ふう、とワルドは深い溜息をついた。
いや、本当に……まだ裏切り表明してなくてよかったなあ、と心底思うのだ。
はじまりはアンリエッタ王女の手紙だった。
実の所、あんなものが問題になるとは思っていなかった。
何故か?
ゲルマニアのアルブレヒト三世は別にアンリエッタに惚れているから婚姻に賛成した訳ではない。彼は何かとなりあがりと蔑まれるゲルマニアに始祖の血を引き入れる事で名実共に列強としての名を得る為にアンリエッタを欲したのだ。
そんな所に、滅び行くアルビオンの皇太子との恋文が出てきたとしよう。
そんなもの両国が口を揃えて、両国の関係を悪化させようとするレコンキスタの策謀だと断言してしまえばそれで良い。アルブレヒト三世はアンリエッタという小娘が誰を本当は愛していようが、平然とそれを無視して抱ける男だ。
だから、正直腹の中で嘲笑いつつ、虚無の可能性が高いと確たる筋から聞いていたルイズを取り込むつもりだったのだが……予定は朝からいきなり崩壊した。
グリフォンに乗って颯爽と、と思ったのだが、グリフォンの挙動が明らかにおかしく、着陸もおかしなものになってしまった。訓練されたグリフォンが何をと思ったのだが、ルイズの傍にいる巨大な竜の姿を見て、顔には何とか出さなかったものの、驚愕した。
一応、ルイズが呼び出したらしいのだが、使い魔のルーンを吸収して、力だけ吸い取った……要はルーンの内、術者に従うとかそういう部分は取り除いていい所だけ使っているらしい。それを使い魔と呼んでいいものかは甚だ疑問だが、ルイズがお願いすると鷹揚に了承してくれた、ようだ。
なお、さすがにこんな相手にキュルケは情熱を感じる訳がなく、ギーシュは現在ケティと甘い一時を過ごしているというか、【竜王】に頼んで乗せていってもらうと知った時点で逃走した。現在は【竜王】と共に過ごしているのはタバサぐらいのものだ。……何でも、お願い事をしてあっさり叶えてくれた事から自分も彼に礼を返すのだと誓っているという。
ずるい、と思ったが、【竜王】から「何を礼として差し出すつもりか?」と面白そうに聞かれての答えが、「私自身」と迷いなく応えた、それだけの覚悟の上だから応じたのだと言われては黙らざるをえない。というか、ルイズも既に自身の魔法についてアドバイスを貰っている以上、何も言えなかったのだが。
何でも、自身の力を解放したいのなら、火土水風の四つのルビーのいずれかを指にはめ、始祖の秘法と呼ばれる始祖の祈祷書、始祖のオルゴール、始祖の香炉、始祖の彫像のいずれかに触れる必要があるのだという。そうすれば、この世界の虚無とかいう魔法が使えるようになるだろうよ、とあっさり言われたのだが、ルイズとてこの竜が相手でなければ信じられなかっただろう。
幸いというか、アンリエッタから水のルビーを預けられた。
これで、アルビオンにあるという始祖のオルゴールを触れさせてもらえれば……そう思ったから、ルイズがアンリエッタのお願いを聞いた時は二つ返事で引き受けたのだ。……むしろ、【竜王】に乗せてもらうようお願いする方が怖かったが。
さて、ワルドだが、当人はあれこれ策を練っていた。
偏在を事前にラ・ロシェールに送り込み、手はずも整えてはみたのだが、そんなものは出発して一秒後には崩壊していた。
何しろ、羽ばたきもせず浮き上がった直後、彼らはレコンキスタとアルビオン王家の篭るニューカッスル城、その間に出現していたからだ。
それこそ瞬間転移の如く、いや実際にしたのかもしれないが、瞬時に移動してしまっていた。
当然、しばらくの沈黙の後、レコンキスタ側の戦艦からは泡を食ったように砲撃をかけてきたのだが……まるで効果がなかった。背にいる自分達でさえ。
おまけにそれで終わらなかった。
次の瞬間、レコンキスタの総帥であるクロムウェルが空を飛んで、【竜王】の前に引きずり出されたからだ。
……ニューカッスル城からもレコンキスタからもよーく見える空の上で。
『成る程、お前が泥棒か』
その言葉に、最初は誰もがこう思った。
アルビオン王国を盗もうとしているという比喩かと。
だが、そんなものではある意味済まなかった。
『ラグドリアン湖とやらの水の精霊に聞いたぞ。死者を蘇生させ、人を洗脳する魔法の道具を盗み出したそうだな』
死者の蘇生。
それはクロムウェルが虚無と称していた力。
王家を攻める表向きの理由となっていた、そしてレコンキスタの求心力の一つが、何万人のど真ん中で思い切り公表され、失われた。
『返してもらうぞ』
クロムウェルの指から抵抗する間もなく、指輪がするりと抜けると、くい、と振った首に従い、指輪は一直線に水の精霊目指して飛んでいった。
クロムウェル自身はそのまま下へ降ろされた、のだが……。
さて、ここからが大騒動だった。
指輪が失われた瞬間、蘇っていた貴族や兵士はまた死体へと戻り、更に洗脳されていた貴族達が一斉に正気に戻ったからだ。
当り前だ。
王家に忠誠を誓った者達だって大勢いた。
そんな人間達さえ裏切ったからこそ、王家はここまで短期間にここまで追い詰められていたのだが……その裏切った理由が明らかにされた上に、それが解けてしまったのだ。
そして、尚悪い事に、クロムウェルが降ろされた先なんて【竜王】は気にしていなかったが、そうした洗脳された貴族達が操られるままに陣を張る前衛のど真ん中だった。
そう、魔法の使えないクロムウェルが正気に戻って、怒りと憎悪に満ち満ちた視線で彼を睨む貴族達のど真ん中に放り出されたのだ。……後はどうなったかなど考えるまでもあるまい。あっという間にクロムウェルは討ち取られ、更にこれを機に最後のチャンスとばかりにニューカッスル城から出撃してきた王党派、洗脳されていたとはいえ刃を向けた事を謝罪すると共にその分のお詫びはこの戦場でお支払いすると一丸となって突っ込んでいった本来は王党派だった者達。
そして、旗頭を失い、領主達でさえ死体に戻ったりした為に大混乱に陥るレコンキスタ軍。
……せめて、戦艦がレコンキスタに付いたままだったら何とかなったのだろうが、ここで迷いつつ王家に刃を向けていた軍人達が一斉に立ち上がった。
特に戦艦ロイヤル・ソヴリンが王家に味方すると逸早く宣言したのが大きく、ルイズとワルドが呆気に取られて上から見ている間に、あれよあれよという間にレコンキスタは壊滅して、僅かな貴族がかろうじて脱出する、という悲惨な結果に陥ったのである。
それで冒頭に戻るが、ワルドはしみじみと自分の運の良さを実感するのだった。
さて、その後はまた大騒ぎだった。
そんな中で、ウェールズに会えたのは幸運としか言いようがないだろう。
いや、クロムウェルの嘘を暴いてくれた【竜王】に王党派がこぞって感謝を露にしたのと、背に乗っていたのがトリステインはアンリエッタ王女から手紙を託されたヴァリエール公爵家の三女であるルイズだった事。
同乗者がトリステイン王国の近衛であるグリフォン隊の隊長を務めるワルド子爵だった事。
これらが合わさっての事だ。
もっとも、手紙を託される前と現在とではまた大きく状況が異なる。
何しろ、ワルドも事こうなればと全ての事情をぶちまけた為に、アルビオンがレコンキスタを打ち破った事を考えると同盟もそこまで必須のものでもなくなった。
「ですので、もう一度改めて話し合いを行う必要があるでしょう」
その言葉に、ある意味一番ほっとしたのはウェールズだっただろう。
愛する女性が中年のおっさんとの政略結婚をしなくて済む可能性が出てきたというのだから、それも当然か。
ルイズはこっそりと一部ぼかして事情を話し、始祖のオルゴールに触れさせてもらう機会をもらえたし、一晩泊めてもらった後は、別の意味で忙しくなりそうだった。
その晩、ワルドは一人、城壁でふう、と溜息をついていた。
自分の予定は全て粉微塵に砕け散った。
視線の先には【竜王】の顔。
「……全く、君は何でもあっさり解決してしまったな……どうせなら、私の悩みも解決してくれないものかな」
『出来る事なら手を貸してやっても良いぞ』
聞こえていないと思っていただけに、驚いた。
とはいえ、折角の事だと思い、事情を話したのだが……しばし考えた様子を見せた【竜王】が告げた言葉は……。