憎らしいほど爽やかな朝だった。青空には雲一つ無く、彼方からは目映い太陽が顔を覗かせ始めている。散歩日和やデート日和といった言葉がよく似合う素晴らしい天気だが、さて謝罪日和という表現はあっただろうかと、アイは寝起きの頭で益体も無い事を考えた。小さく口を開けて欠伸をし、アイは涙の浮かんだ目を擦る。次いで彼女は、布団の中から這い出した。
裸足で絨毯を踏み締めながら歩くアイが、部屋の中央で立ち止まる。艶の無い黒髪を気怠そうに揺らして、彼女は首を巡らせた。その目に映るのは部屋の内装で、見慣れたそれを、アイは脳裏に焼き付ける。
この場所は、アイが愛されている事の証明だ。洒落た家具に、溢れ返るほどの蔵書。両親が居なくなる前も、居なくなってしまった今も、ここには与えられた愛が詰まっている。それはとても即物的で俗物的な愛の表現方法かもしれないが、アイはそれでいいと思っていた。高尚でなくても、純粋でなくても、受け取るアイがちゃんと理解していれば、それは間違いなく本物だ。そしてたしかに、絵本アイは愛情に包まれて育ってきた。
アイは自分を不幸な境遇だと思っているが、同時に幸せな人間だという事も理解している。苦痛はあっても苦労は無い人生。多くの大人に支えられて生きてきた彼女は、ある意味ではぬるま湯の中で過ごしてきたと言えるかもしれない。そんな事は無いと他の者は言うだろうが、アイ自身はよく分かっていた。敵意も、害意も、悪意も、彼女は碌に感じた事が無いのである。
だからこそ、アイには不安があった。あの女の子は、きっとアイが出会った誰よりも敵対的だろう。もはや軽口を叩く事など出来ないし、冗談を挿む余地は欠片も無い。そんな彼女と正面から向き合う事を、アイは少なからず恐れていた。杏子と出会った時とは違う。マミとの喧嘩はもっと違う。彼女にとって完全なる未知の領域が、口を開けて待ち構えているのだ。
「当たって砕けろ、か」
呟き、アイが目を瞑る。覚悟というよりも、諦めに近い何かがそこにはあった。
一息つき、アイはベッドの方へと戻っていく。そのままベッドに腰掛けた彼女は、サイドテーブルに載せた固定電話に手を伸ばした。黒い受話器を掴み、耳に当てる。次いでアイはボタンを操作し、両手で数えられる登録件数の電話帳から、目的の番号を探し出す。
何度か呼び出し音が聞こえた後、すぐに相手が電話に出た。
『はい。暁美です』
早朝とは思えない明瞭な声が耳を擽り、アイは安心したように息を吐く。
「おはよう、ほむらちゃん。アイだよ。朝早くからごめんね」
『かまわないわ。もう朝の支度は終えたもの』
「土曜日は休みでしょ? 早起きだね」
アイは横目で時計を確認した。まだ朝の六時前で、窓の外ではようやく朝日が顔を出した時刻だ。こんな非常識な時間に電話したアイが言うのもなんだが、随分と規則正しい生活をしているらしい。いや、場合によっては寝ていない可能性も考えられるだろうか。
『時間は有限よ。なのに振り返ってみれば、いつもいつも無駄ばかり』
「だからのんびりしていられない、と?」
『そういうこと』
ほう、と吐息。アイは背中からベッドに倒れ込んだ。見慣れた高い天井を眺めながら、彼女は話を続ける。
「凄いね。それはやっぱり、まどかのため?」
『ええ。まどかのためよ』
はっきりと返されたほむらの答えに、アイは目を細めた。
ほむらの言動には芯がある。彼女はいつも真っ直ぐで、目的に対して迷いが無い。それを頼もしく思うと同時に、アイは少しだけ羨ましく感じていた。今の彼女では、そこまで思い切る事は出来ないのだ。
とはいえ、いつまでも感心している訳にはいかない。
「えっと、それで用件なんだけど」
『なにかしら?』
「今日の予定について。こっちに来るのは、昼の二時頃でお願いできるかな?」
『わかったわ。昼の二時ね』
「うん。それで合ってるよ」
言いつつ、アイは頷いた。それから彼女は、黒い瞳を彷徨わせる。
「あー、それで……」
会話が続かない。忙しなく目線を動かしながら言葉を探すが、アイはモゴモゴと口を動かす事しか出来なかった。何か言いたい事がある気がするのに、その何かが分からない。そうしてアイが言い淀んだまま、無為に時間が過ぎていく。
『――――不安なの?』
「えっ?」
思わずアイが目を丸くする。
『こんな時間に電話してきたのは、不安だからじゃないの?』
「それは……その……」
返事に窮したアイは、あちこち視線を彷徨わせた。
不安なのかと問われれば、たしかにアイには不安がある。あの女の子と向き合う事が怖くて、上手くやれる自信が無かった。もしも彼女を説得出来なかった時にどうなるか予測がつかない、というのもアイの心配を助長している。
『無駄な希望は捨てなさい』
冷たい声が耳を貫き、アイの心臓が僅かに跳ねる。
『魔法少女は救われない存在よ。どんなに足掻いても、どれだけ願っても、いずれは闇に呑み込まれる。そういう運命なのよ。彼女の事も、助からなくて当然だと覚悟しておきなさい』
厳しい言葉だった。でも、冷たい言葉ではなかった。きっとほむらの優しさで、たぶん彼女の実体験だ。かつてほむらに何があったのかは知らないし、推し量ることすらアイには難しいが、それでも心を揺らすものはあった。
『抱く希望は、たった一人だけでいい』
何も答えを返せず、アイは困ったように眉尻を下げる。
おそらくほむらの言い分は正しい。だけどそれは、とても困難な事だろう。だってアイは普通の女の子だ。いくら可笑しな境遇にあるとはいえ、彼女の感性は一般人のそれと大きく変わる訳ではない。そう簡単に割り切れるはずもなく、アイはなんとも言えない気持ちになった。彼女は諦める事に慣れている。でも同時に、諦めの悪い性格でもあるのだ。
「……キミはまどかを助けたい」
『あなたは巴マミを助けたい』
口元を緩め、アイは薄く笑った。
「そうだね。その通りだ」
寝返りを打ち、アイが背中を丸める。顔と膝をくっつきそうなくらい近付けて、アイは息を潜めた。
「でもさ、マミは加害者なんだ。まどかとは違う。他の魔法少女とも違う。マミだけは、どうしようもなく加害者なんだ」
微かな悲哀と後悔を滲ませ、囁くようにアイが話す。
ほむらの返事は無い。ただ電話口の向こうからは、僅かな動揺が感じられた。
「ただ魔法少女として契約させるだけなら、きっとマミは耐えられた。マミは魔法少女になった事を後悔してないから。でも魔女になる事を知ったら、たぶんマミは耐えられない。そのまま自分を騙せるほど、マミは器用じゃないから」
アイが目を瞑る。目蓋の裏に浮かぶのは、マミと出会った時のこと。まだ今よりも幼くて、とても弱々しかったマミの姿を、アイは今でも覚えている。あの頃に比べればマミは随分と頼もしくなったが、それでも芯の部分は変わらない。繊細で傷付き易い心の持ち主なのだ。だからこそアイは愛しく感じるし、守りたいと思っている。
「マミにとって現実は残酷だ。でもね、救いが無いとは思わない。あの子がマミと笑って話せるようになれば、それは少なからず慰めになるはずだよ。一人でもいい。マミを許せる魔法少女が必要なんだ」
真実を知った時、多くの魔法少女を契約させた事実は、マミの心に暗い影を落とすだろう。その闇を祓うには、やはり被害者の言葉が一番だ。アイはマミの一番の親友だと自負しているが、自身の限界をよく知っていた。
『つまり彼女を助ける行為は、巴マミの為だと?』
「ボクの為でもあるけどね」
アイが再び寝返りを打つ。頬と肩で受話器を挟み、彼女は両腕で膝を抱えた。
「魔法少女の真実を聞いた時さ、ちょっとだけ嬉しかったんだ」
『それは、どういう……?』
戸惑うほむらの声を聞き、アイは頬に笑みを刻む。それはおそらく、自嘲と呼ばれるものだった。
「だってボクにできるのは、誰かと話す事だけなんだから」
アイは無力な人間だ。一つの生命として脆弱で、社会的な立場も無い。更には行動範囲も交友範囲も制限されている彼女は、本当に出来る事が少なった。アイの多弁さはそれ故に。言葉を操る事は、彼女が出来る数少ない自己表現の一つなのだ。
「魔法少女の問題の本質は、すなわち心の問題だ。それならボクにだって手伝える。碌に走る事すらできないボクだけど、魔女と戦うなんて到底無理だけど、話すくらいはできるんだ。そして言葉なら、心を動かすのも無理じゃない」
ほむらがアイと手を組んだのも、そういう面があるからだろう。無力なアイにも役割がある。魔法少女を助ける機会が残されているのだ。それはアイにとって何よりも嬉しい事だった。
「だから、さ。最初から諦めるっていうのは、ちょっと辛いよ」
『…………あなたが納得しているなら、これ以上はなにも言わないわ』
淡々としていながらも、少しもどかしげなほむらの返答。そこに隠された感情を読み取って、アイは口元を綻ばせた。
「ありがとう、ほむらちゃん。話したらスッキリしたよ」
『どういたしまして』
素っ気無いほむらの返事を聞いて、アイが笑みを深める。次いで彼女は目を細めた。膝を抱えた姿勢のままで、アイは熱っぽい息を吐く。その顔に浮かぶのは、微かな苦悶の色だった。
「ねぇ、ほむらちゃん」
『……なに?』
受話器に耳を押し付け、アイは眉間に皺を刻んだ。
「筋肉痛って、辛いよね」
一瞬だけ、静寂。それから小さく、ほむらの噴き出す音が聞こえた。
◆
「やっぱりCRPが上がってるわね。筋肉痛の所為だと思うけど、念のため色々検査しておきましょう」
「はーい。わかりましたぁ」
朝の診察。予想通りの診察結果を言い渡されたアイは、面倒臭そうに返事をする。その声を聞いた女医さんは、向き合っていたパソコンの画面から目を離すと、不貞腐れるアイに笑い掛けた。とても綺麗な笑顔だった。
「あと、今日はできるだけ病室から出ないように」
「……怒ってます?」
にこにこ笑っている自らの主治医に対し、アイは戸惑いがちに尋ね掛ける。
高橋瞳子(たかはし・とうこ)先生。出会ってから十年近い付き合いになるこの壮年の女性は、母を亡くしたアイのよき相談相手だった。伯父には言えない女性の悩みも知られており、アイにとっては頭の上がらない相手の一人である。
「激しい運動をした事はね。でも、喧嘩については怒ってないわよ」
柔らかな声音でそう言って、高橋先生は目を細めた。
「あなたは真面目過ぎるくらいだから、たまには喧嘩の一つでもしないとね」
「むぅ。これでもかなりテキトーに生きてるつもりなんですけど」
頬を膨らせたアイの反論。大変遺憾である、とばかりに彼女は腕を組んだ。
昔のアイと今のアイを比べれば、その言動は大きく異なっている。それはアイ自身が望んだ変化であり、だからこそある種の自負を持っていた。かつての真面目なだけの自分ではない。そう思っているが故に、アイは不満だった。
「表面的にはね。でも、人間ってつまらない事で変わってしまうけど、努力しても中々変われないものなのよ」
なんだか見透かしたように語る高橋先生を、アイは恨めしそうに睨み返す。
「やっぱり怒ってる。今日、すごく意地悪です」
「そう感じるのは、あなたに後ろめたさがあるからよ」
素知らぬ様子で返す高橋先生にジト目を向けたまま、アイは悔しそうに唸った。
やりにくい。それがアイの感想だった。相手の言葉が正しいというよりも、ちょっと考えさせられるのが問題だ。アイにとっても気になる部分を狙ってくる所為で、どうにも口が上手く回ってくれない。そんなもどかしさを誤魔化すように、アイは大きく溜め息をついた。
「オジさんならもうちょっと楽なのになぁ」
「絵本先生はあなたとの距離を決めかねているからね」
またしても、とアイは口をへの字に曲げる。
「わかってますよ、それくらい。たぶんボクとあの人は、親子にはなれませんし」
雅人はアイの伯父で、更には後見人でもあるが、決して親代わりではない。両親を亡くした時、アイの精神はそれなりに成熟していたし、雅人には胸を張って親を名乗る勇気も無遠慮さも欠けていた。何よりアイ達は、死んだ二人の事を大切に思い過ぎていた。居なくなった二人の穴を埋める事を厭うように、アイも雅人も以前の関係を崩そうとはしなかったのだ。
ただの伯父と姪という関係ではないが、そこから大きく外れたものでもない。二人はもう何年も、そんな微妙な距離を維持し続けてきた。それが正しいかどうかは知らないが、少なくとも苦痛ではないとアイは思っている。
「というか、ほんとに今日はどうしたんですか。いくらボクでも怒りますよ」
座った目でアイが問う。けれど高橋先生は気にした風も無く、頬に手を当てて平然と答えてみせた。
「私もあなたと喧嘩してみたかったのよ」
「……すみません。ちょっと意味わからないです」
途端に力の抜けた顔でアイは嘆息した。そんな彼女を見て高橋先生が微笑む。強い母性を感じさせるその表情は、アイにとっては見慣れたものだ。しかしそれでも、アイには高橋先生の真意が読み取れなかった。
「聞き分けのいい患者さんは助かるんだけど、ちょっと不安になる部分もあるのよ」
疑問符を浮かべるアイに対して、高橋先生が苦笑する。
「病気なんて碌なものじゃないわ。罹らない方が良いに決まってるし、罹れば辛いのが当然なの。だから平気な顔してる患者さんを見ると、どこかで無理をしてるんじゃないかと心配になるのよ。特に子供の場合はね」
「…………別に無理なんてしてませんよ」
不満顔でアイが返せば、高橋先生は何も言わずに微笑んだ。思わずアイは押し黙る。
アイは無理をしている訳ではない。少なくとも彼女自身はそう信じている。だって、そうだ。今の生活こそがアイにとっての日常だ。もう人生の半分以上を病院で過ごしている彼女には、健康な自分こそが異常だった。だから病気なのは普通で、普通に過ごしているだけで無理をしているはずがない。そう思うのだが、アイはまともに反論する事が出来なかった。
「まぁ、不満が無いとは言いませんけどね」
口を尖らせたアイがそっぽを向く。だがすぐに彼女は、目線だけ高橋先生の方に戻した。
ちょっと気になる事がある。出来れば聞きたい事がある。だからアイは、声を控えて問い掛けた。
「もしも聞き分けの悪い患者だったら、先生はどう対応するんですか?」
「最初にするのは患者さんの話をしっかり聞く事ね。そうして相手の言葉に耳を傾ける事で、患者と医師は対等な関係だという事を理解してもらうの。これをわかってもらえないと、信頼関係を築くのが難しいのよね」
ゆっくりと、噛んで含めるように高橋先生が言った。その顔は余裕に満ちていて、長年の経験に裏打ちされた自信が見て取れる。だから、という訳ではないけれど。アイは真剣な表情で耳を傾けていた。
「あと話を聞きながら、相手の考え方を理解する事も大事よ」
「それは相手の考え方に合わせて、説明の仕方を変えるからですか?」
人間は感情の生き物だ。どんなに正しい理屈を並べたところで、感情を納得させなければ説得は難しい。故に誰かを説得したい時は、その相手の性格を掴む事が重要になる。受け入れ難い理屈を突きつけられれば、途端に人間は意固地になってしまう。普段なら聞き入れる言葉にすら耳を貸さなくなり、自分の考えに固執し始めるわけだ。それを避ける為にも、相手の性格を上手く掴む必要がある。
「ええ、その通りよ。とにかく相手との信頼関係を崩さない事が大切なの」
耳に痛い言葉だとアイは思った。だって彼女は今まさに、信頼を裏切った所為で窮地に追い込まれているのだから。
アイとて信頼というものを軽んじている訳ではない。強い信頼関係を結べるならそれに越した事はないし、その為に注意も払っている。ただ彼女の場合は、相手にとって耳触りの良い言葉を優先するあまり、自身の立ち位置が覚束ない点が問題だった。八方美人のどっちつかず。気付かれない内は大丈夫だが、一度でも相手に知られてしまえば、信用の回復は難しい。
「……信頼関係が崩れた時はどうするんですか?」
踊らされている感はあったが、それでもアイは問わずにはいられなかった。
「患者が望むなら、他の医師と交代する事もあるわね」
「それ以外でお願いします」
アイが語調を強めれば、高橋先生は面白そうに笑みを深めた。見透かしたようなその反応を見て、アイの柳眉が急角を成す。それでも声を荒げなかったのは、決して理性のお蔭ではなく、子供っぽい意地があったからだ。
「そうね、会話の流れは色々よ。とにかく相手を心配している事を伝えるだけで心を開いてくれる人も居れば、逆に心を閉ざしてしまう人も居る。だから患者さんの反応を見ながら話を進めていくの。ただ一つだけ、いつも心掛けている事があるわ」
高橋先生が人差し指を立てる。知らず、アイの姿勢が前に傾いた。
「自信を持って話すこと。これだけは気を付けるべきよ」
「自信を持って話すこと…………」
鸚鵡返しにアイが呟けば、高橋先生はもっともらしく頷いた。
「そうよ。相手の怒りを鎮めたいだけなら、貝のように黙っていればいい。でも信頼を取り戻したいのなら、自信の無さそうな顔を見せちゃダメ。たとえ謝る時でもね」
どうして。反射的に問おうとしたアイだが、その直前で思い留まった。尋ねる代わりに、彼女は自分で考える。
謝る時でも自信を持つ。それでは要らぬ反感を買いかねないと思ったアイだが、案外そうでもないかもしれないと思い直した。相手の顔を窺って謝るというのは、つまり怒られるのを恐れているという事だ。その感情は仕方の無いものだが、相手にとって気分の良いものではないだろう。何故ならそれは怒られたくないから謝っているだけで、相手に悪いと思って謝っているのではないと取られかねないからだ。
相手に悪いと思っているからこそ謝る。それは当然の事で、当然の事をするなら迷いは要らない。謝る態度に自信が見られなければ、その謝罪が本心のものかどうか疑わしくなってしまう。つまりはそういう事だろうかと、アイは考えた。
「あなたって怒られ慣れてないでしょ?」
思案に沈んでいたアイの耳に、高橋先生の声が届く。
「たまに私達を怒らせる事はあるけど、怒られる事ってほとんど無いのよね」
「そんな事は……」
ない、とは言い切れないアイだった。たしかにアイが怒られる時は、事前にそうなる事を予想して行動した場合がほとんどだ。怒らせる、という言い方もあながち間違いではないだろう。それ故にアイは、突発的な喧嘩などには慣れていなかった。
「だから仲直りする自信が無いんでしょ? 昨日からずっと不安そうにしてるもの」
そうかもしれない、とアイは思った。これまで喧嘩をした事が無いとは言わないが、今回のような状況は、彼女にとって初めての経験だ。お蔭で勝手が分からず、先行きも不透明で、アイの心には暗雲が立ち込めていた。
「もっと自信を持ちなさい。同情じゃ信頼は買えないわよ」
「…………ほんと、今日は意地悪ですよね」
俯き、アイが呟く。しかしすぐに顔を上げ、彼女は柔らかな笑みを見せた。
「でも、ありがとうございます」
それはアイの本心から生まれた、とても純粋な言葉だった。
◆
涼やかな風が吹き、綿毛のような雲がのんびりと流れていく青空を、アイは黙って見上げている。長い黒髪を風に遊ばせて、温かな陽光を全身に浴びながら、彼女はそっと目を瞑った。目蓋の裏に浮かぶのは、初めてマミと出会った時のこと。あの時と同じ病院の屋上に佇んで、アイは同じように自分の小ささを噛み締めていた。
マミと友達になってから、アイの環境は大きく変わった。しかしアイ自身はどうだろうか。周りに比べて、彼女自身はどれだけ変われたのだろうか。悩んだ事はたくさんあった。後悔だって色々あった。でも、たぶん、アイは前に進めていない。少なくとも成果は出せていない。多くの事実を知り、様々な事を考えてきたが、アイはまだ一歩を踏み出せていないのだ。
息を吐き、アイが目を開く。文句の付けようが無い、綺麗な空だった。
今日こそ前に進もう。少しで良いから変わろう。アイは静かに、その決意を胸に刻んだ。
「うん。もう大丈夫。待たせちゃったかな?」
一つ頷き、アイは明るい顔で振り返る。彼女の後ろには、ほむらが無言で佇んでいた。
「構わないわ。まだ時間には余裕があるもの」
表情を変えずに答え、ほむらは艶やかな黒髪を掻き上げる。普段と同じその態度がなんとも頼もしく、アイの肩から力が抜けた。黒い瞳がほむらの足元に向く。そこにはあの女の子が仰向けに横たわっていた。きっちりハンチング帽を被せてあるほむらの几帳面さが可笑しくて、アイの口元が自然と綻ぶ。
これから、アイは女の子と話し合う。正直に、正面から、彼女を説得する。それが上手くいく確証は無いし、不安材料は探せばいくらでも出てくるだろう。それでもアイはやらねばならない。逃げる事は許されないのだ。
「彼女に、ソウルジェムを――――」
穏やかな口調でアイが告げれば、ほむらは黙って首肯した。直後、ほむらの左腕に何かが現れる。直径二十センチほどの平らな円形をしたそれは、見方によっては金属製の盾のようにも思えた。それが魔法少女としての装備なのだと、アイは理解する。
ほむらは盾の影へと右手を伸ばし、次の瞬間にはソウルジェムを握っていた。一瞬の早業だ。おそらくほむらの能力によるもので、誰にも触れられない場所に隠していたという言葉を考慮すれば、物質を収納する特殊な空間を持っているのかもしれない。
女の子の胸元にソウルジェムを置き、ほむらが遠ざかっていく。反対に、アイは横たわる女の子に近付いていった。
一歩進む度に、アイの鼓動が激しさを増していく。今にも胸が張り裂けて心臓が飛び出すんじゃないかと思うほどで、隠しきれないほどに足は震えていた。しかしそれでも、アイの顔に迷いは見られなかった。
そして、アイが女の子の下に辿り着く。ソウルジェムが戻ったお蔭だろう。女の子の胸は微かに上下していて、そこに命が宿っているのだと確認出来た。思わず、アイは安堵の息を吐く。
「ん……ぅ……」
女の子の目蓋が震え、徐々に開かれていく。そうして明るい茶色の瞳が露わになった。まだアイの存在には気付いていないらしく、女の子の目線はぼんやりと泳いでいる。意識が覚醒しきっていないのか、女の子の手は無造作に動いていて、その途中でソウルジェムを掴んだ。目の前にソウルジェムを掲げて、女の子が何度か瞬きする。
「えっと……?」
不思議そうな顔をしながらも、女の子はゆっくりと立ち上がった。ソウルジェムを握った手でハンチング帽を押さえる彼女は、黙って佇むアイに背を向ける形で立っている。意を決し、アイはその背中に声を掛けた。
「おはよう。特に問題が無いみたいで安心したよ」
意外にもアイの声は震えなかった。そして、呼び掛けに反応した女の子が振り返る。
二人の目が合った。女の子が驚き目を見開く。対するアイは、とても優しく微笑んだ。
「あのね――――」
瞬間、なにが起こったのかアイは理解出来なかった。
頬が熱い。ただ熱い。いきなり視界がブレた意味が分からなくて、何をされたのか意識が追い付かなくて、アイは呆然と立ち尽くす。ただ左頬に宿る熱だけは本物で、彼女は無意識に手で押さえた。ジンワリと、頬から痛みが広がった。
「――――え?」
ようやく、アイはぶたれたのだと理解する。
誰に。女の子に。どうやって。右手を使って。
「わたしになにをしたのッ!!」
女の子が叫ぶ。怒りに燃えた声だった。肩を震わせ、アイは揺れる瞳で女の子を窺う。
愛らしい顔を歪め、女の子がアイを睨んでいる。そこにあるのは、もはや憎しみと呼べるほどの激情だった。
「えっと、その……」
頭も舌も回らない。頬の痛みがアイの全てを鈍らせる。これでは駄目だと理解しているのに、よくないと分かっているのに、アイの思考は何一つ有効な手立てを思い付いてくれなかった。痛みが脳を侵していく。事実が心を打ち据える。ぶたれるなんてアイの人生で初めての事で、彼女は混乱の最中に突き落とされていた。それでも必死に、アイは女の子に語り掛ける。
「落ち着いて。話があるんだ」
「それで? また嘘をつくんだ?」
冷笑。アイを見下ろす女の子が口端を吊り上げる。自嘲とも取れるその表情からは、欠片の信頼も感じ取れない。思わずアイは泣きたくなった。赤子のように泣き叫び、女の子に赦しを請いたかった。でもそれは、なんの解決にもならないのだ。
「そうじゃない。そうじゃないんだよ」
アイが弱々しく首を振る。適切な対応ではないだろうが、アイは上手い言葉を見付けられなかった。それでも会話を続けなければという焦燥に駆られ、彼女は必死に口を動かす。
「だから、さ。ボクが言いたいのは……」
言い淀み、鋭い眼光から逃れるようにアイは目を逸らした。
たぶん、それが最後の決めてだった。
「――ッ。もういい!」
犬歯を剥き出しにして女の子が言い捨てる。そのまま彼女は歩き出し、正面のアイを押し退けた。よろめくアイを気にも留めず、女の子はどんどん遠ざかっていく。待ち時間を嫌ったのか、向かう先は階段に繋がる扉だった。
「待って」
小さな呟き。女の子の背中に手を伸ばし、アイは亡者のような足取りで後を追う。
「待ってよ!」
大きな叫び。しかし女の子は止まらない。呼び掛けなど知らないとばかりに足を速めた彼女は、そのまま扉に辿り着く。女の子が取っ手を握ったところで、ようやくアイが駆け出した。だがあまりにも遅過ぎる。致命的なまでに手遅れだ。
扉が開く。屋内の様子が見える。女の子が、その向こうへと消えていく。間に合わない。その確信と共に、アイの顔が醜く歪む。それでも走って、走り続けて、結局、アイの目の前で扉が閉まった。金属音が、冷たく重く、辺りに響き渡る。そしてアイは立ち止まった。扉を開く勇気が無くて、何も出来ずに、彼女は唯々立ち尽くす。そうして人形みたいに固まっているアイに、離れていたほむらが近付いてくる。
「追わなくていいのかしら?」
追えないんだ、とアイは声に出さずに呟いた。
アイが伸ばしていた腕を下ろす。拳を握って、開いて、また握る。両の手を震わせて、小さな唇を噛み締めて、アイは無言で空を仰いだ。涙は流れない。でも、どうしようもなく、どうしようもなかった。
「あなたが悪いわけじゃないわ。これは仕方の無い事なのよ」
ほむらの声が聞こえた。それはたぶん、慰めだったのだろう。
青空を見上げたままアイは口元を歪めた。薄紅色の唇が、うっすらと開かれる。
「良い悪いの話じゃないよ。仕方無いとかも関係無い」
冷たい声だった。言葉を投げ捨てるような口調だった。
「ボクにはなんにも無いんだ。できる事なんて、これっぽっちもありゃしない。昔っからそうさ。みんなと比べて不器用だった。入院したらもっと駄目になった。本を読むようになったのもそれが理由さ」
滔々と、朗々と、少女らしい高い声が響き渡る。でもそこに子供らしさは微塵も無くて、疲れ果てた老人のような諦念に満ちていた。それを紡ぐアイの顔もまた、言い様の無い苦しみに満ちている。
「勉強だけは得意だった。やればやるほど身に着いて、それが凄く嬉しかったんだ。周りの大人も褒めてくれたしね」
アイが苦笑する。含みのあるそれは、決して正の感情から生まれたものではないだろう。
「でもさ、結局は勉強してるだけだったんだ。本当に、それだけ。誰かに勝てるわけじゃないし、誰かを助けられるわけでもない。どんなに頑張ってもなんの成果も出ないわけ。褒めてもらえたのも、単に努力してるからだった」
それでも両親を亡くすまでは、アイは現状に満足していた。勉強も将来への投資だと割り切って、黙々と励んでいたのだ。だけど父も母も居なくなって、自分の無力さを再確認したら、どうしようもなく惨めに思えた。
「ボクはずっと無能者のままだった――――ッ」
俯き、アイが歯を食い縛る。その拳は固く握られ、小刻みにわなないていた。
「努力がなんだよっ。怠け者が居るからどうしたよっ」
お前は十分に頑張った。そんな言葉は慰めにもならない。
子供はそこまでしなくていい。そんな一般論は聞いていない。
「ボクは誰かの役に立ちたいんだよッ!!」
悲痛な声を張り上げ、アイは涙を流しながら振り返った。
ほむらが息を呑む。瞠目した彼女は、アイを呆然と見詰めていた。
「悪でもいい。嫌われたままでも構わない。少しでもあの子の心を晴らせれば、それでよかったんだ」
アイの顔がクシャリと歪む。今にも壊れそうなほど儚くて、今にも潰れそうなほど頼りなくて、見ているだけで胸が締め付けられるような表情だった。もはや見栄も無ければ意地も無い。剥き出しの感情がそこにはあった。
「だってボクにできるのは、本当に、話す事だけなんだ」
他には何一つ出来ないから。碌に友達を追い掛ける事すら出来ない体だから。だからアイは、そこだけは譲りたくなかった。他の何を置いても、話す事だけは自信を持っていたかった。
「なのに……話す事すら、できないなんて…………」
血を吐くような声だった。罅割れそうな声だった。アイの頤から涙が零れ落ち、屋上の床に染みを作る。
まさか話を聞いて貰えないなんて思わなかった。だってそれは、アイにとって初めての経験なのだ。彼女の言葉が相手に届かない事なんて無かった。どんな時でも耳を傾けてくれた。だから、本当に、どうしていいのか分からない。
「なんで、なんで……なんでだよぉ…………」
もうアイの思考は滅茶苦茶だ。色んな事を考えて、なのにまともな答えは一つも無くて、悲しみばかりが膨らんでいた。なにもかもが嫌になりそうで、だからといって放り出す事も出来ない。嵐の海に放り込まれた気分だった。自分だけではどうしようもないのだ。だけど助けの求め方すら分からなくて、アイの心は闇の中を彷徨っていた。
小さく嘆息の音。ほむらのものだった。思わずアイが身を竦ませる。
「少し落ち着きなさい」
フワリと、アイの顔が温もりに包まれた。柔らかな感触が頬に当たる。甘い香りが鼻を擽る。抱き締められたのだと、アイは暫くして気が付いた。アイの後頭部が押さえられる。そして、優しく撫でられた。
「巴マミじゃなくて悪いわね」
ほむらの胸に額を押し付けて、アイは首を横に振る、
意外ではあったが、アイは凄く嬉しかった。同時に、申し訳なさが込み上げる。
「ごめん。ごめんね」
情けなくて、ごめんなさい。涙色の声音で紡いだその言葉に、ほむらの返事は無かった。ただ静かに、ほむらはアイを抱き締める腕に力を籠める。そのまま暫く、青空の下に、少女の泣き声が響いていた。
◆
人気の無い廊下をアイが進む。泣き腫らして真っ赤な目を下に向け、覚束ない足取りで自身の病室を目指していた。ほむらは傍に居ない。一人になりたくて、アイは心配する彼女を帰らせたのだ。だから辺りに響くのは、ひとりぼっちの足音だけだった。
やがてアイは、病室の前に辿り着く。見慣れた扉がやけに大きく見えて、彼女は憂鬱そうに溜め息を漏らした。取っ手を掴み、扉を開く。いつもより重たく感じたが、それを気にする事すら、今のアイには億劫だった。僅かに開いた扉の隙間に体を捻じ込み、アイは病室へと足を踏み入れる。そこでまた、彼女は俯いて嘆息した。
「あら、ようやく帰ってきたのね」
聞き慣れた声が耳を打つ。驚き顔を上げたアイの視界に、よく知る顔が映り込む。窓際に置いたテーブルの傍に、私服を着たマミが立っていた。予想外の事態に、アイはポカンと口を開けて立ち尽くす。
「すぐにお湯を沸かすから、先に座っててちょうだい」
そう言ってマミは、台所に繋がる扉を潜っていった。よく見ればテーブルの上にはティーセットが用意されていて、スコーンとジャムも置いてある。どうやらアイが居ない内に訪れたマミは、一人でお茶会の準備をしていたらしい。
言われた通り席に着き、アイはぼんやりとテーブルの上を眺めていた。未だに思考は上手く回らない。どうしてマミが居るのか分からないし、どうやって対応すればいいのかも思い付かない。まるで魂が抜けたような気力に欠ける表情で、アイは時の流れに身を任せていた。
「いきなり来てごめんなさい。昨日は無理してるみたいだったから、少し気になったの」
優しい声が、アイの耳を擽る。見ればティーポットを手にしたマミがすぐ傍に立っていた。彼女は微笑を浮かべると、アイの前に置かれたティーカップに紅茶を注いでいく。白い湯気が立ち上り、紅茶の香りが広がった。その匂いに刺激され、ようやくアイの思考が回り始める。当て所なく彷徨っていた目線がマミに固定され、黒い瞳に少しだけ輝きが戻った。
「その様子だと、来て正解だったみたいね」
ちょっぴり得意げにマミが笑う。そんな親友の姿を見て、アイは悲しそうに眉尻を下げた。
マミが遊びに来た理由は、アイを心配したからだ。それはとても嬉しい事だと、アイは素直に感じている。けどその優しさに応える事は、今のアイには出来ない。彼女の心は既にその程度の余裕すら失っていた。
「ねえ、マミ」
「なにかしら?」
「えっとさ……」
口元をまごつかせる。目線を落とす。それから喉を鳴らし、アイは意を決したように口を開いた。
「今日はもう、帰ってくれないかな?」
瞬間、部屋の空気が凍りついた気がした。
「…………え?」
マミの反応は、それだけ。理解出来ないといった様子で目を丸くして、彼女は呆然とアイを見詰めている。その姿が居た堪れなくて、アイはマミから目を逸らした。だがそれでも、彼女は話を止めようとはしない。
「それと、暫くここには来ないでほしいんだ」
やはりマミは、アイの言葉をよく分かっていないようだった。
時間が経ちようやく理解が追い付いたのか、マミが震える声を紡ぎ出す。
「ど、どうして? 私……なにかした?」
決して大きくないマミの声は、それでもアイの心を深く抉った。膝に乗せた拳を握り締め、アイが肩を震わせる。マミの顔は見れなかった。少しでも見てしまえば、きっと決意が揺らいでしまう。そう思って、アイは頑なに下を向いていた。
「マミは悪くないよ。ちっとも悪くない。これはボクの我が儘なんだ」
「だったら理由を教えて。ね? 私が相談に乗ってあげるから」
アイが唇を噛む。声を出さずに、彼女は首を振って否定した。
「そんなに悲しい事を言わないで。問題があるなら私がなんとかするわ」
必死にマミが語り掛けてくる。アイが初めて聞くような声だった。それでもアイの答えは変わらない。貝のように黙ったまま、彼女は首を左右に振り続ける。その姿は、どこか壊れた人形を思わせるものだった。
「だから、ねえ――――」
「いいから」
ようやくアイが口を開く。出てきたのは、怒りを抑えたような、とても低い声だった。
「早く、出てって」
息を呑む音が、やけに鮮明に聞こえた気がした。
何も言わず、アイは入院着の裾を握り締める。
「……わかったわ。その、ごめんなさい」
暗く沈んだ声音で、マミが呟いた。直後に足音が聞こえ、アイから遠ざかっていく。思わずアイは顔を上げそうになった。けど、堪える。俯いたまま膝に爪を立て、彼女は彫像の如く動かなかった。
「ごめんね、アイ」
最後にその言葉を残して、マミは部屋から出ていった。
謝ってはいたが、きっとマミは何も理解していない。訳が分からないまま、ただアイに許してほしくて、彼女は謝っていたのだ。その事を思うと、アイは胸が締め付けられた。けど、アイにはこうする事しか出来なかったのだ。
マミの姿を見た時、アイは二つの事を考えた。一つは、マミがあの女の子ではなくてよかったという安堵。もう一つは、どうしてそんなに暢気なんだという苛立ち。そしてそのどちらも、アイの中で確たる存在を主張していた。普段ならすぐに抑え込めるはずなのに、今の彼女にはそれが出来なかったのである。そんな余裕は、アイの心から消え失せていた。
このまま一緒に居れば、きっと余計な事を口走る。そう確信したからこその判断だった。
「ボクの方こそ、ごめんなさいだよ」
右手で目を覆い、アイが天井を仰ぐ。微かに開いた唇からは、言葉にならない音が漏れる。
どうしようもなく、アイは疲れていた。もう何も考えたくない。全てを投げ出したい。そんな弱気が、彼女の心を蝕んでいく。絵本アイにとって、会話は心の支えだった。言葉だけが、他人に影響を与える唯一の手段だったのだ。だからこその衝撃だった。あの女の子がまともに取り合ってくれなかった時、アイは自分の全てが否定された気がした。お前にはなんの価値も無いのだと、そう言われた気がしたのだ。
所詮はアイの被害妄想だろう。そんな事は彼女自身も理解している。けど頭では理解していても、心が納得してくれなかった。怖いのだ。生まれて初めて友達に拒絶されて、また同じ事になったらと思うと、アイは怖くて堪らなかった。たしかに女の子の病室に行けば、会う事が出来るかもしれない。話せるかもしれない。それが分かっていても、今のアイは動けなかった。
「ほんと、バカみたいだ」
呟き、アイは紅茶に口をつける。マミが淹れてくれたそれは、けれど悲しい味だった。
結局この日、アイが女の子の病室を訪れる事は無かった。
◆
「あ、あのっ。それって本当ですか?」
アイがその報せを聞いたのは、まだ朝食も済ませていない早朝の事だ。慌てた様子で病室に飛び込んできた看護師さんを見た瞬間に、アイは嫌な予感に襲われた。今度はどんな問題が起きたのか。すぐにでも布団を被って耳を塞ぎたい衝動に駆られた彼女だが、それが許されない事は分かっていた。そうして覚悟を決めたアイに齎されたのは、やはりよくないものだった。
とある患者の失踪。そう、あの女の子が病院から姿を消したと言うのだ。アイにしてみれば、まさしく晴天の霹靂だった。まさか、と最初は否定しようと思った。けれど真剣な表情の看護師さんを見れば、その言葉が真実なのだと嫌でも分かる。
「本当よ。朝行ったら書き置きだけが残ってて、もうみんな大騒ぎなんだから」
「書き置き、ですか?」
「ええ。なにか探し物があるらしいの。それであなたなら、心当たりがあるんじゃないかって」
探し物、とアイの呟き。それから下を向いて思案に沈んだ彼女は、やがて力無く首を振った。
「すみません。ちょっとわからないです」
「そう。あなたなら、と思ったんだけど」
残念そうな看護師さんを見て、アイは申し訳なさから身を縮めた。
「力になれなくてすみません」
「いいのよ。友達だからって、なんでも知ってるわけじゃないもの」
「……そうですね」
「それじゃあ私は戻るわね。もうすぐ朝食だけど、ちゃんと残さず食べるのよ」
意識しての事だろう。明るい声でそう告げて、看護師さんは病室から出ていった。その背中を見送ってから、アイはひっそりと息を吐く。青白い面立ちに憂いと疲れを色濃く浮かべ、彼女はベッドに倒れ込んだ。
考えたくない。アイはもう、何も考えたくないのだ。あまりに多くの事が起き過ぎた。彼女の心は飽和状態で、周りの全てが煩わしくて、余裕なんて欠片も残っていない。見えていたはずの希望すら、今では靄が掛かっているように感じられた。
「…………」
暫く死んだように動かなかったアイが、気怠そうに身を起こす。それからサイドテーブルに載った電話へと手を伸ばした。彼女は受話器を取り、昨日と同じく、ほむらの番号を呼び出した。
『はい。暁美です』
「アイです。二日連続でごめんね」
深く沈んだ声でアイが喋る。
絞り出す元気すら、アイは持っていなかった。
『……なにかあったの?』
薄紅色の唇が、自嘲で歪む。
「あの子が消えちゃった。一人でどこかに行っちゃった」
『それは、昨日の彼女かしら?』
「うん。探し物があるらしいけど、よくわかんないや」
ほむらは何かを考えているようだった。電話口から聞こえる声が途絶え、暫し沈黙が訪れる。その間、アイはぼんやりと本棚を眺めていた。ある意味では彼女の努力の証とも言えるそれも、何故か今はくすんで見える。
『グリーフシードね』
再び聞こえたほむらの声で、アイの意識は引き戻された。
『彼女が魔法少女の真実を知ったというなら、グリーシードを集めに行った可能性が高いわ。魔女になりたくなければ、ソウルジェムを浄化するグリーフシードを集め続けるしかない。そう考えるのは自然な事よ』
「……あぁ、そっか。そうだよね」
とても単純な論理の帰結だ。こんな簡単な事にすら思い至らなかったなんてと、アイは笑うしかなかった。まったくもって今の彼女は話にならない。碌に頭が回っていない事を、アイは改めて実感した。
『用件はそれだけかしら?』
「いや。もう一つ、大切な事が」
黒い瞳を宙に彷徨わせ、それから彼女は、静かに目を瞑った。
「本格的に参ってるみたいでさ、暫く力になれそうにないや」
投げ遣りな感じでアイが喋る。それは彼女の本心だった。元々アイに出来る事なんて限られているが、その限られた事すら、今の彼女には出来そうにない。こんな状態で頑張ったところで空回りにしかならないし、余計に調子を落としてしまうかもしれない。だからこそアイは、気持ちに整理をつける時間がほしかった。
「あの子が居なくなった事を聞いた時、ちょっとだけホッとしたんだ。これであの子と話さなくて済むかもって、心のどこかで安心してた。ダメダメだよね。こんなよわっちい奴じゃ、誰も救えやしないよ」
問題から目を背けて、逃げて、戦おうとしない。それがアイの心の在り様で、このままではもしもの時に、たとえマミの為でも躊躇うかもしれない。そんな馬鹿げた事を考えてしまうくらい、今のアイは追い詰められていた。
「時間が経てば、少しは落ち着くと思う。だから、なんていうか……ごめん」
それきり、アイは口を閉ざす。ほむらの返事を待って、受話器に意識を傾けていた。
呆れられるかもしれない。見限られるかもしれない。そんな不安がアイにはあった。けど何が出来る訳でもなくて、彼女はただ、ほむらの応答を待ち続ける。一分にも満たないはずのその時間は、何故かとても長く感じられた。
『わかったわ。暫くは私だけでやるから、心の整理がついたら連絡してちょうだい』
普段通り、苛立ちも失望も感じさせないほむらの声。それを聞いて、アイは胸を撫で下ろす。
『それと』
「……なに?」
おそるおそるアイが問えば、返ってきたのは、やはり変わらぬ調子の声だった。
『頼りにしてるから』
短く端的なほむらの言葉。それに対して、アイは何も返せなかった。
胸元を強く握り締め、アイはそっと目を瞑る。眦から溢れた雫が、頬を伝って零れ落ちた。
-To be continued-