辺ぴな地方とはいえ、領主の住まう場所ともなれば、大きさはそれなりになる。
馬小屋、溜め池、蔵に、屋敷。後は、それらに彩りを添える竹林か。雑多な小民家であれば百は入るであろうその敷地内には、一帯の主としての威厳が備わっていた。
そんな屋敷の最奥。領主以外には立ち入れないそこの一室は、欲情の色で満ち満ちていた。
月光差し込み、桃色の香が場を満たす室内で、黒い影達は交じり合う。
軋みを上げ続ける寝台と、微かに聞こえる鈴虫の声。
それらを掻き消す……まるで豚の妖怪のような男の荒々しい息遣い。それに与し抱かれるのは、成熟手前の青髪の女。
他には何も目に入らぬと、一心不乱に体を動かすその男を、年齢不相応な余裕を以って、女は我が子をあやす様に受け入れる。
―――そしてそれらを眺めるのは、男と交わっている筈の、青髪の女。
それはどういう事なのか。
男によって抑え付けられている女と、月光が差し込む丸窓に腰掛けて微笑む女は、瓜二つ。
大きな違いは衣服の有無くらいであるが、それ以外は合わせ鏡のように同一のもの。
髪の色同様、青を基調とした衣服は、月夜に浮かび上がる黒の世界であってもその色を鮮明に映す。
薄手の絹で編まれた羽衣をその上から纏い、妖艶を絵に画いた微笑を顔に貼り付けるその女は、人にあらず。妖怪にあらず。神でもなければ悪魔でもない。
女は、仙人。
俗世との関わりを断ち、霞みを喰らい、仙術を修め、より高みへと至る為に自身を縛る、孤高の者。
……で、あるのなら、今その女はとても歪な存在であると言わざるを得ない。
大よその欲から解脱を図る仙人は、三大欲求たるそれら……食欲、睡眠欲、そして性欲からは、隔絶とまではいかずとも、疎遠となるのが道理であるのだから。
故に、今この場で欲情にまみれ、浴びせ飲むように貪る光景を見れば、十人が見れば九人が『仙人ではない』と答えるだろう。
では、仙人ではないと答えなかった残りの一人は、何と言うのか。
それが女の正確な種族であり、本性であり。
「―――ふふっ」
在り方そのものへの答えとなっているのだが、それを知る者は、当人以外の誰も居ないのであった。
何処にでもある村であった。
山には竹林が広がり、そこから小川が流れ、土壌を育み、田畑の糧となって、人々を育む。
他に比べれば豊かと言える程度の自然があったものの、それ以外は特筆すべき点のない、人の営みの一つ。
唯一の欠点は、そこに住まう一帯を統べる領主が、我欲の強い人物であったと言う事。
どのような観点から見ても、公平や平等とは言えない理不尽を振りかざし、欲しい物は何でも手に入れて、やりたい事は全てやった。
当然、それは人々からの不平不満となり、その地位を失墜させようとする動きはあった。
しかし、欲を求める者は欲を知る。
通常よりも多くの税を納める事で、上との関係を良好なものとしていたその男は、それらを全て封殺。結果、傍若無人
とすら言える振る舞いを押し通す地盤が出来上がった。
地方であるが故に、その規模は王都と比べれば微々たるもの。だからこそ、その男がそのままの地位に満足する筈も無く、上へ上へと目指すのは必然の流れと言えた。
かくして、これでこの地の“何処にでもある光景”が完成した。
民は苦しみ、領主は栄え。これで他より貧しい土地柄であれば、年々の餓死者が雪ダルマ式に換算されていた事だろう。
―――そんな中だった。ふらり、女が現れたのは。
突然も突然。民が……否。領主の屋敷に在中していた召使達ですらも、それがいつであったのか知る者はおらず、気づいた者もおらず。それを知るのは領主と女の二人のみ。
然も領主の隣に居るのが常であったかのように、付かず離れず。良く出来た妻か……あるいは命を刈り取る死神だと言わんばかりの立ち位置に、周りは戦き、それを見た領主は楽しそうに心を満たし―――月日は流れる。
女は領主に、様々なものを与え、教えた。
高値の金品から始まり、贅沢極まる食に、摩訶不思議な物品など。
女にとって、それらは何ら価値のないもの。人が好むと分かってはいても、そこに自らの食指が動く事はない。
あるのは、ただ一つ―――。
「―――もうすぐ。もうすぐ」
自然と口からこぼれた渇望が、他に誰も居ない室内に木霊する。
そろそろ夜が明ける頃合か。誰も彼もが寝静まり、この場には自分しか居ないと知っている筈なのに、それでもドキリと心臓が動く。慌てて周囲を見回すが、やはり何の影も見えるものではない。
小さく、短く、安堵の吐息。
分かっているとはいえ、ここは強欲な領主の館。疑心を芽生えさせる言動は、しないに越した事はない。
(二年……。思い返せば……なんて、微塵もありませんね)
自分と瓜二つの人形が、獣欲によって蹂躙されるのをまじまじと見続けるのは中々に興味深く、見応えがあった。
それも、仕方のない事。そうしなければ……身近でなければ解けてしまう幻術であるのだから。
自らの不勉強さにほぞを噛む日は多く、目指すべき高みは、未だ遠く。その頂すら窺い知れない。
だが、それももうすぐ……。
「―――おぉ、仙人様。こちらにいらっしゃいましたか」
明るい感情に水を差す、ぐぐもった男の声。せめてもう少しくらいは妄想に浸っていたかったのに、それを邪魔され気持ちがささくれ立つけれど、相手が相手だ。それを表には出さないようにしなければ。
歳の頃は三十も終わり。脂ぎった体、一般的な大人の男の倍……三倍以上はあろう重量。それによって気道が狭まり、ひゅうひゅうと洞窟を抜ける風のような音が人体から漏れ、それが言葉を成しているというのだから、世は不思議な事で溢れているものだと感心する。
これが数刻前まで、見かけの鈍重さとは裏腹な俊敏さと持久力を発揮し、他ならぬジブンへと欲情を発散していたというのだから、実は人の形をした妖怪の一種なのではないだろうかと勘繰ってしまいそうになるのは、仕方のない事だと言えよう。
当たり障りのない、いつもの微笑みを貼り付ける。
智謀や洞察眼、あるいは直感等に優れた者ならまだしも、欲にしか目が行かぬ者が相手であるのなら、こちらの機微を偽る事など、この程度の表面ごとで充分だ。
「どうしたのかしら。まだ日も開けきらないといいますのに」
「小便を。困った困った。昨晩あれだけ出しても、まだ出るものがあるのですから」
全身を重々しく揺らしながら笑う男に、優しい仮面を見せ返す。
(本当、底なしの性欲ですね)
ある種の羨望すら抱きそうになるが、それを見習う事もあるまい。その過程で発生する経験を得るだけで充分だ。
それに、これはこれで慣れれば愛着も沸くというもの。見掛け倒しの有象無象よりも、分かり易く、力強く、生き物としての輝きに満ちている。着飾っただけの木偶や、見掛け倒しの孔雀よりも、俄然良い。
尤も、それが周囲とは決して相容れない質なものだから、つくづく自分の感性はずれて来ているのだと分かるものであった。
(初めから、こんな感じだったかしら?)
こてんと首を傾げ、過去の自分を思い返す。少なくとも幼少の頃は一般の人間と同等の価値観を持っていた筈だが……はて。
欲望を曝け出し発散し続ける領主を見れば、他の人間ならば一目散に逃げ出す類のものだと、今更ながらに思い至る。どちらかと言えば、自分も長らくの付き合いは避けたいところ。興味があり、学ぶべき事の多い対象なれど、そこに心地良さを感じるかどうかは、また別のところにある答えなのだから。
しかしそれをしないのは……。
「―――春も間近とはいえ、この寒さはまだ骨身に染みる」
肉ダルマの指が肩に掛かる。
そこから更に、自らの腕の中へと抱き込まんとする腕を、微笑と共にするりと抜けた。
「もう。それは無しだと初めに仰りませんでした? 逢瀬は一日一度のみ。それ以上は―――」
「はははっ、これは申し訳御座いませんでした。あなた様の魅力に心を奪われた者の理だと思い、ご寛容下されば助かりますぞ」
たぷたぷと肉が波打つ男を往なすのも、もう、これで何度目か。
油断も隙もないと思うと共に、それを回避する為の技術も同時に獲得している身としては得難い経験だ。今後、より高位の人間を相手にする際などには重宝するものだろう。学べる機会に感謝を捧げ、次いでとばかりに、感謝の幅を押し広げる。
「……まぁ、いいでしょう。そうまでして求めて下さるのは、悪い気分ではありませんし」
「おぉ!」
二年の間、これまで一度として受け入れられなかった願いが聞き届けられたから、だろう。領主は驚きと喜びの眼を見開いた。
そこに如何な理由があれ、こうまで欲してくれるのは、女と……いや。自分としては、悪い気はしない。ただ、これが自分以外の女であったのなら、その“求め”は悪寒と嫌悪を誘発させる呪詛に他ならない。と、共感の出来ない―――他人の気持ちを察する事は出来るのだが。
「先に向かっていて下さいな。身を清めてから向かいますので」
「では、すぐに湯を沸かしましょう。時間は掛かりますが、なぁにその程度の我慢は逆に刺激となりますからな」
「いえいえ、そんな。水瓶のもので充分です」
「ですが、それでは……」
こちらの身を案じてか、冷えた体を―――水袋を抱く気は無いという事か。間違いなく後者であるのは分かっているので、そこは深く尋ねぬようにしておこう。これから重なり合うというのに、剣呑となる必要もあるまい。
巨大ヒルを思わせる唇に人指し指を当て、それ以上何も言わぬよう、口を塞ぎ。
「構いません。だって―――あなたが暖めてくれるのでしょう?」
「ッ! 勿論、勿論ですとも!」
小躍り……でもしているのか。罠に掛かった豚を思わせる様子で自室へと戻っていく領主の背に、器用なものだと感心し―――嗤いの顔を作る。
それがどんな相手であれ、既に人としての視線から逸脱しつつある自分からしてみれば、この程度の相手など瑣末事。どんなに醜悪だろうと、どんなに人から掛け離れていようとも、その本質を見抜き、見定めるのは仙人としての到達点の一つ。
とはいえ、この観察眼。高みに至った先人達と、駆け出しである自分と比肩すれば、雲泥の差であるのは否めない。もう数十年も邁進中ではあるけれど、未だその道は険しく、その頂点は霞がかっていて、輪郭すら把握出来ない。
(ですけど)
もう少しでこれとの付き合いも一区切りが付くというのだ。代価の先払いも兼ねて、良くしてやるのもいいだろう。
今までも、今回も。
どうせあれの相手をするのは、外装のみを整えた、土に還る前のそれ……人の成れの果てなのだから。
もう、どれくらい昔の事であったか。
一年の気もするし、百年であったと言われても納得してしまうかもしれない。
一日に数個の木の実を摂取するだけで過ごせるようになってからは、年月を数える事は忘れてしまったけれど、これといって不自由はしていないので、時の流れなど、実はそう気に掛けるものでもないのだと思う。いずれは霞を食する術を身につけられるよう、精進せねばならない。
父が、母や自分を……家族を捨て去り、仙道を極めんと喪失した日は、もうそれぐらい過去の事。声は無音。匂いは無臭。霧がかった記憶の顔は、父も母も、幻であったような気分になる。
失踪を知り泣き崩れる母を尻目に、自分はその時、父に対して怒りや悲しみは湧き起こらなかった。幼心に、そんな母を見て思ったものだ。あぁ、自分は他と違うのだと。
それから必死な思いで自分に教育を施してくれた母の一念は感心するところはあるけれど、そこに共感するまでには至らなかった。
ありがとう。
そう一言呟いて、後はサッパリと忘れられる程度の事であったのだ。
これが他とは大きくズレた認識であると知ったのは、今の姓になってから。幼い頃に感じた疎外感は、この時決定付けられたと言って良い。
母が熱心に動いてくれた賜物と言える。父を失った家系では望外な……奇跡的な家柄に嫁ぐ事が出来たのだから。
家事に始まり、木っ端役人程度なら教授する側に回れる知識や、品格を崩さぬようにいる為の心構えなど、それはもう、貧困に近しい家の者が得るであろうものでは決してなかった。
下から数えた方が早い貧困具合であった頃とは打って変わり、何をせずとも三食暖かなものが出され、それが一品、二品などではなく、十人掛けの食卓が埋まってしまうほどの種類の多さ。着る者だって、その日身に付ける清潔なものが、高いであろう香をまとった状態で用意される。
野党に神経を削る事も、旗を折り、獣を狩り、山の幸を集め、それらを市へと流し、時に命を落としそうになる日々とは無縁となった。
嫁いで来た初日。
何処ぞの馬の骨とも知れぬこの身を笑顔と共に迎え入れてくれた家族。従順で裏表のない下働き達。何より、自らを選び、娶った夫は、他に何一つ恥じる事のない人格者であった。
大多数の人としての望みを絵に描いた光景が、何不自由ない未来への道筋が。その時、私の目前には広がっていたのだ。
―――だから。
嫁ぎ、祝言を迎え、霍の性を授かった、その日の夜。
私は―――死ぬ事にした。