人の往来が激しい通りで小柄な少女がその手に買い物袋を持ちながら歩いている。その姿もとても普通とはいえない物。割烹着にエプロンという外出には、いや屋内でもあっても着ている者はいないような格好。しかし、それを全く感じさせないような雰囲気がそこにはある。むしろこれ以上に少女に似合う服装はないと誰かなら太鼓判を押すだろう。それに加えてここは少女がいつも利用している家から近い商店街。そのため往来の人々も見慣なれているため少女が浮くようなこともなかったのだった。
「いらっしゃい、なでしこちゃん。今日は何を買いに来たんだ?」
「こんにちは。今日は玉ねぎと人参、あとじゃがいもをお願いします」
「はいよ、今日はカレーかい?」
「はい、少し日持ちがする物にしようと思って……」
いつもの常連である少女、なでしこが来たことで上機嫌になりながら商店街の八百屋の店主は次々に野菜を詰めていく。なでしこもそんな店主との会話を楽しんでいるようだ。もっとも店主は美人であるなでしこと話せることが嬉しいだけだったのだが。その証拠に知らず顔は赤く、鼻の下が伸び始めている。だがそれを責めることはできない。何故ならこの商店街の男性は皆同じ姿をなでしこの前では晒すのだから。だがそんなことなど露知らずなでしこはいつも通りの優しい笑みを浮かべている。そんな中
「ちょっとあんた。またなでしこちゃんに迷惑かけてんじゃないだろうね!」
「ば、馬鹿野郎! そんなことするわけねえだろ!」
「お、お二人ともそのぐらいに……」
いつのまにかやってきた店主の妻が慌ただしく詰め寄ってくる。その剣幕に店主は身をすくめながら言い訳することしかできない。何とかそれを収めようとするもののなでしこは苦笑いすることしかできない。それはこの光景がいつも通り、日常茶飯事であったから。
「全く、なでしこちゃんには啓太ちゃんっていう彼氏がいるんだからあきらめな!」
「あ……あの、わたしと啓太さんはそんな関係じゃあ……」
「今更何言ってんだい、夫婦って言われても驚きゃしないよ、あたしは」
「坊主もこんな器量良しもらって幸せもんだな。それなのにうちときたら……」
「何か言ったかい、あんた?」
「あ、あの、ありがとうございました。失礼しますっ!」
二人の言葉に顔を真っ赤にしながら脱兎のごとくなでしこは走り去ってしまう。普段の温和な姿からは想像もつかない程の速さ。残された二人は呆気にとられるしかない。
「ちょっとからかいすぎちまったかな?」
「いいんじゃないかい。満更でもなさそうだったしね。」
店主の妻はその後ろ姿を見ながらもどこか楽しげに笑みを浮かべている。確かにあの相手では苦労は絶えそうにはないがそれでもあの子は楽しそうにしている。ならそれを楽しみ、もとい見守らせてもらおう。二人はそんなことを考えながらも仕事に戻るのだった。
「はあ……」
何とか落ち着きを取り戻したなでしこは溜息をつきながらもいつもの足取りに戻る。だが赤くなった顔はまだ治ってはいなかった。その胸中にも先程のやりとりが残っている。
わたしと啓太さんの関係。恋人、夫婦。周りから見ればそういうふうに見えるのでしょうか。それは望ましいこと……ではなかった嬉しいことではあるのですが残念ながらそれは違います。
犬神使いとその犬神。それがわたしたちの関係。
もっともわたしたちのそれは他の犬神使いたちとは大きく異なるのですが。それはわたしの役目が主に啓太さんの家事、生活のサポートにあるから。啓太さんはまだ高校生であり、十七歳。その炊事、洗濯、掃除もろもろをこなすのがわたしの仕事。もちろんその家計も預かっています。家賃に学費、食費、光熱費、そして将来に向けた貯蓄と家の家計は火の車です。今月もまだ……と話しがずれましたがそれがわたしの仕事、役目です。それはわたしにとってはとてもやりがいがあり、何よりも楽しいこと。仕事が、というよりは啓太さんと一緒にいれることがですが。啓太さんも契約の時にそれは了承してくれています。もっともあの時は啓太さんもよく分かっていなかったのかもしれませんが。
でも、それでも思わずにはいられません。わたしが啓太さんの犬神でよかったのか。
「やらずのなでしこ」
それがわたしの二つ名。戦うことを棄てた、逃げたわたしを表す言葉。
「破邪顕正」
邪を破り正しきを顕す。正義を行い、主と共に魑魅魍魎と戦うこと。それが犬神の本性、あるべき姿。それなのにわたしは――――――
そんなことを考えていると急に周りが騒がしくなっています。どうやら通りの表の方で騒ぎがあるようです。
「何かあったのかしら……?」
気にはなりましたがわたしはそのまま家に帰ることにします。家には啓太さんが待っているはず。それにいつまでも落ち込んでいては心配させてしまいます。啓太さんはそういうことには鋭いので気をつけなくちゃ。
なでしこはそのままアパートへと足を向ける。その騒ぎの原因が自らの主であるなど欠片も思わずに――――――
時同じくして二人の男がその光景に戦慄していた。一人は犬神使い川平啓太。もう一人は白いコートとスーツを身に纏い、黒い髪をオールバックにした男性。名は仮名史郎。特命霊的捜査官、まさに真面目が形になったような男だった。その手には光剣が握られている。それはエンジェルブレイドと呼ばれる使用者の霊力を剣へと変換する魔道具。同じように啓太もその手に自らの攻撃手段である蛙の消しゴムを手にしている。それはつまり今、二人は戦闘態勢であること。だが二人は身じろぎひとつせずただその光景に目を奪われていた。
それは人だった。一人の男が二人の目の前にいる。だがそれだけなら二人が戦慄する理由とはならない。
「なあ、仮名さん、あいつ空飛んでねえ……?」
「うむ、魔術書の力だろう。それが私が君に助けを頼んだ理由の一つだ」
どこか顔を引きつかせながらの啓太の言葉に仮名は茶化すことなく真剣な、真面目な様子で答える。仮名の攻撃手段は剣であるため空を飛ぶ相手には相性が良くない。そこで遠距離でも攻撃可能な啓太に助力を求めてきた。それが一つの理由。だがそんなことはどうでもいい。いや、どうでもいいことはないがそれはいいことにしよう。だがこれだけは、これだけは見逃すわけには、確認しないわけにはいかない。何故なら
「何であいつ……何も着てねえんだ……?」
「うむ、恐らくは奴の趣味だろう」
全裸だった。紛うことなき全裸だった。あえてまだ言おう、全裸だった。
いや、ただの全裸ではない。何故か黒のマントの様な物だけ羽織っている。だがそれは決してその裸体を隠すためには使われていない。その内側には盗んだのであろうブラジャーが貼り付けられている。そのせいでさらにその変態性に磨きがかかっていた。
「話が違うじゃねえか! 下着泥じゃなかったのかよ!?」
「下着泥であり露出狂だったのだろう……それよりも奴から目を離すな。既に戦闘は始まっているんだぞ」
「あんな奴から目を離せないくらいなら負けた方がいいわっ!!」
「いや、君なら奴のことを何とかできると私は信じている。同じ趣味を持つ者同士なら……」
「だから俺は変態じゃねえって言ってんだろうが!!」
あまりの言い草と騙されたことに激高する啓太を見ながらも仮名は全く自分のペースを乱すことなく武器を構えている。いくら言っても無駄だと悟った啓太は渋々再び戦闘態勢に入る。とりあえず言いたいことは山ほどあるがまずはあの変態を片付けてからだ。
だがどうも最近自分はこんな役ばかりな気がする。これまではこんなことはなかったのに。まるで何かを補うかのように、まるで神の見えざる力が働いているかのように。そんなことを考えている時、空を飛んでいる変態、下着泥と目があった。だが同時に妙な違和感が襲ってくる。しかし体には何の異常もない。一体何なのか。そんな疑問を抱いた瞬間
「貴様、貴様も女持ちなのか……おのれ……おのれ―――――!!」
突如下着泥が奇声を上げ始める。突然の事態に啓太は何が起こっているのか分からない。
「川平、奴は今、念視の様な物が使えるようになっている。どうやらその対象の近くにいる異性の姿が奴には見えるらしい。その異性からブラジャーを奪うのが奴の目的だ」
「あっそ………」
もはや突っ込みを入れる気力すらない。何故もっと凄いことに使えそうなことにその力を使わないのか。いや、あの下着泥にとってはそれが一番欲しい力だったのかもしれない。
「貴様などに俺の気持ちなど分かるまい……女の子と一緒に楽しく暮らしている貴様などに!!」
どうやらよっぽど啓太を通してみた映像が気に障ったらしく下着泥はそのマントを荒々しくたなびかせながら暴走し始める。その光景に周囲にいた人々はまるで蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていく。まるでその三人だけを残すように。仮名はまるで自分がこの二人と同類に思われているような感覚に襲われ冷や汗を流す。もっともそう思っているのは仮名だけで既に仮名はその仲間入りを果たしているのだが。
「てめえ……さっきから聞いてれば好き勝手言いやがって……」
言葉と共に啓太の空気が変わって行く。ついに戦闘が始まると察した仮名に緊張が走る。だが
「女の子と一緒に暮らすのがいいことばかりだとでも思ってんのか―――――!!」
それは啓太の怒号と共に霧散してしまった。
「お前に分かるのか、あの胸を、尻を前にして手を出すことができない苦しみが! 同じ部屋で寝る苦しみが! 部屋が狭いせいで隠れて一人でピ――することもピ――することもできねえんだぞ!? ちくしょう、ちくしょう……ちくしょう―――――!!」
それは啓太の心の声、嘆き。目からは血の涙が流れている。変なところで純情な十七歳川平啓太の心の叫びだった。
「お、落ち着け川平! 気持ちは分かるが気をしっかり持て! 奴の思う壺だぞ!」
「うるせえ! ピ――の仮名さんには分かんねえだろ!」
「ちょっと待て川平! 私は断じてピ――ではない! 誤解を招くような発言はよせ!」
二人はもみくちゃになりながら仲間割れを始めてしまう。互いが謂れ尚ない汚名をすすがんと躍起になっている。だがその光景は端から見れば間違いなくそういう趣味があるように見えるだろう。
「貴様ら……私を馬鹿にしているのか―――――!!」
流石に無視され続けて堪忍袋の緒が切れたのか下着泥はその魔術書の力によって光を、邪気を二人に向かって放ってくる。それはまるで雨のように二人に降り注ぐ。だが腐っても二人はプロ。すぐに我を取り戻して啓太と仮名はその邪気を避ける。だがその数は凄まじく攻勢に出ることができない。このままでは埒が明かない。啓太は決死の覚悟でその光に向かって突進していく。
「駄目だっ! 川平、その光に当たっては!」
「大丈夫だ、仮名さん! あの光は俺には通用しない!」
仮名の叫びを振り切りながら啓太は一直線に下着泥に向かって接近していく。この光は当たった者の近しい異性が身につけているブラジャーを盗む力を持っている。そう、ならば恐れることは何もない。何故なら――――――
光が、邪念が啓太を包み込む。その瞬間、下着泥の顔がいやしく歪む。馬鹿め。自分の女の下着が、ブラジャーが奪われるという恥辱を味わうが良い。そう勝利を確信した時、違和感に気づく。いつまでたってもその手にブラジャーが現れない。あり得ない。一体何故。それは
「なでしこは……ノーブラだ――――――!!」
その一言によって証明される。同時にその指にはさんでいた蛙の消しゴムが次々に下着泥に向かって放たれていく。まるで弾丸のように。それが啓太の力。霊能力者としての、犬神使いとしての力。
「白山名君の名において命じる……蛙よ、破砕せよ!!」
瞬間、蛙の消しゴムがまるで爆弾のように大きな爆発を起こす。下着泥は隙を突かれたことによって為すすべなくそれに飲み込まれていく。後には気を失った下着泥と魔道書があるだけ。
それを見届けた後、啓太は誇らしげにサムズアップをしながら仮名に笑みを向ける。まるで戦友に向けるように、どこか輝きすら見せる姿で。
仮名はそれに同じようにサムズアップするしかない。だが仮名は確信していた。自分の彼女、いや犬神のプライベートを公衆面前で叫んでいながら誇らしげな彼は間違いなく、紛うことなき、ヘンタイだと。
そして彼は気づいていない。それは先の光。あれにはもう一つ力があった。それは浴びたものの服を消してしまう力。
今、川平啓太はドヤ顔を見せながら全裸を晒している。それが川平啓太の生まれて二度目のストリーキングだった―――――――
「……ただいま」
「おかえりなさい、啓太さん……えっ!? ど、どうされたんですかっ!?」
なでしこは帰ってきた啓太の姿に思わずそんな声を上げてしまう。その姿はまるで疲れ切ったサラリーマンのよう。いや、そんな表現すら生ぬるい程の姿がそこにはあった。
「いや……ちょっと仕事が入って……でももう片付いたから大丈夫……」
「と、とにかく早く上がってください、何か飲み物出しますね!」
ぱたぱたと慌ただしくなでしこは台所へと走って行く。啓太はそのまま自分の座布団へと腰を下ろす。あの場に仮名がいたことで何とか事なきを得たがそれでも大切なものを失くしてしまったような気がする。とにかく気をつけなければ。まるで自分を狙うかのような悪意が存在している。もう二度と留置所には、いやなでしこに迎えに来てもらうようなことは避けなければ。そんなことを考えているうちになでしこが飲み物を持ってやってくる。その姿を見ていると家に帰って来たんだなという気分になる。
「………え?」
なでしこはそんな声を上げることしかできない。それは自分の頭。それを啓太が撫でている。無造作だが、それでもどこか優しさを感じる手で。撫でている啓太も特に他意はなかった。あえて言えばそうしたほうがいいと、何となく思ったというのが正しい。それが犬神使いが犬神使い足る、啓太が啓太である所以。なでしこは顔を赤くしながらも俯き、その頭を撫でてもらっている。どうやら満更ではないらしい。
だがふと、啓太はそれを目に捉える。それはテレビ。何もおかしいことはない。だが待て。その電源が落ちている。確か自分はここを出て行く時それを消しただろうか。いや、電話をしながら急いで出たためそんな暇はなかった。恐らくは買い物から帰ってきたなでしこが消したのだろう。
だが思い出せ。自分は仕事に出る前に何をしていたかを。知らず血の気が引いていく。冷や汗が背中を伝う。
「なでしこ……もしかして……テレビ……点きっぱなしだった……?」
「…………はい」
なでしこは耳まで真っ赤にしながらかすれるような声で答える。それが全てを物語っていた。
啓太は声にならない奇声を上げながら部屋を飛び出していく。なでしこも慌てながらその後を追うしかない。そんな二人の鬼ごっこはしばらく続く。
それがある日の啓太となでしこの日常だった―――――――