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No.28168の一覧
[0] 【完結】 お姫様じゃいられない 【魔法少女まどか☆マギカ・女オリ主】[ひず](2014/11/24 21:29)
[1] #001 『奇跡みたいな出会いだなって』[ひず](2011/06/26 20:54)
[2] #002 『笑顔でいてほしいんだ』[ひず](2011/06/05 20:35)
[3] #003 『ボクの為の願いじゃない』[ひず](2011/06/26 20:55)
[4] #004 『もしも奇跡を願うなら』[ひず](2011/06/12 21:17)
[5] #005 『まだ大丈夫』[ひず](2011/06/19 20:17)
[6] #006 『やっと、見付けた』[ひず](2012/10/23 21:45)
[7] #007 『ボクらはボクらの、正義の味方だ』[ひず](2012/10/23 00:00)
[8] #008 『はじめまして』[ひず](2011/07/24 20:42)
[9] #009 『安心してて、いいからね』[ひず](2011/08/21 20:49)
[10] #010 『だってボクにできるのは』[ひず](2011/08/21 20:48)
[11] #011 『ボクはずっと願ってる』[ひず](2011/09/04 20:52)
[12] #012 『これはやるべき事なんだ』[ひず](2011/09/18 22:32)
[13] #013 『強がりなんかじゃない』[ひず](2011/10/09 21:49)
[14] #014 『なんでだろうな』[ひず](2011/10/23 22:52)
[15] #015 『だから嫌いなのか』[ひず](2011/11/13 23:17)
[16] #016 『なんだか似てるね』[ひず](2011/11/28 22:43)
[17] #017 『魔法少女って、なんですか』[ひず](2012/10/23 00:01)
[18] #018 『女の子なのよ』[ひず](2012/04/01 21:32)
[19] #019 『名前で呼んでもいいですか?』[ひず](2012/10/20 21:53)
[20] #020 『私は、必ず、ほむらになる』[ひず](2012/12/31 19:14)
[21] #021 『あなたに、ほむらは、必要ない』[ひず](2013/09/08 21:43)
[22] #022 『ありがとう。うん、それだけ』[ひず](2014/07/21 06:09)
[23] #023 『わたし、魔法少女になります』[ひず](2014/08/16 21:20)
[24] #024 『ダメな先輩でごめんなさい』[ひず](2014/09/14 23:13)
[25] #025 『他の誰でもないキミに』[ひず](2014/10/13 12:45)
[26] #026 『それは本物だと思うから』[ひず](2014/11/24 21:28)
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[28168] #011 『ボクはずっと願ってる』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/09/04 20:52
 やる気が起きない。アイの心情を語るならその一言で事足りる。ベッドの上に横たわった彼女は何をするでもなく、焦点の定まらない目でぼんやりと天井を眺めていた。無造作に投げ出された細い四肢。シーツに大輪を咲かせる長い黒髪。気力に欠けた黒い瞳。人形みたいだ、とその姿を見た人は言うかもしれない。それほどまでに、今のアイからは生気が感じられなかった。

 動くのが億劫で、考える事すら面倒で、何もする気になれない。それは単なる逃避でしかないと分かっていたが、もはや自己嫌悪の感情も湧いてこなかった。感情の源泉が枯れ果てたような気がして、そう思うとますますアイの気持ちが萎えていく。それでも彼女は欠片も表情を動かさず、当て所なく視線を彷徨わせ続けている。

 アイが失踪の話を聞き、ほむらと連絡を取ってから、随分と時間が経っていた。気付けば時計の針は午後四時を指そうとしており、窓の外からは小さな雨音が響いている。昼は何を食べただろうか。雨はいつから降り出したのだろうか。ふとそんな疑問がアイの脳裏を過ぎったが、すぐにどうでもよくなった。

 時間ばかりが過ぎていく。何もせず、何も考えず、無為に時を刻んでいく。それで構わないとアイは思った。時間は痛みを和らげてくれる。そうして余裕が出来たら、ゆっくり心の整理をしようと彼女は決めていた。だから今は、少しばかりの休息だ。

「――――?」

 不意にノックの音が部屋に響く。首を回し、アイが扉の方を見る。

 誰だろうかと初めに考えたアイは、次いで応答すべきかどうかを悩み始めた。正直に言って、今の彼女は人に会いたい気分ではないのだ。だからこのまま無視しよう。そう決めたアイが天井に視線を戻そうとしたところで、遠慮がちに扉が開かれた。出来た隙間からおそるおそる足を踏み入れてきたのは、アイの見知った少女だ。しかし同時に、アイが予想した誰でもなかった。

「美樹さん?」

 思わずアイが尋ねてしまう。すると部屋の入り口で様子を窺っていた少女は、驚いたように背筋を伸ばした。

「は、はいっ。美樹さやかです!」

 元気の良い返事だったが、そこには明らかな緊張が見て取れる。その態度に疑問を抱きながらも、アイはとりあえず体を起こした。僅かに頭が重いように感じたが、話が出来ないほどではない。額を押さえながらベッドに腰掛け、アイは入り口のさやかと向き合った。

「どうしたの? なにか忘れ物でもあった?」
「あ、いえ。そういうわけじゃないんです」

 答えて、さやかは気まずそうに目線を彷徨わせた。どうにもさやかの様子が可笑しい。それは付き合いの浅いアイにも分かるのだが、その理由は皆目見当もつかない。なんせ一昨日に会ったばかりで、話した事すらほとんど無いのだ。まだ表面的な性格も掴みかねている段階で、アイは美樹さやかという少女をほとんど理解していなかった。

 よく分からない、とアイが首を傾げる。そんな彼女に対し、さやかはおずおずと口を開いた。

「えっと、あたしの知り合いも入院してるんですよ。そのお見舞いに来たから、こちらにも顔を出しておこうと思って」
「なるほど。でも、それだけじゃないんだろ?」

 さやかが言葉に詰まる。僅かに悩む様子を見せた彼女は、それから気まずそうに頬を掻いた。

「実はちょっと相談が……」

 そう言ってさやかは、ちらりとアイの顔を窺う。

「あはは。なんだか調子が悪そうなんで、今日は遠慮しときますね」
「……いや、大丈夫だよ。筋肉痛が辛いだけだから」

 自らの太腿を叩いてみせて、アイは少し疲れた笑みを浮かべた。

 放っておけば、さやかはそのまま部屋から出ていっただろう。しかしアイは引き止めた。さっきまで人に会いたくないと思っていた癖に、彼女はさやかを留めたのだ。自分に相談があると言うのなら、頼ってくれると言うのなら、アイは喰い付かずにはいられなかった。愚かしいほどの浅ましさだったが、これこそが絵本アイという少女でもある。

「一昨日は碌に話す時間も無かったしね。せっかく来たんだし、ゆっくりしていきなよ」
「あー……じゃあ、お言葉に甘えて」

 呟いて、さやかは遠慮がちに足を進める。アイが手近な椅子を指し示せば、彼女は大人しくそこに座った。そのまま、さやかは小さく息を吐く。まだ緊張は残っているようだったが、それでも最初と比べれば余裕が見て取れた。

「まずは改めて自己紹介といこうか。ボクは絵本アイ。できれば名前で呼んでほしい」
「美樹さやかです。あたしも名前で呼んでください」
「わかったよ、さやか。それで相談っていうのは?」

 さやかが目を伏せる。そのまま膝の上で両手を遊ばせながら、彼女は僅かに頬を色付かせた。明らかな逡巡が見て取れたが、アイは急かすような事はしない。というよりも、口に出せるほど自信を持てる言葉が思い浮かばなかった。

 本当に馬鹿になったみたいだと、アイが密かに自嘲する。その内にさやかが喋り始めた。

「その……さっき知り合いが入院してるって言ったじゃないですか」
「言ってたね。その子についてかな?」

 目線を上げて、また下げる。それからさやかは、少しだけ顔を縦に揺らした。

「そいつとは幼馴染みで、仲も良い方だと思います」
「いい事だね。お見舞いにはよく来てるの?」

 また、さやかは首肯する。

「ただ知り合いが入院するのって初めてで、なんて言うか、勝手がわからないんですよ。色々と差し入れも持ってきてるんですけど、本当にこれでいいのかなぁって感じで。それでアイさんなら、良いアドバイスをしてくれるかと思って――――――」
「なるほどね。たしかに力になれると思うよ」

 言いつつ、アイは俯きがちなさやかを観察する。

 さやかの顔には未だに硬さが残っていた。その原因は決して相談の内容だけではなく、相手がアイという点にもあるだろう。さして親しくない年上に相談するというのは、中々に勇気が要る事だ。それでもこうしてアイの病室までやって来たという事は、それだけその幼馴染みを大切に思っているのだろう。

「その幼馴染みの名前は? さやかと同い年でいいのかな?」
「名前は上条恭介(かみじょう・きょうすけ)で、歳はあたしと同じです」
「恭介、という事は男の子?」
「あ、はい。男で合ってます」

 答えるさやかの表情は、ちょっぴり面映ゆそうに赤らんでいた。アイの第一印象とは異なるそれは、いわゆる女の子の顔というやつだろうか。なんとも思春期らしくて結構な事だと、アイは僅かに口元を緩めた。

「じゃあ入院の理由は?」
「指と足の怪我です。事故で上手く動かせなくなって、今はリハビリしてます」
「退院の予定はわかってる?」
「それは…………すみません、わからないです。ただ長引きそうだとは聞いてます」

 ふむ、とアイは顎に指を添えた。

 指と足の怪我でリハビリ入院中。しかも退院の目処がついていないとなると、アイの予想以上に重症なのかもしれない。その事に少しばかり荷の重さを感じたアイだが、同時に遣り甲斐があると思った。問題が無ければそれでいい。問題があるならそれを解決してみせる。そうすれば胸に溜まった靄も晴れるだろうかと、アイはそんな事を考えていた。

「これまではどんなお見舞いをしてたの?」
「えっと、いつもはCDを買ってきてます。それで曲を聞きながら雑談したりと、まぁ、そんな感じです」
「上条君は音楽が好きなんだ?」
「かなり好きですよ。あいつ自身もヴァイオリニストで、割と有名だったりしますし」

 瞬間、アイは露骨に顔を顰めた。

「とりあえず、音楽関係は避けようか」
「えっ!? いや、だってほんとに好きなんですよ!」
「好きだから駄目なのさ」

 強めにアイが答えれば、さやかはグッと言葉を堪えた。もちろん納得した訳ではないだろう。アイを目上と認め、教えを請う相手と捉えているからこそ、さやかは引いたのだ。よく知る相手でもなく、見た目は小学生同然のアイを相手にそんな態度が取れるというのは、それだけさやかの性根が素直なのかもしれない。そしてそれは、アイにとって非常に好ましいものだった。

 出来れば力になりたい。そんな気持ちを芽生えさせながら、アイは説明を続けていく。

「入院患者にとって特に辛いのはさ、普段できる事ができなくなる事なんだ」
「できる事が、できなくなる……」
「風邪を引いた時とかにふと思うでしょ? いつもならこうじゃないのにって」
「あっ。たしかにそうですね」

 素直に頷くさやかに対し、アイはようやく力の抜けた微笑を浮かべた。

「入院生活っていうのは、それがもっと大変になるんだ。病気や怪我が辛いのは当然として、生活環境も大きく変わる。だから普段の生活が恋しくなるし、いつも通りに過ごしてる人が羨ましくなる。しかも上条君は指に問題があるんだろ? ちょっとした事でも上手くやれなくて、それがストレスになってるはずだよ」

 はず、とは言いつつも、アイにとってそれは確定した事実に等しかった。日常のあらゆる場面で繊細な動作が要求される指が故障して、負担に感じない人間は居ない。これまで入院するほどの怪我をした経験が無ければ尚更だ。そして一つの不満は、また別の不満を呼んでくる。ちょっとした事が気になり始め、連鎖的にストレスを溜め込むというのは十分にあり得る話だ。

「なにより指を怪我してたら、ヴァイオリンは弾けないだろ?」
「それは……そうですけど」

 さやかの表情は硬い。膝に乗せた手を握り締めたまま、彼女は微動だにせずアイを見詰めていた。それがアイには心地良い。ただ話に耳を傾けて貰えるというだけで、彼女はどうしようもなく満たされる気がした。

「たしかに彼は音楽が好きかもしれない。でもだからこそ、今は触れるべきじゃないんだ。音楽を聞けば、どうしたってヴァイオリンの事を意識する。そうなると演奏できない事への不満や、完治する事への不安が出てくるのさ。たとえ少しずつでも、確実にね」

 そこで話を区切り、アイはさやかが考えを整理するのを待った。さやかは僅かに目線を下げたまま、ジッと黙り込んでいる。その目に宿る光は真剣で、傍目にも分かるほどの熱意が見て取れた。

 美樹さやかと上条恭介。さやかは幼馴染みと言ったが、決してそれだけの間柄とは思えない。少なくともさやかの方は、それ以上の感情を抱いているように感じられた。いわゆる恋心だ。アイにとっては縁遠い感情なだけに、興味を惹かれる部分があった。

 アイがつまらぬ邪推をしている内に、さやかは考えを纏め終えたらしい。強い意志を秘めた瞳が、正面からアイを捉えた。

「アイさんの言いたい事はわかりました。その内容も、たぶん、間違ってないと思います」
「それはよかった。上条君をよく知るキミがそう言ってくれるなら、ボクも自信が持てるよ」
「でも音楽が駄目って言われても、他によさそうなものって思い付かないんですよね」

 弱々しいさやかの声。それとは反対に、アイの顔には少しだけ気力が戻っていた。

「まったく新しいものの方がいい場合もあるよ。これまでにやった事があれば、どうしたって以前との違いを気にしてしまう。だから経験の無いものの方が、純粋に楽しめる可能性が高いわけさ」

 アイの白い指が、さやかの拳に添えられる。それからアイは、意識して優しい笑顔を作った。

「安心して。ボクも一緒に考えるから」

 だから、とアイは続けて。

「ボクに任せてよ」

 少しだけ沈黙を挿み、それからさやかは、ゆっくりと頷いた。


 ◆


「――――ほら、あの子が上条君よ」

 若い看護師さんが声を控えてアイに告げる。同時に彼女は、右手の人差し指で前方を示した。その先には一人の少年が居る。年頃はアイと同じ中学生に見えた。短めの黒髪は癖の無いストレートで、端整な顔立ちをしている。異性に対する興味が薄いアイにとってはどうでもいい事だが、それなりに女の子受けのよさそうな美少年という印象だった。

 上条恭介。それが少年の名前だ。さやかの幼馴染みである彼は、今、一人でリハビリを行っている。歩行補助の手摺りに掴まり、震える足で少しずつ前に進んでいた。必死に歯を食い縛るその姿からは、並々ならぬ熱意が感じられる。

 さやかの相談から、既に一夜が明けていた。あれから話を煮詰めたアイは、今後の為にも知り合っておいた方が良いだろうと、こうして恭介に会いに来た訳である。

「それじゃ、私は仕事に戻るわね」
「はい。お忙しい中、ありがとうございました」
「いいのよ。ちょうど近くに用があったしね」

 最後に笑顔でそう言って、看護師さんは来た道を戻っていった。その背中を見送ってから、アイはリハビリ室のドアを押し開ける。ガラス張りのそれは音も無く開かれ、アイを室内に受け入れた。

 リハビリ室の中に居るのは恭介だけで、その彼もアイの入室には気付かない。静かに歩を進めて、アイは恭介の居る一角に近付いていく。そこにはまるでプールのレーンのように、幾つもの手摺りが並んでいた。

 互いの距離が数メートルまで縮まっても、恭介に変化は見られない。ひたむきにリハビリを続ける彼の背中を眺めながら、アイは手摺りの傍に用意された椅子の一つに腰を下ろした。そのまま彼女は、恭介の様子を観察する。

 頼りない、というのが恭介に対するアイの第一印象だった。生まれたばかりの小鹿みたいに足を震わせ、歩くだけでも辛そうなその姿は、とても弱々しくて頼りない。ただ、アイは決して情けないとは思わなかった。必死の形相も、頬を伝う汗も、恭介の願いの表れだ。また元の生活に戻りたい。健康な体を取り戻したい。ヴァイオリンを弾きたい。その想いは、他人が馬鹿にしていいものではない。

 だからこそ不幸だと、アイは胸裏で呟いた。

 さやかの話では詳しい容態は分からなかったが、恭介の怪我はかなり重いらしい。足と指の怪我の内、完治の見込みがあるのは足だけで、指が治る可能性は限り無く零に近いという話だ。まだ確定の話ではないようだが、検査を進めても覆る事は無いだろうと、アイの知り合いの看護師さんは言っていた。

 さやかも恭介も、その事実を知らない。だから大きな問題は出ていないが、いずれそれを知らされた時、二人はどうなるだろうか。恭介は耐えられるのか。さやかは彼を支えられるのか。それらの疑問がアイの胸に渦巻いていた。

「……厳しいかな」

 もうすぐ手摺りの端に辿り着く恭介を見詰めながら、アイが密かに呟く。

 上条恭介は天才ヴァイオリニストとして有名なのだと、アイは先ほど教えられた。それほどの腕ならば少なからず自負はあっただろうし、こうして一心にリハビリに打ち込む姿を見ても、ヴァイオリンの演奏が好きなのだろうと思わされる。そんな彼が二度と以前のように演奏が出来ないと知らされれば、荒れるどころの話ではないだろう。そして昨日の様子を見る限りでは、さやかに対応出来る能力は無い。

 まったくもって世界は残酷だと、アイは皮肉げな笑みを刻んだ。

 手摺りの端まで行った恭介が振り返る。そこでようやくアイに気付いたのか、彼は僅かに目を瞠った。対するアイは、動じる事無く微笑を浮かべる。それを受けた恭介は、戸惑いがちに愛想笑いを返してからリハビリを再開した。亀のように遅い歩みで、けれど確実に前へと進みながら、彼はアイとの距離を縮めていく。

 暫くして、恭介はようやく復路を踏破した。息を切らせ汗を流す彼の為に、アイは座り易い位置に手近な椅子を移動させる。

「えっと、ありがとう」

 謝罪を口にして、恭介は椅子に腰を下ろす。手摺りを使って震えながら座るその様は、アイの目には随分と危なっかしく映った。そのまま背もたれに体重を預けて息を吐き、恭介は大きく胸を上下させる。

 恭介が息を整えるのを待って、アイは努めて明るく話し掛けた。

「はじめまして。ボクは絵本アイって言うんだ」
「あ、うん。はじめまして。上条恭介です」

 何かを問いたげに、恭介の目が泳ぐ。その意味を、アイは正確に読み取った。

「ボクはさやかの友達なんだ。彼女の幼馴染みが入院してるって聞いたから、こうして挨拶に来たわけさ」
「あぁ、なるほど。さやかの友達だったのか」

 納得したと、恭介の顔に安堵の色が浮かぶ。

「見たところ絵本さんも入院してるのかな?」
「そうだよ。ボクの病気は怪我じゃなくて貧血だけどね」
「へぇ。貧血で入院なんだ」

 恭介の返答。その声音を聞いたアイは、可笑しそうに笑い声を上げた。

「拍子抜けしたって感じだね」
「あっ。いや、そういうんじゃなくてさ……」
「気にしなくていいよ。あんまりイメージ湧かないだろうし」

 でも、と続けようとして、アイはその先の言葉を口に出来なかった。

 アイの貧血はとても重いもので、命にすら関わってくるほどだ。それを説明すれば恭介の感想は大きく変わるだろう。アイに対して同情心だって湧くかもしれない。しかしだからこそ、アイは教える事が出来なかった。

『自信を持ちなさい。同情じゃ信頼は買えないわよ』

 高橋先生のその言葉が、アイの心を縛り付ける。

 アイは自分の弱さを嫌っているが、同時に最大の武器である事を理解していた。誰しも同情した相手には甘くなるし、強く出れない。その事を理解しているアイは、自身の立場を相手に伝える事で会話のイニシアチブを取る手段を得意としていた。

 つまりアイは、同情で自分の主張を通そうとしてきた訳だ。高橋先生の言葉は、その核心を突いていた。相手に同情させてばかりだから、本当の意味で対等な関係は築けない。対等でなければ信頼も生まれない。結局アイは、弱い立場に甘えている部分があったのだ。

「どうかしたの?」
「ううん。なんでもないよ」

 首を振って答え、アイは苦笑する。

 自身の病気について、暫く恭介には黙っておこうとアイは決めた。そうしてこれまでとは違う接し方をしてみれば、あるいは何かが見えてくるかもしれない。ただの願望かもしれないが、アイはそう思ったのだ。

「そうそう。少し見学させてもらったけど、頑張ってリハビリしてるみたいだね」
「今は努力するしかないからね。当然の事だよ」
「そうかな? ボクは立派な事だと思うけど。宿題を出されても、誰もが真面目にやるわけじゃないでしょ?」

 感心した風にアイが言えば、恭介は照れ臭そうに右手で頬を掻く。だがすぐさま表情に影を落とし、彼は左手に視線をやった。リハビリ中とは異なり、座った後は碌に動かされない左腕。その意味は、とても重いものだ。

「僕がヴァイオリニストだっていう話は、さやかから聞いてる?」
「聞いてるよ。とても綺麗な演奏をするんだってね」
「……ありがとう」

 少し悲しげに恭介が笑う。そのまま彼は、包帯の巻かれた左腕を右手で摩った。

「音楽を聴くのも好きだけど、それ以上に弾く事が好きなんだ。生き甲斐と言ってもいいかもしれない。だから、またヴァイオリンを弾けるようになりたいんだ。その為ならこのくらいの苦労なんて――――――」

 恭介の目が細められる。鋭く強い意志を秘めたその瞳は、ある種の怖さを感じさせた。
 直後にハッと目を見開き、恭介は慌てた様子でアイを見る。

「っと、ごめん。会ったばかりでこんな話をされても困るよね」
「かまわないとも。誰だって健康が一番さ」

 とは言いながらも、アイは心の中で嘆息していた。思った通り、恭介のヴァイオリンに対する執着は強い。それはつまり、指が治らなかった時の絶望も強いという事だ。なんとも大きな不安材料だと、アイとしてもボヤかずにはいられない。

 ひとまず話題を変えようと、アイは頭を振って気を取り直した。

「ところで上条君はさやかと幼馴染みなんだよね?」
「そうだよ。もう随分と長い付き合いになるんじゃないかな」

 恭介が目を瞑る。口元を緩めたその姿は、子供の頃を懐かしんでいるかのようだった。

「ふぅん。幼馴染みって関係が近過ぎて男女を意識しない場合もあるって言うけど、そういうもん?」
「言われてみると、そうかもしれないね。さやかはさやかで、女の子って感じではないかな」

 思わずアイは額を手で覆った。恭介に照れは見えない。つまり本気で彼は、さやかを異性として意識していない訳だ。さやかとは正反対のその態度は、アイに男女関係の難しさを教えてくれた。

「大丈夫? 気分が悪いの?」
「……問題無いよ。そういうんじゃないから」

 答えて、アイは息を吐く。

「上条君ってさ、告白された事ある?」
「え? えっ!? い、いきなりなにを言うのさ」
「ボクはそういう経験が無いからさ。ちょっと気になってね。上条君ってモテそうだし」

 微笑むアイを見て、恭介は言葉を詰まらせる。
 決まりが悪そうに目を逸らした恭介は、暫く口をまごつかせた後に、小さな声で応答した。

「一度も無いよ」
「彼女が欲しいと思った事は?」
「それは…………少しはあるけど」

 恭介の顔がアイの方を向く。彼の表情はちょっとだけ怒っているようだった。

「そういう絵本さんはどうなのさ」
「ボク? ボクは彼氏が欲しいとは思わないかな」

 嘘ではないし、強がりでもない。そもそもアイは恋愛感情というものが希薄だった。精神的に幼い、と形容しても良いかもしれない。もう何年も同じような生活を続けている彼女は、それだけ成長の機会が少ない訳である。特に異性との付き合いがほとんど無いアイにとっては、恋愛は最も縁遠いものの一つだった。

「まぁ、もしもできるとしたら、彼女の方が欲しいかな」
「か、かのじょ……?」

 面食らった様子の恭介を見て、アイは可笑しそうに目を細める。

「変身願望って言うのかな? 男になりたいって、たまに思うわけだよ」
「えっと、だから彼女が欲しい、と?」
「そういうこと。もしもの話だけどね」

 アイが答えると、恭介は困ったように苦笑した。当然だろう。いきなりこんな話をされたところで、大抵の人間は反応に困るはずだ。でも本当に困るのはこれからだと、アイは心の中で呟いた。

「もしもボクが男なら、きっとさやかに告白してるぜ」
「さ、さやか? ほんとに?」

 もちろん嘘だ。けれどアイはもっともらしく頷いて、さも当然のように話を続けた。

「さやかの良いトコってなんだと思う?」
「え? それは…………明るい性格とか?」
「うんうん。見てて気持ちいいよね。ボクは素直なトコも好きだな」
「素直、か。うん、たしかにそうだね。さやかと一緒に居ると気楽だし」

 噛み締めるように恭介が呟く。遠くを見る彼の意識は、おそらくアイとの会話ではなく、さやかとの思い出に移っているのだろう。そしてそれは、アイが望んだ通りの展開だった。恭介にさやかの事を意識させる。アイはそれを狙ったのだ。なにもさやかの為だけではない。恭介の今後を思えば、怪我やヴァイオリン以外にも興味を惹く対象があった方が、受けるショックが少ないと考えたからだ。

「それにさやかは可愛いしね」
「可愛い? さやかが?」

 同意しかねる、といった顔の恭介に対し、アイは自信を籠めた声音でを返す。

「さやかは可愛いよ。上条君は見慣れてるだけ。ほら、美人は三日で飽きるって言うでしょ?」
「う~ん。そうなのかなぁ」
「ま、次に会った時に改めて見直してみなよ。きっと評価が変わるから」

 その言葉で締めて、アイは椅子から立ち上がった。壁の時計を見ればそれなりに時間が経っており、アイの診察時間が迫っていた。アイとしてはもう少し雑談を続けたい気分ではあったが、流石にこれ以上は不味い。

「診察があるから、ボクはもう行くよ」
「あぁ、うん。ちょうどいい休憩になったよ。ありがとう」
「どういたしまして。また暇を見付けて会いに来るよ」

 背中越しに手を振って、アイはリハビリ室の入り口に向かって歩き出す。口元に刻まれた微笑とは反対に、その目は少しも笑っていない。ただ真っ直ぐに前を見据え、怖いくらい真剣な光を、黒い瞳に宿していた。そのまま表情を崩す事無く、彼女はリハビリ室を後にした。


 ◆


 大きく息を吸って、吐き出す。胸を上下させての深呼吸。それを何度か繰り返した後に、さやかは目の前の扉を睨み付けた。病室と廊下を隔てるそれはさやかにとって見慣れたものだが、今日はかつて無いほどに厳重な物のように感じられる。上条恭介。扉の横にある病室名札に刻まれた名前を確認して、さやかは喉を鳴らした。胸元の紙袋を、彼女は強く抱き締める。

 さやかが緊張する必要は無いはずだ。普段通り幼馴染みのお見舞いに来ているだけで、彼女に後ろめたい事など何も無い。その事は本人もちゃんと理解しているのだが、さやかの心臓は煩いくらいに働き者だった。

 アイと相談した事を試す。それだけの事だ。難しい事は何もしないし、大きく何かが変わる訳ではない。ほんの少しだけ、恭介の気を楽にする。効果があってもその程度で、気負う必要は無いと、発案者のアイも言っていた。

 だから大丈夫。そう自分に言い聞かせて、さやかは扉の取っ手を掴む。

「入るよ、恭介」

 扉を開きながら、いつも通りを装ってさやかが喋る。その声を聞いた恭介が、さやかの方を向く。

「あぁ、さやかだったのか。いらっしゃい」

 穏やかな恭介の声を聞きながら、さやかは病室の中を進んでいく。アイの病室と同じ、広過ぎるほどに広い個室。その中で恭介は、窓際に置かれたベッドの上に居た。上体を起こした彼は、歩いて来るさやかを眺めている。程無くしてベッドの傍まで辿り着いたさやかは、手近な椅子に腰掛けて、ひっそりと息を吐き出した。

「今日はちょっと変わった物を持ってきたのよ」

 余計な事を考えない内にと、さやかは早々に話を切り出した。

「そうなんだ。なにを持ってきたの?」
「これよ、これ。知り合いの先輩に貰ったの」

 抱えていた紙袋に手を突っ込み、さやかは中の物を取り出していく。まず最初に取り出したのは、白黒のチェック柄が描かれた板、つまりチェス盤だ。次に彼女は、木製の小さなケースを手に取った。もちろんその中身はチェスの駒だ。

「チェス? しかも本格的な感じだね」
「正解。新しいのを買ったから、古いのは要らないんだってさ」

 あらかじめ用意していた答えを返しながら、さやかはチェスの準備を進めていく。テーブル代わりに椅子の上にチェス盤を置き、更にその上に駒を並べていく。ルールについては、昨日、時間を掛けてアイから教わっていた。万一の為に教本も貰っている。

「それはラッキーだったね。けどさやかとチェスって、なんだかイメージに合わないなぁ」
「うるさいわね。ま、あたしだって似合わないと思ってるけどさ」

 試しにチェスはどうかとアイに提案された時、さやかは当然の如く反対した。この手のゴチャゴチャと頭を使うゲームは苦手だし、有効な手段とは思えなかったらだ。しかしアイによれば、チェスを選んだ理由はちゃんとあるらしい。

 一つは音楽と関係無いこと。遊んでいる最中にヴァイオリンを連想する可能性が低いからだ。
 一つは頭を使う遊びということ。遊んでいる間は、余計な事を考える余裕が無い訳である。
 一つは恭介でも問題無く遊べること。出来るだけ怪我を意識させずに遊べる必要性があった。
 一つはさやかより恭介の方が強そうなこと。アイは詳しく語らなかったが、さやかはなんとなく察した。

 それらの理由を聞いて、さやかはとりあえず試してみようと決意した。本当に上手くいくかは分からないが、これまでとは毛色が違う分、なんらかの効果があるかもしれない、という期待もある。

「はい。これで準備完了よ」

 盤上に駒を並べ終えたさやかが言う。恭介が駒を掴み易い位置に椅子を移動させ、彼女は顔を上げた。同時に、恭介と目が合う。ただそれだけなのに、さやかの心臓が跳ねた。彼女の白い頬が、自然と熱を帯びる。

「えーと、どうかした?」
「あ、いや。なんでもないよ」

 気まずそうに答えて、恭介が目を逸らす。別に可笑しな反応ではないはずなのに、何故かさやかは気恥ずかしくなった。その事を誤魔化すように、彼女は慌てた様子で会話を進めていく。

「恭介はわかる? 駒の動かし方とか、勝利条件とか」
「少しだけね。さやかは大丈夫なのかい?」
「なんとか頭に叩き込んだわ。とりあえず、実際にやってみましょ」

 普通に喋っている風を装いながらも、さやかはかなり緊張していた。どんなに理屈を並べたところで、恭介が楽しいと感じてくれなければ意味は無い。もしも駄目なようなら、また別の案を用意するとアイは言ってくれたが、それは手を抜いていい理由にはならない。一発勝負。これが駄目なら後は無いくらいの意気込みで、さやかはチェスに挑もうとしていた。

「先攻はどっちがやる?」
「さやかに譲るよ」

 恭介の言葉に頷きで返し、さやかは自陣の駒を掴む。そうして、二人にとって初めてのチェス勝負が始まった。

「――――たはー。負けたぁ」

 頭に手を置いたさやかがそんな言葉を漏らしたのは、対局が始まってから一時間ほど経った時の事だ。互いに手探り状態で、教本を片手に対局を進めてきたはずなのに、盤上には黒の駒ばかりが残っていた。未だに白のキングは立ったままだが、完全に包囲されて逃げ場が無い。誰がどう見ても白の負け、つまりはさやかの負けだった。

「ははは。さやかは攻め方が素直過ぎるんだよ」
「そう言われてもねぇ。ごちゃごちゃ考えるのって苦手なのよ」

 拗ねたように頬を膨らすさやかを見て、恭介は可笑しそうに笑う。

「どうする? もうやめる?」
「んなわけないでしょ。まだ続けるっての」
「そっか。じゃあハンデをつけようか?」
「三敗したら考えるわ」

 さやかは盤上に駒を並べていく。その最中に考えるのは、先程の対局の事だ。疲れたとか楽しかったとか、さやかとしても色々と感じるものはあったのだが、最も心に残ったのは懐かしさだった。これまでに恭介とチェスをした事がある訳ではない。将棋だって経験は無い。ただこうして恭介と一緒になって遊ぶ事は久しく無かったと、さやかは気付いたのである。

 入院して以来、さやかは恭介の事を心配し続けてきた。恭介の負担にならないよう気を付けて、少しでも安らげるよう気を配って、どこか線を引いて接してきた所があった。それはたぶん、対等な関係ではなかったのだ。怪我人だからと恭介を下に見て、自分が支えなければと意気込み過ぎて、幼馴染みとして築いてきた関係が崩れていた。その歪みが、対局中は消えていた気がするのだ。怪我のハンデなど存在しない、純粋な知的ゲームの中で、さやかは久し振りに本来の関係を取り戻した気がした。

 恭介がどう感じたのかは分からない。けど、もしも自分と同じ気持ちだったら嬉しいと、さやかは思った。

「そういえば、今日はさやかの友達に会ったよ」

 あと少しで駒を並べ終えるという所で、不意に恭介が喋る。思わず手を止めて、さやかは彼の方を見た。

「友達? 誰に?」
「絵本アイっていう子だよ」
「え、うそっ。アイさんに会ったの?」

 予想外、とさやかは目を丸くする。しかし考えみればもっともだ。アイも恭介と同じ入院患者だし、さやかの相談を聞けば興味が湧くのも当然だろう。だから彼女が恭介に会ったというのは、ちっとも可笑しくない事だ。

 しかしそうは言っても、さやかとしては気になってしょうがない。

「ねえ、なにを話したの?」
「えっと、それは……」

 恭介はさやかの顔を見て、それから目を逸らす。意味深なその態度が、余計にさやかの気を引いた。

「さやかについて、少しだけね」
「だからその内容を聞いてんのよ!」
「まぁまぁ。それより次の対局を始めようよ」

 あからさまな話題逸らし。だが話したくないという恭介の意思は十分に伝わってきた。

「もうっ。わかったわよ。あたしが勝ったら話してもらうからね」
「それならいいよ。ハンデは無しのままだよね?」
「馬鹿にしてぇ。すぐに見返してやるんだから」

 とは言ったものの。結局この日、さやかは恭介に三連敗を喫する事になる。お蔭で次回からはハンデをつける事になり、散々な結果となった。ただそれでも、時間が来て別れる時のさやかと恭介は、いつに無く明るい表情をしていた。


 ◆


 コンコン、とノックの音。どうぞ、と応答の声。それからアイは、目の前の扉を開いた。躊躇無く彼女が足を踏み入れたのは、上条恭介の病室だ。アイの部屋とは内装が異なりつつも、広さで言えば負けず劣らずの大きな個室だった。

「お邪魔するよ、上条君」
「絵本さんか。こんな時間に来るとは思わなかったよ」

 ベッドの上から話し掛けてくる恭介に対し、アイは苦笑で応答する。

 既に夕食が終わり、消灯まで何時間も残っていない。こんな時間に会ったばかりの知り合いの下を訪ねるというのは、なるほど、たしかに非常識だろう。それを理解していながらアイが来たのは、どうしてもさやかの事が気になったからだ。とはいえその事を話す訳にもいかず、アイとしては適当に誤魔化すしかなかった。

「あれ、それってチェス盤?」
「そうだよ。さやかが持ってきてくれたんだ」

 ベッド脇に置かれた椅子の上には、駒を並べたチェス盤が置かれている。また恭介の右手は広げたチェスの教本を持っており、チェスの勉強をしていたのだと推測出来る。思わず綻びそうになった口元を、アイは無理やり引き締めた。

「ふぅん。おもしろい?」
「おもしろいよ。新しい事に挑戦するのも、気分転換としては丁度いいしね」

 絶賛と言うほどではないが、それなりに好感触。恭介の表情を見たアイはそう判断した。一先ず失策ではなかったようだと、彼女は密かに胸を撫で下ろす。次いでアイは、サイドテーブルに積まれたCDの山に注目した。

「やっぱり色んなCDを持ってるんだね。よく聞くの?」
「最近はリハビリの前に聞いてるよ。またヴァイオリンを弾くんだっていう気持ちになるからね」

 なら他の時はどうなのか。その質問を、アイは口にする事が出来なかった。どこか寂しそうにCDを眺める恭介を見れば、なんとなく答えが分かったからだ。予想通り、正の感情ばかりではないのだろう。

「っと。失礼するよ」

 断りを入れ、アイは適当な椅子に腰掛ける。一方の恭介は、手にした教本を閉じてシーツの上に置く。そうして雑談の態勢が出来上がり、まず最初に話し始めたのはアイの方だった。

「で、さやかは可愛かった?」
「いや、どうしてそんな話になるのさ」
「だって夜の話と言えば猥談だろ?」

 アイが首を傾げて答えれば、恭介は疲れた様子で息を吐く。

「なんていうか、絵本さんって変わってるよね」
「褒め言葉として受け取っておくよ。それで、どうだったのさ?」

 重ねて問われても、恭介は答えようとはしなかった。ただアイと目を合わせようとしないその姿からは、なんとなく心情が察せられる。少なくとも朝とは見方が変わっているはずだ。それだけは間違い無い。

 いいな、とアイは思った。さやかも恭介も、アイの言葉で心動かされている。変化が生まれている。それこそがアイの望んだ状況だった。やはり言葉には力があって、他人に影響を与える事が出来る。そしてそれは、さやか達にとってプラスに働いているはずだ。

 今度こそ上手くやってみせる。同じ失敗はしない。そう思って、アイは膝に乗せた拳を握り締めた。

「ま、いいか。しつこいと嫌われちゃうしね」
「いや、そんな事はないけど」

 そう言いながらも、恭介はあからさまに安心したような表情を浮かべている。彼は意外と顔に出るタイプのようで、そこはさやかと似ている気がして、アイはなんだか可笑しな気分になった。しかしその一方で、彼女の心は芯の部分で冷えていく。今が楽しければ楽しいほど、いずれ訪れる悲劇が怖くなる。それはどこか、魔法少女の運命に似ているとアイは思った。

「上条君はさぁ。努力は報われるものだと思う?」
「努力? また唐突な質問だね」

 不可解そうに恭介が眉根を寄せる。ただ答える気はあるらしく、彼はすぐに思案に沈んだ。

「……まぁ、必ずしも報われるものではないと思うよ」
「ふぅん。どうしてそう思うの?」
「ヴァイオリンのコンクールに出る人はみんな努力してるよ。でも、評価されるのは一部だけだ」

 なるほど、とアイは納得する。恭介の言葉は、まさに努力した人間の言葉だった。

「ボクも同じ意見だよ。努力したからって、必ずしも報われるわけじゃないよね」

 アイの言葉もまた、実感の籠ったものだった。彼女とて努力をしなかった訳ではない。ほんの少しでも成果を出したくて、アイは色々と頑張ってきた。けれど報われたと思えた経験は一握りで、やっぱり世の中は不公平だと思わずにはいられない。

「でもさ、努力は報われてほしいよね」

 アイが笑う。とても穏やかな表情だった。

「努力が報われるとは限らない。でも努力するなら、それは報われてほしいと思うよ。報われないっていうのも諦めの言葉じゃなくて、ただ失敗と区切りをつけて、次に向けて頑張る為の言葉だと考えてる」

 自らの胸元に手を当て、アイは静かに瞑目する。

「ボクはずっと願ってる。努力は報われてほしいってね。何度も失敗してきたけどさ、やっぱり今でもそう思うよ」

 目蓋を上げ、アイは正面から恭介を目を合わせる。恭介はアイの様子に戸惑っているようで、どう反応すべきか迷っているようだった。仕方が無い、とアイは苦笑する。そもそも今の言葉は恭介に向けたものではなく、彼女自身に言い聞かせるものなのだから。

「いきなりどうしたんだって顔だね」
「いや、まぁ、それはね」

 なんとも言えない表情の恭介を見て、アイはスッと目を細めた。

「つまり頑張れっていう意味で、頑張るっていう意味さ」

 やっぱり恭介は意味が分からないという顔をしていたが、今はそれでいいとアイは笑った。近い将来、きっと笑えない事態になるだろう。その事を理解していながら、否、理解しているからこそ、アイは明るく振る舞った。嘘でも繰り返せば真実になると信じているかのように、彼女は胸の不安を押し込める。その真意は、もはや彼女自身すら分かっていなかった。




 -To be continued-


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