青き星、地球を背にし、一片足りとも生命の生存を許さぬ大地と、落ちて来そうな眩い恒星の光の中に、それは現れた。
真横に引かれた一筋の切れ目。何もない空間―――月面上にポツンと出現した一本の線は、瞬く間にその長さを伸ばし、百の人が同時に通れるだろうものに達する。
それを押し広げ、あるいは引き裂くように這い出でるのは、妖怪。
身の丈以上の黒い鴉羽を持つ者。ヒグマの倍以上もの巨体を有する者。何本もの腕を持つ者や、頭部に角が生えた者まで。
その数、百を超え、千に届こうか。もはや何が何の種族であるのかも分からぬ程に埋め尽くされたその一帯は、まるで、完成を望みながら周囲に散らばるジグソーパズルさながらに。
もはや、ただの砂地であった面影はない。物珍しさから周囲をくまなく観察するそれらの様は、そこのみを見れば、旅行者の一行でるのだが……。中には東洋のみならず、西洋の妖怪たる悪魔すら混じっているのだから、この集団の異様さは、傍から見れば理解不能の域であろう。
誰かが声を上げる。あれがそうなのかと。
誰かがそれに頷く。そうだ、あれこそがそうなのだと。
それら意見を集約するかの如く、自然、視線は一箇所へと集った。
この一団の最後方。言葉で答える事をせずに、その視線を一身に受けるその者は、口元を隠していた扇子をスイと、彼らの目の前―――砂地の奥に佇む、煌びやかな都市へと向けた。
年の頃は、人の十三~四程度か。高貴を示す紫の法衣。腰まで届く、僅かに波打つ黄金色の長髪。宙に浮き広がった亀裂の線に腰を掛け、肩に担ぐ西洋傘で日と星の光を遮りながら、お前の望むものはあそこだと。純白の手袋に包まれた魔手を持ち上げ、その行動のみで指し示す。
沸き上がる歓喜。立ち上る狂喜。
この場に居る者達のほぼ全てが、地上では探すのも困難となった新天地への渇望と、そこで行われるであろう、ありとあらゆる行動―――虐殺、蹂躙、激闘、捕食、支配といった、魔としての欲求に満ち満ちていた。
全ては、この時の為に。
神々の支持を受けた人間達に追いやられ。地上は勿論、魔界からも、地獄からも爪弾きとされた悪鬼達は、己の欲望の捌け口をただただ求めていた。
そこに現れたるは、一人の少女。
未知なる亀裂を虚空に創る力を有し、類稀なる智謀から、現在は賢者などと呼ばれているそれは、いずれ来る侵攻の為に、その力を貸せとのたまった。
その地、一度として魔に冒された事もなし。穢れなき者達が住まう聖域は、殺し、犯し、奪いつくすにはうってつけである。その味わいは、極上と同義であろう、と。
上位へと挑み、玉砕する覚悟もなく。けれど蹂躙する事に喜びを覚える者達の返答は、もはや語るまでもなし。
結果。
とある小さな結界内の拡張に加担し、基本構造を作り上げた頃合に、その少女の確約通り、こうしてこの穢れなき聖地へと足を踏み入れたのだった。
目指すは、光の都。
いにしえより存在する月の都市ではないそれ―――黄金と称するにはやや暗みがかった色で覆われたそこは、この世ならざる雰囲気をまとっていた。
彼らは知らない。
それはただ一人、この場に招き入れた紫色の少女を除き。本来、この月には無かったものである事を。
それが、この時を予期していた者によって幾年も前に用意された、見た目が華やかなだけの、ただの狩場である事を。
―――そしてこれは、その少女も預かり知らぬ事ではあるけれど。
そこは、遥か以前。
とある人物達の……月の軍神と五龍との模擬戦闘によって、荒野と化していた場所である。
『真鍮(しんちゅう)の都』
【土地】【特殊地形】
好きな色のマナを1つ生み出す。【タップ】した際に1点のダメージを受ける。
全ての色を継続的に生み出せるという非常に高い汎用性を持つものの、この1点というダメージが後半になればなるほど響いてくる。
しかし、ようは自分が死ぬ前に相手を倒せば良いだけの話。これを積極的に用いて90年代後半のアジア大会で好成績を残したチームがおり、それと対戦したプロの日本人プレイヤー曰く、【白】のクリーチャー無効化、【黒】のクリーチャー破壊、【赤】の【火力】、【青】の妨害、【緑】の【マナレシオ】が高いクリーチャーと、あらゆる色の優良カードが襲い掛かってきたらしい。
MTG上の【真鍮の都】は、とある女王が魔術によって創り出した魔法都市。
都市どころか周囲の土地すら真鍮で覆われたそこは、存在する場所が砂漠という事もあり、常時灼熱に支配された、真鍮人間達が住まう、魔力が豊富な魔境である。
全ての者達がそこへと向かったのを確認し、ただ一人の例外―――紫色の少女も、小川にたゆたう木の葉のように、ゆらゆらとその歩み始める。
それは、幼子達を見守る母のようでもあり。
―――何人も後退は許さぬという、死神の刃のようでもあった。
―――然るに。
この結末も、当然のもの……と、言えるかもしれない―――。
もはや、最後の一人。
千体は居たであろう妖怪の群れは、その数を指一本で表せられるだけのものへと減少させていた。
飴細工のように捲れ上がった地面、破壊され尽くされた無人の家々。それらを彩るのは、何かが上げる黒煙と、形容し難きものと化した妖怪の骸達。
閃光が走る度に仲間が死に絶え、突如として爆炎を上げる地面や建物に巻き込まれ。体を細切れに、あるいは穴だらけにされ。
敵の姿らしい姿こそ見られぬままに、彼は、とうとうそれ―――恐らくこれらを成した人物であろう女を見つけた……出会ってしまった。
【真鍮の都】の中心部。そびえ立つ神殿を背に瞑目するのは、月の軍神。
充満する悪臭に若干の不快感を眉間に刻みながら、ただただ自らの役割を―――最後の穢れを排除すべく、鞘に収められた十拳の剣を杖代わりに、直立不動を貫いている。
それに相対する彼は、鬼。
筋骨隆々の体は鋼の如く。天を突く二本の角は、言わずとも彼の種族を誇示しているようであった。目の前の女の三倍以上の体躯を有するその妖怪は、未だ傷一つ負っていない万全の状態ではあるものの、それは体力面での話。精神は既に擦り切れる寸前であり、薄氷の上を歩く旅人さながらの危うさで、辛うじて月の軍神と対峙している状態であった。
千差万別という言葉があるように、鬼という種族にも、例外はあった。
大よそ鬼らしからぬ傍若無人な振る舞いと、幾年にも渡った弱者に対する悪辣非道な行いは、勝負を好み、豪気を友とし、強敵との決闘を望む鬼からは逸脱した、下種、と断言しても良いもので。
その行いがあまりに酷いものだから、その弱者―――人の中での鬼の印象は、ほぼそれら一派に対するもので刻まれてしまったのも無理からぬ事。
尤も、『自分の心に嘘をつかない』という、ある意味で最も鬼らしい動機であったので、殆どの同胞からは眉をしかめられたものの、敵対以上の関係へと発展する事はなかった。
……どちらにしろ、彼ら人間にとってみれば、自らの種は弱い立場でしかなく、翻弄される側に変わりはないのだから、それらの差は瑣末ごとではあったのだが。
しかし、その鬼が一時期は鬼の四天王などと呼ばれ、意気揚々とお山の大将など気取っていたのは、とうに昔。
二本角に、栗色の長髪。童子のような背格好の……幼女と言っても差し支えのない女の鬼に真正面から挑まれ、完敗し、その地位から蹴落とされ。されどその座に再び挑む事をせず、過去の栄光に思いを馳せるのみの生涯を送る過去を持つ。
全てを見下していた地位に返り咲く機会は失われ、その心中は、今目前で相対する者への恐怖と、ここへと招き入れた少女への恨みと、自らの軽率さに対する後悔の念で渦巻いていた。
「―――全ての負傷兵は後方へ。加え、第一小隊から第四小隊までは退避し……」
「依姫様、退避のみは既に完了しております」
「そ、そうか……。迅速なのは良い事……だな? うん」
種族が玉兎とはいえ、幾らなんでも脱兎過ぎはしないだろうかと逡巡する依姫であったが、とある人物を地球へと転送する―――蓬莱山家の姫君が進撃してきた際にも同様の速さであったのを思い返し、こんなものかと答えを出して、その思考を終わらせた。
「んんッ……。ではそれに追加だ。それら小隊は使用した火器は新たなものへと換装し、その場で待機。第五、第六は周囲の警戒。第七は……無駄だとは思うが、あの女の発見を最優先とし、行動に移れ」
了解。との子気味良い返答に満足し、互いの声は止む。
それが通信だと知らぬ鬼は、独り言を呟き始めた依姫に好機を見い出した。
何かが光ったと思えば、体の何処かに穴が空く。脳裏に、閃光と共に仲間が血溜まりへと崩れ落ちる記憶が蘇る。誰も彼もが不思議そうな……理解出来ない自らの死を前に、呆けた顔のままに果てて逝った。
死ぬのは御免だが、何が起こったのかも分からぬままに息絶えるなど、もっと御免だ。
もはや、ここは生きては戻れないものと理解している。これまで散々好き勝手やって来たのだ。だからこそ、自らの最後は、自らが知る範囲で……。
「業の深い事だ」
駆け出そうとした刹那。止まる気など全くなかったというのに、鬼はその言葉で静止した。
向けられる、凛とした瞳。先程の虚空へと呟く様とは打って変わり、真正面から月の軍神の眼力が突き刺さる。
それは紛れもなく、こちら向けて投げ掛けられたもの。淡々と、景色の感想でも述べるかのような口調は、自分など脅威でも何でもないと言わんばかりの態度である。
―――痒い。
左目の奥に疼きを覚えながら、鬼は女の言葉に耳を傾ける。いや、傾けざるを得なかった。
如実に分かってしまう力量の差。なまじ鬼の四天王などと呼ばれる地位に居た為か、相手と自分の埋めようのない溝は、嫌という程理解してしまったからだ。
死にたがりな訳ではない。しかし、死ぬのが怖い訳ではない。ただ、無意味に朽ちていくのが許容出来ないだけ。
目の前に居るのは、もはや壁などと例えるのもおこがましい。
あれは天。あれは星。あれは、終わり。
決して届かない座に君臨する、人知未踏の、何か。
一種の達観だろう。憎々しい声とは裏腹に、何処か悟った頭で鬼は問うた。
俺を殺すのか、と。
「いいや。私はもう、何もする気はない」
一瞬の間。
心にストンと落ちてきた言葉。その宣言は、相手が敵ではないと表明している事と同義。
―――かゆい。
こめかみの辺りを掻きながら、鬼は紫髪の女の言葉を反芻する。
あれは何と言った?
もう、何もする気はないと言った。
それはどういう意味だ?
既に、何かをしたという意味だ。
ならばされた事は何だ?
それは……。
「紹介しよう」
女の声が響く。こちらに説明する以上の感情が読み取れぬ……哀れみ満ちた、二つの眼で。
「お前の種族が住まう地ならば、幾らか馴染みはあるだろう」
女の前に集る、黒い泥。
それは蝿のようでもあり、蟻のようでもあり、蜘蛛のようでもあり。
それらが徐々に折り重なり、漆黒の少女の形を作り上げた。
「大和の二神が一人。祟り神の統括者―――洩矢諏訪子の神だ」
闇夜の衣を脱ぎ捨てて現れたのは、直立する金糸の少女。
言葉にするのが困難な帽子を被り、並々ならぬ神気を纏い出でるは、生命を育む大地の化身、怨恨の体現者。
その神と直接面識はないが、それが治める大和についての話題には事欠かなかった。遠方から入る話題の半分が、それで占められていたと言っても過言ではないだろう。
曰く、万食の国。
曰く、あらゆる傷や病を治す医術の都。
曰く、他の大陸の主神すら退ける力を有する。
……曰く、七日に一度は白い男が宙を舞い、それを白い狗神が連れて戻るとか、なんとか。
一部の噂だけを思い返してみても、どれもコレもが夢物語。特に最後から一つ手前、他の大陸の主神すら退けるなど、妖怪という自らの種族を棚に上げて考えてみても、現実味があまりに薄過ぎた。信じ切れるものではない。
「―――汝、幾千の無辜の民を手に掛けたのみならず、それを悪戯に弄び、散らせた怨。我が信仰に掛けて、もはや看過出来ぬ域となった」
前髪に隠れ目元が見えぬ洩矢の神は、罪状を読み上げる閻魔が如く、鬼の所業を謳い上げる。
しかし、それが何だというのだ。
鬼は笑う。
今更だ。今更過ぎる。妖怪として生まれ、妖怪として生きてきた。そんなもの、取るに足らない些細な事だ。
告げられた内容があまりに素っ頓狂なものだから、終ぞ、くつくつと嗤いまで込み上げてくる始末。
だが。
「裁くだけなら閻魔で事足りる。屠るのみなら、その首を刎ねるだけで十分だ。しかし、我も神。一片の慈愛を示すのも役目の内」
すとん、と。
棒立ちであった祟り神の統括者は、その姿勢を、胡坐のそれへと移行させた。
「故に……汝には、機会を与えよう」
まるで、神託を授ける八坂の神のように。片膝を立て、片肘をそれに乗せ。ここから動く気はないのだと、その行動で言い表した。
「我に触れる事が出来れば、洩矢の名に掛けて、汝を地上へと還し、溜めに溜めたその怨恨を引き取ろう」
少女の背後に佇む月の軍神は、直立不動のまま、瞑目の姿勢を崩さない。自ら動く事はないという事か。
それが示すは、肯定。諏訪の神の言葉が真実であると判断出来る態度であった。
一瞬我が耳を疑ったが、しばしの間を経て、鬼は得心に至った。
―――醜悪だ。
侮蔑を含んだ笑みを浮かべながら、二人の神に言い放つ。
一筋の救いがあるように見せかけて、それが不可能であると確信しているから、そのような一方的な取り決めを口にしたのだ。
そこにこちらがすがるように。そこに希望を見い出すように。そしてこちらが、絶望するように。
高みに昇れば昇るほど、希望を望めば望むほど。それが裏切られた時の落差は、遠大なものになる。
乗ってやる。
口には出さずとも、鬼はその取り決めを是とし、了承の意思を、己の疾走という形で表した。
到達までは、人の足で約百歩。ならば、鬼の足ではその半分も掛かるまい。ましてやこの鬼ならば、その距離は更に埋まる。
風を切り、大気を押し退け。地よ砕けろと、下を蹴る。
光陰矢の如し。鬼が光を……魔が聖を纏うなど冗談染みているが、これの速度を例えるならば、それが最も適切であった。実際の光の速度には比較にならぬ程に遅いとはいえ、それでも、人間は勿論、雑多な妖怪ですらも視界に捉える事は不可能であろう。
……ふと。
鬼の疼いていたコメカミ側の目が、突然、黒で覆われた。
完全に、ではない。何者かの手……指で目隠しでもされたかのように、片側の視界がほぼ閉ざされ、陰ったのだ。
ジクジクと疼く脳髄。圧迫感を覚える眼球。声を漏らすほどではないにしろ、今、鬼は確かな痛みを覚えていた。
無視するか、振り払うか。
未だ諏訪の神との距離がある事を考慮し、万全の体制で挑みかかるにこれは邪魔だと判断し、後者を選ぶ。
誰の仕業かは知らないが、この程度の些細なものしか行わぬ者が相手ならば、簡単にその手から離れられるだろうと。
そう思い、目に掛かる前髪を払い除けるような仕草をし―――。
「ッ!?」
振り払った腕に釣られる形で、自らの顔が強制的にそちらへと向けられた。
まるで、自らの目を、自らで払い捨てた感覚に似て。
揺れる視界。崩れる体勢。あまりに突拍子もない不意打ちであった為に、情けなくも、土煙を上げながら、地を滑る羽目となる。
転げた事による痛みこそ皆無であるものの、そこに意識を向ける余裕は、鬼には残されていなかった。
這い蹲りながら顔を起こしてみて見れば、未だに視界を覆う、指の形をした、黒。
―――カユイ『―――憎い』―――
幻聴の類か。呪詛の如き男の声が、どうにもこの、視界の黒から聞こえて来るような気がして。
振り払うでなく、毟り取る、を選択。未だ眼球に影を作る何をむんずと掴み、力任せに引き千切る。
ブチブチと、目の奥から何かが引き抜かれる痛みと共に、自身の血も流れ出す。どうやら今引き抜いたコレは、本当に……自分自身の体から生えていたものらしい。
ここで鬼は理解した。顔も動く筈だ。自らの顔から生えていたものを、自らの力で殴り飛ばしたようなものだのだから。
そして、引き抜いたそれがきちんと見えるよう、顔の前へとさらし……ようやく、それの正体が分かった。
指のようだと影は、事実、指であったのだ。
人間のひと指し指。恐らく男のものであろうそれが、どういう理屈か、自身の眼球と頭蓋の間から伸びて……生えていたらしい。
まず間違いなく目の前の神の仕業であろうが、こちらにとっての致命にはほど遠い。しばし休めば回復してしまうだけの傷である。不気味であり怖気の走る現象ではあるものの、こんなものが一体何だと……。
『―――憎い』
今度は、女の声。
再度聞こえる別の呪詛に、直感めいた予感が、確信に変わる。
呆けている暇はない。
毟り取った男の指を放り投げ、再び駆け出すべく、体を起こそうとし。
「―――」
繊維質の何かが千切れる音と共に。とうとう、左目から光が消えた。
何事か。
残る右目に映るのは、地面を転がる白い玉。
かつて目玉などと呼ばれていたそれは、砂の大地を転がりながら、何が起こったのだと尋ねるように、こちらに目を向け停止した。
ぐちゃぐちゃと、ねちゃねちゃと。次いで聞こえる、肉を抉る音。ポカリと空いたでろう目の穴から……いや。体中から何かが這い出てて来る感覚が、焼けるような痛みと、背筋の凍る思いと共に駆け巡る。
『憎い』
腸を掴み。
『憎い』
肺を締めつけ。
『お前が』
胃を引っ掻き。
『お前だけは』
臓器を圧迫し。
『絶対』
食道を埋めて。
『絶対に』
喉へと至り。
『―――ユルサナイ』
口から、耳から、鼻から、目から。溢れ出そうになる……何か。
もう、何の声かも分からない。
ポツリポツリと聞こえるだけであった声は、ヤマビコのように脳内を埋め尽くし、それでも足りぬと鼓膜を震わせる。それが実際には聞こえていないものであったとしても、ここまで恨み辛みで頭の中を掻き乱されれば、そこに然したる差は存在しない。
「―――止まったな」
確信。
祟り神の統括者は、そう感じさせる言霊を呟いた。
「往々にして、物事には勢いというものがある。千の悪徳を積み重ね、万の業を背負おうが、勢いの付いた者は、それに縛られる事はない。……当然だな。それに縛られるくらいであれば、そもそもが恨み辛みを生む前に、返り討ちになっているのだから」
最後まで、それを静寂のままに聞き入る事は叶わなかった。
『物事には』辺りから。鬼は込み上げる吐き気に、堪らず、胃の中を全てぶちまける。
吐瀉物は、ここに来る前に食べた人間かと思っていたのだが、そうではなかった。
一面の赤。【裏切り者の都】の乾いた石畳の道に吸い込まれても、それすら覆いつくして溢れ出る、自らの血液。
体中の内臓を吐き出さんと嗚咽し続け、しばし。いよいよ心の臓が出て来るかという思いが頂点に達した時、それは表れた。
喉の奥が熱くなる。火箸でも差し込まれたのか、胃袋から舌の先までを激痛と灼熱が走り抜ける中、残る右目で、それが見えた。
人の手……いや、それはもう、腕か。
自分の口から、人間のものであろう腕が、丸々一本生えて……とうとう、抑えていたものがこぼれ始めた。
『―――憎イ』
呆気にとられている暇もない。
その腕は何度か虚空を掻き毟り、思い出したかのように、残る右目へとその五指を突き立てようとした。
これは拙い。反射的にそれを掴み、力任せに引き千切る。
先に対処した指以上の、内臓ごと引きずり出してしまったのではと錯覚する痛みに気を失いそうになりながら見たものは、紛れもない人の腕。
握り潰し、地面へと投げ捨てる。肩までありそうな長さのものが、陸に打ち上げられた魚の如く、二度三度大きな痙攣をした後で動かなくなった。
けれど、安心する間は存在しない。
更にもう一本……いや。それはもはや、八本に達しようか。ぞぶり、ぞぶりと。今後は女や子供の腕であろう細身のそれらが、再び口から伸びていた。
元々大きな鬼の口とはいえ、人間の腕八本分の幅はない。必然、強靭であった筈の鬼の顎を無理矢理外し、筋を断ち切らんばかりに生えそろうのは、老若男女の腕の華。
それらは鬼が抵抗する間も与えずに、一瞬にして、耳に、鼻に、牙に、角に。掴めるだろうあらゆる場所へと掴み掛かる。
傍から見ればそれは、鬼の顔から人の腕が咲き乱れている風にも映るだろう。
「―――だが、止まってしまったものは別だ。恨みはすぐに追いつくぞ。憎しみは背後に迫っているぞ。決して逃れられるものか。決して、逃れられるものか」
謳う様に。告げる様に。
「さぁ、さぁ。鬼よ。我が住まう地にて、強き妖怪の長として君臨する、鬼よ。すぐそこだ。もう、すぐそこだ。汝を捉えんと怨嗟の意思と共に現れたものが、もはや我慢ならないと、己が体から溢れてしまったのだから」
鬼は自分で自分の体を傷つけている感覚と激痛に囚われながら、我武者羅にそれらを掴み、引き千切る。
掴み、千切り。掴み、千切り。
それでも、それでも。後から、後から。
一拍の間に再び腕が生えてくるのは、まるで、これまで喰い散らかしてきた命達が逆流でもしてるかのようで。
鈍痛が鬼の口内に走る。
ミチリミチリと繊維の断ち切れる音は、自らの口から生えた手によって、自らの牙が奏でるもの。後数十秒もすれば、それは無残に奪い去られてしまう事だろう。
更に口だけでは飽き足らず、空洞となった左目からも幾本もの指が生えてきた。
と、思えば、それらも他と同様、周囲の皮膚や頭蓋までも抉り取らんと爪を突き立てる。
声を荒げる為の気道も何かで埋まり、鼓膜は呪詛で染められて。
内も、外も。触感の全てが指という指、手という手、腕という腕で蹂躙される中で、口から一際太い男の腕が、他の腕達を押し退け現れ、鬼の顔面を握り込む。
指や手とは、突き刺す為でも、殴りつける為に生まれてきた訳でもない。
あれは、掴む為のもの。
絶望の中の希望を。決して放したくない大切なものを。
―――絶対に逃したくない、怨敵を。
「ならば後は―――」
声にならない声。口の端から泡立つ流血がこぼれ、断続的な呼吸音だけが漏れ出した。
もはや人の力ではない。五指に握られて軋む頭蓋に合わせ、右の眼球が飛び出さんばかりに瞼を押す、その最中。血涙を流す、その残った眼球が見たものは、こちらについと向けられる、洩矢の神の人差し指。
「―――墜ちるのみぞ」
熟れた果実の結末は、もはや語るまでもない。喰らいに喰らった命を散らし、万に迫る命を貪ってきた果肉は、上顎から上を失い、大地へと倒れ込む。
それら肉片を丁寧に……あるいは我武者羅に掻き集めるのは、鬼より伸びた、幾本もの腕や手達。宿主が骸となってもなお健在であるそれらは……そう。魚の死骸に付着する、イソギンチャクのようで。鬼の体内に異界への門でもあるのか、せっせと掴み、引きずり込む。
髪の毛一本、肉の一片、血の一滴たりとも逃がす気はないと。
腕だけの亡者達は己が体のみでそれを言い表し、幾許かの時間の後、真鍮製の皿に乗る血溜まりを、その大地までも削りながら平らげ、夢か幻でも見ていたかのように、何の痕跡も残さず消えていった。
―――畜生め。
魂からこぼれた……そんな、鬼の最後の負け惜しみと共に。