「……暑い」
これ見よがしに溜息を吐きながらルシアは愚痴をこぼす。その声は自分の前を歩いているマザーの幻に向かって告げられている。本体は胸元にいるにもかかわらず幻に話しかけるというのもおかしな話ではあるがその方がやりやすいのは確かなためルシアはいつものように話しかけるもその顔は不満で満ちている。正確にはうんざりとしていた。
「…………暑い」
あえて先程と同じ言葉を、さらに語気を強めながらルシアは告げる。恨めしげな視線と共にルシアは自らの現状を漏らす。見渡す限り砂漠が続く世界。日陰になるような物一つない太陽が照りつけ続ける灼熱の世界。しかもそんな中にあって黒の服装に甲冑を身に纏っているという正気を疑うようないでたち。ルシアでなくとも文句の一つも言いたくなるような有様。
「…………暑」
『ええい、鬱陶しい! それ以外の言葉がしゃべれんのかお主は!? そんなに暑いのが嫌なら今からでもジェロをこの場に呼び出せばよかろう!?』
まるで呪詛のように同じ言葉を連呼、もとい嫌がらせを続けるルシアについにしびれを切らしたようにマザーはヒステリックに叫ぶしかない。だが金髪幼女の容姿で凄んだところで威厳も何もあったものではない。元からそんな物は微塵もないのだが今まで必死に耐えていたものの流石のマザーも我慢の限界だった。
「いいのかよ。わざわざジェロと他のシンクレアを置いて来たってのに……ま、俺はどっちでもいいんだけどな」
『ぬう……お主、分かって言っておるな。ともかく黙って着いてこんか! 暑いのは砂漠なのだから当たり前、いつまでもウジウジ文句を言うでない!』
「文句の一つも言いたくなるっつーの! 出かけるから着替えろと言われて砂漠に行くなんて想像できるわけねえだろうが!? こちとら生身の人間だぞ、てめえと一緒にするんじゃねえ!」
ルシアもまた今の状況に我慢の限界が来たのかマザーへと食ってかかって行く。今、ルシアはマザーの言われるがままにワープロードを使って瞬間移動を行って来たところ。それ自体は別に構わない。だがその場所が問題だった。ちょっと話があると言われてまさか砂漠に連れてこられるなどと誰も想像できない。しかもシンクレアであるマザーと違いルシアは生身。恰好のせいもあるが既に汗だく。本当にジェロを召喚してもいいのではないかと思ってしまうほどのひどさだった。
『ふん、今のお主も十分人外だと思うがの……まあよい。ほれ、ようやく目的地が見えてきたぞ。ワープロードの座標が少しずれておったようだが何とかなったようじゃな』
「……? 見えてきたって何が……」
ある方向に向かって指をさすマザーに導かれるようにルシアもまた目を向ける。そこには巨大な施設があった。こんな砂漠しかない場所には不釣り合いな建造物。正確にはそうであった物。
「あれは……」
それは既に廃墟だった。壁は無残にも崩れ落ち、砂に埋もれつつある残骸。だがそんな場所にルシアは見覚えがあった。忘れようがない、ある意味悪夢の始まりと言っても記憶が呼び起こされる。
『うむ、どうやらやっと気づいたようだな。十年以上ぶりの帰郷と言ったところかの、我が主様?』
そんなルシアの反応に気を良くしたのかマザーはどこか楽しげに笑いながら振り返り、告げる。原点回帰。始まりの場所。全ての因果が狂い始めた接合点。
『メガユニット』
かつて帝国が誇っていた世界最大の収容所であり監獄。そして金髪の悪魔であるルシア・レアグローブが幽閉されていた場所。それがマザーが目指していた目的地だった――――
(帰郷か……ある意味そうなのかもしれねえが、感慨も何もあったもんじゃねえな……)
頭を掻きながらルシアは辿り着いたメガユニットの惨状に溜息を吐くだけ。あのまま当てもなく砂漠を永遠に歩かされ続けるのに比べれば目的地があったのは喜ぶべきことだがまさかこんな場所に連れてこられるとは思っていなかったルシアは複雑な表情を浮かべるしかない。マザーは帰郷などという言葉を使っていたがルシアにそんな気は毛頭ない。ガラージュ島ならあり得るがこの場に思い入れなど無い。
『やはりあの時のまま放置されておるようじゃの。人間も一人もおらぬ。見よ、あの穴を! 覚えておるか、あれが記念すべき我の初空間消滅の証じゃ! うむ、今とは比べるべくもないが中々壮観じゃの!』
「そ、そういやそんなこともあったな……」
両手を腰に当て、どこか満足気に自らの破壊の爪痕を眺めながら頷いているマザーにどう反応したらいいのか迷いながらもルシアもまた思い出す。自分がこのメガユニットから脱出するために初めてマザーの力を使ったことを。今では考えられないがその当時はこの威力の空間消滅を目の当たりにしただけで言葉を失った。今では空間どころが次元も崩壊させれるのだが考え出せばきりがないとルシアは切り捨てることにする。
「……で、一体何のためにこんなところまで来たんだ? まさか本当に話をするためってわけじゃないんだろ?」
茶番はこのぐらいでいいだろうとばかりに真剣な空気を纏いながらルシアはマザーへと問う。何故こんな場所に連れてきたのかと。二人きりで話があるなどと言っていたがルシアはそんな言葉を鵜呑みにはしていなかった。わざわざジェロとシンクレア達を置いてきてまで世間話をするわけもない。ルシアは知らず息を飲む。最悪の展開が自分の企みがバレてしまっているというもの。最大限ばれることがないように細心の注意を払って動いてきていたものの可能性はないとは言い切れない。もしそうならばどんな目に会うか分かったものではない。最悪頭痛という名の洗脳が行使されかねない。だがそんなルシアの思考は
『ん? 何を言っておる。それ以外の何がある。我はお主と話すためだけにここに来ただけじゃが』
「…………は?」
マザーのきょとんとした姿によって呆気なく終わりを告げる。そこにはシンクレアの威厳も何もあったものではない。ただ見た目通りの、いつも通りのマザーがいるだけ。
『何を呆けておる。最初からそう言っておったじゃろうが』
「い、いや……じゃあほんとにただ話をするためだけにこんなところに連れて来やがったのか!?」
『何度同じことを言わせれば気が済むのじゃ。中々お主と二人きりで話す機会がなかったのでな。仕方なくこうして場を設けてやったというわけだ』
「何で俺がてめえと二人きりでわざわざ話をしなきゃなんねんだよ!? そもそもここに来る意味がねえだろ!?」
『くくく……照れるでない。まあ確かに見てくれは良くはないがここはいわばお主と我の……うむ、慣れ染めの場であるからな。雰囲気作りにはもってこいだというわけだ』
「お前……頭がおかしくなってんじゃねえか?」
『ふふ、褒めるでない。ではさっさと奥へ行くとしようか。そうすれば暑さも少しはマシになるであろう』
ルシアの突っ込みにも全く反応することなくマザーはそのまま優雅なステップを踏みながら階段を下りて行く。いつも以上に意味不明なマザーの様子に辟易しながらもルシアはあの後を追って行く。行き先はその最下層。地下六十六階。かつてルシアが幽閉されていた区画だった。
『やはり何もないの。まあ我が開けた穴から光が差してくるのは幸いじゃ。この辺りでいいじゃろう』
穴から漏れ出している光を頼りに手頃な岩を見つけたのかマザーはちょこんと腰を下ろし、ルシアへと振り返る。どうやらここで腰を落ち着けて話をするつもりらしいことを感じ取ったルシアも仕方なくその場に腰を下ろすことにする。幻であるくせに自分だけ岩を椅子代わりにしていることに思う所はあるものの突っ込んでも無駄なことは分かり切っているためあえて無視しながらルシアはさっさと話を進めることにした。
「で、話ってのは何なんだ? つまんねえ話だったらこのまま置いて帰るぞ」
ジト目をしながらルシアはマザーをけしかける。もしこんなところまで連れてこられてどうでもいい話を聞かされれば冗談でも何でもなくその場に追いて帰る気満々だった。だがそんなルシアの態度を見ながらもマザーは動じることはない。どこか厳かさを感じさせる雰囲気を纏いながらマザーはルシアを見つめ続ける。それがいつまで続いたのか
『ふむ、では………まずこれまでよくやってくれたアキ、ダークブリングマスターよ。主の働きによって我らの悲願は目の前にまでやってきておる。褒めて遣わす』
その場全てに響き渡るような重苦しい声がマザーによって告げられる。どこかエンドレスを連想させるような豹変。その言葉遣いも普段のマザーとは違っている。とても声を挟むことができないような重圧の中
「……どうした、ほんとに熱でもあるんじゃねえか、お前?」
『……え?』
ルシアはまるで頭が痛い子を見るような視線と憐れみを以てマザーの本体をいじくりまわす。そんな予想外の反応にマザーはただ言葉を失うしかない。本来の予定ならいつもとは違う自分の姿に右往左往する姿を楽しむはずだったのだがまさか開始数秒で見抜かれるとは思っていなかったマザーは呆然とするしかない。マザーは甘く見ていた。ルシアとのこれまでの付き合いの長さを。マザーとエンドレスの違いなどルシアからすれば一目見れば看破できる。残ったのは恥ずかしいところを見られてしまったという黒歴史だけ。それを誤魔化すように、いつかのようにマザーの頭痛によってルシアは悶絶することになったのだった――――
「く、くそ……何で俺が頭痛を食らわされなきゃなんねんだ!? てめえが勝手に気色悪い演技したせいだろうが!」
『ふん! あそこはあえて乗るくらいの器の大きさを見せるところであろう! まったく……もうよい。そもそもお固い雰囲気は我の性には合わんしの……』
「何の話だ? というかどういう風の吹き回しだよ。てめえが俺を褒めるなんて……ほんとに頭がおかしくなってんじゃねえか?」
『普段お主が我をどう思っておるのか問いただしたいところじゃが……何、シンクレアも残りは一つ。担い手のシンクレアとして主であるお主にねぎらいの一つでもと思っての』
「ねぎらい? 今のが? 俺の耳がおかしくなっちまったのか?」
『こういうことは担い手のシンクレアが行うのが取り決めなのでな。他の者たちに見られるのも面倒だったので場所を変えたということだ』
(こいつ……完全に俺を無視してやがる……)
まるで都合が悪い言葉が聞こえていないかのように胸を張りながらマザーは己が目的を明かす。要するに他の連中に見られるのが嫌でこんな場所までルシアを連れて来たということ。恐らくは先程のルシアのような反応をされたくなかったのだろうとルシアは見抜くもそんな下らない理由でこんな場所まで連行される身としてはたまったものではない。
「それはいいが……まだ気が早いんじゃねえか? まだシンクレアは揃ってないってのに……」
『……まあ、あまり遅くなれば間に合わなくなるからの。早めに済ませておくに越したことはなかっただけじゃ。にしてもまさかここまで上手くいくとは正直我も思ってはおらんかったのだぞ。間違えてお主を呼び出してしまった時にはどうなるかと……』
どこか感慨深げにマザーは言葉を漏らすもまるで余計なことを言ってしまったかのように黙りこんでしまう。文字通り失言してしまった政治家かのような姿。だがルシアからすればとても無視できるような発言ではなかった。何故なら自分の根幹が揺るがされかねない、笑い話にならない事実がそこにはあったのだから。
「……おい、どういうことだ……? さっき、お前間違えてとか言わなかったか……?」
『いや、気のせいであろう……それは言葉のあやでの! つまりだな…………うむ、ぶっちゃけ我は手違いでお主をこの世に呼び出してしまっただけなのだ』
「なんじゃそりゃああああ!? じゃあ何か!? 俺はてめえのミスのせいでこんな目に会ってるってことか!?」
『そ、そんなに大きな声を出すでない。まあ些細な違いじゃ。元々はその体に適性がある魂を呼びだそうと思っておったのだがどういうわけか我……エンドレスと適性がある魂であるお主を呼び出してしまったのだ』
「何だよそれ!? どんなミスすればそんなことが起きるんだよ!?」
『いや、ぶっちゃけノリで何とかなるかと思っての……ようやく担い手を見つけたかと思ったら既に死んでおったので少し自棄になっておったのが悪かったのかもしれんな。まあ結果オーライじゃな!』
「て、てめえ……」
どこか誇らしげにサムズアップしている馬鹿石を本気で投げ捨てたい衝動に駆られながらももはや呆れ果てるしかない。自分が呼び出される過程までもがギャグであったことを十年以上たってから知らされるという悪夢。どうせなら知りたくなかったと後悔するような事実だった。
『そんなに怒るでない。我にとっても予想外であったのだからな。そもそもお主の方が規格外なのだぞ。契約したシンクレアである我に物理的に反抗してきたのは恐らくお主だけであろう……まったく、思い出しただけで眩暈がするわい』
「それはこっちの台詞だ! てめえがちゃんと説明してればあのまま契約することもなかったってのに……詐欺師みたいな言い訳しやがって。しかもあの片言の胡散臭いしゃべり方……」
『っ!? し、仕方なかろう! あの頃の我はその……ほとんどしゃべったことがなかったのだ!』
「そういやそうだったか……それを抜きにしても何がどうなったら今のその気色悪いしゃべり方になるんだ? どっちもどっちだな」
『き、聞き捨てならんぞ! これは我なりに研究を重ねた上でのものでそもそもこれは』
自分のアイデンティティが失われかけていることに必死に抗っているマザーを生温かい視線で眺めながらもルシアもまた思い出していた。ここでのマザーとの出会い。そしてダークブリングマスターとしての始まりを。
(まあ確かにあの頃に比べればこいつも随分人間臭くなったか……間違いなくこいつの人格形成はエリーの影響が大きいな……どっちも俺を振り回すことにかけてはいい勝負か……)
辟易としながらルシアは出会った当初のマザーを振り返る。まるで機械がしゃべっているような無機質さがあったのだがルシアと接していく中で少しずつ人間らしさを獲得していった。その最たるものがエリーと一緒に暮らした二年間。同じ女性だからかは定かではないがエリーとの接触によって今のマザーは完成したと言っても過言ではない。もっともその無茶苦茶さまで受け継ぐ必要はなかったのだが今更どうこう言っても仕方ないこととあきらめるしかない。
『それを言うならお主のヘタレぶりは今の比ではなかったぞ! いつもいつも逃げ回りおって……わざわざジェロとの模擬戦まで設定する羽目になったのだからな』
「やかましい! そもそもそれ模擬戦じゃねえだろうが! 認められてなけりゃジェロに殺されるところだったんだぞ!」
『ふん、だがそのおかげで今こうしておられるわけじゃろうが。全く、やはりヘタレであることには変わりないの。大魔王の名が泣いておるぞ、我が主様よ』
「そんなもんどうでもいいいっつーの。ウタに譲渡したいぐらいだ……ったく」
己の背にあるネオ・デカログスに目を向けながらルシアは自分がどこか遥か遠くまで来てしまった儚さを覚える。最初はただ必死に逃げ回ることだけで精一杯だったにも関わらずあれよあれよという間に何故か大魔王の称号を手にしてしまっている。剣聖というもう一つの頂点の称号のおまけつき。その称号をかざすだけで人間界でも魔界でも震えあがらない者はいないほどのもの。
(おかしいな……俺、いつから人間やめたんだっけ……? 確か元は一般人だったはずなんだけど……気のせいか……?)
冗談でも何でもなく世界を崩壊させる程の力を自分が持っていることにルシアは乾いた笑みを浮かべるしかない。シンクレアの力とルシアの体という借り物の力ではあるもの扱っている以上間違いなくそれはルシアの力。それに見合った試練や困難という名の死線も何度も越えてきた。そう考えれば少しは自分を褒めてもいいのかもしれないと考えている中、ふと気づく。それはマザーの視線。先程まで右往左往し、騒いでいたのが嘘のようにマザーは何を考えているのか分からない無表情でルシアを見つめていた。どこか儚さを感じさせるほど。
「……? どうした、今度はまた違う演技でも始めたのか?」
「……戯け。少し感傷に浸っていただけじゃ。気にするでない……」
「感傷? お前が? 一体何の冗談だ」
およそマザーからは無縁の言葉が出てきたことに呆気にとられるも同時に既視感にルシアは襲われる。かつて同じやり取りをどこかでしたことがあったはず。それがいつだったか思い出すよりも早くマザーは改めてルシアと向かい合う。
『さて……余計な話はこれぐらいにして本題に移るとしようかの……』
「本題……?」
『そうじゃ。アキよ、覚えておるか。この場で我と交わした契約を』
マザーはまるでその瞬間を再現するかのように輝きをその石に灯しながら、どこか魅入ってしまうような瞳を幻に映しながらルシアへと迫る。その言葉にルシアの脳裏に蘇る。十年以上前、この場で交わした契約を。
『お主がダークブリングマスターとなる代わりにどんな願いでも一つ我が叶える、という契約じゃ。その願いを今、ここで口にするがよい』
アキがマザーと契約し、ダークブリングマスターとなる代償に与えられる報酬であり、対価。どんな願いでも一つ叶えるという夢のような、そしてあまりにも胡散臭い契約だった。
「前にも同じようなこと言ってたな……でもそれ、ほんとに大丈夫なのか? どう聞いても胡散臭くて仕方ないんだが……」
『し、失礼な!? 我は契約はどんなことがあっても破りはせん! そもそもお主がさっさと願いを言わんから今の今までずっと先延ばしになってしまっておるのだぞ!』
「先延ばし……ね。じゃあ俺以外の担い手は願いがあったってことか?」
『うむ……まあ他の担い手は主のようにシンクレアの声を聞き取ることはできぬから直接問いただしたわけではないようだが間違いない。何なら参考に教えてやってもよいぞ?』
「いやいい……大体想像つくしな……」
ルシアはあえて聞くことはないとばかりに首を振る。もはや聞くまでもなく他の担い手の願いなど明らか。
ドリューは自らの絶対王権、世界征服。
オウガは世界中の女を我がものにすること。
ハードナーは自らの苦しみから逃れるために世界の崩壊を。
三者三様のある意味分かりやすい自らの欲望のために彼らは動いていた。ならばその願いもまた同じ。もっともそのどれもルシアにとっては参考にはならない。およそ理解できない、興味がない事柄ばかり。
『確かにそうじゃな……なら不老不死などどうじゃ? 人間というのは皆、永遠に憧れると聞いたぞ。ヘタレのお主にはぴったりの願いではないか?』
マザーは考えるような仕草をしながらそう提案する。不老不死という過去、数えきれない人間が夢見たであろう願い。死という呪縛から解放される究極の一つ。しかしルシアにとっては何の魅力も感じない。むしろヘタレのルシアからすれば恐れてしまうほどの願い。不死というのはすなわち死ぬことができないということ。それがもたらす弊害の方が遥かに大きいのではないかとルシアは感じ取る。不老については興味はないわけではないが、やはり老うことができないということは寿命で死ぬことはないということ。どちらも人間ではなくなってしまう願い。だが今のルシアにはそんなことはどうでもよかった。驚くべきはただ一点。不老不死というDBであっても不可能な願いを本気でマザーは叶えることができると断言しているということ。話しぶりからすると全てのシンクレアを揃え、並行世界を消滅させた後の報酬のようだが本当にそんなことができることにルシアは驚嘆するしかない。
「……本当に何でも叶えられるのか?」
『まだ疑っておるのか? 当たり前であろう。エンドレスはいわば世界の、神の意志。その加護があればできぬことはない。ほれ、さっさと願いを言わんか。これでは我が詐欺師のようではないか』
心底呆れながらマザーはルシアをせかす。その言葉にルシアはただ己の内に問う。自分は何を望むのか。一体何のために戦って来たのかと。だがそんなことは分かり切っている。もはや問うまでもない。
『生き延びるために』
それがルシアの、アキの行動原理であり目的。ならばそれを口にすればいいだけ。何のことはない、願いとすら言えないようなもの。
だがルシアの心の内からは異なる言葉が喉まで出かかる。理性がそれを押しとどめんとする。それを口にしてはならないと。もしそれを口にすれば全てが終わると。
にも関わらずルシアは止めることができない。先程までのやり取りが、マザーと二人きりのやり取り、始まりの場所であり自らの原点でもあるこの場であることからルシアは己を律することができない。永遠にも感じる刹那。ルシアは口にする。
「……じゃあ、この並行世界を壊さないで、俺と一緒に現行世界に行くってのはどうだ……?」
エンドレスにとって、シンクレアにとって禁句、タブーである言葉を。
『――――――』
瞬間、時間が止まった。瞬きすらもできない程の静寂が全てを支配する。ルシアとマザーは言葉を発することなく、ただ見つめ合う。身動き一つできない、金縛りにあってしまったかのよう。心臓が凄まじい鼓動を打ち、滝のように汗が流れて行く。この世界にやってきてから初めてかもしれない程の極限状態。次の瞬間には自分が死ぬのではないかと思えるような感覚。もしかすればウタとの戦いでの死を感じたことすらも子供だましに思えるほどの、精神的な極致。
「い、いや……お前、前言ってただろ……? 現行世界を創造することがダークブリングマスターの役目だって。だったら別に並行世界を壊さなくてもいいんじゃねえかって……」
自らの怯えを、震えを悟られまいとしながらルシアは何でもないことのように告げる。先日マザーから聞かされたダークブリングマスターのもう一つの役目。現行世界の創造。もしそれが本当なら自分は死ぬことなく生きることができる。なら並行世界を破壊しなくてもエンドレスの目的を果たせるのではないか。そんな淡い期待。
「それに……どうせてめえも着いてくることになるんだから同じことだろ? まあ一人きりってのは勘弁だがうるさいてめえらがいるんなら退屈はしねえかな……なんて……」
なおもルシアは言葉をつなぐ。自らが口にした願いとも言えないような希望を。今のルシアには何もなかった。世界を救うために自分が犠牲になろうなんて気は毛頭ない。建て前としてはあったかもしれないがそんなことがどうでもよくなるほどに知らずルシアは己の願いを口にしていた。もし、現行世界で一人きりになったとしてもマザーとなら。普段のルシアであれば正気の沙汰とは思えないような言葉。
ハルやエリーを除けばもっともこの世界に来てから共に在り続ける存在。認めたくはないが自らの半身とでも言える彼女がいればこれまでもそうであったようにどんな困難も超えていけるのではないか。それがアキの願いであり、希望だった。
だがいくら待ってもマザーは応えることはない。幻の姿も顔を俯いたまま。顔を伺うことも、気配を感じることもできない。それがいつまでも続くのではないかと思えた瞬間
『……くっ、くく、くくく、ははははははは!!』
マザーはまるで耐えきれないとばかりに笑い始めてしまう。本当に可笑しくて仕方がない、あまりにも想像を超えた事態を前にしてもはや笑いをこらえることができないかのよう。その瞳からは涙すら流れている。幻であってもそうなってしまうほどに先のアキの言葉はマザーにとっては笑わずにはいられないものだった。
「…………マザー? 一体何をそんなに笑ってやがる?」
『いや、済まぬな……だがこれが笑わずにいられるか? くくっ、我は願いを聞いたのだぞ? それをまさかそんな風に返されるとは……流石の我も予想しておらんかったわ……!』
息も絶え絶えにマザーは腹を抱えながら転げまわっている。ルシアは何が起こっているのか分からず呆然とその場に立ち尽くすしかない。分かるのは間違いなく自分が何か犯してはならない、人生最大の失態を犯してしまったであろうことだけ。
『まったく……エリーに振られてお主の方がどうかしてしまったのではないか? 散々石ころ呼ばわりしておいてなにを言っておる。いや、本当にお主は根っからのダークブリングマスターということなのかもしれんの……』
傑作だと言わんばかりに笑い続け、涙をぬぐいながらもまだ足りないかのようにそれは止まることはない。ルシアはそんなマザーの姿を見ながらようやく自分がとんでもないことを口走ってしまったことに気づく。
「う、うるせえな……ちょっとした気の迷いだ! てめえが砂漠なんかに連れてくるから暑さでどうにかなっちまったらしい……ったく、いつかレイナに言われたことが冗談じゃなくなっちまうところだったぜ」
『ふむ、何を言われたかはあえて聞かぬが気の迷いということにしておいてやろう……もう一つの方もな』
「もう一つの方……?」
『並行世界の破壊をせぬ、という話じゃ。我だからよかったようなものだが絶対に他のシンクレアに同じことを漏らすでない。でなければいかに我でもどうしようもない……その願いは叶えることができんものだ。我らがシンクレアである限りはな……』
「あ、ああ……分かった。ちょっと聞いてみただけだっつーの……本気にすんなよ、はは……」
先程までとは別人のような、獲物を狙う鷹の如き眼光をマザーはルシアへと向ける。ルシアはこれまで感じたことのないようなマザーの姿に思わず声を引きつらせてしまう。同時に首の皮一枚で助かったことに安堵するしかない。瞬間、凄まじい疲労感が襲いかかる。先の自分がどれだけ命知らずな真似を、文字通り気の迷いを起こしていたのかを示すかのよう。
『とにかくそれ以外の願いを早く考えておけ。残された時間はあまりないのだからな』
「わ、分かったよ……でも何でそんなに急かすんだ? 別に全部が終わってからでもいいじゃねえか……」
『……そうじゃな。だが早いに越したことはない。お主はヘタレだからの。我がいなければ何にもできんことは分かり切っておる』
「てめえ……そういう台詞は一度でも役に立ってから言えよな……」
いつも通り、唯我独尊のマザーの姿にルシアはやれやれと言った風にげんなりするしかない。とにもかくにもいつも通りの調子に戻ったことは間違いないと動き始めようとした中、同じようにマザーもまた岩から立ち上がり日が差している自らの開けた穴を見上げる。
『余計なことを考えずにお主は前へ進めばよい。主が憂うようなことにはならん……それは我が約束しよう』
マザーは独り言をつぶやくように宣言する。その言葉はルシアではなく、天に誓うかのような物。一体何を言っているのか尋ねようとするもそれを遮るようにマザーの幻がルシアの前を通過し、まるでルシアの行く先を導くかのように階段へと向かって行く。
『さて、そろそろ戻るとしようか。あまり遅いとジェロの奴がやってくるかもしれんしな。いや、お主はそっちの方が嬉しいかの?』
「んなわけねえだろ……ったく、何で俺がこんなに苦労しなきゃなんねえんだ……」
『くくく、あきらめるのだな……我と契約したお主が悪い』
一瞬体を震わしながらルシアは慌てて楽しそうに笑っているマザーの後を追って地上へと戻って行く。かつて、十年以上前マザーと契約し、脱獄した時と同じように。
違うのは始まりではなく、終わりに向かって進んでいるということ。すぐにルシアは全てを知ることになる。遅すぎる後悔と共に。
ダークブリングマスターの最期の戦いの時が刻一刻と迫ろうとしていた――――