その場にいるムジカ達は目の前で起きたことが未だに信じられないでいた。まるで悪夢を見ているのではないかと思ってしまうほど。誰一人言葉を発することも身動きを取ることもできない。ただその光景に目を奪われているだけ。
『絶望のジェロ』
突如この場に乱入してきた謎の女性。纏っている雰囲気、力から彼女が只者ではないことはムジカ達にも理解できた。だがそれが自分達の想像を、理解を大きく超える次元の超えた存在であることまでは見抜くことができなかった。
「…………」
ジェロは最初に現れた時と変わらない感情を感じさせない無表情のまま。だがその視線の先には芸術とでもいえる一つの奇跡があった。だがムジカ達にとっては絶望を抱くに十分な悪夢。無慈悲に氷漬けにされてしまっているドリューのなれの果て。その表情は恐怖と絶望に染まったまま。生きたまま永遠に溶けることのない氷に封じられると言う死よりも残酷な末路。だがそれ自体にムジカ達は戦慄しているわけではない。シルバーレイによる虐殺、それ以外の多くの罪。それを考えればドリューに同情する余地など欠片もない。ただ何よりも問題なのが先程のジェロとドリューの戦い。いや、もはや戦いとすら呼べない一方的な蹂躙だった。
「……おい、レイナ! あいつは何なんだ!? あんな奴がDCにいるなんて聞いてねえぞ……!?」
「私だって知らないわ! あんな化け物がいるなんてルシアから聞かされたこともない……」
息を殺し、ジェロに決して聞こえないように声を抑えながらムジカはどこか震える声で隣にいるレイナに問いただす。ムジカの体と声の震えは純粋なジェロに対する恐怖。先程自分の傍をジェロが通り過ぎた瞬間から感じ取っていた感覚。ジェロにとってドリュー以外の者達は眼中にすらないのだということ。だがもしその逆鱗に触れれば命はない。それはレイナも同じ。その驚きはムジカよりも大きいといってもいい。何故なら先程のジェロとドリューのやり取りが真実だとするならばあのジェロと呼ばれる女はルシアの配下、DCの構成員ということになるのだから。
(あいつの言葉が本当ならDCの一員ってことになるけど……でも、明らかに普通じゃないわ! 下手したらルシアよりも強いんじゃないの……!?)
レイナは驚愕を抑えられないままジェロを見つめるも答えは出ない。ジェロの言葉通りなら彼女はドリューの持つシンクレアを手に入れるためにここにやってきたことになる。だがその存在をレイナは全く知らなかった。六祈将軍という最高幹部にもかかわらず。もしDCならば六祈将軍である自分に何らかの接触があってもおかしくないのだがジェロは全くレイナを意に介することもない。しかも最高戦力である自分達を遥かに超える怪物。六祈将軍最強であるハジャですら足元に及ばない程の出鱈目さ。もしかすれば最高司令官であるルシアよりも上なのではないかと思えるような圧倒的な力を目の当たりにしたレイナはその場を動くことはできない。
(まさか四天魔王の一人が人間界に来ておるとは……! しかもルシアの下に……最悪の事態じゃ……もはやワシらではどうしようもできん……)
レイヴの騎士たちの中で唯一現状を把握しているレットは苦渋に満ちた表情を見せながらもその胸中は既に絶望に染まっていた。魔界の住人であるレットには今の状況がいかに絶望的なものか悟っていた。
『四天魔王』
魔界の頂点に君臨する四人の王。文字通り魔王の名を冠するに相応しい最強の四人。その中の一人が今、人間界に姿を現している。あろうことかルシアに従う配下として。魔王であるジェロが誰かの下に、しかも人間の下につくなどあり得ない事態。だが現にジェロはルシアのためにシンクレアを手に入れるためにこの場に現れている。四天魔王は強さもだがそれ以上に魔王同士のつながりも強い集団。ジェロ一人がルシアの下につくとは考えづらい。ならば他の三人の魔王もルシアの軍門に下っている可能性すらある。六祈将軍に加え、キング級のドリューを子供扱いできる四天魔王までもがDCに加わったとなればもはや誰も止めることなどできない。今、レット達にできるのはただジェロを見つめることだけ。いかにこの場を乗り切るかに全てがかかっている。だがそれ自体は恐らく難しいことではないとレットは感じ取っていた。何故ならジェロには自分達の存在など目にも止まっていないのだから。一人の武人として許せない屈辱ではあるがレットはそれを押し殺しながら耐える。この場には自分だけでなくハル達もいる。特にハルは重傷。他の者たちもドリューとの戦いによって満身創痍。ここは生き残ることだけを考えなければ。
そんな緊迫した状況の中、ついにジェロが動き出す。一歩一歩、氷が割れるような足音と共に。先程までドリューと戦っていたにも関わらず全く疲労を感じさせない姿。ジェロが動き出したことでムジカ達に緊張が走る。だがジェロの向かう先はムジカ達がいる場所とは全く逆方向。氷漬けにされてしまったドリューがいる方向だった。そしてまるでジェロの意志に反応するかのように氷に異変が起こる。その一部が溶け、ある物がむき出しになる。
(あれは……シンクレア……!?)
ヴァンパイアとラストフィジックス。二つのドリューの持つシンクレアが溶けるはずのない氷から姿を現し、コツンという音と共に地面へと転がり落ちる。絶対氷結は術者の体を溶けることのない氷へと変える魔法。唯一つの例外がジェロ自身の意志による解凍。ジェロはその力を以てシンクレアのみを氷から解放し、ゆっくりと近づいて行く。その二つのシンクレアを手に入れることだけがジェロがこの場にやってきた理由。ドリューを倒したことはただの偶然。たまたまその障害になっただけ。ムジカ達はジェロがシンクレアを手にせんとするのを黙って見ていることしかできない。もしそれがルシアの手に渡れば最悪五つのシンクレアが全て集まってしまうことになる。それは世界の終焉を意味する。だが今のムジカ達にはそれ以外に選択肢は残されてはいなかった。そしてついその場に辿り着かんとした時、ジェロは唐突に動きを止めてしまう。何故なら
『プーン……』
白い小さな勇者が震えながらも両手を広げ、ジェロの目の前に立ちふさがったのだから。
「っ!? プルー、お前何してんだ、早くそこから離れろ!!」
「止すのじゃ! そやつは加減をしてくれるような相手ではない!!」
「逃げて、プルー!」
「プルー様!?」
想像だにしなかった事態にムジカ達は顔面を蒼白にしながら声を上げるもプルーは決してその場を動こうとはしない。体の震えはいつもの比ではなく、目には涙が滲んでいる。プルーは言われるまでもなく分かっていた。どうやってもジェロを止めることができないことは。それでもプルーは退くことはできない。それはレイヴの使いとしての本能。もしこのまま二つのシンクレアを渡してしまえばその瞬間、この世界は終わってしまう。五十年前の王国戦争の悲劇が、それを超える破滅が起こってしまう。それを防ぐためにシンクレアを渡すわけにはいかない。小さくともハル達に引けを取らない意志がそこにはあった。だがそれは目の前にいる氷の女王には通用しない。
「…………」
ジェロは目の前で道を塞いでいるプルーにようやく気づいたかのように視線を向ける。そこには一切の感情はない。プルーがどんな覚悟を以て目の前に立ちふさがっているのかなどジェロにはどうでもいいこと。ジェロにとってプルーはもちろんムジカ達もただの邪魔な石ころ、雑草に過ぎない。目のつかないところにいれば手を出すこともないが邪魔になるのであれば排除するだけ。ゆっくりとその雪のように白い手がプルーに向かってかざされる。既に冷気が辺りを支配しつつある中、ムジカとレットは弾けるようにプルーを助けるために動きだす。例えそれが絶望的な戦力差であることを知っていながらも。だがムジカ達の動きよりも手をかざすジェロの動きの方が早い。エリーの声にならない悲鳴が辺りに響き渡らんとしたその瞬間、
「…………え?」
エリーはただ呆然としながらその光景に目を奪われる。プルーを救わんとしたムジカとレットも動きを止めたまま。その視線の先にはジェロがその手をかざしたまま固まってしまっている姿がある。まるで時間が止まってしまったかのように。だが何か見えない力が働いているような気配はない。まるで何かに気づいたかのようにジェロは自らの動きを止めてしまっている。突然の事態にムジカ達はただ呆気にとられたまま。だがムジカ達はどこかここ以外の場所にジェロが意識を向けていることに気づく。その証拠にジェロの瞳は既にプルーを映してはいない。本当に人形になってしまったかのようにジェロはその場に立ち尽くす。さながら美しい氷の彫像。それがいつまで続いたのか。
「……そう。あなたがそう言うのであれば仕方ないわね」
その瞳に意志を取り戻しまるでここにはいない誰かに話しかけるような独り言を呟きながらジェロは視線を向ける。まずはヴァンパイアとラストフィジックス。そしてそのまま自らの胸元にあるバルドル。最後にこの場ではない遠く離れた海岸へと。ムジカ達はその視線の意味も言葉の真意も知ることはできない。ただ一つ分かることは何かがジェロの行動を左右したということ。
「幸運に感謝するのね……いえ、絶望の時が少し伸びただけかしら。とりあえずその二つのシンクレアはお前達に預けるわ」
ジェロはどこか死刑宣告にも似た宣言を残したまま踵を返し、その場から離れて行く。まるで自分の役目は終わったかのように。その後ろ姿に目を奪われるのもつかの間、まるで瞬間移動をしたかのようにジェロの姿が消え去って行く。残されたのは氷河期のような寒さと氷の世界。二つのシンクレア。そしてドリューであったものだけ。それがレイヴの騎士たちのサザンベルク大陸での戦いの終わり。そして絶望にも似た新たな戦いの幕開けだった――――
月明かりが辺りを照らし出している静かな海岸に二つの人影があった。一つがいつもと変わらぬ無慈悲さを感じさせる雰囲気を纏っている氷の女王であるジェロ。その力を示すかのように近海は全て凍りつき、氷山のようになってしまっている。ジェロが存在するだけで海は全て凍りついていくかのように。だがジェロはつい先ほどまでここから離れた場所、要塞クリーチャーにいた。にもかかわらずジェロは一瞬でこの海岸まで移動してきていた。いや、正確にはこの場に召喚されていた。この場にいるもう一人の人物によって。それは
(どうしてこうなった……?)
まるでこの世の終わりが来たかのような心境でもまだ顔を引きつかせるだけで何とか耐えている金髪の悪魔、ルシア・レアグローブの仕業。ルシアは今すぐにでもこの場からワープロードで逃げ出したい衝動を必死に抑えながら無言のままジェロと向かい合う。知らず息を飲み、背中には汗が噴き出している。それはルシアがその手に持っているDBのせい。
『ゲート』
魔界よりの門を開く最上級DBでありルシアにとってはジェロから渡された呪いのアイテム。本当なら触ることも恐れていたその力によってルシアは半強制的にジェロを呼びだした。一つはハル達からジェロを引き離すため。もしあのままジェロがいればハル達は間違いなく皆殺しにされていたはず。もう一つがジェロがドリューが持つ二つのシンクレアを手に入れるのを防ぐため。恐らくジェロがシンクレアを狙ってドリューの元にやってきたことを悟った故の行動。もしドリューの二つのシンクレアだけならここまで強硬手段を取る必要もなかった。だがどうしてもルシアはそれをせざるを得なかった。それは
(ま、間違いねえ……! やっぱりジェロの持ってるのは最後のシンクレアだ……!)
ジェロが胸元にかけている最後のシンクレア、バルドル。何故ジェロがそれを所持しているのかは分からないがもしジェロがあのまま二つのシンクレア手に入れたまま自分の元にやってくれば五つのシンクレアが同じ場所に集ってしまう。まだエンドレスが目覚めていないとはいえそうなればどうなるか分からない。最悪エンドレスも目覚め、次元崩壊のDBエンドレスが完成しかねない。まだハルは全てのレイヴを集めておらず、エリーも記憶を取り戻していない現状でそうなればこの並行世界は消滅してしまう。それを防ぐためにルシアはゲートの力を使いジェロをこの場に呼び出した。もちろんその前にこちらの意志を伝えた上で。簡単にまとめれば『シンクレアは自分の手で集めるので余計なことはするな』という内容。ゲートはワープロードとは違い好きな場所に移動はできないもののその代わりに無線に似た通信と対象を強制的に呼び出すことができる利点がある。その二つを使いルシアは何とか三つのシンクレアをジェロがこの場に持ってくることを阻止することができた。大きな代償と共に。
「…………」
「…………」
ルシアはただジェロと向かい合う。距離は十メートルほど。だがまるで蛇に睨まれた蛙のようにルシアはその場を動くことも、声をかけることもできない。ルシアにはまるでジェロが自分を眼光で射抜いているかのように感じれる。有無を言わさず強制的に召喚した上にシンクレアが揃う機会を邪魔してしまったのだから。そんな中
『くくく……どうした主様よ。いつまでも黙っていてはつまらんぞ。何とか言ってはどうだ?』
『っ!? て、てめえ……他人事だと思いやがって……!』
マザーがまるで傑作だと言わんばかりに楽しそうな声でルシアに向かって捲し立ててくる。既に力を使い果たししゃべることも辛いはずに関わらずそれを全く感じさせない興奮ぶり。何故ならこのシチュエーションはマザーにとっては待ちに待った一大イベント。四天魔王が迎えにやってくるという展開。しかも相手は一度戦ったことのあるジェロ。ルシアにとっては忘れることができないトラウマ。それを示すようにルシアの体は震え、声は震えている。例えあの頃とは比べ物にならない程強くなったとはいえ深層意識までは変えられない。ドSのマザーにとってはそんな右往左往する自らの主の姿を見ることは至高の喜び。黙っていることなどできるはずもない。呆れかえっているのかアナスタシスに至っては溜息を吐くだけ。そんなマザーに怒りを露わにしながらもルシアは何とか心を落ちつけながらジェロに改めて対面する。
「ひ、久しぶりだな……ジェロさ、ジェロ……」
いつまでも黙っているわけにはいかないとルシアは意を決して声をかけるもどもり、つい様づけで呼びかけてしまいそうになる。情けなさの極み。つい先ほどまでオウガと倒し、シルバーレイを破壊してきた男と同一人物とはとても思えない姿。もっともこちらの方がルシア本来の姿。シリアスの時間はとうに過ぎ去ってしまっている。もっともシリアスであったとしてもこの状況ではどうしようもないのだが。そんなルシアの心境など知る術のないジェロはしばらく立ち尽くしていたものの突然そのままルシアに向かって近づいてくる。無表情のまま、一言も発することなくただ真っ直ぐに。
(え……? あ、あの……一体何が……?)
ルシアはいきなり自分に向かって無言で近づいてくるジェロに知らず一歩後ろに下がってしまう。だがジェロは全く気にすることもなく砂の足音と共にルシアのすぐ傍にまで迫ってくる。既に両者の距離は零に近づきつつある。にも関わらずジェロは全く歩みを止めることはない。ルシアはその理解できない事態に顔を引きつかせることしかできない。その顔は既に蒼白に染まっていた。ジェロはもう目と鼻の先。互いの息すら感じ取れるほどの至近距離。声を上げそうになりながらもルシアは必死に耐えながらただ絶望する。やはり強制的に召喚したことがジェロの逆鱗に触れてしまったのだと。ルシアの脳裏に走馬灯のようにかつての戦いが蘇る。為すすべなく氷漬けにされてしまった記憶。それとほぼ同時にルシアの頬に氷のような冷たさが襲いかかる。反射的にルシアが戦闘態勢に入らんとした時にようやく気づく。それがジェロの手であったことに。ジェロの細く美しい手がルシアの頬に添えられている。その意味を問うよりも早く
「そう……どうやら器は満たされつつあるようね」
ジェロはどこか満足気な声を漏らす。それだけではない。その口元は確かに笑みを浮かべている。見るもの全てを魅了してしまう氷の微笑み。絶世の美女でありながらも決して見せることはないジェロの微笑み。だがそれは
「~~~~っ?!?!」
ルシアにとっては死神の微笑みに等しいもの。まるで獲物に止めを刺すかのような笑みにルシアは音速剣もかくやという速さでその場を飛び退く。条件反射に近い、猫のような動き。だがルシアにとっては氷漬けにされるよりも恐ろしい物を見せられた心境。
『くくく……見たか、アナスタシス! あの主様の慌て様を! やはりこうでなくてはな!』
『あ、あなたという人は……全く、ですがいいのですが、あのままで』
『……? 貴様こそ何を言っている? ジェロがルシアを怯えさせているだけであろう』
『そうですか……あなたが気にしないのであれば構いませんが……足元を掬われないよう気をつけた方がいいですよ』
『……よく分からぬがまあよい。久しぶりだな、ジェロよ。一年ぶりぐらいかの』
アナスタシスの忠告の意味を解することなくマザーはそのままジェロに向かって声をかける。まるで旧知の友に再会したかのようなノリ。だがそれは間違いではない。何故ならジェロを含めた四天魔王は独立はしているもののエンドレスの子、いわば生きたシンクレアに等しい存在なのだから。
「ええ……どうやら約束通りアキの器を満たしつつあるようね。安心したわ」
『ふん、我を誰だと思っている。まだ大魔王の域までは至ってはおらぬが儀式には十分耐え得る力は持っておる。それは見れば分かるであろう?』
「そうね……さっき情けない担い手を見せられたから少し心配していたのだけれど、杞憂だったようね……」
既にいつも通りの無表情に戻りながらもジェロはどこか満足気な雰囲気を纏いながらルシアを見つめている。ルシアはまるで金縛りにあってしまったかのように立ち尽くすだけ。だがようやく自分に命の危険はないであろうことが読みとれたのか震えながらも改めてジェロへと向かい合う。
「な、何だ……さっきの召喚を怒ってたわけじゃないのか……?」
「召喚……ああ、ゲートのことね。気にしてはいないわ。元々それはあなたが私を呼び出すためのもの……むしろ今まで一度も使わない事の方が気になっていたぐらいよ」
「そ、そうか……」
できれば二度と使いたくない、というか会いたくなかったとは口が裂けては言えないもののルシアは本当に心の底からゲートに感謝する。もしこれがなければ全てが終了していたのだから。
「それよりもお前、何でドリューの所にいたんだ……やっぱシンクレアを手に入れるためか?」
「ええ、ただ迎えに来るだけでは芸がないと思ってね……ただいくつか誤算はあったのだけれど……」
「ご、誤算……? 何のことだ?」
「いえ……こちらの話よ。どうやら私は余計なことをしたみたいね。残るシンクレアはあなた自身の手で集めてもらうわ。もっとも最初からそのつもりだったみたいだけれど……」
「っ!? あ、ああ! 残るシンクレアは俺自身で集めるさ! 当たり前だろ、はは……」
何の理由があったのかは分からないがジェロは残る二つのシンクレアを集めることをルシアに任せることにしたらしい。ルシアにとってそれは願ってもない形。ジェロはそんなルシアの事情など知る由もない。ジェロにとっての誤算は二つ。ドリューとルシアが互いに二つのシンクレアを持っていたこと。まさかこの段階でそこまで事態が動いているとはジェロも予想していなかった。もしあのままルシアの元に二つのシンクレアを持って行けばその場で全てのシンクレアが揃う。まだ儀式が終わっていない段階でそれが起こってしまうのは四天魔王としては避けなければならない。ゲートの通信によってルシアの状況を知ったジェロはそう判断し、シンクレアをあの場に残して来たのだった。実はもう一つ、ジェロにとっては負い目に近い事情もあったのだが。
『ふむ……問題あるまい。これで他の担い手は全て脱落した。残るシンクレアはレイヴマスター達の手にある。一石二鳥というわけだ』
『なるほど……確かにそうですね……』
『でしょ? まあ今集めてもまだ我らは目覚めてないし、あたしも新しい担い手を見定める間がなくなるのは面白くなかったからねー』
「…………え?」
ルシアはふと何かに気づいたかのような声を上げる。それは違和感。まるで自然に混ざっているかのように不自然さがある。それは声の数。聞き慣れない声が今、会話の中に混じっていた。ルシアはようやくその正体に気づく。それは
『そういえば挨拶がまだだったわね。初めまして担い手さん♪ あたしがシンクレアの一つ、バルドルよ。ヨロシクね!』
この場にある三つ目のシンクレア『バルドル』 ジェロの胸元に控えていたバルドルはまるで珍しい物をみたかのような楽しげな声でルシアに向かって話しかけてくる。ルシアはそんなバルドルの姿を凝視するしかない。DBマスターであるルシアにはそのイメージとでも言うものが伝わってくる。一言でいえば世間知らずの御姫様。無邪気さの中に女性を感じさせる矛盾。マザーを黒とするならばバルドルは白。アナスタシスとはまた違った意味でマザーの対極とでもいえるような雰囲気。だがそれに呆気にとられながらもルシアはふと気づく。それはジェロの視線。それが自分を見つめていることに。ようやくルシアは自分がバルドルのある場所、ジェロの胸元を凝視していたことに気づき狼狽するしかない。
「っ!? い、いやこれは違うんだ!? 俺は決して疾しい気持ちで見ていたわけではなくバルドルがそこにいたからで……」
「……何を言っているのかよく分からないけれど紹介しておくわ。彼女がバルドル。四天魔王が守護するシンクレアよ」
「そ、そうか……でも何でそのシンクレアがこんなところに……」
「それは……」
ルシアは自分が余計な取り越し苦労をしていたことを知り、げんなりするしかない。そもそもジェロには羞恥心があるのかどうかすら定かではない。その格好も水着姿といってもおかしくないような派手な物(決して口には出せないが)あえて自ら死地に飛び込むこともないと判断したルシアはそのままバルドルへと話題を逸らす。何故魔界にあったはずのバルドルをジェロが連れてきているのか。だがそれは
『久しぶり、マザー! どうしたの、元気がないじゃない!? もしかしてどっか具合が悪いの!? もう、あたしがいないといつもこれなんだから!』
『っ!? う、うるさい喚くな騒々しい! そもそも何でお前がここにいる! お前の役目は魔界で儀式を行うことであろうが!?』
まるでわが世の春がきたとばかりに大はしゃぎしているバルドルとそれに圧倒されているマザーによって吹き飛ばされてしまう。もし実体化されていればバルドルがマザーに向かって抱きついているのが目の浮かぶほど。ルシアは悟る。バルドルがここにやってきたのがマザーと会うためだったのだと。
「私がマザーの話をしたらどうしても着いてくると言いだしたの……面倒だったから一緒に連れてきたわ。シンクレアを探すのにも役に立つからちょうどよかったしね……」
「あっそ……魔王も色々大変なんだな……」
「ええ……私はメギドほど統治には向いていないしね。二万年眠っていたのもそのせいよ」
「…………」
ルシアは聞いてよかったのかと心配になるようなジェロの言葉に呆気にとられるしかない。もしかしたらこの氷の女王はかなりの面倒くさがりなのではないかと。というか二万年も眠っているのは職務放棄なのではと突っ込みたいもののあえてスルーする。同時に何故かここにはいない、会ったこともないメギドに同情を禁じ得ない。もしかしたら一番自分と気が合うのはメギドかもしれないと思ってしまうほど。
『ジェロの言ってた通りほんとにしゃべるようになったのね。無口な頃もよかったけど今の方が似合ってるわよ』
『ハアッ……ハアッ……お前は全く変わっておらぬようだな……』
『当然でしょ。ん? そう、何か辛そうだと思ったら力を使いきっちゃってたのね。早く言えばいいのに、はい♪』
「っ!? これは!?」
ルシアは突然バルドルが光った瞬間、驚きの声を上げるしかない。何故ならその瞬間、凄まじいエンドレスの力が自分の胸元にあるマザーに注ぎこまれたのだから。それは一瞬でマザーの力を完全に戻してしまうほど。それがシンクレアを統べるシンクレア足るバルドルのもう一つの力。シンクレアを止めるだけではなく、その力を回復させることすら思いもまま。DBマスターであるルシアはその能力を看破すると同時にようやく納得する。何故マザーがバルドルを苦手にしているのか。一つがバルドルの前ではマザーを含めたシンクレアですら逆らえないということ。そしてもう一つが
『ふん……相変わらず出鱈目な奴め』
『バルドル……分かっているのですか、あなたは調停者。平等でなければならない存在。それが勝手にこのようなことを……』
『相変わらずお固いこと言ってるのね、アナスタシス。いいじゃない、今は戦闘中でもないし、それに他ならぬマザーのためなんだから! せっかく会いに来たんだからサービスよサービス♪』
『いいから少しは落ち着け!? おい、アキよお主も何とか言わぬか、何だその生温かい視線は!? 勘違いするでないぞ、我にはこんな趣味は……』
バルドルがマザー大好きっ娘であったということ。その証拠にいつも唯我独尊のような態度を見せているマザーが一方的に圧倒されている。どうやら本当にマザーはバルドルに溺愛されているらしい。ある意味マザーにとってはアナスタシスとは違う意味で天敵と言える存在。
「分かった分かった……とにかくジェロもありがとな。わざわざバルドルを持ってきてくれて。あとはこっちで何とかするからもういいぜ」
珍しく本気で助けを求めているマザーを尻目にルシアはジェロに向かって手を差しだす。その胸にあるバルドルを受け取るために。本当なら受け取りたくなど無いのだが状況が状況なだけに断ることなどできない。あのまま二つのシンクレアが手に入るのに比べれば雲泥の差。同時にルシアにとっては感謝するしかない。もしジェロがいなければハル達の救援、レイナを助けることは叶わなかったのだから。何よりも直接魔界に行くことなくシンクレアを手に入れることができた。だがそんなルシアの安堵は
「……? 何を言っているの。あなたにはこれから私と一緒に魔界に来てもらうわ」
「…………え?」
ジェロのこいつ何言ってるんだとばかりの絶対零度にも近い突っ込みによって砕け散る。ルシアはそのまま氷漬けにされてしまったように固まったまま。まるでジェロが何を言っているのか分からないかのように。
『マザーそんなに照れなくてもいいじゃない……ん? どうしたの担い手……アキとか言ったっけ? いくらマザーが選んだ相手だからって容赦はしないわ。ちゃんと儀式は受けてもらうわよ』
『そうですか……安心しました。このまま儀式を放棄する気かと思いましたよ』
『余計な心配よ。いくらあたしでも自分の使命を忘れたりはしないわ。それはそれ、これはこれよ♪』
『ふん……威張り散らしおって……まあよい、では往くとしようか、我が主様よ』
それまで好き勝手にしていたシンクレア達はまるで号令がかかったかのように満場一致で団結する。ジェロはその手に一つのDBを取り出す。ルシアが持つ持つゲートと全く同じ物。その名の通り門を開くためのもの。瞬間、人二人が通れるほどの次元の穴のようなものが生まれて行く。
「行くって……どこへ……?」
どこか虚ろな様子を見せながら一人置いてけぼりになっているルシアが呟く。だが本能で悟っていた。これから自分が向かう先。そこで何が待ち受けているのか。儀式という恐ろしいフレーズ。それが何を意味するか。
『決まっておろう……魔界探検ツアーだ。しかも待っておるのは残る三人の魔王、これ以上ない待遇であろう?』
これ以上にない邪悪な笑みを浮かべながらマザーは宣告する。ルシアにとっての死刑宣告。四天魔王全てと会するという四面楚歌の悪夢。地獄への片道切符。もはやルシアに逃げ場はない。
今ようやく一年前の続き、ダークブリングマスターの絶望が始まろうとしていた――――