木々は青々と茂り、草は風にそよぎ優しく揺れていた。
手入れの行き届いた田畑は粟や米、麦などが実りつつある。
田園風景、それは正に風光明媚であった。
そんな、風情のあるあぜ道を往く馬影が1つあり。
馬上に居るのは妙齢と思われる、赤い服の美しい女性だった。
腰よりも伸びた艶のある黒髪が特徴的であるが、それ以上に衆目を集めるのは、その目だろう。
鋭利とまでは言わないまでも、その瞳には他者を圧倒し得る意志が宿っている。
乗る馬の背に積まれている大剣からも、この女性が武人、乃至は武官である事は明白だろう。
だが、よらば切るという様な雰囲気は無い。
どちらかと言えば、良く手入れされた田畑の様に感心し、相好を崩している様に見える。
「ふむ、かつては司隷河内郡の辺境と、寒村であったと聞いては居たが………」
山岳に隣接するこの地方は、数年前までは盗賊の跋扈する土地として知られていた。
それが今では、豊かな田畑を擁する様になっている。
感心せぬ筈が無かった。
「河内の賢人か、コレは期待出来るやもしれんな」
女性は、嬉しげに唇を緩めた。
そんな彼女の視線の先、あぜ道は豊かそうな雰囲気を漂わせる村があった。
真・恋姫無双
韓浩ポジの一刀さん ~ 私は如何にして悩むのをやめ、覇王を愛するに至ったか
【立身編】 その1
調度品の類は殆ど無いが、それが貧しさではなく、部屋の主の趣味であると思わせるのは、掃除が行き届いているからだろうか。
そんな部屋の真ん中で、机に向かっている男が1人。
まだ若い男だ。
竹簡に、一心に字を書き込んでいる。
と、そこへ子供が大声を掛けて来た。
「北先生、お客さんだよー!!」
北先生と呼ばれた男は、筆を止めて顔を上げた。
顔には苦笑が浮かんでいる。
「陳留からだってー! 若くて綺麗なおねーさんだよーっ!!」
「今行く! そんなに大声を出すものじゃないよ、子元」
北と呼ばれた男は、遅くなったら子供が更に何を叫ぶのかと、慌てて筆を置いて立ち上がる。
悪戯坊主揃いなのだ、この村の子供達は。
陳留に知人など居ない。
にも関わらず来た人なのだ。
もし役人の類であれば、その機嫌を損ねないに越した事は無いと思うのは当然の反応であろう。
「厄介事で無ければ良いが…」
北は、誰にいう事も無く呟いていた。
若い女性という事なので、綺麗だと叫ばれたのだから、機嫌を悪くしていないだろうとは思いながらも。
さて、若くて綺麗と呼ばれた女性は、北の想像通りに表情を綻ばしていた。
どんな女性であれ、どんな相手からであれ、褒め言葉というものは嬉しいものだから、その反応も当然だろう。
「でも、何で北先生におねーちゃんみたいな美人が用事なの?」
道案内をしてくれた少年、子元という幼名の子供は、ニコニコと笑いながら女性に問いかけた。
「ふっ。河内に賢人ありの話は兗州まで聞こえているからな」
「ふーん」
「賊を討ち、田畑を豊かにし、学を広めた、そういう少年も学んでいるのだろう?」
「教えてもらってるけど、北先生は色を好む人だから。お姉さんも綺麗だからっ ――」
調子に乗って色々と吹こうとした所で、子元の頭に手が当てられた。
北だ。
「子元、他人様に変な事を吹聴するなと教えたよね?」
「あっ、そう言えばかーちゃんに用事を頼まれてたんだ!! じゃあねー綺麗なお姉ちゃん、北先生!!!」
走り出した子元。
脱兎の如くの言葉に似つかわしい、若々しい身のこなしで、直ぐに見えなくなった。
その背を微笑ましげに見る北は、それから背筋をのばして女性へと向いた。
「ようこそいらっしゃいました。私は ――」
自己紹介をしようとした北を、女性が止めた。
今日、この場に来たのは私の都合であったので、私から名乗りましょう、と。
「私は兗州刺史である曹孟徳の臣。姓は夏候、名は惇。字は元譲と申します」
礼に則った挨拶だが、それ以上に北は女性、夏候元譲が口にした2つの名に驚いていた。
1つの言葉を思い出して、それを飲み込んで何とか挨拶を返した。
「丁寧に有難う御座います。私は姓は北、名は郷。字は元嗣と申します。この村の相談役といった所でしょうか」
曹孟徳の名は、まだ若いながらも陳留の有能なる刺史として知られていた。
とはいえ、司隷河内郡の片田舎であるこの村でも知られて居たのは、夏候元譲にとっては喜びでもあった。
己の支えている人が有名であるのは、嬉しいものだから。
だが、北元嗣が驚いた理由は少し違っていた。
驚きと共に口の中で押し殺した言葉は “魏武の大剣” であったのだから。
さて、軒先での会話など何だから、と夏候元譲を家へと案内する北。
北元嗣の家は大きすぎず小さすぎずという按配だった。
そして客間には、質素ではあるが快適な調度が整えられていた。
「わび住まい故に茶などは出せませんが、代わりの物がありますので、暫し、お待ち下さい」
「ああ、すまぬ」
北元嗣の詫びに、恐縮する夏候元譲。
茶という物は嗜好品としてだけではなく薬としても飲まれる高級品であり、この様な寒村では滅多に口に出来るものでは無いから当然だろう。
故に、夏候元譲は土産の1つでも持って来れば、それこそ茶を持って来ればと内心で歯がゆんだ。
今日、ここに来たのは “河内の賢人” 等と呼ばれている北元嗣の人品を見に来たのだ。
更には、評価出来る人間であれば、その先もと考えていたのだ。
であれば、土産の1つも当然ではないか、と。
主や妹と違って気を配れない己に、今更ながらにも切歯扼腕しつつ待つこと暫し。
「お待たせしました」
北元嗣の言葉と共に夏候元譲の手元に出された湯飲みには、湯気を立てる茶色い液体が注がれていた。
初めて見るものに、おっかなびっくりと云う顔をする夏候元譲に、北元嗣は嫌味の無い顔で笑う。
「大麦を炒って淹れた麦湯です。お茶代わりと言うには粗末ですが、どうぞお飲み下さい」
「う、うむ」
湯飲みを口元に寄せれば、その香ばしさに感心する夏候元譲。
いざ、と飲んでみれば、爽やかさがあった。
「おっ、美味いな、是は!」
「お口に合った様で何よりです」
そこから、麦湯を手に談笑する2人。
先ずは世間話から入って、次に村の話に。
そして最後に来たのは、賊討伐の話であった。
この村一帯を襲っていた山賊、その数は100を超えていたのだ。
政道の乱れから治安の悪化しつつある昨今でも、そう見ない大規模な賊だった。
官軍が動く様な山賊を、この北元嗣は村人の自警隊で撃滅してみせたのだ。
その事を褒める夏候元譲に、北元嗣は照れくさげに笑った。
「別に、特殊な事をした訳ではないのですよ」
そう前置きをして続けた内容は、確かに特別な事は無かった。
山賊よりも多い兵を集め、山賊の位置を把握し、そして地の利と数の利を用いて撃破したのだと。
「そう簡単に行くのか? いや、行ったのか。兵は ――」
「兵は、この村の人間でだけではなく、近隣から募りました。山賊の被害は近隣の村々でも一緒でしたので、1つの村で対処するのではなく、一緒に戦う事を呼びかけました」
「ふむ、では山賊のねぐらは、どうやって探したのだ?」
「襲撃を受けた村々の位置、そして頻度からおおよその場所を把握して、後は山の狩人の協力を得ました」
「では、篭る山賊相手に地の利とはどうやったのだ」
「攻めませんよ? ねぐらが判れば、後は次の襲撃を受けるエりっ…と、地域がある程度絞り込めます」
その時に作りましたと、竹簡の地図を持ち出して北元嗣は説明する。
「その前に襲撃を受けた村から持って行かれた食料の量から計算しました。その時に蓄えが少なかったので、持っていかれた量も少なかったのです。だからこそ、次の襲撃予定日が推測出来ました。後は、その予定日頃に該当する地域に兵を集めて待ち、そして山賊の襲撃を受けたら、その村の自警隊が防戦している間に、他の自警隊で一気に押しつぶしました」
地図を持って行われた山賊殲滅作戦は、実に見事なものだった。
北元嗣自身は、単純な金床と鉄槌の理屈です、と笑っていたが、その単純さこそが練度に乏しい自警隊にとっては、勝利の秘訣であったのだから。
勝つべくして勝つ。
その言葉を地で行くが如しであった。
「見事なものだな、北殿」
感嘆する夏候元譲。
武官として兵を率いるからこそ判るのだ。
基本を護るという事は、言うは易く、行うは難しである、と。
「夏候殿程の人に褒められると、悪い気はしませんね」
「正当な評価だ。誇られるがよい」
「では有難く」
笑いあう2人。
北郷の知や良しと、夏候元譲は麦湯を飲みながら笑った。
人柄も、子供への対応を見ていれば判る。
これは是非にも得ねばと、居住まいを正す夏候元譲。
武人らしく、凛とした夏候元譲佇まいに、北元嗣もおのずと背筋が伸びた。
が、その口から放たれた言葉は、ある意味で北元嗣の予想を超えるものだった。
「北元嗣殿、願いがある。私と共に来ては貰えぬだろうか」
「はぁ?」
何を言ってるのだと首を傾げた北元嗣に、夏候元譲は深々と頭を下げた。
それから説明をする。
夏候元譲は曹孟徳の武官である。
武に於いては、陳留に於いて誰に劣る積もりは無い。
だが、部隊の指揮官としては、聊か自信が無い、と。
「いや、というか軍の仕事を妹の秋蘭、あ、いや、夏候妙才に頼りっきりでな。で、その、迷惑ばかりでは姉としての面目とか、情けないというか………」
それまでの凛とした姿からは想像も出来ない、恥ずかしさが全面に出た仕草で、モジモジとしだす夏候元譲を、北元嗣は、驚いて見ていた。
年頃相応よりも、やや幼い、可愛らしい仕草だった。
「まーなんだ、軍で私を手伝って欲しいのだ」
深々と頭を下げた夏候元譲に、北元嗣は混乱した。
「えっと、俺って、私に夏候元譲殿に仕官して欲しい、と」
「そうだ。私と共に曹孟徳様を支えて欲しいのだ。曹孟徳様は、今はだまだ陳留の刺史であるが、いずれはもっと高位と成られるお方だ。だから将来性もある。来てくれ」
予想外過ぎた一言に、呆然としてしまう北元嗣。
だから、返せた言葉は1つだけだった。
「私、ですよ?」
「うむ、“河内の賢人” と称された北元嗣殿が、だ」
賢人という大層な呼び名に、恥じる前に北元嗣は、夏候元譲は誰かと自分を間違えてないだろうかと本気で思っていた。
だが、その推測はいとも容易く粉砕された。
「先ほどの賊討伐の案や、村の様子を見れば、北元嗣殿の才は見える」
堂々と断言する夏候元譲に、もはや北元嗣は、有難う御座いますとしか返せなかった。
尤も、とはいえ簡単に行きますとは言えないのが北元嗣の立場だった。
「どうしてだ?」
「私は、この村に拾われた人間ですから」
そこから北元嗣は説明を始めた。
元々はこの国の人間ではなかった事、そして行き倒れ寸前だったのを、この村で救われた事、だから、この村に恩返しをしているのだ、と。
「だから、簡単に村から離れる訳にはいかないのです」
「おぉーっ、北元嗣殿は義に篤いな。益々欲しくなった! よし、では村長殿所へ行こう!!」
「えっ?」
思い立ったが吉日とばかりに立ち上がった夏候元譲に、慌てて追いかける北元嗣。
「任せろ北元嗣殿。これでも私は華琳様に、交渉は上手いと褒められた事もあるんだ。この、七星餓狼がある限り、私の交渉に敗北は無い!」
佩いていた大剣叩いて、夏候元譲は豪快に笑った。
交渉が纏まれば、北元嗣を得られると合点している様だ。
「いや、しかし夏候殿、それ交渉じゃって、夏候元譲殿!?」
寒村に、北元嗣の悲鳴が響いていた。
さて、村長である。
突然やって着た珍客、夏候元譲が北元嗣を得たいと言って来た事に、驚きと共に納得を覚えていた。
1年程前に北元嗣を拾った村長は、この村で一番、北元嗣の事を理解していた。
或いは、北元嗣の特異性と言うものを理解していた。
彼が持つ知識、見識を恐れていたと言っても過言ではない。
昔に死んだ子の顔を重ねたが故に、最初は北郷一刀と異国風に名乗っていた彼を拾って世話し、この国の事を教えて名前を与えはした。
その恩義に報いんと、北元嗣も村に尽くしてくれており、短い間に様々な成果を挙げていた。
だが、だからこそ村長は、この北元嗣の持つ知見というものがこの小さな村の器を大きく越えるものだとも認識したのだ。
今はまだ問題は無い。
だが将来に渡って、問題が発生しないとは限らない。
北元嗣の待遇に、村の男衆が文句を付けるかもしれない。
或いは北元嗣が、功績に比して待遇が悪いと思うかもしれない。
故に村長は、夏候元譲の言葉に、素直に頷いたのだった。
「曹孟徳殿と言えば、音に聞こえた文武両道の才人と聞きます。その様なお人の下であれば、この北元嗣の才も更に輝きましょう。宜しくお願い致します」
才ある者には、それに相応しい場所を、と。
それは正しく村長たるの対応であった。
そんな村長の言葉に、夏候元譲は胸を張って応じた。
「お任せあれ」
そして、そこからなし崩しに宴会となった。
北元嗣は、その才覚と共に愛嬌のある態度が多くの村人に愛されていたため、その立身を大いに喜ばれていたのだ。
酒や料理が振舞われ、盛り上がる宴会。
その渦中は真っ只中にあって北元嗣は、自分の意思とは関係の無い所で動いた運命に、人知れずため息をついていた。
ここ1年は、こんな事ばかりだったなぁ、とも。
北元嗣、正しくは北郷一刀は、この世界の住人では無かった。
或いは時代と言っても良い。
北郷一人は、この時代からおおよそ1800年程未来の人間であった。
聖フランチェスカ学園という高校の学生であったのが、何の因果か、この時代に居るのだ。
色々な紆余曲折の果てに北郷一刀から姓は北、名は郷、字は元嗣、そして真名を一刀として今に至っていたのだ。
一刀は、この村が嫌いでは無かった。
程々の豊かさと平和があるこの村は、行く当ての無かった一刀を受け入れてくれたのだから。
だが、この時代の世間を見たいという欲求もあった。
尤も、中華の歴史に余り興味が無かったが為、余りこの三国史の時代を知識としては知っていなかったが。
その意味では、単純にミーハーな気分であり、ヘッドハントされたとなれば、嬉しさがあった。
但し、ハントしてきた相手が夏侯惇で、当然の上役が曹操だというのが、一刀にとっては中々に胃に重く感じる話ではあった。
三国史に詳しくない一刀だが、曹操と魏が悪役ポジションだと云う程度は知っていた。
その悪役サイドからのお誘いである。
しかも、誘いに乗る乗らない自分で決める以前に、乗るという話で、周囲は話が決まってしまっている。
「まぁ、成るように成るでしょう」
諦めにも似た気持ちで、一刀はため息をついてた。