拝啓お母様。マリーです。
わたしが村を出てから一ヶ月が経ちましたが、元気でいてくれているでしょうか。
あの時わたしが海軍に入りたいと言ったことに、村で唯一反対しなかったお母様には、今でも感謝しています。
予定ではもうそろそろサウスブルーの第192海軍支部に到着するはずです。
そこでわたしは、今まで培ってきた航海士としての技術を役に立て、立派な海軍航海士になれるように、日々精進していくつもりです。
そういえば、航海士の勉強を始めた時に率先して手伝ってくれたのもお母様でしたね。
家計がとても苦しいあのころに、航海士の教本をわざわざ取り寄せてくれた時なんて、あまりの嬉しさにわたしは泣いてしまいましたよね。
あの時お母様が言ってくれた言葉を、今でも思い出せます。
――――マリー、あんたは絶対、勝ち組になるんだよっ。絶対変なのにひっかかっちゃ駄目だからねっ!
正直、今でもその言葉の本当の意味はよくわかっていません。
でもねお母様。わたしはちゃんとわかっているんです。
あの時お母様は、わたしのことを想って言ってくれたんだって。
真剣に、真剣に、わたしのことを考えてくれていたんだって。
だからねお母様。
わたしは絶対、勝ち組になってみせます!
いつの日か海軍大将の乗る軍艦の航海士になって、あれが世界一の航海士・マリーマリーだよ!って、人々から言われてみせます!!
だからお母様。
わたしが立派な航海士になるその時まで、どうかお元気でいてください。
いつか世界一の海軍航海士になって、お母様を迎えに行きますから。
待っていてくださいね。
あなたの娘、マリリアント・マリーマリーより。
お母様へ、海の上から感謝を込めて。
【航海士さんじゅうさんさいとヒモ男】
「じゃあカモメさん、よろしくねー!」
どこまでも続く水平線。宝石の様に晴れた空。ガラスの様に透き通った海。サウスブルーの海原を、小さなヨットが進んでいく。
ヨットの上で波に揺られながらわたしは、先程書いたお母様への手紙を、顔見知りのカモメさん(ニュース・クーという種類のカモメみたい)に預けたところだった。
ニュース・クーは本来船乗り相手に新聞を配達してくれるカモメなんだけど、何度も顔を合わせるうちに、いつの間にか仲良くなってしまっていた。
やっぱり、いつも手作りクッキーをお礼にあげていたのが良かったのかなと、そんなことを思う。
カモメさんはわたしに向けて「任された!」とでも言うようにひと鳴きすると、力強く羽ばたいて、南に向かって飛んでいく。
わたしはカモメさんが水平線の向こうまで羽ばたいていく光景を、手を振りながら飽きることなく見送っていた。
海に出てから、既に一ヶ月が経った。
わたしが住んでいた故郷の島“バテリラ”は、あまり大きな島ではないし、島自体も実に辺鄙な場所にある。
昔はバテリラにも海軍の駐屯所があったらしいのだけど、色々あって今では駐屯所も閉鎖されてしまっている。
したがって、海兵志願のわたしが海軍に入るためには、近くの海軍支部まで行かなければならないのだ。
バテリラから一番近い場所にある第192海軍支部は、なんと島から船を出して一ヶ月近くもかかってしまう場所にある。
どれだけバテリラが辺鄙な田舎町だったのかと、そのことを知ったわたしは大いに嘆いたものだった。
でも、いくらバテリラが田舎町だからと言ったって、海軍が全く来ないわけではない。
彼等海軍は大体二ヶ月に一回のペースでバテリラに寄港していく。辺鄙な島とはいえ、海軍はちゃんと目を光らせて一般市民を守ってくれるのだ。それは海兵志望のわたしにとっても実に誇らしいことだった。
海軍の軍艦がバテリラに寄港していくのならば、その時に仕官すればいいという考えもあった。
だけどわたしはまだ13才の子供で、頼み込んでも船に乗せてくれるかどうかもわからない。見習いとして乗せてくれれば御の字だけど、実際にはそうもならず、後何年か待ちなさい、と諭されるのが関の山だと思う。
そこで考えたのが、実績を作るということだった。
「つまり、自分ひとりだけで一ヶ月近くの船旅を乗り越えれば、航海士としての実力も示せるってことですよねっ」
今までの道程を思い浮かべながら、独り言。
舵輪を右手に、左手に双眼鏡。そろそろ見えてもおかしくないはずの海軍支部のある島は、まだまだ見えてこない。
少し先に小さな岩礁が見えるだけで、他には何も見えなかった。とりあえず、岩礁に引っかかって座礁しない様にしないとだめですね、などととりとめもないことを考える。
「最近はあんまり風が吹かないし、やっぱり予定より遅れちゃっているみたいですよね……」
またまた独り言が口から漏れる。
そもそもここ一週間、最後に寄った島を出てからは、誰とも話をしていない。せいぜいがカモメさんに声をかけたぐらいである。
そんな状況で、ついつい淋しくなって独り言を連発する様になったとしても、おかしくなんてない……。ないよね、たぶん。などとマリーは思っていた。
「それにしても随分順調でしたよね。嵐も高波もなかったし、本当は航海士としての経験も積みたかったから、もっとこうなんていうか……」
そう、苦境というかなんというか、そういうものが足りなかった様な気がする。
海軍大将の乗る軍艦の航海士になるということは、あの悪名高い“グランドライン”や、さらには“新世界”を乗り切るだけの航海術がなければならない。
だからこそ、誰かの命を預かっているわけではない一人旅である今のうちに、そういった苦難を乗り越えておきたかったのだ。
「そう、例えば船がひっくり返りそうになるくらいの嵐とか、例えば海賊船に見つかって必死に逃げるとか」
―――――例えば今にも沈没しそうな目の前の小舟から、乗組員を救助するとか。
「って、沈没―――――――――――!?」
今まで岩礁だと思っていたそれは、今まさに沈み行く船の舳先で、その舳先の部分には男が一人しがみついていた。
「あわ、あわわわ、助けないとっ!」
慌てて浮き輪にロープを結びつける。ふた回りふた結び。簡単にはほどけない様にきつくロープを結んだその浮き輪を、力の限り投げつける。
もっとも、まだまだ子供のわたしにそう力があるわけもなく、投げた浮き輪は男から約10メートル近く離れた場所に落ちてしまっていた。
「そこの人ー! ロープと浮き輪投げたから、それに捕まってくださいー!」
仕方がないから大声で叫ぶ。浮き輪があの人のところまで届かなかったなら、あの人自身に浮き輪まで泳いでもらえばいいのだ。
その声でわたしに気づいたのだろう。もう既に舳先部分しか海面に残されていない船に捕まりながら、その人は笑顔を浮かべながら、こう言った。
「あ、俺、カナヅチだから、無理だわ」
妙に間延びした緊張感のない声でそんなことをのたまうと、ドプンと、そんな音を立てながら、その人は小舟と運命を共にした。
「って、沈んだ――――――――――――!?!?!?!?」
海原にわたしの驚愕の叫びが響き渡る。
波に揺られるロープ付きの浮き輪。いつまで経っても浮かんでこない男の人。呆然としながらそれを見続けるわたし。
「あああああ、もう! 世話が焼けますッ!!」
我に返ったわたしが、上着を脱ぎ捨て水着姿で海に飛び込んだのは、10秒ほど経過した後だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ま、まさか……こんな形でファーストキスを体験するはめになるなんて……思いも、しませんでした……」
荒れた息を整えながら仰向けになって空を見上げる。隣にはゲホゲホと水を吐き出している男の人。
しこたま水を飲んだ挙げ句、呼吸まで止まっていたこの人を、わたしは人工呼吸で蘇生させたのだった。
「いや、これはいわゆる人命救助であって、ノーカン……ノーカンです。ノーカンのはずですよね……。ええ、まったくもってノーカンです」
ノーカンノーカンと何度も呟きながら、よくもまあ助けられたものだと思い返す。
15メートルほど離れた場所で沈んだあの人を、海に潜って必死に探してみれば、ガボガボと空気を吐き出しながら沈んでいく姿を発見。
なんとか泳いで腕を掴み、必死の思いで海面を目指す。ここで暴れられたらわたしの力じゃとてもじゃないけど引き上げられなかったのだけれど、どうやら既に失神していたらしく力が抜けきっていたので浮き輪を目印に何とか海面まで浮上。
さて後はヨットに戻るだけ、と思ったらどう見ても男の人が息をしていない。
またまた必死の思いでロープをたぐり、火事場のなんとやらでヨットに上がり(この辺りは必死すぎた所為かもう覚えてない)、人工呼吸を施したのが、ついさっきの出来事だった。
「だ、だいじょうぶですか? 意識ははっきりとしてます? 後遺症とか、そういうのが出なければいいのですけれど……」
隣で水を吐き出していた男が起き上がろうとしているのを見て声をかける。
意識があるなら幸いで、命があったならもっと幸いだ。
経過はどうあれ、助けることが出来たのは素直に嬉しかった。
「ああ、ありがとなぁお嬢ちゃん。我ながらもうダメだと思ってたぜ。やばかったー」
そう言って上半身だけ起き上がり、わたしに振り返る男の人。
見た目は20代前半くらい。海の上だというのに薄いブルーのスーツ姿。先程まできっちりと締められていたネクタイは、なかなか良い趣味の柄をしている。
肩まで伸びた黒髪に、どことなく愛嬌のある笑顔。それなりに格好いい人に見えなくもない。
「それは、なにより、です」
あまりの疲労で起き上がる気力もないわたしは、どことなくおざなりに答えていた。
男の人も疲労の所為か、そのままの姿勢で立ち上がる気配もない。
無理もない、なんと言ってももう少しで溺死するところだったのだ。すぐさま起き上がることが出来なくても、それはもうまったくもっておかしくはない。
そのまま起き上がることは諦めたらしく、まっすぐわたしを見つめながら、愛嬌のある笑顔を向けてきていた。
「いや、マジで感謝してるぜ。お嬢ちゃんが助けてくれなかったら本気で海の藻屑になっていたところだったからな。ありがとよお嬢ちゃん」
そこまで言われると、さすがに悪い気はしません。
何ともむずがゆい気分に耐えながら、照れ隠しに目を逸らしてしまったのも、仕方がないことかも知れないと思います。などと、モノローグの文体にすら影響が出る程度に気恥ずかしさを感じている。
と、目を逸らしたその隙に、気づけばその人は、仰向けになったままだったわたしの上に倒れ込んできていた。
「っと、わりぃ、まだ上手く力が入らなくてな……」
何とかわたしと激突する前に片手で身体を支えた男性。倒れかかってきた所為で実に距離が近い。驚愕に耐えながらも、何とか声を絞り出す。
「ししし、仕方がないです、ね。さささ、さっきまで意識も、なかったのですからっ!」
声が震えまくりだ。初めてここまで男性に接近されたことにより、妙に意識してしまっているのがわかってしまう。冷静になれマリーマリー。わたしはできる子のはずです。相手はただの病人で、身体に力が入らないからこんな体勢になっているだけで。でも他の人が見たらどう見てもわたしって押し倒されてるよね? いやいやそんなことを考えているから顔がどんどん熱くなってもうきっと真っ赤なんじゃないですかわたしの顔。
テンパり始めたわたしに対し、男の人はついに腕にも力が入らなく無かったのか、そのままもたれかかってきた。
顔が近い顔が近い!! わたしの顔のすぐ横に、男の人の顔がある!!
「ああ……。良い匂いだ……。海の女の匂いがする……」
ちょ!
なんですかそれ! って、駄目ですってば!! 耳に息を吹きかけないでください!!
「なぁ……お嬢ちゃん」
まさにゼロ距離。お互いの頬と頬が触れ合う距離。先程の人工呼吸よりも、さらに近い距離。
いや、あの、これ、ちょっと、まって、なにが、いったい、わざとだよね、これ絶対わざとだよねっ、って、わたし、顔真っ赤、ひゃあ、耳元で囁かないで、声が近い、声が渋い、心臓が爆発しそう、うあ、照れてるなんてレベルじゃないし、わたしってこんなに、押しに弱かったの!?
「俺をさ……」
どくんどくんと爆発しそうな鼓動。上半身に直接触れている鍛えられた男性の身体。耳元に吹きかけられる息。羞恥のあまり真っ赤になって燃え上がりそうな全身。
一体何を言われるのか。一体何をされるのか。超展開なんてものじゃない。沈没している船から助け出した男の人に押し倒されている!? そんな展開、お母様の持っていたえちぃ本にだってなかったはずっ。
いつもいつも、お母様に言われていた言葉を思い出す。少しでも平静になるために。しかし、心臓の鼓動はまったく収まらず、羞恥のあまり押しのけることもできず、ただただ流されることしかできない。
流される? 流されるって―――えっと、えっと、まさかXXX板のような展開に!? 13才なんて設定でそんなことになったら倫理的な意味で色々と拙いのでは!? って、どんなメタ発言しているわけですかわたしはっ!?
怒濤のような超展開(ただしえろげ的な)に半ば錯乱しながらも、ごくりと生唾を飲み込む。覚悟なんて決めようもないが、それでもなるべく覚悟を決めて男の次の言葉を待つ。
そして―――――
「俺を、ヒモとして、養ってくれないか――――――――――――――?」
あれだけ、熱かった、体温が、一気に、冷めた、気がした。
「アホですかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
強烈なアッパーカット。押し倒されている格好からどのように繰り出したかも思い出せない人生最高の一撃が男の身体を宙に浮かす。そしてそのまま立ち上がる勢い全てを込めた強烈なサイドキックを土手っ腹に。人生で初めて打ち出した空中コンボだった。
あの時思い出したお母様の言葉が、脳内を埋め尽くす。
そういえば、そうだった。今まで意味はわからなかったのだけれど、ようやくその言葉の意味がわかった。
あれはきっと、こういうことだったのだ。
『マリー、あんたは絶対、勝ち組になるんだよっ。絶対変なのにひっかかっちゃ駄目だからねっ! ウチの家系の女はみんながみんな、タチの悪い男にひっかかるという最悪な血筋なんだ! 母さんも、ばあちゃんも、ひいばあちゃんも、そのばあちゃんのばあちゃんまで!! 一族みんなシングルマザーっていう最悪すぎる家系なんだから!! あんただけはいい男を捕まえて勝ち組になるんだよっ!! 絶対変な男に貢いじゃだめだからねっ!!』
そして、わたしの前に現れた男の人は、13才の女の子相手に、ヒモにしてくれと宣言した、とてつもないダメ男でした………………。
お母様、わたしももう、ダメかも知れません。
キャラクターデータ
マリリアント・マリーマリー。
航海士見習いの13才の少女。主人公兼ヒロイン。
色々と幸が薄かったりする可哀想な子。
ダメ男さん。
色々とダメな男。
ちなみにロリコンではない。
マリーを押し倒した(未遂)のは実に騙しやすそうに見えたため。
正真正銘のダメ男である。
つづくかも?