ユーラシアに似た大陸に、東西およそ8000キロにわたって伸びる交易路、「大陸公路」。
その「大陸公路」の中間点にパルス王国はあって、豊かな財政、高い文化水準を誇っていた。
時にパルス暦319年、パルスから北西へ大陸公路で繋がる文化国マルヤムが
さらに北西の端にある強硬宗教国家ルシタニアに攻め滅ぼされる。
翌年、マルヤムを制圧したルシタニア軍はパルスに侵入した。
その総兵力は騎兵、歩兵、水兵、あわせて37万。
パルス暦320年10月16日 第一次アトロパテネ会戦 パルス軍はルシタニア軍に惨敗。
国王アンドラゴラス三世は捕虜となるが、王太子アルスラーンは「戦士のなかの戦士」の異名を持つ
黒衣の騎士ダリューンに助けられ戦場から脱出に成功。
同年11月、パルスの王都エクバターナ陥落。王妃タハミーネ捕らえられる。
12月中旬、王太子アルスラーンは6人の仲間、ダリューン、ナルサス、エラム、ギーヴ、ファランギース、アルフリードとともに
パルス東方のペシャワール城塞へ入城。
万騎長キシュワード、バフマン指揮下の騎兵2万、歩兵6万の忠誠を得る。
320年末から321年3月半ばまで、王太子軍は隣国シンドゥラに遠征。後継者戦争に関わる。
結果、王座争いに勝利したラジェンドラ王子と不可侵条約を締結。
その後、アルスラーンのもとに諸侯の軍や騎士たちが集結。王太子軍の総兵力は10万に達する。
321年5月10日、王太子軍、ペシャワールより王都エクバターナへ進発。
5月20日、王太子軍、聖マヌエル城を攻略する。
聖マヌエル城はルシタニア軍が大陸公路に置いた拠点の一つである。
どちらかといえば学芸畑の城主バルカシオン伯が、約1万の軍勢を率い
10万近いパルス軍の前に軍略の捨石となる覚悟を決めていた。
聖マヌエル城近くの狩猟場、シャフリスターンの野にて、篭城戦を前に食糧確保の狩猟と偵察に出た
ルシタニア騎兵1千騎が、戦いを前に狩猟祭をもよおしたパルス軍と遭遇戦に突入する。
速やかに主力を動かせたパルス軍はルシタニア軍を圧倒し、組織的な戦闘を行えぬよう混戦にもちこむ。
ルシタニア軍は退却できぬまま秩序を失い、混戦状態で聖マヌエル城に撤退しようとする。
軍事的才能に欠けるバルカシオン伯は、城外の味方を見捨てられず城門を閉ざす時期を見誤り
勢いに乗った圧倒的多数のパルス軍に城内へ押し込まれ、戦闘の主導権を奪われてしまった。
結果、城内のルシタニア軍は全滅し、少数の女性や子供らは塔から身を投げて自決する。
城主バルカシオン伯は同胞の死を見届けてから、自らも投身した。
そこに、シャフリスターンの野でとりおさえられたルシタニアの少女騎士が、パルス人の中から拘束を振り払って飛び出した。
伯爵のそばにひざまずき、抱きかかえるようにする。
「伯爵さま!、しっかり」
「おお、エトワールか、生きておったか」
声になったかどうか、唇をかすかに動かしてバルカシオン伯は息を引き取った。
激発した少女は伯爵の腰に下がった鞘から剣を抜き、たったひとりで周囲のパルス軍に向きあった。
「伯爵さまを殺したのはどいつだ!、かたきをとってやるから名乗り出ろ!」
「その男は地面に墜ちて死んだのだ。地面を切るわけにもいくまい?」
南方ザラで守備隊長だった鉄鎖術使いのトゥースが、むっつりと答える。
「だまれえ!」
怒りの矛先をそらされたが感情を押さえられるほど老成しているはずもなく
少女は若い直情を爆発させて、たいていのパルス人より流暢なパルス語で叫ぶ。
感情のままに剣を振りかざす手から、双剣使いの万騎長キシュワードが剣をもぎとり、縄をかけるよう部下に命じた。
少女はパルス語、ルシタニア語、マルヤム語まで交えて罵詈雑言するが、力でかなわず、たちまち革紐で縛り上げられた。
「さしあたって縛り上げてみましたが、王太子殿下、あの少女をどういたしましょうか」
絶世の美女、ミスラ神に仕える女神官のファランギースが笑いをこらえる表情で問いかける。
王太子殿下と呼ばれたのは、まだ14歳にしてパルス全軍の総帥を担わされた少年で
黄金の冑(かぶと)の下から、言葉にできないたいそう綺麗な色合いの瞳で少女を見る。
そのアルスラーンの、当惑と興味をこめてルシタニアの少女を見つめていた顔が困惑に変わった。
「妙にぐったりしてるのだが? 血も流している。どこか怪我でもさせたのか?」
後ろ手に縛り上げられ、地面にしりをついた少女の体は力を失い、がっくり首を落として顔が陰になっている。
ファランギースが近寄り、少女の頭を持ち上げ覗き込むと、目は閉じ、興奮極まったせいか鼻血をたらしていた。
女神官として医療の心得もあるファランギースは少女の首に手を置き脈を診た。
まぶたを開かせ目をのぞき込み、秀麗な顔に似合わぬ困惑を浮かべて告げた。
「逝ってしまっております」
女神官の言葉にパルス人たちはざわめいた。
塔での集団自殺を見せつけられ、戦いの狂熱も醒たところに、重苦しい追い打ちをかけられたのだ。
「これはキシュワード卿の部下が悪いな」
むっつりと空気を読まない発言をしたのはトゥースだ。
たちまち当事者たちのあいだで言葉の応酬が始まった。
「もとはと言えばおぬしの思いやりのない言葉のせいではないか」
「その娘をここに連れてきたのはダリューン卿では?」
「それはダリューンが悪いな」
「おいナルサス!」
喧騒の中でだれより早く異変に気づいたのは、少女から目をそらせなかったアルスラーンだった。
少女はふうと息を吹き返し、心ここにあらずといったうつろな顔を持ち上げ、アルスラーンと目線が結ばれる。
呼吸数回のあいだ見つめあったが、やがて周りの人垣に気づいた少女はだんだん落ち着きをなくしてきた。
目線を泳がせ、同国人の死体の山が目にはいると数瞬の硬直、そして激しく呼吸を乱し悲鳴を上げた。
「ひぃっ!、はあっ、ひいいっ!」
少女を支えるファランギースの手を振りほどいて逃げだそうとするも、手を縛られているので転んでしまう。
芋虫のように這いずって砂塵にまみれながら、悲鳴とも嗚咽ともつかない声を漏らす。
喉から不快な音を鳴らすとその場に胃の内容物を吐きこぼし、激しく咳き込んだ。
涙やら何やらで、それなり美しかった顔も今では見れたものではない。
ファランギースは少女に革袋の水を与えて口をすすいでやり、手ぬぐいで顔をふいて鼻をかませ
優しげな声音でなだめるように声をかけた。
「おちつくのじゃ。おぬしの信じる神に祈りをささげてみよ」
「神っ、神など、死んだ!」
少女の応えにパルス人たちは驚愕した。
神の名をよりどころに殺戮と略奪を働いてきた狂信者たちの言葉とは思えなかったのだ。
誰もが二の句をつげず静まりかえるなかで、自らの信仰を否定してしまった少女を痛ましげに見るファランギースが
なだめるように背をなでてやりながら語りかける。
「ならば、おぬしの名を聞かせるのじゃ。気を鎮め、心を落ち着かせよ」
おどおどと視線を泳がせる少女は、キシュワードが持つ剣を見て動きを止めた。
剣を気にしたのではない。鏡のようにみがかれた刀身に映る自分の姿から目を離せないのだ。
やがて目に理解の色を浮かべて落ち着いたと見えたが、その場の全員を困惑させる言葉をつぶやいた。
「わ、私は、誰だ?」
パルス人たちは、事ここにきて自分たちの手に負えない状態だと悟った。ごうごうと喧騒がよみがえる。
「心が完全に壊れてしまっている。かわいそうに、ダリューンのせいで」
「おれか! おれが悪いのかナルサス!」
――いや、あなたが悪い訳じゃないんですよ。自分が誰かもわかってます。
――でも、日本人、○○電機産業の静岡工場で品質マネージャーしてる波田(はだ)と言っても理解できないでしょ?
――なにより、あなた方が、物語の登場人物とか言われたら、それこそ困るんじゃないかな?
――高校時代にアルスラーン戦記を知って9巻まで一気読みしたが、その後、続きが出なくて忘れていた。
――大学を出て就職した□□□自動車から○○電機に転職。愚痴の多い彼女と別れたり、精神的にまいっていたある日。
――書店で懐かしいタイトルを見かけて、店頭にあった第12巻、暗黒神殿を立ち読みして驚いた。
――エステルの扱いがひどい! 親切心があだになるとか、死亡フラグが立つとか、納得できない。
――思わず全巻買い直してエステル絡みのイベントをチェック。全力でエステル幸せ計画を立案してしまった。
――2006年のクリスマスイブを潰してしまったが、無駄遣いした気分ではない。むしろ満足。
――彼女がいないイブの夜をエステルに感情移入することで埋め合わせて、いい代償行為になった。
――これで思い残すことはないと本気で思ったのが悪かったのか……
――ダリューンとかナルサスとか呼びあっている声が聞こえます。
――むせ返るような鉄さびに似た生臭い臭い、胃液だか排泄物だかの不快な臭いがする。
――目を開けて初めて見たのは、馬上に黄金の冑を被った綺麗な少年? と目が合いました。
――どこかで見たような奴らがいて、湯気が立つような死体の山があって、リアリティのある圧倒的な死に当てられてぶちまけた。
――吐くもの吐いて落ち着いたら、こいつらアルスラーン戦記キャラ(神村幸子デザイン)じゃないかと。
――そして鏡面みたいにみがかれた剣を見たら
――俺、エステル化してる!?
――ついニーチェの名台詞「神は死んだ」を決めたら反響大でこっちが驚いた。
――名前を聞かれたけど、本当にどうしよう……
――とにかく、不自然にならないように「エステル」を名乗らないと。
自分の名前もわからないと告白した少女にファランギースが辛抱強く問いかける。
「なにか覚えていることはないのか? 家族や故郷や友人などじゃ。身の証しを立てるものを思いつかぬか?」
口を開きかけてはためらっている少女は、思い切って同胞の死体を振り向くと、一体を指し示した。
彼女が最後に言葉を交わしたバルカシオン伯だ。
「誰の顔も思い出せません。ただ、この人が、私をエステルと呼んだような気がする」
――本当は「エトワール」と言ったらしいんだけどね。
――でもファランギースさんはまじめにうなずいてくれるわけで、罪悪感がちらっとある。
――って、今やクバードすら俺の年下だよ。心の中じゃ敬語いらないな。
「うむ、それがこの者の遺言なのじゃろう。エステルという名、大事にするがよい」
少女の告白に、ファランギースは死者への礼儀も含めて、うやうやしく応えた。
死して少女に名を残した異国の騎士にパルス人たちも感銘を受けたようだ。辺りは厳粛な空気に包まれた。
同時に、年端も行かぬ少女の心を引き裂いたことへの罪悪感も少しは晴れたのだろう。
緊張を解かれたパルス人たちは号令一下、整然と集合し、隊ごとに指示を受けて戦後処理に取り掛かった。
そして、記憶喪失の少女はルシタニア人でわずかに生き残った傷病者たちとともに
聖マヌエル城の一室に留め置かれたのである。