2学期の秋、とある昼休み。
放課後の練習メニューを思案しながら食事を終え、鞄にお弁当箱を仕舞おうとした所でクラスメイトの女子に肩を突っつかれた。彼女が指を差す方向に視線を傾けると、教室の入口付近後輩の男子生徒が遠慮がちに顔を覗かせている。
「キャー…四条先輩。今、宜しいですか?」
目が会うなりNGワードを零しそうになる彼を目で制し“どうぞ”と招き入れる。原則、部活中以外に私をキャプテンと呼ぶのは禁止にしていたの。理由は私自身が好奇の目に晒されるのを嫌ったから。
3年連続甲子園出場の野球部で、プロが注目する逸材を差し置いてキャプテンになった女が一体どんな顔をしているのか。そんな人間が同じ学園内に、近所に、現実に存在すれば、誰だって興味を持つのは道理でしょう?実際、一目拝んでやろうと云う野次馬は後を絶たなかったわ。
私のささやかな抵抗せいで後輩さん達には少々面倒を掛けたかも知れないけど、唯でさえ猪狩兄弟の気を引きたい女子生徒達のやっかみを背負っている身。せめて、これぐらいの我侭は許して欲しい。
「この本をお返しに。凄く勉強になりました、ありがとうございます」
参考になるのであれば当面手元に置いていても構わない旨を伝えても、この勤勉なる後輩は決まって1週間と経たずに返却しに来た。
朝から晩まで練習漬けの毎日で、ザッと目を通すだけでも一苦労の筈。それなのに彼は一通り頭の中に入れたつもりだし、特に重要だと思う部分はノートに纏めてあると言う。
「それより答え合わせと言うか、僕なりの捉え方と先輩のお考えの突き合わせをお願い出来ませんか?…モチロンお時間があれば、ですけど」
猪狩守の1年下の実弟・猪狩進。ポジションは謂わずもがな、よね?
見た目こそ瓜二つだけど傲岸不遜が服を着て歩いている実兄を反面教師にしているせいか、好対照に柔和で品行方正な好青年。頬の絆創膏がトレードマークの、小柄で可愛い男の子だった。
兄弟ならでは息の合ったコンビネーションは、互いの意見を戦わせながら昇華し、遂には全国制覇を成し遂げた二宮瑞穂とのバッテリーをも凌駕していた様にも見える。ハッキリ言って、彼を2軍に置いていた意味が分からない。
「いえ、僕はその場合こう攻めるすべきだと思います」
「そうかしら?じゃあ、もし…」
学ぶ喜びとは違う、教える喜び。正直痴がましいとは思いつつも、彼とのディスカッションは非常に新鮮で私以上に造詣の深い兄や彼氏相手では、決して味わえない感覚に酔いしれる。
私の知識なんかががどれだけ役に立てていたかは知る由も無いけれど、純粋に自分を慕ってくれる後輩にとても好感が持てた。
「それはっー…気付きませんでした。浅慮でしたね」
「うぅん、考え方としては悪く無いと思うの。もしそうするのであれば…」
恋人以外の異性を意識する事に後ろめたさは有ったけれど、そもそも彼の指示が無ければ積極的に接触を持ったりなんかしない。
天才なんて言葉1つで周囲も自身も偽って、それでもソレに気付いてくれる誰かが居なければ、何時か自滅しそうな危うさを孕んでいる猪狩守。そんな長兄を陰に日向にとサポートする健気なまでの献身さを、一欠片でも独占したくなる。
もしも今とは違う出逢い方をしていたら?なんて妄想に耽るだけでも、甘美な背徳感が私を突き動かす。
「一息入れましょう、インスタントだけどコーヒーでも淹れるわ」
「あ、でしたら僕が調理実習で作ったパウンドケーキがありますよ?」
打撃面では二宮瑞穂、三本松一、七井アレフト。守備面では四条賢二、六本木優希、八嶋中。攻守の主軸がゴッソリ入れ替わり、綺羅星の如し暁ナンバーズの後を受ける次世代ナインはあくまでも“それなり”で、偉大なる先輩諸氏には到底及ばなかった。
それでもソレが言い訳にならない程に世間の注目はマウンドの貴公子へと寄せられていて、一地方大会の結果に過ぎない暁大付属の戦果は在京キー局であれば、どのスポーツニュースでも放映されている。
『――以上、パワフルスポーツでした。さぁCMの後はワイルドブルズ対ブルーウェイヴの一戦をお送りします。ワイルドブルズ先発は今季1軍初マウンドとなる鷹野有紀投手、ブルーウェイヴはハーラーダービー単独トップの…』
秋季大会は私がキャプテンになって初めての公式戦で、お飾りの自覚はあっても“女なんかに”なんて陰口を叩かれまいと相当神経を擦り減らしていた頃。十十に上手に踊らされ、少しでも皆の役に立てればと躍起になっていた。
でも、本来であれば練習時の細かいアドバイスは監督の領分であって、頭でっかちな女子高生風情の出る幕なんか無い。
高校球界屈指の名将・千石忠を差し置いて、良くもまぁ出過ぎた振る舞いをしたものだと思い返す度に恥ずかしくなる。野球を知れば知る程ソレを善しとされていた先代キャプテンがどれだけ有能で、どれだけ篤い信頼を勝ち取っていたのかを思い知らされたわ。
「良いんですか先輩、勝手に部室のテレビなんか観たりして…」
「さぁ、どうかしら?監督は今日は戻らないと言ってたけど、予定が変わるかも知れないわね」
「じ、じゃあ止めましょうよぉ」
「もし見つかったら私が独断でした事だもの、アナタは帰って良いわ。私は神童先輩のピッチングを観ておきたいし」
お兄さんとタイプが似てるから参考になるわよ?と、どうにか指図された通りにTV観戦をするように仕向けると――後は本当に何もする必要が無かった。
実際試合が始まると最後まで食い入る様に彼のピッチングを見守り続けていて、思い返してみるとあの時が後に世界一の神童裕二郎マニアを自認する“野球場の妻”が誕生した瞬間だったのかも知れない。
「本当に兄さんみたいー…うぅん、違う。もっと凄い。僕だったら神童さんをどんな風にリード出来るんだろう?ダメだ、今の僕なんかじゃとても…」
「す、進君?」
熱に浮かされた猪狩進をどうにか連れ出した頃にはとっくに門限は過ぎていて、PHSが鳴った時には兄からの着信以外、全く考えられなかった。もしかしたら私の身を案じ、愛犬の散歩も兼ねて近くまで来ているかも知れない。
こんな遅くに男子と2人っきりで居る所を見られたら、何を言い出すか判ったものでは無い。でも出なければもっと心配するだろうし、と急いで通話ボタンを押す。
「ごめんなさいっ、今帰宅中でー…どうしたの、こんな時間に?…別に迷惑なんかじゃ無いわ。要件は?」
矢継ぎ早に逃げ口上を捲し立てようとしたが、電話口の相手は兄では無い事が直ぐに判明。ただの杞憂であった事にホッと胸を撫で下ろした。
また今から逢いたくなったとでも言い出すのか、それともただ単に指令の結果を一刻も早く知りたかっただけなのか――そんな予想を裏切る、信じられない一報が飛び込んで来た。
「…えっ、怪我?複雑骨折?誰がっ?!」