(何だ……あれ……?)
ルシアはただ放心しながらその光景に目を奪われる。そこには一匹の『鬼』がいた。かつての戦王であるウタの面影はない。あるのは鼓膜が破けてしまうほどの咆哮を上げている鬼の姿。それが何であるかをルシアは知っていた。
『戦鬼化』
ウタの切り札であると同時に第二形態。自らを永遠に戦い続ける鬼とすることで全ての敵を破壊し尽くすためのもの。原作では神竜一声を使い天下無双の力を手にしたレットですら手も足も出ないほど力があるまさに最後の切り札。
だがそれを前にしながらもルシアはどこか他人事のようにその光景を眺め続ける。当たり前だ。何故なら先程ようやくルシアは戦王であるウタを倒したばかりなのだから。一度死に、生き返るという信じられないような体験をしながらも手にした勝利。ようやくこの悪夢の魔界探検ツアーが終わりを告げたかに見えた矢先の絶望。それはマザーとて同じ。間違いなくウタ自身はルシアが大魔王であることを認め、儀式は終了した。疑いのようのない結末。故にこれは儀式ではない。
「オオオオオオオオ―――――!!」
ただの純粋な殺し合い。ただ目の前の相手を葬ることだけを目的とした争い。瞬間、凄まじい叫びと共に空気が弾け飛ぶ。まるで戦闘機が音速を突破したかのような衝撃と轟音が空気を裂きながら戦鬼と化したウタは獲物であるルシアへ向かって飛びかかる。
「え……ちょっ、ま―――!?」
『―――っ!? 何をしておる、さっさと構えんか、アキ!?』
ルシアは理解できない展開に思考が追いつかないまま。それでもウタに向かって制止の声を上げようとするよりもそれはマザーの叫びによってかき消される。同時に再びルシアの体をエンドレスの力が包みこみ、知らずその手にあるネオ・デカログスを構える。もはやそれは本能。意識することなく行われた生存本能。だがそれを戦鬼は凌駕する。
「―――――!!」
声にもならない咆哮と共にウタは一瞬でルシアの間合いへと侵入し、一撃を振るう。だがそれに合わせることができずルシアは刹那、後手に回る。それは単純な速度の差。ウタの速さは先程までの比ではない。閃光すら凌駕するほどの域。もはやルシアですら反応することがやっとの出鱈目さ。それでもそれに反応し、剣で応戦するができたのは剣聖の領域に至ったからこそできる絶技。
ウタはそれを目にしながらも全く意に介することなくルシアへと迫る。それは拳ではなかった。獲物を切り裂くように鋭くとがった爪の一振りがルシアの一刀と交差する。同時にウタの纏った戦気とルシアの纏ったエンドレスの力がぶつかり合い、せめぎ合う。まるで先の攻防の焼き回し。ルシアは渾身の力を込めながらウタを止めんとする。今のルシアならそれが為し得る。エンドレスの力と想いの剣。本来なら相反するはずの要素を合わせた一刀。だが
「なっ―――!?」
剣聖の一撃すらも戦鬼は超越する。拮抗したのはほんの一瞬。ルシアはウタの爪の一撃によって遥か彼方へと吹き飛ばされる。まるで先の攻防とは真逆の結果。しかもそのまま振り下ろしウタの爪によって大地が割かれ、地割れが巻き起こる。間違いなく先の戦いで見せた全力の拳を遥かに超える一撃。その証拠にルシアの剣はウタの戦気を切り裂くことができない。
(う、嘘だろっ!? こっちはエンドレスの力を使ってるってのに……ってことは俺の攻撃はもう通用しないってことかよ!?)
何とか受け身を取り、体勢を立て直さんとしながらもルシアの胸中は既に絶望に染まっていた。先程のたった一回の攻防によってルシアは悟ってしまった。今の自分とウタの間にある絶対の壁を。奇しくも最初と同じ自らの攻撃が全く通用しないという悪夢。今のウタが纏っている戦気は既に先の戦いの比ではない。溢れ出る戦気はまるで蒸気そのもの。明らかに常軌を逸している規模の力。限界を超えた力の行使。
『っ! おい、どういうことだ!? もう儀式は終わったんじゃねえのかよ!?』
『わ、我のせいではないぞ! これはウタの奴が勝手に暴走しておるだけだ! い、いい加減にせんかウタ! これ以上は大魔王に対する反逆に……』
マザーが混乱しながらウタに叫びを上げるもその声は全く届くことはない。もはやウタには言葉は意味を為さない。その全ての意識は戦うことのみに向けられている。理性すら既に存在しない。純粋な戦鬼。それを示すかのようにウタは大きく体を沈みこませてから一気に跳躍する。それはさながら獣そのもの。四足歩行の獣のように全ての手足を使いながらウタはルシアへ向かって疾走する。そこにはもはや技術はない。あるのは圧倒的な暴力だけ。
「くっ……!!」
その突進を間一髪のところでルシアは体を捻ることで回避する。本来戦気と同等の力を手にしたルシアには避ける必要など無い。だが今のウタにその常識は通用しない。その証拠に回避したはずにもかかわらずわずかに掠っただけでルシアの体から鮮血が舞う。まるで体を削り取られてしまったかのよう。もし打ち合えば、回避し損なえば肉片一つ残らず消滅してしまうような圧倒的な力。このまま逃げ続けても勝機はない。かといってルシアの攻撃は戦鬼と化したウタには届かない。詰みに近い状況。だが
『……! アキよ、我を使え! 次元崩壊の力ならウタをこの場から消すことができる! どうやらもうバルドルの奴は力を使っておらんようだ!』
『っ! ってことはもうシンクレアが使えるってことか!?』
『そうだ! もはやこれは儀式ではない! 遠慮することはないぞ!』
『最初から遠慮なんかしてないっつーの! ならさっさとやるぞ!』
刹那の間にマザーとのやり取りをすませながら一筋に光明が差したことでルシアは再び自らの持つ剣に力を込める。シンクレアの使用が解禁されるという勝機。自らの体を再生するアナスタシスの能力も使用したいところだが今はジェロの元にあり、とても取りに行けるような状況ではない。もしそんなことをしようとすれば隙が生じ、瞬時にウタに破れ去ってしまう。ならばルシアが頼りにできるのは自らの胸元にあるマザーだけ。ようやく自分の出番だとばかりにマザーから凄まじい力が生まれ、ネオ・デカログスを包み込んでいく。
『時空の剣』
斬ったものを現行世界へと送る存在しないはずの十一番目の剣。次元崩壊というエンドレスに最も近いマザーの極み。かつてハードナー、オウガを倒した時にも見せたルシアにとっての切り札であり、マザーの真骨頂。その一刀を以てルシアはウタをこの場から消滅させんとする。正確には消滅ではなく現行世界に送るだけなのだがこの場からいなくなることには変わらない。使った後にウタをどうするかを思案するももはやルシアにはそれ以外に手段がない。その逃れない力が、光がウタを包み込もうとした瞬間
「ガアアアアアアアアアアアア――――!!」
それはウタの断末魔のような雄たけびによって呆気なく霧散してしまった――――
「…………」
『…………』
まるで時間が止まってしまったかのように固まりながらルシアとマザーはただ互いに見つめ合う。もはや二人の間には言葉すら必要なかった。いや、言葉すら出てこない。特にルシアはそれが顕著だった。むしろルシアにとっては目の前の光景はどこかデジャヴを感じるほど。死んだ魚のような目をし、走馬灯のような記憶のブラッシュバックを体験しながらもようやくルシアはその正体を知る。そう、それは原作で知り得た、あり得た未来の一幕。
初めてのマザーの能力のお披露目、『空間消滅』がハルの雄たけびだけでかき消されてしまうという盛大なギャグと瓜二つの光景だった。
「ふ、ふざけんなあああああああ!? この状況で盛大な一発ギャグかましてんじゃねえぞてめええええええ!?」
『お、お主こそふざけておる場合か!? 我がこの状況でそんなことをするわけがなかろう!? あ、あれはウタの奴が……』
「何が我を使えだ!? 何の役にも立ってねえじゃねえか!? あれか!? お前は俺をおちょくるためだけにそこにいるわけか!?」
『き、聞き捨てならんぞ!? 我はいつでも本気だ! お主こそ本気でやっておるのか!?』
互いに今が戦闘中であることを忘れてしまっているかのように罵り合うも結果は変わらない。むしろそれは現実逃避のようなもの。雄たけびだけでシンクレアの力を、その極みをかき消すという離れ業。シンクレアの力すら通用しない。それが戦鬼であるウタの、四天魔王最強とされる男の真の力。それを見せつけながらウタがルシアへ向かって駆けてくる。目にも映らないような速さ。戦気にも匹敵するエンドレスの力すら突破する攻撃力。ただ単純な地力の差。最初から変わらない事実。ウタとの戦いはどちらが強いか。ただその一点のみ。そして未だルシアは膝を折ってはいない。マザーもまたそれは同じ。その胸中は全く同じ。その証拠に既にルシアは回避ではなく、戦うために剣を構えている。
『……できれば使わしたくなかったが仕方あるまい。分かっておるな、アキよ』
『……ああ。これでダメだったらどうしようもないしな……はあ、これならあのまま死んでた方がマシだったかもな……』
『フン……心配せずともお主が耐えられなければ肉体よりも先に精神が死ぬことになるだけよ。せいぜい男を見せるがよい。もしもの時は気つけに頭痛をくれてやる』
『…………そうかよ。できれば正気を失くさない程度に頼む……』
どこかげんなりとしながらもルシアは一度大きな深呼吸をする。本来ならそんな暇はウタとの戦いではあり得ない。しかし今、ウタは突然動きを止めたままルシアの様子をうかがっている。まるでそれは危険な何かが起ころうとしていることを本能で察知した獣。それは正しい。同時に辺りの空気が痛くなるほどに一気に張り詰めて行く。嵐の前の、津波の前のような静かさが全てを支配する。それは一本の剣から生まれる気配。
第九の剣。十剣中最凶の剣。持つ者の闘争心以外全ての感情を封じ込め、限界以上の力を与える形態。だがその強力さから力の制御が不可能であり、剣は暴走し最終的には使い手の命を奪おうとする魔剣。
だがそれをルシアは短時間であれば制御することができた。ダークブリングマスターとしての能力とデカログス自身の協力によって。しかしそれは過去の話。ネオ・デカログスになってからルシアは未だに第九の剣を使用したことはなかった。他の剣のように周囲の被害を考慮しての物ではない。ただ己の身の危険を案じての物。その証拠にスパルタであるマザーですら修行においてもその使用を禁じていた程。もし使用したとしても自滅してしまう諸刃の剣。だがついにルシアとマザーは決断する。ネオ・デカログスもまた決意する。禁じられた剣の封印を解くことを。その名は
『羅刹の剣サクリファー』
闘いの鬼である羅刹。その名を冠する狂気の剣が解き放たれる。
今ここに戦鬼と羅刹。最初で最後の二匹の鬼の戦いが始まった――――
「うあああがああああああ――――!!」
この世の物とは思えないような咆哮と共にルシアは剣を以てウタへ向かって疾走する。その速度は音速剣を優に超える、戦鬼であるウタに匹敵するほどのもの。生物の限界を超えた身体能力。だがそれを為し得るのがサクリファーの能力。使い手の精神を封じることによって得られる禁忌の力。
だがその力を今、ルシアは寸でのところで制御していた。一瞬でも気を抜けば自分が消え去ってしまうほどの狂気。麻薬にも似た快楽。その全てを受けながらも綱渡りに近い感覚でルシアは必死に自分を保ち続ける。
『一分』
それが今のルシアが導き出したサクリファーを制御できる限界。もしただの羅刹剣であったなら数分は耐えられるも今ルシアが手にしているのは闇の羅刹剣。その浸食速度はかつての比ではない。だが闇の羅刹剣でなければ戦鬼となったウタには対抗できない。故にこの一分の間にウタを倒せなければ全てが終わる。
「オオオオオオオオ――――!!」
本能でそれを感じ取ったのか戦鬼となったウタは現れたもう一人の鬼であるルシアを葬らんと爪によって襲いかかる。それによって獲物を八つ裂きにするために。だがそれはルシアの剣によって防がれる。その速度は先の比ではない。瞬間、この世の終わりのような光景を生み出しながらも純粋な力と力がぶつかり合う。爪と剣。獣と人。その違いを示すかのように光が全てを飲みこんでいく。
(ち、くしょう……!! ま、だ、だ……!! 耐えてくれ……師匠……!!)
薄れ行く意識を必死に繋ぎとめながらルシアは自分を繋ぎとめる。また戦況は五分と五分。拮抗した鍔迫り合いにも似た状況。このぶつかり合いを制した方が勝者となる。ルシアはただ耐え続ける。もはや体も精神も限界を超えている。先の戦いで体は満身創痍。加えてサクリファーの使用によって限界を超えた身体能力を行使された肉体が悲鳴を上げる。それだけでは飽き足らないとばかりに浸食が柄から腕へと襲いかかってくる。既にそれは右腕の肩まで届かんとしている。それ以上侵食されればもはや抗うことができないデッドライン。その境界を超えさすまいとネオ・デカログスもまた死力を尽くす。
『しっかりせんか、アキ!! もう我を一人にすることは許さんぞ!!』
自らの主の身を案じながらもマザーは叫ぶ。もはやこの戦いにマザーが介入する余地はない。できるのはただ主を鼓舞することだけ。だがそれがルシアに最後の自我を留めさせる。何のことはない。いつも通りのやり取り。それこそがルシアではなく、自分が自分である証。アキという存在を示すもの。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ……てめえはそこで黙って見てやがれええええええ――――!!」
咆哮しながらアキは死力を振り絞りながら最後の一刀を以てウタの右腕を切り裂く。何者にも勝るはずもウタの体。戦鬼と化し、戦気によって守られた無敵の肉体を、強さをアキは超越する。羅刹の剣すらもねじ伏せながらアキはついに戦鬼となったウタを退けた――――はずだった。
『っ!? 油断するでない、アキ―――!?』
「なっ―――!?」
間違いなく勝敗を決するに相応しい一撃がウタを切り裂いた。その証拠にその右腕は既に失く、先の戦いで胸には一文字の切傷。戦鬼となった代償によって肉体は死滅してきている。もはや死に体。戦気すら纏っていない姿でウタは最後の力を爪だけに注ぎこみながらルシアへと迫る。
「アアアアアアア―――――!!」
まさに断末魔とともにその爪がルシアに襲いかかる。だがそれにルシアは反応できる。いや、反応してしまう。羅刹剣は未だに解除されていない。そして戦いが終わったと思った瞬間のわずかな、確かな隙。それによってルシアの剣はウタに止めをささんとその首に向かって振り落とされる。
(ダメだ……!! 間に合わねえ……!!)
必死に何とか制止しようとするもルシアは間に合わない。羅刹剣を止める術はもはやルシアにはない。不殺を誓っているルシアにとっては犯すことができない禁忌。何よりももしこのままウタの命を奪ってしまえばその瞬間、剣はその血の味を覚え殺戮を繰り返す。その名の通りルシアは死ぬまで戦い続ける、止まることない羅刹へとなり果てる。マザーの絶叫が辺りの木霊しながらも最悪の結末が訪れんとした瞬間
「――――そこまでよ」
それは絶望の声によって防がれる。透き通るような女性の声とともにこの世の物とは思えない冷気がウタを包み、その動きを封じて行く。それどころかその命すらも凍りつかせるかのような激しさを以てウタは完全に凍結されてしまう。『絶対凍結』という名の逃れることができない絶望によって。
その光景を目にしながらもルシアもまた止められる。だがそれは凍結ではなく、巨大な二本の手によるもの。その屈強な二本の腕が確実にルシアの羅刹の剣を掴む。呆気にとられながらもルシアはその主が獅子の貌を持っていることに気づく。
絶望のジェロと獄炎のメギド。
二人の四天魔王の乱入によってようやく長かった二人の戦いは終わりを告げたのだった――――
『いかかですか、アキ様?』
「ああ、もう大丈夫だ。ありがとな、アナスタシス」
『いえ、これが私の役目ですから。ようやくお役に立つことができました』
ルシアは自らの右腕を回しながらアナスタシスに向かって礼を述べる。今、ルシア達はウタの修行場からメギドの城へと場所を移していた。両者の戦いによって大地は崩壊し、いつ天変地異が起こるか分からない惨状であったため。そして今ルシアはアナスタシスによって戦いによって受けた傷を再生したところ。既にかすり傷一つ残っていない。この能力を好き放題使っていたハードナーによく勝てたものだと思ってしまうほどに見事な再生。特にサクリファーの浸食をうけた右腕は本来なら剣を握ることもできない程の重症なのだが完治してしまっている。再生を司るアナスタシスの面目躍如といったところ。
『ぐっ……貴様、それは我に対する当てつけか!?』
『そんなことは決して。そう聞こえるのはあなた自身に問題があるのでは?』
『ふ、ふん……ちょっとは役に立ったようだから今回は大目に見てやろう。だが忘れるな、我がアキにとって唯一の』
「……どうやら大事ないようね。安心したわ」
マザーは自らの地位が脅かされているかのような危機感を抱き、声を上げようとするもそれは無慈悲なジェロの乱入によって遮られる。
「済まぬな。本当ならもっと早く割って入りたかったのだがあの段階でなければ我らも主らを止めることができなかったのだ」
「あ、ああ……助かったよ……ところでその……」
「……どうかしたのかしら?」
メギドの言葉によってルシアはようやく状況を理解する。メギドとジェロは本当なら二人の儀式外の戦いをもっと早く止めたかったのだが戦鬼となったウタにはいくら四天魔王とはいえ二人では敵わない。加えて羅刹の剣を持ったルシアの間に割って入れば邪魔になってしまうだけ。そのため両者が消耗し、介入できるまで二人は機を伺っていたのだった。だがそれ以上にルシアが気になってしかたないことがあった。それは
「いや……ウタが氷漬けになったままなんだが……あれは放っておいてもいいのか……?」
ルシアから離れたところに放置されているウタに関すること。しかも体が氷漬けにされ、顔だけが出ているというシュールな有様。もはや笑っていいのか、心配すればいいのか分からない異次元空間がそこにはあった。
「ええ。あれは気にしなくていいわ。本当なら全身氷漬けにしてもかまわないのだけれど……」
「……おい、ジェロ。いつまでこうしているつもりだ。いい加減この氷を解け」
「そう……なら力づくで解いたらどうかしら。あなたの力ならできないことではないでしょう?」
「…………」
ウタはジェロの絶対零度にも近い宣告によって黙りこんでしまう。そこには言葉以上の冷酷さがあった。当たり前だ。ようやく待ちわびた大魔王が誕生したというのにそれに牙をむくというあり得ない行動。本来なら大魔王を守護するべき立場である四天魔王を否定しかねない蛮行をウタは犯したのだから。万全の状態のウタならばジェロの絶対氷結にも拮抗できるのだがルシアとの戦いを終えた今のウタにはそれは為し得ない。もっともできたとしてもこの状況でそれをやるほどウタも厚顔ではない。
「……心配しなくとももう戦う気はない。戦鬼になっても大魔王……アキには敵わないことは身を以て思い知った。だからこれを解け。流石にこのままではオレでも堪える」
「アキ様……ではないのかしら。言葉遣いが直るまではこのままでもいいと思うのだけれど……」
「ふむ……確かに貴公にとってはいい薬になるやもしれんな」
まるで反省したように見えないウタに向かってジェロだけでなくメギドですら無慈悲な対応を見せる。もっともこれまで好き勝手やっていたウタに対する罰のようなもの。公務を増やしてくれたウタへのメギドからのささやかな嫌がらせ。
「い、いや……もういいじゃねえか……? ウタも反省してるみたいだし……このままじゃ流石に死んじまうんじゃ……」
「よいのか。大魔王であるお主に牙をむいたことは死罪に値するのだが……」
「あ、ああ……それと様付けも必要ねえ……これまでどおりで頼む……」
「そう……あなたがそういうのであれば仕方ないわね。感謝しなさい、ウタ……」
まだ納得いかなげな雰囲気を纏いながらもしぶしぶジェロは絶対氷結を解除する。だがウタの体は満身創痍のまま。特に右腕は失われたまま。すぐに治療しなければ命に関わるのではないかと思えるような有様。
「わ、悪いな……すぐに治してやるからこっちに」
どこか焦りながらルシアはアナスタシスを手にしながらウタに近づかんとする。本来ならウタの自業自得であり、先のことを考えれば腕を失ったままの方がルシアにとっては都合がいいとすら言える。だがそれを度外視しても流石に死にかけている相手を放置していることはルシアにはできない。だがそれは
「必要ない。これはオレにとっては誇りだ。わざわざ治すことはない」
「…………え?」
他でもないウタ自身によって断られてしまう。ウタにとってこの傷は戦いにおける勲章であり誇り。数万年以上叶うことがなかった自分よりも強い相手と戦った証。失った腕ですらその例外ではない。およそルシアには理解できない戦王であるウタだからこそ持ち得る感覚。
「その代わり、腕を上げた時にはまた手合わせを願いたい。もちろんそこの二人が見張りとしていてもらった上で構わん」
まるで生きがいを見つけたかのような笑みを見せながらウタはルシアへと再戦の約束を乞う。そのあまりの非常識さにメギドは溜息を吐き、ジェロは無表情のままルシアを庇うように間に入る。だがルシアにはそれ以上に悪寒に襲われていた。
(なんだろう……何か片腕を失ってるのに前よりも強くなりそうな気がするのは俺だけか……?)
それは確信にも似た直感。隻腕という戦う者としては致命的なハンデを負ったはずにも関わらず全くウタが弱くなるとは思えないあり得ない感覚。むしろ自分は余計なことをしてしまったのではないかと思えるほど。そんな思考を断ち切るように首を振るもふとルシアは気づく。先程から何かが足りないような、誰かを忘れてしまっているかのような感覚。それは
「……ホム」
「っ!? ア、アスラ……いたのか……?」
もう一人の四天魔王アスラ。ようやく彼が声を発したことによってルシアはアスラがじっと自分を見つめていることに気づく。他の四天魔王に比べて意志の疎通ができないためどう接していいか分からない存在。しかしそんな中、ふとルシアは気づく。それは
(あれ……? そういえば、こいつだけさっき戦いに割って入ってこなかったような……?)
先の戦いの最後の瞬間。メギドとジェロがルシアを救うために割って入ったにも関わらず何故かアスラだけはそこにはいなかった。同じ四天魔王であるにも関わらず。
(き、気にすることないよな……? うん、きっとたまたまだよな……はは……)
ルシアはどこか乾いた笑みを見せながらそう考えることにする。もはやルシアはいっぱいいっぱい。これ以上の厄介事に巻き込まれるのは御免だった。
「そういえばまだ渡していなかったわね……これが五つ目のシンクレア、バルドルよ。今のあなたにはそれを手にする資格があるわ。大魔王アキ」
どこか神官のような厳かさを感じさせながらジェロはその胸にあるバルドルをルシアに向かって差し出す。それはこの儀式の終わり。大魔王の器が真の大魔王に至ったことを意味する証。もっとも
『仕方ないわねー。ま、あそこまで我らの力を扱うことができるのは間違いないし、あなたを担い手だと認めてあげるわ。あ、でもまだマザーのことは認めたわけじゃないからね! マザーはあたしだけのものなんだから!』
『な、何だそれは!? 我は身も心も全てアキの物だ! 貴様が入り込む余地など一片もないぞ!?』
『またまた照れちゃって……心配しなくともちゃんと役目は果たすわ。とりあえずは人間界に残したヴァンパイアとラストフィジックスを探すことからね! ようやくあたしもみんなと同じように人間界を旅できるのね! しかもジェロ抜きで! さあさあ早く行きましょう!』
『あなたは……本当に分かっているのですか。それに今頃二人はあなたを怨んでいると思いますが……』
『そ、それはそれ! これはこれよ! 終わったことを気にしても仕方ないわ! ちゃんと前を向いて生きて行くべきよアナスタシス!』
「お、お前ら……」
ルシアにとっては厄介な石ころがもう一つ増えるだけ。これまで以上に騒がしさが増すであろう事態に頭を痛めるしかない。
「……うむ。心中察するがこればかりは我もいかんともできん……幸運を願っておるぞ。全てのシンクレアが揃った暁にはまた参られよ。その時が真の大魔王の誕生となるであろう」
「その時にはオレも立ち会おう……それまでに腕を磨いておく」
「ホム」
「そ、そうか……じゃあな……世話になった……」
顔を引きつかせながらもルシアはとぼとぼと城を後にする。もはやルシアは精神が擦り切れる寸前だった。まともにルシアを案じてくれているのはメギドだけ。その器の大きさに大魔王の座を譲り渡したいと本気で思ってしまうほど。むしろ下で働かせてほしい思えるほどの人格者。他の二人の言葉は既に聞こえていなかった。片方にいたっては何を言っているのかすら分からない。
(はあ…………でもようやくこの悪夢も終わったか。ま、帰ってもやることが山積みなんだけど……)
溜息を吐きながらもひとまず一区切りついたことにルシアは安堵する。だが安堵することはルシアには許されない。まだ魔界のごたごたは済んだだけ。人間界に戻ればまた違う問題は山積している。DC以外の組織が壊滅してしまった影響と後始末。ハル達の動向とその手に渡った二つのシンクレア。残る最後のレイヴ。考えればきりがないほど。むしろ状況は複雑になり、取り返しがないレベルに達しつつある。一手でも読み間違えば、打ち間違えればその瞬間終了してしまう終盤戦。だが今だけはルシアはその全てを振り払いながらただ自らの無事に感謝する。だがそれは
「…………え?」
一分も持つことなく終わりを告げる。それは足音だった。この場にはルシアしかない。シンクレア達を含めればその限りではないのだが歩いているのは自分だけ。にもかかわらずまるでもう一人いるかのような足音が聞こえてくる。その意味を薄々感じ取りながらもルシアはゆっくりと、ロボットのように振り返る。そこには
「…………」
無言でルシアの後を着いてきている氷の女王の姿があった。
「な、何だ……? 見送りならもういいぜ……帰り道はちゃんと分かってるから……」
ルシアは絶望に顔を染めながらも必死に声を上げながらその場を立ち去らんとする。迅速に、一切の無駄のない完璧な動き。だがそれに合わせるようにジェロはぴったりと着いてくる。まるで親鳥に着いてくる雛のように。それがいつまで続いたのか
「見送りではないわ……四天魔王としてあなたを守護するために私も着いて行くわ」
ジェロは表情を変えることなく淡々と、それでもはっきりと宣告する。瞬間、ルシアの目の前が真っ黒に染まる。マザーはその有様に大笑いし、アナスタシスは溜息を吐き、バルドルは天国から地獄に落ちたかのように固まってしまう。ルシアの脳内にはどこかのRPGのようにある文章が浮かんでいた。
――――『絶望のジェロ』が新たに仲間に加わった――――
それがこの魔界探検ツアーの終わり。そしてダークブリングマスターの絶望の新たな始まりだった――――