――キャッチャーフライ。咆哮にも似た十十の叫びが辺り一帯に木霊する。
西東京大会開幕が目前に迫っていたアノ日は、正午過ぎまで晴天に恵まれたお陰で久々に良好なグラウンドコンディションを保っていた。放課後の空にはどんよりとした雨雲が漂っていたけれど、近数日の練習不足を気にしていた猪狩守が実戦形式での投げ込みを希望したのは、極々自然な流れで。
横流しさせた影山氏のスカウティングレポートに目を通す限り、順当に行けば準々決勝で当る見込みの恋恋学院もパワフル高校と同じか、それ以上に警戒が必要なのは明白。万が一に備えての保険みたいな物、としたり顔で低用量ピルを手渡された時には軽く殺意が芽生えたけれど、本業の眼力は確かだった。
関東大会では登板過多を嫌った加藤先生が2番手投手を先発マウンドに送り出した為に、早い段階で姿を消していたものの新庄玖遠-海野八七の強力バッテリーと終盤3イニングに入ってからの怒涛の猛攻撃は健在なまま。
恋恋ナインの懸命の訴えが世論を、猪狩コンツェルンを、高野連をも揺り動かし、女性選手にも甲子園への門戸が開かれたのは歴史的快挙だと歓迎したいトコロだけど…彼女達を敵に回す身としては、手放しでは喜べなかった。
控えの早川あおいも着実に力を付けていて、見た目と相反する豪腕縦ロールの後を受けて繰り出されるサブマリンの視覚的効果は絶大。他にも女子ソフトボール界ではオリンピック候補生として名前の挙がる高木幸子が、1年では千石監督の誘いを蹴った猿山武が加入し、選手層に厚みが増している。
練習開始から時を置かず降り始めても、せっかく始めたのだから、まだ大丈夫、キリの良い所までもう少し――などとズルズルと継続するうちに、辺りはスッカリ暗くなっていた。幸い練習中の怪我人も無く、そのまま終わっていれば基礎トレーニングばかりで鬱憤の溜まっていた部員達には丁度良い1日となる筈だったのに。
「僕、チョット取りに行って来ますからココで待ってて下さいね」
降り頻りる雨の中、この程度で走り込みを欠かす訳には行かないと普段通りランニングをしながら帰ろうする兄。それを見兼ねた弟が、偶々校内のロッカーにレインコートを置いていたのを思い出した。春先にはエースの革新的進化に技術的にも精神的にも気圧されていた正捕手も、猛特訓の甲斐あって再び巧妙にリードするだけのゆとりを取り戻している。
関東大会優勝後も練習試合ではお忍び高校、大京近工業、得々農業、南港埠楽水産、レインボーハイスクールと他県の強豪相手に連戦連勝。兄弟バッテリーが順調に機能している限り、敗北の2文字は無縁に近かった。
十十の入れ知恵が有ったとは言え、この時からの弛まぬ努力が後に野々村カツノリや吉田淳也と云った日本球界を代表するレジェンド達と肩を並べるだけの礎を築いていたのは間違い無い。優れた選手達の逸話を紐解くと“名投手の影に名捕手在り”なんて格言が散見するけれど、彼等に相応しい賛辞であろう。
ただ、当時の段階で既に一級品とされる高評価が故に名将・千石忠が密かに温めていた構想が、日の目を見ぬまま断念されていたのを書き加えておく。もし仮に歴史のif が存在するのであれば希少価値の高い兄弟投手の、それもトップクラスの競演が見られていたかも知れない。
…この頃の話になると、どうもタラレバの世界を夢想しがちになってしまうわね。
兄の気が変わってしまう前に、そのまま帰らせたりして本番前に体調を崩されたりでもしたら一大事、と傘も差さずに駆け出す猪狩進。その時、専用グラウンドと学園を隔てる横断歩道に、普段なら学園関係者しか通らない道に、ウッカリ迷い込んでしまった地方ドライバーのトラックが通り掛かった。
「進きゅん、キャッチャーフライ!」
チームメイトの発する声に、猪狩進の体は脊髄反射に等しい反応を示す。咄嗟の機転が既の所で彼を危機的状況から救った訳だけど、皮肉にも退けられた厄災は、その矛先を獲物を奪った邪魔者へと変えてしまった。
数十分後、そのトラックが事もあろうに帰宅中の十十を撥ねてしまったのだ。もし、あの時の犠牲者が猪狩進であったのならば、彼が事故に遭う事は無かったのに――あの事故で最も醜く傷付いたのは、私の性根なのだろう。
仮に猪狩進を欠いていたとしたら、猪狩守とバッテリーを組むのは入部以来3年間ズッとブルペン捕手状態だった茂部一剛か、猪狩進を投手に転向させた場合に備えて育成し始めていた2軍上がりの河辺厚志が有力候補だったと言えるでしょうね。
彼等にライジングショットの対応が可能かどうかと問われれば、不可能だと断言せざるを得ない。それは必然的に神童裕二郎の二の舞を意味する。嗚呼、あの時の私は何をやっていたのだろう!
「巫山戯ないで!何が御守よ?こんな、こんな物でッー…?」
連絡を受けた私は何を血迷ったのか財布と共にPHSでは無く、十十から預かっていた御守を手にタクシーに飛び乗っていた。彼の安否は杳として知れず、手術室の前で苛立ちを募らせるばかり。
思わず握りしめていた御守を包む、白い紙袋を引き千切り――その時になって、初めてソレが交通安全では無い事に気が付いた。
手術加護の御守。神社の自動販売機で買い求めると、近々猪狩進が家族でアメリカまで野球観戦をしに行く話をするだろうから、その時になったら贈るようにと彼から手渡された代物。私は何の疑いも無く受け取りながら、自らの思惑の為に放置していたのだ。
意味が判らない。指図通りに渡していても、ソレにどんな神通力が備わっていようとも、交通安全で無いのであれば事故を回避するのは不可能ではないか?事故に遭う前提で渡そうとしていたのであれば、今度は彼が猪狩進を助ける理由が無くなってしまう。
「これってー…何でこんな物が御守の中に?」
幸か不幸か私の掌中に御守が留まっていた為に、人伝てでもその霊験あらたかな御加護が働いたらしい。搬送先に偶然居合わせていた“スポーツ医学の権威”なるドイツ人医師のオペにより十十は一命を取り留め、術後の経過も順調。
事故の後遺症は殆ど無かったみたいだけど、失われたあの夏は永遠に取り返せない。私の掌から滴る血で汚れた御守袋の中身は護符では無く、家庭用ゲーム機のメモリーカードだった。