闇に包まれた海岸に一つの灯りがある。それは松明。その炎が、きらめきだけがその場を照らし出している。そしてそれを頼りに二つの人影がやってくる。それは新堂ケイとセバスチャン。二人は啓太達に後を任せ、共に飛行船を脱出しこの海岸までやってきたところ。ここに向かえば自分達は安全だという、啓太の指示、命令に従って。ケイとセバスチャンはその言葉のままにその場所へと辿り着いた。
「お待ちしておりました。啓太様からお話は伺っています。後はわたしたち序列隊が命を賭けてお守りいたします。どうかご安心を」
赤毛のドレスを着た少女、せんだんが恭しくお辞儀をしながら二人を出迎える。その雰囲気に戸惑いながらもケイは気づく。せんだんの後ろにも多くの人影がある。それは六人の少女達。せんだんを加えれば七人の少女がその場にはいた。ケイは悟る。それは気配。普通の人間であるケイだがその様々ないでたちの少女達が人ならざる者であることが分かる。恐らくはなでしこたち同様、この少女達も犬神と呼ばれる存在なのだろう。だからこそ啓太は自分たちをこの場へと逃がしたのだと。
だがケイはそれでのその表情に陰りを見せる。いや、焦りと言ってもいいかもしれない。だがそれは啓太を心配してのものではない。確かに啓太の安否は心配だ。だがそれでもケイは信じていた。きっと啓太が死神を倒してくれると。そう確信できる言葉と約束を交わしたのだから。ならそれを信じることが自分の役目。だが
「ごめんなさい……なでしこだけがあの場に残ってしまったの……どうしても説得できなくて……」
「なでしこが……?」
ケイがその顔を俯かせながら告げる。あの時、セバスチャンと共に飛行船を脱出する時、ケイ達はなでしこと一緒に脱出する予定だった。しかし、直前になってなでしこはその足を止め、この場に残ると言いだした。ケイ達は必死に説得した。この場に残っても啓太達の邪魔になるだけだと。自分達は啓太の言葉に従うべきだと。だがそれを聞きながらもなでしこは決してその場から動こうとはしなかった。
そしてケイ達は見た。それまでのどこか沈んだ、落ち込んでいるような姿ではない。何かを決意したような、力を宿したその瞳を。それが何なのかを悟ったセバスチャンは尚も説得を続けようとするケイを強引に抱きかかえたまま飛行船を脱出した。ケイはその事実をせんだんたちに伝える。このままではなでしこに、それに加えて啓太達に危険があるのではないかと。
せんだんはそんな事情に手に持った扇を口元に近づけながら思案する。なでしこの行動。恐らくは死地へと赴く主に付いて行こうとするもの。その気持ちは痛いほど分かる。自分も同じ状況なら同じ行動を取るだろう。だが自分となでしこでは状況が異なる。何故ならなでしこは戦うことできない。だからこそ啓太はなでしこを逃がそうとしたのだろう。言葉は悪いが足手まといになる可能性があるからこそ。しかし、なでしこはその場に残ってしまった。それによって不測の事態が啓太と、そして共に残った自らの兄、はけに起こらないとも言いきれない。
それを悟ったのか他のメンバー達もどこか不安そうな表情でせんだんを見つめている。動かなくていいのか、助けに行かなくてもいいのかと。それはこの命令を、話を知ってからせんだん達がずっと抱いていた気持ち。死神、しかも間違いなくその中でも最強クラスの相手。いくらはけが憑いているとはいえ危険な戦いであることに変わりない、なら。そんな想いがその場を支配しかけたその時、
「大丈夫、心配はいりませんよ」
どこか場違いな、楽しげな声がそれを振り払う。同時に松明の向こう側から一人の少年が姿を現す。知らず、ケイはその少年に声を上げそうになる。一瞬、その少年が啓太に見えたから。だが松明の光が照らすその姿は啓太とは大きく異なっている。
どこか清らかさを、流れる風を連想させるような雰囲気。大きく、優しげな瞳。だが確かな存在感。まさしく美少年と言っても風貌。その両手には左薬指以外の全ての指に銀のリングがはめられている。
「薫様……」
せんだんはどこか困惑した表情を見せながらも自らの主、川平薫へと視線を向ける。ケイ達はもちろん、他の犬神達もその姿に目を奪われる。何故そこまで確信を持って言えるのか。確かにはけが憑いている、加えて啓太も決して犬神使いとして劣っているわけではないことはせんだんたちも知っている。だがそれでも厳しい戦いであることには変わりない。それなのに何故。
「啓太さんは……いや、あの二人は絶対に負けない。だから僕たちは僕達のやるべきことをしよう」
薫は微笑みながら告げる。それは信頼。啓太に対する絶対の信頼。そしてその犬神への。そんな薫の姿に皆が目を奪われている中、静かな海岸に大きな、誰かが走ってくるような足音が響いてくる。一体誰が。せんだん達が緊張を以てそれを迎え撃とうとした時
「たゆね……!?」
せんだんがどこか驚いたような声を上げる。そこには息を切らせながらも懸命にこちらに向かって走ってきている少女、たゆねの姿があった。だがせんだん達は驚きを隠せない。なぜならたゆねとともはねは死神との戦いで負傷し、天地開闢医局に入院していたはずだから。だがたゆねは病み上がりとは思えないような姿で一直線にこの場へと辿り着く。よっぽど急いでいたのか息は上がり、体中は汗にまみれている。
「たゆね、どうしてこんなところに!? まだ安静にしていなさいと言われたでしょう!?」
「そうそう、後はあたしたちに任せときなって」
「無理は、よくない」
せんだん達は驚きながらもたゆねをなだめようとする。きっと自分だけがのけ者にされて悔しかったんだろうと、負けてしまったのか悔しかったのだろうと。だがたゆねはそんな仲間たちの言葉を全く意に介しないまま
「……薫様っ! 啓太様を……啓太様達を助けに行きましょう!? じゃないと……じゃないときっと……啓太様は……!!」
目に涙を浮かべながら、声を荒げながら薫へと縋りつく。まるで子供のように、人目をはばかることなく。その光景にせんだん達は驚きを隠せない。確かにたゆねは子供っぽい、泣き虫なところがある。だが今のたゆねの姿はいつもとは全く異なる。鬼気迫るような、一片の余裕もない、必死な姿。
たゆねは決して自らが敗北したことで臆病になっているわけではなかった。それは犬神としての、戦う者としての本能。直接あの死神と戦ったたゆねだからこそ分かるもの。いくら啓太様でも、はけ様でもアイツには勝てない。それは確信に近いもの。それを仲間たちは感じ取る。自分達の中で一番強いたゆねの言葉に、姿に。それほどまでに啓太達が戦っている死神は規格外、怪物なのだと。
そんなたゆねを優しく抱きとめ、あやしながらも薫が言葉を告げようとした時、
「大丈夫ですよ、たゆねちゃん。啓太様は絶対に負けません!」
「え………?」
そんな明るい、自信に満ちた声が響き渡る。たゆねは涙に濡れた、泣きはらした顔でその声の主を見つめる。ケイ達も同じように、どこか呆気にとられるようにその人物へと視線を向ける。そこには
満面の笑みを、まるでこの場の空気を一瞬で変えてしまうほど楽しげな笑みをみせているフラノの姿があった。
そんなフラノの姿に皆、呆気にとられているだけ。当たり前だ。何故こんな状況でそんな笑みを浮かべていられるのか。いつもの空気が読めない行動なのだろうか。そんな中、三人だけがフラノの言葉の意味を悟る。一人は薫。薫はフラノと同じように優しい笑みを浮かべている。もう一人がてんそう。だがその表情はその前髪によって伺うことはできない。
そして最後の一人、ごきょうやはそんなフラノの言葉にある日の光景を、言葉を思い出していた。今のフラノの言葉、そしてその姿。それはまさしく確信。そう、未来視を持っているフラノだからこそもてるもの。ごきょうやは思い出す。それは自分達が啓太様と初め出会ったあの時。
そう、あの時、フラノは啓太様に何と言ったのか―――――
「………そういうことか。まったく、フラノ、そうならそうと早く言え」
「え~~? でもそれじゃあ面白くないじゃないですか~~?」
どこか呆れ気味のごきょうやの言葉にフラノは楽しそうに体をくねらせながら笑っている。
『嘘は言っていませんよ~♪』
そんな悪戯が成功した子供の様な笑みを見せながら。
事態が掴めないたゆね、そして他の者たちはその光景に呆気にとられるしかない。事態を分かっている薫とてんそうだけがそんなごきょうやとフラノのやりとりを楽しそうに見つめているだけ。ごきょうやはそんな皆の戸惑いを感じ取りながらも、一度大きな溜息を突き
「啓太様となでしこは絶対に負けない。そういうことだ」
どこか不敵な笑みを見せながら、今は光しか見えなくなった二人がいる飛行船へと視線を向けるのだった――――――
崩壊が始まり、終わりの時がすぐそこまで近づきつつある世界で、はけはその光景にただ目を奪われていた。もはやここがどこで、自分が何をしていたのか思い出せない。それほどの、目を離すことができない、犯しがたい光景がそこにはあった。
そこには少女がいた。小柄な、その身に割烹着とエプロンドレスという時代錯誤な姿をした少女、なでしこ。今、この場にいるはずがない少女。なでしこはただ、優しく抱きとめている。一人の少年を。その体は満身創痍、意識も既にない。それでもなでしこは優しく、それでも力強く啓太を抱きしめている。その表情をここから伺うことはできない。啓太にとどめを刺さんとした死神もいきなりのなでしこの乱入、そして目の前の光景に固まってしまっていた。
なでしこはそのまま自らの主の顔を見つめる。戦い、傷つき、それでも全ての力を以て戦った啓太の顔を。なでしこの手がその頬を撫でる。優しく、愛おしい者を想うかのように。慈愛を持った、聖母の様な微笑みを見せながら。その目から涙が流れ落ちる。これまでの、そしてこれからの啓太への想いを現すかのように。
わたしはまた犯してはいけない過ちを犯してしまうところだった。
自らの主を見殺しにするという、許されない間違いを。
『本当の自分を知られるのが怖かった』
そんなちっぽけな、自分勝手な願い、我儘のために。
それがわたしが戦えなかった理由。もし、啓太さんがいなければ、見ていなければわたしはきっと、あの時、既に禁を破っていただろう。でも、できなかった。それだけは。啓太さんの前で本当の自分を、今までずっと隠してきた自分を見られることが、晒すことが。
これまでの思い出が蘇る。えっちで、ちょっとお馬鹿な、楽しい主との生活。
裕福ではなくとも、騒がしく、賑やかな、あきることない時間。
初めて得た、そして初めて恋した人とのかけがえない時間。
本当に夢のような、奇跡のような日々。かけがえのないわたしの宝物。
それを壊してしまうのが怖かった。無くなってしまうのが怖かった。何よりも啓太さんに知られるのが怖かった。嫌われてしまうのが怖かった。怯えられてしまうのが怖かった。捨てられるのが怖かった。
そうなってしまうのなら例え自分は死んでも構わない。例え戦えなくとも、無抵抗に殺されても構わない。そう思ってた。でも違った。
例え啓太様に嫌われても、捨てられても、それでも、譲れないものが、許せないものがある。
あの日、セバスチャンが涙しながら、己の無力さを呪いながらも、決して譲ることのなかった理由。それは――――――
「啓太さんをお願いします……はけ様……」
「なでしこ……あなたは……」
なでしこはそのまま啓太を抱きかかえながらはけへと自らの主を託す。最後まで啓太へその微笑みを見せながら。啓太の前では決してそれを崩すまいとするかのように。はけはそんななでしこに言葉を掛けようとするも叶わず、啓太をなでしこから託される。そして
「ありがとうございました、はけ様……それと……ごめんなさい」
なでしこは申し訳なさそうに、それでも涙に濡れた微笑みを見せながらはけへと最後の言葉を告げる。はけは悟る。その言葉の意味。
それは自分の代わりに、自分が果たすべき役割を果たしてくれたはけへの感謝。そしてそうさせてしまった謝罪。
そして
三百年に渡る戒め。やらずの戒めを、禁を破ってしまうことへの謝罪。
なでしこはそのまま振り返る。自らが果たすべき役目を、役割を果たすために。その動きがまるで止まっているかのようにはけには見えた。走馬灯のように、そう、まるで消えゆく者が見せる最後の輝きのように。
『ふん……誰かと思えばあの時の臆病者か……今更雌犬一匹増えたところで何ができる?』
暴力の海が心底つまらないといった風にはき捨てる。どうやら目の前の犬神は自分と戦うつもりらしい。先日臆病風に吹かれて何もできなかった負け犬の分際で。だがまあいいだろう。余興だと思えばいい。それに誰一人逃がす気もない。新堂ケイはもちろん、あの犬神使いに縁の者まで皆殺しにする。そうしなけば自分の気が済まない。ここまでコケにされた報いを与えなければ。
「そうです……わたしはただの雌狗、許されない罪を犯し、そしてまたそれを犯そうとしている愚か者です」
そんな死神の言葉を、侮蔑を受けながらもなでしこは表情一つ変えることなく、自らのスカートの裾を持ちながらお辞儀をする。そのあまりにも場違いな行動、姿に死神は呆気にとられる。それはまるでダンスを申し込むかのよう。あまりの恐怖に気が触れてしまったのだろうか。
だが知らず死神は息を飲んでいた。体はそれを前にして動かない。まるで金縛りに会ってしまったかのように。だが死神には分からない。それが何なのか、今、自分の身に何が起こっているのか。
「〈破壊の槌よ。全てを滅ぼす万物の力よ。わたしは再びたった一つのことを望みます〉」
それは言霊。自らを縛る戒めを、鎖を解き放つもの。そしてなでしこはその右腕を天へとかざす。ゆっくりと、静かに、だが確かな意志を以て。
瞬間、光が全てを照らし出す。凄まじい青白い光が、いや霊力が。そのかざした手の先にある、崩壊しかけた船の天井から垣間見える夜の星から降り注ぐ。天に返した力。かつてなでしこは強大過ぎる自らの力をその星へと、天へと返していた。その力が今、再び三百年の時を超え、本来の持ち主へと帰って行く。圧倒的な力を以て。その光によって崩壊しかけた船にさらなる振動が起こる。それはまさに地震、天変地異。空という、それとは無縁のはずの場所にすらその力は及ぶ。
その光景にはけは目を奪われる。啓太を庇いながら、距離を置きながらもそれを見続ける。かつて一匹の犬神がいた。小さな少女、穏やかな、優しい少女。だがその真の力を、姿を自分は知っている。もうほとんどの犬神が知らないその姿。彼女が今、再び目覚めようとしている。たったひとつの望みのために。
―――――――自らの主を守る、ただそれだけのために。
『お前は……一体……?』
ただそう口にすることしかできない。いや、それしかできない。目の前の光景が何なのか死神には分からない。ただ口にしただけ。お前は誰だと。何者だと。そんな死神の姿になでしこは一瞬だが、たしかに見せる。それは笑み。まるで獲物を見つけたかのような、そんな笑み。
―――――わたしはこの後、死にましょう。もう生きている意味はないから。
それは宣誓。
―――――だけどあなたも殺しましょう。生かす価値がもうないから。
それは宣告。
―――――教えてあげましょう。わたしは犬神。『落ちこぼれの犬神使い』川平啓太の犬神。破邪顕正を胸に、世に仇為す邪悪と戦う者。
それは宣言。
「では始めましょう。罪深い者同士。許されぬ死の舞踏を……あなたに本当の『暴力』を教えて差し上げます」
―――――――お前だけは絶対に許さない。
この瞬間、『最強の犬神』なでしこが復活した。