「これで、終わりよ――――ッ!」
轟音が響き、閃光が闇を裂く。爆炎に包まれた異形の魔女は、断末魔すら残せず消滅した。後には立ち込める噴煙と崩れゆく世界のみ。その光景を、一人の少女が眺めている。魔法少女に変身したマミだ。大砲と呼んでも差し支えないほど巨大な銃を抱えた彼女は、結界が消え去るのを確認すると、胸を撫で下ろして微笑した。
巨大な銃をリボンに変え、次いで変身を解いたマミ。学校の制服姿に戻った彼女は、まず辺りに人目が無い事を確認した。先程の魔女が潜んでいたのは、マンションを建設中の工事現場だ。作業員の事故死が相次いで噂になっており、現在は一時的に工事が中断していた。これも魔女の生んだ災厄の一つである。ただそのお蔭で人影は無く、マミの姿が見られる心配も少なかった。
「今回もグリーフシードが手に入ったわね」
剥き出しのコンクリートに落ちていたグリーフシードを拾い上げ、マミが呟く。
マミが初めて魔女を退治してから、既に一月が経過していた。その間に彼女が戦った回数は二十近いが、手に入れたグリーフシードの数はたったの十個。それはマミが、魔女の使い魔も倒しているからだ。使い魔とは魔女の手下のような存在であり、力が弱く、グリーフシードも落とさない。けれど放っておくと人を殺すし、やがて魔女に成長するので、マミは見付け次第排除しているのだ。
『マミは真面目だね。わざわざ使い魔を相手するなんて』
非難するでも呆れるでもなく、淡々とした調子でキュゥべえが喋る。
ただ使い魔を倒す事に旨味は無い。それは魔力を消費するだけの戦いであり、魔法少女にとって負担にしかならない。大元の魔女を探し、邪魔な使い魔のみを殺す。あるいは魔女に育ち、グリーフシードを産み出すようになってから倒す。それが効率的な使い魔の狩り方だ。
『誰も君を称賛しない。それはつまり、誰も君を非難しない、という事でもある』
だから、もっと手を抜いてもいい。いつも通り穏やかに、心配の欠片すら匂わせずにキュゥべえが告げる。それはたしかに事実の一端で、マミも否定はしない。どこまで行っても、魔法少女は孤独な存在だ。
「だからこそ、よ」
鋭い声だった。発したマミは屹然と佇み、足元のキュゥべえを見詰めている。その蜂蜜色の瞳には、悲壮感にも似た決意が宿っていた。
「誰に自慢できる事でもない。ならせめて、自分に誇れる自分でありたい」
孤独な存在なればこそ、支えられるのは自分しか居ない。それがマミの答えだった。満足はしていないし、寂しさだって消えてくれない。でもどうしようもなく理解しているから、そういう道だと納得しているから、惨めな生き方だけはしたくないと、彼女は心に決めていた。
「これっておかしな事かしら?」
マミが浮かべた涙色の笑顔。それを見てもキュゥべえは、置き物みたいに相変わらずだ。
『君が納得しているなら、僕としても異論は無いよ』
マミはちょっとだけ泣きたくなった。キュゥべえはいつもこうだ。否定もしなければ肯定もしない。ただあるがままを受け入れて、それを言葉にする。慰めるのが下手だし、アドバイスは的を外している事も多い。そんなキュゥべえの性格を実感する時、やっぱり自分達とは違う生き物なんだと、マミは悲しい気持ちになってしまう。
「まぁいいわ。それじゃ、帰りましょうか」
諦めたように嘆息するマミ。そのまま歩き出した彼女の後ろを、キュゥべえが走ってついて行く。
『今日も病院に行くのかい?』
「そうね。まだ早いし、アイに会って行こうかしら」
およそ三週間前に退院したマミは、現在、親戚が用意してくれたマンションに一人で住んでいる。そこから学校に通い、放課後には魔女を探す生活を続けていた。お蔭ですっかり友達付き合いが悪くなってしまったが、未だにアイとは頻繁に会っている。三日に一度は病院に足を運び、アイの病室や談話室などで話すのだ。マミがそんな事をする相手は、今やアイだけになっていた。
認識の問題だと、マミ自身は考えている。巴マミという少女の人生は、ある日を境に二つに別れた。そう、彼女がキュゥべえと出会った日の事だ。魔法少女になった自分は、もはや以前の巴マミではない。そう認識しているからこそ、マミは昔からの友達に違和感を覚えていた。彼女らは”昔の”マミの友達であり、”今の”マミの友達ではない。そんな風に、マミは感じてしまうのだ。
だから”今の”マミにとって、本当の友達はアイとキュゥべえだけだ。申し訳ないとは思いつつも、それがマミの本心だった。
『あぁ、そうだ。僕はそろそろ新しい魔法少女を探しに行く事にするよ』
「えっ?」
なんでもない事のように告げられたキュゥべえの言葉が、マミの足を縫い付ける。
「そ、それって…………どういう事かしら?」
『この一ヶ月、僕はマミと共に居た。それは君が、魔法少女として十分な実力をつけるまでサポートする為だ。君はもう一人前の魔法少女になって、僕の手助けも要らなくなった。だから新たに契約してくれる女の子を探しに行くわけさ』
立ち止まったマミの耳を、容赦無くキュゥべえの声が揺さぶった。
話の内容を、マミは理解出来ない。否、理解したくない。だって、そうだ。今の彼女は友達が少なくて、特に魔法少女の事を話せる相手はキュゥべえしか居ない。そのキュゥべえが居なくなったら、魔女との戦いは完全に孤独なものになってしまう。
嫌だ、とマミの心が叫ぶ。孤独は嫌だと、彼女は胸元を握り締めた。
何か言いたい。だけどキュゥべえの言葉は正論で、間違いなんて欠片も無かった。そして自分が泣き付いたところで、キュゥべえは絶対に絆されないだろうと、マミは嫌というほど分かっていた。キュゥべえを説得するなら論理的な説明が必要だ。
「……そういえば」
ふとある事を思い付き、マミが呟く。それはおそらく、悪魔の囁きと言うべきものだ。だけど考え始めれば止まらないし、止められない。一度でも思考の端に上ってしまえば、他の事など考えらなくなった。
コクリと、細い喉が鳴る。マミは静かに、友達であるアイの事を思い浮かべた。
絵本アイは、マミの大切な友達だ。明るく社交的で、たまに変な所もあるけれど、マミは彼女との関係を大事にしていた。そんなアイの抱える問題と言えば、やはり病弱な点が挙げられる。あの病室こそが我が家だと冗談を飛ばす彼女は、碌に学校にも通えていない。快方の見込みも少なく、現状では”奇跡”でも起きない限り一生このままだという話だ。
だから。そう、だから――――――奇跡を起こしてしまえばいい。
「ねぇ、キュゥべえ。もし……もしもの話よ? もしもアイが奇跡を願ったら、彼女は魔法少女になれるの?」
マミにとってそれは、とても素敵な提案のように感じられた。アイは健康体になるし、魔法少女になっても、マミが居れば一人じゃない。二人で頑張れば、魔女との戦いだって怖くない。それにアイが魔法少女になれば、また暫くはキュゥべえと一緒に居られるのだ。
良い事尽くめだった。これ以上無いくらいの解決法だとマミは思った。期待に胸が膨らみ、自然と鼓動が速くなる。キュゥべえを見詰めるマミの瞳には、火傷しそうなほどの熱意が籠められていた。
「教えて、キュゥべえ」
『そうだね……まぁ、不可能ではないよ』
俄かにマミの表情が明るくなる。そこには溢れんばかりの希望が満ちていた。
『だけどオススメはしない。絵本アイは魔法少女としての素養が低いんだ。まともに運動をした経験がほとんど無いという話だし、魔女との戦いになれば高確率で命を落とすだろう。たとえ君が一緒に居てもね』
報告書でも読み上げるかのようなキュゥべえの声。そこに嘘が無い事を、マミは経験から知っていた。キュゥべえはいつだって事実だけを述べるのだ。だからアイが死ぬという推測も、十分に可能性のある話なのだと信じられる。
だけどマミは諦めきれない。ほとんど反射的に、彼女は否定の言葉を口にしていた。
「で、でもっ」
『マミ。僕は君達を死なせる為に契約しているわけじゃないんだ。君だって友達を死なせたくはないだろう?』
紅玉を思わせる二つの瞳に見返され、マミは何も言えなくなった。肩を落としてうなだれる彼女からは、先程までの輝きは感じられない。何度か口を開こうとして、それでも開けなくて、結局マミは、黙ったまま歩みを再開した。
足取り重く、気分も重く、マミは街中を進んでいく。胸の裡には未だ燻ぶる願望と、強い自己嫌悪が渦巻いていた。
たぶん調子に乗っていたのだと、マミは思う。初めての実戦以来、順調に魔女を倒し続けてきた。最近では苦戦らしい苦戦も無く、素早く戦闘を終える事が出来ている。だからいつの間にか彼女は、殺し合いをしているという意識に欠けていたのだ。
命を落とすかもしれない戦いに、マミは大切な友達を巻き込もうとした。対価として奇跡を起こせるとはいえ、それはやっぱり酷い事だ。アイに対する申し訳なさがドンドン溢れてきて、マミは感情の行き場を見失ってしまう。
だがそれでも――――――――それでもマミの足は、引き寄せられるように病院へと向かっていた。
◆
「なんだか元気が無いねぇ」
訪ねてきたマミを見て、アイが最初に漏らした言葉だ。いつも通りベッドの上に陣取った彼女は、両手で顎を支えたまま、入り口のマミを眺めている。黒い瞳には少しの興味。しかし表面上はどうでもよさげに、アイはおどけた調子で言葉を続けた。
「ボクみたいな顔色してるぜ」
アイが皮肉げに口元を歪めれば、マミは悲しそうに顔を歪めた。躊躇いがちに足を進め、マミは定位置となった安楽椅子に腰掛ける。椅子の揺れに合わせて、蜂蜜色の巻き髪が揺れた。そして愛らしい面立ちもまた、思案げに揺れている。
何かある。誰の目にも明らかなマミの態度は、友達のアイにとってはより歴然だ。しかし話を切り出す切っ掛けを探しているように見えるマミに気付きながらも、アイは気にする事無く問い掛けた。
「悩みがあるんだね? なら話してごらんなさい。大丈夫。ボクが頼りないのは、この病弱ボディくらいなもんさ」
なんてアイが嘯いてみても、マミの雰囲気はちっとも和らがない。物憂げな視線をアイに遣り、自らの頬に手を当てたかと思えば、マミは小さく嘆息してみせた。あんまりな友達の反応に、アイがションボリと肩を落とす。
暫し、部屋の中に静寂が訪れた。相変わらず口を開こうとしないマミを観察しつつ、アイは枕を弄って暇を潰す。お気に入りの低反発枕をグニグニ揉んだり、両手で挟んで回したりと、彼女は幼子みたいに遊び続ける。その内それが楽しくなって、アイは状況も忘れて熱中し始めた。一方のマミはと言えば、相変わらずの思案顔。お蔭で病室にはなんとも言えない空間が出来上がった。
「……ちょっと、あなたに聞きたい事があるの」
時計の秒針が何周かした頃、マミがポツリと呟いた。その声を聞き、枕と格闘していたアイが顔を上げる。二人の目が合い、見詰め合う。マミは怖いくらい真剣な表情をしていて、自然とアイの気持ちも引き締まる。
「病気を治して、健康な体になりたいと思う?」
アイの虚を衝く質問だった。アイの事情を知って以来、マミがこの手の話題を振ってきた事は無い。当然だろう。治る見込みの少ない者にとっては、慰めどころか嫌味にしかならないのだから。それを察するほどには、マミは聡い少女だ。
故にこの問い掛けは、かなりの決意を伴ったものだろう。だからアイも、ちゃんと考えて答えを返す。
「んー。治るなら治った方が良いかな。だってお金が掛かるじゃん。けどまぁ、それを除けばどっちでもいいよ」
両腕を組み、もっともらしく頷アイく。その対応が気に入らなかった事は、マミの顔からすぐ読み取れる。
「ど、どうしてっ」
「オイオイお友達、そりゃないぜ。これまでボクの何を見てたって言うのさ。毎日楽しく、いつでも愉快に、ボクは充実した人生を送ってるつもりだぜ。アレをするなコレを食べるなっていうのはさ、ボクにとっては所詮いつも通りに過ぎないんだ」
肩を竦めてアイが答える。口元に笑みを刻んだ彼女は、悲壮さの欠片すら感じさせない。
「運動しないヤツ。勉強しないヤツ。恋愛しないヤツ。人生には色んな選択肢があるけど、実際に選ばれるのはごく僅かだ。たしかにボクの選択肢は限られてるけど、それでも人生を楽しむには十分さ。今更別の可能性を与えられたところで、ボクにとっては贅肉に過ぎないよ」
強がりである事を、アイは否定しない。治った方が良いに決まっている。だからこれはアイの意地だ。誇りと言っても良いかもしれない。完治の見込みが少ないからこそ、好き勝手に出来る人生ではないからこそ、アイは悲観的に生きる事が嫌だった。悲しまれる事も嫌だった。限られた人生だからこそ、それを十分に謳歌する。ずっと前から、彼女はそう心に決めていた。
何か言いたそうにしながらも、マミは口を開く事が出来なかった。ただ俯き、彼女はギュッと手を握る。
アイは何も言わない。当人以外が納得するには、少々時間が掛かる話だと理解しているからだ。彼女は枕を抱っこしたまま、マミが整理し終えるのを待つ。余計な事は何もせず、穏やかな雰囲気を漂わせて、アイは友達を眺めていた。
「ごめんなさい」
唐突なマミの謝罪。蜂蜜色の瞳は、変わらず下を向いていた。
「意味がわからないな。心配されたら嬉しい。ボクはそういう感性の持ち主なんだよね」
「それでも、ごめんなさい」
「気にしないでよ。ボクみたいなヤツを見れば、誰でも一度は考える事さ」
「……それでも、よ」
アイの口がヘの字に曲がる。むぅと唸り、彼女は抱えた枕を折り曲げた。
今日のマミはなんだか頑固で、アイとしても戸惑いを隠せない。そもそもアイにとって、この問題は大して深刻なものではなかった。大体マミがここまで自責の念に駆られる理由が、彼女には分からない。たしかに無遠慮な質問だったかもしれないが、当人であるアイが気にしていない以上、マミが重く捉える必要も無い。実際、普段の彼女なら既に立ち直っているはずだ。
だがいくらアイが悩んでみても、答えは一向に出てこない。思い当たる節も無い。つまり原因は、アイの与り知らない所にある訳だ。
「ま、いいけどね。反省するのは悪くないし」
結局アイは、考えるのを止めた。無駄に悩んでも事態は好転しない事を、彼女はよく知っている。
さて別の話題に移ろうかとアイが口を開こうとしたその時、マミが先んじて声を上げた。
「あのね、アイ」
「なにかな、マミ」
刹那の沈黙。だがすぐにマミは話し始めた。
「最近の私は幸せだった。幸せ過ぎた。それがいけなかったと思うの」
マミの頭が可笑しくなった。一瞬、アイは本気でそんな事を考える。だってそうとしか思えなかった。幸せ過ぎたから駄目だなんて、何故そんな結論が飛び出てきたのか、アイには皆目見当もつかない。
一体マミに何があったのか。先程は無視した疑問が、再びアイの中で首をもたげた。
「だからここには、暫く来ないつもり」
「……は?」
ポカンと、間抜けに開いたアイの口。
「ちゃんと頭が冷えたらまた来るわ」
「え? ちょっと、マミ!?」
いきなり立ち上がり、マミは入り口の方に歩き出す。アイが手を伸ばしても止まる事無く、彼女の背中は遠ざかっていく。混乱した頭では適切な言葉が浮かぶはずもなく、アイは只々見送る事しか出来なかった。
「またね、アイ」
「あ……」
最後に振り返り、それからマミは、扉を開けて病室を去っていく。その瞬間まで、アイは腕を伸ばした姿勢で固まっていた。
部屋の中に静寂が戻り、アイは落ち込んだ様子で嘆息する。まったくもって訳が分からなかった。状況に理解が追い付かない。一体マミの頭ではどんな化学反応が起きたというのか、アイには予想もつかなかった。
「一体なんだっていうのさ」
疲れた声が、広い病室に虚しく響く。
◆
マミが病院を訪ねなくなってから二週間が過ぎた。案外すぐにまた遊びに来るんじゃないかと期待していたアイは、当てが外れてガッカリしている。いつも以上に病室から出なくなった彼女は、ダメ人間そのままといった態度で、ダラダラとベッドに寝転びながら本を読み続けていた。お蔭でベッドの周りには、数えるのも億劫になるほどの本の山が積み上げられている状態だ。
「だうー」
横になったまま伸びをしたアイが、気の抜けた声を出す。真っ白なシーツの上には本が散乱し、彼女の矮躯を半ば埋もれさせていた。その中から適当な一冊を手に取ったアイは、パラパラとページを捲っていく。だがそれもすぐにやめて、彼女は眠たそうに目を擦る。
趣味の読書も気が入らず、近頃のアイはすっかり腑抜けていた。別にマミと会えない事自体は、彼女も大して気にしていない。気に掛かるのはマミが会おうとしない理由だ。最後に交わした会話の意味が未だに分からず、アイの心に影を落としていた。マミは性根の素直な女の子だ。だからその真意が見えないというのは、アイにとって些か気味の悪い事だった。
「最近ダラけ過ぎだ。看護師も困ってるぞ」
飛んできた声の主を探せば、そこには雅人が立っていた。その姿を捉えたアイは、ノロノロと面倒臭そうに体を起こす。ベッドに腰掛けた彼女は、寝惚け眼のまま前後に船を漕ぐ。今にも目蓋が落ちそうな様子だが、彼女はどうにか口を開いた。
「むー。なにか用?」
「暇ができたから顔を見に来た。まったく、今より体力が落ちたらどうするんだ」
ベッドの傍に立ち、雅人はアイの頭に手を置いた。そのまま軽く撫で始めた彼は、上を向いたアイの顔を覗き込む。
「ふむ。特に顔色は悪くなさそうだな。普段と同じ蒼白だ」
「ちゃんと診察は受けてるよ。薬も欠かしてないし、食事だって残してない」
大人しく頭を撫でられながらも、アイは不満げに口を尖らせる。だが特に言葉を続ける事も無く、彼女は小さく欠伸した。
「いつもの生意気さが足りんな」
「……今日は子供扱いするねぇ」
頭に乗った手をはたき落とし、眠気を払うようにかぶりを振るアイ。そんな彼女を見て、雅人は低く笑った。
なんだか調子が悪いと、アイは不貞腐れる。上手く頭が回らないというか、気持ちがノらないのだ。どうにかしたいが、今のアイには良い解決策が思い浮かばない。そうして唸りながら雅人を睨んでいた彼女は、ふと何かに気付いたように手を叩いた。
「そうそう、欲しい本があるんだよね」
「いつも通り勝手に注文すればいいだろう。何が欲しいんだ?」
アイはニコリと微笑んだ。
「エロ本ちょーだい」
空気が固まった。雅人は凍った。痛いほどの静けさが支配する中で、アイだけが童女のように笑っている。
「エロ本が欲しいんだ。金髪縦ロールの美少女が、すっごいアレなコトされるヤツ」
「な、な……何を言っとるんだ!」
雅人の怒鳴り声が木霊する。しかし馬耳東風と言うべきか、アイは微塵も気にした様子が無い。大袈裟に肩を竦めた彼女は、呆れたとばかりに息を吐く。そして急に表情を引き締めたかと思うと、アイは真面目くさった声で反論した。
「子供じゃないんだ。ボクだってオナニーくらい知っているとも」
「お前はまず恥を知れ! このバカッ!!」
顔を真っ赤にして起こる雅人を無視して、アイはケタケタと笑い声を上げた。それを見た雅人が拳を震わせ、歯を食い縛る。怒り心頭に発するといった様子の雅人だが、アイの余裕は崩れない。そうして必死に怒りを堪えていた雅人は、しかしふと表情を緩めて苦笑を刻んだ。
「ま、少しはマシになったようだな」
「…………なんだかなぁ。大人ってズルいよね」
毒気を抜かれたと、アイが肩を落とす。ベッドの上で膝を抱え、彼女は頬を膨らせる。
こんな時、自分はまだまだ子供なんだと、アイは実感させられる。大人は凄い。耐える事に慣れていて、受け流すのも上手い。特にアイの周りに居る大人は余裕がある人達ばかりだ。医師や看護師という職業柄の所為か、ちょっとやそっとでは動じてくれない。アイ自身もそういった面ではそれなりに自信があるが、時にやり込められてしまう事実は否めなかった。
「とりあえず、こんな冗談は二度と言うな。頭が真っ白になったぞ」
コツンと頭を叩かれたアイが、小さく頷く。
「それで、例の友達とはまだ仲直りできてないのか?」
「別に喧嘩してるわけじゃないけどね。まぁ、二週間くらい会ってないよ」
雅人はそうか、とだけ答える。温かな視線はアイに続きを促していた。
「気に食わないのはさ、理由が全然見えてこないこと。どんなに頭を絞ってもこの状況と結びつかないんだ。それがムカつくし、イラつく。隠し事があるのは分かる。話し辛いのも理解できる。けど話してほしい。そうすればボクなら、きっと解決してみせる」
「自信家だな。いつもの事だが、感心するよ」
アイが鼻を鳴らす。それから呆れ顔の雅人を睨んだかと思うと、彼女はすぐにソッポを向いた
「強がりに決まってるでしょ」
小さく、それでいて芯の通った声だった。
「ボクには力が無い。立場も無い。有るのは言葉だけだ。だったらそれを使うしかないじゃないか。磨くしかないじゃないか。ボクはこんな体で、不器用で、何をやっても人並み以下だけど、言葉だけは自由にできる。誰かを喜ばせる事だって、できるんだからさ」
絵本アイは頭が良い。しかし彼女はそれだけだ。体は病弱で、手先は不器用。音楽などの特別な才能だって欠片も無い。故にアイは無能な人間だ。少なくとも本人はそう捉えている。せめて学校に通えていれば違ったのだろうが、病院に籠ったままの彼女にとって、ちょっと賢しい程度の頭脳は無価値だった。
助けられるしか能が無い。アイはそんな自分が嫌いだった。だから出来の良い頭で考えた。熱が出るほど考えた。誰かを助けられる人間になりたくて、彼女はとにかく考えた。そうして悩み抜いた末の結論が、言葉を上手く使う事だ。
人間は強い。アイから見ても不幸としか言えないような状況でも、笑って日々を過ごす人が居る。それは何故か。別に病気が治った訳ではないし、怪我が治った訳でもない。あえて言うなら心が治ったのだ。大事なのは心の在り方で、心に余裕があれば逆境でも潰れる事が無い。そして言葉なら、人の心に直接届く。アイでも使えて、アイでも助けられる。彼女はそう考えたのだ。
「弱音は吐かないし、不安も口にしない。それは周りに心配させるから。強気は見せるし、自信は表す。それなら周りも安心するから」
そこで一旦言葉を止めて、アイは雅人を見上げる。彼の鋭い瞳には、只々真剣な光が宿っていた。
アイにとっては口が滑ったようなものだ。これまで誰にも話した事は無かったし、これからも話すつもりは無かった。それを雅人に聞かせたのは、アイ自身が感じていた以上に苛立ちが溜まっていた所為だろう。だからそれを、伯父である彼に吐き出したのだ。
甘えている。かつてアイが口にしたそれに嘘は無い。言葉では消せない血縁という関係を、彼女はそれなり以上に大事にしていた。事実、こんな話を真面目に聞いてくれる雅人の姿を見ると、伝えて正解だったとアイは思う。
だからアイは、もう少し自分語りを続ける事にした。
「ボクがマミを気に入ってるのはさ、あの子が弱いからなんだ。体は強いし、運動もできるけど、心だけはとても弱い。物事を真面目に捉え過ぎるし、考え過ぎる。力を抜くのは下手な癖に、自分を責めるのは妙に上手い。そんなあの子が、ボクは大好きだ」
マミと初めて会った時、アイは一目で彼女を気に入った。弱々しくてオドオドしてて、今にも溺れ死にそうな感じが好きになった。だからアイは、彼女に手を差し伸べたのだ。救ってあげたくて、笑わせてみたくて、彼女と友達になったのだ。
巴マミは絵本アイを憐れんでいる。それと同じように、絵本アイも巴マミを憐れんでいる。互いに互いを憐れんでいて、互いが互いを支えようとしている。一見すれば美しく、その実どこか歪んだ関係が、彼女ら二人の友情だった。
「助けてあげたい。いや、もっと上から目線で”助けさせろ”かな。うん、ボクがマミに感じてるのはそういう気持ち。だからイライラするんだね。ボクの知らないトコで勝手に悩んでんじゃねぇ、って感じでさ」
納得したと、アイは一人で頷きを繰り返す。胸のつかえが下りたのか、その表情は幾分柔らかだ。
「……はぁ。色々と言ってやりたいが、いい言葉が浮かばん」
「勉強不足だね、お医者さんなのに」
「俺の専門は外科なんだよ」
雅人が盛大に溜め息をついた。皺の目立ち始めた顔には疲れが滲み、やり切れなさが溢れている。
「ま、ボクの話を聞いてくれてありがと。ちょっとは気が楽になったよ」
「それはようございましたね」
投げ遣りに返す雅人。ただその目には、心配と安堵が覗いていた。それに気付いたアイの雰囲気が、ますます楽しそうなものへと変わる。ありがとうとごめんなさい。二つの気持ちを胸に抱いて、彼女は伯父と向かい合う。
「先に言っておくよ。ごめんね」
怪訝そうにする伯父に、アイは静かに微笑む。優しくも、どこか嗜虐的な表情だ。
「会って、話して、笑い合う。結局ボクにはそれしかないのさ」
最後にアイが告げたのは、たったそれだけの言葉だった。
◆
「もう二週間も経つのね……」
誰にも届かない呟きが、ビルの谷間に消えていく。発したのはマミだ。日の当たらない裏路地から姿を現した彼女は、そのまま人の流れに紛れていった。夕焼けに染まる大通り。同じ学校の生徒もチラホラ見掛けるその場所を、マミは一人で進んでいく。
二週間。それはマミがアイと会わなくなってからの時間だ。同時に、キュゥべえと別れてからの時間でもある。以来彼女は、放課後の街を一人で彷徨いながら、日々魔女退治に勤しんでいる。その間に起こった戦闘は十回。手に入れたグリーフシードは七個。順調と言えるだけの成果が出ているが、マミは素直に喜べなかった。
一人は寂しい。この二週間を振り返っても、マミはそんな感想しか浮かばない。アイと会えなくて、キュゥべえも居なくて、たった一人で魔女と戦い続けるのは、やっぱり心が冷えてしまう。だがそう感じる事こそが、マミにとっては罪なのだ。
寂しかったから、マミは友達を魔法少女にしようと考えた。馬鹿な思い付きだったと、今でも彼女は反省し続けている。アイが命を落とす確率が高いと注意されながら、マミは自らの感情を優先したのだ。人々を守る魔法少女としては失格だった。何よりアイ自身が奇跡を必要としていなくて、余計なお世話だったと思い知らされた事が大きい。
だからこの寂しさを振り切らなければいけない。マミはそう決意していた。
「……まだ会えない。会っちゃいけない」
小さな声で繰り返し、マミは鞄を持つ手に力を籠める。その間も足は動き、彼女はマンションのエントランスに進入した。慣れた足取りでエレベーター前に辿り着き、立ち止まってボタンを押す。エレベーターの到着を待つ間も、マミの思考は止まらなかった。
あるいはこのまま、アイと会う機会を減らしていった方が良いのかもしれない。近頃のマミは、そんな事も考えるようになった。また変な考えを起こさないように、魔法少女という秘密を隠し続ける為に、友達付き合いは少ない方が良い。それが正しい魔法少女の在り方なのではないかと、マミは思う時がある。
「そうよね。本当は、そうした方がいいのよね」
下りてきたエレベーターに乗り込み、嘆息するマミ。機械的に自室がある階のボタンを押しながらも、彼女は上の空で考え事だ。
マミには自負がある。正義の魔法少女としての誇りだ。だからそれさえ失くさなければ、友達に会えなくても問題無い。本心では大丈夫だなんて欠片も思っていない癖に、彼女はそんな強がりをやめようとはしなかった。
だって、そうだ。巴マミは魔法少女だ。強くて格好良くて、誰にも恥じない存在でなければいけない。弱音なんて吐けないし、弱みなんて見せられない。そんな強迫観念にも似た想いを、マミはその胸に抱いていた。
エレベーターを降りたマミは、真っ直ぐに自分の部屋へ向かう。一人分の足音が通路に響き、彼女の後をついて行く。二週間前までは一緒だったキュゥべえも、今では影すら見る事が無い。
俯いて歩くマミの表情は、影となってよく分からない。ただ彼女の足取りは、決して軽いとは言えなかった。静かに、ゆっくりと、マミは自室を目指す。その途中、彼女は不意に顔を上げた。特に理由は無く、本当にふと、そうした方が良い気がしたのだ。
鞄の落ちる音が、通路に響き渡る。
「なん、で……」
桜色の唇から漏れた、掠れた声。信じられないと見開かれた、蜂蜜色の瞳。只々呆然と、マミは立ち尽くす。
理解出来なかった。意味が分からなかった。視界に映る光景を、マミは信じる事が出来なかった。
「ひさしぶりだね、お友達」
手を振って笑みを浮かべるのは、マミが久しく会わなかった友達だ。その格好は見慣れた入院着ではなく、初めて目にする私服姿だった。水色の花をあしらった白く清楚なチュニックワンピースに、桜色のコットンカーディガン。明るく愛らしいその着こなしは、彼女の雰囲気をまったくの別物に変えている。普段はまさしく病弱少女という印象の彼女が、今は可憐な美少女然としていた。
絵本アイ。待ち構えていた少女の名に確信を持ちながらも、マミは違和感を覚えずにはいられなかった。
「会いに来ちゃった」
頬を染めたアイが舌を出す。恋人気取りとでも言いたげなおどけた調子は、まさしく彼女のもの。お蔭でマミも、ようやく再起動だ。まだ若干の戸惑いを残しながら、彼女はアイを目を合わせた。アイの黒い瞳は、いつも通り弾けんばかりの生気に溢れている。
「アイ……なの?」
「大正解。愛しのアイちゃんさ。抱き締めてくれてもいいんだぜ」
おもむろに両腕を広げるアイは無視。マミはまず、浮かんだ疑問を投げ掛けた。
「どうやってここに来たの? 入院してたんじゃないの?」
「一つ目は住所を当てにGPS頼りで。二つ目は、うん。抜け出してきた」
事も無げに返すアイ。だがその内容は、到底看過して良いものではない。
「――ッ。あなた病人でしょ!」
「病弱なだけだよ」
「一緒じゃないの!!」
マミの怒鳴り声も効果は無い。知らぬ存ぜぬ。ボクには関係ございません、とばかりにアイは肩を竦めた。それが一層腹立たしくて、マミの頭に血が昇る。顔を真っ赤にした彼女の拳は、怒りのあまりわなないていた。
だって、そうだ。アイは体が弱くて、一年のほとんどを病院で過ごしているような少女だ。外出するにも面倒な手続きが必要で、外泊するのは年に数えるほど。それは他ならぬアイ自身の言葉であり、だからこそマミは心配で堪らなかった。
赤い顔をしたアイが憎たらしい。人の気持ちも知らない彼女が恨めしい。そんな感情から再び声を張り上げようとしたマミは、その直前でアイの可笑しさに気付く。今日の彼女は、あまりに血色が良過ぎるのだ。
絵本アイは病弱だ。その顔色は常に幽鬼の如く青白くて、赤い顔をしたアイの姿を、マミは一度として見た覚えが無い。けれど今の彼女は違う。まるで只人みたいに色付いた面立ちは、アイに限って言えば不安しか呼び起こさない。
「あはは。今日のマミは元気だね」
笑い声が反響する。二人だけの廊下に響き渡る。それが酷く不吉な音のように、マミには聞こえた。
予感が現実に変わる。あれほど健康的に見えたアイの顔は、血を抜かれたかの如く色を失い始め――――――、
「ゆっくり話したいところ、だけ……ど…………」
小さな体が、グラリと傾いた。表情は変わらないのに、まだ笑っているのに、アイは徐々に倒れていく。時の流れが遅くなったかのようにマミは感じた。水の中を進むみたいに全てがゆっくりで、マミに見せつけるかの如く緩慢だ。
ゴメンと、マミはそんな声を聞いた気がした。
◆
沈む、沈む、グルグル沈む。海の底へと、闇の果てへと、アイの意識が沈んでいく。誰の助けも無い。微かな光も無い。苦痛も無ければ、苦悶も無い。ただ沈む。沈んでいく。二度と這い上がれない果ての果てまで、アイの意識が引き摺り込まれる。
いつの頃からか、アイは意識を失う度にこの夢を見るようになった。たぶん両親が死んでからだったと、アイは思う。そう、彼女の病気が治らないかもしれないと告げられた時から、この暗く寂しい世界が始まった。
面白味が無ければ味気も無い、機械的に死の淵へと引き寄せられる夢。それはきっと、アイの抱く恐れだ。別に死ぬのが怖い訳ではない。彼女はただ、何も出来ずに死んでしまうのが怖いのだ。役立たずで終わる人生を、アイは何より恐れていた。
でも、とアイは自問する。沈みゆく意識の中で、彼女は一人の少女を思い浮かべた。
巴マミ。少し前に知り合った彼女は、アイにとって久し振りに出来た新しい友達だ。アイと違って体は強いのに、心がとても弱い女の子。不安がりな彼女を安心させる事が、最近のアイの楽しみだ。誰かの役に立てている。マミと話す時、アイにはそんな充足感があった。
だからこんな夢は馬鹿馬鹿しい。こんな弱さは笑い飛ばせと、曖昧な思考でアイは誓った。
不意に辺りが明るくなる。それは覚醒の合図だった。アイの意識が肉付けされ、徐々に感覚が戻ってくる。呼吸が、視界が、脈動が彼女の世界に蘇る。そうして”生き返った”アイは、重い目蓋を少しずつ開いていった。
最初にぼやけた景色が目に入り、直後に彼女は人影の存在に気付く。ゆっくりと視界が明瞭になっていき、人影の正体も判明する。
「……あー、うん。ここはマミが看病してる場面だと思うんだよ。そう、オジさんじゃなくてさ」
はたしてアイの視界には、仏頂面をした雅人が映っていた。普段と同じく白衣を来た伯父が、椅子に座って腕を組んでいる。アイが起きた事に気付いた彼は、すぐさま目を吊り上げた。
「このバカッ!! 少しは反省しろ!」
頭に響く怒鳴り声に、アイはこめかみを押さえて蹲った。
「おおう。起きた直後にこれは辛いよ」
「自業自得だっ。それで、どこかおかしな所はあるか?」
「む……特に違和感は無いよ」
アイが答えると、雅人は安堵の息を吐いた。次いで目元を緩めた彼は、疲れた様子で肩を落とす。
「手術を終えたらお前が消えたと聞くし、その次は救急車で運ばれてくるし――――――本当に胆が冷えたんだぞ」
「ん。ごめんなさい」
頭を下げ、素直に謝る。それが出来ないほど、アイは捻くれた性格をしている訳ではなかった。何より初めから分かっていた事だ。周りに心配を掛ける事も、それがいけないコトだという事も、アイは理解した上で行動した。だから行動を終えた今、彼女はみんなに謝らなければいけないのだ。ついでに二度としないよう誓わされるだろうが、アイ自身も同じ事を繰り返すつもりは無かった。
「まったく。外出許可くらい暫く待てば下りるだろ」
「即断即決即行動。今回は少しでも早くマミと会いたかったんだよ」
「それでもだ。あの子も随分と心配していた。面会時間はどうにかするから、診察が終わったら会ってあげろよ」
「もちろんだよ。その為に病院を抜け出したんだしね」
微妙な表情をした雅人は、けれど何も言う事無く立ち上がった。白衣の裾を翻し、彼は扉に向かって歩き出す。
「あれ、もう行くの?」
「空いた時間に来ただけだからな。すぐに高橋先生が来るだろうから、大人しくしてるんだぞ」
最後にアイの主治医の名を口にして、雅人は病室から出て行った。ベッドの上からその背中を見送ったアイは、閉まる扉を確認してから、窓の外を見てソッと息をつく。青白い顔に憂いを滲ませた彼女の瞳には、ある種の決意にも似た何かが宿っている。
たくさんの人に迷惑を掛けた。心配を掛けた。手間を掛けさせた。それが分からないアイではないけれど、彼女は欠片も後悔していない。こうしてベッドに臥している事まで含めて、アイにとっては想定の範囲内の出来事だった。
「だって無茶をすれば、優しいマミは話してくれる。隠し事なんて、二度としなくなるかもしれないじゃないか」
抑揚の無い声が、夜の闇に吸い込まれていった。
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数日は検査漬けだとか、またこんな事をしたら縛り付けるとか、当分は監視してやるとか、そんな津波の如き主治医のお小言をアイが聞き終える頃には、夜もかなり更けていた。窓の向こうに覗く月は随分と高くなっていて、普段のアイであれば、あとは読書で暇を潰すくらいしかやる事が無い時刻だ。
しかし今夜は違う。アイの病室には友達であるマミが居て、なんだかお泊りみたいだと、アイは密かに気分を盛り上げていた。もっともそんなのはアイに限った話で、泣き腫らして両目を赤くしたマミには関係無い。いつもの安楽椅子に座ったマミは、ちっとも安らげていない顔をしていて、その潤んだ瞳は恨めしげにアイを睨んでいる。
ジッと、無言でアイを見詰めるマミ。言葉は無くとも、そこには万感の想いが籠められていた。
「やー、大丈夫だと思ったんだけど、暫く碌に運動してなかった事を忘れててさ。ウッカリ倒れちゃったよ。あはは……は……」
冗談めかして喋っていたアイの声が、尻すぼみに小さくなっていく。アイが浮かべるのは引き攣り笑いだ。まるで反応してくれないマミが相手では、流石の彼女も参ってしまう。誤魔化すように頬を掻きながら、アイは明後日の方向に視線を逃がした。
沈黙が部屋を支配する。気まずさと痛々しさが辺りに満ち、アイは目を迷子にしながら言葉を探していた。ある程度はアイが予定していた通りの状況だ。マミに心配させて、二度と無茶をしないと約束する代わりに話を聞き出す。そんな風に、アイは自分自身を人質に取るつもりだった。けれど思った以上にマミの反応が過剰で、アイとしても攻めるに攻めれない状態だ。
「ごめんなさい」
震えた声が空気を裂く。アイの発言ではなく、俯くマミが発したものだった。
「会いに来なくてごめんなさい。寂しい思いをさせてごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――ッ!」
謝って、謝って、遂にはボロボロと涙を流し始めたマミを、アイが呆然と見詰めている。
アイには意味が分からなかった。いや、意味は分かってもそこに至る過程が分からなかった。もし謝る必要があるとすれば、それはアイの方だ。絶対にマミではない。だけど現実にはマミが顔を歪めて、必死に許しを乞うている。自身の心にナイフを突き立て、傷付け、それでも彼女はアイの事だけを心配していた。責任なんて欠片も無いのに、マミは自分だけを責めるのだ。
ここまで追い詰めるつもりじゃなかった。悩みがあるなら解決して、笑わせてあげるつもりだった。なんて言い訳じみた考えが浮かんで、アイは血が滲むほど唇を噛み締める。それは弱い言葉だ。弱い言葉は、絵本アイには要らない。
「謝らなくていい! 悪いのはボクだ。マミが謝る理由なんて一つも無い!!」
「ううんっ。私が馬鹿な事で悩むから、あなたを傷付けたのよ」
傷付いてなんかいない。そう反論しようとしたアイは、それはマミを傷付けると口を噤んだ。
もどかしさが胸を焼く。言うべき言葉が見付けられなくて、アイはそんな自分が苛立たしかった。言葉しかないのに。絵本アイの取り柄はくだらない言葉を弄する事しかないというのに、こんな時に限って役に立たない。慰めたくても慰められない。
真っ赤な両目に濡れた頬。マミの相貌は後悔に染まっていて、それがアイには歯痒かった。だから彼女は考える。頭痛がしそうなくらい、知恵熱が出そうなくらい考える。悩んで悩んで悩み続けて、それでもアイは答えを出せなくて、苛立ちばかりが増していく。何一つ言えないけれど、何か言わなくてはと焦りが募る。彼女の頭は、今にもパンクしそうだった。
「……ありがとう」
マミが目を丸くする。それはアイも変わらない。アイの意図したものではないのに、何故か口が止まらなかった。
「ありがとうって、思ってる。心配してくれてありがとうって、伝えたい。だから、だから――――ッ」
それはたぶん本心で、それはきっと本音だった。だからこんな気持ちになるのだとアイは気付いてしまう。切なくて苦しくて、自分の感情が分からなくなるくらい胸が一杯になるのは、そこに不純物が無いからだと彼女は理解した。
「謝らないでよ。謝られたら…………悲しいじゃないか」
アイの頬を雫が伝う。次々と涙が溢れて、途端に彼女の視界はぼやけ始めた。その様を、マミが息を呑んで見守っている。
綺麗事は吐く。嘘もつく。お茶濁しのその場凌ぎだって口にする。普通の人でもやっているそれらの事を、アイはより有意的かつ日常的に行ってきた。だけどそれは悪意によるものではなくて、ただお互いに笑って過ごせるようにと願っての事だ。怒らせる時も心配させる時も、後で必ずプラスに変わると考えているから、アイは自信を持って行動出来る。
だからこんな風に謝られると、アイはとても困ってしまう。マミが謝るのは、アイを大切に思う気持ちがあってこそだ。それはとても嬉しくて、喜ばしくて、けどそれ故にアイは、マミを傷付ける自分が嫌になる。
「友達には、笑顔でいてほしいんだ」
捻くれているけど、捩じくれているけど、アイが抱く友情は本物だ。マミに笑ってほしい、喜んでほしい。その気持ちに嘘は無い。今回の騒ぎの発端も、結局はマミが悩んでいる事実に我慢出来なくなったからだ。
「私こそ、ありがとう」
今度の感謝は、マミのもの。彼女はアイの手を取り、自らの胸元に導いた。
「こんなにも気に掛けてくれて、一人じゃないって教えてくれて――――――――本当にありがとう」
微笑むマミは、ビックリするくらい綺麗だった。一瞬だけ見惚れて、すぐにアイも笑顔で返す。
「あははっ」
「ふふふっ」
あどけない笑い声が響く。言葉は無くとも、二人の間にはたしかに通じるものがあった。互いに見詰め合い、そのまま静かに時が過ぎる。温かな空間がそこにはあった。ただ笑い合うだけの時間。たったそれだけの事なのに、それはとても心地良い。
「……ねぇ、アイ。私の話を聞いてくれる?」
穏やかなマミの問い掛け。アイの返答は、もちろん決まっていた。
-To be continued-