「勝ったぁー!」
広い病室に少女の声が響き渡る。溢れんばかりの喜びに満ちたそれは、さやかの口から発せられたものだ。両手を突き上げた彼女の前にはチェス盤があり、その向こうでは上体を起こした恭介が苦笑している。そしてそんな二人の様子を、アイは楽しそうに眺めていた。
さやかと恭介がチェスの対戦を始めてから、今日で三日目になる。負け続きで悔しいのか、連日お見舞いに訪れるさやかと恭介の対局数は日毎に増え、通算八局目となる今回、ようやくさやかは勝利を手にしたのだ。
「ま、勝ったと言ってもハンデ付きだけどね」
「ぐっ。水差さないでくださいよ」
喜びから一転、不満そうに口を尖らせ、さやかは隣のアイに顔を向ける。
「だって事実でしょ」
平然とアイが返せば、さやかは疲れたように嘆息した。それを見て、アイは口元に笑みを刻む。
実際、さやかと恭介の実力差はまだまだ大きい。今の対局も直感重視のさやかの攻め筋がたまたま上手く嵌まっただけで、再び対局すれば十中八九恭介が勝つように感じられた。偶然恭介の病室に遊びに来て、一局しか見ていないアイにも分かるその力量差は、対局しているさやか自身の方がよく理解しているだろう。
「どうする? もう一局やるかい?」
「今日はもう終わりっ。勝ち逃げよ、勝ち逃げ!」
拳を握ったさやかが力強く宣言する。ある意味潔いその姿に、アイも恭介も苦笑した。それからアイは、壁に掛けられた時計を確認する。少しばかり華美な装飾を施された時計の針は、もうすぐ午後の五時を指そうとしていた。
「そうだね。ちょうどいい時間だし、そろそろお暇しようか」
「あっ、そうですね。帰りましょう帰りましょう」
言うが早いか、さやかが荷物を持って立ち上がる。勝ち逃げ万歳といった調子で急ぐ彼女を見て、アイは呆れた様子で肩を竦めた。次いで椅子から立ち上がった彼女は、ベッドの上の恭介に声を掛けた。
「それじゃ、お邪魔しました。また来るよ」
「またね、恭介。次も負かしてやるから覚悟してろよー」
アイとさやかが挨拶すれば、恭介は笑顔で右手を振った。
「うん、また。あと次は負けないから」
恭介に向けて手を振り返し、アイ達は病室を後にする。廊下に出ると、窓の外の夕焼け空が目に映った。立ち並ぶビル群は朱に染められ、夜の訪れを予感させる。アイとさやかは一度だけ顔を見合わせ、それから並んで歩き始めた。
夕陽の射し込む廊下を進みながら、アイは隣のさやかに目線を移す。学校から直接やって来たのか、制服を着たままのさやかは、いつになく機嫌がよさそうだった。その口元は緩んでおり、放っておけば鼻歌が聞こえてきそうだ。
初めてチェスで勝ったから、という理由だけではないだろう。今日、初めてさやかと恭介が一緒に居る所を目撃したアイは、やはり二人は幼馴染みなのだと再認識していた。同時に、さやかが恭介に抱く好意も。
エレベーターの前で立ち止まったアイは、単なる雑談のようにさやかに言葉を投げ掛けた。
「さやかってさ、上条君の事が好きだよね?」
「あぁ、はい…………はいぃ!?」
勢いよくさやかが振り向いた。
「な、なに言ってるんですか!」
「んー、恋バナ?」
小首を傾げてアイが返せば、さやかは頬を薄く染める。そのまま特に反論もせず、さやかは口元をまごつかせて恨みがましそうな目をアイに向けた。あまりに分かり易いその反応に、アイは思わず苦笑する。
恭介と話すさやかを見ていれば、彼女が彼を好きな事はすぐに分かった。さやかが恭介に向ける視線には明らかな熱が籠っていたし、幼馴染みとしての気安さを感じさせる一方で、さやかは恭介に対して酷く緊張している時があったからだ。本人は隠しているつもりかもしれないが、おそらくさやかの友達も気付いているだろうとアイは考えていた。
「そ、そりゃ幼馴染みとしては好きですけど……」
到着したエレベーターに乗り込みながら、さやかが言い訳がましく呟く。
「異性としての話だよ。ところで、これ上りだけど乗ってよかったの?」
「え? って、あぁ!?」
慌てるさやかの隣で、アイが可笑しそうに笑い声を上げる。
怒る気力も湧かないのか、さやかは肩を落として溜め息をついた。
「はぁ。せっかくですから病室まで送りますよ」
「ありがと。で、話を戻してもいいのかな?」
「そっちはもう終わりです!」
恥ずかしそうに声を張り上げるさやかを見て、アイはまた笑う。ただ彼女がそれ以上の追及をする事は無く、タイミングよく開いた扉から軽い足取りで出ていった。その小さな背中を、さやかが急いで追いかける。
隣に並んださやかを仰ぎ見たアイは、その表情に気付いて目を細めた。なんとも表現し難い顔をしている。何かの決意を秘めているようでありながら、迷いが滲んでいるようでもあった。何か言葉を掛けるべきだろうかと考えたアイだが、肝心の内容が思い浮かばない。だから結局、彼女は黙って歩き続ける事しか出来なかった。
ほどなくして、二人はアイの病室に辿り着く。
「はい、到着。ここまでありがとうね」
「あ、いえ。ただ一緒に歩いただけですし」
そう言って頬を掻き、さやかは視線を彷徨わせた。唇を開いて、閉じて、また開く。明らかに口にする言葉を探している風なさやかは、けれど何も言わずに愛想笑いを浮かべて誤魔化した。
「あはは。それじゃ、失礼します」
踵を返したさやかが、エレベーターの方に歩き出す。その背中に、アイは思わず声を掛けた。
「あのさ!」
さやかが足を止めて振り返る。水色の瞳が、不思議そうにアイを捉えた。しかしアイの口は動かない。反射的にさやかを引き止めたはいいものの、アイは掛けるべき言葉を考えていなかった。それゆえ今度は、アイの方が口をまごつかせる事になる。
奇妙な静寂だった。さやかが呼び掛ければ、アイはお茶を濁して終わっただろう。あるいはアイが適当な事を言っても、さやかは納得してくれただろう。けれど現実はそのどちらでもなくて、さやかは掛けられる言葉を待っていて、アイは掛ける言葉を探し続けた。
「…………人を好きになるっていうのは、決して恥ずかしい事じゃないと思うよ」
結局アイが口に出来たのは、なんて事は無い平凡な言葉だけだった。それがさやかの待っていた言葉なのかは分からない。ただ彼女は困ったように笑った後、会釈をして去っていった。その姿を見送り、アイは自身の病室へと入っていく。見慣れた内装を目にしたアイは、ホッと胸を撫で下ろす。そのまま扉に背中を預けて、彼女はボンヤリを視線を彷徨わせた。
「やっぱ人生経験ってヤツが足りないのかなぁ」
最近は世界の狭さを思い知らされる機会が多いと、アイは小さく嘆息する。あの女の子を説得出来なかったのも、さやかに適切なアドバイスを送れないのも、自身の経験不足による所が大きい事をアイは理解していた。
絵本アイは世間知らずだ。小学校に入学する前から入院生活を始め、それからの彼女はほとんどの時間を病院で過ごしてきた。出来た友達は少なく、環境の変化も皆無に等しかったと言える。だからアイは、同年代の子供が経験する多くの事を知らないのだ。
「それでいいと思ってたんだけどね」
苦笑して、アイは天井を仰ぎ見る。
自信が無かった。これまであった自分に対する自信というものを、アイはすっかり失くしていた。だから今の彼女は、上手く口が回らないのだ。自信が無くて、迷いがあって、出来ていた事すら出来なくなった。彼女がそれを払拭するには、やはり実績が必要なのだ。
さやかと恭介の手助けをする。そうして上々の結果を出せれば、自信を取り戻す事が出来る。アイはそう思っていたし、そう信じようとしていた。今のアイには証明が必要なのだ。自分にも出来る事があるという証を、彼女は何より求めていた。
自らの胸元に右手を添え、アイは深呼吸を繰り返す。
「大丈夫。ボクならやれる」
小さな呟き。所詮は気休めに過ぎないが、それでもアイは口にせずにはいられなかった。
アイから見てさやかと恭介の関係は良好だ。さやかの抱く好意は当然として、恭介も少なからずさやかを意識し始めている。そして以前に話した事を思えば、恭介は異性に対して興味があるはずだ。またこれまでにアイが聞いた限りでは、明確に好きな相手が居る訳ではなさそうだった。であれば、あとは時間の問題かもしれない。恭介にとってさやかは、最も親しく気安い関係にある女性だろう。今までは幼馴染みとしか考えていなかった所為で二人の距離は縮まらなかったが、今の恭介ならいつ恋愛感情に発展しても可笑しくない。
だから心配する必要は無い。そう自分に言い聞かせて、アイは扉から背を離した。夕食の時間まで暫く休もうと、彼女はベッドを目指してゆっくりと歩いていく。そのまま部屋の中央まで進んだ辺りで、アイは窓際のテーブルに違和感を覚えた。見覚えの無い何かが載っている。首を傾げた彼女はテーブルに近付き、その何かを確認した。
リンゴ大の透明な袋に入れられたクッキーと、それに添えられた一通の封筒。その二つがテーブルの上に載せられている。一体誰が置いた物なのか。手紙を手に取ったアイは、封筒の裏に書かれた名前を見て大きく目を瞠った。
「マミ……」
震える声で呟き、アイは綺麗な字で書かれた親友の名前を指でなぞる。
どうして、とは思わなかった。最後にマミと会ってからまだ一週間も経っていないが、アイはもう随分と話していない気がした。きっとマミも同じなのだろう。あんな別れ方をしたのだから、気にならない方が変だ。
アイが儚い微笑を浮かべる。不安にさせている事を申し訳なく思いながらも、アイは気に掛けて貰えるのが嬉しかった。封筒を閉じているシールに触れ、彼女は笑みを深める。蜂蜜色の花を模したそれは、マミとアイが愛用している髪飾りに似ていた。アイの右手が、自然と頭に伸びる。マミから贈られた髪飾りは、今日も彼女の髪を彩っていた。
「なんとかしなくちゃね」
胸元に封筒を押し付け、アイは目を瞑る。中身はまだ読まない。たぶん読んでも悲しくなるだけだ。それでも、この手紙に意味が無かった訳ではない。必ずさやか達の問題を片付けると、アイは改めて誓うのだった。
◆
静かな廊下に響く足音。小刻みに耳を揺らすそれは、忙しなく足を動かすアイによるものだ。険しい顔をした彼女は、擦れ違う看護師さんとの挨拶もおざなりに、一直線に恭介の病室を目指していた。そこには焦りがあり苛立ちがあり、少しばかりの怯えがある。もちろんそれには理由があって、その為にアイは冷静さを失っていた。
とうとう恭介は、指が完治しない事を宣告されたらしい。アイはその話を、昼食時に看護師さんから聞かされた。落ち込んでいるだろうから、出来れば慰めてほしいと頼まれたのだ。当然アイに否やは無く、こうして急ぎ恭介の病室に向かっている訳である。
タイミングが悪い、とアイは思った。さやかの相談を受けてからまだ四日しか経っておらず、圧倒的に時間が足りていない。恭介の興味はまだまだ音楽に集中しており、それだけにショックも大きかったはずだ。せめてこれまでにやってきた事で少しでも気が紛れていればと、アイは願わずにはいられなかった。
「ん、はぁ……」
恭介の病室に到着し、アイは立ち止まって息を整える。俄かに高まった鼓動は、決して早足で来た事だけが原因ではないだろう。緊張で硬くなった面持ちで、彼女は目の前の扉を睨み付けた。息を吐き、アイが扉をノックする。
暫く待っても、中から返事は無かった。この時間に恭介が居る事は確認済みで、だからこそアイの心に不安が募る。喉を鳴らし、アイは恐る恐る扉の取っ手を握り締めた。そのままゆっくりと、彼女は扉を開いていく。
「上条君? お邪魔するよ」
控えめな声でそう告げて、アイは病室に足を踏み入れた。彼女は辺りを窺う事無く、真っ直ぐに部屋の奥へ視線を向ける。
はたして恭介は、いつも通りベッドの上に居た。入ってきたアイに気付いていないのか、彼の目は自らの左手を見たまま動かない。感情の抜け落ちた顔をして、恭介は彫像のような静けさを纏っていた。
――――――あぁ、ダメだな。
アイはすぐにでも踵を返し、自身の病室に戻りたい衝動に駆られた。自分の手には負えないと、アイは直感的に理解していた。だって今の恭介は同じだ。かつて両親を事故で亡くし、無気力だった頃のアイと同じだ。
世界の中心だった存在が壊れ、代わりがある訳でもない。何をすればいいのかも分からず、出来る事と言えば、かつて存在していた大切なものを想うだけ。今の恭介は、そんな風に後ろを向く事しか出来ないのだろうとアイは感じていた。もちろん望ましい状態ではないが、アイには荷が重過ぎる問題だ。もしも適切な解決法があると言うのなら、むしろアイの方が教えてほしいくらいだった。何故なら彼女は、未だに両親の死を引き摺っているのだから。
無理無茶無謀。この恭介を救えるなら、あの女の子を説得出来ていると、アイは苦々しげに胸裏で呟いた。
とはいえ、アイは逃げ出す訳にはいかない。ここで何もしないのは最悪の選択だ。さやかの相談を受けた意味が無くなるし、これから先、アイが人として成長する事も無くなるだろう。故に彼女は、この難問に立ち向かう必要がある。
部屋の入り口に立ち尽くしたまま、アイは自らの成すべき事を考えた。アイと恭介は友達と言える程度には親しくなったが、互いの事情を詳しく話せるほど深い関係ではない。当然、恭介に掛けるべき励ましの言葉も見付からなかった。と言うよりも、今の状況では半端な慰めは逆効果になりかねない。そう考えると、ますますアイの気分は重くなった。
悔しげに顔を歪めたアイが、キツく下唇を噛んだ。
アイでは恭介を立ち直らせる事は出来ない。その事実を、彼女は認めざるを得なかった。しかしだからと言って、アイに出来る事が無い訳ではない。むしろ自分にはお誂え向きの役割があると、彼女は皮肉げに口元を歪める。
慰められないなら、逆の事をすればいい。それがアイの結論だった。つまりは恭介を怒らせるのだ。一度でも感情を爆発させれば、少しは冷静になってくれるだろう。そうして周りを見る余裕が生まれれば、恭介が立ち直る芽もあるはずだ。その場合はさやかに慰め役を託す事になるが、アイにとってはそれこそが望むべき状況だった。
アイの喉が鳴る。緊張によるものだった。
誰かをわざと怒らせる。あるいは自分から嫌われる。それはとても怖い事だ。アイの脳裏をよぎるのは先日の女の子とのやり取りで、またあの時のようになるのかと思うと、知らず足が震えてきた。
それでもアイはやる。やらなければいけないと、彼女は自分に言い聞かせた。
「こんにちは、上条君」
大きな声で呼び掛けて、アイは恭介の居るベッドに向かって歩き出す。竦みそうになる足に力を籠め、引き攣りがちな顔に微笑を浮かべ、彼女は必死にいつも通りを装った。
「あぁ、絵本さん」
恭介がアイの方に顔を向ける。全てを厭うような表情だった。思わずアイが足を止める。しかしすぐに何事も無かったかのように歩みを再開し、そのままベッド脇の椅子に腰掛けた。その間、恭介は何も言わずにボンヤリとアイを眺めていた。
「聞いたよ、指のこと」
恭介の肩が震える。それに気付かない振りをして、アイは構わず言葉を続けた。
「残念だなぁ。キミの演奏が聴けるのを楽しみにしてたんだけど」
明るい調子で話すアイに対して、恭介からの返事は無い。ただ彼の右手がシーツを握り締めるのを、アイは視界の端に捉えていた。けれどやっぱり彼女は、何事も無かったかのように口を動かすのだ。
「ま、怪我なんだから仕方ないよね。上条君もあんまり悩まない方がいい。どうしようもない事なんだから、さっさと気持ちを切り替えて、別の事を考えるべきだよ。終わった事に固執し続けても、良い事なんて一つも無いからね」
自分の口を縫い付けたいと思ったのは、アイにとって初めての経験だ。いくらなんでも今の恭介に言う事ではない。明らかに彼を傷付ける言葉で、馬鹿にした言葉だった。それを理解していても、否、理解しているからこそ、アイは止める訳にはいかないのである。
微かに食い縛る音が響く。恭介によるものだという事は考えるまでもなく、アイは恐怖で喉を引き攣らせた。思わず彼女は目線を落とし、恭介の顔を視界から外す。膝に乗せた拳を何度か開き直した所で、ようやくアイは落ち着きを取り戻した。
「趣味が出来なくなって辛いと――――」
「君になにがわかるのさ」
低い声がアイの耳を貫いた。途端にアイは体を跳ねさせる。小動物のように恭介を窺った彼女は、その顔を見て何も言えなくなった。彼が宿すのは怒りだ。静かで、熱くて、ともすれば憎しみに転じそうな怒りが、恭介の表情から読み取れる。
「仕方ないわけないだろ! 諦められるはずないだろッ!!」
アイが身を竦ませる。恭介の視線に射抜かれて、彼女は情けないほど動揺していた。
分かっていた事だ。恭介を怒らせるような事を言ったのはアイの意思だ。でも実際に激情が滲む彼の瞳を見せられると、アイは容易く心の平静を奪われてしまった。恐怖と不安に襲われて、彼女は考えていた事が頭から消えてしまいそうだった。
「趣味なんかじゃないっ。僕にとってヴァイオリンは生き甲斐なんだ!」
胸が引き裂かれそうな声だとアイは思った。今の恭介はあまりに悲痛な顔をしていて、見ているだけで心が抉られそうになる。だけど目を逸らす事は出来なくて、そんな事は許されなくて、アイは揺れる瞳に恭介を映し続けるしかなかった。
「僕がどんな気持ちでリハビリしてたと思ってるんだよ。なんの……ために…………」
恭介が右手で顔を覆う。その口元は悔しそうに歪められていた。掛ける言葉が見付からず、アイはただ、傷付いた恭介を眺め続ける。拳を震わせ、唇を固く結び、彼女は黙って入院着の裾を握り締めていた。
悲しいと言うよりも、アイはひたすらに心細かった。知識も経験も、今の彼女を支えてくれない。本当にこれでよかったのかと、尽きない疑問が渦巻き続ける。すぐにでも泣いて謝りたくて、だけどそうする時ではないと、アイは自分に言い聞かせていた。
「……帰ってくれ」
恭介が告げる。アイの方を見る事無く、彼は冷たい声で言い放つ。
「出てってくれ!」
子供の癇癪、なんて言葉では表現出来ない恭介の声だった。それに従い、アイは椅子から立ち上がる。表面上は平静を装って、心の中ではこの場から逃げ出したい一心で、彼女は恭介に別れの言葉を投げ掛けた。
「うん、今日はもう帰るよ。ごめんね。それじゃ、また」
恭介の返事は無い。構わない、とアイは足早に扉を目指した。そのまま声を掛けられる事無く、アイは恭介の病室をあとにする。そうして廊下に出た途端、彼女は自らの体を掻き抱いた。気付けば、足の震えが目に見えるほど大きくなっている。
背筋の悪寒が止まらなかった。こんなので上手くいくのかと不安で堪らなかった。恭介は穏やかな気性で、だから少し時間を置けば、今の言動を後悔するはずだ。そうすれば周りを気に掛けるようになるだろうし、心配を掛けまいと注意するかもしれない。あとはさやかが上手くやってくれれば、この問題は丸く収まる。きっとそうなる。
「大丈夫。大丈夫に決まってる」
弱々しい声でアイが呟く。
だってと、彼女は言い訳がましく言葉を続けた。
「これはやるべき事なんだ」
さやかの為にマミの為に、そして何より自分の為に必要な事だったと、アイは胸の裡で繰り返す。それは逃避に近かったが、彼女はそうするしかなかった。他の手立てを考えつくほど、アイは賢くないのだから。
アイの手が頭に伸び、そこにある髪飾りを外す。そのまま胸元に手を当て、彼女は暫し、沈黙に身を委ねた。
◆
最近楽しそうだね。そんな事をまどかに言われたさやかは、今日も今日とて恭介が入院する病院を訪れていた。足取り軽く、表情も晴れやかに彼女は通い慣れた廊下を進んでいく。
さやかが思い起こすのは、近頃の恭介とのやり取りだ。アイと話し合った通り、さやかは恭介と音楽の話をしていない。それは彼女が話を振らないというだけではなく、恭介の口からも音楽の話題が出ていない事を意味している。つまりアイの予想は当たっていたのだ。
相談してよかったと、さやかは頬を緩ませる。勧められたチェスの方も良好だ。負けっ放しでもさやかは楽しんでいたし、恭介も楽しんでやっている事が、幼馴染みの彼女にはよく分かった。お蔭で以前まであったお見舞いらしい湿っぽい空気は薄まり、代わりに明るく和やかな時間を過ごす事が出来ている。だからさやかは、アイにとても感謝していた。
「ま、昨日は困っちゃったけどね」
苦笑しながら、さやかはエレベーターに乗り込んだ。
まさかいきなり恋愛の話を切り出されるとは思わなかった。狙って意表を突いたのかもしれないが、いくらなんでも唐突過ぎるとさやかは思う。お蔭で昨日はみっともなく取り乱してしまったと、彼女は苦笑した。
「恭介かぁ……」
幼馴染みとしてなら、さやかは恭介が好きだと断言出来る。しかし異性として好きなのかと問われれば、さやかは口籠ってしまう。だってそこまで考えた事が無いのだ。一番親しい異性というのは確かで、凄く大切な存在だというのも否定しないが、恋人だとか付き合うだとか、そういう関係はあまり意識していなかった。でもたしかに、恭介と一緒に居るとドキドキするかもしれない。
「たははっ」
誤魔化すように笑って、さやかは開いた扉からエレベーターの外に出た。今は考えるのはやめようと、彼女は気持ちを切り替える。慣れた歩みで恭介の病室を目指し、間も無くさやかは到着した。
「恭介、入るよー?」
言いつつ病室に進入したさやかは、即座に異質な空気に気が付いた。重々しく、苦々しい。ふと彼女が想起したのは初めてお見舞いに来た日の事で、けれどあの時以上に重苦しい雰囲気に包まれている気がした。
「恭介? どうかしたの?」
歩み寄りながら問い掛ければ、恭介の顔がさやかの方を向く。瞬間、さやかの胸が締め付けられた。恭介の双眸から気力が感じられない。昨日までとは打って変わったその姿は、さながら亡者のようだった。
「なんだ、さやかか」
どうでもよさそうに呟く恭介に対して、さやかは怒りを覚えない。むしろ彼女の胸に湧き上がったのは心配だった。だってさやかは、こんな恭介の声を聞いた事が無い。こんな顔も見た事無い。心配するなと言う方が無茶だ。
「ねぇ、なにがあったの? あたしでよければ話を聞くから」
いつもの椅子に座って、さやかは躊躇いがちに話し掛ける。
暫く恭介の返事は無かったが、やがて力無く首を振った彼は、さやかの目を見て口を開いた。
「完治の見込みは無いって、もう演奏は諦めろって、先生から直々に言われたんだ」
さやかが目を瞠る。息を飲み、彼女は口元に手を当てた。恭介の言葉の意味が、さやかにはよく分かる。二人は幼馴染みだ。小さい頃から恭介が演奏する姿を見てきたさやかは、彼がどれだけヴァイオリンを愛しているのか知っていた。
「そうしたら急に、全部どうでもよくなった。このままリハビリを続けて退院して、それでどうするんだってさ。ヴァイオリンの無い生活には変わりないし、演奏できない僕が居ても居なくても、特に意味は無いだろ?」
ふぅ、と大きく溜め息をつく恭介。思わずさやかは、開き掛けた口を閉じてしまう。
「さっきも絵本さんが来てくれたんだ。ちょっと無神経なトコもあったけど、僕の事を心配してくれてたと思う。でも僕はイライラしてて、彼女に怒って、八つ当たりして…………ほんと、どうしようもないよね」
そんな事はない、とさやかは思った。けれど何も言えなかった。
今の恭介は大変な境遇にあり、平静で居られる方が可笑しいのだ。多少の事は誰だって目を瞑ってくれるだろうし、アイも気にしていないはずだ。そうは思うのだが、恭介が素直に慰めの言葉を受け取ってくれない事も、さやかは理解していた。自己嫌悪に陥っている彼に下手な事を言ったところで、余計に気を遣わせるだけだろう。
もどかしくて歯痒くて、さやかは思わず拳を握り締めた。
「恭介は悪くないよ。大変な時だもん。アイさんだって、きっと気にしてない」
苦し紛れに出た言葉は、やっぱりなんの捻りも無くて、さやかは自分の馬鹿さ加減が嫌になった。だけど話し始めたら止まらなくなって、考える間も無く次の言葉が溢れてくる。
「演奏してる時の恭介はたしかに凄いよ。でもさ、あんたの良いトコはそこだけじゃないでしょ。あたしは演奏してない時の恭介もたくさん知ってるし、あんたの友達だってきっとそう。だからそんなに自分を卑下しないでよ」
たどたどしく紡いださやかの言葉に返ってきたのは、何かを諦めたような恭介の苦笑だった。それが悲しくて、悔しくて、さやかはキツく歯を食い縛る。そんな顔は見たくないと、声に出さずに叫んでいた。
「恭介は良い奴だよ。あたしが保証するっ」
さやかの瞳が、真っ直ぐに恭介を捉える。
「だってあたしは、あんたの事が好きだから!」
瞬間、辺りの時間が止まった気がした。恭介がポカンと口を開け、さやかが大きく目を見開く。少しして、さやかの頬が真っ赤に染まる。あたふたと目を彷徨わせたかと思うと、彼女は急ぎ立ち上がった。
「いや、その、えっと……それじゃ!」
「あっ、さやか!」
耳まで赤くしたさやかが走って逃げる。背中に掛かる恭介の声も無視して、彼女は入り口の扉から出て行った。廊下に出ても足は止まらず、さやかはそのまま駆け抜ける。脇目も振らずに走った結果、彼女は近場の休憩所まで辿り着いた。運よく辺りに人はおらず、さやかはホッと胸を撫で下ろす。それから彼女は、先程の事を思い出して頭を抱えた。
「あぁ、もう! あたしはなにやってんのよっ」
頬が熱い。胸がドキドキする。とてもではないが冷静になんてなれなくて、さやかは訳が分からなくなった。
どうしてあんな事を言ってしまったのか、さやか自身にも理解出来ない。とにかく恭介を励まさなければと思って、気付いた時には告白していた。なんだこれ、と自分でも思うのだが、今更どうしようもない事だ。
「でも……」
風邪でも引いたみたいに熱い額に手を当て、さやかは天井を仰ぐ。
「あたし、恭介が好きなんだ」
改めて口にしてみると、それはとてもしっくりきた。どこか曖昧だった感情が、明確な形を得てさやかの胸に宿る。そうなると余計に恥ずかしくなって、さやかは両手で顔を覆った。今度からどんな顔をして恭介に会えばいいのだろうか。このまま顔を合わせない訳にもいかず、彼女は頭を悩ませた。
ただ、悪い事ばかりではない。こうして恭介に対する好意がハッキリした事で、さやかはやるべき事を見付けられた。だって彼女は恭介が好きなのだ。自覚した途端に溢れ出したその感情は留まる所を知らず、さやかの迷いを押し流してしまった。好きだから、恭介の力になりたい。好きだから、彼に笑っていてほしい。そこに見返りはいらない。ただ彼女がしたいから、するだけなのだ。
顔から手をどけ、さやかは息を吐く。水色の瞳からは、明確な決意が見て取れる。
「あたしは――――」
呟きは誰に聞かれる事も無く、静かにさやかの胸に刻まれた。
◆
憂鬱だ、とアイが嘆息した。ベッドに寝転んだままの彼女は、渦巻く不安を誤魔化すように、胸元に載せた封筒に手を当てる。未だに封を開けていないそれを、アイはお守りか何かのように扱っていた。それでも気分は晴れず、知らず彼女の眉根が寄せられる。
恭介はどうなったのだろうか。さやかはどうしたのだろうか。アイが恭介を怒らせてから一日が経ったが、その結果を彼女は知らない。と言うよりも、知ろうとしなかった。もしも望まぬ事態になっていたらと思うと、アイは怖くて仕方なかったのだ。だから周りからも恭介の話題を遮断して、彼女は自室に引き籠っていた。
いずれ恭介と会わなければいけない事を、アイはちゃんと理解している。だけど今はまだ、もう少し時間が欲しいというのが本音だった。彼女には心の準備が必要なのだ。そうして覚悟していなければ、アイは失敗した時に立ち直れなくなりそうな気がした。
いつかのように、時間ばかりが過ぎていく。それでもあの時に比べれば、多少なりとも気力はある。希望もある。だからこのまま心を落ち着けていれば、明日には恭介と向き合えるだろうと、アイは冷静に分析していた。
そんな時だ。窓の外から、耳を撫でる音楽が流れてきたのは。
「――――?」
不思議そうに首を傾げたアイが、ベッドから這い出して窓に歩み寄った。腕を伸ばして窓を開ければ、どこかボヤけていた音がハッキリと聞こえるようになる。ヴァイオリンの演奏だと、彼女は即座に理解する。
音は上の方から聞こえてくるようだった。おそらくは屋上で演奏しているのだろう。一体誰が、という疑問はあったものの、この物好きの演奏に、アイは静かに耳を傾けた。
「凄い……」
ポツリと、アイの口から漏れる声。かつてピアノを嗜んでいた事があるといった程度の音楽経験しかない彼女だが、それでもこの演奏には心動かされるものがあった。穏やかで優しくて、ささくれ立った心が癒されるような気がしてくる。
これこそが音楽で、これこそが芸術なのだろうか。ただの音の羅列がこんなにも素晴らしいものに思えてしまう。もしも自分に同じような才能があればと夢想したアイは、すぐに馬鹿馬鹿しいと苦笑した。
目を瞑ったアイは、黙って演奏に身を委ねる。最近では感じた事が無いほどに、心地良い時間だと彼女は思った。そうして演奏が終わった後も、アイは暫くその場から動かなかった。
「素晴らしい、としか言えないのが残念かな」
心が軽くなったように感じた彼女は、そう言って目を開ける。黒い瞳には、俄かに活力が戻っていた。
「にしても、ヴァイオリンかぁ」
もしも恭介の指が治っていれば、今のような演奏が聞けたのかもしれない。天才少年と呼ばれていたのだから、一聴の価値はあるだろう。そんな事を考えて、詮無い事だと切り捨てて、直後にアイは首を傾げた。
あれ、とアイは思う。何かが可笑しい、と彼女は気付く。恭介。そう、上条恭介の話だ。アイの友人であるところの彼は、さやかの相談が切っ掛けで知り合う事となった。ではそのさやかとはどうやって知り合っただろうかと考えて――――――――アイは大きく目を見開いた。
マミだ。アイはマミからさやかを紹介されたのだ。あの時の主題はまどかについてだったが、一緒に居た以上、さやかも魔法少女の事情は理解しているだろう。そしてさやかが魔法少女になる理由があるかと問われれば、アイは迷い無くあると答えられる。好きな人の怪我を治すという願いは、魔法少女になる十分な動機だと言えるはずだ。
アイの額に汗が浮く。それは冷や汗と呼ばれるものだった。
どうしてこれほど単純な事実に気付かなかったのかと、アイは自分を殴りたくなる。普通に考えれば簡単に予想出来る事で、普段の彼女であれば絶対に見逃さない可能性だ。出会った直後に騒ぎがあった事は言い訳にもならない。見落としていたのは、ひとえにアイが焦っていたからだ。早く結果を出したくて、自分の力で何かを成したくて、それだけしか考えていなかった。自分の事ばかりが頭にあったのだ。
「いや、でも――――」
あの演奏が恭介のものとは限らない。そんな風に自分を誤魔化しても、アイの悪寒は止まらない。
昨日は何があったのか。恭介が指の怪我について知らされた。アイは何をしようとしていたのか。さやかと恭介の距離を縮めようとしていた。この二つを合わせるだけで、アイは容易く最悪の可能性を導ける。
「くそっ。ボクの馬鹿!」
とにかく一刻も早く二人に会って真相を確かめなければと、アイは足を踏み出した。もはや憂鬱になっている暇など無い。自分の事で悩む余裕も資格も無いのだと、彼女は自らを叱咤した。
しかし扉を目指したアイの歩みは、すぐに止められる事になる。
誰かの訪問を知らせるノックの音。それを聞いた瞬間、アイは心臓を跳ね上げて固まった。彼女は碌に返事も出来ず、穴が開くほど扉を凝視する。加速度的に激しくなるアイの鼓動は、既に痛いほどだった。
徐々に扉が開かれ、廊下の景色が露わになる。誰かが居る事はすぐに分かった。人影は一つだと気付き、アイは密かに安堵した。訪問者が誰なのかを理解し、その表情を読み取り、彼女はなんとも言えない感情を抱いた。
「こんにちはー」
「……こんにちは」
やって来たのはさやかだ。彼女はかつて無いほど機嫌がよさそうな顔をして、弾んだ声で話し掛けてくる。
「さっきのヴァイオリンの音、ここまで聞こえてました? あれって恭介が演奏してたんですよ。本当はアイさんも呼びたかったんですけど、あいつがちょっと気にしてる風だったんで、今回は見送らせてもらいました。次の機会があったら、必ず呼びますね」
さやかが笑う。さやかが喋る。その意味を、アイは理解したくなかった。
一気に喉が渇き、アイは引き攣るような感覚を覚える。唾を飲めば、やけに大きな音が鳴った。
「それは、どういう……?」
「あっ、いきなり話しても驚きますよね」
笑顔のまま、さやかが左手を掲げる。そこに載っている物を見て、アイは泣きたくなった。
「あたし、魔法少女になったんです」
明るい声音が、深くアイの胸に突き刺さる。
俯き、唇を噛み、アイは掠れた声を絞り出した。
「どうして……?」
「えっと、アイさんがまどかにした話は聞いてます。すごく大切な事だと思いますし、あたしなりに考えさせられました。その上であたしは魔法少女になって、恭介の指を治したんです」
少しだけ申し訳なさそうな顔をして、けれどハッキリと胸を張って、さやかが告げる。
「あたしは恭介の恩人になりたい訳じゃありません。だからあいつにこの事を教えるつもりもありません。これはあたしが決めた事で、あたしだけが背負うものです。恭介に笑ってもらう為に、そう決めました」
話を区切り、さやかは息を吐く。薄く紅潮したその頬が、どこか誇らしげに見えた。そのまま彼女はアイを見詰め、アイもまた、彼女を見詰め返す。互いの目が合った瞬間、さやかは恥ずかしげに微笑んだ。とても綺麗な笑みだった。
「だってあたし、恭介の事が好きですから」
返す言葉など、アイにある訳が無い。
崩れそうな足を必死に支えて、アイは歪な笑顔を浮かべる事しか出来なかった。
◆
ハンバーガーを食い千切る。フライドポテトを噛み潰す。ストローを噛みながらジュースを流し込み、またハンバーガーを食い散らかす。そんな風に荒々しい食べ方で、杏子は今夜の食事を進めていた。どこからどう見てもやけ食いといった風情の彼女は、事実、その眉間に深い皺を刻んでいる。
杏子が居るのは、公園にあるジャングルジムの上だった。その天辺に腰掛けて、彼女は買ってきたハンバーガーのセットを食い荒らしている訳である。辺りに人は居ない。夜の帳に包まれた公園には、昼間の賑やかさは欠片も残っていなかった。そんな冷たく寂しい場所で、杏子は近場の住宅街を睨んでいる。多くの家々には明かりが灯り、今頃は家族で仲良く団欒の時間だろう。
「……チッ」
面白くなさそうに舌を打ち、杏子はポテトを口に放り込む。
杏子がこんなにも荒れているのには、当然ながら訳がある。今日、彼女はキュゥべえから魔法少女の裏事情について聞き出したのだ。いずれ魔女になる運命も、キュゥべえ達の目的も、問えば淀み無く答えが返ってきた。悪気も無ければ躊躇も無く、キュゥべえは当然のように話していた。しかも騙しているつもりは、これっぽっちも無いらしい。
まさにアイの言った通りだと、杏子は憎々しげに思った。キュゥべえは油断ならない相手だと分かってはいたが、ここまでくると、流石に彼女も平静ではいられない。話を聞いた時はキュゥべえに対して怒りを抱いたし、取り乱して声を荒げてしまった。それでも時間が経った今は、こうしてやけ食いで気を紛らわせられる程度には落ち着いている。
「アタシは望んで魔法少女になったんだ。だから、自業自得ってヤツさ」
最後に残ったハンバーガーの欠片を食べ尽くし、杏子は吐き捨てるように呟いた。
自業自得。そう思えば、杏子はこの件について納得出来る。彼女は望んだ通りの奇跡を得て、その対価として全てを失った。それは平等な取引で、壁を殴れば手が痛くなるくらい当然の結果だ。少なくとも杏子はそういう風に受け入れていた。
だからこそ、杏子の心は穏やかではない。自分が奇跡を願った所為で家族が不幸になったのだと、彼女はより明確な形で証明された訳だ。お蔭でとっくの昔に処理したつもりの罪の意識が、蓋を開けて飛び出そうとしてきている。心の奥底に押し込めていたはずなのに、もう一度向き合えと暴れている訳だ。
「……あいつの言った通りなのかもね」
こうして罪の意識に苛まれるのは、杏子の中で完全な決着がついていないからだろう。かつてアイが言ったように、罪から目を逸らして、自業自得という言葉で誤魔化していたのかもしれない。
「ったく。面倒ったらありゃしない」
ポテトもジュースも処理した杏子は、ゴミを一つの袋に纏めた。それから彼女は、ジャングルジムから飛び降りる。杏子は軽い音を立てて着地し、そのまま前方を睨み付けた。
「出てきな。さっきからジロジロと鬱陶しいんだよ」
ただ木々が立ち並ぶだけの空間に、杏子は鋭い声を投げ掛ける。すると一本の木の陰から、一人の少女が姿を現した。闇に溶け込むような長い黒髪を持つ彼女は、悠然とした足取りで杏子に近付いてくる。
「はじめましてね。私は暁美ほむら。魔法少女よ」
数メートルの距離を残して立ち止まったほむらが、平坦な声で告げる。それに対して、杏子はスッと目を細めた。
「用件を言いな。慣れ合うつもりは無いよ」
「そうね。私もあなたと仲良しになりたい訳ではないもの」
冷たく言い放つ杏子に対して、ほむらは眉一つ動かさずに答える。自らの黒髪に指を通して掻き上げ、彼女は改めて杏子を見詰めた。その瞳に宿る意思の強さを読み取り、杏子は警戒心を強めていく。
「まず、魔法少女の真実について知っているかしら?」
杏子が眉を跳ね上げる。それを見て、ほむらは満足そうに頷いた。
「少なからず知っているようね。この件については、後でお互いの情報交換といきましょう」
「……ただの魔法少女ってわけじゃないみたいだね」
あえて警戒心を乗せた杏子の言葉を、ほむらは綺麗に無視した。どこか得体の知れないその姿に、杏子は内心で苛立ちを募らせる。しかしその一方で、ほむらの話を聞かずにはいられなくなった事を理解していた。
「用件は二つ」
ほむらが短く告げる。
「ワルプルギスの夜に関する話が一つ」
「――――ッ!?」
杏子が大きく目を瞠る。それほどまでに予想外の話だった。出来れば今すぐにでも問い詰めたいところだったが、まだほむらの話は終わっていない。一つ目がそれなら二つ目は一体なんなんだと、杏子は緊張感を募らせた。
「もう一つは、共通の知り合いに関する話よ」
そう言ったほむらの表情は、月が陰った所為で分からなかった。しかし一つ目の話と比べて随分とスケールが小さいはずのそれは、何故か杏子の心に引っ掛かりを生んでいる。そうして気付けば、杏子はほむらに話の続きを促していた。
こうして二人の魔法少女は、誰に知られる事も無く、初めての出会いを果たすのだった。
-To be continued-