に。
「ああ、もう」
遠くなっていく彼の背中。あまりの切なさに、目を伏せる。
こんな自分を見たら、優しい彼はきっと戻ってきてしまうから、音を立てずに家に入る。
せめて見えなくなるまで彼を見送りたいと思っていたが、それも叶わない。
「ねえ、気付いてる?」
ドアにもたれかかり、そのままへたり込んだ。
誰もいない部屋で、独り言ちる。
聞こえないと分かっていて、彼に問いかける。
「いつだって、会いに行くのは私なのよ?」
いつだって、いつだって、いつだって。
会いに行くのは自分で、彼から来てくれたことなんて一度もなくて。
「やっぱり、嫌われちゃってるの……?」
思い切って誘惑してみても、のらりくらりとかわされる。
そりゃあ、今までそういうことをする相手がいなかったのだから、当然ながら初めてのことばかりだ。
経験豊富な彼のことだから、きっとそんな私の誘惑など眼中にないのだろう。
「けど……それ以上に……」
大きな問題がある。
彼にしてみれば自分を殺しかけた相手だ。
嫌っていたってなんら不思議なことはない。
あの件について、紫を恨む気持ちは全くなかった。
“そういう戦い”だったのだ。
今のようにスペルカードルールなんてお上品なものはなく、ただ純粋に『殺し合う』ことが戦いだった。
決着がついてから止(とど)めを差すようなことこそしないけれど、戦いの最中はお互い本気で相手を殺しにいっていた。
むしろ、紫には感謝すらしていた。
大妖怪、八雲紫との戦いで気分は最高潮。もしあの場で彼を見つけたのが私だったら、間違いなく殺していただろう。
だからこそ、厄介なのだ。
「ホント……なんであんなことしちゃったんだろ……私……」
誰も恨めない。
ただ自分が不甲斐ない。
仕方ないと言えば、これは本当に仕方のないことである。
まさか自分の中でこれほど大きな存在になるなんて、誰が予想できただろうか。
強くもなく、能力も中途半端。
容姿は、そりゃあ、整っているって言えば整っている。背も高いし、まあ、格好良い方だろう。
性格なんて、本人は分かっていないんだろうけど、結構自分勝手だ。
なんだかんだ言って自分のやりたいことは我慢しないし、搦(から)め手を使ってくることすらある。
「あ……」
でも、根本的なところで、彼は優しい。
だって、ほら。私が持ってきた時計。
商売人である彼が回収し忘れるなんて、そんな訳はない。
きっと彼自身も気付かないような、そんな小さな思いやり。
「ふ、ふふ……」
もう、病気だと思う。
彼のことを考えると、笑いが込み上げてきて、止まらない。
あいつなんて、全体的にダメな奴であるにも関わらず、この有り様だ。
これは、うん。きっと病気。病気だから、しょうがないのだ。
「ふふふっ…………ハァ……」
少し笑っては溜息を吐く。この繰り返し。
考えれば考えるほど、詰んでいるとしか思えない。
なんであんな出会いなのだろう。
もっと他に、そう、例えば、ここの花畑を彼が偶然訪れて、ちょうどその時私は花に水をやっているところで……とか、そういうのでも良かったはずなのに。
現実はあんな血生臭い出会いなんて、ひどすぎる。
「でも、料理は気に入ってくれた」
まるで新婚さんみたいだった。
私が作る料理を待つ夫もいいけど、新妻の料理を手伝う夫、っていうのもアリね。
「ふふ、ふふふ…………ハァ……お風呂入って寝よ……」
笑いと溜息のサイクルは止まらない。
いつしか空は暗くなり、窓から半月が上っているのが見えた。
「弦月……まるで、あいつみたいね」
いつの日か、溜息の回数が少しでも減りますようにと祈りながら。
「……うん。次こそ、ちゃんと会う約束をしよう」
天高く浮かんだ半分の月が、幻想郷の一日の終わりを告げていた。