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『幼馴染』
主に子供の頃に同じ時間を過ごした仲の良い友達の事をそう呼ぶ。
本来は頼ん同士であるはずだが、特別な存在として扱われる事が多い。これは幼少期からの長い付き合いが相手を家族に近しい(また同然の)位置として認識させる、また過去の経験を共有する事で特殊な連帯感が発生するといった事柄から来ているのであろう。
ちなみに、異性同性関わらず幼少期を共に過ごした相手は幼馴染である。
――とある人物の手記より抜粋。
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「お、ここだここだ」
寮までの道のりをレコードを更新するような速度で駆け抜けてやって来ました自室まで。
山田先生に渡された紙に書かれているのは『1025号室』、目の前のドアに貼ってあるのも『1025号室』。間違いなく俺の部屋だ。
そして篠ノ之さんの部屋でもある。
「さあて。行きますか」
一度頬を叩く。彼女に話すことは、きっと俺が『織斑一夏』を名乗る以上、避けて通れない――避けて通ってはいけないものなのだろう。
一度頬を叩いて気を引き締める。
ドアを叩く(ノック)。
「……ありゃ? まだ帰ってねーのかな」
室内からは何の反応もない。まだ帰っていないのかもしれない。そういえば彼女は剣道の全国優勝者。当然ここでも剣道部に所属するのだろう。という事は部活動か。
「何か気ぃ抜けたなあ。まあ仕方ねーか」
出鼻を挫かれた気になりつつも、ともかく室内に入ることにする。鍵を回して――あれ。開かない。って事は最初から開いてたのか。荷物を運び入れた際に開けっ放しにされていたのか、それともルームメイト(篠ノ之箒)が一度戻って鍵をかけ忘れたのか。
「おおう」
部屋の中を見て口笛一つ。
足を踏み入れてまず目についたのは大きなベッドが二つだった。ビジジネスホテルに置かれている安っぽいものとは見るだけで違うと解る、造りのしっかりとしたものだ。使われている羽毛もさぞもっふもふに違いない。
「……でもちょっと距離近くないコレ? 離せねーの? あ、無理か……下でしっかり固定されてやがる。勝手に外したら怒られる……だろうなあ」
ベッドの質が良いのは喜ばしいのだが、俺としては少しベッド同士の距離が近すぎる気がしてならない。男同士ならともかく、ルームメイトは女子なのだ。壁の隅と隅くらいまで離れてても足りないくらいである。
『誰か居るのか?』
俺が居るよ。
どこかからそんな誰かの声が聞こえてきた。声が微妙にくぐもっているから、ドア越しなのだろうか。視界を走らせると、一枚のドアが直ぐに見つかった。
『ああ、同室になった者か。これから一年よろしく頼むぞ』
どうやら篠ノ之さんは部屋に居たらしい。そうかあのドアの向こうに居たからノックの音が聞こえなかったのか。
「こんな格好ですまないな。シャワーを使っていた。私は篠ノ之――」
ところであのドアの向こうは何があるんだろう。俺が思ったその疑問は彼女の言葉と――そして格好によってサッパリ綺麗に氷解した。
さて俺のルームメイトである篠ノ之箒嬢はシャワーを浴びていたらしい。シャワーがあるのだから、当然洗面所もある事は想像に難くない。
それらはどちらも水(もしくは湯)を扱う設備なので、こういったホテルや寮の部屋では同じ場所にまとめられている場合が多い。そしてその場合、洗面所は脱衣スペースを兼ねていることがとても多い。
「ぎ、」
距離的な近さに加え『相手は同性』という前提が、きっと彼女にはあったのだろう。ドアを躊躇なく開け、こちらに顔を出した篠ノ之箒嬢は体にバスタオルを一枚巻いただけという際どい格好だった。
その真っ白なバスタオルは身体にしっかり巻きつけた訳ではなく――しっかり巻きつけすぎてもラインが強調されてそれはそれでアレかもしらんが――あくまで身体を少し隠す程度で留められている。
バスタオルの端から露出した健康的な――瑞々しいと表現するに相応しい肌色が俺の網膜に飛び込んでくる。水滴が流れ落ちる太ももや、タオルを押さえる手が近いせいか肌に張り付いてその曲線を忠実にトレースしている胸のふくらみとか。
そして。
そんな扇情的な光景を網膜に焼き付けた俺は。
「ぎゃあああああああああああ!?」
力の限り悲鳴を上げた。
▽▽▽
ドアを蹴破る勢いで部屋を出て、そのまま一直線に寮からも出て、入り口の傍らで正座して精神を落ち着かせること数十分。部屋に帰って来たら羅刹が居た。
「何かもう全面的に本当に大変申し訳ありませんでした……」
下げた頭が床に当たってゴツッと音を立てる。
俺の眼前には道着姿の羅刹が座している。直ぐ手の届く位置に置かれた木刀がとても怖い。とはいえ一、二発は受ける事を覚悟しておこう。石頭には自信があるぜ。でも突きだったら避ける。だってあれは初心者がやっても人を殺しかねない。
それにしてもほぼ裸の女性を見たリアクションが真面目に悲鳴って言うのはどうなんだ俺。男としてどうなんだ本当に。折れた腕を蹴られた時も我慢できた涙が出そう。
「――どうしてここに居た」
目の前の娘が怖い。
すごく怖い普通に怖い。
「も、もしかして……私に、その、会いに来たのか……?」
と思ったら何故かもじもじとどもり出す羅刹。でも放つオーラは怖いままだからアンバランスさが不気味極まりない。恐らく彼女も裸(同然の姿)を見られて混乱しているのだろう。
さっきから地面と一体化しっぱなしの頭を上げる。話(説明)をするのに、相手の目を見ないのは失礼だろうし。
「えー、ルームメイトの織斑一夏です。これからよろしく篠ノ之箒さん」
俺の言葉を聞いた羅刹は『何を言っているのかわからない』と言った顔をしていた。
「……おまえが、私の同居人だというのか?」
「うん。そうなったみたいです」
呆然とした羅刹に――オーラ消えたから呼び方戻そうか――篠ノ之箒嬢に、さっき山田先生から渡された紙を見せる。そこには確かにこの部屋が織斑一夏の部屋であることが書かれている。
「ど、どういうつもりだ」
「え何が?」
「どういうつもりだと聞いているっ! 男女七歳にして同衾せず! 常識だ!」
ですよねえ。
しかし難しい言葉知ってるんだなこの子。初めて聞いた言葉だけど、まあ男女がむやみにくっつかないとかベタベタしないとかそういう意味なんだろう。たぶん。
「お前から希望したのか……? 私の部屋にしろと…………」
「あー、いくらなんでもそれは冗談が過ぎるんじゃねーかな」
この子(篠ノ之箒)には俺が女の子と一緒の部屋で暮らしたいです、なんて道徳観皆無な事を言い出すような男に見えるのだろうか。
流石にちょっと不服だぞ。馬鹿っぽいとかは散々言われてきたが、そっち方面でだらしないと言われた事は無いっつうのに。むしろ消極的すぎると言われた事すらある。
”ちりり”と、頭(脳)の片隅で火花が散った。
正確には何か擦れ合うような、そんな妙に嫌な感じ。悪い予感のすっごい鋭い版とでも言うか、第六感的なものとでも言おうか。要は”来る”って事だ。
俺の言葉の何がそんなに気に入らなかったのかはてんでわからないが、ともかくその答えは篠ノ之箒嬢の逆鱗のようなものに触れたらしい。傍らの木刀を掴んだかと思うと、瞬く間に振り上げ――そして振り下ろした。
衣擦れの音。
風切音。
迫る木刀。
俺の現在置かれている特殊な状況は、やはり脳なり精神に変な影響を与えているのかもしれない。そんな事を考えながら、”来ると分かっていた”木刀を眺めていた。
「……ど、」
俺の頭の、丁度額の辺りで鈍い音が鳴った。まあ高速で振り下ろされた木の塊が直撃したんだから音の一つも鳴るだろう。おまけに振っているのは全国大会優勝者だし。
「どうして避けなかった!!」
篠ノ之箒が叫ぶ。
握る力が緩んだのだろうか、彼女の手を離れた木刀が床に落ちて何度か跳ねた。
「――故意でなかったとはいえ、俺の不注意が招いた事だし。それに俺、一回逃げちゃったから。本当はその場で直ぐ謝らなきゃいけなかったんだ。これでチャラにしてくれとまでは言えないけど、お咎めナシはなにより俺自身が許せねえし、せめてケジメって事でね」
「ば、馬鹿……だからってこんな…………ああ、こぶになってるじゃないか、そ、そうだ、手当。手当てしないと……」
箒嬢は屈むと、俺の頭をがっちり掴んで丁度木刀が着弾した辺りをさすり始めた。頭をホールドする手はとても力強いのに、さする手の動きは妙に優しくてくすぐったい。
何だよこのプチ天国と地獄。
「そんな気にしなさんな。ていうか見てくれよりかはなんぼか頑丈だぞ、俺」
こっちの頭をがっちり掴んでいる手を解いて、座ることを促す。触って触られてわかったけど随分綺麗な手をしている娘だ。
「…………」
「さあて。落ち着いたことだし、話しましょうかね改めて」
「……って、ないのか」
「んあ?」
「…………怒って、無いのか……?」
さっきまでの羅刹っぷりはどこやら、ビクビクした様子で――怒られるのを怖がる子供みたいな顔で、箒嬢がちいさな声で呟いた。縮こまっているせいだろう、さっきまでよりも心持ち小さく見える。その様子が妙に可愛らしくて、思わず少し笑ってしまった。
「あはは、この場合怒るのは俺じゃなくて君だろうに」
「わ、笑うなっ! 思いっきり打ち込んだんだ! 下手したら――死んでいたかもしれないんだぞ!?」
ああ、それは大丈夫だよ箒ちゃん。
いっぺん”それ”を通り過ぎてるせいかは知らんけど、本当に”危ない”ときは事前にわかるから。
……ていうか思いっきり打ち込んでたかい。剣道経験者だから手加減も心得てると思った俺の予想吹っ飛んでるじゃねえか。道理で頭バックリ割れそうに痛い訳だよ。
「とりあえず話を前に進めようぜ。あんたは見られた。俺はケジメで殴られた。一応カタは付いてんだろ」
「うむ、そうだな…………そう、なのか?」
「そーなのそーなのこれでいーの。とりあえず話し合う事多いんだからサクサク行こうぜ。部屋変えまで俺と君が同室なのは変えられんのだから。それまでは互いに不服でも男女同室だ、今後今日みたいな事が起こらん為にも色々決めとかねーと」
「べ、別に私は不服という訳では……」
「そうか。なら良かった。拒絶された場合は最悪野宿でもしようかって思ってたから正直助かる。寝袋も入れてたんだけど、千冬さんのあの言い方じゃあ置き去りだろうからなあ」
「い、いやそういう意味で言ったのでは、」
「とりあえずはシャワーとか着替えとかそういうのだよな。着替えは部屋の中央辺りでカーテンでも区切れりゃいんだけど――金具付いてねえからなあ。あーもう荷物減らされたのが痛い。とりあえずその場合は事前に声かけるか……ああ、そうだ洗面所って鍵かけられるのか?」
「あ、ああ。鍵は付いていた」
「じゃあどっちかが中でやりゃいい訳だ。鍵ついてるならシャワーの時もそんな気にしなくていいな。後は……」
「て、提案がある」
「はい、篠ノ之くん」
おずおずと手を上げた箒嬢を指す。
「シャワー室の使用時間なのだが、私は七時から八時。一夏は八時から九時を提案する。部活後に直ぐシャワーを使いたい」
胴着着てるからそうだろうとは思ったが、やはり剣道部所属なのだろうか。さっきから正座がとても様になっているし。というかずっと正座しててそろそろ足がビリビリしてきた。
「文句は無いけど、部活棟にもシャワーあるんじゃなかったっけ?」
「私は自分の部屋でないと落ち着かないのだ」
「へえ、そういうもんか」
「そうだ。そういうものだ」
うんうんと頷きながらきっぱりと言い放つは篠ノ之箒。
俺はというと、彼女が『俺と同じシャワーを使うこと』自体にさほど拒否感が無いのが少し意外だった。
このくらいの年頃の女の子って同年代男子とシャワー室許由ってだけで嫌がりうそうなもんだが。まあ浴場使えなくて自室のシャワーしか使えない俺としては、共用を許可してくれることは素直にありがたいのだが。
「他には何かある?」
「いや……今のところは無いな」
少し考えこむ仕草の後、箒嬢がそう答えた。まあ今後問題が出たらその都度決めればいい。実際暮らしてみないとわからない事もあるだろう。
(千冬さん、そこら辺も考えてたのかねえ)
一通り話し終えて思ったが、この篠ノ之箒という女の子は、立ち振る舞いだけでなく考え方も随分しっかりしているようだ。ちと古風が過ぎる気もするが。
さあ、そろそろ思考を切り替えよう。
「取り決めも終わった事だし……ちょっと大事な話があるんだけど、いいかな」
「大事な話? 何だ?」
出来る限り真剣に切り出した。こちらの様子は伝わったらしく、箒嬢は怪訝そうな顔をしつつもこちらの言葉を待っている。
「織斑一夏と君は小学校四年の終わり辺りまで、いわゆる幼馴染という関係だった」
「そうだ。それがどうかしたのか?」
何を当然の事をと篠ノ之箒が口を尖らせた。
「だから当然、君は俺の事を知っている」
「何だ、さっきから何が言いたいんだ、お前は! 私をからかって遊んでいるのか!!」
話の筋が見えないことに激昂したのか、篠ノ之箒が立ち上がる。こちらを見下ろす篠ノ之箒を見上げながら、『織斑一夏』は淡々と話し続ける。
一つずつ段階を踏むように。
「織斑一夏は小学校五年の最初の頃に――つまりは君が引越しって行った後くらいに、事故にあった」
「…………え」
「そして事故の後遺症で、それまでの記憶を全部無くした」
「い、一夏……何を、何を言っているんだ? その言い方じゃあ、まるで、まるで私のことを――」
「俺は君の事を何も覚えていない。俺と君は今日が”初対面”なんだ」
その時の篠ノ之箒の顔を、俺は生涯忘れない。忘れてはいけない。俺が存在することで、誰かを悲しませたというこの事実を。
ぺたんと、篠ノ之箒が座り込む。
まるで身体中から力が抜けてしまったように。
「……一つ、お願いがある」
俺の言葉に俯いたままの篠ノ之箒は何の答えも返さなかった。
少しだけ待ったが、勝手に話す事にした。
「君の知っている、君を知っている『織斑一夏』をどうか責めないでくれ。君の知る『織斑一夏』には何の落ち度もなかった。事故にだって巻き込まれただけなんだ――責められるべきは、今君の眼の前に居る、君を忘れて(知らない)しまった『俺』であるべきなんだ」
これから先彼女が『織斑一夏』にどう接するのか、それは彼女が決めることだろう。でもせめて彼女の中の思い出は責めないで欲しい。彼女の思い出の中に居る織斑一夏はきっと被害者なのだから。
立ち上がって、すっかりしびれてしまった足でドアに向かう。彼女も気持ちを整理するには、扱いの難しい人間が近くに居ないほうが良いだろう。いっそ今日はこの部屋に帰らないかもしれない。
「本当に」
ノブに手をかけたところで声がした。
その声は弱々しく震えていた。
「本当に、何も覚えていないのか」
もしかしたらその問いは、彼女の最後の希望だったかもしれない。
でも『俺』にはそれを砕く事しか出来ない。彼女が求めているのは『俺』ではなくて『織斑一夏』なのだから。
「ごめん」
部屋を出た。
▽▽▽
懐かしい夢だ。
それが幼い頃の記憶なのだろうと思ったのは、俺自身の姿が幼かったからだろう。
でもどうしてだろう。幼い俺であるはずの俺の姿に何故か違和感を覚える。
それに、傍らに居る女の子は誰だ。
俺にはそんな――本来の意味での幼馴染はいない筈なのに。
そんな幼馴染が居るのは俺でなくて、織斑一夏の方のはずなのに。
傍らの女の子は長い髪を、後ろで一つに――
▽▽▽
「…………ふが?」
目を覚ますと、見慣れない天井がにじんで見える。何だろう何かとても、なんとも言い難い夢を見ていた気がするのだが。目覚めの瞬間はたしかに覚えていたはずの夢の内容は、眠気に溶けるように消えていった
昨夜はあれから一晩過ごす場所を探していたら、織斑先生に見つかって問答無用で部屋に蹴りこまれた。放りこまれたんじゃない、本当に蹴りこまれたんだ。しかし何であんなとこに居たんだあの人。
直ぐ出ては見つかるので、頃合いを見計らっていたのだが――結局そのまま自室で寝てしまった。慣れない事ばっかりしていたせいか、思いの外疲れが溜まっていたのかもしれない。
ちなみに篠ノ之箒は俺が部屋に蹴りこまれた時点でもう就寝していた。
「……? …………?」
妙に夢の内容が気になって仕方がない。
首をひねって頭を振っ――流れる視界の中で道着姿で正座する女の子の姿が――たりしても夢の内容はさっぱり思い出せなかった。
「――起きたか、一夏」
「えーと、篠ノ之さん? 何してんの……?」
見間違いではない。部屋の一角で、剣道着姿の篠ノ之箒が正座している。その姿はとても様になっていて、ここが剣道場であったのならばさぞ画になったであろう。
「私は決めたぞ」
閉じられていた瞳が、すっと開かれる。そこには昨日見せたあの表情は無い、それどころか、瞳の中には決意の光が強い輝きを放っているようにすら見える。
そして俺に対し――もしかしたら自分に対してもだったのかもしれない――篠ノ之箒はその決意を力強く宣誓した。
「私が、お前の記憶を取り戻して見せる!!」