「次……は……。これか? はいはい、今持ってきます―――よっと!」
今度のは中々に重量があるようだ。両の手にズシリと手応えを感じる。
重さに抵抗しながら、力士の摺り足を数段かっこ悪くした移動方で彼の元へと近寄った。
その姿は、やはり変な格好だったようだ。
こちらを見て愉快な声を上げて笑われるのを、『ひでぇ』と悪態を付きながら、釣られて笑う。
振り上げる金槌。
特殊な素材で出来ているのだと聞いたそれは、真鍮のようなくんだ黄金色をしていた。
小気味の良い音を響かせて、時折打ち所を変えながら、トンカン、トンカン。絶えず叩き続けている。
今日で四日目。
これはこれで充実した日々を過ごしているという実感と共に、今日も額に汗して労働に従事する。
日々仕事をがんばる自分。というフレーズが思い浮かび、少し、転生前を思い出した。
今この場には、俺の他に、彼一人しか居ない。
小型の船舶が丸々一台収容出来そうな大きさのあるここは、様々な造形の機材が所狭しと陳列されていた。
広さに比べて使用している面積が小さいからか、ちょっと勿体無いとも思うけれど、今の俺はただ彼の助手に徹するだけだ。ずぶの素人が口を出すもんじゃない。
一体何の作業をやっているのかはサッパリと分からないが、それでも、目の前で着々と完成しつつある代物に、思わず硬く拳を握る。
この試みが成功したのなら、また一歩、俺の能力の可能性を見出せるのだ。興奮せずにはいられない。
「あ、悪い。次だな」
自分の世界に入ってしまったせいで、彼の念話を聞き漏らしてしまったようだ。
指示通りのものを探すべく、彼から伝わって来たイメージを反芻しながら、いそいそと表へと出る。
本来ならただ広大な死の大地が見えるだけであったそこには、今や目を疑うばかりの光景が広がっていた。
いつもは突起物の無い、完全な平面であったであろう場所は今や打って変わり、幾筋かの切れ目―――クレバスみたいな溝が幾つも出現していた。
人一人が何とか、といったところや、それこそ大型トラック一台楽々侵入出来そうなものまで、数々と。
そしてそのどれもに、所々、大小様々な光る何かの存在を確認出来る。
トパーズ、サファイア、アメジスト。挙句の果てにはダイアモンドまで。
九十九が呼び出したこの場所―――この【土地】は、それが価値あるものであり続ける限り、彼が貴金属類、ひいては金銭面において、決して不自由する筈などない事を裏付けていた。
『宝石鉱山』
【特殊地形】に部類される【土地】の一つ。
全ての色のマナを生み出す事の出来る【土地】で、使用するデッキに使われる色が増えれば増える程に、その汎用性の高さは目を見張るものがある。
当然、そんな便利なものが無条件で存在する筈も無く、三度マナを生み出せば消えてしまうという性質を持つ。それを少ないと取るか、充分と取るかは、使用するデッキに依存する事になるだろう。
まるで、あたかも宝石を掘り尽くした後の鉱山が廃坑になるかのようなこのカードは、登場当初から複数の色を使用する数々のデッキを支え続けている功労者である。
マナが出せない、という縛りの中では、本来の目的として呼び出す訳もなく。
名前+絵柄の通りの【土地】が出るのなら、それはもう大富豪ラインキングの上位トップ三辺りに名を連ねても不思議ではない効果を期待出来た。
初めてこのカードを使った時、きちんと効果が現れた事に狂喜乱舞したものの、『あ、宝石、殆ど埋まってるわ』なんて愕然とした感想も同時に込み上がって来たものだが、とりあえず幸先は良いかな、と前向きに考える事で済ませた。
クレバスみたいな道の一本。
一番近い溝の間に体を滑り込ませ、地底を目指しながら、目的の物を探す。
あれも違うこれも違うと視線を泳がせていれば、視界には既に見たれた人物達が。
月の軍隊標準装備、スカートにブレザーの高校生ルックである。
ウサミミの飛び出したヘルメットに、収納箇所が多く見て取れるベストを身に着けており、彼女達が今は軍務として働いているのだと分かった。
光線銃のようなモノで掘削する者。重機を操る者。掘り出した鉱物を運ぶ者。
一同、全身から汗を滴らせながら、鉱山仕事に精を出している。
「―――あなたですか」
その見慣れた人物達の中で、ただ一人、異なった姿をした者が居た。
その者は指示する手を止めて、こちらに向き直る。
手を体の前で軽く組み、自身を抱くような姿勢で佇む姿には、そのまま額縁に入れて飾られていてもおかしくない程にさまになっている、と思った。
「豊姫、さん」
……ただ、俺は彼女の事が苦手だ。
……その、何と言うか……。正確には、苦手というより、彼女に対する負の念を未だに返済出来ずにいるから、という理由からなんだけど。
正直、目線すら合わせるのも気まずいんだが、それをしてしまうとますます溝は広がるばかり。絶対にしてはならない。
「……まさか、もう消してしまうので?」
「え?」
「ご自身で仰っていたではありませんか。『そちらが満足するまでここを維持し続ける』と。それを反故になさるお積もりですか?」
「っ! いえいえいえ! 私は単にここに欲しいものを探しに来ただけです! 決して約束を破るような真似はしません!」
「……そうですか。それは失礼しました。では、作業の方に戻らせて頂きます」
こちらの答えも待たずに、そのまま踵を返して戻っていく。
宙に幾つもの光学パネルを出現させて、目を通し、声を上げて周囲の玉兎達に指示を出す。
その後姿にはしっかりと、『話しかけるな』の文字が浮かび上がっていた。
(……相当嫌われてんなぁ)
気が重い。胃に穴が開きそうだ。
数日前に、多少のストレスならバッチコイだぜ、と思っていた事など、夢か幻でも見ていたんじゃないかと思わせる。
今すぐにでも逃げ出したい気持ちに囚われそうになるものの、かぶりを振って弱気を払う。
「……頼まれてたものでも、探しますか」
先程までの充実した気分など何処へやら。気分を入れ替えるつもりで、独り言を呟いた。
前途多難の言葉をまじまじと実感しながら、俺は再び、煌びやかに輝く渓谷の間を、とぼとぼと足取り重く歩いていった。
指示する声にも力が入る。
あれから大分時間も経ったというのに、未だにこの感情は収まるところを知らないようだ。
感情の機微に敏感な玉兎達が怯えながら作業をしている。どうも自分で考えている以上にこの思いには熱があるようだ。
「姉上」
聞き慣れた声。けれどずっと聞いていたい声。
自分共々、同じ仕事に就いているものの、その役割は異なっていた。
片や指揮官。片や雑用係と言っても差し支えの無い者。
かつてならばどちらも前者であったというのに、今はそれを懐かしむだけの過去になってしまった。少し、悲しい。
最愛の妹の声が熱を奪ってくれたのか、先程よりも少しだけ、冷静になれたと思う自分が居る。
「どうしたの?」
「はい。予想よりも作業が遅れています。発掘の方は問題ないのですが、それを運ぶ手段が思うように確保出来ず……」
「そう……。保管場所の目処はついた?」
「それは【マリット・レイジ】との交戦時に発生した地形を活用しております。大きさは申し分なく、少し手を加えてやれば、立派な倉庫になるでしょう」
遠くから何かを知らせるような声が届く。
しばし後、轟音と共に視界の一部が欠落していった。どうやら、新たな鉱物を採取する為に、地形を切り崩したらしい。
「……依姫ちゃんは……」
「はっ」
「……依姫ちゃんは、何とも思ってない?」
僅かの沈黙。
依姫は目を伏せて、姉の言葉を自分の中で反芻した。
豊姫自身、何とも馬鹿な問いをしたものだと思っている。
けれど口を突いて出た言葉は変えられず、妹の反応を待つことにした。
次に眼を見開いた時、彼女は悩んでいた素振りも無く、姉の予想とは違ってしっかりと答えを口にした。
「残念だ。とは思っています」
「……それは、何処から生じた感情かしら」
「そこまで細部に渡って把握している訳ではないのですが……」
視線を宙に投げ、またすぐに姉へと戻す。
「恐らく、全て、です。月に住まう者としても、軍に所属する者としても、綿月家の者としても、依姫としても。そして―――」
女としても、と。
とてもそうは思わせない表情で、真逆の意思を伝えて来る。
「それに関しては、むしろ姉上の方にこそ言いたい事が山ほどあります」
「えっと……それは……」
姉の目が泳ぐ。
けれど、それを逃す妹ではない。
戦姫が槍で刺すように鋭く見つめれば、それは、相手の精神を削る攻撃に他ならない。
目を背けているのだが、じんわりと額に汗する姉に対して、自分の意思はしっかりと届いているのだと実感と共に、妹の詰問は続く。
「あの時ほどあなたの妹であった事を悔やんだことはありません」
「御免なさい。つい……」
「つい、で契りを結ばされそうになった私の身にもなって下さい」
あの時。
豊姫が、九十九と依姫に政略結婚を仕掛けようとした事に、とうの依姫は完全に思考を放棄していた。
綿月家は、ここ月において上位五本の指に入る程の地位を占めている。
その家柄の者にとって結婚とは、いわば御家の為の義務だ。そこに愛だの恋だのの入り込む余地は欠片ほどしか無い。
そもそも、入り込むだけの余地がある時点で、御の字と言えるレベルである。
そういったものについて何度か考える機会はあったが、依姫は、それを不幸だとは思わない。
好いた惚れたという感情には興味はあるものの、それで結ばれた相手というのは、つまりその感情を失った時点で完全な他人となる。
否定する気はないが、それでも感情とは移ろい易いものだ、とも思っている節のある彼女には、それは酷く曖昧な、吹けば消えてしまいそうな幻に他ならなかった。
故に。
「万能型四脚戦車510台、高機動型空挺戦闘機170台。対制圧装備の歩兵3050人。そして、私や輝夜様を相手にし、これを悉く撃破するだけの力。これだけでも我々の常識から考えても常軌を逸しているというのに、それを行ったのが一日にも満たない時間だという事実。それに加えて、これです」
目の前に広がる【宝石鉱山】を見渡しながら、依姫は、ここに至るまでの過程を思い返す。
「【マリット・レイジ】を呼び出した時に、ある程度こちらの常識が通用しないと分かってはいたけれど……これは……」
「この砂しかない大地を、一瞬で作り変えてみせる。……私も分かっていたつもりになっていましたが、聞きしに勝る、とはまさにこの事でしょう」
「―――【宝石鉱山】、と言っていたわね。総称なのか、固有名詞なのかは分からなかったけど、それにしたって……ねぇ……。知ってる? アレ、ここに私を連れてきて開口一番が、『これである程度弁償出来ませんか?』って言ってきたのよ。今思い返しても、開いた口が塞がらないわ」
九十九をアレ呼ばわりする豊姫だったが、それを指摘する者は誰も居ない。
軽く調査しただけだというのに、軍備全てを買い換えられるだけの資源が蓄積されている事が判明している。
尤もそれは、億に等しい歳月をこの土地で暮らしていた事によって、あらかたの資源を取り尽してしまった事による希少価値もあるのだが、それを差し引いたとしても、月の誰もが及ばない程の財であるのは疑う余地も無い。
それを、道の端におちていた小石だと言わんばかりに扱うのだ。アレは。
上層部では、これを如何にして混乱を招く事無く活用出来るかを、寝る間も惜しみ、目を爛々と輝かせながら考えているようだ。
現金なものだ。
少し前までは、決して侵してはならない領域を破ってしまったかのような状態であったというのに。
「何でも初めからその意図があった訳ではなく、九十九の言うところの【土地】を出している最中に思いついたのだそうです」
「【土地】?」
土地は土地だろう。何を当たり前の事を。
そう思う豊姫であったのだが、それが分からぬ妹ではない。
その真意を知るべく、オウム返しのように言葉を返し、解答を待つ。
「はい。どうもこれらの能力は、先にも言いました通り、大地を作り変える事で実行しています。……多少外れているものもありますが。……あやつの正体。可能性の一つに、大地母神の類なのではないかとも考えましたが、彼の者ですら、こうも易々と自然を変化させる事など不可能でしょう。仮に出来たとしても、あの【マリット・レイジ】のような存在を呼び出せる筈も無いでしょうから」
「……それで、その各地に居る主神クラスの者達を上回るであろうアレは、今日も今日とて工房に篭りっきりで、何をしているのかしら」
「異形の者―――ゴブリン、という種族のようです。それを呼び出し、何やら作り上げているのは分かっておりますが、それが未だに何なのかは……。聞いた限りでは、武具の類のようですが」
こちらの常識が通用しない相手だ、と学んだばかりであるが故に、その言葉を素直に鵜呑みにする事など出来そう筈もなく。
―――と、思っているのは豊姫だけであり、九十九より直接聞いた依姫は、疑う素振りすら見せない。
答えを得た妹とは逆に、未だ確信を得られていない姉は、悶々と九十九の行動について悩む羽目になる。
「……だから、でしょうか」
続く依姫の言葉に、豊姫は、そういえば九十九に対する妹の意思を尋ねていたのだったと思い出した。
「輝夜様や永琳様は当然として、姉上や私も、お家の繁栄に繋がる事を第一とし、契りを結ぶ相手を選ぶものだと思っていた。それ自体に不満はありません。祝言を挙げるとしても……恐らく、蓬莱山や八意の家と比肩するか、それ以上の意味を持つ」
どちらもここでは支配階級の最上位である。王族、と言って良い。
それと同等か、あるいはそれよりも好ましい条件という選択肢は、一度足りとも考えた事が無かった。
何か突出した才を持つ者か、大企業の家柄か、幅広い人脈を有する者か。
夫婦になる相手というのは、そんな漠然とした印象しかなかったのだが。
「そちらの方面に疎い私でも分かります。九十九と契りを結べば、我が綿月家は蓬莱山、八意家に続く、三本の指に入る名家となる。資材において無限に等しく、戦力においては状況次第でしょうが、それでも単純な破壊力は私すら及ばない。そんな存在を無碍に出来る筈もなく、結果、黙っていても地位は上がり、支持は増えて―――」
「手間が増えるばかりなり。そんな顔してるわよ? あなた」
「……姉上。確か私は、刑罰により一兵卒―――二等兵へと降格しましたよね」
突然話を切り替えられた事を疑問に思うものの、沈黙を以って続きを促した。
「今朝、連絡がありました。『綿月依姫、本日より兵長へ昇進するものとする。より一層勤めに励むように』と」
「……何とも露骨な話ねぇ」
二等兵から兵長へ。
二階級特進を通り越し、三階級の昇格というのは、数千万年の彼女の経験どころか、月の有史以来、一度たりとも無かった事だ。
しかも、この土地において寿命とは有って無いようなもの。
定年や転職くらいでしか人が入れ替わらず、戦死など以ての外。結果、上から下まで官位の引継ぎ順がギッチリと詰まっている。
階級一つ上がるのに良くて数百年。普通は数千年。というのが常であるというのに、降格から片手で数えられるだけの日数しか経っていないにも関わらず、これだ。
「婚姻に失敗した、という話は既に広まっていると思うのですが……」
「あの者に近しい存在であるのには変わりない。と、周りの者は考えているのでしょう。下手に機嫌を損ねれば、《月面騒動》を再び引き起こしかねないから……。なんて考えが、透けて見えるわ。しかも今度はそれを止められる手段が無いのが分かり切っている。故に。……と画策した結果じゃないかしら」
「……そう言われると……ふむ……。知らぬ者達からすれば、仕方の無い事……なのでしょうか……」
唐突に現れた価値ある者に、彼女は選択の自由という道が用意される事となる。
深く息を吐く。
余計な考えを息と共に吐き出して、依姫は言葉を纏めた。
「お家の為にもなり、月の更なる発展にも可能性を見出せる者。そしてそれは、強制ではない。―――人柄のみで付き合う相手を選ぶという機会が訪れた。……あの時ほどに、異性というものを意識した事はありません」
手に入れたい人材は、しかし月を相手に大立ち回りを演じた、こちらのルールに縛られない者。否、通用しない者。
一体誰が月の軍を丸々相手にし、これに打ち勝てるだけの者の気分を害そうというのか。
あの者は実力を示した状況が状況である為に、彼を殆ど知らぬ者達からすれば、何処まで月の法を遵守してくれるのかが全く分からない。
然るに、手に入れられればこの上なく有利になれる存在であるにも関わらず、地位のある者はその立場の崩落を恐れ、誰も彼もが二の足を踏んでいる状態であった。
手を出すべきか、出さざるべきか。そのどちらかを選べた者は、あの時から今に至るまで、政略結婚を仕掛けた、綿月豊姫ただ一人であった。
そして。
「それが見事に失敗とは、ね。今にして思えば、依姫ちゃんって、相手が誰であっても一度夫婦の契りを結んだのなら、それを自分から反故にする訳ないものね。もしアレが居なくなっても、きっと操を立てて、一生未亡人みたいになっていた事だわ。危ない危ない」
妹が目を細めて睨む中、姉は玉の汗を一筋垂らしながら、口元を扇で隠して誤魔化すように喋った。
妹の為にと思ってやった事は、妹の心まで考慮に入れていなかったのだ。
後からそれに気づいた豊姫は、御家の為ならばと九十九へその意思を伝えに行った依姫を止めるべく、わざわざ能力まで使って会合の場まで乗り込んでいた。
もし夫婦になってしまったのなら、取り返しの付かない事になる。
だがそこで見た光景は、彼女の予想とは全く違うものであった。
向き合う二人。
普段通りの格好であった依姫と、これまた初めの頃と変わらないズボンとシャツを身に着けた九十九の両名は、片方が直立したままで、もう片方は、僅かに頭を下げて、微動だにせずに居た。
頭を下げられているのは依姫であり、頭を下げているのは九十九である。
一瞬『宜しくお願いします』と、婚姻の受諾を示したかとも考えられたが、妹の顔が能面のようになっているのを疑問に思い、これはまさか。と、思った。
断られた。
状況から判断出来るのは、そういう事。
そこに思い至ったのは、有無を言わせず依姫を転移させた後の事だった。
「小さく一言、『ごめん』と言われましたよ。その後はただ頭を下げて、全身に行き場の無い力を込めながら、沈黙するばかりでした」
拒絶の意思を現した。
心の何処かで、この契約は成立するものだろうと思っていたからだろうか。
彼の意思を知った時、依姫は自分でも考えられない程に混乱して―――何も考えられなくなっていた。
「未練もあったのでしょうが、純粋に疑問に思ったのです。だから尋ねました。何がいけないのか、と」
女としての自分を磨いて来なかった自覚はあった。
けれど、理由をはっきりと聞かない事には、この沸き立つ感情を抑える事は出来そうもなく。
そこで漸く―――依姫は、その者に対して好意を寄せているのだという自覚が芽生えたのだった。
尤も、それが愛や恋といった感情なのかは、未だに分からないでいる。
唯一はっきりと分かるのは、彼に拒絶された事に、酷く心が気づいたという一点のみ。
九十九がこちらにした光景は、今でも依姫の脳裏に焼き付いていた―――。
「確かに私は女としての自覚があまり無い。永琳様のようにも、輝夜様のようにも、姉上にも劣る。……聞かせてくれ九十九。私は、何がいけないんだ?」
我が事ながら、それを口にしている最中に、よく声が震えなかったと褒めても良いだろう。
一体何がいけなかったのか。
尽きぬ疑問は口をついて溢れ、言葉静かに、彼への問い掛けとなる。
「なっ、馬鹿な事言うもんじゃねぇ! 誰がお前に魅力が無いって言った!」
「―――慰めは良い。だから教えてくれ。遠慮は要らない」
その言葉に九十九は頭を掻き毟る。
ああ、だの、うう、だの呻いた後で、
「―――お前は美人だよ。言葉に頓着しなかったり、猪突猛進な所もあるが、それを差し引いたって、高校とかに居たら、依姫親衛隊とか、お姉様ファンクラブとか余裕で結成される位の人気者になれる。毎日十人はお前に告白する男が―――女も居そうだが―――居るに決まってる。靴箱がラブレターで埋まる、なんて伝説級の光景だって見れそうだ。……あれだけやらかした俺に対しても誠実に向き合って、誰かの為に命すら投げ出せる。お前レベルの人格者なんて、殆ど見た事ねぇわ。嫁さんにしたら、そいつは最高の幸せもんだ」
予想していない言葉に、彼女の頬が朱に染まる。
けれど、それを言った相手が自分を拒否したという事実を思い出し、依姫の心から熱を奪っていく。
もはやそこには『高校』という未知の単語に、疑問すら持つ余裕など無かった。
「……ならば、何故だ」
「……居るんだよ」
苦しそうに、恥ずかしそうに、自分の手を弄びながら、たどたどしく。
依姫は、その意図をおぼろげに察した。
「恋人、か?」
「……いや。まだ全然そんな関係じゃない」
「……まだ、か。……片思い……というやつか」
自分の体から力が抜けていくのを感じながら、それでも依姫は続きを聞かずにはいられない。
「……どうなんだろうな。変なタイミングで別れちまったから、自分の感情が整理されてないんだ。ただ……その……一緒に居たい……とは、思ってる。ずっと笑顔でいさせたい、とも」
消え入りそうな声で、それでも九十九は話を止めない。
自分の経緯を話し出す。
とある神に拾われて、その者に名前を貰ったのだと。
過ごして行く日々の中で、決して失いたくないと思うようになり、それはある旅立ちの日を切欠に、心の絶対を占める位置へと昇華している事に気づいたのだと。
―――残酷にも程がある。
言葉一つが心を切りつけ、表情一つが体を凍てつかせる。
すぐにでもこの場から逃げ出したい。
それでも留まり続けているのは、依姫の中の何かがそうさせているからか。それとも、既に体に力すら入れられなくなった為か。その真意は、誰に理解される事も無く。
「―――ぁ」
そして、とうとう九十九がそれに気づいた。
あまりに愚かであった自分の行いに、頭を下げ、『ごめん』と小さく呟くの精一杯で。
無言の支配する空間。
それを打破したのは、他ならぬ彼女の姉、綿月豊姫。
次元断層でも引き起こしそうな雰囲気を訝しげに思いながらも、すぐにでも依姫をこの場から連れ出そうと、能力を使って、妹共々、消えるように移動した。
依姫の何度目かになる放心は、過去経験したどれよりも辛いものであった。
「あの時はどうなる事かと思ったけれど……」
姉の呟きに、依姫は眉を顰めながら応える。
「なにぶん、初めての事でしたので。力でも技術でも知識でも、解決出来ぬ事もあるのだ。と分かったのは、良い経験でした」
あのまま闇の一部にでもなりそうであった妹が立ち直ってくれたのは嬉しいのだが、この手の感情は酷く暗く重く圧し掛かるものだと考えていた姉にとっては、どうしてこうも早く気力を取り戻してくれたのかが不思議でならかった。
『姉上、行ってまいります』
そう言って普段通りの様子で、翌朝から仕事へと出かけていった依姫を見た時には、豊姫は開いた口が塞がらなかった。
理由を聞くのが怖くて、結局数日経った今こうして聞いてみたのだが……、それでもまだ疑問は尽きない。
「そういえば、九十九も次の日に挨拶をしたら唖然としておりましたが」
「それはそうよ……」
人によっては好意が悪意に変わってもおかしくない出来事であったのに、依姫はそれを微塵も現すことも無く、何事もなかったかのように、九十九と接したのだ。
我が妹ながら、何処で育て方を間違えたか、と思えてならない豊姫であった。
「? 何か不思議な事でも?」
「……いいの。あなたが気にしないのなら、私も気にしない事にしたわ」
過ぎてしまった事は仕方が無い。今後それを気をつければ良いのだ。
そういえば、自分もその手の経験は皆無であったと思う豊姫は、どうすれば妹の力になれるのだろうかと頭を抱える事になる。
(……あれ、そういえば、私や依姫は兎も角として、永琳様にもそれらしい話は―――)
恐怖。
悪寒どころの話ではない。彼女は一瞬にして、身体を舐め尽くす様な死の幻影に襲われた。
堪らず両の手で自身を抱き、その場に蹲る。
「姉上、如何なさいましたか」
心配する妹に、大丈夫だからと、とりあえずの返答をした。
止めよう。
もはや何を考えていたのかも思考から消去した豊姫は、未だ冷え続ける身体に鞭打って、何とか立ち上がった。
「……大丈夫よ依姫。お姉ちゃん元気。超元気。今なら一回目で金閣寺クリア出来そうだもの」
「は、はぁ……それならば良いのですが……」
上手く笑顔を造れていると良いのだが。
自分でも何を口走ったのか覚えていない発言は気に留めず、妹の反応を見るに、とりあえず話しを流す事には成功したようだ。
今ひとつ納得しない妹を置き去りにし、姉は何とか気分を入れ替えた。
「……―――よ、依姫様ぁ~!」
と、後方より名を呼ぶ声が聞こえる。
周囲で働いている者達と良く似た格好をしたその者―――レイセンは、パタパタと足音でも聞こえてきそうな足取りで近づいて来た。
「おぉ! レイセン、こっちだ!」
「あら、あの子の事、もう使ってあげているの?」
手を振りレイセンの声に応える依姫に、姉が話し掛ける。
未だ距離は遠い。
少しだけならば、彼女に聞かせたくない会話をしても、問題は無いだろう。
「はい。今は人となりを把握する為に、様々な方面で働かせ、観察しています。完全に綿月家の私兵のような立ち位置になってしまいましたが、存外悪くはなさそうです」
「あのままだったら、死んでいたでしょうしね。……どう? 使えそう?」
「そうですね……。飲み込みが良く、機転も利きます。軍曹にまで上り詰めていただけあって、体力面でも優秀な部類、と考えて良いでしょう。多少、他人との関わりに壁を作る節がある事と、例の件の原因にもなった、命の危険に晒された場合は途端に弱腰になりますが……。それ位でしたら、矯正出来る範囲かと」
「なるほど……。それで、アレが言っていた事は?」
「能力開花の兆しは、まだありません。もう少し時間が取れましたら、戦闘訓練を実施しようかと思っています」
「そう……。やはり、あなたの力を使って?」
「いずれは」
レイセンが聞けば恐怖で顔色が変わっていたであろう話し合いは、幸か不幸か、彼女の耳に届くことは無かった。
息を切らしながら何とかこちらへと到着したレイセンを、依姫は優しげな表情で出迎えた。
「お、お待たせしました。指示された物は、全て運ぶ準備が完了しました」
「ありがとう。来てすぐで悪いが、早速実行してくれ。九十九に宜しくな」
「は、はい。……では」
玉兎は苦渋の表情を一瞬浮かべ、同じく一瞬でそれを飲み込んだ。
世話しなく遠ざかる後姿を見つめながら、豊姫は、一体何の事かと尋ねた。
「何をさせているの?」
「九十九に、鉱物系の収集を頼まれまして。先にも言いました、武具を作る材料にするのだとか」
一体、何が仕上がるのだろうか。
武具と言うからには戦いの為の道具であるのは間違いないのだろうが、それが一体、どのような効果を発揮するのか。知る者は九十九と、その彼に呼び出された異形の者の二人のみ。
『絶対に害は為さない。むしろ月の為になる』という彼の言葉を永琳と輝夜の二人―――主に後者―――が受諾し、最新の機材の揃う施設と、実験場として、荒野の一つを開放した。
その荒野は【宝石鉱山】の他にも、様々な施設や建造物が突如として出現した魔窟と化し、これまた何の痕跡も残さずに消え去るのだ。事情の飲み込めぬ者達からはたいそう気味悪がられ、あるいは恐れられているのは知っている。
反対意見など、それこそ無数に挙がった。
だが、蓬莱山の勅命と月の頭脳の意志が絡むそれに、誰も抵抗出来ず、今に至る。
そんな魔窟で、これらを作り出した張本人の負債を回収するべく、訓練の一環も兼ねて発掘作業に精を出している月の軍と、その指揮に勤しむ綿月豊姫は、今日、初めて溜め息をついた。
こちらの不快感を真に受けて右往左往するアレを見ると、少しだけ心が軽くなるのだが、その様子を冷静に思い返してみると、何とも幼稚な嫌がらせレベルの仕業ではないか。と、自身の幼さが情けなくなった。
永琳様も、輝夜様も、預かった玉兎はそこまで気に掛ける存在ではないが……、あの妹でさえ、もう既に思考を入れ替えて、これから為すべきことに邁進しているのだ。
いい加減、こちらも心を改めて、建設的に過ごそうではないだろうか。
「分かりました。では、あなたは引き続き、作業に戻りなさい」
「はっ」
恐らく、我が妹が玉兎達と一緒に働くのも、これが最後になるだろう。
本来ならば軍服に身を包まなければならない立場になった依姫であったが、初日から周囲の懇願によって普段着とも言える着慣れた衣類にて業務をこなす羽目になり、あっという間に兵長になってしまった。
これでは何の為の降格なのかと当人は不服を漏らすだろうが、姉としては不安に思うと同時、安堵も込み上げてくる。
近い将来、依姫は上層部の意思に巻き込まれる事になるのは確実。
今は事態を把握出来ないが為に静観を決め込んでいる彼らだが、しばらくすれば、絶対に行動を起こすのだ。
その時に、我が妹は良い様に使われるに決まっている。
面白くない。むしろ、不快だ。回避せねばならない。
「永琳様にも、ご指導を頂ければ……」
庇護とは、いつか巣立つ為のもの。
自由に羽ばたく為に、今の内に学べる事は全て学んでもらう他は無い。
戦闘面では問題は無いので、政略や知略といった方面を重点的にしなければならないだろう。
月の姫の指南役に助力を請う事も考慮しながら、豊姫は軍務に精を出す者達の中に加わった。
手を動かし、指示を飛ばし。
一切の無駄を発生させぬように、神経を研ぎ澄ます。
このペースでは、存外短期間に目標量の鉱物を回収出来るだろう。
それが、アレの地上へ戻るまでの時間。
だが、もっと作業を早められないか、と思う。一日でも早く、一秒でも早く。迅速に。
……どうにも、嫌な予感がするのだ。
何、と具体的な根拠の無い、全くの直感。
具体的には女の感。更に言うなら姉としての感。
妹が奪われる。
もはや誰とは言うまい。
予言めいた確信によって、その姉は一刻も早く作業を終わらせなければという決意を固めるのだった。
―――だが悲しいかな。嫌な予感ほど良く当たるジンクスは、穢れの無い、ここ月においても健在のようで。
何故依姫は、すぐに立ち直れたのか。
ここを良く確認しておけば良かった、と。
後悔先に立たずの言葉を噛み締めながら、豊姫は口惜しげに呟く日は―――近い。