(ふう……何とかなったか……)
一度大きな溜息を吐きながらも一応ルシアは安堵する。今、ルシアはメガユニットからワープロードの瞬間移動で本部へと戻ってきたところ。何故か二人きりで話がしたいと言いだしたマザーの突然の奇行に振り回されたものの何事もなく帰還となったのだがある意味綱渡りに近い部分もあった。
(俺、やっぱ疲れてんのかな……いや、疲れてるのはいつものことっちゃいつものことなんだが……)
先のマザーとのやり取り。自分の願いを何でも一つ叶えてくれるというどう考えても胡散臭いマザーの言葉に影響を受けてしまったようにルシアは口にすべきではないことを口にしてしまった。場合によっては全てが台無しになってしまうような危険な行為。それが分かっていながらルシアは止めることができなかった。疲れがあったのかもしれない。気の迷いだったのかもしれない。だが心のどこかで分かっていた。確信。もうすぐこの旅も、物語も終わりが訪れようとしているという感覚。どんな結末を迎えようとも変わらない事実を前にして淡い希望を抱いてしまった。ただそれだけ。それも無駄に終わった。やはりシンクレアと人間は相いれない。初めから分かっていた事実。危険を犯しながらも当たり前のことを再確認できただけ。にもかかわらず知らずルシアは落胆していた。もしかしたら、もしかしたらマザーならばと。いつもの調子で自分の提案に乗ってくれるのではないかと。
「……ったく、汗だくになっちまったじゃねえか。これじゃスーツで行った方がまだマシだったんじゃねえか?」
柄にもないことをいつまでも考えていても仕方ないと割り切りルシアは愚痴りながらいそいそと着替えを始める。マザーに着替えろと言われてそうしたもののまさか砂漠に行くなどとは思いもしなかったルシアはいつも黒づくめの服装と甲冑を身に纏ってしまい汗だくになってしまっていた。まだスーツの方がマシだったのではと思えるような有様。もしかしたら最初からマザーの嫌がらせだったのではと勘付いたルシアは悪態をつくしかない。
「おい、聞いてんのかマザー? お前、最初から嫌がらせで着替えさせたんじゃねえだろうな」
『…………』
「……無視かよ。まさかジェロの真似のつもりか? 全然似合ってねえぞ……ったく」
全く反応を示さないマザーの姿に辟易しながらも手早くルシアは着替えを済ませて行く。いつもなら売り言葉に買い言葉。自分に食ってかかってくるはずにも関わらずマザーは黙りこんだまま。バルドルを完全無視するジェロを彷彿とさせるような行為にルシアもまたこれ以上相手にしてはいられないと無視することにする。今からそのジェロ本人とシンクレア達の元に戻ることになるのだから。このままどこか遠くに行きたい衝動に駆られながらもルシアは自らの部屋に向かう。
「おかえりなさい……思ったよりも時間がかかったようね」
「あ、ああ……マザーの奴がしつこくてな……」
ドアを開けるやいなやいつもと変わらない無表情のジェロが出迎えてくれる。四天魔王直々の出迎えという魔界の住人からすれば卒倒ものの待遇ではあるのだがルシアからすれば別の意味で心臓に悪いもの。だが今は珍しくジェロがこの場にいたことに感謝したい気持ちで一杯だった。主に室温的な意味で。
「…………?」
「……? どうかしたのかしら?」
そのまま黙りこんでしまったルシアにジェロが訝しみ問いかけるも答えが返ってくることはない。ルシア自身は何故自分が黙りこんでいるのかすぐには気づかない。ただいつもと何かが違う。違和感のような物があるのだがそれが何なのかルシアには分からない。
「いや……何でもねえ。それよりも悪かったな、シンクレア達を預けちまって」
「構わないわ。珍しく静かにしていたし……」
ジェロはそのまま自らが預かっていた三つのシンクレアをルシアへと差しだしてくる。その言葉通り皆黙りこんだまま。本当に静かにしていたらしいことにルシアはようやく気づく。それこそが先程覚えた違和感の正体。いつもなら騒がしく自分を出迎え、からかうはずのシンクレア達が静まり返っていること。どうやらジェロに預けられていることがよっぽど堪えたのだろうと思いながらもルシアはそのまま手を伸ばす。だが
その手が届く前に、ルシアの世界は暗転した――――
「…………え?」
呆然としながらルシアは間抜けな声を漏らすだけ。何が起こったのか分からない。冷たい感触だけが顔にある。視界にはいつもとは違う部屋の光景。混乱しながらもようやくルシアは気づく。自分がその場に倒れ込んでしまっていることに。
「……どうしたの。体の具合が悪いのかしら」
「い、いや……大丈夫だ。悪い、ちょっと転んじまったみてえだ……」
表情は変えないものの自分を案じながら手を差し伸べようとしてくれているジェロに気恥かしさを感じながらもルシアはその手を取ることはない。まさか何もないところで転ぶなど本当に自分は疲れてしまっているのかもしれない。もしかしたら体のどこかが調子が悪いのかもしれない。アナスタシスに治してもらうのもいいかもしれない。そんなことを考えながらルシアはその場を起き上がらんとするもそれは叶わない。
「え……? な、何だ……これ……?」
まるで信じられないことが起きたかのようにルシアは戸惑うことしかできない。体に力が入らない。意識はある。呼吸もできる。会話もできる。だがそれだけ。体を動かすことができない。何度腕に力を込めても、足に力を込めても起き上がるどころか寝返りを打つことすらできない。まるで人形になってしまったかのように体の自由が利かない。自分の体が自分の体ではないような感覚。それが何なのか理解するよりも早く
凄まじい頭痛と吐き気がルシアに襲いかかってきた。
「―――っ!? がっ……ああ、あああ……!!」
声にならないような叫びと共にルシアはその場にのたうちまわる。否、のたうちまわることすらできない。ただ信じられないような頭痛と吐き気を一身に受けることしかできない。頭が割れるのではないかと思えるような激痛。同時に魂が抜けてしまうのではないかと思えるようなは吐き気によって嘔吐する。明らかに常軌を逸した状況を前にジェロですら表情を変える。それほどまでに今のルシアの状態は鬼気迫っていた。
「……っ! アナスタシス、早くアキを再生しなさい。これは普通ではないわ」
あえていつも以上に冷静さを見せるように静かに、それでも重苦しさを以てジェロは手にあるアナスタシスへと命じる。ルシアの体に何かしらの異常が起きているのは明らか。ならばどんな傷も再生させることができるアナスタシスなら治療することができる。当たり前の選択。だが
『…………』
アナスタシスはその力を振るうことはない。言葉すらも発することもない。ただの物言わぬ石になったかのよう。その姿にようやくジェロは気づく。アナスタシスの様子もまたおかしいことに。アナスタシスであればジェロに言われる前に既にルシアを治しているはず。それだけではない。他のシンクレア達も担い手であるルシアの変調を前にして言葉を発することも行動を起こすこともない。ただルシアがもがき苦しんでいるのを黙って眺め続けているだけ。その意味をジェロが問いただすよりも早く
『ふふっ、本当に人形みたいねぇ……いいえ、人形ならもっとマシだったのかしらぁ?』
一言もしゃべることもなかったヴァンパイアがどこか妖艶な吐息を漏らしながらルシアへと告げる。そこにはただ悪意しかない。自らの主、担い手に対する物とは思えない純粋な悪意とその苦しむ姿が面白くて、楽しくてたまらないと言わんばかりの高揚を見せている吸血鬼の姿がそこにはあった。
「……どういうこと、ヴァンパイア。事と次第によっては……」
『私を氷漬けにするってわけぇ? それも面白そうだけど相手を間違えてるんじゃない?』
「……何を言っているの?」
『お馬鹿ねぇ……まだ気づいてないのぉ? そこにいる裏切り者に対する制裁、処刑のことについてよ』
心底可笑しい、楽しいとばかりに狂気と共にヴァンパイアは笑いながら宣言する。その視線、言葉を前にすることでようやくジェロは全てを悟る。目の前で蹲っているルシア。彼こそがヴァンパイアの言う裏切り者であるということを。だからこそシンクレア達は皆、ルシアに異変が起こったとしても動くことがないことを。それだけではない。すなわち、この状況こそがシンクレア達が、エンドレスが作り出していることを意味していた。
「う……あぁっ……ぐっ……!!」
息も絶え絶えにルシアは力の限りを尽くして抗わんとするも全てが無駄。頭痛のせいで思考はまとまらず、吐き気のせいで呼吸すらままならない。そんな中でも何とか視線はジェロ、その手にあるシンクレア達に向ける。できるのはそこまで。ただ分かること。それは今の状況が自分にとって最悪のものであるということ。最も恐れていた事態が現実になってしまったということだけ。
『へえ、まだそんな元気はあるのねぇ。でも驚いたわぁ……まさか担い手が我らを裏切ってたなんて』
「……な、何で……それ、が……」
『分かったのかって? さっきまでのあなたとマザーの会話のせいよぉ。ようやくエンドレスとシンクレアの同期ができたんでそれが分かったってわけ。ほんとに驚いたのよ? まさか並行世界の破壊を拒むどころか、エンドレスを倒そうなんて……正気を疑うわ。そんなことができると思ってることもだけど、わざわざ自殺しようなんて……人間の考えることは分からないわねぇ』
まるで手品の種を明かすようにヴァンパイアは楽しげに、得意げに喋り続ける。エンドレスの復活。それはすなわちエンドレスとシンクレアの融合が直近にまで迫ることを意味している。その前段階としてシンクレアはエンドレスとのリンクを再構築する。いわば同期することになる。復活したばかりで滞っていたそれが今まさに完成し、同時にシンクレアの行動は全てエンドレスの統制下に置かれることになる。すなわちルシアにとってはまさに最悪のタイミングそれが起こってしまったのだった。
だがルシアにとっては驚くべきことはそこではない。自らの企みが明るみになってしまったことは完全なミス。もはやどうしようもない。完全な詰み。どんな言い訳も通用しない。己の命運はここで尽きた。これまでの全てが無駄になってしまった喪失感に囚われながらもルシアはその言葉に違和感を覚えずにはいられない。
「自、殺……? 何の……ことだ……?」
ヴァンパイアが口にした自殺という言葉。その意味を。
『はぁ? 本当に知らなかったってわけぇ……? 傑作だわぁ、ねえ、アナスタシス、バルドル? あなた達そんなことも教えてあげなかったの?』
『…………』
『ええ。担い手……いえ、そこの裏切り者には教える必要がないと判断したからよ。かつてのマザーの判断でもあるわ』
『ふぅん、まあいいわ……代わりに私が教えてあげる。あんたは元々この世界の存在ではないわ。魂を時空操作の力……エンドレスの力で呼び寄せてその体に繋ぎとめてるだけ。ならその力がなくなったら消えるだけでしょぉ? まさかそんなことにも気づかなかったの?』
愚か過ぎて言葉が見つからないとばかりにヴァンパイアは嘲笑う。だがそんなヴァンパイアの姿などルシアの目にはもはや映ってはいなかった。あるのは絶望だけ。
(そんな……じゃあ、俺は……今まで、何のために……)
ただ単純な事実。エンドレスを、シンクレアを倒せば自分は救われると思っていた。それを目指してただ抗ってきた。だがその前提は崩れ去った。エンドレスを消滅させるということは自分の消滅、死を意味する。完全な袋小路。今までの全てが無駄だったのだと悟るには十分すぎるほどの絶望。世界を、自分を救うためにしてきたことは全て自分を殺すために動いていたのと同義だったという喜劇。
『やっと分かったみたいねぇ。あんたが今動けないのはエンドレスの繋がりを弱めてるから。でもその頭痛と吐き気は別。それは裏切り者の加護がなくなったからよぉ』
「加……護……? 何の……ことだ……?」
『本当に何も知らないのねぇ……滑稽すぎて笑えるわぁ。じゃあ聞くけど、何であんたはその体に入っていられるんだと思う?』
「…………」
『人間の魂と肉体は強く結び付いているのよ? なのに全く別人のあんたが何の問題もなくその体に憑依できるわけないでしょぉ? その代償、副作用が頭痛と吐き気。拒絶反応って言った方が分かりやすいかしら。あの裏切り者はそれを抑え込んでたってわけ。どう? 少しは分かったかしら、操り人形さん?』
次々に明かされる現実にルシアの心は既に限界を超えつつあった。何度も崖から突き落とされるかのような感覚。自分が深く考えようとしなかった代償。
憑依。別人の体に別人の魂が乗り移る奇跡。だが代償なしに奇跡は起こり得ない。そんなご都合主義はあり得ない。別人の体や、臓器を移植するだけで拒絶反応があるというのに魂という概念でそれがないなどあり得ない。ルシアは思い出す。先のマザーの言葉。本当ならルシアの体に適性がある魂を呼び寄せるはずだったと。その本当の意味。そしてもう一つの事実。マザーの力によって自分が知らない内に守られていたのだということ。お仕置きと称して頭痛を与えられていたのも自分とルシアの体の状態を確認するための物だったのだと。にも関わらずそんなことをマザーは一言も漏らさなかった。何のために。だがそこでふと気づく。先程からのヴァンパイアの言葉。その中に明らかにおかしなものがあることに。それは
「待、て……さっきから……裏切り者って何のことだ……俺のことじゃないのか……?」
ヴァンパイアが口にしている『裏切り者』という言葉。それ自体は間違いない。自分を指してそれ以上の言葉はないだろう。しかし明らかに先程からは自分のことではない、他の誰かのことを指して裏切り者という言葉を使っている。それは誰なのか。
『決まってるじゃない、マザーのことよぉ? それ以外の誰がいるって言うのかしら?』
「…………え?」
瞬間、ルシアは今度こそ言葉を失う。頭痛も、吐き気ももはや消え去ってしまうほどの衝撃が走る。まるで人語が理解できなくなったかのようにルシアは呆然とするしかない。
『本当に馬鹿な子よねぇ? まさか担い手の裏切りを許すどころか手助けするなんて。正気の沙汰じゃないわぁ。本当に人間にでもなったつもりだったのかしらね』
「な、何言ってやがる……!? マザーの奴がそんなこと知ってるわけ……」
『知ってて当然よ? 私達シンクレアは担い手が極みを習得すると同時に精神的にも同期するんだから。いわゆる一心同体ね。マザーはね……その時からあんたがエンドレスを、シンクレアを裏切ってることを知ってたのよ』
ルシアはヴァンパイアが何を言っているのか分からなかった。否、分かろうとすることができていなかった。だが次第にその意味を知る。
(マザーが……知ってた……? いつから……? 極みを会得した時……? じゃあ……)
虚ろになる意識の中ルシアは思い出す。自らがシンクレアの極みを習得した時。ハードナーとの戦い。その際にルシアは初めてマザーの極みである次元崩壊を会得した。同時にその瞬間、一心同体になったかのような感覚を覚えた。それを覚えている。ヴァンパイアの言葉通りならばあの瞬間から自分の考えは、企みはマザーに知られてしまっていたことになる。
だがおかしい。そんなことがあるわけがない。だってマザーは何も言わなかった。そんな素振りは全くなかった。もしそんなことがバレればその瞬間、今のようになってしまっていたはず。なのに――――
『ふふっ、その様子じゃ本当に気づいてなかったのね。あの子も報われないわねえ……信じられる? あの子はあんたが裏切りを、自分を殺そうとしてるって知りながら見逃してたのよ? それどころかあんたがそうしやすいように動いてまでいた。当の本人は知りもしないって言うのにね。なのにあんたはあの子を敵だと思って四苦八苦してたってわけ。ねえ、どんな気分? 敵だと思ってたマザーが味方だったのに、それを知らないまま無様に這いずりまわってた道化だった気分は? ふふっ、あはは、あははははは!!』
吸血鬼は嗤う。最後まで道化でしか、ピエロでしかなかった担い手に。それに応える者は誰もいない、アナスタシスは沈黙し、バルドルは審判者のように振る舞い、ジェロはただ彫像のように在り続ける。
道化であるルシアはただ地面の這いつくばることしかできない。今までと同じように、それまで以上の絶望に囚われながら。
マザーが自分の裏切りを知っていた。確かにそれは驚いた。きっと驚くべきことだ。だが今のルシアにとってそれは些細なことでしかなかった。問題はマザーはそれを知りながら自分を見逃していたということだけ。
何故そんなことを。
決まっている。自分を助けるために。
どうして。そんなことすれば自分が死んでしまうのに。
でもそれが真実であることを思い出す。これまでの、今までの、マザーの言動。
思い返せば気づく機会はいくらでもあった。あの時も、あの時も、あの時も。
何故気づかなかった。分かってる。自分がマザーを敵だと思っていたからだ。
だって仕方ない。相手はシンクレア。世界の敵だ。信じることなどできるわけがない。
なのにどうしてマザーは自分を助けたのか。決まっている。
例え自分が死ぬことになっても、死ぬことが決まっていたとしてもアキと共にいたかった。ただそれだけ。
シンクレアとしての本能を、役目を放棄してまでマザーそれを選んだ。そのために動き続けていた。例えアキに知られることがないと知りながらも。それでもマザーは言えなかった。
もしエンドレスを倒したとしても、アキが死んでしまうこと。それを明かしてしまえばアキは壊れてしまう。できるのはその時をただ引き延ばすことだけ。加護で体の拒絶反応を抑え、元の世界のことも、この世界で生きて行く上で障害となり得る精神的安定を与えること。ただそれだけがマザーができる罪滅ぼし。自らが巻き込んでしまったアキへの贖罪。
もしアキがもっと早く己が心の内を明かしていれば未来は違っていた。これは単純な話。
マザーはアキを信じ、アキはマザーを信じることができなかった。ただそれだけ。その果てに訪れた終焉だった――――
「…………」
『あらぁ? もう話す気力が無くなっちゃったってわけ? 後はどうにでもしろ、死ぬしかないって感じねぇ』
大人しくなってしまったルシアにヴァンパイアはつまらなげな様子を見せる。ルシアはもはや身じろぎ一つしない。できることは何もない。あるのは後悔だけ。あとはただ死を待つのみ。だがそれすらもルシアには許されない。
『でも残念だったわねぇ。裏切り者のあんたを簡単に死なせたりしないわぁ。いえ、死んでもすぐに魂を呼び戻してあげる。体が死滅してもアナスタシスで再生してあげる。一度死んだことがあるみたいだけど何回耐えられるかしら? 見物ねぇ?』
ヴァンパイアは死よりも恐ろしい処刑を宣言する。無限地獄。このまま頭痛と吐き気によってルシアが命を落としたとしてもすぐさま魂を呼び戻し、蘇生させ、再び苦痛を与える。アナスタシスによって肉体を再生させ、再び死に至らせ、蘇らせる。死すら許されない、死よりも恐ろしい所業。
『そうねぇ……それだけでもいいんだけど、もう一度だけ、最後のチャンスをあげるわ』
それだけのことをこともなげに告げながらもヴァンパイアは続ける。今のヴァンパイアはいわばエンドレスの代替。今の状況で彼女以上にエンドレスの意志を示すに相応しいシンクレアはいない。自らの主が堕ちる様を至上の喜びとする吸血鬼が囁く。
『エンドレスに忠誠を誓いなさい。ラストフィジックスを手にいれて、この並行世界を消滅させれば、あんただけは助けてあげるわ』
悪魔のような、天使のような囁きを。
『白状するとここで担い手がいなくなるのは私達にとってもいいことではないの。加えてあんたは私達に耐性があるから完全には支配できないし……このままあんたが廃人になるまで追い詰めれば出来なくはないんだけど、完全に自我を奪っちゃうと担い手としての力は半減しちゃうのよねぇ……まあ、代案はないわけじゃないんだけど、不都合が多いわけ』
ヴァンパイアは嘘偽りなく真実を告げる。ここで嘘を言わないことこそが最善だと知っているからこそ。人間の心理を誰よりも知っているからこそ。ルシアはただその誘惑を黙って聞くことしかできない。
『だから最後のチャンスをあげる。それともこう言った方がいいかしら? ラストフィジックスを手に入れればマザーを元に戻してあげるわ』
ただそれだけ。にもかかわらずその言葉によってルシアの体が微かに動く。その動きを吸血鬼は見逃さなかった。
『本当ならこのまま消しちゃうところなんだけど、あんたがそうするなら許してあげないこともないわ。よく考えなさい。このままじゃあんたは死ぬだけ。死よりも辛い責め苦が待ってるだけ。私達を倒せばこの世界を救えるかもしれないけどそれだけ。あんたは死ぬわ。そんなことして何になるの? 自分が死んだら何の意味もないわ。そもそもこの世界はあんたの世界じゃない。それを守るために自分が死ぬなんて馬鹿がすることよぉ? 私達に着いてくれば現行世界であんたは生きられる。考えるまでもないでしょぉ?』
矢継ぎ早に、それでも一言一句確かめるようにヴァンパイアは真実を告げる。今のルシアの現状を、そして取るべき最良の選択肢を。ルシアはただ自分の胸元にあるマザーに目を向けるだけ。もはやしゃべることもできないただの物言わぬ石。今の自分と変わらぬ満身創痍。それでもまだ消えてはいない確かな存在。希望。自分の選択によって得られるものと失うもの。その天秤が揺らぎ続けている。だがその答えが出ない。ただ時間が過ぎ去っていく。ヴァンパイアがもはやここまでだと断じようとしたその瞬間
「……ラストフィジックスが手に入ればアキを助けるというわけね」
それまで一言も発することなく、成り行きを見守っていたジェロが動きだす。その手にはバルドルがある。その視線は倒れ伏しているルシアへ、そしてヴァンパイアへと向けられる。瞬間、部屋の空気が凍りつく。その場にいればそれだけで凍りついてしまいかねない殺気を受けながらもヴァンパイアは動じない。むしろ楽しげですらある。
『そうねぇ……本当は担い手が手に入れてくるのが望ましいんだけど、ラストフィジックスが手に入るのならあなたでも構わないわぁ。もう儀式は済んでるしねぇ……』
「……そう、ならいいわ」
もう用はないとばかりにジェロは背を向け、その場を去らんとする。だがそれは
「…………待て。俺が、行く……」
ルシアの手によって止められてしまう。その手がジェロの肩を掴んでいる。そこにはもはや力はない。体温はほとんどなく、立っているのが精一杯。だがその姿はジェロの動きを止めてしまうほどの決死さがあった。その瞳には確かな意志がある。たった一つの願い。それを為すのは自分の手で。
「…………分かったわ。でも私も着いて行くわ。構わないわね」
「…………」
ジェロの言葉に応えることなくルシアはその場を去っていく。既に頭痛も吐き気も収まっていた。エンドレスの意志によって。それが何を意味するかなどもはや語るまでもない。
『さぁて……じゃあもう少しだけ、愉しませてもらおうかしら、担い手さん?』
全てが崩壊していく。それを止める術はない。マザーによってせき止められていたそれが今、なくなった。
十年以上の時を経て、ルシア・レアグローブ、真のダークブリングマスターが今この瞬間、誕生した――――