この日の目覚めは最悪だった。後にアイは、そう語る。
ガラス一枚を隔てて響く、鈍く低い唸り声。吹き荒ぶ暴風が窓を叩き、乱暴な目覚ましとなって朝を告げる。窓の外では黒い雲が天を覆い、異様な速度で流れていた。未だ雨は降っていないが、ともすれば空がそのまま落ちてくるのではないかと、そんな不安を抱かせる空模様だ。
もしも世界の終わりが来るとしたら、その時もきっとこんな天気なのだろうと、アイは寝惚けた頭で考えた。外を見ているだけでも気が重くなり、この空の原因に思いを巡らせると、それ以上に気が滅入ってしまう。本当に憂鬱な一日になりそうだと、彼女は思った。
そうして始まった一日は、表面上は普段通りに進んでいく。起こしに来た看護師さんの様子も、その後の朝食も、特にいつもと変わりは無かった。外の天気が酷い事や、避難勧告が行われているという話は聞かされたが、ベッドから出られないアイには関係ない事だ。
面会時間の開始と同時にマミが訪れた事も、またいつも通り。ただやって来たマミの顔だけは、普段と異なる雰囲気を漂わせていた。
ある種の悲壮と秘めた決意。扉を開けて入ってきたマミは、まさしく決戦に赴く戦士の面持ちをしていた。でも、何故だろうか。アイが思い浮かべたのは、マミと初めて出会った日の事だ。
「おはよう。こんな日も来てくれるなんて嬉しいよ」
言いたい事はあったけれど、それらを全て押し込めて、アイは素知らぬ様子で出迎える。するとマミは一瞬だけ泣きそうな顔になり、それからすぐに笑顔を作った。
「ええ、おはよう。具合はどうかしら?」
「いい感じだよ。誰かさんのお蔭でね」
にわかにマミの雰囲気が柔らかくなる。だがそれも僅かな間の事で、表情を引き締めた彼女は、ゆっくりとその歩みを進め始めた。徐々にアイのベッドまで近付いてきたマミは、そのまま椅子の横を通り過ぎ、毛足の短い絨毯に膝をつく。
伸ばされたマミの手が、シーツに乗せられたアイの指を掴む。それは別に珍しい事ではなかったけれど、指先から伝わる微かな震えが、言葉にならない感情を教えてくれた。
「…………今日はずっと居るの? 避難勧告とか出てるみたいだけど」
答えを分かっていながら、アイはそんな事を口にする。
当然、マミの返答は予想通りのものだった。
「残念だけど、避難所で過ごすつもりなの。顔を見に来ただけだから、すぐにでも出発するわ」
白々しい。そう思ったのは、二人の内のどちらであっただろうか。おそらく、どちらもだろう。アイはマミの隠し事に気付いているし、マミは気付かれている事に気付いている。それでも互いに指摘する事なく、いつも通りを演じようとしていた。
「なら仕方ないか。マミとのお喋りはまた今度だね」
「……そうね。また今度、ゆっくり話しましょう」
アイの指を握るマミの手に、少しだけ力が籠められる。それからマミは、覗き込むようにアイに顔を近付けた。間近に迫る双眸を、アイは静かに見詰め返す。
「ねえ、お願い。今日は外に出ないようにして。本当に酷い天気なの」
一瞬だけ言葉を失ったアイは、けれど直後に笑みを浮かべた。無垢で、無邪気で、何も知らない子供のようで、どうしようもなく空々しい笑顔だった。
「冗談きついね。この足で外に出られるわけないでしょ?」
マミの目が細められる。睨み付ける、と言い換えてもいいかもしれない。常ならぬその反応に、しかしアイは表情を崩さない。
「出ないって、ちゃんと言って」
キツい口調だった。強い語調だった。
有無を言わさぬその様に、アイは大袈裟に息を吐く。
「はいはい、出ないよ。でーまーせーんっ。もう、小姑みたいに目敏いんだから」
不貞腐れたアイを見て満足そうに頷き、マミはゆっくりと立ち上がる。ベッドに横たわるアイを見下ろす瞳には、淡く冷たい、寂寥とした色が宿っていた。
「また会いましょう。明日にでも、そう、のんびりと」
「そうだね。そうしよう。話したいことがたくさんあるんだ」
マミが笑った。この日初めて、穏やかに。
踵を返したマミの背中が、徐々にアイから遠ざかる。何年も、何百回も、見送り続けてきたその背中。いつもは黙って送り出すそれに、アイは言葉を投げ掛けた。
「――――――最後に一つだけ、ボクからマミに問題だ」
足を止めて振り返り、マミは不思議そうに首を傾げた。
「これまで色んなことがあったよね。嬉しいことも悲しいことも、本当にたくさん」
「…………ええ、そうね。数え切れなくて、忘れてしまうくらい」
懐かしむように、噛み締めるように、マミが呟く。
思い出すように、思い紡ぐように、アイは続けた。
「いっぱい話したよね。真面目なことも、くだらないことも。その中でさ、ボク達が言わなかったことってわかるかな? ただ口にしなかった言葉ならたくさんあるけど、そうじゃなくて、あえて言おうとしなかったこと。それがボクからキミへの問い掛けだ」
眉根を寄せて、マミは不可解そうな顔をした。
口角を上げたアイは、楽しげな表情をしていた。
「マミならわかるよ。だって、ボクに言いたくないことを考えればいいんだから」
宿題だよと、そう言って、アイは退室を促した。そうして親友の背中を見届けた彼女は、自らのベッドに体を預け、細く長い息を吐く。
「ちょっと意地悪だったかな」
自嘲にも似た呟きは、誰に届く事もなく、部屋の静寂に消えていく。大きな瞳を瞼で隠し、薄く笑みを刻んでいたアイは、やがて緩慢な動作で顔を上げた。
白い手が、枕元の電話に伸びる。持ち上げた受話器を耳に当て、目的の番号を呼び出した。暫しコール音が鳴り続き、次いで電話口に相手が出る。低く落ち着いた、大人の男性の声だった。
「――――――おはよう、オジさん。ちょっと我が儘を言ってもいいかな?」
どこか感情に乏しい声音を響かせて、アイはその言葉を口にした。
◆
「こんな日に呼び出してごめんね。やっぱりマミが居ないと寂しくてさ」
病室を訪れたまどかを出迎えたのは、いつもと変わらない、朗らかなアイの声だった。ベッドに横たわる彼女の姿は初めて会った時よりも小さく見えたが、そこに弱々しさは感じられない。
「いえ。わたしもアイさんと話がしたいと思っていましたから」
柔らかくも強張りを残した表情で、まどかはアイに話し掛ける。力の無い声ではあったが、その言葉に嘘は無い。避難準備の最中に掛かってきた電話越しに、共に居てほしいとアイに請われた。急な話で驚いたけれど、その時たしかに、まどかは安堵したのだ。
ほむらの件を、相談できるかもしれない。そんな淡い期待が、彼女の胸裡に去来していた。故にまどかは此処に居る。難色を示す両親に頼み込み、この病院までやって来たのだ。
「それと、はじめまして。絵本アイと申します」
「はじめまして、鹿目詢子だよ。この子の母親さ」
ついとアイが目線を逸らした先、まどかの隣には母の詢子が立っている。快活な笑みを浮かべた彼女は、まどかの頭に右手を置いて、やや乱雑に撫で回した。
「今日はありがとうございます。私の我が儘を聞いてくださって」
「いいのいいの。避難所に行く途中だし、まどかにとってもここの方が安心できそうだしね」
手の平で軽くまどかの頭を叩いて、詢子は明るい声音で続けた。
「色々と話したいことはあるけど、あんまりパパ達を待たせるわけにもいかないからね。あたしはもう行くよ。まどか、アイちゃんや病院の人に迷惑かけないようにね」
「うん、わかってるよ。ママ達も気を付けてね」
「また来てください。今度はゆっくりお話しましょう」
もちろんさ、と頷いて。詢子は踵を返して病室を出た。その背中を見送った後、まどかは窓際のベッドに近付いていく。ベッドの上で体を起こしているアイは、穏やかな表情を浮かべていた。
「まずは座りなよ。じゃないと落ち着いて話も出来ない」
「はい。えっと、失礼します」
木製の椅子に腰掛けて、まどかは改めてアイと相対した。アイの黒く大きな瞳が、まどかの顔を捉えている。それがなんだか気恥ずかしくて、まどかは僅かに身を捩った。
くすりとアイが笑う。それから彼女は、涼やかな声音を響かせた。
「改めて、おはよう。なんだか浮かない顔をしてるね」
「えっ、と…………そうですか?」
首を傾げてはみたものの、まどかとしても自覚はあった。暁美ほむら。まどかの友達。友達だと思っていた、否、思っている存在。彼女の事が頭から離れず、胸の奥で澱になって溜まっている。この状況で無邪気に振る舞えるほど、まどかは図太い精神を持ち合わせていないのだ。
「なにか気になることでもあるのかい? と言っても、予想はついてるんだけどね」
少しの間を置いて、アイはなんでもないような口調で言葉を続けた。
「ほむらちゃんのことだろ?」
瞬間、まどかは驚愕で目を見開いた。泡のように疑問が浮かび、形を成さずに消えていく。胸の動悸が煩くて、頭の熱は痛いほどで、だけど何をすべきなのかが分からない。
「どうして……」
結局まどかが口にしたのは、それだけだった。思考できたのも、それだけだった。
「ボクがほむらちゃんの友達だからさ」
まどかと一緒だね、と楽しそうにアイが話す。それを肯定も否定も出来なくて、まどかは桃色の唇を震わせた。不安に揺れるその瞳には、微かな怯えが混じっている。
「マミが話していた暁美ほむらという魔法少女も、ボクの友達であるほむらちゃんも、キミが知るほむらちゃんで間違いないよ。それはこのボクが保証しよう」
慎ましやかな胸を張り、アイは気楽な調子でそう語る。だがその言葉を受け取るまどかの方は、未だに混乱から立ち直れていなかった。
暁美ほむらは、まどかの友達だ。ひと月前に彼女の学校へ転校してきて、すぐに仲良くなれた、大切な友達。彼女が魔法少女を殺したと聞かされたのが一昨日で、顔を合わせたくないと、学校を休んだのが昨日。そして今日、アイからほむらは友達だと告げられた。
意味が分からない。それがまどかの率直な感想だ。たしかにほむらの事をアイに相談できれば、と期待していた部分はある。けどまさか、アイの方からこんな話を持ち掛けられるとは、まどかは予想できなかった。出来るはずがなかった。
「あの、でも、マミさんが話した時は――――」
「知らないフリさ。マミの反応が読めなかったからね」
まるで悪びれた風も無く、アイは華奢な肩を竦めてみせる。余裕のある仕草。陰りの無い表情。そんな彼女の態度に、まどかはモヤモヤとした感情の揺らぎを覚えた。
ほむらとの仲を黙っていた件については、別にまどかとしても不満は無い。まどか自身、マミの話を聞いた時には言い出せなかったのだから。しかし、今のアイの様子は不可解だった。だって、ほむらは魔法少女を殺したと、マミは言ったのだ。それなのに平然と彼女の事を語るアイの姿は、やはり可笑しなものに映ってしまう。
「アイさんは……知っているんですか? ほむらちゃんが、その――――」
「魔法少女を殺した理由? もちろん知ってるよ。正しいことかどうかは、知らないけどね」
どくんとまどかの鼓動が高鳴った。開こうとした口を慌てて結び、まどかは両手を握り締める。彼女の手の平には汗が滲み、奇妙な熱が籠っていた。
教えてほしい。だけど、怖い。これまで築き上げたものが崩れてしまう気がして、その逡巡が、まどかに二の足を踏ませていた。ただ、それも僅かな時間の事だ。既にまどかは聞いてしまった。もはや顔を背けてはいられない事を、誰よりも彼女自身が理解している。
散り散りになった思考が焦点を結んでいき、まどかは強い視線でアイを捉えた。
「教えてください。アイさんが知っていることを、全部、教えてください」
「もちろんだよ。だってボクは、そのためにキミを呼んだのだから」
アイは微笑を浮かべていた。とても優しげで、けれど悲しい表情だと、まどかは思った。
◆
「――――つまり魔法少女なんて碌なものじゃないって事さ」
嘲るようにそう結び、アイはまどかへの説明を終える。
魔法少女の事、ほむらの事、そしてアイの目から見た現状。まどかの信頼を損ねないよう言葉を選びながら、アイは自らの知識をまどかへ授けていった。もちろん教えていない情報はあり、特にワルプルギスの夜に関するものは秘している。それでもまどかにとっては衝撃的であったらしく、途中からは相槌を打つ事すら出来なくなっていた。
硬い表情で俯くまどかに目を細め、アイはチラリと壁の時計を窺い見る。話し始めてから、既に一時間以上も経っており、お昼の時間が近付いていた。
計画通り、とでも言うべきだろうか。少なくとも現時点において、アイの予定から大きく外れた出来事は無い。まどかを呼び寄せ、伝えたい情報を伝えながら、順調に時が過ぎている。このまま今日という日を大過無く終えられたなら、ほむらの望みは果たされるだろう。
アイも事情は知らないし、無理に知ろうとも思わないが、ほむらはまどかとワルプルギスの夜が関わる事を厭っている。それは単に魔法少女にまつわる問題から遠ざけたいという理由ではなく、もっと深いナニかがある事を、アイは言葉にせずとも感じ取っていた。
ワルプルギスの夜がどれほどの被害をこの見滝原に齎すのか、アイには伝聞から推し量る事しか出来ない。ただ、その脅威を前にしたまどかが、魔法少女となって戦う事を選ぶかもしれないと、ほむらが抱いているであろう懸念を理解する事は難しくなかった。
だからこそアイは、まどかを目の届く範囲に置いておこうと考えたのだ。監視して、管理して、いざとなったら説き伏せる。それを自分の役目にしようと、彼女は心に決めていた。
「アイさんは――――」
呟きに意識を引かれ、アイは再びまどかに視線を戻す。まどかは未だに顔を上げる事が出来ないようではあったが、先程までと比べれば、幾分か気力を感じさせた。
「最初から、みんな知ってたんですか?」
「少なくとも、キミと出会った時には知っていたよ」
肩を震わせるまどかを見ないフリして、アイは更に言葉を重ねる。
「だから約束を持ち掛けたんだ。勝手にキュゥべえと契約しないように」
「…………それはわたしのためですか?」
「まどかの為で、マミの為で、ほむらちゃんの為でもあるかな」
「…………アイさんが事故に遭ったのは、さやかちゃんが魔法少女になった所為ですか?」
「………………運が悪かったと、それで済ませられる事を祈ってるよ」
そこでようやく顔を上げ、アイと目を合わせ、まどかは眦に涙を溜めた。溢れた雫が頬を伝い、白い顎先から零れていく。そこには千の言葉が重なっていて、万の想いが籠められていて、だから涙は透明なのかもしれないと、アイは不意に考えた。
「信じたくないって、そう思います。否定できるなら、そう叫びたいです」
でも、とまどかは首を振る。力の無い仕草で、自らの発言を否とする。
「アイさんの顔を見たら、本当なんだって、感じました。とても、残酷なんだって」
それきり黙って、また俯いて、まどかは会話を打ち切った。その顔を窺う事は出来ないけれど、拒絶の雰囲気くらいは読み取れる。だからアイは、声を掛けようとはしなかった。
窓を叩く風が、轟く雷鳴が、決して静寂を許さない。なのに不思議と、煩さは感じなかった。
忙しない秒針が時を刻み、のんびり屋な長針が時を告げ、寡黙な短針は、未だ動く気配がない。進む時間は意外と遅く、まどかが再び顔を上げたのは、幾許も経たない内だった。
桃色の瞳がアイを見据える。とても真っ直ぐで、強い意志を秘めているとアイは感じた。
「わたしには、難しいことはわかりません。ほむらちゃんがなにを考えているのかも、その行動が正しいのかどうかも、さっぱりわかりません。でも、ひとつだけ、わかることがありました」
空白があった。躊躇ではなく、決意による空白が。
「わたしは、ほむらちゃんの友達です」
虚を突かれたアイが目を丸くして、それから徐々に笑みを形作っていく。満足げに頷く彼女は、穏やかな気持ちでまどかへの返事を紡いだ。
「そうだね。まったくもって、その通りだ」
透き通った静かな調べ。心地よく鼓膜を揺らしたそれは、どんな言の葉よりも雄弁だった。
「ほむらちゃんの件について、ボクから言うべき事はもうないよ。あとは直接話すといい」
友達なんだろ、とアイが問えば。ゆっくりと、そしてしっかりと、まどかは頷き返す。そこにはもう、先程までの弱々しさは存在しない。アイにとっては驚嘆すべき事実であり、ある種の羨望を禁じ得ない事柄でもあった。ただそれよりも何よりも、安堵が彼女の胸裡を満たしていく。
「たくさんお話します。これまで話せなかったことも、これまで話したようなことも、たくさん。だから――――――だからアイさんも、マミさんといっぱいお話してください」
また、アイはまどかに意表を突かれた。思わず彼女は、右手を握る。
「マミさんに秘密にしてること、たくさんあるんですよね? わたしは頭がよくないし、間違った答えなのかもしれません。でもやっぱり、秘密にしたままじゃ、寂し過ぎます。たとえ喧嘩になるかもしれなくても、正面から向き合えるのが友達だって、そう思うんです」
まどかの顔には、アイを批難する色はない。悲しみも怒りも、アイの目では読み取れなかった。呵責の念は存在する。後悔のさざ波も揺れている。ただその全ては、まどか自身へ向いていた。
反論は難しくない。言い包める事も、説き伏せる事も、決して不可能だとは思わない。それでもアイが口を噤んでしまったのは、つまり、まどかの言葉に心を揺り動かされたという事だろう。
「…………こいつは参ったな。まさかそう返されるとは思わなかったよ」
絞り出すように呟いて、アイはベッドに背中を預けた。息を吐き出し、天井を仰ぐ。それから、彼女は瞑目して思考の海に潜っていった。
近い内に、アイは魔法少女になるつもりだ。未だに願いの内容については決めかねている部分もあるが、絶望を回避する方法については幾つか案があった。だから、キュゥべえと契約してマミを助けるという未来は、アイの中では確定事項に等しい。
問題があるとすれば、それはまさに、マミに打ち明けるか否かということ。打ち明けるとして、どこまで話すのかということ。全てを伝えても隠し事を残しても、必ずわだかまりはあるだろう。マミを完全に納得させる方法など、アイにはとても思い付かないのだから。
アイの行動は、上位者から下位者へ与える、一方的な施しだ。彼女が望むそれを、マミは絶対に望まない。逆の立場になれば、アイもまた同じ風に考える。どちらも対等をよしとしない、とても歪な間柄。それこそが互いに求める在り方なのだと、アイもマミも、ずっと前から分かっていた。なればこそ、まどかの言葉が胸の奥深くに食い込むのだ。
誰より大事な友達が、誰より遠い場所に居る。その事実を、アイはちゃんと理解していた。
湿り気を帯びた息を零し、アイは緩やかに瞼を上げた。小首をかしげれば、まどかの心配そうな顔が視界に映る。目が合って、アイは青白い頬を動かした。苦笑という名の表情だった。
「お互い、頑張ろっか」
まどかの返答は無く、彼女はただ、黙って頷いた。同時に空気が弛緩し、二人の顔に柔らかさが戻る。直前までのやり取りなど無かったかのように振る舞い、アイはおどけた調子で声を上げた。
「さあ、そろそろお昼だ。ここのレストランから運んできて貰えるよう頼んであるから、楽しみにしててよ。ま、ボクはいつも通りの病院食だけどね」
そう言ってアイが肩を竦めれば、まどかはくすりと笑みを漏らす。
和やかな時間だった。穏やかな空間だった。少なくとも、表面上は。
『――――――お邪魔するよ、二人とも。とても大事な話があるんだ』
少なくとも、その存在が来るまでは。
◆
仰ぎ見た空は、限界まで雨を溜め込んだ重い灰色。周囲を見回せば、人っ子ひとり居ない空虚な街並み。紛れもない現実であるというのに、どこか現実感に乏しいその世界を、彼女はふらついた足取りで進んでいく。当て所なく、目的なく、幽鬼の如く歩き続ける。
「…………わけわかんない」
力無い呟きは、冷たい風に攫われていった。
切っ掛けは、ただの盗み聞き。見知らぬ少女と歩く杏子を街中で見掛けて、こっそり追い掛けた彼女は、裏路地で交わされる会話を耳にしてしまった。二人の語る内容を理解し、驚愕し、衝動に身を任せて逃げ出してしまった。それが、二日前の事だ。
何故そうしたのかは、彼女自身もよく理解していない。ただ敢えて言葉を探すなら、怖かった、という表現が適当なのかもしれない。ワルプルギスの夜と戦う事が怖かった。自分の知らない所で自分の話をされる事が怖かった。あるいは――――――――杏子の優しさを疑う事が怖かった。
佐倉杏子。最初は彼女を殺そうとして、次には彼女を助けて、最後は共に行動するようになった魔法少女。その行動原理は未だに理解し難い部分があるものの、彼女は杏子の事を信頼していた。差し伸べられた手が、与えられた好意が、彼女を救ってくれたから。
でもそれは、本当に無垢な善意だったのだろうか。杏子の真意は別にあり、ワルプルギスの夜を倒す戦力として、彼女に死なれたら困ると考えたのかもしれない。あの杏子に限ってありえないと思いたいのに、シミのような疑念は、彼女の心から抜けてくれない。マミとの事が頭をよぎって、チクチクと彼女を苛むのだ。
どうして。誰に向けた訳でもない問い掛けが、彼女の口から零れ落ちた。
後悔の念はあった。少なくとも存在する事は確かだった。けどそれをいつから抱いているのか、なにゆえ感じているのか、彼女はとんと分からない。
拠点を飛び出し、独りで夜を過ごした寂寥感は、たしかに後悔を含んでいた。だけどその出来事だけではなくて、もっと他に、もっと前から、彼女は悔やみ続けている。そんな気がした。様々な記憶が脳裏を巡り、それでも探す答えは見付からず、もどかしさばかりが募っていく。
誰か助けてほしいと、彼女は願った。こんな時でも、否、こんな時だからこそ、無条件で自分の味方だと信じられる相手を、浅ましいほどに求めていた。
「――――ちょっと、こんなトコに居たら危ないわよ」
機械的に足を動かし続ける彼女へ向けて、不意に何者かが呼び掛ける。こんな状況で自分以外の人間に出会うとは思わず、彼女は驚きで足を止めた。
「まさか避難勧告が出てるの知らないの? だったら早く避難した方がいいわよ」
駆け足で近寄ってきのは、水色の髪を持つ少女だった。おそらくは彼女と同年代と思われるその少女は、なんの変哲もない私服姿だったが、彼女の感覚はその正体を見逃さない。
「魔法少女……」
「ありゃ、あんたもそうだったの?」
目を丸くする少女の姿は、何も知らない無垢な子供みたいだった。実際、この少女は魔法少女と魔女の関係やキュゥべえの目的など、何一つ教えられていないのだろうと彼女は察した。
「ええ、わたしも魔法少女よ」
あなたとは違うけど。その言葉を、彼女はどうにか呑み込んだ。喧嘩を売りたい訳ではないし、売る必要もない。ただほんのちょっとだけ、羨望にも似た苛立ちは覚えていた。
「ところでそっちは、この事態の元凶に気付いてるの?」
「ワルプルギスの夜でしょ? ちゃんと知ってるっての」
「戦うつもり? とても敵う相手じゃないわよ」
嘘ではない。先程から彼女が感じている魔女の波動は、これまで退治してきた奴らが羽虫程度に感じられるほど、桁違いの威圧感を放っている。未だ離れた状態でこれだ。魔法少女の十や二十を集めたくらいでは対抗できないと、彼女は半ば確信を以って結論付けていた。
「そりゃ戦うに決まってんでしょ。なんの為にここに居ると思ってんのさ」
「一般人にはただの災害にしか見えないんだから、逃げたって誰も責めないでしょ。なら無駄死になんかせず、関わらずにやり過ごした方が賢明じゃない」
顔を顰めて彼女が返す。本心というよりも、反発から生まれた言葉だった。それでも、合理的で現実的な思考に基づいた意見であると、彼女としては考えている。
「バッカじゃないの」
故に彼女は、少女の言葉で頭を白く塗り潰された。
「勝てるから戦うんじゃない。勝たなきゃいけないから戦うのよ。あたしには守りたい奴が居る。友達が居る。恩を返すべき人も居る。だからあたしは、逃げるわけにはいかないのよ」
少女が持つ水色の双眸は、気味が悪いほど澄んでいる。悪意に染まっていないそれが、無条件で相手を信じていそうなそれが、彼女には堪らなく気持ち悪かった。
正視に耐えぬと、彼女は平静を装いながらそっぽを向く。このまま少女の目を見続けていたら、溜まりに溜まった鬱憤が爆発してしまいそうだった。
「……あっそ。わたしには関係ないからいいけどね」
「そりゃそうだ。ま、無理に戦えとは言わないから安心してよ」
肩を竦めた少女が、もう用は無いとばかりに背中を向ける。
「それじゃ、あたしはもう行くわ。あんたも死なないように気を付けなさいよ」
何かを言い返す気力も湧かなくて、去りゆく少女を、彼女は黙って見送った。どこか泣きそうな顔をした彼女は、激しい風に揺られる彼女は、案山子の如く立ち尽くす。
羨ましいと、そう感じる部分はあった。杏子に会いたいと、そんな感傷も抱いてしまった。ただそれでも彼女には、杏子の下に戻るという選択はない。むしろ、それを選ぶ事への恐怖が増したと言ってもよいだろう。
あの少女には、大切な人が居た。命を賭して守りたいと思える相手が、たしかに存在したのだ。翻って自分はどうだろうかと、彼女は自問する。それほどまでに大事な人なんて居ないし、大事にしてもらえるとも思えない。所詮はその程度の価値しかないのだと、彼女は自嘲した。
だから、杏子には会えない。会って、自分の価値を再確認する事が恐ろしかった。
頼りない足付きで、彼女は再び歩み始める。やっぱり目的なんか無くて、頼れる相手なんか思い浮かばなくて、無軌道に、無気力に、人影の消えた街を彷徨い続けた。
「――――――っ」
どれだけの時間が過ぎ、どれだけの距離を歩いただろうか。気付けばその場所へ辿り着いていた彼女は、見慣れた建物を呆然と見上げてしまう。
見滝原総合病院。かつて彼女が、多くの時間を過ごした地。いい思い出なんてちょっとだけで、嫌な思い出ばかりが積み重なったこの空間へ、どうして来てしまったのだろうか。どれほど自らの胸に問い掛けてみても、彼女はその答えを導けなかった。
早く遠くへ。焦りも露わに、彼女は踏み出す。踏み出して、またすぐに止まった。
「今のは……?」
覚えのある声が、聞こえた気がした。すぐには誰のものか分からなくて、だけど耳に馴染むほど聞いた声だと、彼女の身体が訴えている。知らず声の主を探し始めた彼女は、間を置かずに目的の相手を見付け出し、大きくその目を見開いた。
お父さんと、お母さん。血の繋がった、この世で二人だけの彼女の肉親。彼女にとっては随分と久し振りに顔を見た気がする彼らは、彼女が見た事の無い剣幕で口論していた。
彼女の父親は、とても穏やかな人だ。怒った事など一度も無くて、彼女が我が侭を口にしても、優しく言い聞かせてくれるような人だった。でも今は、顔を赤くして厳しい表情を浮かべている。
彼女の母親は、とても気弱な人だ。いつも彼女に対して申し訳なさそうな顔をしており、何事か不満を漏らすと、すぐに謝っていた。なのに今は、鬼のような表情で父に向かって怒鳴っている。
意味が分からなかった。二人が此処に居る経緯も、喧嘩をしている原因も、彼女はまるで予想がつかない。悪い夢でも見ているようで、思考はひたすらに空転していた。
「――――ッ!!」
不意に自分の名が聞こえた彼女は、肩を跳ねて植木の陰へと逃げ込んだ。恐る恐る顔を覗かせ、改めて二人の会話を盗み聞けば、彼女の事を話しているのだと気付かされる。
内容は単純で、彼女を探しに行くのか行かないのか、という二択に過ぎない。病院に来たのも、どうやらそれが理由らしい。そして想像すらしていなかったこの事態に対して、彼女はまたも脳の機能を停止させた。
父は探すべきではないと主張している。もはや居場所に当てはなく、大嵐の中を闇雲に探しても危険なだけであり、娘も避難しないほど分別の無い子ではないと言っていた。ただそれは、彼女の事をどうでもいいと考えている訳ではなく、顔には遣る瀬なさが滲んでいる。
反対に、母は探すべきだと主張している。家出をするような精神状態で大嵐に遭えば、いったいどんな行動を取るか分からないと叫んでいた。どこまでも感情的なその姿は、なればこそ本心から彼女を心配している事がよく分かる。
知らなかった二人の姿。見落としていた二人の気持ち。大事にされているなんて、とっくの昔に理解していたはずなのに、当たり前のこと過ぎて、彼女はすっかり忘れていた。
「あぁ、もう……馬鹿だな、わたし。ほんと、馬鹿だな」
頬を流れる涙を拭う事なく、揺れる声音で彼女が呟く。
ずっと探していたはずの宝物は、最初から足元に落ちていた。そんな事にも気付かなくて、ただ嘆いてばかりいた自分を省みて、彼女は自らの心を責め苛む。
ああ、と嘆息。胸に引っ掛かっていたのは、全ての後悔の始まりは、これだったのだと、彼女は悟る。親の下を飛び出して、安息の場所を捨て去って、なのにその事実から目を逸らした事こそを悔いていた。誰よりも味方であるはずの、両親を信じられなかった事こそを惜しんでいた。
温かな感情に満たされた胸に手を添えて、彼女は静かにその目を瞑る。閉じた瞼に浮かぶのは、かつて過ごした両親との日々。辛い出来事ばかりではなく、ちゃんと優しいものもあったのだと、彼女はようやく思い出す。
ありがとう。口の中で溶かしたそれを、彼女は胸に刻み込んだ。
今すぐにでも、両親の下まで駆けていきたい。駆け寄って、此処に居るよと安心させたい。でもそれをしてしまえば、彼女は二人から離れられなくなってしまう。それでは駄目なのだ。
彼女には、為すべき役目があるのだから。
両親に見られないよう気を付けて、植木の陰から彼女が這い出る。そのまま物音に注意を払い、彼女は病院の門を潜って外に出た。その相貌は、安らかな色で染められている。
「――――いい事でもあったのかい?」
門を出てすぐの場所に立っていたのは、魔法少女姿の杏子だ。頬を僅かに汚した杏子は、彼女の顔を見ると嬉しそうに話し掛けてきた。先程までの彼女であれば、即座にこの場から逃げ出そうとしたかもしれない。けれど今なら、余裕を持って杏子の厚意に応えられる。
ずっと胸の奥に巣食っていた闇が晴れて、これまでよりも少しだけ、彼女は世界に対して優しくなれる気がした。感謝できると、信じる事が出来た。
「まぁね。それより早く行くわよ。もうお祭りは始まっているんでしょ?」
笑って返す彼女に対し、杏子は分かりやすく驚きをみせる。
直後に杏子は頬を緩めて、快活な声で彼女に答えた。
「おうっ。乗り遅れないよう急がなくちゃな!」
並んで歩き始めた二人は、徐々に歩みを駆け足に変え、ついには勢い良く走り始める。とうとう泣き出した暗雲の下で、空っぽの街中を、彼女達は駆けていく。
「あのさ、杏子」
「ん、どうした?」
並走する杏子と顔を合わせて、彼女は思わず口を噤む。視線を泳がせ、面映ゆそうに唾を呑み、そうして彼女は、思い切った様子で声を紡いだ。
「――――――ありがとう。うん、それだけ」
ずっと言いたくて、だけど言えなかった、その言葉。ようやくそれを伝えた彼女は、満足そうに頷いた。頷いて、すぐに杏子から目を逸らす。普段は白いその頬が、今だけは赤く色付いていた。
◆
足元を駆け去ったのは、雛鳥みたいな人形だった。擦れ違ったのは、派手な装飾の木馬だった。耳を叩いた鳴き声の方を見遣れば、カラフルな象が列を成している。周囲を探ってみれば、檻車や他の動物も見て取れる。そして天には、幾つものフラッグガーランドが掛けられていた。
パレードみたいだ。この光景を目にした誰もが、そんな感想を抱くだろう。それはこの場に居るマミも例外ではなく、彼女は川沿いのフェンスに凭れながら、その行進を眺めていた。
感情という感情を削ぎ落とした蜂蜜色の瞳が、暗雲の下で爛々と輝いている。タイル張りの道を我が物顔で進むパレードを、暗い色で映している。
マミは知っていた。これらの存在が、使い魔と呼ばれる化け物である事を。
マミは理解していた。化け物という言葉すら生温い存在が、もうすぐやってくる事を。
「静かなものね」
ラッパや太鼓の音に包まれながら、それでもマミはそう漏らす。その手には、愛用の携帯電話が握られていた。ディスプレイはメール画面。読み取れるのは、返信メールが数件ばかり。それらは彼女が知る魔法少女達へ宛てたものへの返答で、その数は、送った時よりも随分と減っていた。
「本当に、静か過ぎるほど――――……」
携帯電話の画面を閉じて、遣る瀬無さげにマミが呟く。呟いて、その細首をかしがせた。移した視線の先には、異形ではなく人の影。長い黒髪を靡かせた、少女の姿。
「これが貴女の葬儀なら、私も喜んで参列するのだけど」
暁美ほむらが佇んでいる。その双眸に決意を讃えて、彼女はマミを見詰めていた。
前と比べて、幾らか人間らしくなっている。ほむらの顔を見たマミは、そんな事を考えた。
「それで? 人殺しさんはどんな御用なのかしら?」
マミの声は冷たく、暴風の中でもよく通る。
眉尻を下げたほむらだが、瞬きの後には表情を消していた。
「貴女と協力関係を結びに来たのよ」
「…………なんの冗談かしら」
「本気よ。貴女も気付いているのでしょう? もうすぐ訪れる災厄に」
「……ええ。たしかに気付いているわ」
ワルプルギスの夜。歴史の中で語られる最悪の魔女が現れるという事を、マミはキュゥべえから聞いていた。何より今この瞬間も粟立つ肌が、彼女に迫る脅威を教えてくれる。そしてなるほど。あの化け物を相手にするならと、マミはほむらの意図を理解した。
「でも、やっぱりお断りね。銃弾は前から飛んでくるだけではないもの」
難敵だからこそ、マミはほむらと手を結べない。魔女退治に集中して隙を見せた瞬間に背後から撃たれては堪らないと、彼女は嫌悪感を隠す事なく拒絶する。
真一文字。薄紅の唇を固く結び、ほむらは鋭く目を細めた。そのアメジストの瞳には、表に出る事のない激情が押し込められている。少なくともマミはそう感じ、そう思った。またそんな感想を抱ける程度には、今日の彼女は冷静だ。
「別に手を取り合って仲良くしたいわけではないわ。ただ離れて戦われると迷惑なだけ」
硬質な声音でほむらが紡ぐ。それを聞いて、マミは不審そうに眉根を寄せた。
「ワルプルギスの夜は、この街全体を破壊しかねないほど強力な魔女よ。そんな化け物が暴れると困る場所が、貴女にはあるでしょう?」
言われてマミは、アイの居る病院の方角を見た。今はまだ、この曇天と同じ、ギリギリの平穏を保っている街並み。だがそこにワルプルギスの夜を放り込めば、どうなるだろうか。背筋が震えるその想像を、彼女は首を振って掻き消した。
「理解したかしら? 勝手に戦場を誘導されると、お互い困った事になるのだと」
「………………そうね。たしかに、貴女の言う通りかもしれないわ」
呻くように返答し、マミは改めてほむらと対峙する。共に友好の欠片も感じられない顔をして、瞳に宿すは鋭利と冷淡。信用も信頼も築こうとしない両者は、しかし同時に頷いた。
「せいぜい私の目が届く範囲で戦うことね。逃げようとしたら容赦はしないわ」
「貴女こそ、よそ見ばかりして足元を掬われないよう注意しなさい」
ほむらの返しに鼻を鳴らし、マミは不機嫌を露わにそっぽを向いた。不満があれば不安もある。これでいいのかと、心のどこかが囁いている。それでも彼女には、他の選択肢は選べなかった。
マミから見た暁美ほむらとは、とても危険な存在だ。その思想も実力もよく知らないが、平然と人を殺せる事だけは分かっている。また瞬間移動を可能にする未解明の能力や、何故かアイの事を把握している点も考慮すれば、決して無視し得ない脅威と表現してもよい。それでもマミが彼女の手を取ったのは、直近に迫る脅威をそれ以上と判断したからだ。
「どうやら来たみたいね」
「残念ながら、そのようね」
奇しくも同じ瞬間、マミとほむらは天を見上げた。鈍色の空を、雷鳴轟く天空を、彼女らは鋭い眼差しで睨み付ける。その先に浮かぶのは、一つの巨大な影だった。
青いドレスを白く縁取り、舞台役者の如く着飾った人型の魔女。その裾から覗かせているのは、足ではなく歯車で、上半分を切り取られた頭部からは、代わりに二つの帽子が生えている。自らを中心に虹色の魔法陣を回転させながら、山の如く巨大なこの怪物は、逆さまに浮かんだまま悠然と見滝原の街を見下ろしていた。
ワルプルギスの夜。ある種の災害とすら呼ばれる、最強最悪の魔女。伝承と違わぬ、ともすればそれ以上の力を感じさせる威容を前にして、マミは知らず喉を鳴らしていた。
勝てるのか、と自問して。勝たねばならない、と自答する。
マミの隣にほむらが並ぶ。横目でそれを確認したマミは、何も言わずに魔法少女へと変身した。ほむらもまた魔法少女としての衣装を身に纏い、ワルプルギスの夜を仰ぎ見る。両者共に語り合う言葉など無く、静かに己が敵を見据えていた。
周りにパレードの影は無い。吹き荒ぶ風は不思議と静かに感じられ、川の水面は、不自然なほど凪いでいるように見えた。その事実が逆に、この後の波乱を予感させる。
言い知れない恐れが、マミの胸を苛んでいた。死への不安ではなく、別離へのそれではあるが、それだけでもなく。ただ漠然と、彼女はよくない運命を察していた。
「さあ、行きましょう」
けれど。ただ、けれど。退く訳にはいかないのだ。
譲れぬ誓いを胸に秘め、マミは戦場へとその身を投じた。
-To be continued-