開幕の鐘となったのは、白銀のマスケットが放つ銃声だった。空気を裂いて天を駆ける弾丸が、ワルプルギスの夜に突き刺さる。甲高い着弾音が、遠く離れたほむらの許まで響き渡った。
「やっぱり、この程度じゃ威嚇にもならないわね」
構えていたマスケットを下ろしたマミが、目を細めてそう零す。言葉通り、ワルプルギスの夜はなんの痛痒も感じていないといった風で、相変わらず悠然と中空を漂っていた。
「じゃあ、これならどうかしら」
腕を薙いだマミの背後に、無数のマスケットが現れる。宙に固定されたその銃口は、一つ残らずワルプルギスの夜へと向けられている。点火は一瞬。五月雨の如き炸裂音が響いて、周囲の空間を震わせる。遅れて着弾を知らせる金属音が耳に届き、標的の歯車に火花が咲いた。
だが、やはり、かすり傷すら与えられない。魔女の嗤い声が、虚しく耳を撫でていく。
当然だと、一連の流れを観察していたほむらは、冷めた感覚で思考する。ワルプルギスの夜は、何度となく交戦してきたほむらの宿敵だ。認めたくない感情はあれど、その強大さも理不尽さも、彼女は骨の髄まで理解させられている。
ループの度に調達する武器を増やして、その火力も飛躍的に上昇したというのに、なおも最悪の魔女はほむらを圧倒し続けた。ともすれば時を重ねる毎に強くなっているのではないかと、そんな感覚に囚われてしまうほど、ワルプルギスの夜は絶対的存在として君臨している。
幾度となく繰り返した時間の中で、ワルプルギスの夜を十分に傷付けられた記憶など、ほむらは持ち合わせていない。少なくとも彼女個人の力だけではそうだった。唯一あの化け物に対抗し得る可能性を持つのは、彼女が知る限りではまどかのみ。だがそのまどかですら、最悪の魔女を倒したやり直しは”一度として”存在しない。
「…………ちょっと大きいのをいくわよ」
横目でほむらを確認したマミは、僅かな逡巡の後に頷いた。
「警戒、任せるわね」
言うが早いか、マミは巨大な銃砲を召喚する。もはや小銃の枠を超えて、大砲とでも形容すべき異形の銃。そこに銃床は存在せず、銃身は二脚銃架によって固定されていた。銃口を向ける先にはあの化け物。天空より見滝原を見下ろす、あらゆる魔法少女の怨敵。
一つ、マミが呼吸を挿んだ。眇めた目で標的を見据え、徐々に照準を定めていく。
息が詰まるほどの緊張感。これほどまでに慎重なマミの姿を見たのは、ほむらにとって初めての経験だった。ベテランの魔法少女であるマミの動作は、その全てが流麗だ。攻撃にしろ回避にしろ淀みなく、咄嗟の判断においても同様である。その彼女が、ただの一撃にこれほどの時間を掛けるという選択の重みを、ほむらは正確に理解していた。
視界の隅を過ぎ去る影。真っ暗な少女の形をしたそれは、ワルプルギスの夜が従える使い魔だ。マミが狙われた、という訳ではないだろう。まだ気に掛けられるほどの行動はしていない。つまりこれは、まったくの偶然による遭遇戦という事になる。
運が悪い。嘆息したほむらは、手にしたハンドガンを使い魔へと向けた。三度引き鉄を引けば、同じ数だけ弾丸が発射される。碌に狙いも付けずに放たれたそれらは、しかし吸い込まれるように敵の使い魔に命中し、その姿を霧散させた。
この間、マミは僅かたりとも動いていない。宣言通り、ほむらに警戒を任せている。信頼というよりもある種のプロ意識なのだろうが、それでもほむらは、心の浮付きを禁じ得なかった。
「――――――ッ」
一際空気が引き絞られ、銃口から閃光が放たれる。到達は刹那。尾を引く煌めきが、標的の頭を撃ち抜いた。完璧な、これ以上は望めないというほどの一撃だ。並の魔女なら滅びは必至。並とは呼べぬ相手でも、まず無事では済まないだろう。
「これは……」
だというのに、ワルプルギスの夜は未だ平然と宙を漂っていた。無論、無傷という訳ではない。魔法少女の超人的な視力をもってすれば、表面に付いた数多の傷を観測する事は難しくない。だがそれは、かすり傷と呼ぶ事すら躊躇われるほど小さなものだ。
巴マミの実力が、魔法少女の中でトップクラスにある事は間違いない。それは今の一撃だけでも確かな事実だと断言できる。その彼女をしても、最強の魔女には有効打を与えられない。かつての経験から知っていたはずなのに、ほむらはこの結果に少なくない衝撃を受けた。
半端に口を開いた状態で、ほむらは呆然と立ち尽くす。そんな彼女目掛けて、複数の黒い物体が飛んできた。反射的に受け止めたそれらを確認すれば、未使用のグリーフシードだと分かる。
思わずほむらがマミを見ると、彼女は厳しい表情でワルプルギスの夜を睨んでいた。
「あげるわ。実力はあるみたいだし、戦闘中に奪いに来られたら面倒だもの」
ほむらの方を見る事なく、マミは突き放すようにそう言った。
相変わらず仲が良いとは言えない間柄。信頼なんてそこには無く、ふとした切っ掛けで敵対する事になるだろう。それでもほむらは少しだけ、マミの背中ばかり追い掛けていた頃を思い出した。
「…………長い戦いになるわね」
マミの言葉に頷きを返し、ほむらはその隣に並び立つ。既に先程の動揺は鳴りを潜めて、普段の冷たさと落ち着きが戻っていた。
自らの名を心中で呟き、ほむらは己が誓いを新たにする。かつてマミの庇護を求めていた無力な少女ではなく、まどかを助けると誓った暁美ほむらとして、自分はこの場に立っているのだと。
仰ぎ見れば、中空に浮かぶ幾本ものビル群。異様としか表現できないその光景は、たしかにこの現実で行われているものだ。どうやら相手の気を惹けたらしいと、ほむらは経験から判断する。
堕ちるビル群。迫る質量。あわや押し潰されるというその刹那、二人は同時に地を蹴った。まず一歩、ビルの窓ガラスを踏み割って、二歩目、壁を足場に加速する。肩を並べて疾走し、彼女らは天を目指して駆け昇る。
最後は屋上の柵に足を掛け、ほむら達は次のビルへと跳び移った。両者が選んだ先は別のビル。着地までの僅かな時間で、二人は視線を交わし合う。
接地、また接敵。取り出した自動小銃を小脇に抱え、ほむらは鉛弾をばら撒いた。
数多の少女達が弾け飛ぶ。ほむらの傍に居た影が、マミを襲おうとした影が、黒雲の下で溶けて消えていく。直後に奔った眩い閃光。マミの銃が放ったそれは、またも魔女の頭を捉えた。刹那の静寂。時が停止したかの如き錯覚。嵐の予兆であると、ほむらは直感的に理解する。
故にこそほむらは、その事態に反応できた。
まるでマミの銃撃を再現したかのような、一筋の晦冥。その行き着く先を悟った瞬間、ほむらは時を停めていた。あらゆる色彩が欠け、唯一ほむらだけが色付く世界。全てを置き去りにするその世界では、放った瓦礫すらも中空で静止する。そうして時に囚われたビルの残骸を足場に、彼女は天を駆け抜けた。
瞬く間を極限まで引き延ばす。届かない距離を届かせる。幾許かの時間を掛けて、けれど刹那の内に、ほむらはマミの許まで辿り着いた。そして銃を構えたまま停止したマミに飛び付き、その場から引き離す。直後に時計の針が歩みを再開し、背後を暗晦が過ぎ去った。
「――――――えっ?」
戸惑いに満ちたマミの呟き。状況が呑み込めないといった様子の彼女は、丸くした目にほむらを映す。だが一呼吸の後には、そこに理解の色が広がっていた。
「…………しっかり掴まってなさい」
マミが落ち着いた声音でそう告げる。その真意を問おうとした瞬間、ほむらの全身に強烈なGが襲い掛かる。反射的に、彼女は肺の空気を吐き出した。流れる視界に映る帯。黄色いそれはマミのリボンで、橋に架かるアーチへ巻き付いていた。
ほむらが状況を把握すると同時に、マミはアーチの頂点に着地する。ほむらもまた難なく体勢を整え、マミの腰から腕を離した。並び立つ彼女達が見詰める先には、宙を漂うワルプルギスの夜。すぐ目の前に存在するその威容は、けれど果てしなく遠かった。
「私だけだと時間が掛かり過ぎるわね。そちらにも有効な手はあるのかしら?」
「いくつか準備してあるわ。通用するかどうかは未知数だけど」
「なら次はそれを試しましょうか。でも、その前に」
「ええ、その前に」
共に短く呼気を吐き出し、二人は己が得物を周囲へ向ける。影で形作られた少女達。両の指では数え切れないほどの使い魔が、ほむら達を囲んでいた。
『まずはこいつらを片付けましょう』
重なる発砲音。飛び交う銃弾。互いに背中を合わせた状態から、二人は中空へと飛び出した。
◆
一閃。風切り音を伴う白刃が、人型の影を斬り裂いた。上下に断たれたソレは闇に溶け、後には嘲るような笑い声だけが残される。そうして人気の消えた街角に、束の間の平穏が訪れた。
純白のマントを翻し、さやかは街灯の上に着地する。暫く周囲を見澄ましていた彼女は、やがて短く息を吐き、サーベルを握る右手を下ろした。
「ったく、いくらなんでも多過ぎでしょ」
水色の瞳に疲れを滲ませ、苛立たしげにさやかが零す。
街角での遭遇戦から始まり、転々と戦場を移しながら倒し続けた敵の使い魔の数は、既に両手の指だけでは数え切れないほどだ。これが片手間に処理できる程度の雑魚なら問題ないのだが、この使い魔達はそれなりに手強く、さやかは梃子摺らされてしまった。お陰で魔力を消耗し、そろそろグリーフシードの使用も視野に入れる必要があるかもしれない。
「あーもう、マミさんの方はどうなのかなぁ」
不安げな目でさやかが見遣るのは、遠目にもハッキリと視認できるワルプルギスの夜の威容だ。その近くでマミが戦っている事は、時折空へ伸びる光線が教えてくれた。よほど激しい戦闘が繰り広げられているのか、時に爆発音が耳を擽り、時に倒壊するビルが視界を横切っている。
駆け付けたい。それがさやかの素直な想いだった。だが街中に蔓延る使い魔達を放置する事には不安がある。実際、マミからも頼まれているのだ。アイの居る病院の安全を確保してほしいと。
「ま、あんまり悩んでも仕方ないか」
努めて軽い調子でそう言って、さやかは黒く染まる天を仰いだ。朝から堪え続けた涙がとうとう決壊したらしく、徐々に勢いを増しながら、大粒の雨がさやかの頬を叩いていく。
厳しい戦いになる。とっくに分かりきっているその事実を、さやかは改めて認識した。それでも彼女の心は揺るがない。自らの成すべき事を明確に定めているからこそ、揺るぎようがない。
手にしたサーベルの切っ先を、さやかはゆっくりと上げていく。やがて完全に水平となった刃が向けられた先には、新たな敵の使い魔が漂っている。さやかと同年代の少女を象った、人影としか表現できないナニか。それらが三体、さやかの方を見てくすくすと嗤っていた。
眉間に皺を寄せたさやかが、黙ってサーベルを横に薙ぐ。剣先から雫が飛び散り、降り注ぐ雨に押し潰された。次いで僅かに身を屈め、彼女は街灯の上から跳躍する。
初撃は落下の勢いを乗せた振り下ろし。真ん中の使い魔を狙ったそれは、しかし予想とは異なり空を斬る。狙った使い魔は宙を滑るようにして剣を躱し、変わらず耳障りな笑い声を上げていた。それでもさやかは冷静だ。着地と同時に腕を振り、彼女は回り込んだ使い魔を断ち切った。
残り二体。次の獲物を見定めようと、さやかは素早く視線を巡らせる。
「――――――ッ!?」
眼前に迫る黒い影。その正体を見極める前に、さやかはその場から飛び退いた。風切り音が耳を掠め、直後、さやかが居た地点から巨大な破砕音が鳴り響いた。横目に状況を確認すれば、大槌を道路に打ち下ろした使い魔の姿が見て取れる。
無防備な背中を晒す使い魔は、格好の獲物と言えるだろう。しかし増え始めた使い魔の気配が、さやかに用心を強いていた。舌打ち一つ。彼女は再び跳躍してその場を離れた。
敵の数はおそらく四体。一体を倒して二体が増えた計算だ。やってられないと愚痴りたくなったさやかだが、無意味な事かと首を振る。サーベルを握る手に力を籠めて、彼女は気を引き締めた。同時に宙を漂っていた使い魔達が動き出し、一斉にさやか目掛けて襲い掛かってきた。
さやかが地面を蹴って後退すれば、すかさず使い魔達が追い縋る。その中から僅かに飛び出した一体を、さやかは手始めに斬り捨てた。あっさり消滅した仲間を前にしても、使い魔の間に動揺はない。たとえ人の姿をしていても、所詮は化け物かと、さやかは無感動に思考した。
二体目は大槌を手にした個体。得物を振り被った瞬間に距離を詰め、さやかはその胸元に白刃を突き立てる。微かなうめき声を漏らし、二体目の使い魔もその姿を崩壊させた。
眇めた目で残りの二体を確認して、さやかは一旦距離を取る。虚空から二本目の剣を取り出した彼女は、両手に握った得物を、それぞれの使い魔に向けて構えた。
さやかがグッと息を堪え、次の瞬間、サーベルの刀身が射出された。降り頻る雨を弾き飛ばし、白銀の刃が宙を駆ける。狙い違わず、その切っ先は使い魔の額を貫いた。
残敵ゼロ。さやかは安堵の息を吐こうとしたが、代わりに漏れ出たのは溜め息だ。
「ゴキブリだってもう少し遠慮するでしょ」
うんざりした顔を隠しもせずにさやかが愚痴る。それでも自らの役割を投げ出すまいと、彼女は気配を察知した敵の方へと駈け出した。
時に斬り裂き、時に刺し貫き、次々と使い魔を処理していく。決して楽な戦いではなかったが、危険を感じるほどでもない。だが絶え間ない敵の襲撃に、さやかは疲労を隠せなかった。
あるいは、一時でも姿を隠せばよかったのかもしれない。しかしさやかが選択したのは、病院と避難所の周辺を巡回し続ける事で、それは戦い続けるという結果を生んだ。
降り止まない雨が体温を奪う。指先は震え、思考は鈍い。流石に不味いと自覚したのは、倒した敵が百を超えた頃。霞み始めた視界に気付き、最後の敵を屠ると同時に、さやかは足を止めた。
早く回復しなければ。そう考えられる程度には、さやかの理性は残っている。グリーフシードを探して懐を漁り、けれどすぐに彼女はその手を止めた。見詰める先には使い魔の影。思わず表情を歪め、さやかは握った剣を構え直した。
未だ相手は気付いていない。奇襲できる、と考えるよりも先に、さやかは回復する事を考えた。考えて、その誘惑に乗ろうとしたが、それを振り払わざるを得なかった。
使い魔が進む先には、アイの入院する病院がある。その事実を認識した瞬間、さやかは使い魔に斬り掛かっていた。ただ一太刀。それだけで標的を仕留めたものの、さやかの体は重さを増した。そして敵の使い魔も、その数を増している。
もう嫌だ。そんな弱音が、さやかの心を蝕んだ。
もしもアイが居なければ、あるいは恭介が居なければ。そんな悪魔の囁きすらも聞こえてきて、さやかの意識は空転する。流石に可笑しいと感じたが、何が可笑しいのか分からない。とにかく、彼女の心は重かった。とにかく、頑張る気力が湧かなかった。
「うぁ――――」
使い魔の持つ棍に打たれて、さやかの体が吹き飛ばされる。地面を滑り、露出した肌に擦り傷が刻まれる。そして治癒能力により、すぐにそれらは癒やされる。
水溜まりに手をつき、さやかは震えながら体を起こした。
揺らぐはずのなかった心が、音を立てて崩れそうになっている。戦う意味に疑念を抱き、自らの選択に後悔を抱き、そんな自分に気付いて、さやかは血が滲むほどに唇を噛んだ。
自分はこれほど弱い人間だったのか、という失望。違うと叫ぶ自負。そうした感情が綯い交ぜになって、さやかの裡を掻き乱す。暗く冷たい何かを、胸の奥に流し込まれたようだった。湧き出る気力を端から吸い取られるみたいに、思考が後ろに向かっていく。
さやかが顔を上げると、すぐ前に敵が居た。全身を真っ暗な影で形作ったその姿が、何故か今の自分と重なって、さやかは可笑しな気持ちになった。
このままではやられてしまう。その事実を理解しているのに、さやかは動く事が出来なかった。使い魔を眺めたまま、呆けたように固まって、彼女は薄く笑っていた。
「あんたバカじゃないのッ!?」
そんな叫び声が響いたのは、まさに使い魔が得物を振り被ったその時だった。さやかと使い魔の間に割り込む一人の女の子。その後ろ姿を、さやかは呆然と凝視した。
帽子を被った、茶髪の女の子。先程の声とそれらの特徴から、さやかは彼女の正体に思い至る。同時にさやかの胸の裡に、温かな感情が広がった。
逃げないのかと、さやかに問うた女の子。戦う様子の無かった彼女が、こうして戦場に立って、さやかを助けてくれている。その事実に、さやかはなんだか救われたような気がした。
――――――ッ!!
女の子が何か叫んでいる。聞こえているはずのそれが、何故か上手く理解できなくて、そのままさやかの意識は、ゆっくりと闇の中に呑まれていった。
◆
「ねえ、キュゥべえ。それって本当なの?」
細い喉を震わせて、まどかは眼前のキュゥべえに問い掛ける。問われたキュゥべえは、赤い目で彼女を見返し、いつもと変わらない朗らかな声を響かせた。
『事実だよ。今、マミ達はワルプルギスの夜という魔女と戦っているんだ』
まどかは不安げな目をアイへ向けた。否定してほしいと、その目が暗に告げている。だがアイはゆっくりと首を振り、まどかの期待をこそ否定した。
「残念ながら本当だよ。少なくとも、ボクはそう聞いている。厳しい戦いだという事もね」
感情を押し込めたような、押し殺したような、アイの声。それが何よりも雄弁に事実を物語っていると、まどかは感じた。思わず彼女は、アイから顔を逸らしてしまう。
ワルプルギスの夜、という魔女が居るらしい。古くから存在するその魔女は強大で、これまでに数多の魔法少女が打倒を試み、敗れ去ってきたという。そんな恐ろしい相手が、今日、この見滝原に現れた。そしてほむら達と激戦を繰り広げていると、キュゥべえは言っている。
わけがわからなかった。急にそんな事を教えられても、ただの女子中学生に過ぎないまどかでは反応に困ってしまう。やるべき事など、何一つ思い浮かばない。
「伝えても混乱させるだけだと思ってさ、黙ってたんだ。ごめんね」
「いえ……わたしもその通りだと思いますから」
まどかの言葉は嘘ではない。こうしてキュゥべえから知らされたけれど、だからといって彼女が何かをする訳でもない。ひたすらに思考が空回るだけで、無意味な時間が過ぎるだけだ。教えないという選択をアイが選んだのも、当然と言えば当然だろう。
再びまどかはキュゥべえを見遣る。一体どうしてこんな話をしたのか、その理由が分からない。先程アイから聞いた話の事もあり、知らずまどかの表情は硬くなっていた。
『このままだとマミ達は全滅してしまうよ』
瞬間、病室の中に緊張が走る。アイもまどかも動きを止めて、発言したキュゥべえを凝視した。二人の強い視線に晒されても、キュゥべえはまるで動じない。
『火力が足りないんだ。このまま魂が擦り切れるまで戦闘を続けたところで、ワルプルギスの夜に十分なダメージを与える事はできない。それこそ、奇跡でも起きない限りはね』
淡々としたキュゥべえの語り口は、それ故に強い説得力を感じさせる。深く暗い澱となり始めた不安を抱え、まどかは縋る思いでアイの方へ顔を向けた。
「…………それで? ボク達への用件はなんだい?」
『正確に言えば、君達ではなくまどかに用があるんだ』
自分の名前が出てきて、まどかは胸を跳ねさせた。
「それは魔法少女になってほしい、という意味かな?」
『その通り。まどかには僕と契約して魔法少女になってほしいんだ』
「まどかは素人だよ。激戦に送り出すというなら、ボクとしては見過ごせないね」
『だけど彼女の才能は特別だ。ワルプルギスの夜を倒すなら、まどかの力は不可欠だよ』
キュゥべえの言葉に押し黙り、アイは複雑そうにまどかを窺う。始めて見る目の色をしたアイに気付いて、ようやくまどかは、自分の話をしているのだと認識する。だが話の趣旨を理解しても、やっぱりまどかは何も言えなかった。戸惑いばかりが先行して、思考は千々に乱れたままだ。
「まどか。キミには魔法少女の才能があると聞いている。だからキュゥべえと契約して魔法少女になれば、強い力を揮えるようになるんだろうね。そしてまどかの力があれば、ワルプルギスの夜を倒せるかもしれない。キュゥべえの話は、つまりそういう事だよ」
ゆっくりと、噛んで含めるように説明するアイの言葉が、徐々にまどかの頭に沁み込んでいく。その内に心も落ち着き始め、まどかはどうにか思考を形作る。
自分に求められている事も、その必要性も理解した。ではどうしたいのかと考えた時、まどかが浮かべた答えは一つだ。魔法少女になりたい。その甘美な誘惑を、彼女は振り払えなかった。
「やめておいた方がいい」
まどかの心を読んだかのような、アイの一言。反射的に、まどかは背筋を伸ばしていた。
「年長者としてほむらちゃんの友達として、やめておけと言わせてもらうよ。ワルプルギスの夜を倒せると言っても、可能性がゼロじゃないというだけだ。実際は限り無く困難だろうね」
吐き捨てるようにそう言って、アイはキュゥべえを睨む。キュゥべえの反応は無く、何も知らぬ小動物のように首を傾げるだけで、アイは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「教えた通り、魔法少女の結末は絶望だ。たとえ一時の幸福を得られたとしても、その後は不幸の取り立てさ。だからまどかの考えはある種の自己犠牲で、ともすれば犬死にだってなりかねない。そんな役割をキミに押し付ける事は、ボクもほむらちゃんも望んでないよ」
いつになく荒い語調のアイ。その顔は剣呑としており、らしくない様子に気圧されると同時に、まどかはそんな彼女に疑問を抱く。
アイの言葉は正論で、ほむらの友達として心配しているというのも、たしかに真実なのだろう。だがまどかの耳には、それがどこか作り物めいて聞こえたのだ。頭の隅にある引っ掛かり。何かが足りないと感じたまどかは、思考と視線を巡らせる。
キュゥべえを見て、アイを見て、次いで窓の外を見ようとしたまどかは、不意に視界をよぎった物に目を留めた。黒髪を彩る、蜂蜜色をした大輪の髪飾り。それが答えかと、彼女は気付く。
「じゃあ――――」
気付けばまどかは、問い掛けを紡いでいた。
「マミさんの友達としてのアイさんは、どう思うんですか?」
アイの表情が凍り付く。答えようとしたのか、微かに薄紅の唇が震えたが、結局は何も言えずに閉じてしまう。そんな彼女の反応こそが、何よりもその本心を物語っていた。
まどかの胸裡を吹き荒れていた嵐が、嘘のように凪いでいく。
いつか後悔するかもしれない。何も成せずに死ぬかもしれない。不安はいくらでも湧いてきて、それを消す術をまどかは持たない。だが不思議と、迷いだけは無かった。自分が何をしたいのか。それだけは、今のまどかにもハッキリ分かる。
「アイさんの気持ちはわかりました」
穏やかな気持ちで微笑み、まどかは告げる。
「わたし、魔法少女になります」
これはある種の裏切りで、きっと誰にも望まれない選択だろう。それでもまどかは決めたのだ。今の彼女に出来ること。やりたいこと。その答えは一つだけだ。
「ほむらちゃんの友達として、もしここで何もしなければ、絶対に後悔します。魔法少女になって後悔するかもしれないけど、いつか不幸になるかもしれないけど、それは今じゃありません」
だから、なります。そう続けるまどかに対し、アイは一瞬だけ泣きそうな顔をする。そんな顔をさせてしまった事を申し訳なく感じたけれど、それでもまどかは迷わなかった。
友達を想う気持ちは、理屈や道理で片付けられるものではない。先程のアイの反応で、まどかはその事を思い出した。ここで動かなければ、自分は一生物の傷を負う。それに気付いたからこそ、彼女は決意した。
痛いほどの沈黙が訪れる。それを破ったのは、少年とも少女とも取れる、不思議な声だ。
『まどか、君の決意は受け取った。さあ、君の願いを口にするんだ』
「……うん。キュゥべえ、わたしの願いは――――――」
そうしてまどかは、戻れない一歩を踏み出した。
◆
雨音が聞こえる。途切れる事なく、弱まる事もない雨脚の存在だけが、静かな病室を賑わせる。何をするでもなく、ボンヤリと天井を眺めながら、アイはその音に耳を傾けていた。青白い顔から一切の感情を削ぎ落とし、人形の如き相貌を晒して、無為に時を過ごしている。既にまどかは此処におらず、何故か残ったキュゥべえだけが、そんな彼女の姿を見ていた。
「…………あーあ、ほむらちゃんに怒られちゃうなぁ」
ポツリと、アイが漏らす。変わらず天井を見上げたまま、変わらず表情を失くしたまま、彼女は平坦な声音を紡ぎ出す。そこには、なんの感慨も存在しなかった。
「謝らないとなぁ。許してくれるかなぁ。心配だなぁ」
誰に聞かせるでもなく、アイは無意味な呟きを繰り返す。さながら壊れたオルゴールのように、氾濫した水辺のように、彼女は音の羅列を垂れ流す。
「けどまぁ、その前に――――――」
瞑目し、顎を引き、口元を歪める。そこでようやく、アイの顔に色が戻った。
「まずは当面の問題を片付けないとね」
再び目を開けたアイが、傍らのキュゥべえを見下ろした。その唇は笑みを形作り、黒曜の瞳には弾けんばかりの生気が満ちている。それが空元気か否かを知るのは、本人だけだ。
「キュゥべえが残ってくれて助かったよ。探す手間が省けるからね」
『まどかには別の端末を付けたからね。僕の役目はアイを観察する事だよ』
訝しんだアイが眉根を寄せる。
「どういうこと? 実はボクには隠された力が、なんて話ではないだろ?」
『そうだね。これはアイ自身ではなく、マミに由来する案件なんだ』
アイの眉間に刻まれた皺が、ますます深くなった。不可解だ、とその顔には刻まれている。既に魔法少女となって何年も経つマミに、今更どんな問題があるのか、アイには予想がつかなかった。
『今からひと月ほど前の事かな。僕達にはその瞬間を観測する事は出来なかったけれど、ある日を境に、マミの背負う因果の量が増大したんだ。それも、ありえないほど急激かつ膨大に』
因果の量。その単語を聞いたアイは、かつて教えられた知識を掘り起こす。
魔法少女の潜在力は、背負う因果の量によって決まってくる。たとえば一国の王や救世主など、多くの人の運命を背負う立場であれば、膨大な因果の糸が集中するという。翻って、平凡な人生を送ってきた少女達は、魔法少女としても平凡な潜在力しか持たない事になる。
『これは異常事態としか言えない。でも同時に、素晴らしい発見になるかもしれない。この事態を引き起こしたメカニズムを解明すれば、エネルギー回収効率を改善できる可能性があるからね』
なるほど、とアイは得心する。たしかにキュゥべえの目的に適っているし、実際にその目論見が成功すれば、魔法少女の必要数が減少し、犠牲者が減る可能性すらあるだろう。その点で言えば、アイとしても気になる話題だ。
「だからマミと親しいボクの事を探っていると?」
『その通り。端末の一つを君に割く程度なら、損失はゼロに等しいしね』
それに、とキュゥべえは続けて。
『君はマミを普通の少女に戻したいんだろう?』
「…………どういう意味だい?」
低い声でアイが問う。そこには明確な警戒が表れていた。
『魔法少女になった時に、マミが背負う因果と魂は、共にソウルジェムとして再構築されている。そうして存在を確立された因果と魂は、そうそう変質するものじゃない。魔女になる以外はね』
滔々と語る。朗々と述べる。機械的に無機的に、キュゥべえは情報を伝えてくる。
『つまり今のマミは、これまでに培ってきた魔法少女という枠に嵌められているんだ。その枠が、急激に増大した因果を受け入れられず、多大なロスを生んでいる。そのロスを無くすには、マミの変質を待つよりも、存在を再構築した方が手っ取り早い』
ここまで聞いた時点で、アイは話の主旨を理解した。自身の思惑とキュゥべえの思惑。それらがどのように絡み合っているのかを把握した彼女は、苛立たしげに唇を噛んだ。
『アイの願いは、その点で都合がいいんだ。マミを人間に戻し、固定化した魂と因果を解放する。その後に改めて魔法少女として契約すれば、全ての因果を内包する事ができるからね』
そこで、キュゥべえの話は終わった。
アイは、長く重い溜め息を吐き出した。
「キミらの企みはわかったし、的外れだとも思わない。実際、ただ普通の少女に戻したところで、マミはまたすぐにキミらと契約するだろうしね」
ボクのために。口中でその言葉を溶かし、アイは苦笑する。その程度は彼女も想定しているし、対策を考えなかった訳でもない。イタチごっこをする気はサラサラないのだ。ただそれよりも何よりも、まったく異なる願いを口にしようとする自分が、アイは可笑しかった。
「でも残念だったね。ボクの願いは違うんだ」
布団の中から抜け出して、アイは絨毯の上に足をつく。直後、ふらりと小さな体が傾ぐ。咄嗟にベッドに手をついて、彼女どうにか転倒を免れた。
「――――っと。治ったとはいえ、すぐに万全とはいかないか」
まどかの願いは、アイの病気の治癒だった。外側も内側も、全てをひっくるめて、彼女はアイの健康を祈ったのだ。戦いに赴くというのに約束を守る律儀な彼女に、アイは何も言えなかった。
「ま、せっかく治ったんだ。ボクも戦いに参加するよ」
『無謀だ。たとえ君が百人居たとしても、足手纏いにしかならないよ』
率直なキュゥべえの物言い。今更それを疑うほどには、アイも捻くれていない。ただそれでも、彼女は意見を翻すつもりはなかった。サービスなのか、ギプス等も消えたため、久し振りに自由になった体を動かしながら、アイは穏やかな口調で語り掛ける。
「キュゥべえ。これでもボクは、キミ達の事を信用してるんだよ。これから願うような奇跡でも、キミ達ならきっと叶えてくれるってね」
何度か左手を握り直し、腰を回転させて、アイは体の調子を確認していく。少なくとも違和感を覚えない程度には調子が良い事を確かめた彼女は、知らず口元に笑みを浮かべていた。
「絶対に碌な結末にならねーし、できればこの選択は避けたかったけど、それは贅沢か。みんなが絶望的な戦いを強いられてるっていうなら、ボクも頑張らないわけにはいかないよね」
貧血は治ったはずだが、急に血が増える訳もない。運動神経だってよくならないし、体力だってゼロに等しい。そんなアイが魔法少女になったところで、なるほど、役に立つはずがないだろう。しかしそれらを全て承知した上で、アイは自らの役割を見付けていた。
『いったい君は、なにを願うつもりなんだい?』
問われて、アイはキュゥべえの方を見遣る。口元に刻むのは微笑みで、細めた目元は柔らかで、だけど瞳に宿る色は、ある種の諦念を感じさせた。
「ちゃぶ台返しと嫌がらせかな」
アイはそう言って、可笑しげに笑い声を上げるのだった。
-To be continued-