嵐のように騒がしい朝が終わり、部屋の、そして自分達の主である川平啓太は慌てながら学校へと出発していった。それは当たり前の日常の始まり。いつも通りの日常。だがいつもとは違うことがある。
なでしことようこ。
二人の犬神が、少女だけが後には残されてしまったということ。これまではなでしこだけだった時間に、世界にようこという新しい住人が加わった。その危険性を啓太はもちろん分かっていた。いや、正確には分かった気になっていた。だがそれは間違い。啓太は甘く考えていた。二人の間にある確執を、正確にはようこのなでしこへの感情がどんなものであるかを。
「「………」」
啓太が部屋を出て言った瞬間、部屋の空気が変わる。いや正確にはようこの空気が。先程までの騒がしく、無邪気な子供の様な空気は一瞬で無くなってしまう。あるのはどこか冷たい、緊張感を、息苦しさを感じさせるほどの雰囲気。そう、まるで縄張り争いをしているケモノのような。
なでしこはそんなようこの変化に気づきながらも声をかけることができない。いや、かける言葉など思い浮かぶはずもなかった。それは分かっていたから。ようこの態度の変化が何を意味しているか。それは自分に対する敵意。初めてこの部屋に来た時から、四年ぶりに再会した時から感じ取っていたもの。今までは啓太を気にしていたから抑えていたそれが今、二人きりになってしまったことで表に出てきているのだと。
なでしこはエプロンドレスを両手で握りしめ、俯いたまま。ようこはどこか感情を感じさせない表情でそれを見つめているだけ。そのまま時間だけが流れる。それは時間にすれば一分にも満たない時間。だがまるで時間が止まってしまったかのように二人の少女、なでしことようこは向かい合う。もしこの場に啓太がいれば間違いなくストレスによって胃に穴が空いてしまっただろう。だがこのままではいけない。ずっとこんな状態でいてはよくない。
「あ、あの……」
意を決して、再会してから、初めてなでしこは啓太を介さずようこと会話、話をしようと試みる。何を話せばいいのか。だが頭が真っ白になってしまったかのように思考が定まらない。当たり前だ。一体何を話せばいいのか。
これまでのこと? これからのこと? 謝罪? 懺悔?
考え出せばきりがない。だが間違いないこと。それは自分がようこと正面から、本気で、包み隠さず向かい合わなければならないということ。これまでできなかった、いや逃げてきたその事実に。
だがようこはそんななでしこの姿を一瞥した後、そのまま後ろを向き玄関へと向かって行ってしまう。まるで話すことは何もないと、そう告げるかのように。
「よ、ようこさん……どこに行くんですか!?」
そんなようこの姿に慌てながらぱたぱたとなでしこがその後を追って行こうとする。それはようこのことを心配してのもの。ようこは長い間、山に封じられていた。まだ現代の生活には、仕組みには疎いはず。一人で出歩くのは危険もある。なによりもようこ自身、悪戯好きな、子供の様なところがある。もしそれで誰かの迷惑になるようなことになればまた最悪、山に連れ戻されてしまうかもしれない。なら自分も一緒に。しかし
「わたしがどこに行こうとあんたには関係ないでしょ? それにわたしがいたらあんたもやりづらいだろうし、ほっといて」
ようこは静かに、だがはっきりとなでしこに振り返ることなく拒絶の言葉を告げる。自分に付き纏うな、付いてくるな、と。
「で、でも……まだこちらにきたばかりですし、一人で出歩くのは……」
それを感じ取りながらもなでしこは胸に手を当てながらあきらめず話しかける。だが知らず、なでしこは悟っていた。きっと今のようこには何を言ってもダメなのだと。いや、今の自分とようこの間には、自分が思っている以上の隔たりが、距離があるのだと。
「しつこいわね……心配しなくても暴れたりしないわよ。ケイタにはオカネってのもらってるし、そんなことしたらすぐに連れ戻されちゃうから」
ようこはどこか面倒臭そうな様子を見せながらなでしこに向かって振り返りながら答える。その手には啓太によって渡された財布が、お金がある。元々ようこは啓太に会うこともだがそれと同じぐらい外の世界に、街に行ってみたいという望みがあった。それが目の前にあるのにじっとなどしていられない。本当なら啓太と一緒に行きたかったのだが仕方ない。あまり我儘ばかり言っては嫌われてしまう。一応自分の立場がどんなものかはようこ自身理解しているからこその行動だった。だが
「それに慣れ慣れしくしないでくれる? あんたとわたしは敵同士なんだし」
それだけは変わらないと、はっきりとようこはなでしこに対して宣戦布告をした。
その宣言と姿になでしこは目を奪われたまま身動き一つすることができない。そうさせてしまうほどの力が、真剣さがそこにはあった。それは犬神としての、女としての本能。ようこはそのまま、再会してから初めて真っ直ぐに、その瞳でなでしこを捉える。
いかずの、やらずのなでしこ。
それが自分が知っているなでしこ。もっとも既にいかずではなくなってしまっている。四年前のあの日から。だがその容姿は変わっていない。犬神は人間とは違い、何百年もの寿命をもつ存在なのだから。その割烹着という自分達犬神の中でも珍しい格好もあの時のまま。しかしその上にエプロンドレスを纏っている。聞いていた話では家事をすることがなでしこの犬神としての役目らしい。それが形になったかのような姿。その髪には白いリボンが結ばれている。自分が知らない時間を、啓太と共にいた時間の差をなでしこの姿の変化に感じ取る。自分に遠慮しているのだろうがその中でも、たった一日でもはっきりと感じ取れた。なでしこの変化を。
本当なら、本当ならそれは自分が手に入れるはずだったのに。それなのに―――――
「よ、ようこさん……わたしは……」
「本当ならここであんたとやりあってもいいんだけど、そんなことしたらケイタに嫌われちゃうし……ケイタの前では今まで通りにしてあげる。それでいいでしょ?」
ようこはその瞳に確かな炎を、闘争の炎を宿しながらもそのまま踵を返し、玄関から出て行く。啓太の前では今まで通り、でもそれ以外では慣れ合う気はない。その意志を伝えるかのような後ろ姿を見せながら。同時にその姿はまるで霧のように消えてしまう。はけのように。そのまま人目に付かないようにようこは屋根を飛び跳ねながら街へと姿を消していく。なでしこはそんなようこをただずっと眺め続けることしかできなかった。
「ごめんなさい……ようこさん……」
届くことのない、謝罪の、後悔の言葉を漏らしながら―――――
「はあ……」
大きな溜息と共に鞄を肩に担いだ啓太がとぼとぼと、おぼつかない足取りで歩いている。今、啓太は授業を終え、下校をしているところ。その証拠に周りには自分と同じように学生たちが楽しそうにおしゃべりをしながら下校している。だがそんな中で明らかに啓太は浮いていた。その背中がとても高校生とは思えない哀愁を漂わせている。その理由。言うまでもなくそれはこれから帰る我が家の、いや自らの犬神達への不安のせいだった。
はあ……マジで思いやられる。授業もまともに頭に入らなかった。もっとも普段からそんなに真面目に受けているわけではないのだが今日はその比じゃない。まるで家に爆弾でも置いてきた気分だ。しかも核爆弾級の。いや……言い得て妙かもしれん。爆発すればマジで部屋どころではなく街が焦土になりかねん。なでしこはともかくようこはマジでやりかねん。昨日から来たばっかだが明らかになでしこに敵意を向けていた。どうやら俺の前だからかなのか隠している気のようだがバレバレだった。
まあ最初からこうなることは分かり切ってたことではあるのだがやはり目の当たりにすると心臓に悪い。物理的にやりあわないだけマシだがそれでも精神衛生上宜しくない。このままではストレスで俺の胃に穴が、頭がハゲかねん。一週間以内に何とかしたいところなのだがどうしたものか……直接俺が仲良くするように言っても意味がない。っていうか余計状況が悪化するだけだろう。例えるなら二股をかけている男が二人の女に仲良くするように言うようなものなのだから。後ろから刺されても文句は言えん……い、いや! 決して俺は二股をかけているわけではなく、あくまで例えとして! だ、だが何だろう……状況としてはほぼ同じような気がするのは気のせいか……?
しっかしマジでどうしたもんか……いっそ荒療治でもするしかないか……あんまり気は進まねえけど、ようこの場合、言って聞くようなタイプじゃないし……相談しようにもそんな都合のいい相手がいるわけ……
「……ん?」
啓太はそこでふと気づく。それは自分が歩いている道の先。そこにどこか見覚えのある人影がある。今までずっと考え事をしていたため気づかなかった。まるでジョギングをするかの様に走っている少女。ショートカットの、ボーイッシュな雰囲気を持った少女。
「おーいっ! たゆね、たゆねじゃねえか!?」
薫の犬神、序列三位、たゆねがそこにはいた。
「っ!? け、啓太様っ!?」
声を掛けられたことによってたゆねはびくっと体を反応させるものの、足を止め振り返る。だがその反応の速さに思わず啓太の方が驚いてしまう。確かに大声を出したのは自分だがそんなにも大げさに反応するほどのことだろうか。いつかのたゆね突撃による惨状がふと頭によぎり、体が震えるも何とか誤魔化しながら啓太はそのままたゆねへと近づいて行く。
「よ、よう。久しぶりだな。ジョギングしてたのか?」
「は、はいっ! け、啓太様こそどうされたんですか? 学校の帰りですか?」
「まあな……しっかし、こんなところまでジョギングに来てるなんてほんとに運動好きなんだな。薫ん家からここまで結構距離があるだろ?」
「だ、大丈夫です! 僕、体力には自信があるんで……!」
どこかしどろもどろになりながらたゆねは啓太の言葉に応えるものの、どうにも落ち着きがない。啓太はそんなたゆねの姿に首を傾げるしかない。
何だ……? 何でこいつそんなに慌ててるわけ……? そんなに驚かせるような声を出した覚えはないんだが……そう言えば前、家に遊びに行った時もこんな感じだったな。いや、今はそれ以上だが。やはりまだ嫌われて、いや慣れていないのだろうか。フラノや双子のようにまでとは言わないがもう少し気楽に接することができればいいのだがいかんせん、そう上手くはいかない。こいつの前では細心の注意を払わなければ。もしヘンタイ的な行為を取ろうものなら間違いなく酷い目にあうだろう。(物理的に) ごきょうやの話では俺のことを心配してくれていたらしいが……うむ、あまり鵜呑みにしない方がいいだろう。女は怖いしな。ここ最近、それが身に染みて分かってきたような気がする……まさかごきょうやにもフラノの様な未来視があったんじゃ……
啓太がそんなことを考えているなど露知らず、たゆねは何とか落ち着こうとしながらも挙動不審になることを抑えることができなかった。だがそれは突然啓太に話しかけられたからではない。
(お、落ち着け、僕! やっと啓太様に会えたんだから……ヘンに思われないようにしないと……!)
それはようやく待ちわびた瞬間に、状況に至ることができた喜びからだった。そう、今のこの状況。それは偶然ではなく、たゆねが作り出したものだった。
啓太が家に遊びに来た時、たゆねは除霊ということでその依頼に付いて行くことができなかった。それがたゆねにとっては悔しくて仕方なかった。その際に大人になったともはね、そしていまりとさよかがそれを手伝ったことを聞いたのも大きな理由。自分も啓太の依頼を手伝いたかった、いやそれ以上にもっと触れ合う機会を逃してしまったことが一番の理由〈本人は認めようとはしないが〉
それ以来、たゆねはジョギングのコースを啓太が通う学校を経由する道へと変更した。言うまでもなく下校してくる啓太と会うために。もちろん偶然を装って。直接啓太の家に行けば話は早いのだが恥ずかしさと何よりもなでしこがいることがその理由。たゆねも啓太がなでしこと結ばれたことを知っているため、あえてそこに割って入ろうなどとは思っていない。ただ一番でなくてもいいかな、なんて思っているところがあった。それを見抜かれいまりとさよかには愛人体質だとからかわれてしまうほど。(もちろん二人はその後、たゆね突撃で追いかけ回された) もっともたゆね自身はまだ自分が啓太に惹かれているのを認めきれてはいなかったのだが。
そんなこんなでジョギングコースを変更したものの、たゆねは啓太に会うことができなかった。下校時間に合わせて、何度も往復するという怪しすぎる行為までしながら。そのせいで学校の生徒の中では下校時間にジョギングをしている美少女として噂になってしまうほど。幸か不幸か啓太の耳には入っていなかったのだが。だがたゆねはやっと気づく。それは自分が正門の方からの道しか走っていなかったこと。もう一つの出入り口、裏門のことを忘れてしまっていたことに。啓太は裏門の方から登下校をしていたためにたゆねは一度も啓太に会うことがなかったのだった。
そして今日、やっとたゆねは人知れない努力の末に悲願を達成したのだった。しかしたゆねはどうしたものかと右往左往しているだけ。会うことばかり考えて何を話すかを、何をしたいかを考えていなかったのがある意味たゆねらしさと言えるものだった。
「そうか……そういえば他の奴らは元気にやってんのか? 最近姿を見ねえけど……」
「え? あ、み、みんな元気ですよ! フラノ達が言ってましたよ。また遊びに来てほしいって! 何でも色々楽しいことを思いついたって……」
「あっそ……あいつらも相変わらずみたいだな……」
たゆね言葉に啓太は呆れた溜息を漏らすことしかできない。どうやらいつも通りらしい。もっとも今はようことなでしこのことで手一杯なのでその機会はまだ先になりそうだが。そんなことを考えていると
「……? 啓太様、もしかして疲れてるんですか……?」
たゆねがふと気づいたように尋ねてくる。会った時から気づかれないようにしていたつもりだったが誤魔化しきれなかったようだ。
「ま、まあな……ちょっとたてこんでてな……」
「そうなんですか……あんまり無理したらだめですよ」
「分かってるって……心配しなくても死神の時みたいなことにはならねえよ」
「っ!? し、心配なんてしてませんっ! これは、その、なでしこやともはねが心配したらいけないと思って……!」
うむ、これが噂に聞くツンデレというやつか。フラノ達が言っていた意味が少し分かったような気がする。もっともそれをからかえばどうなるかは火を見るより明らかなのであえて口には出さないが。だが心配してくれていたのはどうやら本当らしい。逆を言えばたゆねに心配されてしまうほど今の俺は疲れ切っているということ。まだ初日だと言うのに。しかしたゆねも含めて九人も犬神を持っている薫は本当にどういう精神をしているのか。ん……? そうだ! その手があったか!
「たゆねっ! ちょっとお前に頼みたいことがあんだけどいいかっ!?」
「えっ!? あ、あの……はい、僕ができることなら……」
「今度薫に会いに行くからさ、それを薫に伝えてくれねえ!? あいつ、いつも出かけてるからさ!」
「か、薫様にですか……? い、いいですけど……何でまた?」
「え? い、いや、その……ちょっと相談したいことがあってな……とにかくよろしく頼むわ! お礼に何か奢るからさ!」
啓太は痛いところを突かれたかのように顔を曇らせながらも何とか誤魔化さんとする。ようこのことを話せばそれは間違いなく薫の犬神達に伝わってしまうだろう。せんだんやごきょうやは問題ないだろうが他の連中がどう動くか分かったものではない。特にあえて名前はあげないが何人かは間違いなく面白がってちょっかいをかけてくるに違いない。ただでさえギリギリのところで綱渡りをしているようなところに棒で突つきに来るようなもの。そんな事態だけは絶対に御免だった。だが
「お、お礼ですか……?」
たゆねはどうやら相談の内容よりもそちらの方に興味が湧いたらしい。確かこいつ、前の時も料理はもくもくと食ってたし、それなら上手く誤魔化せるかも。
「お、おう! 何か食べたいもんがあるなら奢ってやるぜ! ま、まあ……あんま高いもんは厳しいが……」
「わ、分かりました……僕はどっちでもいいんですけど、啓太様がどうしてもって言うんなら……」
「そうか、恩にきるぜ! じゃあ宜しく頼んだぜ、たゆね!」
素直に食べたいと言えないのか、と心の中で突っ込みを入れながらも啓太はどこか満足気にそのままたゆねにお礼を告げた後、走り去ってしまう。まるで悩みが解決する糸口を見つけたかのように。
うん、薫の奴にちょっと相談してみよう! 複数の犬神を持ってるって言う意味ではあいつの方が先輩だし、何かコツのようなもの、心構えがあるに違いない! それに最近、あいつに会えてなかったしいい機会だろ。男同士でなきゃ話せないこともあるし、付き合ってもらうことにしよう! よし、そうと決まれば気持ちを切り替えながら我が家に帰るとしますか! うん、大丈夫だよな……? いくら何でも初日からアパートが無くなってるなんてことないよね、うん、きっと……多分、恐らく……
啓太はそんなシャレにならないことを考えながらも、それを振り切るように走りながら家路につく。故に気づなかった。
自分を遥かに超える程の勢いでその場を駆け去っていくたゆねの姿に。自分がまた一つ、新たな地雷を踏んでしまったことに―――――