夜。
陳留刺史府の中庭にて、月を見上げている一刀。
その手には杯があり、珍しく酒を嗜んでいた。
飲む、といよりも舐めるようにしている。
春蘭の副官という事もあってか、一刀の待遇は割りに良いものが与えられており、この酒も上等の部類に入るのだが、その味を一刀は感じられなかった。
酔いすらも、だ。
「………」
壷から移して舐める、飲む。
酔えない。
だから、ただ月を見上げている。
どれだけそう過ごした頃だろうか、ふと、一刀は人の気配に気付いた。
華琳だ。
何となく判る様になってきたのだ。
この世界に降り立って、命の危険を乗り越えて、体を鍛えて頭を使って、そして何時しか、気配なんてものが判る様になったのだ。
氣、というものなのか、それとも他の原因なのか、それは判らない。
だが、判るのだ。
杯を舐めて、それから意識を気配へと向けた。
それに触発された訳でもないだろうが、予想通りに華琳が出てきた。
手には灯りを持っている。
その灯に照らされてか、華琳の表情はやや硬い。
「…意外と風流な事をしているのね」
「少し、酔いたかったんだ」
「そう………」
「そういう華琳こそ、どうしてこんな所に」
「そうね、私は少し眠れなかっただけよ。だから軽い散歩をね」
「そっか………」
華琳は何も言わず、そのまま一刀の傍に腰を下ろした。
そしてフッと吐息で灯りを消した。
暗闇が全てを覆い、月が全てを支配する。
「一刀」
袖から杯を取り出した華琳は、一刀に酌を要求する。
味も判らぬ自分よりは楽しめる人間が飲んだ方がと思い、並々と注いだ一刀。
それから僅かばかりの酒の肴を差し出す。
保存食作りの際に作って見た、塩っ気の効かせた燻製の牛肉だ。
ビーフジャーキーを目標に作って見たのだが、どうにも火加減に失敗したらしく少しばかり硬すぎて、軍の保存食としては向かず、失敗作との烙印が押されていたが。
が、そんな燻製肉も、酒の肴であれば問題は無く、華琳もまた美味しそうに齧った。
月下の酒、その中で華琳が口を開いた。
「昼の事、悩んでいるのかしら?」
「………それなりには」
一刀は、華琳の視線が自分に向いているのを理解するが、億劫であった為、ただ空を、月を眺め続けている。
許子将が一刀に与えた予言、それは破滅という単語の含んだものであった。
『異なる星を背負った者よ、お主は大河に投げられた大岩か。その流れを動かすことも動かさぬ事も出来よう。が、望むのは何だ? 視える道は数あれど大別すれば二つ。流れのままに荒れ狂うか、或いは流れすらも変えんとあがなうか。河の行き着く先は天か地か。何れにせよ心して生きよ。でなければ破滅の道のみが前にある事となろう』
思わせぶりな事を言うのが占い師の生業とはいえ、言われた側としては考え込まざる得なかった。
自分という、北郷一刀という異物がこの世界に存在する影響、その意味を意図を言ってる様にも見えるし、そうでないようにも感じられる。
予言と云うものは、何とも頭を悩ませるものかと、一刀はため息と共に杯を呷った。
全くもって、味がしない。
「馬鹿ね、そんな飲み方では、酒に失礼よ」
酒を味わっている華琳と、酔いたいだけの一刀との差、そう言うべきかもしれなかった。
或いは胆力の差、かと一刀は思わず問いかけていた。
「華琳は気にならないのか?」
華琳が受けた占い、或いは予言も又、何とも考え込むものであった。
此方は、一言で言えば道を踏み外すなとの事であった。
「あら、何れの道であっても英雄とはなりえる相貌 ―― その言葉の何処に気にする要素があると言うの?」
「いや、だって確か………治世の能臣、乱世の英雄。なれど、道を踏み外せば奸雄となるだろう。って言われたじゃないか。奸雄なんて言葉、余りにも………」
「あら一刀、それは踏み外さなければ良いだけよ。それに、世が乱れゆくのであれば私が望むのは覇道。儒家の言う王道を否定する事が奸雄と呼ばれる事に繋がるのであれば、それは本望というものよ」
胸を張った華琳を、一刀は眩しげに見る。
強い、強く輝いている様に見えたのだ。
あるいは、それは覇気であろう。
それが一刀には心地よく感じられた。
「強いんだな、華琳は」
「それがこの私、曹操の生き方というものよ ―― 怖いかしら」
「それが不思議なんだけどね………」
1つ、呼吸を置いてから一刀は杯を舐めた。
味があった。
その事に、笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「どうにも、楽しくて堪らない」
とてもじゃないが平和でもなければ安全でもない、間違っても便利な時代でもない。
だが、そんな世界で生きる事が、この華琳という少女、将来の覇王曹操の傍に居る事が、一刀には非常に面白いものであると感じられていた。
物事の道理を見抜いて、民の為に日々戦っている華琳、それを支える事に、自分が何事かを出来る事が、楽しかったのだ。
「そう、なら付いてきなさい、私の道を」
「喜んで」
真・恋姫無双
韓浩ポジの一刀さん ~ 私は如何にして悩むのをやめ、覇王を愛するに至ったか
【立身編】 その9
月明かりの下で、改めて華琳への忠誠を誓った一刀。
故に、というだけでは無いが翌日からの忙しさは、それまでの比では無いものがあった。
酔った勢いで、素案段階の陳留衛生改善化計画を口にしてしまい、それに華琳が興味を持ってしまったのが1つ。
そしてもう1つは、忠誠を誓った翌日からという訳では無いが、段階的に発生した賊の活性化である。
陳留を中心とした兗州全域での賊が活動を活発化させたのだ。
これは、1つには食糧危機が原因であった。
飛蝗が発生した事や天変地異によって農村が荒れ果て、疲弊し、このままでは喰って行けぬからと賊に身を落とした人間が増えたのだ。
兗州でも農村の被害はあったのだが、華琳の差配によって税が軽減され、或いは危機的な村に対してはそこを管轄する太守に備蓄していた食糧の分配を行う様に要請を行う等の対処によって、賊に身を落とした人間は殆ど出ていなかった。
が、そうであるが故に、今度は他の州の人間から、兗州の農村には余裕があるのではと勘ぐられる事となったのだ。
何事も痛し痒しと云った按配であった。
無論、華琳とて座視している訳ではなく、各太守を通して官軍を動員し、州境で賊の侵入を出来るだけ防ぎつつ、侵入されてしまった賊に対しては、遊撃戦力でもある兗州刺史私兵隊を投入し、対処していた。
だが、それとて言葉にする程に簡単な事ではない。
明確な賊としてではなく難民として兗州に逃れてくる人間が大半であり、そんな、正しい通行証等を手にした人間を拒む事は出来ないのだから。
そして、正規の手段で兗州に入った人間が、生活苦で賊化する事例も多いのだから。
何とも難しい難しい問題であった。
いかな華琳とて、刺史の権限で出来る事も限られていては抜本的な対処を行えず、この難民対策に関しては苦慮しているのが現実だった。
「難民対策ね………」
午前中の事務仕事から瞼を揉んでいた一刀は、麦湯を片手に呟いた。
相手は春蘭だ。
此方は先ほどまで全自動承認装置となっていた為か、こった体中を動かし解している。
「最近は華琳様の玉顔も曇りがちでな、何か良い案は無いものだろうか、とな」
「相変わらずだな、春蘭は」
華琳が困っている。
だから、求められた訳では無いが、何か出来る事はないだろうか。
そう考えているのだ。
良い意味で、実に忠犬とでも言える人柄である。
その事を好ましく思いながらも一刀、口では別の事を継げる。
「だが、予算がな………」
「む、何だ一刀、金があれば何とか出来る案があるのか!?」
「一応は、ね」
唯、難しい部分もあると一刀は続ける。
一刀が考えているのは、公共事業としての下水整備だ。
不況時のインフラ整備は定番である。
無論、食糧問題に対するものとしては、対処治療であり、そもそも抜本的な対応とは言いがたいが、仕事を得て、金を稼げれるのであれば、人は賊には落ちないだろう。
その間に、別件の政策を行い、対処する。
或いは、別の仕事を生み出す、か。
「華琳様もだが、一刀も難しい顔をするな」
「こればっかりは、それこそ快刀乱麻に片をつける。という訳にはいかないからな」
「………そうか」
今度は春蘭も難しい顔をする。
それから、いっそ、と口を開いた。
「我が夏候元譲隊に受け入れるか」
仕事の無い人間を軍で吸収するのも確かに、不況時の定番でもある。
が、それに関して一刀は、難しいだろうと考えていた。
理由は2つある。
その内で、差しさわりの無い方で春蘭を諌める。
「刺史の権限で持てる兵は上限を1000としているんだ、余り拡張は出来ないぞ」
夏候元譲隊を含めた曹家軍は刺史府の予算で維持運営されてはいるが、その本質は私兵集団である。
これは刺史の持つ兵権が比較的限定されていた事が理由であった。
一応は州の全官軍への指揮権を持つが、平時に於いては、各官軍の駐留する都市の、各太守の管理下にあった為、官軍を運用しようとすれば面倒な折衝が必要となるのだ。
誰しも非常時にこそ自衛の意識から、自分の所の官軍を動かしたがらないものだからだ。
だがそれでは、非常時の対応として、迅速に対処しきれない事が想定され、それを華琳が嫌った為、刺史直轄の部隊として生み出されたのだ。
さて、そんな経緯で生み出された曹家軍であるが、当然ながらも縛りはあった。
100名を超えて他の州へと展開する際の、事前許可と、そして規模への制限である。
私兵として考えれば当然だろう。
大規模で自由に動く私兵など、漢帝国にとっては反逆を目的としたものとしか見えないのだ。
そして現在の夏候元譲隊こそ400名程度であるが、夏候妙才隊や他の部隊も合わせると900名を超えているのだ。
人を受け入れる余力は殆ど無かった。
「むっ、そうだな」
顔をしかめつつも納得した春蘭に、一刀はもう1つの理由を口にせずに済んで、ほっとしていた。
もう1つの理由。
それは、夏候元譲隊の過酷な訓練に追従出来る人間って、そう居ないという事である。
軽い気持ちで夏候元譲隊の門を叩いて入隊した奴らは、大抵が1週間で逃げ出しているのだ。
そんな夏候元譲隊の生活を、生活苦で逃げ出した奴が耐えられるとは、一刀はとても思えなかったのだ。
「何か、良い案は無いものだろうか」
頭を抱えた春蘭に、一刀は新しく淹れた麦湯をそっと出す。
「考えすぎて、華琳の前でしかめっ面を出さないようにするのが一番かもな」
「何でだ? 私だって華琳様のお役に立ちたいんだ!!」
「その気持ちを華琳は嬉しく思うけど、でも、それで春蘭が表情を濁らせていては、今度は華琳が春蘭を心配するからさ」
「むっ、確かに、無駄に心配を掛けるのは良くないか」
「そう言う事さ。自然体が一番だよ」
表情を解した春蘭に、一刀は笑顔で頷く。
やや直情的な部分はあるものの、素直なムードメーカーなのが春蘭なのだ。
その春蘭が顔をしかめていては、場の空気も悪くなると云うものである。
一件落着といった雰囲気に満たされた、夏候元譲隊の執務室に慌てた風の男、伝令が飛び込んできた。
「夏候元譲隊長! 北副長!! 曹孟徳刺史がお呼びです!!!」
何事かと、思わず2人は顔を見合わせていた。
刺史府の中枢は云うまでも無く華琳の執務室である。
呼集を受けて一刀と春蘭が訪れたとき、その中で華琳は真剣な表情で竹簡を睨んでいた。
秋蘭がその脇に控えている。
春蘭のみならず、平時では陳留太守府にて政治的な用向き等も担当している秋蘭まで揃って、更には自分まで呼ばれた事に、一刀はどうやら出動らしいとのあたりをつけていた。
「参りました、華琳様!」
春蘭の声に顔を上げた華琳、その表情には鋭さがある。
「春蘭、今すぐに動かせる兵はどれだけ居るかしら?」
「はっ! 我が元譲隊では………一刀っ!!」
勢いよく返事をして、それから思いっきり一刀に質問を放り投げた。
が、突然の発言であったが、一刀も慣れたもので、慌てる事無く返事をする。
「現在100人隊を1つ、濮陽へ派遣していますので、今、即時動けるのは300余名のみです」
「300名………それだけ居れば何とかなるわね。秋蘭、今回は貴方の騎兵隊も出すわ。急いで隊を纏めて」
「はっ!」
「それから春蘭、貴方は兵に命令を。我らはこれより已吾周辺に集結した賊群を討つわ、その旨を伝えなさい」
「はっ!」
「一刀は軍出撃に関し、荷駄隊の準備までお願い」
「了解。だけど、期間はどれ位を見ているんだ?」
「そうね、7日分を準備なさい」
已吾は兗州の南に位置する村だ。
片道が、極々大雑把に言って50kmからは離れている。
賊の出る場所が陳留寄りなので、約40kmという所であろうか。
進出に2日。
展開し、捕捉し撃滅するまでに2日。
そして帰り分と、予備で1日分を、そんな計算が華琳の内で成されていた。
明確な命令が下された事で、一刀も又、軍に必要な物資や、進軍ルートの策定までも考え出した。
同時に、命令に対して背筋を伸ばして応じた。
「はっ!」
3人の反応に気を良くした華琳は、激を飛ばす。
「出立は明日の明朝を予定するわ、皆は急いで準備をなさい!」
華琳の命令一下、動き出す曹刺史私兵隊。
歩兵主体の夏候元譲隊にみならず、少数ながらも騎兵によって構成されている夏候妙才隊まで動員しているのだ。
そこに、華琳の本気が出ていた。
その本気に当てられて、一兵卒から春蘭、一刀までも気合を入れて出撃準備を整えていた。
装備を整えさせ、旅装を整え、食糧を手配する。
無論、日ごろから準備をしていたものも多いが、いざ実戦となれば、命が掛かってくるのだ。
慎重に確認するなど、当然の事であった。
その様は正に急遽というのが相応しい有様である。
日ごろが弛んでいたとは言わないが、やはり実戦が近づけば、気分が違うと云う事だろう。
そんな風に一刀は、やや興奮、あるいは緊張状態にある自分を見つめる。
そして、執務卓の傍に於いている剣も。
人を殺す。
その事に意識が行く。
前回の様な突発事態ではなく、準備をして人を殺しに往く。
無論、殺す相手は賊であり、人に仇成す集団なのだ。迷うべきではないだろう。
だがしかし、まだ完全に一刀は割り切れずにいた。
否。
怖かった。
最初に人を殺した時、その夜は嘔吐したものであった。
その時に比べて今は、緊張はしているが怯えてはいない。
「馴れ、なのだろうか………」
一刀の呟きは、誰の耳に届く事もなく消えていった。
割り切ろう、割り切るべきだ。
そう思った時、一刀の所へ訪れた人が居た。
夏候元譲隊の古参兵の1人、珂桓々だ。
「北副長、お呼びで?」
忙しい最中だろうに、ふてぶてしさと余裕とを感じさせる佇まいは、流石は古参兵といった所だろう。
そんな人間相手に無駄に偉ぶる積もりの無い一刀は、経験豊富な年上への態度で応じる。
「忙しい所に、すまない。だが珂桓々、君の協力が欲しい」
「任務の事であればなんなりと、ですが?」
警戒する様な、探る様な目をする珂桓々。
何ぞ、厄介事を持ち込まれるのかと警戒しているのだろう。
だから一刀は、それは軽く否定しておく。
「ああ、変な話じゃない」
一刀が頼みたい事は物事の、この戦いの準備の再確認であった。
手配は間違いなく行った積もりだが、万が一にも漏れがあってはいけない。
なので、一刀や春蘭のような上からの視点だけではなく、下からの、古参兵としての視点で物事を見て、報告して欲しい。
それが、一刀の依頼であった。
最善を目指す為に、副長という面子には拘らない。
そんな一刀の態度に、珂桓々は実に面白いと感じた。
だから、からかう様に返した。
「お耳汚しを上げるかもしれませんよ?」
「耳の痛い意見でも何でもいい。戦場で兵卒が苦労し、死傷者が出るよりはね」
真剣な顔をする一刀に、真面目な顔で頷く珂桓々。
だがその内心は、益々持って面白いと考えていた。
だからこそ、真剣な表情のままに礼をした。
「であるのならば、全力を尽くしましょう」
「宜しく頼む」