「最近、笑顔が増えたよね」
TV観戦中に発した六本木優希の何気ない一言に、私は酷く当惑した。
「ぇ‥‥‥そう、ですか?」
多分あの仔のお陰だとは思うが、そのような自覚は毛頭無かった。
彼が言うには四条さんは一生懸命頑張っていて、優秀で、マネージャーとして非の打ち所が無いないのだけれど、私のソレは事務的を通り越して機械的ですらあった、と。
それはそうだろう。努めてそう振舞っていたのだから、そういう人材が求められていたのだから仕方がない。
でも、今は女の子らしい柔らかさがあってとっても素敵だ、とも言ってくれた。顔から火が出る程恥ずかしかったが、お世辞だとしても嬉しかった。
甲子園での一ノ瀬塔哉の活躍を契機に、野球部にはマネージャー志望の女子生徒が度々押し掛けるようになっていた。
しかし野球のルールも知らないミーハーな一ノ瀬ファン達は完全裏方のハードな雑務について行けず、皆押し並べてひと月と持ちはしない。
これが監督の逆鱗に触れ、その後は女子マネージャーの入部は一切禁じられていた。
だが、現2年生には野球推薦で入学したものの怪我で再起不能となった等の都合の良い脱落者がおらず、現3年生の引退を以て雑用係に欠員が生じる。
そうなっては当然困るので、窮余の一策として兄が私を推薦したのだ。妹なら野球にも精通しているし、誰かに言い寄ったり逆に言い寄らせるような真似は断じてさせません、と。
実際に先輩マネージャーからの引継ぎもほぼ完了し、1人でも上手くやっていけるだけの自信はある。
…そう、周囲が求めるいつも通りの私。何事にも理知的に粛然たる態度を以て臨み、正確且つ迅速に対処する有能な人間。
私自身もそう在りたいとは願うけれど、いつの間にか勝手に作り上げられた人物像に心底辟易していた。
不意に、昨夜のやり取りが脳裏を過ぎる。
「眠れないの?」
私の問い掛けに十十は良い膝枕と子守唄があれば、と切り返す。
翌朝から始まる決戦に備えて夜間練習は一切禁止されているにも関わらず、彼は大部屋を抜け出し、何故かシャドウピッチングをしていた。
「そう。子守唄は辞退させて貰うけど、私の膝で良ければ貸してあげてるわよ?借りもあるし」
まだ手探り状態の感は否めないが、先週行った海水浴で彼の扱い方は概ね把握出来そうだった。
他人の領域にズカズカと踏み込んで来る割に危険水域ギリギリの、本当に嫌だと思う事まではしない。まぁ…NGサインその物が相当屈辱的ではあるのだが。
ある程度までは乗ってやり、後は適当に去なすのが正解なのだ。
「借りと来たか。そういやガンダーは元気してる?しかしお前さんがガンオタであったとは読めなかった…海のリハクの目をもってしても!」
「だから、名付け親は私じゃなくて兄さんだって言ってるじゃないの…いつから李白になったのよ」
彼の取り成しで家族の一員になった仔犬の名は、兄である四条賢二が愛好してやまない老舗玩具メーカー・玩多堂のヒット商品に依る。
重ねて言おう、断じて私の趣味なんかでは無い。
私はこう…みかんとか、もっと可愛らしい名前にしたかったのに、あの恩知らずの浮気者はベッタリと兄に懐いてしまい、もう完全に自分の名前はガンダーであると認識してしまった。
「でもそんなワンコと飼い主がキャッキャウフフしてるzip だけで小生、ご飯3杯はイケます」( ° ▽、° 8)+
「ななな、なにをゆってるのっ」
最近やたら熱心に兄と野球談義を交わしているな、と思ったらそう言う事か。
それでも恥ずかしい格好をさせられるよりはマシだし、彼のお陰で今の生活があるのだから多少は大目に見るけれど…私とあの仔の写真なんかを見て、何が愉しいの?
高が犬っコロ1匹で何を大袈裟なと笑うかも知れないが、十十の影響で私も兄も人生の路線が大きく切り替わってしまった。
この男は時折、その事象を予め知っていたのではないかと思しき行動を執るのだ。
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スコアレスドローのまま迎えた7回裏、十十の第3打席。
2アウトランナー無しの場面で山口賢の第1投は内角低め、ストライクゾーンをギリギリ掠めるフォークボールだった。
『ボールは左中間を転々っ!その間ツナシヨコタテがセカンドベースを蹴るっ!』
彼はソレを狙い澄ましたかの如く掬い上げると、浜風に乗った白球は外野陣の守りを突破する。
相手とて同じ高校生、広い甲子園と地方球場では勝手が違う。檜舞台で普段着野球を出来る訳が無いのだ。
『さぁ、そのまま最終コーナーを廻って最後の直線っ…残りあと90ふぃぃぃ~とっ!! 』
打球処理にもたつく内に十十はダイヤモンドを一気に駆け抜け、スコアボードには打者の功績を称える1の数字が刻まれる。
私と入院中の半病人は互いに手を取り合い、昨年まで競馬番組を担当していた女子アナの意味不明な実況も気にならないくらい興奮していた。
『ボールは届かないっ、好投イチノセトーヤを援護する伏兵の一撃ぃぃ!十十のインサイドザパークホームランでアカツキダイフゾクが先制ぇぇッ』
彼の半生において最も光り輝いた瞬間であったと確信させる、価値ある1打。
その活躍が他人である私にさえ暁大付属の生徒である事を誇りに思わせ、我が身に降り掛かる災難も忘れて胸を熱くした。
『エースヤマグチケン、後続をサンキューサンシンで断ち切り残すはあと2イニングっ、巻き返せるのかテイオージツギョー?! 』
全国最強と謳われる帝実打線が為す術なく捻じ伏せられている状況で先制点を得たのはとてつもなく大きい。
未だに僅差ではある事に変わりは無いが、帝王実業に忍び寄る敗戦の重圧は相当な物である筈。
『帝王実業は甲子園出場時、ベスト8以下になった事が無い』
帝実信奉者が我が物顔で語るあの忌まわしのジンクスは、今日破られる為に存在していた。そんな風にさえ思えた。