他者を拒み圧倒する巨大な扉がゆっくりと開かれる。
「神聖ブリタニア帝国、第十七皇位継承者、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア様、御入来」
その声と共にペンドラゴン皇宮=謁見の間へ、年端も行かぬ少年が足を踏み入れる。
少年はその内に抑えきれない怒りを抱き、睨むような鋭い視線でただ前を見据えていた。
参列した数十人の貴族達が向ける好奇と憐れみの視線を一身に浴びながら、それでも毅然とした足取りで赤絨毯を踏む。
母親が殺され、妹も足を撃たれ、その精神的ショックで視力を失った。もはや政略にも使えない身体だ。
皇族が住まう離宮の厳重な警備網を考えれば、テロリストが襲撃を成功させるなど本来は不可能なはず。
ならば事件の裏で仕組んだ者が居るのでは?
何れにしろ彼の芽はなくなり、後ろ盾のアッシュフォード家も終わった。
密やかに交わされる周囲の囁きが耳に届くが、少年は気に留めはしない。
彼がその視線の先に見据える相手はただ一人。
玉座に威風堂々と鎮座し、見下すように睥睨する男。
彼の父親にして、神聖ブリタニア帝国第98代皇帝=シャルル・ジ・ブリタニア。
だが────
「しかしもう一人の妹君、見目の良いリリーシャ様がいらっしゃる」
「御身体が弱いらしいが、最近は調子も良いと聞く」
「しっ、本人に聞こえてしまいますぞ」
静かなざわめきの中、その名を聞いた瞬間、少年は僅かに眉を顰めた。
爆発しそうになる感情を押し殺すように強く奥歯を噛み締める。
やがて少年は玉座の前へと辿り着く。
同時に貴族達はざわめきを止め、彼がどんな言葉を口にし、そして皇帝陛下がどんな言葉で応じるのか、それを聞き逃すまいと耳を傾けた。
膝を折り、敬意など微塵も無い形だけの儀礼の挨拶を済ませると、強い意志を込めて告げる。
「皇帝陛下、母が身罷りました」
受け入れがたい現実。
愛すべき日常の崩壊。
それは彼にとって紛れもない悲劇。
「だから、どうした?」
対する皇帝は特別関心も抱いていないのか、平然とした態度で応えた。
それこそまるで「今さら何を当たり前のことを」とでも言いたげに冷たく突き放す。
「だからッ!?」
しかしそれは少年にとって、想像すらしていなかった言葉。
いや、歳不相応な利発さを持つ彼の事だ。予測はしていたが認めたくないと、意図的に思考から遠ざけていたのかも知れない。
実の父から齎されたのは癒しでも救いでもなければ、ましてや同情ですらなかった。
目の前の男に対する失望、そして自分達家族は見捨てられたのだという強い怒りと絶望、僅かな悲しみが彼の身を支配する。
「そんな事を言うためにお前は、ブリタニア皇帝に謁見を求めたのか。次の者を、子供をあやしている暇はない」
どこまでも冷たく、神経を逆撫でするような対応だった。
「っ、父上!」
思わず少年は『皇子』という仮面を脱ぎ捨て、父である皇帝の下へ詰め寄ろうとする。
同時に彼の身柄を取り押さえるために衛兵が動くが、皇帝はそれを手で制した。
『イエス、ユア・マジェスティ』
父と子、二人の距離は近い。数歩歩み寄れば手が届くほどに。
だが皇帝と皇子の距離は絶望的に遠かった。
「何故、母さんを守らなかったんですか!? 皇帝ですよね!? この国で一番偉いんですよねっ!? だったら守れたはずです! ナナリーの所にも顔を出すぐらいは────」
「弱者に用はない」
目を瞑り、子供の思いの丈を受け止めていた皇帝が徐に放った一言が、再び少年に大きな衝撃を与える。
「弱者……?」
その言葉をすぐには理解できなかった。
「それが、皇族というものだ」
弱者。
その言葉が何を指しているのか、それを理解した時、彼の中で何かが弾けた。
「なら僕は…皇位継承権なんていりません!」
成行きを見守っていた貴族達の間にざわめきが起こる。
「貴方の後を継ぐのも、争いに巻き込まれるのも、もうたくさんです!」
激情のままに叫ばれた言葉。
それは皇族という地位を、何不自由のない生活を自ら手放すも同じこと。
彼は皇位継承者、ただの子供ではない。
そして相手は専制君主制国家における最高権力者、誰にもその決断を覆すことの出来ない唯一皇帝。
一度吐いた唾は飲み込めない。
ならば訪れる未来は────
「死んでおる」
「っ!?」
「お前は、生まれた時から死んでおるのだ。身に纏ったその服は誰が与えた? 家も食事も、命すらも、全て儂が与えたもの。
つまり! お前は生きたことが一度もないのだ!
然るに、何たる愚かしさ!」
玉座から立ち上がった皇帝が纏う覇気と風格は他者を威圧し圧倒する。
例え普段大人びた思考を持つ皇子と言えど、子供が耐えられるようなものではなかった。
「ひっ……うぁっ」
気圧され、尻餅をつき、脅えたように震える少年。
先ほどまで身を焦がしていた激情は完全に霧散していた。
「ルルーシュ。死んでおるお前に権利など無い。ナナリーと共に日本へ渡れ。皇子と皇女ならば、良い取引材料だ」
告げられた言葉。
それはもう後戻りの出来ない別離の言葉だった。
◇
虚ろな瞳をし、力ない足取りで謁見の間を後にするルルーシュ。
誰が見ても彼は紛れもなく敗北者だった。
だがその姿に失笑を零す者は居ない。むしろ幼い兄妹に対するあまりの仕打ちに憐れみ、同情する者も多い。
俺はその光景を、どこか現実感の伴わない第三者の目線で眺めていた。
皇帝が命じた日本への渡航。
現在の社会情勢を鑑みれば、それがどういう意味を持つのかは自ずと見えてくる。
外交上の人質。
いや皇帝が欲する神根島の遺跡。その存在を知る者からすれば、やがて訪れる開戦の為の生贄だと容易に想像が付いたことだろう。
一体何が起こったのか?
その問いに対する詳しい説明は最早必要ないだろう。かつて嫌と言うほど調べ尽くし、それでも真実には辿り着けなかったのだが。
表向きはテロリストによるアリエス離宮への襲撃。
母マリアンヌはナナリーを庇い死亡。
ナナリーは銃弾を受けて足を負傷、母親の暗殺に巻き込まれた精神的ショックで視力を失う。ただ前の世界と違い、怪我の重度は低く、銃弾が神経や骨髄を逸れていた為、医師からはリハビリをすれば再び歩くことが可能だとする診断が下された。
不幸中の幸い?
馬鹿を言うな。この世界でもナナリーは心身共に傷付き、皇帝のギアスのよって偽りの記憶さえ植え付けられた。
今度こそナナリーだけは巻き込ませないと決意し、何があっても守ると誓っておきながら、俺はまたッ……。
噛み締めた唇が裂け、鉄の味が口内に広がる。
何が起こるのか知っていながら防げなかった。
知り得るからこそ、その罪は重い。
もちろん世界を望むが儘に操ることが出来るなど傲慢であり、自惚れた考えであったことは十分理解している。
しかしそれでもと思わずには居られない。
……嗚呼、分かっている。今俺がするべき事は起こってしまった出来事に嘆き、後悔に暮れる事ではない。起こってしまった以上これからどうするか、それを考え、実行する事だ。
まだだ、まだやれる事が、やらなければならない事が多分に残されている。
立ち止まることは許されない。
ベストが無理でもベターな未来を────
「リリーシャ、お前はどうするのだ?」
静まり返った謁見の間に響く声。この状況で言葉を発せられる人間は一人しか居ない。
それと同時、参列する名だたる貴族達の人垣が割れ、彼等の視線が謁見の間の隅、末席に立つことが許された一人の少女に集まった。
処遇が決まっていない第五后妃マリアンヌのもう一人の遺児=リリーシャ・ヴィ・ブリタニア。
つまり今の俺へと。
見下すような尊大な視線、他者を圧倒する重圧を真正面から受け止め、それでも怯むことなく視線を返す。失態を見せた当時と違い、この程度で今の俺が気圧されることなどありはしない。
「ほぉ、異議があるなら申してみるが良い」
俺が向ける視線に含まれた明確な敵意を感じ取ったのだろう皇帝が、僅かに口元を歪める。
まるで誘われるかのように自然と足が前に出た。
歩みを進め、玉座に座するその男と対峙する。
神聖ブリタニア帝国第98代皇帝=シャルル・ジ・ブリタニア。
実の父親にして、俺にとっての最初の敵。
超常の力と太古の技術を駆使し、神殺し=既存の世界の破壊を企てる男。
その本質は他人を信じることの出来ない臆病者か。
ただ現状、異論など唱えられるはずがなかった。
仮に唱えたところで、相手の地位を考えれば意味などない。どんな命が下されようと、抗ったところで最後は受け入れるしかなかった。いや、自ら命を絶てば話は別だが……。
この男はそれを知っていながら問いを投げ掛けている。
陛下も酷なことをなさる、そんな周囲の呟きが聞こえてきそうだ。
そもそも参列を許可したのも、目の前で繰り広げられた光景の一部始終を見せつける為だったのだろう。
本当に悪趣味としか言えない。
「発言をお許しいただき感謝します、皇帝陛下」
ドレスの裾を摘み上げ、恭しく頭を下げる。
さて、問題はここからだ。
被害を最小限にし、この事態を最大限に活かす為にはどうすれば────
「ですが異論など微塵もございません。陛下の御言葉は何も間違ってはいないのですから」
ッ、どういうことだ!?
考えをまとめるよりも早く、俺の意思とは無関係に開かれた口。そこから紡ぎ出された言葉は意図せぬ──図らずも目の前の男を肯定する──ものだった。
声の主は紛れもなく俺?
いや違う、まさか…これは……。
脳裏を過ぎるのは、いつか彼女が告げた言葉。
“私は再び眠りに就かせてもらうよ。『来るべき時』のために出来るだけ力を蓄えときたいからね”
それがもし、この瞬間であったなら……。
戸惑う俺を余所に尚も言葉は続いた。
「先ほど兄上に仰った御言葉には甚く敬服いたしました。
陛下の御慈悲がなければ生きられぬ私もまた死んでいるのでしょう。故に死者である私に異議を申し立てる権利があるはずもございません。
陛下がお望みになるのでしたら、私は日本でもEUでも中華連邦でも、どこへだって赴き、この命を散らせてみせましょう」
兄とは対称的に一切の私情を捨て、場の空気に呑まれることなく、歳不相応に語る少女の姿を一体誰が予想できただろう。
「弱肉強食は原初の理です。
有史以来、人の世が平等であったことは一度としてなく、生ある限り必ず勝者と敗者が生まれる。
例え生まれが皇族と言えど、母も妹も守ることの出来なかった私は、陛下が仰るように皇族たり得ぬ弱者に他なりません。虐げられ、踏みしだかれ、搾取されるだけの存在……」
リリーシャの言葉を聞いた貴族達には、自らを卑下しているように聞こえたことだろう。
だが俺には分かる。
真実を知るリリーシャにとって、語る言葉は父に対する皮肉だった。
地位も権力も持ち合わせながら、妻も娘も守れないお前も口先だけの弱者なのだと告げている。
「ですが今ここに誓います。
いつか私は生きた人間として、この国を平らげるほどに強くなりましょう。
僭越ながらその暁には是非、陛下に御相手いただきたく思います」
そう言って挑戦的な視線で皇帝を見上げ、リリーシャは笑みを浮かべた。
刹那、固唾を呑んで見守っていた貴族達の間にざわめきが起こる。
それは先ほどまでの比ではないだろう。
同様に俺も平静では居られず、驚愕に思考を侵され言葉を失った。
リリーシャが自分の告げた言葉の意味を理解していないはずがない。
その言葉がやがて世界の三分の一を統べる事となる、神聖ブリタニア帝国皇帝に対する宣戦布告である事を。
「くっ、フハハハハハハハハハハッ!」
謁見の間に響く笑い声。
「この儂に、ブリタニア皇帝に挑むか。
面白い。
────リリーシャよ」
「はい、陛下」
「良いだろう。お前の願い、しかと聞き届けよう。
その日まで精々死に、そして生きるが良い!」
その瞬間、皇女による皇帝への、娘から父に対する宣戦布告の誓いは締結された。
多くの者は超大国ブリタニアの支配者に挑むなど無謀だと嗤い、兄妹揃って馬鹿な子供だと誹り、やがては忘れ去ることだろう。
だが彼等はいつの日にか思い知る。
表舞台に舞い戻った兄妹が、力なき子供では無いことを。
そして思い出す。
始まりは今日この日であったことを。
◇
どうしてこうなった?
その自問ばかりが溢れ出し、頭の中をグルグルと回る。
当てもなく、彷徨うかのように、覚束ない足取りで人気のない通路を進み、ペンドラゴン皇宮の奥へと進んでいく。
母親が暗殺された直後の子供が護衛もなく、一人出歩くことは軽率な行為だと言える。周りが不審に思うだろうが、それでも今は一人になりたかった。
曖昧な感覚。
まるで自分の身体ではないようだ。
くくっ、言い得て妙だな。
そう、この世界には最初から俺に自分の身体など存在していない。
ただ別世界から精神のみが寄生したノイズ、リリーシャという器が存在しなければ無意味で無価値な存在。
それが実情だった。
一体どこへ向かおうとしているのか分からない。
目的があるのかも分からない。
何かを、いや誰かを待っているのかも知れない。
だがそんな事はどうだって良かった。
俺の浅はかな考えなど無駄だと言わんばかりに訪れた第五后妃暗殺事件。
未来知識が通用しない現実を突き付けられ、果たして事の顛末は俺が知っている通りだったのだろうかと不安と疑問が込み上げてくる。
この世界でも母マリアンヌは死に際にギアスを発動し、アーニャの精神へと渡ったのだろうか?
ただ俺の記憶との差異──ナナリーの怪我の程度──を考えた時、最悪のケースが脳裏を過ぎった。
もし母マリアンヌがアーニャではなく、本当に現場に居合わせたナナリーの精神に寄生していたとしたら?
荒唐無稽な考えだとは言い切れず、コード保持者であるC.C.もアーニャの精神に母マリアンヌが寄生していた事実を知らなかった事から考えて、それを確かめる方法もない。
いや、母マリアンヌのギアス発動を防げなかった以上、どちらにしろ対処の要となるのがアンチギアスシステム=ギアスキャンセラーだ。尤もこの世界ではジェレミアを実験体として改造させるつもりはない為、確実に入手できる目処は立っていない。
その事実に揺らぐ弱い心。
そしてその動揺、混乱が収まりきらない内に追い打ちを掛けるように行われた、リリーシャによるブリタニア皇帝への挑発的な宣戦布告。
自分の聴覚を疑わずにはいられなかった。
あの男の計画を容認することは絶対に出来ず、ラグナレクの接続を阻止する以上、何れ敵対する事は避けられなかったのは間違いない。
もちろん穏便に解決できることに越したことはないが、あの男がこちらの意見に耳を傾け、考えを改めるとは到底思えない。
それでも現時点での宣戦布告は早すぎる。
いくらリリーシャが年不相応の思考及び身体能力と、俺から手に入れた未来知識や情報を有していたとしても、どう考えたって押し潰される結果しか見えない。抵抗する子供一人無力化するぐらい簡単な相手なのだから。少なくとも一定以上の戦力を用意する必要がある。
これはもうあの場で皇帝暗殺に動かなかっただけマシと考えるしかない。
見敵必殺を掲げるリリーシャにとって謁見は紛れもなく好機。ドレスに暗器を忍ばせるぐらいは平然とやる。現に彼女の所持品の中にセラミック製のナイフや布地に仕込んだ鋼糸、睡眠導入剤や筋弛緩剤等の薬瓶を確認している。
ただ仮にあの男の暗殺に成功しても失敗してもその後がない。
弱肉強食を掲げ、皇族が皇位継承権争いを繰り広げているブリタニアといえど、皇帝暗殺は重罪に変わりなく、如何に皇族を厳罰に処する法がなくとも弑逆者として囚われ、二度と日の目を見ることは叶わなかったことだろう。
しかしこれで皇族の地位を固持し続け、長い時間を掛けて──スザクじゃないが──内側からブリタニアという国の体制を変えていくという穏健策を執ることは出来なくなった。
宣戦布告により完全に退路は断たれ、もはや修正は不可能と考えて良い。
一体リリーシャは現時点で何を以て勝機を確信し、勝負に出ると決断したのか?
判断材料が何なのか俺には到底理解できなかった。
その意図を直接本人に問い質そうにも、黙りを決め込んでいるのか何度呼びかけても反応はない。彼女の性格を考えれば、俺が右往左往する姿に腹を抱えて笑っている光景を想像するのは難しくない。
はぁ……、と大きく溜息を吐く。
その刹那だった。
「リリーシャ様」
不意に声を掛けられ足を止める。
視界に捉えたのは神官服とでも言えばいいのか、宗教関係者を連想させる長衣に身を包んだ男達。
素顔を隠すように頭から被った黒い布の額部分に描かれた──羽ばたく鳥のような──模様を見れば、彼等の素性を察することは容易だった。
ギアス嚮団。
コード保持者たるC.C.及びV.V.を嚮主と崇め、コードやギアス、それに類似する超常の力。また世界各地に残された太古の遺産を研究開発し、太古より人々に畏怖を与え、信仰心を刺激する『何か』を追い求める狂信者。
ただ彼等が求める『何か』が果たして集合無意識だったのか、それともCの世界だったのかは分からない。尤も永遠に解き明かされることのない問いという可能性も十分にあり得るだろう。
何れにしろ、彼等とこの神聖ブリタニア帝国との結び付きは深く、資金や資材の提供を受ける対価として闇の大部分を司っている。
近代のブリタニアが不自然とも思える急激な勢力拡大を成し遂げた背景には、ギアスと彼等=ギアス嚮団の存在があったことは間違いない。
「何の用かな? 宗教の勧誘なら間に合っているよ。生憎と私は神に祈りを捧げる敬虔な信徒にはなれそうもないからね」
いや、それは神殺しを画策する嚮主に仕えている彼等も同じか。
「皇帝陛下がお呼びです。どうか我々に御同行願います」
俺の皮肉を気にも留めず男は告げる。
あの男からの呼び出し。
用件は分かっている。
あの場で──多くの貴族達の前で──認めた以上、宣戦布告に対する報復行為とは考えられない。
目的は何か?
あの男が保持するギアスによる記憶の改変。
前の世界で俺は、行儀見習いとしてアリエス離宮に訪れていたアーニャの事を、まるで憶えて居なかった。にも関わらず、彼女が愛用の携帯電話には親しげに笑みを向ける幼少期の俺の姿が収められていた。
その事実から、暗殺偽装に際してナナリーやアーニャだけでなく、俺もあの男のギアスにより記憶を書き換えられたのだと推論付けられる。
ならば何時どこでギアスを使用されたのか?
暗殺事件後、皇帝を含め皇族周辺の警備はより厳重なものとなり、公務内容も変更されていた。そんな中で人目を気にせず自由に動き回る事は難しい。
だとすればあの謁見の後、俺がペンドラゴン皇宮に滞在している間に何らかの接触があったと考えるのが妥当だ。
目的が目的であり秘密裏に接触を持つ以上、直属の騎士であるナイトオブラウンズや身辺警護を担当する近衛騎士ではなく、非公式の組織であるギアス嚮団を動かしたとしても何らおかしな事ではない。機情や特務局が動く可能性も予想はしていたが、帝国側の人間は使いたくなかったのだろうか。
「嫌だと言ったらどうするのかな?」
「少しばかり強引な手段を執らせていただきます。もちろん陛下の許しは得ておりますのでご安心を」
男が告げるとほぼ同時、新たに出現した人の気配を背後に感じる。
どうやら前後を抑えられたようだ。
「私は今機嫌が悪いんだ。相手になるなら容赦はできないよ?
こう見えても少しばかり腕には自信があってね。閃光のマリアンヌの娘に恥じないと思っているんだ」
彼の閃光のマリアンヌによって半強制的に鍛え上げられたこの身体のスペックは、俺自身が最も理解している。
例え大の大人を複数相手にしても余裕で立ち回れ、圧倒し制圧できるだけの力を持つ。非力な子供という外見に騙されれば痛い目を見ることになるだろう。
さらに今回、幸いなことに相手は俺の身柄確保を目的としている以上、殺す覚悟で向かって来ることはない。急所は狙い難く、場所柄も考慮すれば銃火器類の使用も制限されている。
母マリアンヌとの訓練と比べれば、降すのは簡単な相手だ。
とはいえ相手はブリタニア皇帝を後ろ盾に持ち、ギアス能力者を保有するギアス嚮団。彼等が本気を出せば逃げ切れるとは考えていない。
それでも相手の思惑通りに動くのは癪に障るのも事実。
これが単なる八つ当たりや憂さ晴らしの類であり、嫌だと子供が駄々を捏ねる行為と同等である事は理解しているつもりだ。
我ながら何とも幼稚な思考だと思うが、それでも良いじゃないか。
今の俺は、私は子供だよ?
人間は簡単に死ぬ。
脳を破壊すれば、臓器を破壊すれば、呼吸を止めれば、過剰な痛みを与えれば、多くの血液を失えば、そして精神を破壊すれば……。
思考がただ一つの事の為だけに最適化されていく。
すなわち敵を、邪魔者を排除する事の為に。
この身体は剣と化す。
「リリーシャ様の武勇は聞き及んでおります。彼の閃光の寵児、我々とて正面から事を構えるつもりはありません」
「ならば退くかい?」
「残念ながらそれは出来ません」
顔を隠す黒布の下で、男が嘲笑を浮かべたことに気付く。
「────出番だ」
その声に男の背後から一人の少年が顔を覗かせた。
愛らしい顔立ちだが表情は乏しく、それで居て怯えを含んだ瞳。羽毛のような柔らかな髪。年齢はナナリーと同じぐらいか。
「っ、まさか」
お前は!?
目の前の少年と記憶の中で眠る弟の姿が重なった。
いや、弟の経歴を知るが故にその可能性は十分に考えられる。
俺の命を救う為に自らの命を捧げた、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの偽りの弟であり、ルルーシュ・ランペルージの本当の弟。
その名は────
同時、少年の瞳に浮かび上がる紋章。
そして紅の凶鳥が羽ばたい────
世界が停止する。