隊商の被害状況を確認していく一刀だが、そこで1つ困った事に気付いた。
元譲が付けてくれた10人なのだが、怪我人の対処や被害者からの聞き取りとかは問題なくこなしてくれるのだけど、記録が出来ない ―― 文字が書けないし読めない人たちであったのだ。
要するに識字の問題である。
「これは予想外………」
一刀は、近代以前ですらも脅威の識字率を誇った日本で育っていた為、文字の読み書き “程度” は誰でも出来ると思い込んでいたのだ。
一応、識字の問題は以前にも意識はしていた。
寒村の頃は、村長ご一家だけしか文字の読み書きが出来なかったのだから。
だから村では子供に、簡単な漢字の読み書きと計算を教えていた。
とはいえこの陳留、大都市の生まれと育ちであればと思っていたのだ。
その意味で一刀は、まだこの時代を甘く見ていた。
尤も、この時代で1年近く過ごしているのだ、その対応を一刀も身に付けていた。
「まっ、仕方が無いか」
開き直る。或いは諦めるという意味で。
この場での聞き取りなどを早々に諦めた一刀は、この隊商を護衛して、素早く陳留へと戻る事を決断した。
この判断の背景には、隊商の人達が、山賊達が何やら企んでいたと聞いていた事があった。
数的に1桁は優に違う相手なので、かの夏候元譲が討ち取られるとは思わないが、欲の絡んだ人間が何を仕出かすか判らないのもまた、事実であった。
となれば、ここは三十六計逃げるにしかずと、一刀は早々に移動の準備を隊商の人達に要求する。
幸いと言って良いかは微妙ながらも、動かせない重症の人間は居なかった。
襲撃時に怪我をした護衛役の人達は、悉くが殺されていたのだから。
商品の乗っている荷馬車に積む事は出来ないし、かといって埋めていく時間が今は勿体無い。
そう一刀は考えたのだ。
「我々の為に死んだ人ですから………」
口を濁すのは隊商の長である。
その気持ちは一刀とて判る。
身を挺して護衛を行った人の遺体を放棄して逃げるのは良心が咎めるものだ。
しかし、今は生きている人を優先すべきと説き、後で責任を持って埋葬する旨を告げて準備を急がせた。
そして10人の内で足の速い1人を、元譲への伝言役としてこの場に残し、もう1人を陳留郡太守への報告役として先に行かせたのだ。
如何に曹孟徳が刺史として兗州を統べているとはいえ、陳留を直接預かる郡太守の顔を潰しては拙いとの判断である。
よく考えて動く一刀。
元譲がこの事をしれば、深い満足を覚えるだろう。
だが、この隊商が陳留に動く前に来る者達が居た。
山賊の別働隊である。
山賊の親分は、追いかけて来る元譲の部隊相手に策を成すのではなく、元譲達を退きつけて、その間に隊商の商品を抱えて逃げる予定だったのだ。
これは、陳留に残っていたのが夏候元譲1人であったと知っての策であった。
その意味で策は成功していたのだ、予定外であった一刀の存在を除けば。
「北、北副長! 新しい賊です!!」
一瞬、一刀の事をどう呼べばと迷った兵は、その前の夏候元譲の言葉から文字を拾った。
「それは困ったな」
兵の迷いに気付かぬままに一刀は、意図的に、いっそ暢気にも聞こえる風に答えると、賊を確認する。
手に手に武器を持って駆け込んでくる。
武器が揃ってなければ、鎧なんて着てもいない。
正に、賊だ。
但し数に問題があった。おおよそで20余名といった按配だったのだ。
詳細な数値は読めないが、少なくとも此方よりは多いのは確実であった。
「総員集合、矛を持てっ!」
腹に力を入れて号令を掛けて自らも抜剣した一刀は、隊商の長に告げた。
急いで陳留へと逃げよ、と。
陳留には少数であろうが、まだ郡太守配下の官軍が居る筈なのだ。
気の利く指揮官であれば、支援に出てくるだろうし、そうでなくとも隊商が陳留へと逃げ込めれば、一刀は自分たちの勝ちだと考えていた。
それに、隊商が陳留に逃げ込んだことで山賊達の目的、隊商からの収奪が困難と分かれば山賊の別働隊も撤退するかもしれない。
そういう算用があった。
が、隊商の長は根が善良なのだろう、今度は一刀たちの身を案じだした。
「あっ、貴方達を置いて……」
震えながらも言う長、それは1つの勇気であった。
しかし、今は一刀にとっては迷惑であった。
既に賊との距離は1里、500mを切っているのだ。
荷の重い荷馬車は、早く動き出さねばならない。
だから一刀は命じた。
急げ、と。
隊商の長はその言葉に頭を下げると一言、御武運をと告げて隊商を動かしだした。
慌てて去っていく隊商を見て、一刀は、自分が命令が上手くなってきたなぁと妙な感慨を得ていた。
徒の、それこそ市井に紛れれば目立つこともないだろう自分が、大の大人達に命令し、動かしている。
命を預かっている。
何と言う事だろうか、と笑いにも似たものを感じた。
「北副長?」
そんな気持ちのままに、一刀は呼びかけてきた兵を見た。
顔に出た、自らの内面に気付かぬままに。
「何だ?」
「いえ、何でもありません」
だから兵は黙った。
否、その兵だけではなく一刀の顔を見た兵は皆が皆、感心していた。
この状況で、来たばかりの若造は笑ってやがる、と。
或いは、勝つと確信しているとも思っていた。
だからだ、この場に居た兵たちの肩から緊張が抜け落ちたのは。
兵たちはチラチラと僚友を見て、そして互いに小さく笑いあい、その気持ちを共有したのだ。
敬愛する夏候元譲から離れ、仲間から離れ、率いるのは今日着たばかりの若造。しかも敵は自分たちよりも数が多い、倍以上だ。
そんな悪条件で緊張していた兵たちは、一刀の笑み1つで無駄な力を抜き、常の全力を出さんと腹に力を入れられたのだった。
だが一刀は兵たちの変化に気付けぬままにじっと山賊の別働隊を見ていた。
距離は既に100mを切っている。
初めての合戦、否、野戦だ。
自分を鼓舞するように腹に力を入れ、自らの剣を掲げる。
「総員、矛あげぇ!!」
自警隊の訓練で培った声を張り上げる。
予備命令だ。
彼我の距離は50mを切り、もはや、迷う時間は無い。
一刀はじっと機を、間合いを計り、そして最後の号令を言葉にする。
「下ろせぇぇっ!!」
小さくはあれど、命を賭けた戦が始まる。
真・恋姫無双
韓浩ポジの一刀さん ~ 私は如何にして悩むのをやめ、覇王を愛するに至ったか
その3
漢帝国の帝都、洛陽から陳留へと伸びている街道は、良く整備されていた。
舗装こそされてはいないが、人のみならず騎馬や馬車までが走れる様になっている。
そんな程度の良い街道を行く10余騎の騎馬の群れ。
走っている訳では無いが、その挙動から精鋭の集団である事が見て取れる。
精兵が掲げ持った牙門旗に描かれているのは曹の文字だ。
騎馬隊は兗州刺史曹孟徳と、そのその直属の兵達であった。
と、その先頭を行く馬に跨る女性が、すっと右手を上げた。
それだけで騎馬隊は止まる所に、女性の統率力の高さが見える。
女性は小柄であり、まるで少女の様にも見えるが、その整った顔に浮かぶのは凛とした強さであった。
或いは風格、少女は王者の貌をしていた。
それが陳留刺史、曹孟徳である。
「華琳様、如何なされました?」
曹孟徳の直ぐ後ろにいた騎馬が、前に出る。
大き目の弓を持った、こちらも美しい女性であるが、その顔は髪の色や髪型を除けば実に元譲に似ていた。
それも当然であろう、女性の名は夏候妙才。元譲の妹であった。
「聞こえないかしら秋蘭、干戈を交える音が聞こえるわ」
相貌を裏切らない凛とした声には、一欠けらの甘さも無かった。
その言葉に夏候妙才は、急いで耳を澄ませた。
すると、聞こえた。
それ程に遠くない場所からの、金属と金属がぶつかる音が。
人の叫び声が聞こえた。
「これは賊?」
「分からないわ。だから行くわよ」
「お待ちください華琳様。今、とも回りは我ら13騎のみです。このまま情報も無く近づくのは危険です」
夏候妙才は、万が一にも賊が多勢であればと諌める。
昨今、天候不順などによる飢饉によって、土地を離れた流民や賊が増えており、更には正体不明な黄色の巾を体の何処に巻きつけた集団の報告も受けていた。
そもそも今回、兗州刺史たる曹孟徳が急に陳留を離れたのも、その黄巾の集団に対する対処、或いは情報収集をする為、洛陽に召喚されたからであった。
洛陽の、漢帝国の中枢でも、黄巾の一党の危険性が認識されつつあるのだ。
まだ今は火種が小さいが、対処を誤れば大火となるだろう、と。
その意味で夏候妙才が警戒するのも当然だった。
だがそれを、曹孟徳は笑い飛ばす。
「だからよ秋蘭。私も含めての14騎、その程度の小勢であれば、万が一に離脱するのも容易いわ」
そして、それにと続けた。
陳留の傍で干戈が交わる事態になっているのに、私の春蘭が動いていない筈が無い、と。
それは確信であり、全幅の信頼であった。
夏候妙才は、その意思に打たれた様に背筋を伸ばし、頷いた。
「判ったわね? ―― では、曹の旗に集う精兵よ、我と共に進め!!」
「おぉぉっ!!」
14騎の騎兵は一塊になって走り出した。
一刀たちと山賊の別働隊との戦いは、ある意味で拮抗していた。
数的には劣る一刀たちであったが、元譲の鍛えた精兵は、その数的不利に互せるだけの技量を有していた。
だがしかし、である。
如何に質的優位によって拮抗しようとも、数的優位のある相手を抑え込むという事は困難なものであった。
山賊達は常に、一刀たちの手薄な場所をすり抜けようとするのだから。
この場は街道以外が通れぬ、そんな狭所では無い事が災いしていた。
無論、山賊とて我が身が可愛いので、一刀たちを無視し、背を見せるように突破しようとはせぬが、その代替としてか、囲みこんで皆殺しにせんと図っていた。
故に一刀は現地点を護るのではなく、押し込まれ下がりつつ戦う事を選んだのだ。
囲みこまれぬ様に下がりつつ応戦する。
だが、それも言葉にする程に簡単な事ではない。
最初の一当りで7人からの山賊に手傷を負わせたが、一刀の側も2人が傷を負ってしまっていたのだ。
攻勢側であるからか、或いは山賊故にか、相手は7人を放って迫ってくるが、此方は撤退をしつつ故に2人を護る為に、1人を付けざる得ず、実質3人が脱落しているのだから。
小競り合いと、間合いの取り合いが続く。
その間に隊商は、陳留の門の手前まで逃げていた。
が、残念な事に山賊たちは、頭に血が上ったのか、一刀たちを置いて逃げ出す気配は無かった。
そしてもう1つ残念な事は、陳留からの援軍はまだ来ていないのだった。
或いは曹刺史と陳留郡太守の仲が微妙なのかもしれない。
なかなかどうして、思ったとおりに行かないものだと、一刀は内心で嘆息しつつも、兵に機敏に指示を出す。
が、兵の動きが悪くなりつつある。
下がりつつ、何かに足を引っ掛けて転びそうになってしまう兵が増えていた。
それは疲弊が原因であった。
精神の面での。
どれ程の精兵であろうと先の見えない撤退戦というものでは神経を削られてしまい、戦意が落ちやすいのだ。
その事を最初に気付いたのは、一刀に付けられた10人の中で最も年嵩の男だった。
兵として過ごしてきた時間が長いだけ、若い兵達の状況が簡単に理解出来たのだ。
これは危ないと理解した、その年嵩の兵は、巌の如き顔を少しだけ歪めると、手早く一刀の元へと動くと、耳打ちをした。
「危ないですよ、北副長」
多くは語らない。
兵はもちろん、相手にも聞こえぬようにとの配慮だ。
だが、僅かの仕草で兵の疲弊を教えた。
兵としての経験が無い一刀は、その仕草の意味を正確に把握する事は出来なかったが、凡その言いたい事は理解した。
「有難う」
小さくもしかりと感謝の言葉を継げる一刀、そして考える。
この危機的な状況を脱する手法を。
既に隊商は、陳留の手前まで行っているので、ここで逃げ出すのも正解ではあった。
但し、鎧を着込んでいる兵達は、山賊たちよりも足が遅いので、逃げ出した途端に皆殺しの憂き目にあうだろう。
増援は、まだ来る気配は無い。
ならばいっそ前に出るかと一刀は考え出した。
抜いてはいても、今だ血に濡れていない剣の柄を握って考える。
自顕流の、北郷家の祖である薩摩の軍法は、その本質は攻撃であり、突貫であったという。
剣術の稽古こそ熱心にしていた一刀だが、流石に軍法だのの手合いには手を出さなかったので、その多くは、師である祖父からの受け売りでしかない。
だが、であるからこそ、単純に考えていた。
退いて駄目なら押してみようか、と。
それは、一刀自身は自覚しないが、実に薩摩な発想であった。
そうやって一刀が1つ決断をした時、兵の誰かが声を上げた、曹の旗だと。
声に誘われた一刀の目にも、曹の牙門旗を立てた騎馬集団が此方へと向かって来るのがはっきりと見えた。
「っ!?」
そして同時に、山賊達が動揺したのも分かった。
腰が引けたのも、だ。
本来、北郷一刀と言う人間は、その本質に於いて攻撃的な性格をしていない。
だから突撃しようとの決断の前であれば、恐らく騎馬隊が来るまで耐えれれば良いと考えたであろう。
だが、今は突撃の決断を下した後だった。
故に一刀の意識は、助けが来たと感じるのではなく、攻撃の絶好のチャンスが来たと認識したのだ。
一刀は迷いなど欠片も無く叫んだ。
「総員、突貫! 我に続けぇ!!」
この場全ての人間の意識が騎馬隊へと向かった、その瞬間に出した号令は、正に機先を制するものであった。
一刀の背を追って駆け出した兵達に対し、山賊達はあからさまに腰が引けていた。
数的な優位からの慢心が、曹の牙門旗を持つ騎馬隊の登場で揺らいだ瞬間を突かれたのだ。
その意味で、動揺せぬ方がおかしいだろう。
「きぇーーーーっ!!」
特に、先頭を切って掛けてくる一刀の上げる甲高い叫び、猿叫は、聞く者の耳に狂への感情を抱かせるものであった。
或いは恐れ。
故に、動揺が収まる前に、誰かが逃げようと決断するよりも先に、一刀の切っ先が山賊の体を捉えたのだ。
壊音
蜻蛉と称される、特殊な上段の構えから振り抜かれた剣は、それを防ごうとした山賊の剣ごと相手を叩き潰していた。
「北副長に遅れるなぁっ!!」
機を制し、一刀の勢いに乗った曹の精兵は、それまでの疲弊が嘘の様に力強く戦った。
剣を矛を振るい、山賊達を叩きのめしていく。
数を蹂躙する質の姿は、正に暴力である。
結局、曹孟徳率いる騎馬隊が一刀たちのもとへと到着する前に、山賊達は降伏したのだった。
降伏した山賊に縄を掛け、或いは怪我人の手当てを行う。
だが、その指揮を執る前に一刀は呼ばれていた。
当然ながらも騎馬隊の指揮官、曹孟徳に、である。
「始めて見る顔ね、私は曹孟徳よ、貴方の名は?」
何か、余人を従わせる雰囲気を纏った少女、それが一刀が始めてみた曹孟徳であった。
可憐ではるのも否定はしないし、可愛いというのも間違ってはいない。
だが、それ以上に凛としていた。
それが一刀の前に立った曹孟徳であった。
一刀は、これが、この女性が曹操なのかと驚きを覚えた。
元譲、夏候惇に関してはイメージを殆ど持っていなかった為、別段に、驚きと呼べるものは感じなかったが、この曹操に関しては違う。
三国志に造詣の浅い一刀であっても、漫画や映画などの影響で確たるイメージを抱いていたのだ。
残忍にして狡猾な、覇道を好む人である、と。
そのイメージが見事に壊されたのだ。
一刀は一瞬だけ呆けると、それから背筋を伸ばして答える。
「はっ、私は姓は北、名は郷。字は元嗣と申します。昨日より夏候元譲隊長に従わせて頂いてます」
「北元嗣、貴方が………」
恐らくは “河内の賢人” なる噂を聞いていたのだろう。
曹孟徳は一刀の名を聞くと頷き、楽しげに目を細めた。
対する一刀も創作物の中の曹操ではない目の前の曹操、曹孟徳の威風に新鮮な驚きを感じていた。
曹孟徳と北元嗣の出会い。
それは曹魏へと連なる運命の出会いであった。