「マミ、さん……?」
顔から血の気が引く音を、ほむらはたしかに聞いた気がした。膝を震わせ瞳を揺らし、今にも遠のきそうな意識を、彼女は必死に繋ぎ止める。その視界には、その思考には、異形の化け物しか存在しなかった。
全身を鎖で覆われた化け物。あるいは、肉体が鎖で構成された化け物。それは魔女と呼ばれる存在だ。倒されるべき人類の敵だ。なのに、ほむらはそれを魔女と呼ぶ事が出来なかった。倒そうと、決意する事も不可能だった。
巴マミ。ほむらが大好きなその人が、何故か目の前の異形と重なってしまう。ありえないと否定したい。くだらない妄想だと、笑い飛ばしてしまいたい。だが突拍子もないその想像を、彼女はどうしても捨て去る事が出来なかった。奇妙な現実感が、胸の奥で疼くのだ。
立ち尽くしているだけだった。呆然と眺めているだけだった。そこに居るのは魔法少女ではなく、幼さが消えない一人の少女だ。
魔女が腕を振り上げる。姫袖のように広がる鎖が、幾重にも擦れて音を成す。ほむらは、その光景を黙って見ていた。やはり彼女は、何も出来なかった。落ちてくる鎖の束を見る。迫りくる黒鉄の波を見る。指先すらも揺らす事無く、ほむらはただそこに居るだけの人形だった。
ここで自分は死ぬのだと、ほむらは悟る。それでも、彼女の心は動かなかった。
「あぶねえっ!」
唐突な浮遊感。目の前がグルリと周り、気付けばほむらは、強かに背中を打ち付けていた。反射的なうめき声。明滅した視界の意味も理解できずに、彼女は俄かに顔を歪めた。一体なにが。そんな疑問が浮かぶ間もなく、轟音が耳を打ち付ける。
「――――――――ッ」
言葉もない。碌に体も動かせず、ほむらはただ悶える事しかできなかった。
そんなほむらの耳を、聞き慣れない声が打つ。
「ったく。死ぬつもりかっつの」
苛立たしげなその声に急かされるように、ほむらの視界が焦点を結ぶ。そうして彼女が捉えたのは、いずこかを睨む少女の姿だった。小豆の髪を結んだ彼女は、先程とは違う服装を纏っている。ほむらはすぐに魔法少女だと気付いたが、そこから先を考える余裕は無かった。
少女の双眸が、床に倒れたほむらを見遣る。鋭い瞳には色んな感情が渦巻いていて、思わずほむらは押し黙った。そうしてジッとしているほむらの腰へ、少女は無造作に腕を伸ばした。
「こいつはアタシの責任だからな。一応、助けてやるよ」
「――――――あっ」
さながら米俵。少女の肩に担がれて、ほむらは二つの瞳を丸くした。だがそんな彼女に構う事なく、少女は力強く床を蹴る。刹那の重圧と、僅かばかりの浮遊感。そして最後に、軽い衝撃。吐息を零したほむらを無視して、少女はそのまま跳ねるように進んでいった。
魔女の結界は複雑怪奇だ。隣の部屋は隣にはなく、空の上には天井があり、床の下には天蓋がある。そんな意地の悪い謎かけみたいな表現も、魔女の結界内では現実だ。故に、そこでは常に冷静であらねばならないのだと、ほむらはマミから教わったばかりだ。本当に、ついこの間の事で、それから一週間と経たない今日この瞬間、ほむらはその意味を痛感させられた。
「こいつは……」
少女が足を止める。気付けば何も無かったはずの周囲には、白黒の市松模様の壁が存在していた。ほむらと少女の二人を中心に据える形で、その壁は半球状の屋根を形成している。扉を潜った覚えは無く、ただ初めからそうであったかのように、彼女達はこの場に存在していた。
囚われた、というよりも迷い込んだと表現する方が正確だろうか。一体なにが原因でこの場所に辿り着いたのかは不明だが、魔女が追ってくる気配は感じられない。そうして一先ずの安息を得たためか、少女は担いでいたほむらを降ろした。
足をふら付かせ、それでも倒れる事無く、ほむらは白黒のタイルの上に立つ。ただその意識は少女の方に向いておらず、部屋の内装だけを一心不乱に見詰めていた。何かに憑りつかれたかのように、ずっと、ジッと、ほむらの双眸は”ソレ”らを映し続けていた。
そこには絵があった。その中には女の子が立っていた。髪は長くて、色は黒い。体は細くて、色は白い。そして身に纏うのは、藍色の入院着。ほむらの全身より大きなキャンバスに描かれたその女の子は、どこかほむらに似ていて、だけどまったくの別人だった。
別の場所には、鉄の鳥籠が吊るされていた。止まり木には小さな人形が腰掛けていて、やはり女の子だった。黒い髪も白い肌も、やっぱり同じ。ほむらのようで、ほむらでない、どこかの誰かだ。
あるいは額縁に飾られ、あるいはイーゼルに固定され、油彩画が、水彩画が、彼方此方に存在している。
あるいは檻に入れられ、あるいは首輪に繋がれて、和人形が、洋人形が、其処彼処に置かれている。
他にも、至る所に本棚が設置されていた。ただ、そこに収められているのは普通の本ではなくて、アルバムの類のように見える。そして、もし本当にアルバムであるならば、その中身がなんなのか、ほむらにも容易く想像がつく。
この空間は、ただ一人の為だけに造られたのだろう。たった一人の、女の子の為だけに。それが誰なのかを、ほむらは知らない。しかし、何者なのかは分かっている。故に彼女は、呆然と眺める事しか出来なかった。
「――――――絵本アイ。マミの糞ったれな親友だよ」
硬質な少女の声が、佇むほむらの耳を揺らした。
ほむらの視線が隣へ向く。するとそこには、険しい顔付きの少女が立っていた。
「一応、名前くらいは名乗ろうか。アタシは佐倉杏子。マミの知り合いさ」
「えっと、暁美ほむらです」
反射的に名乗り返したほむらだが、その意識は、またすぐにこの空間の内装へと引き寄せられる。どうしても、気になるのだ。この部屋を埋め尽くす女の子の存在が、マミの親友だという彼女が、どうしても。
「この人が……」
かつてその存在だけを聞き、詳しい事は何も教わらなかったマミの親友。その姿を初めて認知したほむらは、言い様の無い親近感と既視感を覚えていた。だがそれらの正体を探る前に確かめるべき事があるのだと、ほむらは悲しいほどに理解していた。
ここは魔女の結界の中で、この空間には、マミの親友の絵や人形が飾られている。それらが意味する一つの事実は、ほむらの鼓動を激しく急かし、冷たい汗を流れさせた。
「やっぱり、あの魔女は――――」
震える声で、揺れる瞳で、ほむらは隣の杏子に問い掛ける。
最後まで、言い切る事は出来なかった。それでも杏子は、正確にその意図を読み取ってくれた。
「マミだよ。魔法少女の、巴マミだ」
簡潔な杏子の返答は、だからこそほむらの胸を抉る。何故、という言葉は浮かんでこない。ただそれが事実なのだと、ほむらは魂の奥底で理解していた。どうしようもない悲しみと共に、受け入れていた。
「あれが魔法少女の運命だよ。絶望した魔法少女は、魔女へと堕ちる。キュゥべえと契約した瞬間から、そうなることが決まってるんだ。ふざけた話だけど、それがたった一つの真実ってヤツさ」
眉根を寄せた杏子が、不愉快そうに吐き捨てる。
悲惨な現実。衝撃的な真実。それを否定する言葉は、今のほむらには紡ぎ出せない。代わりに彼女の胸中を渦巻くのは、マミとの思い出と、最後に聞こえたマミの声だった。底知れない悲痛さを感じさせるあの声が、ほむらの耳から離れない。
『――――――私があの子を、殺したようなものじゃないッ!!』
魔法少女は、魔女になる。マミの親友は、魔女に殺された。ならばマミの親友を殺した魔女もまた、どこかの魔法少女で、それはきっと、マミの知る誰かなのだろう。そしてその誰かは、マミの助けで魔法少女になったのだろう。
「~~~~ッ!?」
反射的に込み上げてきたものを抑え込もうと、ほむらは口を塞いで膝をつく。気持ち悪かった。悲哀ではなく、憤怒ではなく、恐怖でもない。魔法少女を取り巻く現実が、ただひたすらに気持ち悪いと彼女は思った。
「ひとまずアンタはここに居な。マミも使い魔も、たぶん入ってこないから」
杏子がそんな事を口にする。涙の滲んだ目でほむらが見遣れば、彼女はやりきれない様子で肩を竦めた。
「マミの知り合いで、魔法少女なんだろ? いまいち頼りなさそうだし、一人でお留守番してな」
苦笑。温かみも何もない、本当に苦み走った笑みを、杏子は浮かべている。
ほむらは何も答えられなかった。ただ呆然と、杏子の顔を仰ぎ見る事しか出来なかった。
「アタシが片を付けてくる。流石に骨が折れそうだけど、これも自業自得ってヤツかな」
呟くように、しかしはっきりとそう告げた杏子の顔には、僅かながらの安堵が混じっているように感じられた。
長い髪を翻し、杏子がほむらに背を向ける。彼女の手には、いつの間にか長い槍が握られていた。次第に遠ざかる杏子の背中を、ほむらは黙って眺めている。何も出来ず、何をすべきかも分からない。だから彼女は、ただ呆然と、置物のように杏子を見送るのだ。
――――――――この後、杏子が戻ってくる事は無かった。
暫くすると魔女の結界は消え、ほむらは自然公園の片隅で座り込んでいた。幸い辺りに人影は無かったが、それ以上にほむらが気になるのは、マミと杏子の姿が見当たらない事だ。マミは、仕方が無いかもしれない。しかし杏子も居ないという事は、つまりそういう事なのだろうか。それから一時間待っても、二時間待っても、ほむらの待ち人が現れる事は無かった。
夕闇に染まり始めた自然公園の中を、ほむらは独りで歩いていく。本当にマミは魔女になったのだろうか。魔女になって、死んでしまったのだろうか。杏子は、マミを殺したのだろうか。そして、殺されたのだろうか。解消される事の無い疑念の塊が、ほむらの胸の裡に溜まっていく。幼げな相貌に暗い影を落とし、彼女は重い足取りで家路に着いた。
「鹿目さん……」
縋るようなその声は、誰に届く事も無く消えていく。
当然、誰の返事もありはしなかった。救いなんて、存在しなかった。
何かが変わり、しかし何も変わる事無く、日々が忙しなく過ぎていく。まどかに対して、ほむらはマミが死んだ事だけを伝えていた。魔女と魔法少女の関係を話そうとした事もあったが、マミの件が脳裏を過ぎり、結局は打ち明けられないままだ。
まどかと支え合いながら、魔法少女の務めを果たす。どこか空虚な心を抱いて、ほむらは日常を生きていく。本当は理解していた。それはなんの解決にもならないと、自分を追い詰めるだけだと、ちゃんと分かっていた。だけど暁美ほむらは弱いから、まだ強くなれていないから、最初の一歩を踏み出せないのだ。
故に転機が訪れる事は無く、再び運命の日が訪れる。
ワルプルギスの夜。最強の魔女がほむらに齎したものは、かつてと同じ悲劇だった。それはきっと、当然の帰結だったのだろう。ほむらが居たとしても、マミが居ない。そんな状態で、マミとまどかの二人掛かりで敗れた相手に、どうして勝てると言えるのか。
街は壊され、人は殺され、まどかもまた敗れ去った。奇跡的に生き残ったほむらは、いつかのように、倒れ伏すまどかの傍で泣き伏している。雨が涙を隠し、風音が泣き声を覆おうとも、悲しみが消える事は無い。震える指先で触れたまどかの頬は、死んでいるとは思えないほど綺麗なままで、けれどたしかに、命の鼓動は絶えていた。
「キュゥべえ……」
掠れた声を絞り出し、ほむらは傍らのキュゥべえに目を落とす。
真ん丸な赤い瞳が、静かにほむらを見上げていた。
「絶望した魔法少女が魔女になるって、本当?」
『本当だよ。魔法少女は、契約した瞬間からそういう存在になっているんだ』
静かに首を振り、ほむらは立ち上がる。キュゥべえを糾弾するだけの気力は無い。残酷な現実を否定する気も、起きなかった。それは彼女もまた、絶望の淵に立たされているからに他ならない。何よりも確かな実感として、ほむらは魔女に堕ちるという意味を認識させられた。
だが、それでもまだ、ほむらには希望がある。彼女が持つ魔法少女としての能力。それは決して時を止める為のものではないと、ほむらはようやく理解する。初めて力を行使した時、過去に戻ったあれこそがほむらの願いの本質なのだ。
やり直し。それこそがほむらの願いであり、だからこそ、まだ何も終わっていない。
左腕の丸盾に手を伸ばす。そこに埋め込まれた砂時計こそが、ほむらの力の根源だ。
砂の流れを止めれば、時が止まる。そして砂が流れ落ちたそれを反転させたなら――――――――。
◆
気付けばほむらは、病院のベッドに横たわっていた。覚えのある病室で、覚えのある日付けだ。戻ってきたという実感が彼女を満たし、温かな気力が溢れてくる。今度こそ二人を救いたい。その決意を胸に秘め、ほむらは再びこの場所から立ち上がるのだった。
やり直しを経て経験を積んだほむらは、確実に以前の時よりも成長していた。学校の勉強もそつなくこなせるし、魔法少女としての能力も向上している。もちろん魔女退治に対する抵抗感は増したが、それでも何度か経験すれば、割り切る事は出来た。
順調だった。少なくともほむら個人の能力を見れば、順当に伸びたと言っていいだろう。人間関係も悪くなく、あるいは初めて見滝原に来た時のほむらであれば、理想の生活だと思うのかもしれない。
しかし現実は残酷だ。いくらほむらが力を付けようと、それだけで大局を動かす事は難しい。結局、このやり直しでも二人を救う事は出来なかった。むしろ途中でマミが魔女となった事を思えば、始まりの時よりも悪化したと言っていい。それでもほむらは諦めなかった。三度で駄目なら四度。四度で駄目なら五度。何度でも繰り返してみせると、彼女は再び時を超えた。
試すべき事はいくらでもある。魔法少女と魔女の関係を打ち明けるのか否か。打ち明けるとしたら、特定の誰かか全員か。あるいは第三者に協力を求める事は出来るのか。もし求めるとすれば、それは誰なのか。ワルプルギスの夜が来る前に逃げる事は可能なのか。決戦の前に大きく実力が上がる見込みはあるのか。敵に弱点は存在するのか。
何度でも、いくらでも、ほむらは思い付く限りの可能性に挑戦した。失敗しても、それが糧になると信じて。過ちを犯しても、いつか全て上手くいくと言い聞かせて。彼女は全身全霊を賭して、二人の救済を求め続けた。
――――――――結局、ほむらが報われる事は無かったのだけれども。
諦めるには早いのだろう。まだ数えられる程度の繰り返しでしかなく、工夫する余地だっていくらでもある。経験を重ね、知識も蓄えて、少なくとも停滞には陥っていない。だというのに、ほむらにはまるで希望の光が見えてこない。むしろ日増しに絶望の影が濃くなっているようにすら感じられ、彼女の心を苛んでいた。
この日もまた、ほむらはマミと共に一体の魔女を退治した。ほむらにとっては、既に見慣れてしまった魔女の一体だ。特に苦戦する事も無く、予定調和の如く終えた一戦だった。ほむらもマミも怪我は無く、結界への侵入から五分と経たずに、二人は元の廃屋へと戻ってきた。
「お疲れ様です、マミさん」
「ええ、暁美さんもお疲れさま」
一見すれば和やかな挨拶。たおやかな笑みを浮かべるマミの様子は、魔女退治を終えた後としては自然なものだ。けれど付き合いの長いほむらの目には、決して表には出てこない感情の揺らぎが見て取れた。
着慣れた制服の袖を掴み、ほむらは僅かに目線を下げる。
一拍置いて、彼女は思い切った様子で顔を挙げた。
「あのっ。今度の日曜日は空いてますか?」
ちょっとだけ目を丸くして、それからマミは苦笑を刻んだ。その表情の変化を見ただけで、またか、とほむらの心に諦めが生まれる。力無く腕を垂れ下げて、彼女は静かに返事を待った。
「ごめんなさい。その日は用事があるの」
「そう……ですか。わかりました」
その後に続く話は無く、どこか重い空気を引きずったまま、二人は各々の家路に着いた。夕焼けに染まる街並みを、ほむらは一人で進んでいく。繰り返しの中で刻まれた記憶により、自然と自宅へ向かう足に任せる一方で、彼女の思考は深く沈んでいた。
はたして何時の頃からだったろうか。ほむらとマミの関係が、今みたいに疎遠になったのは。かつてはこうではなかった。マミはほむらの言葉によく耳を傾けてくれたし、休みの日は一緒に出掛ける事も多かったはずだ。しかし気付けば、プライベートを共にする事は無くなり、雑談と呼べる会話も少なくなっていた。
今でもほむらは、マミに評価されているし気に入られている。けどそれは、魔女を殺す事に長けた魔法少女としての話で、暁美ほむらという個人に向けられた感情ではない。その事実が、一層ほむらを落ち込ませる。
暁美ほむらは成長した。かつての彼女とは見違えるほどに。強くなった。賢くなった。冷静さだって身に着けた。だが、それでも二人は救えない。それどころかマミに至っては、いつもワルプルギスの夜と対峙する前に死んでしまう。そう、最初の一度を除いて、マミはあの日が来る前に、決まって魔女に堕ちてしまうのだ。
理由は単純だった。親友が死んでいるから。あるいは魔法少女が魔女になる事を知ったから。マミが魔女化する理由は、いつもその二つのどちらかだ。だからこそほむらは、魔法少女の裏事情を打ち明ける事は止めた。何度か試して失敗したという事もあるし、マミの状況を考えると、あまりに重過ぎる事実という問題もある。ただそれでもマミは、親友の居ない世界を厭い、生きる事に絶望してしまう。
「意味、なかったな……」
真っ直ぐに下ろした黒髪を摘まみ、ほむらが呟く。今回のやり直しに当たって、彼女は髪型を変えていた。三つ編みをやめてストレートにするという単純な変化だが、ほむらにとってそれは、とても深い意味を持つ。
だってこの髪型は、マミの親友と同じものなのだから。
暁美ほむらとして見てほしかった。だから少しでも絵本アイとの差を作ろうと、髪型を変えようとはしなかった。それなのにこんな事をしているのは、彼女が受け入れたからだ。結局、マミが必要としているのは絵本アイの代わりであって、暁美ほむらではないという事を。
マミが成長したほむらに興味を持たない事は、至極当然なのだ。絵本アイは無力な存在で、マミは彼女が持っていたか弱さを求めている。故に強い存在に興味は無く、これから先、ほむらがかつての関係を取り戻す事は無いのだろう。その分かり切った結末を拒絶したくて、少しでも絵本アイに近付こうと、ほむらはこうして髪型を変え、眼鏡も外したのだ。そしてその行為は、どうしようもなく無意味だった。
滲む涙を、ほむらは拭わない。
信じたいという気持ちは、今でもほむらの中に残っている。自分と、マミと、まどかの三人で、新しい関係を築きたい。辛い事なんて忘れてしまうくらい、苦しい事だって乗り越えられるくらい、強い絆を結びたい。それは夢見がちな子供の戯言かもしれないけれど、そんな戯言でもなければ、ほむらの希望には成り得ない。それほどまでに、彼女の知る現実は残酷だった。
マミは絶望し、まどかは死に、他の魔法少女も住民も、その尽くが殺される。それこそが、何度と無くほむらが経験した結末だった。圧倒的なまでの戦力差。本来なら魔女を狩る側であるはずの魔法少女さえ、ワルプルギスの夜の前では、単なる有象無象の一つに過ぎない。たとえマミが居たとしても無理なのではないか。ほむらの宿敵は、そんな弱音が過ぎるほどの怪物だった。
「こんなはずじゃ、なかったのにな」
呟き、ほむらは天を仰ぎ見る。月が上り始めた夜空は暗く、黒く、まるで自分の心のようだと、彼女は思った。
◆
時間が無い。その言葉と共に、ほむらの胸は焦燥で満たされる。彼女の視線の先では、魔女との戦いを終えたマミが立っていた。憎き魔女を倒したというのに、彼女の表情は浮かない。物憂げで、物足りなそうで、今にも消えてしまいそうなほどの儚さを纏っていた。
まただ、とほむらは思う。また、この時が来たと。
いつもそうだ。どれだけほむらが気を引こうとしても、マミの心は絵本アイの元にある。だから絵本アイが死んだ世界では、いずれマミの心も絶えるのだ。それはほむらにとって認めたくない事だけれど、受け入れなければならない現実だった。そしてこの繰り返しでも、マミは魔女になるのだろう。ある種の諦めを抱いて、ほむらはそう予測した。
夜の帳が影を落とし、路地裏に佇む二人を隠す。表のビル街とは裏腹に、ほむら達を包む空気は淀んでいた。それでもほむらの目に映るマミの姿は、他の何より明瞭だ。
切なさで締め付けられた胸を押さえ、ほむらは躊躇いがちに口を開いた。
「マミさん……」
声を掛けられたマミが、静かにほむらの方を向く。空虚な瞳だった。目の前にほむらが居るのに、ほむらを見ていないような、そんな恐ろしい双眸だった。思わず震えそうになる足を堪えて、ほむらは次の言葉を重ねる。
「マミさんには、大切な友達が居たんですよね?」
「……ええ、居たわ」
死んでしまったけれど。そう続けたマミの声は、なんの感情も読み取れないほど平坦で、だけどそれは、あまりに多くの感情を詰め込んだ所為だとほむらは理解した。だから、辛い。マミとアイの絆を感じるから、自分は違うのだと分かってしまうから、ほむらは辛い。それでも口を噤む事は、今の彼女には出来なかった。
乱れがちな呼吸を整えたほむらが、真っ直ぐにマミを見返す。
巴マミは、暁美ほむらの大事な人だ。大好きな先輩で、憧れの魔法少女で、命の恩人でもあった。だから助けたいと思っているし、笑っていてほしいと願っている。そしてそれと同じくらい、自分の事を見てほしいとも。
「やっぱり、寂しいですか?」
「当たり前じゃない」
思いのほか早く、思った通りの冷たい返答。
「そんなの、当たり前じゃないっ」
マミの語気が強くなる。白い頬が真っ赤に染まる。
ほむらの細い両肩が、怯えるように小さく跳ねた。
「あの子が死んでっ。居なくなって!」
声が震えていた。全身が戦慄いていた。
ほむらを見ているはずなのに、マミはほむらを見ていなかった。
「なんで私は生きてるの! なんのために生きてるの!!」
吐き出される言葉は血反吐のようで。
血肉を削る様に言葉を紡いで。
「殺しても殺しても殺しても!! あの子は帰ってこないのに――――――ッ」
マミは必死に否定していた。
世界から、目を背けようとしていた。
「頑張る意味なんて無いじゃない」
そんなマミの掠れた声が、どうしようもなくほむらを傷付ける。
マミが流す涙の意味を、ほむらは知っていた。これから訪れる現実を、ほむらは覚悟していた。だけどやっぱり辛いから、ほむらは自然と頭を垂れる。視界に入る地面の暗さが、一層ほむらの心に影を落とした。肌を叩く冷たい風が、心の熱を奪っていった。そして再びほむらが顔を上げれば、そこに広がっていたのは絶望だ。
何度も目にした光景だった。二度と見たくないと、ほむらが叫び続けた場景だった。
黒く濁った空は、先程まであった夜空とは違うもので。そびえ立つビル壁は、幻みたいに消えてしまって。粗いアスファルトの地面は、滑らかな金属タイルに変わっていた。そしてほむらの眼前には、見知った少女の姿ではなく、見慣れた魔女の異形があった。
「そうですよね」
ポツリと、ほむらの呟き。細い指が握り締められ、震え、力無く垂れ下がる。白い頬が笑みを形作ろうとして、でも出来なくて、悲しげに唇が歪んだ。大粒のアメジストのような瞳が曇り、だけど涙は流れなかった。
「頑張る意味なんて……本当に…………」
徐々に声から力が失われ、同時にほむらの目線が下がっていく。
遂には完全に俯いて、ほむらは魔女から、マミから、目を背けた。
「あなたに、ほむらは、必要ない」
ずっと前から、それこそ最初のやり直しを始める前から、ほむらは分かっていた。暁美ほむらという個人は、巴マミに求められていない事を。それでも、大切な存在だったのだ。宝石みたいに輝く思い出が、今もほむらの胸に、温かな光を灯しているから。
「大好きでした」
だけど、結局は思い出だ。変わらない関係なんて無い。出会いからやり直すなら尚更だ。かつてほむらに微笑みかけてくれたマミは、もう居ない。これから出会う事も、きっと無い。その現実を、ほむらは受け入れた。
受け入れて、全てがどうでもよくなった。
やり直しに意味なんて無い。どんなにほむらが頑張っても、本当に助けたかった人は助けられない。同じだけど別人で、だから助ける意味なんて、足掻き続ける意味なんて、きっと無い。その結論に至った瞬間、ほむらの心は折れてしまった。
顔を上げたほむらの視界を、鎖の波が覆い尽くす。奇しくもそれは、初めてマミが魔女になった時と同じ状況だった。流れ過ぎ去る走馬灯。その中で煌めきを放つのは、マミとまどかとの出会いだった。あの時ほむらは、マミに命を救われたのだ。ならばマミに殺されるというのは、決して悪い事ではないのかもしれないと、ほむらは思った。
静かな微笑。悲しげに、寂しげに、何より空虚に、ほむらは微笑んだ。
「――――――ほむらちゃんッ!!」
いつか聞いた声だった。いつか目にした光景だった。
桃色の閃光が、迫る黒鉄を塗り潰す。眩いほどのその輝きは、しかしほむらの目を焼く事は無く、むしろ柔らかに彼女を包み込む。一瞬の後に煌めきが消え去ると、大きく見開かれた瞳に映ったのは、絶望の消えた世界だった。
魔女が居ない。鎖の魔女が、束縛の魔女が、跡形も無く消え失せている。辺りの風景も罅割れ砕け、現実が顔を覗かせ始めていた。それはつまり、魔女が倒されたという事で。だからこれは、魔法少女が現れたという事だ。
もちろんほむらは、やって来た魔法少女を知っている。
ほむらが振り返ると、慌てた様子のまどかが、路地の入口の方から走ってきていた。その身には魔法少女の衣装を纏っており、手には弓が握られている。すぐにほむらの傍まで駆け寄ってきた彼女は、心配そうにほむらの顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶ? ほむらちゃん」
既視感。締め付けられるような思いがして、ほむらは反射的に胸を押さえた。そんな彼女を思い遣ってか、まどかは左手をほむらの肩に置き、右手を白い頬に優しく添える。その柔らかな感触に、思わずほむらは泣きたくなった。
「どこか痛いの? 怪我はない?」
まどかの声音は温かで、ほむらの胸の奥まで沁み込んだ。
胸が詰まって、苦しくなって、ほむらは首を振って答える事しか出来なかった。
「そっか。よかったぁ」
安心したと、吐息を漏らして笑ったまどか。
ほむらが零したのは、一筋の涙と一つの問い。
「どうして……」
首を傾げたまどかと、目を合わせ。
縋るように、ほむらは訊ねた。
「どうして、助けてくれたの?」
まどかがこの場に現れた事よりも、マミを倒してしまった事よりも何よりも、ほむらにとっては大事な問いだ。まどかと出会って、ただの少女として友情を結んでいた、初めての時。あの時もまどかは、こうしてほむらを助けてくれた。
思い出は変わらない。現実は変わってしまう。
でも、現実も変わらないでいてほしいと、ほむらは願うのだ。
まどかを見詰めるほむらの眼差しは、どこまでも真剣な光を宿している。僅かにまどかはたじろいで、けれどすぐに緊張を解いた。直後にまどかが浮かべた表情は、やっぱりほむらが知るものだった。
「だってほむらちゃんは、わたしの大好きな友達だもん」
笑うまどかの一言は、何よりほむらを救ってくれた。
◆
高く、広く、青い空。記憶の海から戻ってきたほむらを迎えたのは、何も変わらない風景だった。繰り返す時の中でも変わらない、変えられないものの一つだ。その抜けるような青空を仰ぎ見て、ほむらはポツリと呟いた。
「まどか……」
大切な友達の名前。それを零すほむらの表情は、今にも泣き出しそうなほど濡れている。
あれから、ほむらはマミを助ける事を諦めた。元々無理があったのだ。魔法少女を救うという事は、すなわち心を救うという事。ただ力があればいいという訳ではなく、複雑な人間関係の問題も絡んでくる。だから救えるとしたら、結局は一人だけ。その人の事を考え、その人を思い、その人の為だけに全力になれるようでなければ、救えはしない。だからほむらは、その相手としてまどかを選んだ。それだけだ。
まどかを救うと決めてからのほむらは、大きく方針を転換した。最も大きな変化は、まどかを魔法少女にしないという目標を掲げた事だろう。幸いまどかは、ほむらが時を遡った時点ではただの少女だった。故にまどかが魔法少女になる事を防げば、あとはワルプルギスの夜を退けるだけで、一先ずの問題は解決する。そんな風にほむらが考えるようになったのは、やはりマミを救う必要が無くなった為だ。
巴マミは、ほむらのやり直しの時よりも前から、ずっと魔法少女をやっている。そんなマミが居たからこそ、魔法少女になっても救われるのだと、幸せになれるのだと、ほむらは信じたかったのだ。
「………………ふぅ」
緩やかに首を振り、ほむらはソッと息を吐く。
とにかく、まどかを魔法少女にさせまいと、ほむらは様々な策を講じてきた。直接的な説得も、脅迫的な恫喝もしたし、キュゥべえと接触させないように動いた事もある。それでも駄目だった。まどかは必ず魔法少女になり、そしてワルプルギスの夜に敗れるのだ。
これもまた、当然の事なのだろう。魔法少女になるには、強い願いが必要になる。故に魔法少女にさせないという事は、その信念とも呼べる願いを曲げる事と同義であり、それを実現するには、まどかの意志は強過ぎた。
まどかは魔法少女になる。ワルプルギスの夜は倒せない。結局どちらの問題も、解決の糸口すら見えてこなかった。出口の無い袋小路に迷い込み、日増しにほむらの懊悩は濃くなっていく。そんな時だ。ほむらが絵本アイの命日を知ったのは。
絵本アイが死んだのは、ほむらのやり直しの開始時点よりも後だった。つまりほむらの行動如何によっては、アイの命は助かるのだ。その事実を理解した瞬間のほむらの感情は、言葉では言い表せないものだ。嫉妬か、羨望か、あるいは安堵か。それを確かめる事は出来ないが、一つの転機である事は間違い無かった。
絵本アイの救命。それが実現した時の変化の大きさは、決して無視し得ないものだ。アイはマミに対して絶大な影響力を持ち、そのマミはまどかとの契約に関わってくる。つまりアイの存在の有無は、まどかの契約に影響を与えるのだ。何よりマミが魔女にならなければ、ワルプルギスの夜を倒せる可能性が高くなるのだから。
そうして絵本アイを助けると決めて、彼女が死んだ原因を突き止め、今回、ほむらは初めて救う事に成功した。その成果は劇的だ。今回のやり直しでは、何もかも状況が違っている。新しい可能性が、ほむらの目には見えている。
ずっと昔、ほむらはこの街で少女と出会った。
たった一度の、一時間にも満たない邂逅だ。それでもほむらは、今でもその少女を友達だと思っている。それほどまでに波長が合って、当時は本当に、もう一人の自分のように感じたのだ。思い返せば色々と違う所は多いけれど、それでも、深く通じ合える相手だった。そしてその間隔に間違えは無かったと、ほむらは今なら断言できる。
ほむらの口元が、静かに歪む。穏やかな微笑を、そこに刻む。
一人の魔法少女を救うには、一人の人間が全てを捧げなければならない。それほどまでに困難な道だと、ほむらは知っている。多数を救えるヒーローなんて、所詮は夢物語なのだと、彼女は知ってしまった。
でも、だからこそ、ほむらは信じたい。
「二人なら、救える相手も二人でしょ?」
思い出は変わらない。美しい思い出は、今でも美しいままだ。
故にほむらは、今でも――――――。
-To be continued-