「あの……大丈夫ですか……?」
目の前にいる少女がどこか心配そうに話しかけてくる。だが俺はそれに返事をすることができない。いや、できるはずもなかった。なぜなら完全にその少女に目を奪われていたから。それはまさに天使、女神と言っても過言ではない程の可愛さ。その姿の前にはもはや言葉は必要ない。そう悟ってしまうほどの衝撃的出会いだった。
しかし、このままずっとフリーズしているわけにはいかない。そうだ、俺はこの時のために生きてきたんだ! なら今度こそそれを成功させなくては。だがさっきの様な失敗は許されない。ここは慎重に動かなければ。これまで生きてきた中で間違いなく最高の緊張状態の中で俺は改めて少女と向かい合う。
歳は十六から十七と言ったところだろうか。もっとも見た目がそうなだけで実際の年齢は分からないが。はけもあの見た目で何百年も生きているらしいし。だがそんなことを女の子に聞くヘマなど犯さない! そしてその服装。どうやら割烹着の様なものを着ている。犬神達は山の中で暮らしており、その服装もかなり多様だ。基本的には着物を着ている奴が多いみたいだけど現代の服装をしている奴もいる。それを考えても変わった服装であることは変わらないが……と、いかんいかん、ともかく上手くこの女の子を勧誘しなければ。
「えっと……君、犬神だよね……?」
「は、はい……」
「どうしてこんなところに……?」
「え……いえ、ちょっと気になったので……」
俺の質問に少女はどこか恥ずかしがりながら応えてくれる。その姿に思わずこちらの顔が赤くなる。
なんだ、なんだこれ、可愛すぎるんですけど。その仕草が、上目遣いの視線がすっげえ俺の何かを刺激するんですけど。やばい、やばい。なにがやばいって何がやばいか分からないくらいやばい! ………はっ! お、落ち着け俺、これは最後のチャンスだ。まさしく九回裏満塁逆転ホームランを打てるかどうかの瀬戸際だ。俺の直感が告げている。これを逃せば次はないと。幸い彼女の感触は悪くないようだ。ならばやるのみ、何としてもこの少女を雇用して見せる!
「君っ! よかったら家で働かない!? 給料もできる限り相談に乗るよ!」
「え?き、給料ですか……?」
「そう!あ、でも今は時給しか出せないんだ……でも稼げるようになれば固定給にはできると思う。参考までにみんないくらくらいもらってるか聞いてもいい?」
「い、いえ……わたしたち犬神はお金をいただいたりはしないんですけど……」
「………え?」
少女の言葉に思わず言葉を詰まらせてしまう。え、まじで? でもそれなら何で犬神達は俺たちのために働いてくれるんだ? 全く見当がつかない。
「わたしたちは自分の意志でご主人様にお仕えするのが役目ですから……雇われてるわけじゃないんですよ」
「な、何だって……それじゃあ……」
お金をもらわずに主人のために無償で働いているだと……? とても信じられない。だが少女が嘘を言っているようには見えない。それじゃあ、それじゃあまるで……奴隷ではないか!
なんてことだ、犬神ってのはそんなマゾな存在だったのか!? あ、侮れん。ああみえてじゃあはけもかなりの特殊性癖の持ち主だったのか、今度から近づくときには気をつけよう……ん? いや待てよ、ということは犬神であるこの少女もそんな趣味が!?
いや、落ち着け俺! そんなことをこの場で想像すれば鼻血を出しかねん。何とか抑えねば
「あの……わたしも一つ、お聞きしてもいいですか……?」
そんな妄想に浸っていた俺に向かって少女が話しかけてくる。いけない、知らぬ間に考え込んでしまっていたらしい。だが少女の雰囲気が少し先程と変わり、どこか真剣なものになっている。
「い、いいけど、何?」
少し気圧されながらもそう答える。一体何が聞きたいのだろうか。やはり給料関係のことだろうか。一般的には無償で働くとしてもこの少女がそうとは限らない。できる限り要望にはこたえたいが限界はある。でもこんなチャンスは二度とない。何とかしなければ。そんなことを考えながら俺はその質問を待つ。そして
「あなたは……どうして犬神使いになりたいんですか?」
そんなよく分からない質問をしてきた。
「俺が犬神使いになりたい理由……?」
「はい……聞かせていただいてもいいですか?」
よく分からないな。どうしてそんなこと聞くんだ? だが少女はどこか真剣な様子で俺の答えを待っている。理由は分からないがとにかく素直に答えた方が良さそうだな。
「そうだな……楽しそうだからかな」
俺はそう答える。うん、それが一番の理由だな。じゃなきゃなろうなんて思わねえし。もっとも可愛い犬神が欲しかったのが半分以上の理由だがそれは言わぬが華だろう。
しかしそんな俺の答えを聞いた少女はなぜか驚いたような表情を見せている。まるで予想外の答えを聞いたかのように。おかしいな、俺、そんな変なこと言ったか? 普通のことだと思うんだが。そんな中
「ふふっ、面白い方なんですね」
少女はどこか我慢が出来なくなったように笑いを漏らす。その姿に思わず身惚れてしまう。か、可愛い。何だこれ、何でこんなに可愛いんだ? 何だが同じ女子でも学校にいる同級生たちとは月とすっぽん、いやそれ以上の差がある。同級生たちに聞かれればひどい目に会いそうだが。しかしどうやら俺の答えは少女のお眼鏡にかなったらしい。どのあたりが良かったのかはさっぱりわからんが。とにかく
「じゃ、じゃあ……」
「はい……よろしければわたしをあなたの犬神にしていただけますか?」
「ほんとに……ほんとになってくれるの……?」
その言葉に思わず聞き返してしまう。本当なら今すぐにでも返事をしたのだが何だか話が上手く行きすぎている気がする。何か見落としがあるのではないかという不安に駆られたからだ。だがそれは的を射ていたらしい。
「はい……ただ一つ、言っておかなければいけないことがあるんです」
「言っておかなければいけないこと……?」
少女はどこか申し訳なさそうに、言いづらそうに顔を俯かせながら告げる。だが一体何なのだろうか。お金のこと……ではないか。さっき自分はいらないって言ってたし。じゃあ何があるんだろうか。知らず緊張が俺を支配する。これが最後の正念場だと、俺の直感が告げている。そんな中
「実はわたし、戦うことができないんです………だから他の犬神のように一緒に戦うことができない……それでもわたしと契約してくれますか……?」
少女はどこか恐る恐ると言った様子で俺に尋ねてくる。断られてしまっても仕方ない。そんなあきらめすら感じさせる姿。だが
「当たり前じゃん。こんな可愛い子に戦わせるわけないし」
何でそんなことを気にしているのか俺には分からなかった。
「え……? その……本当にいいんですか?」
「ああ、でも他に何かできることはある?」
「えっと……家事なら得意なのでそれなら……」
「まじでっ!? いい! それで十分! いや、むしろそれが一番だ!」
少女の言葉に俺は狂喜乱舞する。そうだ、家事ができる。これが一番重要だ。今の俺にとって必要なのは間違いなくそれだ。戦うことができても家事ができない奴より、戦えなくても家事ができる子の方が良いに決まってる。
「俺が求めてたのは君の様な犬神だっ! 俺の犬神になってくれない!?」
もはや体裁を取り繕うことなく正直な自分の気持ちをぶつける。後になって気づいたのだがまるでプロポーズの様だった。そのせいで後日恥ずかしさで悶絶することになったのだがそれはまた別の話。
「……はい、ふつつか者ですが宜しくお願いします」
どこか楽しそうに微笑みながら少女は頭を下げる。やばい、なんてできた子なんだ。どうしてこんなにいい子が俺の犬神になってくれたのか分からない程。
「やった! やったぞ! やっほおおおおおっ!!」
もはや俺の喜びは臨界点を突破していた。天にも昇る気持ちとはきっとこの時のことを言うのだろう。俺はまるで犬のように少女の周りを飛び跳ねる。もうそうしなければ喜びを表現できなかったから。そんな俺の姿に面喰いながらも少女も笑みを浮かべている。やっぱりこの少女は……あれ、そういえば
「そう言えば、まだ俺、君の名前聞いてなかったよね?」
「……あ、そうでしたっけ」
そのことに気づき、お互い笑い合う。名前も知らずに契約だけ先にしてしまったのだから俺の抜け具合も大概だ。まあ、そうならざるを得ない程この少女に動揺していたからなのだが。
「なでしこ、それがわたしの名前です」
「なでしこちゃんか……俺は川平啓太って言うんだ」
互いに名前の交換を済ませる。なでしこちゃんか、姿だけじゃなくて名前も可愛いんだな。ともかくこれで俺はついに犬神を手に入れることができた。そう安堵した瞬間
「ケイタ様……ですか……?」
どこか言い表せないような雰囲気を纏いながら呟くようになでしこちゃんが俺の名を口にする。
「え……そうだけど……どうかした……?」
「…………」
思わず聞き返したのだが少女、なでしこちゃんはそのまま何故か黙りこんでしまう。そう、まるで俺の名前を聞いた瞬間に。
え? な、何で俺の名前を聞いた途端そんな雰囲気になるの? 俺たちは初対面のはず。こんな美人と会っていたら忘れるはずがない。ま、まさか俺の噂がここまで届いていると言うのか? いや、確かに学校ではいい噂はされていないだろうがここまで広まっているわけが……でもなでしこちゃんの様子は明らかにおかしい。まるで何かを間違えてしまったような、してはいけないことをしてしまったような。ま、まさか俺との契約がやっぱり嫌になっちゃったとか? そ、そんな………
天国から地獄、希望から絶望に落ちてしまったことで俺は顔面蒼白になってしまう。もしこの時、鏡があったなら俺はこの世の終わりの様な顔をしていたに違いない。なでしこちゃんはそんな俺の顔を見つめながら何かをずっと考え込んでいる。そんな永遠にも思えるような時間が流れた後
「……すいません、少し考え事をしてました。心配させてごめんなさい」
それまでの雰囲気を変えながらなでしこちゃんは再び俺に笑みを向けてくれる。それが俺の心配が杞憂であったことを現していた。俺は大きな溜息を吐きながらも安堵する。一体何だったのか分からないがとにかくよかった。寿命が間違いなく十年は縮んだだろう。
「そういえば啓太様、契約の証を頂けますか? それで犬神使いと犬神の契約は完了ですから」
「あ……そういえば……」
なでしこちゃんの言葉で思い出す。そう犬神と互いに持物を交換することで契約は完了する。だがすっかりそれを忘れてしまっていた。でも何か代わりになるようなものが……
「ごめん……今はこんなものしかないんだけど……」
俺はそれを取り出しながら差しだす。それは蛙の形をしたネックレス。申し訳ないが今の俺がなでしこちゃんに渡せるのはこんな物しかない。だが
「いえ、ありがとうございます。大切にしますね」
なでしこちゃんはそれをどこか大事そうに、愛おしそうに受け取ると今まで一番の笑顔を俺に見せてくれる。まるで花が咲いたかのようなその笑みにただ身惚れることしかできない。そして実感する。今、この瞬間、俺は犬神使いに、そしてなでしこちゃんが俺の犬神になったのだと。
「よし! じゃあさっさと行こう! 善は急げだ!」
「あ、あの啓太様、いいんですか? まだ儀式は終わってないんじゃ……」
「いいのいいの! なでしこちゃん以外の犬神なんてもういらないから! 早く早く!」
「は……はい……」
俺はなでしこちゃんの手を引っ張りながら山を下りていく。なでしこちゃんは何故か顔を真っ赤にしながらもその後を付いてくる。確かにまだ時間はあるがもういいだろう。なでしこちゃん以上に可愛い子がいるわけないし、その間にまたなでしこちゃんがさっきみたいなことになったら取り返しがつかない。そんなことを考えながら俺は一直線に山を下りていく。来た時と違い、二人、なでしこちゃんと一緒に。
それが俺となでしこの出会い。そして全ての始まりだった――――――
「あ、そう言えば忘れてた」
「? 何を忘れていたんですか、啓太様?」
山を下り、ばあちゃんとはけに報告しようと屋敷に向かいながら俺は思い出す。
「いや、俺、儀式の途中で珍獣捕獲用の仕掛けをしかけといたんだ」
「珍獣捕獲用……?」
「俺、ガキの頃一度それに失敗してさ。今回はそのリベンジをしようと思ってたんだ。餌のチョコレートケーキもあのときよりも増やしといたんだけど……」
「チョコレートケーキ……?」
「ま、いっか。もう一度戻るのも面倒だし。さ、行こう行こうなでしこちゃん! 早く挨拶済ませちゃおう!」
「は、はい!」
その時、何故か啓太には知らない少女の悲鳴が聞こえたような気がした。
啓太には知る由もなかった。その気まぐれの行動が自分の運命を大きく変えたことを――――――