トーリは両腕に紙袋を抱えながら、真木邸を目指していた。アンク用のアイスやらガメル用の駄菓子やらを買い込んで、帰る途中だったのである。店の位置が分からずに大分時間を食ってしまったために、既に日は落ちてしまっていたが。使いっ走り感が否めないものの、そもそもヤミーはグリードの手下なので間違ってはいないのかもしれない。ところが、屋敷を目前にして、トーリは足を止めてしまっていた。アイスが溶けてしまうので早く帰投しなければならないのだが、そうも言っていられないモノを見つけたのである。具体名を挙げてしまうと、佐倉杏子という魔法少女一名だった。杏子が小型の双眼鏡を用いて、屋敷の様子を窺っているのだ。「お、トーリじゃんか。アタシの場所が分かったって事は、多分後藤あたりから事情は聞いたんだろ? その紙袋は、差し入れか?」「えっ……? は、はい。そうなんですよ」しかも、相手にはトーリの存在を既に気付かれてしまっていたようなので、逃げも隠れも出来ない。そして、流れるような手つきで食料品の紙袋の中身を物色している杏子をよそに、トーリは必死に頭を回していたりする。何故杏子が真木邸の偵察をしているのか、と。ましてや、後藤までもが絡んでいるとなれば、人間勢が何らかの陰謀を企てている事は想像に難くない。「それで……様子はどうですか?」なので、トーリの為すべきことは、いつも通りの情報収集である。杏子の反応から察するに、幸いにしてトーリが裏切り者だという情報は人間達には回っていないようなので。「それなんだけどさ……あの屋敷、意外と大きくてな。出口もいくつあるんだか……。一応アタシも観測地点は何回か変えたんだけど、まだ誰の出入りも見てないよ」確かに、真木邸はそれなりに大きい。下手な教会よりは立派な建物かもしれない。そんな状況で、杏子は人の出入りを見ようとしていたらしい。もっとも、杏子は未だに誰の姿も確認できていないようだが。「杏子さんが見張りを始めて、どれぐらい経ってます?」「多分、半日ぐらい?」足の早そうなアイスバーを咥えながら、杏子が答えてくれた。とうに日も落ちて肌寒くなっているというのに、よくアイスなんて口にできるものである。そして、トーリは明確に、杏子の言葉に潜む不自然さを嗅ぎ取っていた。トーリが買い出しに出かけたのは日が傾きかけた頃であった筈だが、杏子にはトーリの姿は見られていないのか、と。屋敷が大きいので、たまたま杏子の観察地点とは別の方向にある扉からトーリは出かけたのかもしれない。しかし、トーリは屋敷を出る直前に真木博士から使用する出入り口についての指示を受けたような気がする。たしか、「今は裏口から行ってください」というような事を言われた記憶がある。……どうやら、真木博士は既に、杏子の監視に気付いていたらしい。しかも、何回か観測地点を変えている筈の杏子の現在位置を正確に把握している可能性が濃厚である。だが、博士は一体どうやって監視役の存在に気付いたというのか。まぁ、それよりもトーリとしては、杏子が真木邸を見張っている意図の方が気になる訳だが。それを一体、どうやって聞き出したら良いものか。もっと言うと、夜も更けてしまったしまった今から、どうやって買い出しをやり直すべきか。まさかグリードが既に3体も消えようとしているなんて思いもしない、能天気な蝙蝠娘たちの背中を。一台の自販機型兵器ことライドベンダーが、視ていた。『その欲望を開放して魔法少女になってよ』第百三十六話:羽のような重さいったいどうして、想像できただろう。……佐倉杏子の持参した双眼鏡が、何の役にも立たなかったなどという事は。実際に起こった事件は、爆発の一言に尽きる。即ち、真木邸の壁一つを吹き飛ばす爆発が、遠目に見ている二人から観測されたのだ。正直なところとして、遠眼鏡など無くても観測できる規模のモノが。「まさか、杏子さんがほむらさんみたいなマネをするなんて!?」「いやいや!? アタシじゃねーから!?」……トーリは反射的に杏子へと疑いの目を向けてしまったが、どうやら冤罪であったらしい。だが、だとすると一体何故爆発が?もくもくと煙をあげている真木邸の様子は、ただ事では無いと見える。トーリとしては、こんなことをする人間は暁美ほむらさんぐらいしか居ないだろうとは思っていた。ところが、まどか大好き人間のほむらさんが鹿目まどかに危険が及ぶような爆破テロに走るだろうかと考え始めると、それも違う気がしてくる。ならば、マッドサイエンティストなドクター真木が何らかのお約束で爆発を起こしたとでも言うのか。何だかその場合には、ウヴァさんも爆発に巻き込まれて黒焦げにされているような気がする。そして……粉塵の中から転がるように跳び出てきた人影に、トーリと杏子は見覚えがあった。「くそッ……!」悪態を吐いているその人物は、150センチに満たない背の丈を起こしながら、屋敷の方へと注意を払っていて。どう見ても、そいつは鳥類グリードのアンクと憑代の鹿目まどかだった。一見、アンク達が攻撃を受けた側で、おそらく加害者は未だに立ち上る煙の中に居ると見える。しかし、一体誰が?手に汗を握りながらトーリ達が様子を窺っていると……ようやく、煙の中から犯人の姿が浮かび上がって来た。「……どうやら、私の思惑に気付いていたようですね。アンク君」……驚くべきことに、トーリの妄想も半分ぐらいは正解であったらしい。アンクを屋敷の外まで吹き飛ばした下手人は……不気味な白い人形を肩に乗せた、不審な博士であったのだ。もっとも、どうして真木博士とアンクが睨み合っているのか、トーリには想像も出来ないが。ついでに言えば、アンクと真木博士のどちらに味方すれば良いのかも分からない。困惑しているトーリの隣にて事態を見守っている杏子が案外落ち着いているようなのが、流石といえば流石なのだろうか。……と思っていたら、アンクが全身を怪人態へと変化させていた。真赤な肌に所々色鮮やかな羽毛を輝かせた鳥の怪人が、瞬く間に真木博士へと斬りかかったのである。その鋭利な爪は、人間一人を引き裂くには、あまりに強すぎる凶器の筈で。にもかかわらず、アンクの凶爪は……真木清人に触れる事さえ出来なかった。アンクの胴に吸い込まれるように放たれた真木の拳が、アンクを退けていたのだ。羽虫でも掃うかのように、という定型句は、きっとこんな時に使うのだろう。それほどまでに真木の動作は……自然な、それであった。「オイオイ……真木って奴まで人間やめてるなんて、聞いてねーぞ」そんなものは、トーリも今初めて知ったことである。真木博士の腕から立ち上る紫の揺らぎとでも言うべき代物は……明らかに、人間の扱える力では無かった。物陰に隠れて遠目に見ているトーリ等からは少しばかり判別が難しいが、どうも真木博士の腕自体が、人間のそれから逸脱してしまっているようにも思えた。肘から先が、紫の硬質な何かで覆われているように見えるのである。アンクが炎を放ってみせるも、やはり真木の腕にて振り払われてしまっていて。トーリとしては、もはや何が何やらである。ウヴァさんの姿が見えないのも、地味に気にかかったりして。まさか、アンクに先んじて真木博士に消されてしまった、なんてことは無いと信じたいところだが。「……君達も、こそこそと隠れていないで、出てきたらどうですか」そして……やはりと言うべきか、隠れて様子を窺っている杏子達の存在は、真木にはバレていたらしい。どうやって察知したのかは、さっぱり分からないが。しかも、『君達』と複数形を使ったところから察するに、こちらの人数も把握していると見るべきだろう。ここまでは、トーリでも理解出来た。ここまでは。……つまり、この先はトーリには予測できなかった。「まー、待ちなって。まずは事情話してみな。場合に依っちゃ、あんたの方に加勢するかもよ?」特に緊張感も見せずに物陰から歩み出た杏子が、そんな事を口にするとは。『何やってるんですか、杏子さん!? 大体、こういう時は敵が共倒れになるまで待った方が良いんじゃぁ……』『それは、敵さん達がアタシ等に気付いてない時限定の話だよ。アタシ達の存在に気付かれてるなら、どっちもそんなボロボロになるまで戦わずに引き上げるだろ』まぁ、念話で聞いてみたら、なるほどとも思わされたが。確かに、いかにも頭を使えそうなアンクと博士ならば、有り得る話である。どちらかが重めの傷を負った時点で、彼らは勝負を降りて撤退を選ぶこととなるだろう。たとえその後に逆転の一手をかましても、魔法少女との連戦になる確率が高いのならば、真木やアンクは無理を通してまで戦わないに違いない。「……結構です。3対1でも、問題は何もありませんからね」……尚、さり気なくトーリにとって聞き逃せないくだりが、真木の言葉には含まれていたりして。具体的に言うと、既に真木博士の抹殺リストにトーリも入っているような気がする件について、である。真木本人としては「とりあえず殺しておけ」ぐらいの感覚なのかもしれないが、笑いごとでは済まされない。何が悲しくて、トーリがチャンプブロックをせねばならないのか。「トーリ! 合体だ!」「分かりました!」一方、危機感を高めていたのは杏子も同じであったらしい。トーリを身体に合体させて一気に空中へと飛びあがった杏子には……二つの選択肢があった。すなわち、このまま飛んで逃げるか、もしくは攻撃を仕掛けるか。『どうしましょうか。とりあえず一番オススメなのは、このまま飛んで逃げる作戦だと思います!』どう考えても、飛んで逃げた方が安全なのは間違いない。先程の手短な攻防を見るだけでも、真木は既に人間を辞めているとしか思えない。トーリと合体している状態とはいえ、今の真木は楽に戦える相手では有り得ないだろう。――アタシは乗りかかった船だろうが、沈むと解ったらさっさと降りちまう女なんだよ。カルネアデスの板は、他人を犠牲にすれば自分は生き延びられるって話なんだ。たしか、ガラの一件の最中に伊達明から協力を求められた杏子は、そう言い放った筈だった。ならば、今回も杏子はさっさと引き上げるのが順当ではないのか。というか、後輩魔法少女は杏子にその判断を期待しているとしか思えない。『まぁ、無限の魔力と飛行能力があれば、逃げるのは後でも出来る。ちょっとだけ……敵さんの手の内を見ておいたって、バチは当たんねーだろ』『……この間さやかさんを治した反動でワタシはあまり調子が良くないので、防御にはあんまり期待しないでくださいね』……魔がさした、のだろうか。もしくは、後輩の前で少し格好をつけてみたくなったのか。はたまた、逃げる事を推奨されて、捻くれ者の本領を発揮してしまったのかもしれない。「置き土産に一発、遠慮せずに貰っていきなっ!」空から真木博士を見下ろしながら言い放った杏子は……次の瞬間には、天を裂くような巨大槍を取り出していた。言うまでもなく、無限の魔力を最大限活用することによって生み出した代物である。時計塔のような大きさを誇るその槍は、万にも及ぶセルメダルを抱えたスミロドンヤミーを倒した実績も持っていた。そんな、人型の敵を押し潰すには充分すぎる質量を持った武具が……一思いに振り降ろされたのだ。であるからして、さすがに杏子といえど、予測することは適わなかった。「これは……中々の脅威ですね」淡々と感想を述べている真木博士の声が届くことなど、まさか想定出来た筈も無い。両腕を用いて巨大槍の先端を掴み取っている真木博士の姿なんて、悪い夢のようでさえあった。真木清人は、両足こそ膝近くまで地面に埋まってしまっているものの、本人には殆どダメージが無い様子で。汗一つかかない真木の有様は、平時のそれと何ら変わりが無いものだった。さやかを倒した時のような電磁石を用意出来なかったので単純比較は出来ないが、どうやら真木はスミロドンヤミーとは比べ物にならない程の戦闘能力を持っているらしい。……と、トーリと杏子が判断を下している間に。「俺を……忘れんなッ!」右腕に炎の力を貯めたアンクが、真木へと迫っていた。翼を広げて地面スレスレを飛行しながら、速さと腕力と炎熱の力を込めた一撃を振るったのである。杏子の巨大槍を受け止めている真木を、横合いにぶん殴ったのだ。巨大武器が邪魔で、杏子とトーリから直接は見えなかったが、それでもアンクの攻撃の威力を推し測る事は出来た。槍の柄に返ってきた手応えとして、おそらくアンクの攻撃の余波によって槍の先端が溶解もしくは蒸発させられてしまっているのだろう、といぐらいには。時計塔のようなサイズの槍を、魔力の粒へと還しながら。杏子とトーリは、本格的に危機感を募らせていた。爆炎に包まれた筈の真木が何事も無かったように立っているのを確認した時点で、既に相手の次元が違うという事は明白で。「よし、逃げよう!」『待ってましたっ!』さすがにそこまで判明しているのに、杏子が戦闘を続ける道理も無い。杏子の決断に心の底から喜びの声をあげているトーリは……まぁ、平常運行なのだろう。ともかくとして、杏子とトーリは、高度を上げて飛び去る判断を下した。……それ自体が既に困難な道程であるとも、気付かずに。「遠慮することはありません。君達も……ここで『終わって』良いんですよ」「……っ!?」『後ろです! 杏子さんっ!』全くの、想定外だった。つい先程まで地上から杏子達を見上げていた筈の真木清人の声が……杏子の耳元への囁きとして響いたことなど。とっさに空中で反転しながら、殆ど反射的に両腕で槍を構えようとして。「ちっ!」次の瞬間には、真木が無造作に振るった腕によって、防御に用いられた槍の腹は拉げてしまっていた。それだけでは、無い。空中を戦場としているために踏ん張りが利かないのだ。大きく弾き飛ばされつつも、何とか地面への激突を避けながら……杏子は、ようやく自身の眼にて事態を理解していた。一瞬の攻防の間には疑問に思う暇さえ無かったが、今の真木の一撃には根本的に不自然な箇所があった筈だ。空中に飛びあがっていた筈の杏子達に対して、真木は如何にして肉薄したというのか。答えは……真木がその全身の姿を以て示唆していた。すなわち真木の姿は、「空を飛ぶ」という行為を納得させるだけの物へと変化していたのだ。身体の至る部分が、光沢を持たない紫の鱗で覆われていて。首元から伸びた襟は、どこかの恐竜か爬虫類を思わせるそれで。顔の中心で一つに繋がった紅の瞳は、彼が人間という種から外れている事をありありと主張していたのだ。……そして、杏子の頭は飽く迄冷静に、状況の悪さを測り取っていた。先程までの真木博士は、腕を怪人化させただけで無限の魔力による攻撃を防いでみせた筈だ。更に今現在において、真木は全身を怪人化させている。いったい、何をすれば真木に対抗できるというのか。「……やっぱ、見滝原は人外魔境の巣窟だったか」杏子がぽつりと吐き出した言葉は……杏子が見滝原を訪れて間もない頃に吐いたものと似通った、科白であった。……物音が消えた、動物園にて。ようやく、人間の一味は戦いからの解放を許されていた。カザリの消滅という形において、ようやく今宵の争い事は終わりを告げたのだ。「なんとか……なって……良かった……」「それより、火野! お前の身体は大丈夫なのか!?」肩で息をしている火野映司の姿は、既に人間のそれに戻っていて。しかし、そんな映司に駆け寄ったマミと後藤は、不安に思わずには居られなかった。つい先刻まで、この火野映司という男は、紫のグリードへと姿を変えて戦っていたのだ。感覚器官が鈍っているという話も事前に聞いていたが、事態は本格的に悪化の一途を辿っているのではないか。「大丈夫、です。後藤、さん。心配、かけました」「……お前の『大丈夫』は、どうも信用に欠けるな」後藤と映司の会話を、傍らにて聞きながら。巴マミが思い出していたのは、今は亡き一人の魔法少女の事だった。橙色のメダルを取り込んで火野映司や美樹さやかを圧倒し、しかし最期には魔女と化して何処かへ走り去った、呉キリカの事である。――オーズには、紫のメダルになるべく慣れて欲しいのさ。それが、ワルプルギスの夜の攻略糸口になるらしくてね。マミ自身が直接聞いた言葉では無い。後から人伝に聞いた、呉キリカの言葉である。当時は意味の釈然としない言い草であったが、今のマミにはその意味が分かるように思えた。映司が変化した紫のグリードは、不完全な状態であっても凄まじい戦闘能力を発揮したからだ。それこそ、完全態のカザリにさえ匹敵するほどに。つまるところとして、呉キリカが火野映司に接触したのは、特大魔女に対抗するための純粋な戦闘能力を持つ者を求めての事だったのではないか。もちろん、ワルプルギスの夜という魔女がどれだけ規格外の怪物なのかは、マミには分からない。しかし、紫のグリードが完成すれば、もはや映司と肩を並べられる魔女が居るとは思えない。今思うと、呉キリカの不自然な行動も、納得できるような気がした。――オーズが紫のメダルとの同調率を上げれば、私の防御を無視してコアを破壊できるよ。呉キリカは、戦闘中に自身の弱点を教えるという不可解な言動を零していた。ところが、弱点を教えられたオーズが紫の戦斧を振るっても、キリカは幾度もそれを回避して見せた筈だ。橙コアを破壊させる事が目的ならば、何故キリカは自分の血肉を削られる痛みを負ってまで粘ったのだろうか。……橙色のコアメダルを破壊させる事が、キリカにとって目的では無く、手段に過ぎなかったのだとしたら。オーズに何度も紫の力を行使させることによって、紫のメダルと火野映司の身体を馴染ませるための、練習試合のようなつもりだったのではないか。――ああ、やられてしまったよ。まぁ紫もそれだけ『馴染んだ』みたいだし、これで私の出番も終わりかな。恐ろしい、と心の底から思った。マミは、自分の命を落としてまで戦えない。なのに、呉キリカは……ワルプルギスの夜を倒せる戦力を用意するために、自らの命を捨てたというのか。キリカの空々しい嗤い声が、耳元に蘇った気がした。火野映司もそうだが、どうしてそんなに簡単に自身の命を捨てられるというのか。まるで、増えすぎたネズミが種の保存のために自ら死を選ぶという都市伝説のようでさえある。「火野さんは……そうして、そんなになってまで、戦えるんですか」……口をついて、そんな言葉が飛び出してしまっていた。だが、聞かずには居られなかった。マミが引き止めなければ……映司が文字通り、『人間』というステータスを捨て去ってしまうように思えたのだ。「『後悔するから』とか、そんな事が聞きたいんじゃないんです。火野さんは、どうして……自分の命がそんなに『軽い』んですか」つい先程までの戦いぶりだって、そうだ。グリードになりかけているというのに、映司は戦い続けた。カザリを倒すために必要だと割り切った……とだけ言うのは簡単だろう。しかし、マミはとても、それを真似できるとは思えなかった。巴マミとて、危険を背負って人命を救ってきた、歴戦の魔法少女である。それでも、自分の命を投げ捨ててまで戦えるかと言われれば、否でしかない。なにか、火野映司という男からは、人間として大切なものが抜け落ちているのではないのか。「……俺は」一方、火野映司の反応は……彼にしては珍しく、歯切れの悪いものに思われた。おそらく、本音としては、映司はその理由を口にしたくないのだろう。だが、マミと後藤が映司から明らかな不自然さを嗅ぎ取っているという事実を、映司は理解しているに違いない。だからこそ、火野映司は重い口を開いた。開こうと、した。……空気の冷え切った舞台に、新たな役者が現れるまでは。「見違えましたよ。火野君。まさかそこまで『進んでいる』とは」まるで影から現れ出でたように、何処からともなく。高い背丈と身体の細さのアンバランスを伴ったシルエットが、いつの間にか姿をあらわしていたのである。世界を良き終末へと導くことを謳う、その科学者を……この場の誰もが、知っていた。真木、清人。先日鴻上財団と袂を分かち、現在は潜伏中である筈の人物である。しかし、それが一体なぜ、この場に居るというのか。「簡単な事ですよ。メダルを砕かれるペースが予想外に早いもので……これ以上手を拱いて見ている訳にはいかなくなっただけのことです」まったく誰のせいだか、なんて言葉を続けた真木清人のボヤキは……その答えを既に持っている者のそれに思える。おそらく、火野映司と紫コアの同調を手伝った存在が居た事に、真木は既に気付いているのだろう。当然、それが呉キリカと名乗った魔法少女であることも。そして、コアメダルがあまりに短期間のうちに砕かれ続けたために、真木自らが人間達のもとへと赴いたに違いない既に『橙』『青』『黄』のコアは、3枚ずつを残して砕かれてしまっているのだ。人間達のまだ握っていない情報では、『灰』のメダルも実は半分以上が破壊されている。真木博士が世界を滅ぼすのに何枚のコアが必要なのかは不明だが、現在以上にコアを砕かれると、真木の目的に支障をきたす可能性が高いという事なのだろう。……と、真木からの説明こそ無かったものの、聞き手の人間3名はそれぐらいの事は理解していた。聞き手側の中にトーリや美樹さやかが居たら、もう少し真木博士に口頭で説明してもらう必要があったかもしれないが。幸運にも、その場に集っていた火野映司や巴マミ等は、いずれも察しの良い面々であったのだ。「……つまり、貴方はオーズのコアメダルを奪いに来た、という事で良いのかしら?」巴マミとしては、ソウルジェムに魔力を通わせて戦闘の準備を整えつつも、疑問を解消できずにいた。十中八九、真木の目的については、マミの察した通りだろう。しかし、それを為すための手段を、真木清人は持っているのだろうか。よしんば科学者である真木がバースのような武装を持っていれば、魔力不足の魔法少女一人を倒すことは出来るかもしれない。だが、さすがの真木といえど、紫の怪物形態という切り札を持った火野映司に対抗する術があるとは思えない。「そのつもりで居たのですが、火野君の状態がそこまで進んでいるのならば、今の私では力尽くという訳にはいかなくなりました」……どうやら、マミ達の見積もりは、半分当たりで半分外れといったところらしい。しかし、真木も人間達の前に姿を現したという事は、何かしらの勝算を持っているに違いない。いったい真木博士は、どんな隠し玉を抱えているというのか。「ですから……交換といきましょう。『彼女達』と、火野君達が今夜手に入れたコアメダルの全てを」色の指定こそ無かったものの、おそらく黄色と青の6族6枚全てのコアを求められているのだろう。それ以外のメダルは、今のところノータッチということらしい。だが……それ以上に人間達の気を引いたのは、『彼女達』という真木の言葉であった。真木が沈黙のままに視線を肩の人形から外していて。人間達は……ようやく、真木の背後に積み上げられているものの存在に気付いていた。無造作に地面に置かれている物体が人の形をしている事を理解するまで、さしたる時間は要らなかったのだ。「トーリさん、佐倉さん……。それに……!」積み上げられていたのは、3つの人体であった。誰もが身体中に生傷をつくり、全員が意識を失っているらしい。傷だらけの少女等へと落とされた真木の瞳は、やはり冷え切ったそれで。そして、そんな怪我人たちの様子を見せつけられれば、映司達が真木の意図を理解できない筈も無い。つまり、3名の人質と6枚のメダルを交換せよ、と。最上段に重ねられている鹿目まどかは、内部にアンクがまだ居るのかどうかは不明だが、非戦闘員という意味では一番人質らしいと言えた。中段に居る杏子は、昼に真木邸の偵察に行った筈だが、どうやら発見されてしまったらしい。最下段に潰れているトーリは……どういう経緯で捕まったのか分からないが、どうせ運悪く通りかかったという程度なのだろう。その子供達が捕えられた経緯はともかくとして、彼女達に人質としての価値があるのは、説明するまでもなかった。もちろん、真木博士の最終的な目標は世界の終末であるのだから、人間達はそれを阻止せねばならない。それでも……後藤やマミでさえ、人質を見捨てるという選択肢は選べなかった。今まで時間を共有してきた人間を見殺しにするという選択は、あまりに重かったのだ。ましてや目の前の人命を取りこぼす事にトラウマ染みた強迫観念を抱いている一人の男の答えなど……最初から、決まりきっていたのだろう。「分かりました、真木博士。交換には……応じます」……事態は、転がり落ちる。・今回のNG大賞「交換といきましょう。『彼女達』と、火野君達が持っている3色7枚のコアメダルを」「すみません。さっき真木博士が来る前に話し合って、手持ちのコア全部砕いちゃったところなんです」「」ドクター真木は泣いて良い。・公開プロットシリーズNo.136→ドクターが立った