日光の脅威から避難した一本の木陰。
大きな日陰を作り出していたそこに、彼女―――ネズミの賢将、ナズーリンは腰掛けていた。
平たい岩の上にちょこんと座っていることで、何とも愛らしい印象を抱かせる。
所々に差異はあるものの、昔の記憶と瓜二つ―――と表現したかったのだが、あれよりも若干幼いイメージであった。
覚えている外見の年齢が十歳前半だとしたら、今、目の前にいるのは十を超えるか超えないかといったところか。
外見年齢を除いた中で最も違和感を覚えたものは、彼女の尻尾に居た筈の、バスケットに入れられたネズミが居ない事。というか、そもバスケット自体が無い。いずれ装備するんだろう。
何かもう、女の子だとか何だとか思う前に、もふもふしてる耳やら尻尾やらのせいで、ただのちっちゃな愛くるしい何か。にしか見えない。
この分では、他のキャラ達―――尻尾が九本あるお方であったり、それが初めて式神にした妖怪であったり、妖怪の山の警備隊に属するあのキャラであったりと、実に誘惑が多い未来に涎が……ゲフンゲフン……期待が膨らむというものだ。
レイセンのなんちゃって付け耳とは違う。完全に彼女の体の一部であるそれは、一喜一憂に反応して、へたったり、ピンと伸ばされたり、世話しなく動いたりと、実に良い動きをしなさるのです。
超頭撫でたい。ハグしたい。頬擦りしたい。勇丸とは別方向の愛くるしさが、そこにはあった。
鎮まれー。俺のソウルよ、鎮まるのだー。そのままだと国家権力のお世話になるぞー。あるかどうかは知らないけれども。
……そんな容姿の為か。
諏訪子さんの様に威厳や神格が溢れている訳でもないので、敬語を使うのには疑問が残り、元々のイメージも、そういった言葉遣いを当てはめるのには違和感があって、どうにも年下を相手にしている対応になってしまう。
……まぁ……その……何というか……そのせいなんだろう。
彼女のこちらを見る目は疑惑の念で満ちており。
「ごめんなさい」
「……」
やや眉間に皺を寄せながら、薄く開いた瞼の隙間から眼光を発しております。じとー。ってな具合で。こちらの謝罪にも無反応。実に気まずいのです。
ただちょっと気になるのは、嫌悪とか怒気寄りではなくて、戸惑いの感情に比重が置かれているようだ、という事。
そろそろ正座も痺れて来たんで、何かしらのアクションが欲しいところ。足、崩したいッス。
何だか最近、謝ってばかりだな、と、内心で自嘲気味に毒づいた。
「君は……」
お、反応あり。
「君は……僕が怖くないのかい?」
あぁ、疑念はそういう方面か。
……彼女って僕っ子だったっけか。私口調で喋っていた気がするんだが。
「いんや全く」
怖いというより、超愛らしいです。
「だって、この尻尾だよ? この耳だよ? ……妖怪……なんだよ?」
「ちょろちょろ動く尻尾、超触りたい。ピコピコ動く耳、超もふもふしたい。妖怪? どうでもいい問題です」
「そ、そうか……(も、もふ?)」
少しは表情を崩してくれるかと思って、ちょろっと本音を含ませて喋ってみたのだが、予測した反応とは違い、戸惑いを与えた程度に留まった。
けれど、効果はったようだ。
表情から硬さが抜けてゆき、何となく空気が和らぐ。
それに合わせた様に、彼女の体から、空腹を訴える可愛らしい主張が告げられた。
ぽんと頬が染まるナズーリンに、俺の直感が働き掛ける。
……そう、これは―――餌付けタイム!
「出番だ! ジャン袋ー!!」
「―――っ!?」
突然声を出してしまった事で、驚かせてしまったようだ。両手を胸の前で固く結びながら、体を縮み込ませてしまった。
少し申し訳なく思いつつ、突如として現れた煌びやかな鞍袋に目を丸くする彼女を他所に、例の如く手を突っ込んで、中を漁る。
(ナズっちって何が好きだったかなぁ。王道にチーズか? 原作でもそれらしい描写あったし。でも赤の色の薄い物は何たら。とかも言ってたような……)
肉好きなんだったか。それは手下のネズミ達だったか。記憶が曖昧だ。
というか、ネズミがチーズを好きだという通説は、チーズの王様との代名詞もあるエメンタールチーズが醗酵によって穴だらけになってしまうという現象から由来したものであって、彼ら小型哺乳類は雑食であった筈だ。そもそも、ネズミってあんまりチーズ……乳製品全般を口にしないのではなかったか。
(中学の時に、理科の先生がそんな話してたっけかなぁ)
……まぁいい。別に一つしか出す訳ではないのだ。下手な鉄砲なんちゃらほい。幾つか出せば問題無いだろう。
袋から手を抜き、持ったそれを差し出した。
彼女の小さな鼻がすんすんと動く。
俺にはそこまで匂いとかは分からないのだが、少なくともこちらよりは、嗅覚は鋭いのかもしれない。
「……それは?」
「食べ物。サンドイッチ」
「さんど……いっち……?」
おぉう、まだ発明されてないのか? それとも知れ渡っていないだけなのか。サンドイッチ伯爵が名付け親ってだけで、物自体は結構昔からあった筈なんだけど。
どうせなら好みの奴が全部一緒になっているものを。とか思ったんだが……。これなら手も汚れなくて良いし。うぅん、ハンバーガーの方が良かっただろうか。
「中身はハーブレモンを良く練り込んだチキンとチェダーチーズ。んで鮮度抜群なレタスと……後、実が簡単に崩れないくらいに固めのトマト。それをトーストにしたライ麦パンで挟んだもんだ。BLBとはちと違うが、ベーコンよりもチキンの方が食べ応えあって良いかなー? と思ってさ」
「……?」
色々未知な単語を使った為に、彼女は不思議そうにサンドイッチを見つめている。
これは食べ物です風に、自分で一口齧って無害な事をアピールしつつ、再度それを差し出した。
(うむ、美味い)
未知過ぎて失敗したかな。もう少し馴染みのある……それこそ、まんまチーズや、焼いた肉の塊なんかを出しておけば良かったか。
そんな葛藤をしていると、おずおずと彼女は手を伸ばし、俺からサンドイッチを受け取った。
マジマジと眺めたそれを、毒でも警戒するように慎重に一口齧る。目線はこちらを向いたままに。
上目遣いで食べ始めようとしている事に、かつて【極楽鳥】……バッパラを呼び出した時のような、衝動に任せて撫でくり回したくなる感情を強制スルー。気づかないふりをして、結構必死に堪えた。くっ、俺の右手よ鎮まるのだ! 的な。
(あぁ、それじゃあパンしか食べれてない……全部一緒に齧らないと……)
あんぱん買って餡子に届かないような、鯛焼き買って、餡子に届かないような。そんな光景を目撃中。
何故発想が餡子なんだろうと思っていると、彼女の眉がピクリと動く。そして意を決したように、がぶりと―――といっても口径の大きさで、濁点なぞ付かない、かぷり、程度にしか見えないのだが―――サンドイッチに挑みかかった。
何とか全ての具材を一口で噛み締められたようで、一生懸命もぐもぐと口を動かす姿が微笑ましい。
「―――っ!!」
お、やっとサンドイッチの真価である、全ての具材の味を同時に楽しむ域に達したらしい。
今までの様子見が嘘のように、一生懸命口を動かす姿に程良い満足感を得ながら、彼女の手に持ったそれが無くなるまで、俺はそれを眺め続けた。
荒んだ心に一服の清涼剤。
そのまま、和やかに。
真夏の暑さを頭上に感じながら、時は過ぎて行き……。
「―――ご馳走様。こんな美味しいものを食べたのは初めてだ。それこそ、貴族達でも食べた事が無いだろうね」
「お粗末様。そう言って貰えたのなら何よりだ」
有名という訳ではないが、俺自身が気に入っていた店、喫茶店ルノアールの代物。
ファーストフードと侮ること無かれ。あれはあれで、値段の割りに結構良い味出していると思うのだ。
これで不味いと言われた日には、俺にはもはや、好みの差としか言えない。
ただまぁ、出来立てを出されている、という理由が一番大きいとも思うけれど。
大概の食事は、出来立て新鮮なものが一番美味いのだから。
「んじゃ、落ち着いたみたいだし、改めまして」
そうして、俺は再び、頭を下げる。
「済まなかった。許して欲しい」
「あ、あぁ。……こちらこそ怪訝な態度で接してしまって済まない。見ての通り、僕は妖怪だからね。……その……人間にこんな事をされるとは思わなかったから……」
それもそうか。
彼女はネズミの化身……化身? であるのだし、ネズミは人間にとっての害獣であるところが大きいのだから、当然だ。
俺も何度か実家であの姿を見かけた事があるが……あまり気持ちの良い出会い、というか、光景ではなかったのは覚えている。
少なくとも、謝ったり食事を出したりする間柄では、決してない。
(でもこの子は別な!)
我ながら何とも露骨なダブルスタンダード。
でも良いんだ。可愛いから。―――俺に危害を加えた訳では無いのだし。むしろ逆だし。
「俺は、九十九。……あ~……ちょっと空の上に行ってたんだが、今さっき帰って来たところだ」
「空?」
「あぁ、“空の上”さ。……君は?」
少し考える素振りをした後で。
「……リン。察しているとは思うが、ネズミの妖怪だよ」
……はい?
「ごめん。もう一度お願い」
「ん、聞き取り難かったかな。―――リン。リ、ン、だ。前後は無い。それが僕の名前だよ」
……ぇ~。
(え、何、どういう事? 確かにチビっちゃくて尻尾のバスケットも方角ロッドも無いけど、どっからどう見てもナズーリンじゃん。……でも、ナズーリンじゃないじゃん?)
まさかの別人の可能性が垣間見えた事に、俺の思考は一気に混乱に陥った。
姿、格好、そして、ネズミの妖怪。
先に考えたとおり、尻尾に付いている筈の仲間の入ったバスケットや、例のNやらSやらの方角を模したダウジングロッドは無いものの、それ以外の全体像は、更に幼いとはいえ、どう見ても記憶の中にある彼女のそれである。
「えっと、姉妹とかって居る?」
「それなりにね。これでも―――」
リンは自分の耳を触りながら。
「―――こういう種族だから」
……そりゃそうだ。
ネズミの繁殖力など語るべくも無い事実であった。何とも馬鹿な質問をしてしまったのものだと後悔する。
「ごめん、そうじゃなかった。……妖怪になった姉妹って、他に居る? 似た様な容姿の」
「いいや? 僕はまだこの姿になって日が浅いが……。姉妹の中では僕だけだろうね。妖怪になったのは」
……姉妹フラグは消えました。少なくとも、今のところは。
となるとマジで別人か、はたまはた改名の後の『ナズーリン』何だろうか。丁度、ナズーだけを付属させれば、既知の名になるのだし。
ナズーリン、という名になるのは、虎のご主人様辺りとの出会いからなんだろうか。でも姉妹は多いって言ってたから……だったら似たような名前の兄弟―――例えば、一郎、次郎、三郎、的な名付け方である可能性も高い。だからどうした、という案だが。
(東方キャラの名前の由来なんて、色に関係していた八雲家の面々くらいしか知らねぇですよ……)
ただ、それすらも曖昧な記憶ではあるのだけれど。
この辺はもう、幾ら悩んでも解決するものではなさそうだ。深く考えるのは止めておこう。
偽名を言っている風でも無さそうだし―――嘘を付かれてても能力使いでもしない限り、俺には見抜けないんだが―――これ以上の追求は避ける方針で行く。分けが分からなくなりそうだ。
折角会話が進み始めたのだ。序盤で下手に拗れさせる事もないだろう。
「あのさ……。ちょっと聞きたい事があるんだけど、良いかな?」
「ああ。僕の知る限りで良ければ」
色々と聞きたい事はある。
特に、相方……というか、虎なご主人様であったり、ガンガンいく僧侶やらの、その他で一括りにしてしまうお仲間であったり。
でもここは、自分の置かれている状況から整理してみようと思い直す。
そうして発した第一声が。
「ここ、何処?」
「……え?」
―――予想していた反応だけれど、やっぱり寂しいものは寂しいんだな、と思った一時であった。
よくよく周りを見渡してみれば、ここが俺の知っている場所から掛け離れているのは予想が付いた。
あの森と山に囲まれた筈の島国は、このような四方がほぼ全てだだっ広い草原である場所は希少だし、何より、かなり遠くではあるものの、富士の山以外に、この猛暑の中で、僅かとはいえ山頂に雪の被っている山などある筈も無く。ホータンって何処よ。地名か? 国の名前か? そもそも何処の大陸なのかすら分からんですよこれは。
月の技術の問題を考慮して、最悪、別の惑星である可能性も考慮しつつ達した結論が。
「話を聞く限り、どう考えても日本じゃありません。本当にありがとうございました」
溜め息にも近い口調で言い切る。
とりあえず、諏訪子さんや勇丸、神奈子さん達の住んでいる国ではない。という消極的な答えでありました。ぎゃふん。
「? 言葉の意味がよく分からないが、お礼なんていらないよ。……こうして、仲間にもご馳走を振舞って貰っている事だしね。むしろこちらが感謝したいくらいさ」
ネタのテンプレ回答を素で受け止められると気恥ずかしいのだが、俺がそれを態度に出さなければ、流れる問題ではあるので、無反応で対応する。
あれから、彼女と幾度も言葉を交わした。
明らかに口の動きが日本語のそれじゃ無いんだが、そこは永琳さんから貰った言語翻訳機能の宝石、八意の石。な効果で、見事にカバー。カードの力を使わずに済むのは色々な面で助かります。
既に能力である『探し物を探し当てる』力はあるらしく……と言っても、『探し物はかなり得意なんだ』との台詞を深めに解釈しただけなのだが。
詳細は秘密との事だったのだが、何やら探し物をしていた最中に、ジャスト俺の出現位置の足元に居たという流れらしい。いやホント、怪我させなくて良かったです。
んで、それの謝罪も兼ねて何かして欲しい事は無いかと尋ねてみたんだが、ジャン袋の効果を見ていたせいか、もっと食べ物を出せないかとせがまれて。
それくらいなら幾らでも! と、何が欲しいのかリクエストを聞いてみると、
『そうだね……。肉、が良い。部位、種類は問わない。兎に角、量が欲しいんだ』
腐っていないものを。との事。
出すのは良いけど、そんな大量のものをどうするのだ。と聞いてみたんだが。
(まぁ、その疑問は、この光景を見れば解決されますわ)
ぽ~い。
がつがつ。
ぺろり。
こんな擬音が最も的確だろう。
既に何度目かも分からない行為を、俺は飽きもせずに繰り返す。
枕大ほどの血の滴る生肉のブロック(牛の安物)を取り出しては無造作に地面へと放るのだが、それは瞬く間に黒やら灰色やらの色によって埋め尽くされて、しばらく後には消え去ってしまう。何かの映画で見たなこれ。結構ホラーです。
「喜んで貰えて何よりなんだが……これ、いつまで続ければ良いの?」
今も俺の足元には、首を長くして待つ彼女の同胞……なのか下僕なのか分からないが、無数のネズミ達が今か今かと世話しなく駆けずり回っている。
こちらが放る肉塊の下敷きにならないように、着弾地点から一瞬で離脱して退け、すぐさま反転して貪り食う様は、とても見事なものだ。余裕があれば拍手でも……あ、やめて。微妙に足を登らないで。ゾワゾワします。怖いです。
少し前まで緑色であった大地は、リンを中心に数十メートル(範囲に俺含む)を変色させる程に、小さな命達で埋め尽くされていた。
現在進行形で、神奈子さんや諏訪子さん、そして【マリット・レイジ】などとはベクトルの違った恐怖が全身を舐めているので、出来れば今すぐにでも逃げ出したい。
「後、もう少しがんばって欲しい。……その……恥ずかしい話ではあるんだが、今君が食べ物を出す手を止めてしまうと、この子達の食欲が君へと傾いて―――」
「OK分かった。全力でがんばります」
最後までは言わせない。聞きたくないから。
場合によっては【死への抵抗】か、【ジャンプ】や【飛行】での離脱も考慮しながら、俺はその後、百に届こうという数の肉のブロックを出現させる事になった。
「ありがとう。お陰でこの子達も満足したようだ。……初めてかもしれない。全員が満腹になるのは」
「……うぃ。それは何よりです」
体力的にはまだ余裕はあるけれど、正直、もう動きたくない。肉ブロックを放り投げ続けた事で、それなりに鍛えていた筈なのに、腕がパンパンになっている。
じっとりと汗を掻いてしまったのだが、それでも、湿度の高い日本とは違う、気持ちの良い汗の掻き方である。ベクトルは真逆だが、例えるなら、ずっと水の中に居る感じだろうか。汗掻いても分かりません。みたいな意味で。
母国は誇りに思っているけれど、これだけはちょっとこっちの方が羨ましいと思えてならない一面であった。
落ちついて周りを見渡せば、ネズミ達の数は千に届いているだろう。
どいつもこいつも、目を細めて幸せそうにシエスタ中。
気持ち良いもんなぁ。食後の昼寝ってのは。
「こいつらは全員、リンの仲間なのか?」
「ちょっと違うけど……概ね、そう思ってもらって問題は無いよ。そんなに数が居る訳じゃないが、皆中々優秀な者達さ。……食欲が高い事を除けば、ね」
「(この数で“そんなに”……か)……慕われてる、のか?」
「そんなところかな」
何処か誇らしそうに話す彼女は、見ていて微笑ましい。
一仕事終えた事だし、何よりもう、頭がストライキを起こしそうな気配もある。
ちょっと横になれないもんかと思いながら、押し殺すような欠伸を噛み締めた。
「……疲れたのかい?」
ん、バレたか。ちと恥ずかしい。
こちらを気遣ってくれているのか、彼女はそう尋ねて来た。
「少しな。こんなに食べ物出したのは初めてだったから。まぁ、良い経験だな……と……ふぁ……」
もう隠すのもあれなので、口元を手で覆いながら、普通に欠伸をする。
うぅむ。疲れもそうだが、久々の地球というのも相まっているせいか。体が貪欲に睡眠を欲し始めた。
折角だ。しばらく休んだ後で、日本へ戻る手段を考えるとしよう。一、二時間で目が覚めるだろうし。
と、リンは何やら少し悩む素振りを見せる。
その後に俺の後ろにある一本の木を指差して。
「そこに木陰もある。この季節だ。この場で寝るのには寝苦しいだろうから、そこで休むと良い。彼らには退く様に言っておこう」
そう言って手を挙げたかと思えば、その、彼女が言った木陰の部分で寝ていたネズミ達がサッと動く。
黒い絨毯が一斉に方々に散り、数分前までは緑であった筈の、既に殆どが土色と化した大地が露出した。うへぇ、さっきからビビリ過ぎだが……感想はやっぱり同じものしか出てこない。結構怖いッス。
何とか木の周りの芝生は残っていたので、これ幸いと、そこへと足を進めた。
「んー、じゃあ、素直にお言葉に甘えさせてもらう。ぶっちゃけ、眠くて敵わんでした」
「そうか。それじゃあ、僕もご同伴に預かるとしようかな」
「……はぁ。……妖怪とはいえ、女の子がそう簡単に、男と一緒に寝るなんて言っちゃいけませんよ?」
「おや? 君は僕に何かするつもりだったのかい?」
リンの口持ちが釣り上がり、ニヤリと愉悦を浮かべる。
「ちゃうわい。忠告みたいなんだ。……ふぁ……ぁ……。子供は素直に大人の言う事聞いとけぇ~」
妖怪である彼女では、見掛け通りの年齢である可能性は低い。という可能性を思い浮かべた事に釣られ、そういえば、外見通りの年齢のキャラって少数であったかと、ぼんやり思った。
一度寝ると決めたからか。
眠気も良い感じに襲って来ているので、話し掛ける言葉も、自分で分かる程にいい加減なものだった。
「そうだね。妖怪に対しても律儀に対応してくれる君の事だ。聞くだけなら全く問題は無い。それに、もし仮に君がそういう趣味の人物であったとしても……」
千に及ぶであろう、寝ていた筈の周囲のネズミが、一斉に首を起こし、こちらを睨み付けた。
【死の門の悪魔】を連想させる紅の光が、彼らの眼球へ無数に灯る。
それは宛ら、どこぞの谷の何たらに出てきた、怒り狂う蟲の王達が大地を埋め尽くした光景であった。
「これで理解してくれると嬉しいかな」
実に面白そうに、彼女はそう言った。
「……そういう台詞は、体に凹凸が出て来てから言いなさい」
何で脅されなきゃアカンのだと思いながら、良い感じに瘤になっている木の根へと頭を乗せた。
これは良い枕だという思いの中で、草木が擦れ合う音と共に、リンも横になる気配を感じた。
―――俺の真横に。
「……」
「おや、何か言いたそうだね」
ニヤニヤ。ニヤニヤ。
この辺はやっぱり妖怪なんだろうか。人をからかうのは実に大好きそうです。
しかし、月でのあの面子と少し前まで一緒に居た俺からしてみると、完成度の点で言えば劣っている訳では無いのだが……うん……まぁ……ねぇ……?
「……べっつにー」
ごろんと反対側を向く。
背後であるというのに、実に楽しそうに笑っている彼女の姿を感じてしまうのは、どういう感覚が働いている為か。
直射日光が厳しかったけれど、この木陰は良い具合にそれを遮って、草原の涼やかな風のみをもたらしてくれた。
月とは違う。
見上げた空は、とても青く。とても雄大で。
それでも何処か物足りないと思うのは、ここが日本では無いからか。それとも、大和の地で無いからか。
まどろむ意識の中で、ふと、こちらを覗き込むリンの顔が見えた。
―――その顔に喜びは無い。
直前までの楽しげな雰囲気は、夢か幻か。
何かを悲しんでいる、そんな顔。
けれどそれも一瞬で。疑問に思う前に、その顔から感情の色は抜け落ちている。
(―――見間違い、か)
寝惚けていれば、記憶違いなど良くある事だと。
暗転する視界。
とうとう瞼の落ちきった段階で考え付いた結論は、それであった。
規則正しい寝息。
静かに上下する胸元。
目は完全に閉じられており、再び開くまでには、まだ時間が掛かるのだろうと予想出来た。
片手を挙げて、部下達を戻らせる。
集まった時とは一転。
音も無く緑の絨毯から撤退していくその姿は、他の雑多な同族よりも優れているものだと自負出来るものであった。
「……起きている、かい?」
念には念を。
確認の為の問い掛けは、真夏の草原に吹く風に散らされて。
この分では、どうやら本当に寝ているようだと判断する。
幾つか言葉を交わし、彼がこの土地の人間では無い事は確認している。
魔法か能力を持っているものの、そこまで力は無さそうだ。
でなければ、妖怪とはいえネズミである僕に対して、こんなにも友好的に接してくれる筈は無いのだから。
その割には、彼の態度からはそれらしい……ネズミに対する侮蔑の様子は見られなかった。
こちらを見る目は楽しげで。……まるで、僕の事をとても大切に思ってくれているかのようであった。
思わず本心からの笑みが零れそうになるものの、今までの経験を思い返して、自身を諌める。
それに、時折、部下達の姿に怯えていたのが、彼の僕達に対する認識を如実に語っていた。
(……もう、馴れっこじゃないか)
これは一時の夢。
夢は夢のままに終わらせるのが、一番都合が良いのだ。
そして僕は、彼の持つ魔法の袋を、部下達に命じて移動させた。
―――それを、奪う為に。
(ごめんよ……)
怨んでくれて良い。
すぐにとはいかないが、機会があれば、死後の世界にでも償おう。
(ネズミである僕達に、そんなものがあるのかは怪しいけどね)
無音のままに、宝石袋が持ち運ばれる。
この袋、ジャン、と言っていたそれは、その使用者の体力と引き換えに、何でも好きな食べ物を出現させる力があるようなのだ。
本来の目的とは違うものの、それでもこれからの事を考えれば、かなりの面で役に立つものだ。
これならば、少しはあの人に―――。
眠り扱ける彼に背を向ける。
同族と、あの人以来、初めて自分と友好を結んでくれそうな相手であった事に、後ろ髪を引かれるものの。
(……もう、決めた事だ)
全てを断ち切る覚悟で、それを振り切った。
場所は遠い。
そして、妖怪たる自分の率いるネズミ達が、人間相手にあざとく痕跡を残すことはしない。
例えそれが魔法使いの類であったとしても、証拠を残さない自信はあった。
何せ、これから戻る場所は、ここから十数キロ先。おまけに、今の場所と比べれば、砂しか無い死の大地であるのだから。
何の変化も無い広大な砂漠は、方向感覚を容易く狂わせる。故に、彼があそこに辿り着くことはないだろう。
「―――さよなら……ツクモ」
その発音は、何処かぎこちなくて。
けれど一生懸命形にしようという意思が感じられるものであった。
次の瞬間、青い空の下に広がる草原には、何の影も映る事は無く。
ただ一箇所だけ。
大きな木と。その木の根元で、イビキを掻きそうなほどに熟睡している存在だけが、夏の風に吹かれながら、ぽつんと残されるのみであった。
それから、二日。
男と少女の遭遇より、とある場所にて。
極東の島国に住む者達の数分の一程度が暮らすこの地は、熱砂に覆われ、地上を焼く日の光が世界を創り上げていた。
大地には緑が極僅かに生息するだけであり、やや遠方に見える長い水色は、この地で生きる者達の生命線。
ヤシの木が申し分程度に生え並び、道の存在を示し、立ち並ぶ家々は簡易コンクリートのような白亜の正方形を刳り貫き、それを一つか二つ、繋ぎ合わせた造りをしていた。
道行く人々は白い布―――サリーと呼ばれる、長い一枚布を纏ったような衣服は、この灼熱の世界で如何に快適に過ごせるかを追求した形状である。
女性は口元を布で隠し、男性は頭を幾重にも巻いた頭巾、ターバンを被っている。
間々吹き荒む砂嵐に、着込んだ衣類を強く身に寄せたり、目を細め、あるいは瞑りながら、皆は自身の生活を送っていた。
「来たぞ……」
「あぁ……」
それなりに大きな家々が立ち並ぶ、馬車が一台通れるほどに幅のあるやや曲がりくねった砂利道を、薄いグレーの衣服に身を包んだ少女が歩いていた。
玉の汗の吹き出る炎天下だというのに、それを全く意に返さず、黙々と。
周囲の様子には目もくれず、ひたすらに歩き続けるその影は、陽炎の中に浮かび上がった幻影のようでもあった。
「不気味な姿。なんて気持ち悪い……」
「ほんと。早く何処かへ行ってくれないかしら」
その少女が通り過ぎる道の端。
普段は賑わいを見せる時間帯であるというのに、そんな事実など無いと言わんばかりに、今は見る影もない。
少女の姿を見た途端……いや、少女が来るぞと話が上がった瞬間に、誰もが自宅に引き篭もり、あるいは、あらん限りの嫌悪と侮蔑を伴った視線を隠そうともせずに、一振りの木の枝大袋を持つ、灰色の着衣を着込んだ者へと向けていた。
鬼か悪魔か。少女を見る目はそれ以外の何だと言うのだろう。
誰もがその者と目を合わせず、しかし、誰もがそれを睨み付ける。
石が飛んでくる事も、腐った卵が投げられる事も、幾つもの鋤を向けられる事も、今は無くなったにしろ……。
その人間の奥底に潜む黒き感情は、今も抑えられる事も無く、こうして溢れ続けていた。
悪意の渦巻く家々の間を抜けた少女は、道の終着点へと辿り着く。
他の家とは違う。いや、それは家などというものではなかった。
うす高く積まれた石灰岩は、町の中心に白い山があるのだと見間違えてしまう程に。
規則正しく、幾つもの四角形を積み重ねたそれは、城壁。
最大で万に届く人員を収容出来る程の巨大なその施設である城は、この辺り一帯を統べる者が住んでいるのだと理解させられるものであった。
少女の終着点であるそこには、抜け道を除く唯一の通路である、巨大な門。
彼女の視界には、身長の倍ほどもある槍を肩に担ぎながら、軽蔑の視線を向ける門番達が居た。
ここも、同じ。
向けられた悪意を思考の外に追い遣りつつ、少女は門を抜け、庭を抜け、城の中へと入って行く。
そこで耳にするのは、絶え間なく響く音の波。
鼓膜を震わす振動はどれも緊張感を伴っており、ここで働いているであろう世話しなく動く者達の顔には、余裕の色は見て取れない。誰もが必死に何かを行いながら、一秒も惜しいと動き回っている。
皮製の鎧を着込んだ者が、剣や槍や、地形の描かれている薄汚れた地図を手に。
従者だと思われる者は、食料や医薬品を持てるだけ持ちながら、何処かに運び出している。
室内であるとはいえ、ここは城。万の人を収容出来る空間である筈だというのに、今は緊張に押し潰されそうな空気が逃げ場を失って、窒息してしまいそうな雰囲気が立ち込めていた。
その中を、妖怪の少女は歩く。
極力誰にも見つからないように、静かに、迅速に。
けれど時折、その姿は城内の者の眼に止まる。夜でもなく、人数も少ない訳ではないここでは、それは当然の事であった。
少女の姿を捉えた者は、僅かにその表情を、負のそれで染める。
しかしそれも一瞬。
次の瞬間には、道端に落ちていた汚物から目を背けるように、自身の成すべきことをすべく、行動を再開する。
城下の道中や、門番達と同様の視線を間近に受けたその者は、態度にこそ出さないものの、内心で誰にも悟られる事なく涙を流す。
何故、自分がこんな目に。
感情が瞳から零れ落ちそうになる現象を、他に意識を向ける手段で回避しながら。
今やるべきことは、悲しみに暮れる事ではない。
手にした木の杖と、この国では極一般的な、大きな麻袋を握り締めながら。
長い廊下を抜け、曲がり、階段を上って。かの国の隠密の如く、唯の移動しかしていない筈だというのに、やっとの思いでこの城の最上階へと辿り着いた。
丁度、王座の真上。
それが意味する事とはその先に居るであろう者が、王と同列か、それ以上の存在と示している。
当然、通常ならばそんな場所においそれと入れる筈も無く、城の入り口の時と同様。扉の前にはそれを守護する者達が待機していた。
真紅の頭巾を被り、軽装でありながらも、気品と威厳を感じさせる皮の鎧に身を包んだ男が二人。この城の中でも精鋭と呼ばれるだけの実力者である。
腰に下げた曲剣ファルシオンは、一撃の威力でも、射程でも、耐久力でもなく、如何に素早く対象を何度も切り裂くかに特化している剣である。この地ならではの洗練された―――されてしまった武器であった。
彼らは少女の姿を見た途端、その死神の鎌へと手を掛けて。
抜き放とうとした矢先……何とか思い止まった様に、その手を柄から離した。
深い溜め息。そして、深呼吸。
後は再び己の務めを果たすべく、剣たる存在から、扉の守護者へと戻る。
無表情を貫きつつも、その瞳には、少女に対する負の感情が灯っているのが見受けられた。
この国に居る限り、誰であっても変わることの無い反応は、少女が、この世には悪意しか存在しないのかと思わせるには充分なものであろう。
けれど、それを覆す理由が、この扉の奥に居る。
守護者達の間を潜り抜け、チョコレート板のような、幾つかの四角形の紋様が重なった装飾を施してある扉へと手を掛けた。
木の鳴き声が木霊して、静かに人が一人通れるだけの空間を開放する。
その中に少女は身を滑り込ませて、再び扉を閉じた。外界の悪意から、自分を守るかの様に。
白亜の壁などに反射して、太陽の光が室内をこれでもかと浮かび上がらせる。
「―――お帰りなさい。リン」
白いヴェールで覆われた寝台に横たわる枯れた躯体。上体を起こし、目を通していた書物を閉じ、顔を上げて、微笑みを零す。
かつては瑞々しいほどに張りのあった小麦色の肌は、今は、干上がった泥土のように。
品の良い黒水牛の皮に勝る色艶を誇っていた筈の髪は全て色素が抜け落ち、無色とも白とも取れる色合いを、腰まで届くであろう長さに宿らせているのみ。
しかし。
所々で死の影を落としているというのに、その表情には慈愛の女神の如き優しさと、全てを包み込む母性が両立していた。
齢、実に六十五。
五十を迎える前に、大多数の者がその生涯を終えるこの時代においては、奇跡と言い換えても良いであろう年月を重ねて来た者である。
「―――ただいま。ウィリクお母様」
灼熱の太陽が照り付ける為に起こる熱ではない、“暖”の感情で満たされた部屋。
ベッドから上半身を起こし、縋る様に近寄るリンと呼んだ少女を、自身の腕の中に暖かく向かい入れる。
何と優しい抱擁である事か。
目を閉じて、この世の全ての悪意から解放された表情を浮かべた少女を、何も言わず、何も聞かず。優しく、ただ優しく撫で続ける。
僅かな緑と熱砂の入り混じる、少女にとっては地獄であるこの地において。
今この時だけは、刹那の間だけ存在する、オアシスであり、天国であった。
気づいた時には、僕は、僕の形をしていた。
色々な場所の、様々な隙間から、その日の生きる糧を探し続ける毎日だったと、今なら思い返す事が出来る。
内容はさて置き、それなりに充実し、楽しくやっていたような日々であった気もする。
けれど。
「こいつめっ! 村から出ていけ!」
「近寄るな、妖怪め!」
「誰か! 憲兵達に連絡を!」
前と変わらない―――否。前よりも断然、その敵意を剥き出しにして、人間達は僕にぶつけて来ていた。
日も暮れかかった村の一角。
大地へと落ち掛けた真っ赤な太陽は、村人達の心ように、ギラギラと、暗く、赤く、黒く、こちらを照らす。
何処かの民家の壁に退路を断たれた僕は、目を閉じ、体を縮こまらせ、既に救いなど残っていないと頭の一部が理解しているのに、それから目を背けて、一心に耐え忍んでいた。
「この……化け物めっ!」
また、腕に鈍い痛み。
今度の礫は中々大きかったようだ。
必死に頭を守っていた腕が強引に弾かれて、それに釣られて姿勢を崩してしまう。
血の味に混じり、今度は土の味が加わって来たというのに、それを気にしている余裕など……。
固く閉じられていた瞼を、薄っすらと持ち上げた。
地面へと転がった僕を見る人間達が目に入る。
―――何と禍々しい形相である事か
男も、女も、老人も、僅かとはいえ、子供までも。
これでは一体、どちらが化け物だと言うのだろう。
そして、視界の一部に、彼らの生業の一部である、本来ならば農具として利用されているそれ―――鋤を見た。
―――あぁ、これはもう助からない。
確かに人間達の害になる事をした自覚はある。
けれどそれは、ここまでのものであったのか。
少なくとも自分は、誰かを殺めた訳でも、誰かを傷付けてた訳でも無いというのに。
むしろ人間達の方が、牛や豚、鳥を、食べる―――殺す目的で飼っているのは、この世に神など存在しないのではないかという証明に……
(違った……。神は居る。でもそれは……)
人間達の神であって、僕達、ネズミの神ではないのであった。
同族の間で、実しやかに囁かれていた噂を思い出す。
海という、途方も無い大きな水溜りを隔てた向こう側には、万物に神の宿る地があると聞いた。
(行ってみたいなぁ)
そこにはきっと、僕達みたいな存在にも、等しく優しく。慈愛を以って接してくれる神様が居るかもしれない。
村人達がそれぞれの手に武器を持って、自分の体に突き立てようとする様を、何処か他人事の様に眺めながら―――
「―――お止めなさい」
自分を取り囲んでいた住民達の後ろ。
いつの間にか、この国の軍隊の列が並び立っていた。
その中の一箇所。
列の中心に位置するそこには、一台の馬車が。
一人の老人が、そこから降り立った。
しわがれた……けれど、とても綺麗な声。
身に付けた真紅と黄金の文様が織り成した絹はとても上等なものであり、それだけで、少なくとも雑多な豪族以上の存在であるのは理解出来た。
艶の失われた肌は、小麦色。
白銀に近い色素の抜け落ちた長髪を束ねる人間の後姿に、僕の思考は止まり掛けた。
「ウィ、ウィリク様! どうしてこのようなところに」
「視察です。篭りきりでは詳細は分かりませんからね。そろそろ戻ろうかと思っていたのですが……」
ウィリクと呼ばれたその者は、今まさにその命を摘み取られようとする少女へと向けられた。
「……これは、どういう事です?」
向けた目を、偽りなど口にしようものなら首が体と泣き別れるだろうものへと変えながら、少女を取り囲む民衆へと問い掛けた。
その本意は、とても単純明快。
今すぐその行為を止めよ。そう言っているに他ならなかった。
「し、しかしウィリク様! これは妖怪です!」
「そうです! 見て下さい! その頭から出ている異形な耳と、後ろから覗く尻尾を! 何と恐ろしいことか!」
「今やらねば、いずれこの国に禍根を―――」
口々に、目の前の存在を説き伏せようと、言葉を投げ掛けるも。
「この子は―――私の娘です」
その一言で、言葉を発した当人以外の誰もが一瞬思考を放棄し、『信じられない』『そんな嘘を』と。そう叫びたい衝動を押し殺し。
遂には、彼女に何も言えずに押し黙る事となったのであった。
「―――そう。また、砂丘の向こうのオアシスまで行ってきたのですね」
「そうなんだ。あそこは今の季節でも、良い風が吹く。涼しくて見晴らしも良くて、辺鄙だから人もあまり来なくて。ゆっくりするなら最高のところさ。……そうだ。今度、そこへ行かないか。お母様一人くらいなら、何とか担いでみせるよ」
オアシスなど行っていない。向かったのは、危険とされる草原地帯だ。
この嘘も、これで何度目か。
けれどそれも、目の前の存在に不安を与えたくはないが為であった。
砕けた口調は、意図しての事。
始めこそ畏まった言葉遣いをしていたのだが、それは、言われる側であるウィリクがとても悲しげな表情を作ってしまう為に、段々と現在のような物言いへと変化していった。
「えぇ。そうね。それは素敵だわ。―――今度……時間を見つけたら、行ってみましょう」
その今度は―――来ない。
リンは聡く理解していた。けれど、それでも思わずにはいられなかった。
人間は脆い。
妖怪である自分とは違う。後数年―――ともすれば明日にでも、この最愛の相手は自分の前から居なくなってしまうだろう。
自身の肉体に引き摺られる様に、心も色を失ってゆく。
ただ、そのような理由など、本当は些細なものであった。
本当は、今彼女が―――この国が直面している問題に粉骨砕身している影響が強いのだ。
それでも元気になってもらおうと。
満足に動く事すら困難となった彼女の眼となり耳となり、少しでも事態の改善になれば。そんな思いに突き動かされながら、今の今まで過ごして来た。
そしてこれも、その手段の内の一つ。
「―――そうだ、お母様。良い物があるんだ」
隠し持っていた、大きな麻袋―――【ジャンドールの鞍袋】の入ったそれへと手を伸ばす。袋を二重にして使用しており、外観はただの小汚い袋である。
「こうも連日、日照りが続くと、食欲も乏しくなって敵わないからね。知り合いから、美味しい葡萄の果実酒を貰ってきたんだ」
小さな手が、袋の中にある袋の中を漁る。
案の定、何も存在しないその中身であったが、彼女がその欲しい物を想像したと同時―――
「……あれ?」
同時……
「……リン、どうしたの?」
心配そうに尋ねる婦人に悟られまいと、少女は平淡な声で答える。
「……参った。どうやら、置いてきてしまったらしい」
内心で動揺を押し殺しながら、失敗したなと、苦笑いを浮かべた。
(しまった……この袋は普通には使えないのか)
これの持ち主は体力を消費するだけで何の気兼ねも無く使い続けていた事から、その辺りを失念してしまっていた。
これでは、ただ恨みを一つ買ってしまっただけではないか。
一応、装飾品としても一級品に近い代物ではあるのだが、これをプレゼントとして差し出すのは、その経緯を説明しなければならない。
(無理だ……お母様に心配を掛けるような真似だけは)
今からすぐに戻ったとしても……彼がまだ居る可能性は低い。
部下達に指示をして、再びこれを奪った場所へと、袋を戻したとしても、あの者が居なければ話にならない。
まだあの黒き髪の者、ツクモは、あそこに居るだろうか。
既にあれから一日以上は経過している。余程この袋に思い入れでもない限り、あの場からは移動してしまっている事だろう。
―――もしくは、この袋を血眼になって探しているのだろうか。
「……あら、どちら様?」
しかしそんな考えも、ウィリクの言葉で掻き消される事となった。
一体誰に話し掛けているのか。
部屋の前には、二人の親衛隊が神経を尖らせて待機している。
この部屋に、来意を知らせずに入室出来る者は、それこそウィリク本人か、彼女の娘という立場になっている自分くらいのもの。それ以外の者が訪れれば、何かしらの声が掛かる筈であった。
けれど、それが無い。
疑問が焦りへと変わる間に、事態は進展する。
その声の向けられた方。
自分が入ってきた扉の方へと、顔を動かした。
「―――なっ!?」
馬鹿な。
馬鹿な馬鹿な馬鹿なっ―――!
滑る様な純白の外套。
下半身は生地の硬そうな紺色のズボン。
上半身には白いシャツ。
乱雑に切り揃えられた頭髪は漆黒の如き闇の色を伴って、衣服との差別化によって、より一層その色を強調させていた。
衣服、背格好、そして何より顔の造りが、何処か近しいものを表しながらも、この辺りの生まれではないことを如実に語っている。
「お初にお目に掛かります。ウィリク様」
深く一礼。
優雅というよりは、何処か労働の延長線上の作法のような錯覚を感じさせるその男は、会釈をして、こちらに歩み寄ってきた。
一般的な部屋より広いとはいえ、大した距離がある訳でもない。
考える間も無く少女の隣へと並び立ち、その手に持った袋を奪い去る。
実際には、男を見たことで同様したリンが、袋を手に持つ力が非常に弱まっていた為に、簡単に手元から離れてしまっただけなのだが、少女にとってみれば、差は有って無いようなものだろう。
―――終わった、と。
今まで一つとして恩を返せなかったばかりか、逆に、迷惑を掛ける事となってしまった。
涙すら溢れそうになりながら、何を考えているのか分からない男を複雑な心境で見つめた。
男が袋へと手を入れる。
『これは私の物だ!』『この泥棒ネズミめ!』
彼から盗んだ宝石袋を掲げながら、次の瞬間には、そんな言葉が出てくるのだろう。
(あぁ、これで―――)
暖かな一時は終わりを告げた。
悲しみの始まりを直視しながら、少女は目の前の光景を……
「こうも暑いと気分が滅入っていけません。人間、腹に何かを入れずに、動く事も、考える事も困難だと思いますので」
袋から手が抜かれる。
けれど少女が予想していたものは、その手には握られていなかった。
変わりに見えるのは、白く曇った水色の宝石板。
それは周囲に白い靄を纏っており、それなりに博識であったリンには、それがあまりの温度差によって発生した現象であるのだと理解出来た。
レンガのような、けれどそれの半分以下の大きさの、水色の氷の凝縮体。
それに突き出た薄い木の棒を、老婆に差し出す仕草をして。
「東方の地よりやって来ました。短い名ではありますが……。九十九、と申します。彼女の―――リンの友人です」
その意味が飲み込めず、やっと理解した頭で出た結論は、現状に対する感想、たった一言。
信じられない。
限界までその目を見開くリンを他所に、老婆は冷気の漂う青い宝石を受け取りながら、大層驚いた表情をしたという。
―――後に聞く。
『あれか? あれはガリガリ……ア、アイス! うん! あれは棒アイスの一種です!』
それは、氷の名を冠した甘味であるのだと。