質素ながらも堅実な造りであるテーブルに着く流れになり、時は経つ。
対面にはウィリク様。
真っ直ぐ伸ばされた背筋や表情からは、実年齢よりも幾分も若く見えて、昔は活発な女性であったのだと思わせる雰囲気を伴っている。
その横には、ネズミ妖怪であるリンが。
実に気まずそうに小さくなっていて、巨大魚から逃げ惑う小魚の如く、視線が色々なところに泳ぎまくっていた。
面白いのは面白いのだが、動揺し過ぎ。突っ込まれた後に理由を説明しなきゃいけなくなる流れになっちまいますよ。
彼女……達、に振舞ったアイスは大変喜ばれた。
予想通り、この国に温い程度の飲食は多々あれど、冷たい系は殆ど無かったんだそうだ(季節限定物だが、一つ二つはあるらしい)。
そこで、このガリガリ君(ソーダ味)を始め、日本代表に名を連ねても可笑しくない氷菓子を差し出してみれば、元々、甘味―――手の込んだもの自体が希少ということもあり、それはとても珍しがられ、その後に心地良いカルチャーギャップを味わわせて頂きまして。
豚も煽てりゃ……という訳ではないが、そうも喜んでくれたのなら倍プッシュだ! という感情に後押しされて、各種氷菓子を次々にお披露目させて頂きました。
……ええ、実に愉快な反応でござまして。こちらとしても、出した甲斐があるというものでした。
二つ目に出したガリガリ君(梨味)を始め、白熊くん、雪見だいふく、ピノ、もはや生産中止となったチューペットまで、テーブルの上に所狭しと並べ立てて、さぁどうぞ! と太っ腹ぶりをアピールした。
ただ、方やお年寄り。方や小……幼女。腹に入る分には限界があったのを失念していた。
『罪悪感ある?』と問い質したくなるくらいに全てのアイスをもきゅもきゅ頬張っていったリンはさて置くとしても、ウィリク様がゆっくりながらも全ての氷菓子を一口ずつ食べてくれたのは、彼女なりの誠意の表し方だったのだと思う。うぅ、老人相手に何てことを。酷な事しました。
その後は惰性で雑談タイム。
メイドさん(アラビアーンな感じの)が運んで来てくれた、目の前に人数分用意されたカップには、微かに湯気が立ち上っている。
室内で幾許か涼しいとはいえ、外は西日真っ只中の刺す様な暑さ。幾らアイスを食べて体を冷やしたからといっても、すぐにでも水風呂に入りたくなる気温となってる。
その上で暖かい飲み物など出されてみたのであれば、先程のアイス攻めの報復なのではないかと勘繰ってしまったのだが、口を付けてみて、その考えを改めた。
というか、だ。
不法侵入者である俺に対しても無碍に扱わず、こうして持て成しを受けているのは望外の喜びではないかと思い直す。
(甘っ……でもちょこっと塩味が……ん~、これはこれで……)
この土地では良く飲まれているものだという飲み物。チャイ、と呼ばれる茶の一種で、体力の低下(多分熱中症対策)を防ぐ意味も兼ねて、結構甘めに味付けされているらしい。
だが、今出されているものは若干の塩味が付随していた。甘いようなしょっぱいような味に、何となく、アクエリやらポカリやらのスポーツドリンクを連想する。よく汗を掻くこの土地ならではの工夫なのだなと思いながら、啜る様にちびちびと口をつけていた。
「如何かしら。お口に合えば良いのだけれど」
「初めての味ですが、とても美味しいです。この暑さに良く合いますね。体が元気になる気がしました」
出来れば冷たいのが欲しかったが、これはこれで乙なものだと思う。
「それは良かったわ。東の地には、こういったものは?」
「甘い飲み物、というものがあまり存在しませんね。甘味は……精々が果物くらいです。お茶などは口の中をすっきりさせるものが多くて、味がしっかり付いているものは少数だったかと」
ただ最近は、大和の極一部―――天と地の神々の付近―――では、それが崩壊、どころか未来の食べ物で溢れかえっている事は黙っておく。
特産品として輸出の算段を組み立てているっぽい話し方に、なるほど。こういうところから貿易は始まるのかもしれないと理解させられるものであった。
他愛の無いようで有意義な会話は続き、完全に日も暮れて、数刻。室内は幾つかの灯火にとって照らされるだけとなっている。
終始リンがそわそわしていた事と、それに対してウィリク様が、尋ねてみたいが空気を察して黙殺し、全く突っ込みを入れる気配が無かった事で、会話自体は順調に先に進んでいった。
ただ、出会ってすぐの時。この席に着いた彼女の一言目が発した言葉が未だに頭の隅に引っかかっている。
『良かったわ。聡明な御方で』
意味が飲み込めずに目を瞬かせていると、彼女は懐から短刀を取り出し、それを棚へと置いてこちらの対面へ腰掛けた。
……老いても女王。その手の経験―――暗殺云々は、そこそこにあるようだ。
場合によっては、近寄った時点で心の臓を一突きか、首やら手首やらの動脈が一閃されていた可能性もあったようである。聡明な、という意味は、敵ではない人物、というニュアンスが入ったものだったらしい。
多分、こっちに釘を刺す意味合い兼ねて、暗器であった短刀を取り出したんだろう。でなければ、使おうとしていた当人の前でそれを取り出す意味が分からない。
年寄りだと思って舐めて掛かってはいけないな。と思う出来事でした。うへぇ。
その後、この国の成り立ちやら、人々の暮らしについての話を聞けた。全く未知な文化であったので、とても好奇心を掻き立てられるエピソードのあれやこれに胸を高鳴らせる。大和……日本に居たらまず訪れなかった機会に、旅行気分を味わえた。
特にリンとの出会いについての話は、俺が何を言うのか気が気じゃない様子でオドオドする少女に、親に悪戯をバラされる心配をしている子供、な光景が重なる。
家族が楽しみにしていた食後のデザートを一人で全て食べてしまった時の記憶が蘇る。あれは、食事が喉を通らず、何とかその場をやり過ごせないものかと神に祈りながら頭を働かせたのだったか。……まぁその後はしっかりとバレて、母親からは張り手を。父親からは……母の張り手があまりに良い音だったので、自らは手を上げることはせずに、お説教だけに留まったのであったか。
穏やかに時は流れ、太陽もその役割を終えて、部屋に火が灯った最中―――
「―――ウィリク様。ヴェラ様がお越しです」
平穏な一時は、第三者の到来で潰える事となる。
扉の外からそう聞こえたと同時、こちらの―――ウィリク様の応答も待たずに、戸が開かれた。
扉の左右に居たであろう門番によって開けられた扉の中央に、中肉中背……よりはやや肉を増量した体型の、引き締まった肉体は岩盤を思わせるそれを有した、まさにインドの商人な格好をした男が現れた。
深く一礼。すぐに体を起こす。
年の頃は四十前後だろうか。頭に巻いた白いターバンと、真っ黒に日焼けした手や顔からは、彼がこの地で長年暮らしてきたであろう様子が見て取れた。
「こんばんは、ウィリク様。本日の商談も恙無く終了しましたので、ご報告に」
温和とも柔和とも言える表情は、見ている誰をも穏やかな気分にさせるものであったのだが。
「……何用です、ヴェラ。いつもならば結果を書に記すだけの事でしょうに」
だというのに、それは彼女と少女には通じない。
今まで会話を弾ませていた様子など微塵も残さず、老女は一本の研ぎ澄まされた刃の様に。少女は席を立って、男の全てを拒絶するように、ウィリクの正面へと……まるで盾のように立ち塞がる。
「久しくお会いしておりませんでしたので。お顔合わせも兼ねて、でございますよ」
何だろう、この違和感は。
男の立ち振る舞いには嫌悪や悪意など、その一端も覗かせていない。温和そうな、気の良いおっさんだ。けれど彼女達の態度は、それこそ親の仇でも見る目をしている。
互いの感情が激しく反比例している境界線上に立たされているこちらとしては、とりあえず事の成り行きを見守るしかないかな、と思ったのだが。
「……ほう。この方が」
ヴェラ、と呼ばれたインド男が、その温和な顔をこちらへと向けた。
事前に俺の事を知っていた口振りと共に。
「茶を運んだ侍女から聞きましてね。普段は二つしか運ばない器を、一つ余分に運んだのだと。そしてそこで談笑しているのは、ウィリク様とリンお嬢様以外の者かが。……悲しいですな。ウィリク様のお知り合いでしたのなら、こちらに教えて頂ければ、それ相応のお持て成しを用意致しましたものを」
……それって、仮にも女王付きの侍女(守秘義務遵守だと予想)にまで手中に収めている、と公言しているようなものなのでは。
「……彼はリンの個人的な友人です。その様な第三者の気遣いは、無用のものと思いなさい」
「そうですか。それは失礼致しました」
先ほどまでの会話とは別人のような印象をしたウィリク様に戸惑いを覚えていると、そんな彼女の不機嫌を全く居に返さずに、インド男がこちらに足を進めた。
座ったままでは不味いかと思い、席を立ち、彼と面と向かい合う。
俺より目線一つ二つくらい低い身長なのだが、巨大な岩石を前にしたような風格というか、威圧感すら覚える程に気圧される何かが彼にはあった。
「初めまして。私、ヴェラと申します。この地にて商いを行っておりますので、何かご入用なものがありましたら、何なりとお申し付け下さい。リンお嬢様のご友人であれば、出来うる限りは勉強をさせて頂きましょう」
そう言って、片手を差し出してきた。握手ってここでも有効なのね。
「これはご丁寧に。私は東の地から参りました、九十九と申します。そうですね、何かありましたら、是非に」
「おぉ。これはこれは。そのような遠方からわざわざお越しとは。……唐……いや、高句麗(こうくり)辺りのご出身で?」
高句麗って何処かで聞いたな。昔の中国の国名だった……ような……? ……唐……も、確か昔の国名だったかな。三国志よりは後だったと思うんだが。
とりあえずは、彼の言う地名か国名か不明な場所では無い筈だ。との考えの下、言葉を返す。
「いえいえ。もっと遠方からです(多分)。それらの国の更に向こう。海を挟んだ先の、小さな島国です」
この今の大陸(現在地点はインド辺りだと予想)と比べれば、ですがね。
日本人的謙遜スキルを発動させて、物腰を低くしてみせる。
「何と。そちらのお話は殆どお耳にする機会がありませんので、実に興味深いですな。……如何でしょう。もし宜しければ、この後、一席。一昨日取り寄せたばかりの葡萄酒がありまして」
リンと言いこの男と言い、そこまで葡萄酒―――ワインは良いものなんだろうか。
嫌いではないのだが、どちらかといえば、ビールやカクテルよりも、焼酎や日本酒が好みな俺にとって、ワインには余り興味を惹かれない代物である。
でもそれは、今まで値段の安いものしか口にしていないからではないだろうか。
日本酒の時だって、あんな砂糖を大量にぶち込んだだけのアルコールの何処が美味いんだと思っていた最中、知人の家で一本二万は下らない地酒をご馳走になった際に、その意識は吹き飛んだものだ。その経験が、今回にも当てはまるのではないかという回答を導き出すのに時間は必要無かった。
(高いワインなんて飲んだ事無かったなぁ)
パッと見な第一印象だけでも、羽振りは良さそうである。おまけに国のトップな人と顔見知り。胡散臭さはぷんぷんあるにしても、そんな人物が勧めてくる品が、そんじょそこいらの物であるだろうか。いや、無い!
(サシで話してみるのも一興かな?)
その味が気に入ったのならジャン袋を使って入手すれば良い。
そこから、今度はロマネなんちゃらとか、シャトーうんたらな代物に派生するのも楽しそうだ。
それに、女王やネズミ少女との関係は最悪だと言えるが、それに俺は当てはまらない。仲良くなるに越した事は無いし、嫌うなり拒絶するなりするにしろ、ヴェラと名乗った商人の人となりを知ってからでも遅くは無いだろう。
場合によっては、【テレパシー】を使えば悪巧みをされても一発で看破出来るのだ。ある意味で、ジェイスよろしくプチ対人無双状態にもなれるのである。何でもバッチコイと思っても仕方ない。
―――そう思って、彼の意に応えるべく口を開きかけた矢先。
「いえ。それには及びません。ツクモさんは長旅でお疲れになっています。それに、リンとの再会の夜なのです。―――邪魔をするのは無粋というものでしょう?」
二重の……というよりは色々な意味で『え?』となる俺を他所に、ウィリク様は鋭い視線をヴェラへと向けたまま断言した。
それに対して興味深そうな視線を向けたインド男は一瞬目を細め、リンと俺を交互に見比べて、何やら納得した様子をする。
……待て、待つのだおっさん。その納得は俺にとって不名誉な理解である、と、経験と直感がダブルで告げている。
「それもそうですな。失礼致しました。では、邪魔者はすぐ引くとしましょう。―――九十九様」
初めて聞いたであろう筈の、和名を何の違和感も感じられずに発音した男へと顔を向けた。
「またの折に、是非」
片手を胸に当てて、一礼。
個人的な少女マンガの代表格、ベル薔薇にそんな描写があったような。それを連想する―――西洋貴族のような挨拶に、『はい』と一言返すのがやっと。
そのまま男は踵を返し、入室した時と同じ様に、柔らかな笑みを口元に湛えたまま、退室していった。
張り詰めていた空気が弛緩して、女王と少女は深い息を吐く。
疲れたように額の汗を拭う老女と、その場に腰砕けになる少女。
「……申し訳ありません。ツクモさん」
疲労の回復も間々ならぬ中こちらを気遣う女性に、慌てて応える。
「あ、い、いえ。それは構わないのですが……あれは一体?」
探る様な口調に、ウィリクは少しの間、目を閉じた。
釣られる様にリンの顔にも皺が寄る。
互いに異なる渋面を作った後、先に口を開いたのはウィリクであった。
「彼が商人である、というのは既にお聞きの通りです。後は……そうですね。そこに経歴一切不明。と付け加えておきましょう。交渉に長け、必要としている者に必要なモノを提示する。その手腕は私が知る中でも随一。これでも決して短くない年を生き長らえてきましたが、彼ほどの商人には出会った事がありません」
彼女の話を聞いていく内に、彼に見せた嫌悪感の意味が段々と理解出来るものになっていく。
―――裕福とは言えないまでも、そこまで貧困に喘いでる訳ではなかったこの国に訪れた変化。その原因が彼であるのだと言う。
商いの優れた彼は多くの物、金、人をこの地に呼び込み、建国以来、最も賑やかな時代をもたらしているのだと。
ならば何故、彼はあそこまで嫌われて―――否。敵意すら向けられていたのか。
「―――近い内に、この国は戦火に飲まれます」
苦渋の声で告げる内容に、思わず唸る。
発覚から発生までは瞬きをする間であったにしろ、思い返せばその根回しは、ずっと以前から行われてきたらしい。
あぁ、商人や豪商達が言ってた『何か起こる』って戦争だったのか。
となると、あらゆるモノが動く。
物然り、食べ物然り、金然り。
そして人の命など、それこそ簡単に消えてゆくのだろう。宛ら、二束三文にも満たぬ、木の葉の一枚のように。
「はぁ……つまり……あれですか。彼はその……」
どんな単語が最も適切であったかと記憶を辿っていると。
「―――死の商人。それ以外の言葉なんて思いつかないよ」
忌々しげに吐き捨てたリンに、それが言いたかったのだと脳裏でポンと手を合わせた。
「万に届く程の武具に、それを扱う兵―――奴隷達の調達。そして、それらを賄う食糧。このほぼ全てを彼が握っているのです。今ではこの国の誰もが彼との関わりを持ち、媚び諂う日々を送っている事でしょう」
胃袋や財布の紐どころか、心の臓までしっかり握られてしまっている状況、と。洒落にならんね、それは。
「彼は何ら悪事に手を染めている訳ではない。それは重々に理解していつもりですが……やはり、この国を治めていた者としては暗い感情を抱かずには居られない。歳ばかりとって、こういう事はとんと成長していないのは、いっそ笑い話として民草に言い伝えてみようかと思ってしまいますよ……」
正攻法の結果だとはいえ、人の命が掛かってるとなれば、確かに良い気分はしない流れだ。
「……君、『俺は関係ないから』なんて表情が透けて見るけどね。その考えは改めた方が良い」
完全に他人事な気分で聞き手に回っていたのを、リンに突っ込まれた。
でも、別に間違いじゃあ無いと思うんだ。俺完全に部外者だし。
「何でさ? 俺、ちょっと前にここに来たばかりだぞ? どう考えても……まさか、ここに忍び込んだからか?」
今更お咎めが下されるというのか。
談笑しながらサラッと刑罰について考えを巡らせていたとは……いやはや、その辺はきっちりしているお方だと、むしろ感嘆すべきところかもしれない。
「いいや。……彼に目を付けられた。これだけで理解してくれると説明の手間が省けるんだけどね」
……ごめん、さっぱり分かんない。
「……それこそ何でさ。俺、あの人に何もしてないし、ちょっと会話しただけじゃん? そこの【ジャンドールの鞍袋】も含めて、まだ何の力も見せてないぞ? あの人から見れば俺ってただの一般人じゃないか? 何で目をつけられるのよ」
「この部屋に誰にも気づかれずにやって来ているというだけで、普通じゃないのは確定してしまっているさ。そして、君が僕の友人だと彼は知った。……妖怪の僕の友人。そして、さっきの態度の通り、そんな僕はアイツが、憎い。そしてそして、結果的にではあるが、アイツに君の到来を告げずに居た事。―――君ならそこに、どんな背景を思い浮かべる?」
……あぁ、なるほど。
暗殺者とか復讐者とか、今の俺って、その手の類に見られてるのね。
「よし逃げるか」
本来の目的も果たした事だし、今更ここに留まる理由も無い。
「……って、止めないのか?」
席を立ち、天体観測したら楽しそうな時間帯になっている外―――窓へと体を進ませて。窓から逃亡を計る泥棒のような格好であるというのに、そこに呼び掛けの声は無い。
てっきり、『待って』系のお言葉で呼び止められるもんだと思ったんだが。
「止める理由がありませんから。娘の為に来てくれた、初めての友人です。元気で……無事で居て欲しいと思うのは当然ではありませんか。……ただ、願わくば……」
ウィリク様が席を立つ。
俺が去る事に安堵していたリンの肩に、そっと手を掛けて。
「この国で宝物庫に並ぶ警備を誇るこの場所に、意図も容易く入り込めるあなたならば問題は無いでしょう。不法侵入の罪はこれで無し、という事で」
若干の悪戯心を覗かせたかと思えば、それは一風で消え去り、残ったものは……真に願う心のみ。
安心とも、悲しみとも、後悔とも取れる表情を浮かべながら。
「今まで何一つ、母親らしい事はしてあげられなかったけれど……。―――この子を……私の娘を。宜しくお願い致します」
砂漠という地帯は、昼間とは打って変わって、夜には極寒に近い気温となる。
保温出来るものが一切無い地上では、太陽が消えてしまえば、熱を奪われるのはあっという間。
真夏から真冬へと姿を変えた闇夜の小高い丘には、星に照らされ、大小二つの影が並び立っている。
風は無いが、吐く息は、後少し気温が下がったのであれば、白い靄となりそうなほど。
大の影は白い外套を、小の影は灰色の絹を用いて造られた外套を、隙間なく着込んでいた。
「数十年前の話で……。死産、だったそうだよ。大きな戦に巻き込まれてもうこの世には居ないが……お母様の夫がリンと、そう名付けた……名付けようとした、らしい」
所々に火が灯る町並みを眼下に納め、ネズミの少女はその瞳をガラスのようにしながら、ポツポツと語り出す。
「僕を一目見た時、何故か死んだ娘だと思ったんだそうだ。そうして、人間達から串刺しになりそうだった僕は命を救われて、お母様……彼女に懐いたという訳さ」
自虐的に笑みを浮かべている。
彼女の全ての幸福が、その手から零れ落ちてしまったかと錯覚させる程に。
「……今なら、簡単に戻れるぞ」
その場の空気……主にウィリク様の纏う気迫に当てられて、思考を挟む余地もなく、こうしてリンと共に町を離脱した。
苦渋の表情を浮かべながらこちらに身を委ねて来た少女を小脇に抱えて、城の窓から、未だ効力の残っている【ジャンプ】の力を借り、暗闇に紛れて跳躍。
【不可視】による偽装に頼らずとも、天体観測が趣味でも無い限りは、わざわざ夜空を見上げようとする者はいない。入って来た時と同様に、誰に見つかるでもなく、何の苦も無く城外へと離脱する事が出来た。
リンに触れた瞬間、何か電気のような感覚が背筋を走ったが、不思議そうにこちらを見つめる彼女であったので、特別何かをした訳ではなさそうだった。
体にこれといった変化もなかったので、気にせず跳躍を続ける。
時間にしてみれば然して掛かっていなかっただろうが、【ジャンプ】の尋常でない脚力は、いとも簡単に郊外を一目で納められるだけの距離を稼いでくれた。
「……もう、決めた事だ。お母様からは直接聞いた事は無かったけれど、城中の雰囲気で理解出来たよ。戦争が起こる、と分かってからは、いつかはこうなるだろうとは……ね」
「……そう、か。……勝てそう、な訳はないか。じゃなかったら、あんな提案はしなかっただろうし……」
「相手は、一兵一兵が一騎当千。兵力が少ないとはいえ、四方の人間達を砂漠へと追いやって、国土豊かな草原地帯に陣取れるほどの力を持っている。丁度、君と僕が出会った所さ。対してこちらは数万が精々の軍隊。精強ではあるが、相手と比べると……。そんな二者を比較して、君はこの戦いに勝ち目があると思うかい?」
「俺、そんな場所で一晩寝たのか……。それだけ聞くと無理そうだ、ってのは分かった。……何で戦争起こりそうになってるのよ。侵略されてるとか?」
脳裏に、諏訪であった頃の記憶が蘇る。
「人間、力を持てば使いたくなる。それが今回は、多数の奴隷であり、整った武具だった。というだけの話さ」
……される側じゃなくて、する側ですか。
「……幾らなんでも盲目過ぎねぇ? 人間の国を四方に追いやって尚健在でいられる国相手にちょっかい掛けるなんて。何、何処かの国で同盟でも結んでるの? 億に届きそうな、マケドニアの王も真っ青な大軍団になってるとか?」
「西方の大国……イスカンダル王だったね。でも、あれは億の半分にも届かない軍勢だったそうじゃないか。まぁ、人間がそれだけ居れば、神々の住まう土地ですら滅ぼしそうな気はするけど」
わぁお、リンさん博識~。イスカさんの話題が通じるとか……マジで今がいつなのか分からんです。
そも俺は、あの人が何年に活躍していたのかすら知らないと来たもんだ。
学校での勉強なんて、必要とした時には大概忘れているもんではないだろうか。と、見ず知らずの脳内大衆へと同意を求めつつ。
(もっと社会の……世界史やら日本史、真面目に取り組んでおくんだったわ……)
とりあえず、一頻りに後悔の念を思い浮かべていると、リンが事の発端とも言えるべき出来事を話し出す。
「……何でも、火と土の神の力を使った武器があるんだそうだよ。その力は岩をも砕き、雷に勝るとも劣らない音を出すんだそうだ」
そういえば、時折、城の外でけたたましい破裂音を耳にしていたと彼女は言う。
その武器―――兵器には、心当たりがある。
具体的にそれ、とは特定出来ないのだが、十中八九、火薬を使った代物なのだろう。
(銃や爆弾の登場な時代なのかねぇ。確かにあれなら、どんな敵が来てもバッチコイな感覚になりそうだなぁ)
だとするのなら、火薬等の備蓄のストックさえ充分であれば、無血勝利すらも可能なのでは……
(……って、ちょっと待て)
爆弾は兎も角として、銃の登場は十世紀前後ではなかったか。そして、《諏訪大戦》が勃発したのは大雑把に記憶している限りでは、西暦三百から六百年の間。
爆弾であれば深く追求するものではないが、仮に、銃であったとすれば……。
その疑問を本格的に思案する前に、ネズミの妖怪は町に背を向けて、何処とも知れない闇へと足を踏み出した。
「お、おい」
「さて、それじゃあ行くとしよう。妖怪だとはいえ、流石にここは僕でも寒い。何処か暖かい場所を―――」
気軽に……少なくとも表面上は言い切る彼女であったが。
―――何も言わず、右手で彼女の肩を後ろから掴む。
もはや言葉で止まるとは思えない。故に、思わず手が出てしまった。
ぽん、と。軽い音がする程度のものであったが、決して放す気は無いと。幼い体に、五指が肉に食い込むぐらいに、強く。
大人の、男の力で握るのだ。それこそ、『痛い』『止めてくれ』といった反応が、行動なり言葉なりで、すぐ返って来ても良い筈であるというのに。
リンはこちらに背を向けて、無言のまま。
振り向く気配は無い。
それはあたかも、二度とこの地に踏み込む事は無い、と告げているようであった。
町の中で見かけた時の、軽蔑の視線が彩る道を歩くリンの姿が思い浮かぶ。
虫唾が走る街道を、表情を変える事無く、何食わぬ顔で。
―――心で涙を流しながら。
……これは、妄想が過ぎるだろうか。
別に、彼女から直接そう聞いた訳でも、【テレパシー】を用いて心中を察した訳でもない。確たる根拠は全く無い、ただの俺の独り善がりである可能性だってあるのだ。
月でやらかした手前、能力―――こと戦力に繋がるカードの使用には、過敏になっている節がある。
だが。
(……だからって、何もせずにいるなんて事、出来るわきゃねぇだろが)
これでも月の軍神様やらその姉に、お人好し、と評価された身。
例外の多い……というよりは、特定の対象でしか条件を満たさないお人好しではあるが、幸か不幸か、目の前の少女にこの条件は合致している。
例えれそれが、俺の思い違い―――この少女が、あの星蓮船の事件において、ネズミの賢将と呼ばれる妖怪ネズミ、ナズーリンでないとしても。
「……戻るぞ」
振り向かない。
「城の中も少し見たが、夜になるってのに、みんなバタバタ忙しなく動き回ってた。……戦、近いんだろ? だったら少しでも―――」
意思疎通が大いに不足していたのだと、俺はここで思い知る事になる。
こちらの意図は、彼女の力になる為に、何がどうなっているのかを逸早く把握して、何の力を使えばいいのかを検討する時間を作り出す目的であった。
けれど、そんな事情を少女が知る筈が無い。
彼女の前で見せた力は、食べ物を出したり、跳躍したりするものだけ。
そんな男をどうしたら、どうすれば戦争という名の妖怪の如き問題の解決に結び付けられるだろうか。
だからこれは……俺の台詞は、“お前にはまだ出来る事がある筈だ”という、ただ単に相手の逆鱗に触れただけの言葉になってしまって―――
「―――君に何が分かる!!」
勢いよく振り向いた彼女の瞳には、今にも零れんばかりの涙が溢れている。
振り返り様に、こちらの胸に腕を振り降ろす。
……しかし、それに殆ど重さを感じない。
何が妖怪だ。何が悪魔だ。これでは、ともすれば一般的な少女よりもひ弱なのではないか。
何度も何度も。
ぽすぽすと軽い音しか発せられない、こちらの胸板に振り下ろされる拳。
それは俺を通して、己自身に向けて感情を爆発させている様を思わせる。
何にしても……そこには、弱々しいだけの印象しか感じられなくて。
「僕は妖怪だ。ネズミだから数が多いとはいえ、一匹一匹は大した力も無い。例えその数が数万になろうとも、今回の相手には分が悪い。それでも何かある筈だと。そう思って、今の今まで……さっきまで……手を尽くして来た……」
後悔全てを吐き出しているかのように、一語一語に苦渋が混じる。
「……でも、何も無かったんだ。この国の連中はお母様の悩みなど有って無いかのごとく振舞って、戦争を取り止めるのなんて論外で。他国との協調も、利益が、取り分が下がるからと切り捨てた。自分の力がダメならと、僕個人でも協力してくれる誰かを探す試みはしたさ。お飾りだとはいえ、これでも女王の娘……だったから……。でも……ほら……」
言葉に詰まり、小さく俯く。
その先は言わなくても分かる。色々理由はあるだろうが、その中の一つならば容易に想像出来る。
きっと……いや間違いなく、彼女はこの国の人達が向ける視線と同等か、それ以上の悪辣な目を向けられていたのだろう。
―――妖怪だから。ネズミだから。
その一言で、彼女の意思は悉く切って捨てられて来たと。
それに合わせて、何度も胸を叩いていた拳も止んだ。
胸板を叩いた姿勢で動きも止まり、リンの頭がこちらの腹部にもたれ掛かり、縋るような姿勢になる。
「後はもう、お母様を連れて何処か知らない地へと逃げるか、今しているように、お母様の意思に従うしか思いつかなかった……。前者はダメだ。あの人はとても責任感が強い……優しい人だから。あの腐りきった国であっても、最後の最後まで自身の役割を果たすおつもりだ。……情けないだろう? どんなにがんばっても……人間の真似事は愚か、木っ端妖怪の域すら出れなかったよ」
涙を湛えた顔を崩して……とうとう流れ出た雫は留まるところを知らず。
けれどそれの主は拭いもせずに、声を押し殺して自分の無力さを嘆く。
「もう、どうしようもない……後出来る事と言えば、お母様の意思を汲んで、この地を離れる事くらいしか、今の僕には出来なかったんだ……」
ここで俺は、漸く彼女の慟哭の全てを理解した。
母を連れ去る事も出来ず、自分の命を対価にする事も叶わず、それでも導き出した―――それしか残っていなかった唯一の選択肢が、これであるのだと。
途端、先程の流れと、自身が発した台詞も思い出す。
一瞬にして頭に血が上り、奥歯が砕けんばかりに異音を奏で、口の中に薄く、血の味が広がる。
(この……クソ馬鹿野郎が!!)
自身に向ける、憤慨の言葉。
我ながら、反吐が出る台詞であった。
あの仲睦まじい光景を見た後で先の言葉を吐いてしまった自分を、ぶん殴りたくなるくらいに感心してしまう。
その程度の事、彼女がしなかった筈が無い。
考えたのだ。
考えに考えて、行動に移して、死に物狂いになって。
考えて答えが出ないから、足が棒になるまで歩き続けて、何か解決策が無いものかと模索していたのだろう。……でなければ、敵国の領土だという危険な草原地帯で、俺と出会う筈が無い。
少女は力無く笑う。
全てが無駄であったと。自分の無力さを嘆くように。
しかし。
笑いであった筈なのに、声に出てくるそれは鳴き声や嗚咽と呼ばれる類。
笑おうとして、声が詰まって、それでも何とか声を出そうとして。
「……助けて」
掠れた声で、消え入るように。
「助けてよ……ツクモ……」
ただ一人を除き、他人など悪でしかないと学んだ……学んでしまったというのに、それでも言わずにはいられない、彼女の願い。
馬鹿な事を言った。無神経にも程がある。
すぐにでも謝らなければならないというのに、口を突いて出た言葉は。
「―――任しとけ」
謝罪も、後悔も、全てを後回しにして出た台詞。
短く、たった一言呟いただけだというのに、胸に縋る少女はとうとう大粒の涙を零す。
きつく、きつく。心を締め付ける慟哭。
喉が張り裂けそうな程の声には、これまでの全ての苦悩が吐き出されているようであった。
「……落ち着いたか?」
「……う、うん……。その……あの……」
一頻り喉を酷使し、泣き腫らした目を拭いながら、リンは言い淀む。唯でさえ赤い眼が、今では徹夜二日目に突入したかのような晴れ具合だ。
今までの自分の……感情に任せて気持ちを爆発させてしまった事を思い返して、色々な念に囚われているようであった。
「ちょっと順序が入れ替わって心苦しいんだが……」
一歩下がって、彼女との間に、体一つ分を入れられる空間を作る。
「……無神経な事言った。本当に……ごめん」
空いた隙間に、頭を滑り込ませる。
姿勢を正し、直角に体を折り曲げた。
「い、いや。こっちこそ感情を高ぶらせてしまってすまなかった。自分の不甲斐無さを棚に上げて、誰かに当り散らすなんて……」
ここでリンは目を見開いた。
苦虫を噛み潰した表情を一瞬浮かべて。
「……ツクモ」
「ん?」
「君が謝罪をする必要なんて無い。寧ろ、逆だよ。まだ僕は君に対して一言も謝っていないんだから」
言って、頭を下げる。
「袋を盗ってしまって、御免なさい。僕に出来ることなら何でもさせてほしい」
あぁ、そういえば。
一連の怒涛の展開に、その辺りの事は忘却の彼方であった。
このところ謝ってばかりであったので、逆の事をされるとどうにも違和感が。
……そこに漬け込んで弄ろうとしていた手前、謝罪を受ける受けないというよりも、心苦しさの方が先に立つ。
「……もう良いさ。これを教訓に、次からがんばってくれ」
「良い、の、かい?」
「良いか悪いかで言うなら悪い事なんだろうが、俺はもう気にしてないから。……俺だって、今もそうだが、ついこの前に色々やらかしたからな。失敗したんなら、次に活かしましょうって事で」
秘儀、本音と建前発動……ってのもあるのだが。
流石にあれだけ色々と仕出かした直後で、自分の行動を棚に上げてのあれやこれには思うところがある。いずれはそれも気にならなくなるだろうけど、それにしたって時間が必要だ。ブーメラン発言はほどほどにしておかねば、羞恥の念で悶死してしまうかもしれない。
「分かった。もう、こんな真似はしないよ」
「あいよ。……ん、じゃあこの話はこれでお終いにしよう」
しばらくの間。
情けないような、恥ずかしいような表情を、双方の顔に貼り付ける。
「……じゃあ、早速であれなんだが、お前の仲間達。出来るだけ集めてほしいんだ。可能性―――達成条件が何であれ、使える手は多いに越した事は無いからさ」
「それは構わないけど……さっきも言った様に、人間相手ならいざ知らず、今、あの国が挑もうとしている相手には、雑多な力など無意味なんだよ? それでも、必要なのかい?」
確かめるような口調と共に掘り起こされた過去の話であった筈なのだが、俺はここで、一つ聞かされていない事実を発見した。
「……“人間相手ならいざ知らず”って……。なぁリンさんや。……相手、人間じゃねぇの?」
聞いてないよ、と顔で物言うこちらに。
「……あれ、言ってなかった……っけ?」
コクコクと頷く俺。
それに、彼女は一筋の汗を流す事で応えた。
「……安易な気持ちであれを口にしたつもりは無いんだが、流石に相手の事を知らな過ぎだな。……リンの知っている限りの事、教えてくれてよ」
それを口にした途端、リンの表情がみるみる曇ってゆく。
何かを言いかけ、口を閉ざす。数度それを繰り返す様は、必死に何かの事実を誤魔化そうとしているような印象を受けた。
幾つかの理由が思い当たるが、最も的確であろう答えを予測して、発言の枷を外すであろう言葉を補足する。
「例え相手が神だろうが悪魔だろうが、今更、相手の強弱程度で言葉を違える気は、無い」
人道的にどうかな、と思うものでなければ。とは心の中で呟いておく。
この辺りの詳細はリンの口から直接聞きたい事であるので、あえて言葉にせず、思うだけに留める。
「―――平天大聖。それが相手の名だ」
重々しく告げられた名前。
決心を言葉に代えて吐露する様子に、こちらの予測である、強い相手だから言うのを躊躇っていた、という可能性は、どうやら的を得ていたようだと安心しつつ。
「……知らん」
そう一言返すのが精一杯であった。
「えっ!?」
心の底からの驚きに比例して、こちらの羞恥心が熱を持ち、頬を薄く染める。
それを誤魔化すように、気にした風もなく、相手の情報を尋ねた。
「……どんな相手なんだ、そいつは」
「知らな……いから、そう言ったんだったね。……あぁ、そうか。君は東方からやって来たんだったか……」
あれの名が届いていない場所があるなんて。とか、もそもそと口に出しているんだが、そんなに有名な相手なんだろうか。インド(予想)の神なら兎も角、それ以外の人外なんて、全くと言っていいほどに知識に無い。
眉をひそめ、その小さな唇に、同じく小さな握り拳を当てて、リンは思案を開始する。
ものの数秒程度で考えを纏め上げたようで、ゆっくりと、俺にも簡単に理解出来るような言葉を選びながら、その相手の情報を語り出す。
「妖怪達を纏め上げ、雑多な神など鎧袖一触。その配下は数こそそうは多くないものの、いずれも名のある妖怪達だ。それ一体で、人間達の百人、二百人なんて優に勝り、文字通りの一騎当千の力を持つ。……そんな相手さ。君が立ち向かおうとしているのは」
「……凄い奴。ってのは理解出来たが、具体的には何にも分からんな……。ってかそいつ、妖怪なのか? 平天大聖って大層な名前なんだから、神様の仲間っぽい気がするんだけど」
「天にも等しい、という意味で自ら名乗っているだけだとは思うんだが……詳細は分からない。そして、それに見合うだけの力を持っている。その力は山を崩し、天を引き裂くとか、なんとか。元々天に住んでいたから。なんて話も聞くけどね」
うぐぅ。ピンと来るものが一切無いと来た。
過去、天の国在住だったお方……天の世界から弾かれた……堕天使系だろうか。
西洋ならルシファーとかそれ系統のを思いつけるのだが、こっちのものは欠片すら思い浮かべる事が出来ない。
「えらい曖昧な情報ですね……」
「取り巻きの妖怪達が強過ぎて、誰もあれの元に辿り着けていないんだ。もう百年以上は、姿さえ見た者すら居ないよ。……これでも、他の誰よりも情報は持っている方なんだけど、流石にあそこへは行けないかな」
目と耳は多いんだ。
そう言って、リンは自慢げに微笑む。
初めて出会った時に見せた表情。
自分の種族を貶されながら、それでも芯は折れず、誇りとしている彼女に一種の敬意に近い感情を抱いた。
少ないがらも信用出来る情報の数々を耳にして、俺は必死で力の組み合わせや【シナジー】を選択し、選別する。
敵は、最低でも数千。
そしていずれも一騎当千。更に親玉は、雑多な神すら退けるだけの力を持つ、妖怪の総元締め。まるで鬼のような……もしくはそれ以上の存在だと思った。
流石に一度にこれら全てを相手にする訳ではないだろうが、最悪の可能性として、考慮しておくに越した事は無い。
「えーっと……ウィリク様とお前の安全確保。それが最低条件って考えで良いのかな?」
「条件はあるけど、お母様の安否だけが最低条件だと思ってもらって構わないよ」
「……それは、あれか。自分の命すらどうなっても良い、と」
「勿論、無駄に命を散らす気なんて無い。今までは、自分の命を何千、何万と対価として支払っても覆えらない結果だったから、最適だと判断した道を選んでいただけさ。……もし、この命を以って、あの人が安からに過ごせる日が来ると言うのなら、喜んでこの身を差し出すよ。ただ、仮に僕が死んでしまったら、何一つ痕跡を残さずにして欲しい。一応は、骸を仲間達に食べて貰うようには言っておくけれど」
「……ん。責任重大だな、俺」
「そうとも。……あぁそうだ。お母様の為に、出来れば国……国民も、と、付け加えさせて貰えるかな。……僕個人としては、正直に言って、いっそ滅んで欲しいくらいだけど」
「……お前からしてみれば、そうだろうなぁ」
俺だって、リンの立場ならば、逆に敵国に加担してしまうだろう。
まぁその条件は、状況次第ということで。
「うっし。んじゃ早速、行動に移すか」
本日の使用カードは【ジャンプ】1マナ、【不可視】2マナの、合計3マナ使用。
後少しで昨晩使用した【テレパシー】1マナ分のコストは回収出来そうだが、現状では、まだ叶わない。
【ジャンドールの鞍袋】は既に消しているので、現在、維持に気をつけなければならないカードは【今田家の猟犬、勇丸】の1マナのみ。
【土地】系は勿論、【マリット・レイジ】と【カルドラチャンピオン】は【トークン】である為、ノーカンと換算しても差し支えない。
よって、使えるマナは5。維持中のコストは1。使用可能枚数は8。
最大限とはいかないが、これからの行動を考えれば、過去の状況と比べてもかなり自由の利く方であろう。
「もう、かい?」
「さっきも言ったとおり、時間、無いんだろ? 考える時間は多い方が良い。時間は有効に使いましょう、って事で。間違いに気づく時間は、あるだけあった方が助かる訳ですよ。俺としては」
すたすたと、月からの出現位置であった草原地帯へと足を進める。
「お、おい!」
後ろから聞こえる呼び掛けには答える事はせず。
目の前に誰も居ないのを確認して、早速、行動を開始する。
「―――召喚、【稲妻のドラゴン】」
『稲妻のドラゴン』
4マナの、赤の【ドラゴン】クリーチャー。4/4
【飛行】と【パンプアップ】能力を有するが、次のターンに、もう一度、記載されているコスト(大概は召喚コストと同等)を支払わなければならないデメリットの一種、【エコー】を持つ。
この【エコー】能力は【ハルクフラッシュ】にて使用した【天使】クリーチャー、【霊体の先達】にも付与されている。
二度コストを支払う、というデメリットを付与させる事によって、基本は、比較的速いターンに高性能のカードを使用する為の能力である。
4マナという、【ドラゴン】タイプにしては手の出し易いコストの恩恵で、比較的召喚が安易であり、相手に【飛行】持ちが居なければ、かなりの脅威になる。
『ドラゴン』
クリーチャータイプの一種。
炎と混沌、純粋な暴力を象徴する赤に多く見られ、コストが高いカードが目立つ。赤の【フライヤー(【飛行】持ちのクリーチャーの俗称)】の代表格。
必ずと言っていいほどに付属している【飛行】は勿論、初期の【ドラゴン】タイプには取り分け多く付属している、1マナを支払う事で+1/0の修正を得られる【パンプアップ】能力―――通称【炎のブレス(前記の能力を付与させる【エンチャント】カード名より)】、あるいは【火吹き】と呼ばれる非名称能力を有しており、赤のデッキにおいて、最後のトドメ的な存在として位置している場合が多い。
夜空に鳴り響く雷鳴。
稲妻の輝きを伴って現れたそれは、光の四散と同時に形を成した。
真紅の表皮。刺々しい翼。くすんだエメラルドグリーンをした、左右二対、計四つの複眼。
岩にすら、腐った果実を扱うかの如く楽に突き刺さりそうな爪と、捉えた獲物を決して逃がさない、前方にやや突出して生え揃っている、鋭利な牙。
尾も含め、全長二十メートルを超える、紅色の暴力の権化。
放電現象によって闇夜に浮かび上がる赤い容姿は、東洋の龍ではなく、西洋の竜のそれ、そのままであった。
心臓を鷲掴みにされた錯覚に陥りながら、リンは唖然と……腰を抜かす事すら叶わずに、それを見続ける。
逃げなければ。しかし、足に力が入らない。
砂の大地に四肢を根付かせて、低い唸り声を……喉を鳴らしながら、出現時とは一転。静かに、自らよりも格段に小さな存在である、自分達を見下ろしている。
捕食者であった猫等を前にした時よりも、多くの人間達から目の敵として剣や槍、鋤を向けられた時とも違う。
ああ、自分は喰われるのだ。
悟りにも近い心境で、ネズミの少女は立ち尽くしていた。
「リン」
名を呼ばれ、やっと体に力が戻る。
しかしそれでも、とてもではないが、あの死の具現化から逃れられるとは思えない。
ただ、僅かな可能性。目の前の男の存在だけが、自らの命を繋ぐ術なのだと。名も知ら東方の地の大妖怪だと思われる、【稲妻のドラゴン】と呼ばれたそれを召喚した男を、縋るような目で見つめた。
何なのだ、彼は。
あらゆる場所に忍び込む自分達種族ですら困難な、あの国の王室にも全く……それこそ朝食前の散策に出掛けるような気軽さで訪れたかと思えば。
この国では最も多くの食べ物を口にしてきたと自負する自分が微塵も知らない、天の国の如き甘味を無限に振舞って。
空を突き抜けてしまうのではないかと思ってしまう程に高く、遠くへの跳躍を果たし。
そして、この目の前の存在を、息をするように容易く出現させた。
呼び寄せたのか、生み出したのかは分からないが、彼があの大妖怪を従えていることだけは理解出来る。でなければ、突如としてこのような存在がこんな場所に出現する訳も無く、仮にそうだとしても、今頃仲良くあれの腹に収まっているか、ただの肉塊に成り果てている筈なのだ。
男が振り向く。
さも当たり前のように、強大な存在を呼び寄せた事など微塵も感じさせず。
道端を歩き、挨拶を行う動作に似て。実に気軽に、簡単に。ほんの少しだけ、その表情に疲労の色を乗せながら。
あの魔法の食袋、【ジャンドールの鞍袋】と銘打ったそれを使用している時と、同様の疲労感を滲ませるだけに留まっているだけ。
彼は―――いや、あの方は。
その東の地を治めている、名のある神に違いない。
それならば、納得がいく。
なんだって、たかだか小さな妖怪一匹の願望などの為に、戦という無数の命が散ってゆく地獄へ、自ら出て行こうとするのか。
人は願い、神は聞き入れる。
自分達には適応外だと思っていた理が、まさに奇跡的な機を以って、目前に具現化したようだ。
なるほど。思い返してみれば、彼との口論には、いつの間にやら、彼を信じられるという前提の元で話を進めていた節がある。
この【稲妻のドラゴン】と呼ばれた大妖怪を見た後ならまだしも、それを思い知る前であったというのにだ。
きっと、タイミングも重なっていた事も理由の一つ。
慎重に慎重を重ねて、母を救う算段を進めていた段階ならば、何の根拠も確証も無い、やや特殊な魔法を操る男など、信じることは無かっただろう。
しかし彼の提案は、こちらが全てを諦めた直後の、まさに神の救いの手。絶妙の一言に尽きるタイミングで差し伸べられた、釈迦の蜘蛛の糸。
そんな神がかった瞬間を見極められる者など、神以外の誰が居よう。
(僕は……)
……但し、願いには代償が伴う。
それが信仰であったり、供物であったりと、多岐に渡る場合もあるが、それでも。
(僕の命だけで、足りれば良いが……)
西洋の妖怪である悪魔という種族には、分の悪い取引の後に願いを叶える性質がると、風の噂で聞いたことがある。
それに比べれば、これは、最上の幸運。
自身の命は兎も角として、最低限、母の安全は保障してれたのだから。
何処まで出来るのか分からないし、何処までやってくれるのかも分からない。
相手はあの平天大聖。斉天を始めとした七天大聖の頂点に君臨する、妖怪の中の王。この願いを受け入れてくれているとしても、それが叶うかどうかは別問題だろう。
でも……それでも。
自らに伸ばされた救いの手を払い除ける―――縋らない、という選択肢は、ある筈も無かった。
間違いだって構わない。どうせ元より、救いなど無かったのだ。そこに希望の一つでも見出せたのであれば、今までの辛酸を舐める日々も、無駄ではなかったと思えるから。
親しみを尊敬に。尊敬を畏怖に。畏怖を敬意に。そして―――信仰に。
異質な神は、こちらに顔を向けて来た。
体はそのまま、横顔だけが覗く風に。
口元には小さな笑み。
不敵な眼には強者の証。
そして―――
(……ん?)
時間の経過と共に、彼全体へと視野が広がる。
上から始まり、徐々に下へと焦点が移って行き、
「……あ」
全身から振り絞る様に零れた吐息の名は、落胆。
見なければ良かったという思いに乗せて、叩き付ける様に。信じられない、受け入れられない現実を言葉にして。
男の下半身。
正確には腰から下。
生まれたての小鹿には及ばぬものの、それでも、寒さに震える小動物の如く小刻みに膝を揺らす足が視界に入ってしまったのだった。
「怖いのかい!!」
厳かな態度を一転。
男は抗議を以って、彼女の言葉に応えた。
「うっさい! 遠目ならいざ知らず、こんなかっちょ怖いお方が目の前に出られたらチビりそうだわ! ってかもうヤバいわ! トイレ何処!?」
信仰は一瞬にして雲散霧消と化した。
残ったものは……出会った頃よりも僅かに増した、親近感に似た、親しみくらい。
「知らないよ! 何なんだ、かっちょ怖いって! 君が何とかしないと、生理現象の処理どころか、それこそ骨まで食べられてしまいそうじゃないか! 命! 命が掛かってるんだからね! こんな、開始以前の問題で躓くなんて嫌だよ僕!」
ぎゃーぎゃー喚く男に、ネズミの少女は正論をぶつける。
それを、どう反応したら良いものか悩むように見下ろす巨大な赤影は、砂漠の夜空の下に、何か珍しいものを見つけた幼子の眼を以って、ただ立ち尽くす。
「……でも、まぁ」
感情を音量で表現するだけの時間が過ぎ、両者の熱が沈静化した頃、男は唐突に、静かな声で呟いた。
子供の癇癪のように喚き散らしていた様子は、嘘のように成りを潜め、照れ臭いと。恥ずかしいのだと。
そう、自身の駄目なとこを全て受け入れたかのような態度に、リンは思わず言葉に詰まる。
「約束したんだ。空の上で」
男は夜空に浮かぶ満月へと顔を向ける。
「大切なもの、全てを守るって。突き放すでなく、拒絶するでなく、済まないと思う気持ちがあるんなら、そういう気概を見せろって」
決意を言葉に。言葉を現実に。
その守りたい“大切なもの”に、いつの間にか自らも含まれているらしい。……頬が朱に染まり、胸が、苦しくなる。
「……そんなの、無理だよ。君が幾ら凄い神様であっても、万人を余す事無く救うなんて」
「だよな」
何の溜めもなく告げられた返答に、少女は目を白黒させる。
無理だと分かっているのに、何故それをするのかと。
困り顔。そして、苦笑の後に出た言葉が。
「それでも、目指す」
言い切る言葉には、何の根拠も無い―――けれど、確たる自信に裏打ちされているような、矛盾した信念に見えて。
「それに、別に万人を守ろうなんて思っちゃいないさ。目で見える……手の届く範囲での話」
「……それこそ無理だよ。君の言う大切なものがどんな人達かは分からないが、それでも、その大事な一人から視野は更に広がって、その範囲はどんどん……それこそ無限に等しくなっていく。君の手の平に納まらないくらいまで、大きく、大きく。そして、掬った砂が指と指の間から零れる様に、どうしようもない現実を目の当たりにするんだ。……しかも、もし仮に全てを守れているとしよう。……でもね。いつかは裏切られる。増えすぎた大事なものによって。大事なもの同士が傷つけ合って」
嫌になるほど正論な気がするが、こういう考えも、母親の行く末をどうにかしようとした結果の産物なのだろう。
怖気がする程に現実を直視しなければ、まだ幾年も過ごしていない少女が、こうも達観した思考になるだろうか。
悩みに悩み。考えに考えて。
その末に到達してしまった答えが、それであるのだと。
「うむ、実に仰るとおりだと思います」
「……だろう? だから今の内からでも……」
だから、それ以上の悲観を許さぬ為に、こうして行動に移したのだ。
「もしそうなったら」
言葉を遮り、キメようと向けた顔は、キリリとしたものではなく。
「―――過去も未来も、生も死も。全部蹴っ飛ばして、どうにかしてみるさ」
精一杯の恥ずかしさを誤魔化すように笑う、不器用な男の姿が、そこにはあった。
「え……?」
その告白に、少女の頭は真っ白になった。
今、絶対のルールの内の、特に不可能な理を打破してみせる、とのたまった気がするのだが。
ぶつぶつと、『……ん? 蹴っ飛ばしちゃ駄目か?』などと漏らす小声もリンの耳には入らない。
「よっしゃ行くか!」
けれどそれらの考えも、突如として浮き上がった体の影響で、一気に有耶無耶と化す。
「ちょっ」
ちょっと待ってくれ。
抗議の声は、しかし、羞恥心によって恐怖を克服した男によって止められる。
恥ずかしさを推進力へと変換した彼の小脇に抱えられたリンは、バタバタと四肢を動かすものの、どんどん近づく赤竜の姿によって萎縮する流れとなる。
何のやり取りがあったのか。以心伝心とばかりに、竜の首が地面へと触れて、こちらが徒歩で登れる階段へと変わった。
それを男は『靴脱ぐね。あ、このままで良い? ありがと』などと、傍から見れば一方通行の会話の後で、優しくドラゴンの上へと到達。刺々しい背中を見渡して、一番騎乗に最適そうな箇所へと移動する。
こうなるだろうとは予想していたが、あまりの展開に、驚愕と恐怖によって声が出せず、思考も停止しかけている少女を他所に。
内臓が宙に浮く感覚がリンを襲う。
同時、現れた時と同様に鳴り響く雷鳴を纏い、赤竜と大小の人影は一風の後に、星降る夜空へと飛び立って行った。
七天大聖。
それは、天と同格であると称する、七人の妖怪の総称である。
九十九には、名のある強力な妖怪程度の認識であり、事実、それは過ちではない。……その“名のある”程度の上限が、型破りに上へと続いている点を除いては。
それは、極東の地にて広まる以前の記号。将軍や元帥といった、位の記号の内の一つ。
以来の性を―――王としての通り名を知っていたのであれば、少女の意に応えて頷くにしても、もう少し言葉に詰まっていただろう。
……ゆくゆくの話ではあるが。
とある僧の一行と共に旅をする可能性を持つ、七天大聖の内が一人、斉天大聖。またの呼び名を、美猴王とも言う猿の妖怪を義兄弟に持つ、その妖怪こそ。
白き牛の妖怪、平天大聖。
―――別名、牛魔王と謳われる存在である。