こんな筈ではなかったのに。
堪らなく胸を穿つ後悔。久しく抱いてなかった感情に、かつての人であった頃の思いを取り戻した気がして、場違いながらも郷愁の念が込み上がる。
―――こうなってしまえば、獣も仙人も変わらりませんなぁ。
背後からの……否。全方位から木霊する幻聴。それは枯れ草を絶え間なく踏み締め、荒々しい呼吸を繰り返す最中でも聞こえて来る、強制力。
もう、どれくらい経ったのだろうか。領主が住まう里より大分離れた山中の一角。天を覆うばかりの竹林の間。日の光が射す道なき道を、ただ我武者羅に走っていた。
これが得を修めた後であれば、霧となるなり宙へ跳ぶなりの術は身に着けていたのだろうが、生憎と今この身にそれは至らず。結果、二本の足で駆けるだけの無様を曝け出していた。
なれば、ものをいうのは体力であるのだが……。
(そちらはまったく、鍛えておりませんでしたもの、ね)
怪力無双である訳でも、百戦錬磨の武勲を持っている訳でもない。青銅並みの体躯強度はあるのだが、元より華奢な女の身。ただ体力を使うだけの行為には不向きなのだ。速度も、持久力も。どちらも並み以下である自分からしてみれば、よくぞここまで逃げ切った。と、褒めても良い程の移動距離であった。
もうどれくらい走ったのかも覚えていない。もうどれくらい体を酷使したのかも記憶にない。あるのはただ、逃げなければと……生きたいという渇望のみ。
「ッ」
一瞬の浮遊感。
視界が霞み、線となる。次いで感じる、全身を襲う殴打の感触。肺から空気が全て抜き取られ、ともすれば意識を手放しそうになるのを辛うじて堪える。
目尻に込み上がるものを耐えながら、何が起こったのかと頭だけを向けてみれば、そこには天を仰ぐばかりの土壁がそびえ立っていた。崖の端と太陽が重なって、こちらを覆うほどの影を作り出している。
……どうやら、あそこから足を踏み外したらしい。
人の身であれば転落死は避けられない高度であったけれど、幸か不幸か、この身は仙人。屈強な戦士と同等かそれ以上の頑丈さを有している。
ただし、無傷でとはいかなかった。手や足から少量ながらも赤々としたものが流れ出ているのをチラと見て、この程度の傷の具合は問題ないと判断し。
「……ふふっ」
ピクリとも動いてくれない下半身に驚き―――全てを受け入れる心境へと至ってしまった。
体力が、尽きた。これっぽっちも動いてくれない足腰が示すのは、そういう事。
朝露がまだ残っていたのか、肌に感じる冷たさは水気を含むものであった。笹の葉の奥に感じる泥土を掻き分けながら、微塵も動いてくれない足を上半身の力のみで引きずり、諦めの境地へと追い遣ってくれた土壁へと背中を預ける。
壁を背にし、荒々しい呼吸を整える為に大きく息を吐きながら見上げた空は、青く、青く、ただ青く。吸い込まれそうな程の蒼穹。
これを見ながらならば悪くはないかと、受け入れ難い現実から目を背けようとしたのだが。
「―――おや、もう逃げるのは止めるので?」
それを許さぬのは、今、この男に他ならない。
豚の妖怪……いや。数刻前まで滞在していた地の領主が、何が楽しいのか、いつにも増した笑みを湛えていた。
(……いえ。理由なんて)
伊達に二年近く傍に居続けてはいない。
至極簡単、単純明快。ただ単にあれは、こちらの窮地に悦を見出しているだけなのだ。
散々それを見続けてきたというのに、まさかそれが自分に向けられるとは思ってもみなかったけれど……なるほど。これは中々に悪寒の走るものであったようだ。
主観と客観の認識の差を改めて実感しつつ、疲労困憊の状態を無視し、努めて明るく振舞いを見せる。でなければ、あれの加虐心をますます煽るだけ。
「ええ。お恥ずかしい話ですけれど、疲れてしまいましたの。少し休ませて下さいな」
「なんとなんと、それはそれは由々しき事態。……しかしながら、先にこちらの用を済ませねばならぬ早急さを、ご寛容いただきたいものですぞ」
たぷたぷと哂う領主は会いも変わらずの状態で。一体あれの何処に、こちらに追いつける体力があるのだろう。閨の中であれば納得出来るものであったけれど、他の持久力は目を覆うばかりであった筈なのに。
「分かる。分かる。分かりますとも仙人様。そのご懸念は、手に取るように。日頃よりお世話になっていたのです。なればそれにお答えするのも、吝かではありません」
湿り気を帯びた視線。領主からのそれは、髪の毛から爪の先まで舐め回されているのだと、否応なく理解させられるものであった。
「―――さぁ、御使い様。そのお姿をお見せ下さい」
何を、と。
内心の疑問に応えるように、一人の男が、木陰からその姿を現した。
全身白装束のそれは、人の腕ほどの長さの直刃を片手に握りながら、ゆらゆらと領主の横に並び立つ。顔と思わしき部分には衣類と同系色の前掛けが垂らされ、その全貌を窺い知る事は出来ない。
それはまるで、ただ業務をこなす為だけに存在しているかのような……命を刈り取る刃が妖怪にでもなったのではと錯覚させる、何か。
「人間。そうも口が軽いとなると、今後の契約に不備すら生じかねない」
「ははぁ。これはこれは失礼をば」
荘厳と佇む白い男に、平伏しながらも不快な態度を改める事のない領主。
この両者を視界に収め、導き出された結論は……。
「……使者ッ!」
「如何にも」
眉一つ動かさず肯定する死の権化は、頷く事すらせずに、一言。まるでこれが……こうなる事こそ運命である、とでも言わんばかりの態度を誇示している。
通名すら不明のそれは、地獄よりの迎え。寿命を超えんとする者の前に現れる、形ある寿命。
(最近では、死の神……なんて耳にしますけれど)
話には聞いていた。仙道を―――不老長寿を目指す者の前に立ちはだかるという者の存在を。
死者の国に引き込まんとするその者は、幾年かの生の後、生ある者の前に年に現れ、あらゆる手練手管を用いて自身の役目を果たすのだという。
構えるでもなく、携えるでもなく、自然と握り込まれた直剣がゆらゆらと手元で揺らめく様は、先に連想したものが、まさにそれであったかと痛感するに足るものであり、こちらの命を刈り取らんと機を窺う凶刃に他ならない。
「仙人様が予ねてより、こちらの何かを狙っている事は知っておりました。それが何か。までは、こちらの御使い……いえ、使者様でしたか。が、現れるまでとんと分からずじまいだったのですが……」
朗々と語る領主の口から告げられる内容は、相手が喜ぶと分かっていても、驚きと落胆を隠せぬものであった。
何という事だ。利用する筈が、いつの間にかされる側に回っていようとは。
それもこれも、全て……。
「―――汝、霍 青娥」
使者によって自身の名を告げられ、久しく耳にしていなかったなと、はたと気づく。
「母の願いに背き、伴侶の想いを裏切り、それら家中の好意すら無碍とするその心情。魂の赴く先は自ずと見えて来るというもの。然らば、それを導くが我らの使命。その罪、肉が朽ち、霊魂のみとなって清められるまで辛抱めされよ」
……何だそれは。それが、自分に下された評価の内訳だとでも言うのか。
「……ふふ」
満身創痍であった筈の体からこぼれる笑いは、小さいながらも良く通るもので。
訝しげに眉をしかめる使者と、狂ったか、とでも思っている領主のニヤつきを引き起こす。
「気でも触れたか、為り損ないの仙人よ」
答えてあげたいのはやまやまであるけれど、今は笑わせてもらおう。
領主がこの場に居るという事は、どうせすぐに手を下す事はないのだ。死を望む未来は色濃くなって来たものの、今この時だけならば問題はない。
しばしの嘲笑。
どちらも止める気配がなかったものだから、心ゆくまで腹を抱えて笑う事が出来た。尤も、生も魂も尽きかけているこの身では、蚊の鳴くようなものであっただろうが。
「何を以って気が触れた、とお答えになられたのかは、尋ねたい心はありますけれど……。あなた、お馬鹿?」
恐らく、一度として言われた事がなかったのだろう。無機質な死の影を思わせた男に、唖然という、初めての感情を読み取った。
この次に予期出来る展開とは、激昂の後に殺されるか、一瞬沸き上がる憤怒を押し殺し、じわじわと嬲られ殺されるか、初めから聞いていないと無視されるかの、どれかであると思っていたけれど。
「何故、そう思ったのか。聞かせて欲しい」
どうやら、そのどれでもなかったようだ。
しかし、だからこそ使者の感情が分かってしまう。
あれは純粋な疑問。素朴な懸念による返答だ。そこに不快な色は浮かんでおらず、原因を解明したいという思いのみ。
それはつまり、こちらの命を奪うという行為に対して、何ら抵抗や葛藤を持ち合わせていないという答えでもあった。
「母は私をみていなかった。親子という感情なんて……。あったのは、ただの自尊心。あれから見たら私など、財産の一つのようなものでした。そこに愛着はあっても、愛情は皆無でしたので」
自分達の……自分の元から去ったと感じた母の心を占めていたのは、激しい憎しみ。それを払拭せん為に、お前の捨てたものは価値あるものだったのだという、遠吠えにも似た虚勢。
「夫の……霍の家が欲したのは、私ではなく、仙人へと至ったとされる父の力。不老不死は勿論、極めれば山を動かす事も、死者すら息を吹き返す。そんな奇跡が……奇跡へと至れるかもしれない道が目の前に現れたのです。金も名誉も地位も手に入れた者が次に渇望するものなんて、もはや語るまでもないでしょう」
「だから、何だというのだ。お前が受け取り、身につけてきたものは、大よそ人としての幸福であった。親の思いがどうあれ、お前はそれを糧とした。伴侶ら家中の思惑がどうあれ、柔らかな寝床、美味な食事、煌びやかな衣装、命を奪われる事のない環境があったのは事実。周囲の誰かに尋ねてみるといい。それが幸福か否か、と。自己の内のみで答えが出ているのなら、周りへと意見を求めるのは新たな刺激になり、新たな道への開拓となろう」
それこそ。
「ですから、そこが私があなたを笑う所以であるのですよ、使者様。他と見比べなければ得られぬ幸福など、山の天気のように移ろいやすいもの。そのような幻影などに興味を持つのは人間くらいなものです。あなた様の言葉を借りるのなら、私はこれでも、為り損ないとはいえ、仙人。その域は既に脱しています」
「だからとて、お前はそれの一切を拒絶するもでなく、甘受し続けてきたではないか」
「拒絶すればどうなるか。私の人としての歩みを知っていらっしゃる使者様から出てくる言葉とは思えません」
「殺されていた、と? ……ふむ、なるほど。故に自らの死を偽って、一切の禍根を断ち切ったのだな。……そうか。そちらの含むところは分かったように思う」
そう告げられた台詞は事実であり、けれど、こちらが予期せぬ範囲のものでもあった。
「なれば、改めて問おう。―――何故、そのような瑣末ごとを思慮に入れなければならぬ」
「―――そういう事でしたか」
先程からこちらの会話を興味深そうに……内心でチロチロと覗かせる蛇舌を思わせる顔の領主を視界の隅に捉えながら、自らに死をもたらそうとする者の考察を一段深めた気分になる。
あちらは使者。その本分とは、死の管理。
生ある者が死を迎えた“後”が担当であり、“前”の部分は判断材料でしかないのだ。
聖人となり万の人々に見送られようとも、悪人となり悪辣非道の限りを尽くしたとしても、そこに何ら問題点を見出す事はしない。あくまでそれは、死後の魂をどうするかの基準。過程で口や手を出すという事をしないのだろう。
「馬鹿、と、頭ごなしに言い放ったのは訂正させて下さいな」
「構わぬ。元よりそれで、何が変わる訳でもなし。汝の歩みはしっかりと、その痕跡を己が背に残しているが故」
「つれないお方。少しは手心を加えて下さっても宜しいのですよ?」
「それは我にではなく、これに言うといいだろう。結末は違わぬだろうが、その過程は変わってくるかもしれぬ」
結末に、過程。
前者が死であり、後者がそれに至るまでの、という所か。
(とても良い趣味ですこと)
諦めを含んだ内心の侮蔑を他所に、これ。と呼ばれた領主がひげた嗤いを浮かべながら、待っていましたと、その歩みをこちらに向けて来た。
のそり、のそり。他人からの見た自分というものを熟知し、それがこうして歩みの遅い接近を成しているという光景が、どのような効果をもたらすのかを分かりきっての牛歩である。
「むふぅー。さてさて。さてさて。早々とお逃げになられないので? こうも易々と掴まってしまいましては、悔やんでも悔やみきれぬでしょう。精一杯足掻くのも一興かと存じますぞ」
顔にかかる鼻息が、こちらの前髪をはらはらと揺らす。
体を横たえてから、しばらくは経っている。これが一般的な成人であれば、駆け回ることは叶わなくとも、立ち上がり、走りと歩みの中間ほどの速度で離脱出来る時間であったのだが。
(よもや、ここまで鈍っていたなんて……)
下手をすれば、病に伏した老人以下なのではないか。
次からはそちらをしっかりと……少なくとも、人並みの体力は確保しておこうと定め。
(次……か)
それが訪れるであろう可能性が閉ざされていた現実を直視した。
こちらを見上げる形で見下ろす領主の口からは、ひゅうひゅうと呻き声にも似た呼吸音。額からは大粒の汗が流れ落ち、こちらの衣服に雫の後を残す。
「長かった。幾度となくあなた様に似た木偶を愛でてきましたが、いよいよ本物を味わえる日が来ようとは。あれはあれで興味深い趣向でありましたが、やはりそこに虚があっては、その喜びは半減致しましょう」
その言葉に色々と思うところがあり、まずは一つ目の疑問を投げ掛ける事にした。
応答が拒絶される、という事はないだろう。何せ、今の領主は有頂天。獲物を前に舌なめずりをする獣。その獣は相手の苦悩や絶望が好みであるので、こちらが事情を理解すればする程に、窮地に立っているのだと自覚させる会話は、それだけで領主が好むところであるのだから。
……こうして順序立てて特徴を挙手していくと、ますますあれは人などではなく、豚の妖怪なのではないかと思わずにはいられないのだが、さて。
「……あれで、愛でていたつもりだったのですか?」
こちらの脳裏に浮かぶのは、領主の巨漢によって蹂躙される自分モドキ。大人三人分以上はあろう重量によって寝台は軋み、悲鳴を上げ、ともすれば床が抜けてしまうのではと思える程の重圧であった。これがただの人間であったのなら、男ならまだしも、領主好みの華奢な女の身であれば、数刻後には潰れたウシガエルに変わり果てていた事だろう。
その点でいえば、用いた人形は自分に似せて造ってあったが故に、青銅に勝るとも劣らない躯体強度。元々が硬直している死体の流用でもあったので、その耐久性は領主の獣欲の捌け口として十全に機能していたのだ。
(……あぁ、通りで)
合点がいった、と内心で納得する。掘り起こした墓の死体は、どれもが高所からの転落で命を落としたような有様であった。その割には傷らしい傷もなく、代わり、骨という骨、関節という関節が人間のそれとは掛け離れていたのだが、いやはや何とも。既に領主の餌食となった後の残飯であったらしい。
一度ならず、二度までもあれに貪られようとは。
同じ女として、小さく同情。次の瞬間にはその心ごと忘れ去り、何やら垂れ流し……喋りだしていた領主の会話へと耳を傾ける。
「―――なので、仙人様がお出で下さいましたのは、感謝感激の涙に溺れるくらいだったのですよ。これまでの女は、脆過ぎましたもので。いくら愛でても壊れぬ体とは、あの頃から今に至るまで、私の夢であり続けておりますぞ」
「……つまり」
その言葉を聞いたからか。
後で尋ねようとした質問の一つの優先順位が一気に上昇し、それが口を突いて出た。
材料は、『あなた様に似た木偶』『興味深い趣向』『いくら愛でても壊れぬ体』。これらが導き出す答えとは。
「つまりあたなは、初めから私ではない何かを……私が作り出した動く“死体”だと知りながら、それを好んで味わっていた、と」
言葉で答える事はせずとも、ニマリ口を釣り上げる領主の反応のみで、答えは充分に伝わってきた。
「……呆れた」
「恐れ入ります。……なぁに。これが私以外の者でしたら上手く誤魔化せたでしょうが、これでも経験だけは豊富で御座いまして。外面のみならず、内面の限界も大よそ熟知しておりますぞ」
どうやら領主は元々の趣味が講じて、人体の限界等々をかなり高い水準で把握してしまったらしい。外面のみならず内面からも味わい尽くしてきたコレならでは、といったところか。
(まさか、そんなものに足元をすくわれるなんて)
死姦趣味とは中々に。人間の数ある性癖の中の、少数派であろう一つをこうして体現する者が、よもやこんなに身近に居たとは驚きだ。
けれど、呆けている暇はない。
胸元から絹を裂く音。それが聞こえると同時、破れたそこから何かを掴み取り、引き抜く領主の腕が見えた。幸いにも最低限の箇所までは隠せたが……それが完全に顕わとなるのも、時間の問題でしかないのだろう。
「ッ!」
「ほうほう。閨の中では常に甘えさせていただきましたが、野外で同様の調子は保てぬご様子。それとも、相手をするのがご自身であるからでしょうか? 実に新鮮味があり―――美味しそうだ」
抜き取られた―――奪い解されたそれは、こちらが二年もの間、求めていた宝具。仙人界では、そうも希少なものではない。ひと振りで山河を平原と化す鞭でも、都市を灰燼に帰す雷でも、空すら黒く焦がす炎でもない、ただ壁に穴をあけられるというだけの、童子の玩具にも似たもの。
けれど、それは紛れもない宝具。仙人を目指すものとしての、到達点の一つである。持っていればそれだけで箔の付く品であり、一目も二目も置かれる証明書と同義。
領主の収集癖―――主に天界への尽きぬ興味から、豊富な資金源も合わせ、いずれはそういった品が舞い込んでくるのではと思い、はや二年。集められるものの大半が、紛い物か、宝具の為り損ないのガラクタであったけれど、それもとうとう終わりだと……そう、思っていたのだけれど。
(結局……この程度……でした、か)
心を通わせぬ方法で得た成果は、それ以上の成果を以って容易く覆される運命にある。逆を言えば、決して覆されぬ力こそあれば、全てが我が意のまま。なればこそ、それを得る為に腐心して来たというのに。
(こんな出だしで躓くなんて……。ふふ……お父様のようにはいきません……ね)
幼き頃。記憶の奥底に沈んだ、何処にでもある……ただただ人としての温もりがあった日々を思い返す。
夕暮れ間際、山の幸を籠一杯に背負い、帰宅する父。山菜や薬草を磨り潰し、市へと卸す為に精を出していた母。それを眺め、父の帰りを待つ自分。
卓を囲み、質素ながらも団欒といえる空気の中で、父も、母も、自分も。口には出さずとも、幸せだと告げていた毎日。
―――それがどうだ。
仙道を知った父の変わり様ときたら―――
日に日に家に戻らぬ事が多くなり、終いには霞の如く自分達の元から去ってしまった。
母はそこに、怒りや悲しみを感じ取った。
それが自然だと思う自分が居たし、そう感じる事こそが普通だと思っている自分も居た。
けれど、それらの感性を全くと言って良い程に感じ取れなかったのは、ただ純粋に、疑問に思ったからだ。
あの暖かな思いを。あの心地良い日々を。貧しいながらも満たされていた時を。仙人という存在は、幼い頃に感じたそれら幸せの何倍も素晴らしいものなのだと。仲睦まじかった母も、目に入れても痛くないと言ってくれた自分ですら、切って捨てられる程に渇望するものなのだと。他はどうあれ、我が父は、そう思ったに違いないのだから。
人という種から解脱しかけている現状では、何らその切欠すら掴めないけれど、完全に仙人へと至ったのであれば、その境地が見えてくる……理解出来る筈……。
(……だったんですけれど、ね)
こうなってしまえば、人も仙人も変わらぬものよ。
先に山中に木霊した領主の声を思い出す。
使者との協力関係にあったという事実が分かれば、あれが領主に力を貸していたのだと察する事が出来る。自分と同じ……けれど自分とは決定的に異なった、人としての種からの逸脱を成した筈だ。
何故って。それは。
「領主様、お口から可愛らしい白が覗いてましてよ?」
覗く位置からして、犬歯……に、なるのだろうか。
まず人間では在り得ない大きさと長さの歯が、口から垣間見える程に伸びている。
「むほ? ……おお、いよいよ表面にまで現れるようになりましたか」
領主の口振りからして、前々から何かしらの準備をしていたのだろう言動が窺い知れる。
舌でなぞり、指で触り、あぐあぐと歯と歯を打ち鳴らし、満足そうに目を細めていた。
それを直立不動のまま見続ける存在へと顔を向け。
「……使者様のお力?」
「然り。汝を輪廻の理に連れ戻す為、これの願いを叶えたまでの事」
「それで領主様を……」
しばしの溜め。
「……妖怪に?」
小さく、けれどしっかりと。コクリ頷く使者の返答に、一瞬意識が遠退いた。
先に『契約』云々と漏らしていた内容が、どうやらそれであるようで。
大方、こちらの命を奪っていく代わりの妖怪変化、というところか。
しかし、まぁ……。
「使者様の浅はかさに驚くべきか、人を妖怪に変えられるという力に焦がれるべきか……」
「汝の前に居る我など、夢現の存在。故に幾重もの手間を掛け、時間を掛け、手段を講じ、直接手を下す事なくやり終えねばならぬ。骨の折れるものよ。仮に汝の重ねた歳が二百、三百と増えていったのならば、それも可能であるのだが」
少し前から均一であった感情を崩したせいか、言葉の端々から苦労の色を感じ取る。仕事一辺倒であった姿勢の綻びから、幾つかの情報を読み取る事が出来た。
どうにもこの使者という存在は、直接手を下す事が不可能であるらしい。それがどういう理由なのかまでは判断が及ばないものの、少なくとも現状では取りえない手段であるようだ。
しかしそれも、年齢を重ねるに比例して、その枷は外されていくようで。恐らく、百年周期。より強く、より狡猾に。その力を強めていくのだろう。
使者の口振りからして、妖怪となった領主にも、相応の生の期間内であれば、善行であれ悪行であれ、何をやっても許容する意思が見受けられた。
そういえば、人の身で寿命を乗り越えようとする者に対して使者が訪れるという話は間々耳にしてきたが、魔へと墜ちた存在には、そのような事を聞いた覚えはない。
そこには何か差があるのかと、考えを巡らそうとした矢先。
「―――それでは」
こちらに延ばされる魔手によって、強制的に意識を現実へと向けさせられた。
急ぐでもなく、ゆっくりと迫り来る五指が、こちらの恐怖を呼び起こす目的であるのは重々承知しているというのに、それでも背筋が凍る思いをしてしまう。
「財を集め、いずれ人の身から抜け出そうと思っていましたが、仙人様がこうして私を謀ろうとして下さいましたお陰で、予てよりの願いが叶いましてございます。あなたとの日々はとても楽しく―――。じっくり、しっかり。今までの誰よりも、念入りに、丹精込め、愛でて差し上げましょうぞ」
頭の中で術を思考し、式を組み上げる。
これから行おうとしているものは、発火。死者を傀儡と化すのが本来の使い方であるものの、それを意図的に破綻させて発動させれば、それは熱を持ち、爆発となってその成果を変貌させる。
威力も小さく、射程も短く、元より体力と仙力の乏しい現状では雀の涙と同等だろうが、手の平一つ、指一本でも吹き飛ばせれば御の字だ。この領主は、こと痛みという感覚からは遠くに位置してきた。多少の擦り傷ならまだしも、体の一部が欠損しては、動揺の一つでも誘えるだろう。
妖怪の身になりつつはあるものの、未だ完全ではないのだから、それくらいであれば、傷はつけられるかもしれない。
人道を外れた……邪な者の末路は覚悟している。
仙人という境地には至ることは出来なかったが、力への渇望を示した者としての矜持は失いたくはない。でなければ、これまでの生に意味はなく、これからの死すら欺いてしまう。
それは何と楽な道であり。
「他はさて置き、自分にすら嘘を付く。なんて、したくありませんもの」
「は?」
伸ばされた手に触れるように、体ごと領主の元へと密着させる。
触れるか触れないか。いっそ熱いとすら思える体温を肌で感じられる距離にまで近づき―――。
「―――遅いですなぁ」
腹部に感じる重さ。次いで分かったのは浮遊感。そして、衝撃。
背中全体が土壁へと減り込んだのだと理解するまで数泊の間があり、今置かれている状況が頭へと染み込んだと同時。
「うっ」
腹の中から熱が込み上がるものを感じ、懸命にそれを堪えた。
内臓を中心に全身が強張り、硬直する。痛みを耐える為に全力で瞼を閉じようとするが、それに抗い、何とか片目だけを見開いてみれば、そこには腕を振り抜き、満足そうに微笑む領主の姿が見えた。
本来ならば五本の指がある筈の腕からは、蹄と思われる硬質物の光沢が。まるで猛牛の突進にでも巻き込まれたような衝撃は、壁へと埋まった体が未だ剥離しない事からも、どれだけの威力があったのかを窺い知る事が出来た。
「むほっ! むほほほっ! これは凄い! これは素晴らしい! 何という俊敏さ! 何という怪力無双! これまで人の身であった事を悔やんでしまいますぞ! なるほど、なるほど! これならば……こんな存在であったのなら、然もありなん。妖怪が人を襲わずに居られましょうや!」
興奮して捲くし立てる領主の言葉も、半分も耳に入ってこない。
どうやら自分は、あれに殴られ、壁へと埋まってしまったらしい。脂汗が滲む思考の中で下した答えは、それであった。
一抱えもある樹木すら一撃で圧し折るだろう拳を受けても無事で居られる体に感謝すべきか、これで命を失わなかった不幸を呪うべきか。
「なにぶん、私も野外でとは初めての試み故、多少の至らなさには目を瞑っていただきたい。……まぁ、誰かに見られる心配はありますまい。何せここは山の奥の、更に奥。獣すらも疎らな、“全く人気のない”土地でありますからなぁ。いくら嬌声を、悲鳴を、助けを叫ぼうとも、何の耳にも届きますまいて。それを期待してこちらへと足を運ばれましたのでしたら、そのご期待に応えなければいけません。……むほっ、むほほほほっ!」
真冬ではないというのに、口から、鼻から。吐く息が白く見える領主のにやけた顔がのそりのそりと近づいて。
(さ、て。何処まで保てるかしら)
心か、体か、両方か。
領主の腕……もはや蹄と腕が一体化した、まさに豚の妖怪へと成り果てようとするそれを見据え―――。
―――ぐらり。体を揺らす感覚に囚われた。
(―――……?)
感じる微震。全身を僅かに振るわせるそれに意識を奪われた。
体が土壁へと埋まっている現状でのそれとは、この地面全体の振動に他ならない。
始めは領主の歩行によるものかとも思ったけれど、断続的なものではなく、継続的に感じられるそれは、とても巨大な何かが地面を擦っているような異音であった。
「……むほ?」
「……」
これには、領主を始め、使者ですらも注意を傾けたようだ。
竹林全体を揺らす、音と振動。それらの狭間に取り残された自分達には、耳を済ませ、何が起こっているのかを把握する為神経を尖らせる。
それに気圧されるようにこちらから距離を取り、何か起これば即座に対応しようとする姿勢で周囲を見渡し始めた。
ずるずると。がりがりと。ばきばきと。
そんな彼らの思いに応えるように、地面を削り、竹林を薙ぎ倒しながら、山頂から大質量の岩石が滑り落ちてきているのかと思う感覚が徐々に迫り。
そして。
「―――なぁッ!?」
「ムッ!」
領主と使者の驚愕の声。
共々にこちら……の、真上の空を見上げたと同時。
「……え?」
一際大きな振動。そして、巻き上がる笹の枯葉と土埃。
視界一面を覆うのは、青。くすんだ蒼玉石を思わせるそれは、地を削り、竹林を踏み散らしながら、こちらの頭上―――土壁の上から領主や使者達の居た空間を押し潰す。
一瞬どころか、何十秒も経ってようやくそれが終わったかと思えば、流れる青であった何かは今や自分の前に壁となって立ちはだかり、もう数歩前に出ていたのであれば、この壁の真下へと埋没していたのだと確信させる存在感を示していた。
不幸中の幸いだ。
これが……今の自分が壁へとめり込んでいなければ、きっと、領主や使者同様の有様となっていたのだから。
「……何、が……?」
纏まらない思考を何とか動かしながら、この振動によって壁から抜け出しやすくなっていた体を引き抜き、痛みと疲労で悲鳴を上げる体を騙し、新たに出現した青壁の間を擦り抜けて、その全体を見渡した。
「―――龍」
たった一言。そんな言葉が、口を突いて出た。
数刻前まで住んでいた領主の大屋敷を、十件繋げてもまだ計り足りぬ胴の長さ。青い壁だと思っていたのはそれの胴体であり、鱗。手の平大のそれは頭から末尾までに隙間なく覆われており、一直線上に時折混ざる紫と橙の鱗が、青い表皮に彩を加えている。
荷馬車の二、三台はあろう幅の胴体は竹林を押し潰し、その巨漢を悠々と横たえながら、立派な白髭を蓄えた、牛や虎をひと呑みに出来る頭部を支えていた。
この地に、この国に住まう誰もが知っている。
神聖にして不可侵。孤高にして崇高。
崇め、敬い、祭り、願い、そして畏怖を抱き―――しかし、その姿を見た者は殆ど居ないという聖獣だ。それ故に皇帝と同義とされる事もあり、何人もそれを犯してはならないという、禁忌の代名詞にもなっている。
人間は勿論、仙人ですらも滅多に見ないであろう存在が、今自分の前に出現していたのだった。
『甲鱗のワーム』
緑で、8マナの【ワーム】クリーチャー 7/6
コストが重く、【マナレシオ】も心許なく、何の能力すら持ち合わせていない【バニラ】である為に、ゲーム面での性能は目を覆いたくなるものである。
が、様々な逸話等によって、一部のプレイヤー間ではマスコットキャラ……否。神格化している節さえある。甲鱗様最高。甲鱗様万歳。
【バニラ】故に【フレーバーテキスト】が長文記載されており、その説明文に魅了される者が後を絶たない。長年の増版によって幾通りかの【フレーバーテキスト】が存在するが、下記に記載するものが最も有名。
//氷河期のあいだに繁栄を極めたこのワームは、キイェルドーのありとあらゆる人々にとって恐怖の的だった。その巨体と狂暴な性格が呼び起こした悪夢は数知れない―――甲鱗のワームはまさに、氷河期の災厄の象徴だった。
― 「キイェルドー:氷の文明」//
様々な考えが頭を駆け巡る。
何故こんなところに。龍は空を飛ぶのではなかったのか。これをもっとよく知りたい。気づかれたら死ぬのでは。
結論の出せない選択肢を無数に思い浮かべながら、せめて移動に巻き込まれないようにと、距離を取る。
そうして視界を広く取った為に、ようやく、それに気づく事が出来た。
青龍の頭。正確にはその頭上に胡坐を組んでいる、それの姿を。
龍の鱗にも似た純白の外套を着込み、見た事もない衣服をその下に覗かせながら、遠く、遠く。ここではない遥か彼方へと視線を向ける、男の姿を。
黒髪の短髪。鷹の目の如き鋭利な眼光。皺の寄った眉間からは、これまでの積み重ねから来る苦悩の重さが伝わって来るようであった。
「―――ふぅ。後二~三十分も持続出来ないだろうけど、実に愉快爽快。“全く人気のない”土地を選んで正解だったなぁ。【リアニメイト】なんかの実験も兼ねて、誰にも迷惑掛けずに甲鱗様は出せるし、高コストクリーチャーを維持する為の経験も積めるし。……後は慧音……さん……ちゃん? と、どう接触するかだけども……はぁ……」
何やら青龍と会話をしているようだが、それをきちんと聞き取る事は叶わなかった。
手にしていた宝石……いや。あれは宝塔か。この距離からでも分かる、規格外の力を放つそれをチラと眺めて、その眉間の皺をより一層深く刻み、大きく息を吐き出し、しばしの沈黙。
一呼吸か、二呼吸か。それだけの間を取ったかと思えば、来た時と同様、再び地響きを轟かせながら、青龍共々この場から去っていった。
獣の鳴き声も、鳥の歌声も、虫達の囁きですら聞こえない中、遠くなっていく竹林の悲鳴が、いよいよ聞き取りにくくなった頃。私はようやく、意識をしっかりと保つ事が出来るようになった。
「―――凄い」
一目見るだけでも幸運をもたらすとされる聖獣の一柱を、こうも間近に出会える機会が訪れようとは。
どうも知識のみで知る龍の姿とは細部が異なっていたようだが、所詮、元となった知識は文献。この目でそれを見てしまえば、そちらの方が偽りであったのだと気づかされるものであった。
「かっ……はっ……」
「……うううっ」
唸るような……事実唸っていた領主や使者の声に、そういえば。と、顔を向け直す。
……埋まっていた。それ以外の何と言葉にすれば良いのだろう。
青龍の通った後は見事に平らとなっていたものの、元々の土が軟らかかった為に、挽肉となるには叶わず、こちらが土壁へと埋まった時と同様、あちらは大地へとめり込んでしまったようだ。
どちらも身動きすら叶わず、這い出る事も出来ず、ただ苦痛に耐え、声を出すだけの山の一部と化していた。
いくら妖怪となっていても、いくら使者といえども。聖獣の進行の前では、命を繋ぎとめる事で精一杯であったようだ。
「……あ」
少し悩み、はたと気づく。
辛うじて歩ける体をそこに向かわせて、身動きの取れない領主の懐から、再び鑿を回収した。
もはやこちらに意識を割く余裕すら無いようで、痛む体に反応し、唸るだけの肉人形となっている。まぁ、あれの進行に巻き込まれ、命を落とさなかっただけでも幸運だ。致命傷ではないようであるし、時が経てば、危険な状態から脱出する事は叶うだろう。それまでが地獄だろうが。
「見事だ。霍青娥」
「……はい?」
今の今まで唸り声を上げていた使者の口から、数刻前と同じ声色の、平坦な言葉が飛んで来た。
声に驚き、内心の動揺を隠しつつ顔を向けると、そこには陽炎が如く霞み始めた使者の姿があった。
その声色に苦痛はない。外見の状態とは裏腹に、とても良く通る喋りである。
「無策と見せ掛け、ここへと誘い込んだ智謀。こちらが油断し切った時を見極めた眼力。そして、我らを一瞬にして無力と化した仙術。残念ながら何の術を行使したのか見定めるは叶わなかったが、あれは上位仙人に勝るとも劣らぬものであった。先に、為り損ない、と言ったものは訂正させてもらおう。……若年でその力とは、末恐ろしい仙人が誕生したものだ」
「いえ、あのですね?」
「偽りを述べようとしても無駄だ。しっかりとこの目で、この身でその力を感じ取ったが故。今回は汝に対し役目を果たせなんだが、次の百年後には必勝を以って、これに―――当ると―――しよ―――う―――」
「あの、もし? それは―――!?」
聞き捨てならない戯言と共に、使者は風に吹かれ跳ぶ木の葉のように消え去ってしまった。
開いた口が塞がらない。
盛大な勘違いのまま死んだ……死者の国へと戻っていたであろう相手に、溜め息と、脱力と、いわれなき誤解による抗議の声を心の中で荒げながら、少しの間、途方に暮れた。
けれど、それも本当に少しの間。未だに唸り続けている領主の呪詛もかくやな鳴き声に、意識が現実へと引き戻される。現実逃避もままならないと、改めて自分の置かれている状況を鑑みた。
体に響く鈍痛。疲労によって動く事も困難ではあるけれど、疲労の原因となった使者も、領主も、共に脅威ではなくなっている。
「……ええと」
そうだ。今は呆けている場合ではなかった。この時ばかりは一刻も早く休みたいと思うけれど、後顧の憂いを断つ為にも、ここで歯を食い縛らねば。
幾度か痙攣をしながら、とうとう白目を向いて気絶していた領主の元へと向かい。
「えい」
「ぎゃぷ!!」
意識はなくとも、声は出るようだ。
脳天に深々と突き刺さる鑿は、どうやら宝具としての性能のみならず、本来の鑿としての機能も一級品であるようで。いくら頭蓋骨の切れ間に差し込んだとはいえ、こうも易々と深部に入り込んでくれるのだから、これからキョンシーを造り出す際に重宝する事だろう。
「あっ…あっ…あっ……」
グリグリとかき回し、慣れ親しんだ感触を手に、完全にそれを破壊する。それに合わせて跳ねる巨漢に―――クスリ。少しの楽しみを覚える。我ながら、業の深い事だ。
そうして動きがなくなった後、印を結び、術を組み立て、残りの力を振り絞り、幾度となく行ってきた仙術を施した。
まさかそれを領主にするとは思ってもみなかったが、これが持つ財力……宝具を収集して来たという実績は惜しい。金も権力も興味はないけれど、収集家として開拓して来たツテやコネは得がたいものだ。これから……使者の言っていた、百年後に訪れるであろう困難を考えれば、力は多いに越した事は無い。
脅威もなくなり、力も付けられるとなれば、一石二鳥。災い転じて福と成す、という言葉を噛み締めながら、これからの事を考える。
(当面の目標は使者を退ける事。百年後……いえ。百年単位でそれをこなさなければならないのは覚悟しておいて……)
死の寸前で強運……悪運が転がり込んで来たのだ。折角である。それにあやかるのも良いだろう。
仙人の……仙道を極めんとする方法は幾通りかあるものの、龍すら使役する者から学ぶ事は多いに違いない。
(それに、いくらこれまでのツネとコネがあるとしても、この地で得るものにも限界を感じてきましたし。領主ですら、私がこちらへ来る二年以上前から収集を始めて、ようやく下級宝具が一つ、という成果ですもの。……手は多いに越した事はない。そう決めたばかりじゃありませんか)
これは、賭けだ。
求める力は国士無双。弱体化していたとはいえ、使者すらああも易々と下す……違う。もはや歯牙にも掛けぬ、目にも入らぬと体現して魅せた大仙人。天に仰ぎ見るだけの龍という存在を使役し、あまつさえ飼い慣らしているのだから、これ以上の選択肢は考え難い。
(領主様の件が一段落しましたら、早速弟子入りの……)
そこまで考えて、内心、頭を左右に振る。
あそこまで仙道を極めた者が、ただの見習い仙人を弟子として認めるだろうか。そう、思い至ったからだ。
(難しい、でしょうね)
可能性がない訳ではないけれど、極めて低いと言わざるを得ない。
かといって、諦めるという選択肢も考え難く。これを逃せば、凡庸な仙人の未来しか訪れないだろうから。
(付かず、離れず。まずはあのお方の事をもっとよく調べて、力を蓄えた後に、確信を得てから頭を下げて……)
領主の時には、その内面を完全に見抜けず失敗を犯したのだ。同じ轡は踏むまい。焦らず、確実に、助力を請う下地を造る事に腐心しよう。
「方針は決まりましたし、まずは……屋敷へと帰りましょうか。領主様?」
「はい。仰せのマ、ままま、に」
弄りたてだけあって、少し言葉に支障が出てしまっている。元々洞窟から風が吹きぬけるような声であったとはいえ、このままで居させるのも宜しくはないか。
「その辺りは、帰りましたら修正すると致しましょうか。その牙と、蹄と化してきた手、諸々にね」
「はい。仰せ、の、ノのノ」
「物分りが良い子は好きよ。はい、良い子、良い子」
若い女の墓は暴いて来たが、男のものは皆無であった。それならば、領主の体の代わりも見つかるだろう。元々が人外の大きさである体に一般的な男のものは合わないだろうが、豚の蹄であるよりはマシの筈。精々、太めの五指を見繕うとしよう。
「待っていて下さいませ、大仙人様。未だあなた様の足元にも及ばぬ非才の身ではありますけれど、いずれ―――」
そうすれば。もし、それが叶ったのならば。
(……あら?)
仙人としての歩みの岐路に立ったせいか。ふと、自身の原点に意識が向いた。
あの方の教えを請えたのならば、より大きな力を得られるのは当然として……。
(何故……私は力、を……?)
それが……それこそが、力を渇望する糧であった筈なのだが。
しばしの逡巡。そして。
「だめですわ。すっかり忘れてしまいました」
あまりに綺麗に記憶から抜け落ちているものだから、我が事ながら、いっそ清々しさすら覚える忘却っぷりである。
忘れた、と自らの口に出す。これで終わりの意を込めて。
これまでは待ちの一手であったが、これからは攻め側へと回るのだ。どうでも良い理由に思考を割く時間は、後々の楽しみとして取っておくとしよう。
「帰りましたら、湯を張りましょう。本日は門出。華やかな宴を催して下さいな。領主様」
「は、い。仰せのマま、に」
行きの時とは打って変わり……などという事はなかったけれど、心の足取りは軽い。
満身創痍から抜け出しつつある体は、活発という言葉からは掛け離れているけれど、弾む心によって、それすら気にならなくなってきた。
なるほど。気の持ちよう、とはこういう事か。自己暗示もこの領域まで達すれば、外的な力となって現れてくれるらしい。
また新たに学べた事実に胸を震わせながら、太陽が真上へと差し掛かる竹林を突き進む。
願わくば、これからも我が道に乗り越えられる困難が―――更なる力を得る機会が待ち受けている事を。