時刻は、朝と昼の間くらい。
吹き込む風が心地良い。真っ白な天井を見上げ、寝心地の良いベッドへと体を横たえながら。ぼんやりと、全く他意の無い感想を思う。
窓の外から差し込む日光は、暖かな春の麗。これで小鳥の囀りでも聞こえてくれば完璧なのだが、生憎と、ここ地上数百メートルの高さでは、それは期待出来そうになかった。
(そもそも、月に季節なんてものがあるのかすら知らないんだけども)
辺りを見渡せば、何処も彼処も真っ白な面ばかり。
窓……っぽい片面全てが無色の壁は、初めの頃は恐怖以外の何者でも無かったんだが、数時間も見ていればある程度は慣れるもので、今では良い暇潰しの一つへと落ち着いていた。
……ぶっちゃけ、病室で缶詰状態です。
「……うーん」
テレビも、パソコンも、ラジオも本も携帯も。俺が知る室内娯楽の一切がない、そんな場所。
何もする事が無くて、ただただ時間を持て余しながら、眼下に広がる月の都市を眺める。いっそヒューマンウォッチングな趣味でも開拓してみようかと考えるけれど、残念な事に、人影は米粒程度にしか視認出来ない高さ。
(お手上げッス)
起こしていた上半身を、再びベットへとリクライニング。一切の硬さを感じず包み込んでくれるものだから、これまでゴツゴツ寝床が殆どであった身としては、どうにも違和感が拭えない。
飽く事無く見下ろすそれらに思いを馳せながら、あの決着の行く末はどうなったのだろうと、事後処理に追われているであろう綿月の姉&永琳さんを心配する。
能力を使えば怪我や疲労も一瞬なのだけれど、これには永琳さん直々に、絶対安静とのお言葉を頂いていた。何でも【大祖始】の危険性が月の理解の上限を超えたらしく……。つまり先の絶対安静を意訳すれば、しばらくは何の力も行動も起こさないで欲しい、と解釈出来る。
とはいえ、疲労とか怪我とかなものは全て回復済み。MTGの力を借りる事態でもないので、ただただ暇を持て余している今日この頃である。
「……はぁ~」
早い話、入院という名の軟禁状態。体に何ら異常がなく、事態が刻々と変化していっているのであれば、今は大人しく監禁されているのが最善への道か。
と。
「……?」
何気なく室内を見渡すと、そこには黒い染みが。スライド式な扉の出入り口の表面に、醤油か墨汁でも一滴こぼしたような跡が付着していた。
目の錯覚かと何度か瞬いてみるものの、やはりポツンと染み一つ。そこそこな時間この室内を観察していたのだ。あそこには、白以外の何の色も付いていなかったと断言出来る。
(何だあ……れッ!?)
一滴、二滴、三滴と。
倍々か、上乗か。疑問の言葉を最後まで思い浮かべる間もなく、蟻の巣穴に水でも流し込んだかの如く、その黒い染みは瞬く間に扉全体へと波及し、とうとう全てを飲み込んでしまった。
黒い水の上に真っ白な布でも落としたような光景は、純白の壁の一角に、黒い縦型の長方形を生み出した。そして音もなく動き始めたスライドドアによって、こちらの心境は、疑問、驚愕、恐怖の順に三段変形を遂げる。ホラー映画の主人公にでもなった気分である。
逃げ場はない。
もしや永琳さんの懸念が最悪の形で。などの考えを沸きに退けながら、こりゃ能力使わねばと、腰を浮かして臨戦態勢へと移行しようとした矢先―――。
時刻は、日暮れ。もうそろそろで、完全に夜が訪れる時間帯。
そんな時刻の某一室。そこには、机に突っ伏す、薄い金糸の髪を持つ者が一人。
月の都市の平均値を大きく上回る豊かな母性。それがむにゅりと押し潰される形になっているのだが、当人はそれを気にしない。……気にする余裕が無い。
築かれた巻物型のデータベースの山を床にまで散乱させ、糸の切れたマリオネットの如く事切れている綿月の姉は、身じろきすら億劫な程に、その身を死体に擬態させていた。
「豊姫……生きてる?」
その死体に声を掛ける彼女の師の言葉ですら声で答える事はせずに、伸ばされた片手を若干上げて生存をアピールした後……パタリ。再び死体へと戻ってしまった。
「……ちょっと待ってなさい。今、飲み物でも用意させるから」
空中に浮いた光る文字に向かい、飲み物を二つ注文する八意永琳。宙に光る文字盤はどうやら通信端末の一種のようだ。何気なく振舞っているようではあったが、彼女を良く知るものが見れば、所々に疲労の一端が見え隠れてしているのが分かるだろう。
注文を終えた彼女は、死体となっている者の後を追うかのように、その四肢から力を抜き、脱力。今までの疲労が全て凝縮されたような、深い深い溜め息を吐いた。
「施設補修の手配、軍部や行政含む、各部署への報告。民衆への説明。今回の補填分の予算確保……。とりあえず、これで一先ずは全て片付いた……筈よね」
永琳とて、ここまでの量の事務をこのような短時間で処理した事は記憶にない。
過去の同様の量を捌いた時には、ゆうに二ヶ月前後は費やしていた。それが、二日に差し掛かるか否かの間に終えたのだから、オーバーワークを通り越し、デスマーチもかくやな作業内容であったのは、自身の限界を知る良い機会でもあり、二度と経験したくない出来事であった
再確認。自身に言い聞かせるように虚空へと言葉を紡ぐ彼女に刺激されたのか、先に死んでいた豊姫の死体が、その独り言に反応し、言葉を返す。
「……ええ。これでひとまずは、全て片付きました。……我ながら、ルーチンワークが常であったこの月で、よくここまで早急に対応出来たと思います。……二度とこのような事が無いよう、今後は全力でこういった出来事を回避する決意すら沸いて来る程に」
顔を起こす事もなく、美しき骸が疲れを残した声を出す。
良好な返答であったのに満足しながら、今回で最大限に注意しなければならない事項の結果を尋ねた。
「……輝夜の耳には届いていない、と?」
「はい」
おそるおそる……とまではいかずとも、怪訝を顔に作りながら問うた永琳に、間髪を入れず豊姫は答えた。
それを聞かれるのは予想済みだ、と読み取れる程に小気味のいい返答であった。
「現在、輝夜様は奥の宮で勉学に励んでいらっしゃられます。内容は、治安と防衛。軍部の最高指揮官である、高御産巣日様が直接教鞭を振るっております」
「あの方なら指導に手を抜くという事はないでしょうけど、それなりに忙しい立場でしょうに、よくそんな時間が取れたわね」
「高御様は月の現状を嘆いておられましたから。これを機に、この国の舵を取るであろう者に少しでも訴え掛けたいところがあったのでしょう」
「それで、それ一辺倒になられても困ってしまうけれど、まぁ、あの子なら大丈夫でしょう」
「ええ。飽きっぽいですから」
そういう意味ではないのだが。と言いたげな永琳の苦笑に、豊姫は笑顔で応えた。冗談だ、という事である。
彼女らがいずれ支える月の姫―――蓬莱山輝夜、唯一にして最大の欠点が、その飽きの早さである。
永琳ですら舌を巻く才女の中の才女であるその少女は、一度覚えた事を忘れず、それ故に、二度目という行為に多分の億劫を含む傾向にあった。
「表面的なものはこれまで散々おこなってきましたが、月の内情まで含めた講義は初めてですから、輝夜様も退屈せずに学ばれていらっしゃるようです」
「あの子の場合、次がない。という点をどう克服すれば良いのか悩むのよねぇ」
「はい……。それ以外は、これ以上望むべくもないお方なのですけれど……」
二人からこぼれる溜め息は、綺麗な程に重なっていた。
「高御様には事情を説明し、なるべく講義を……九十九さんが帰られるまで伸ばすよう便宜を図っていただいております。了解も得られましたので、目的の日取りまでは時間を稼げるのではないかと」
「従者達には?」
「無論、言い含んでおります。ただ……」
「……ただ?」
「高御産巣日様より、帰還してしまう前に、彼との会談の場を設けるよう。との要望を受けています」
「……はぁ」
願望を持つ者が、それを叶えられる可能性を秘めた者との会談を望む。何を目的としているのかは明らかだ。
しかし、それが月に不利になる事はないだろう。二人の会合の際に、色々と条件を付け足さなければいけないが。
(まぁ、それはまだ、一般的な常識内での話に収まってくれる筈。問題は……)
永琳の脳裏には、もし今回の件を知った場合の輝夜の行動が画かれていた。
講義を途中で放り投げ、道行く障害物を全て排除して会いに……玩具で遊びに行くのだろう。
そこに、加減という文字はない。あるのはただ、己の欲求を満たすのみに行動する絶対者。それが己と何ら関係のないものであれば、その熱は苛烈を極める筈だ。無視出来るものではない。
(あぁ、でも、九十九さんならあの子の相手も勤まりそうな気がするわね)
何だか良さそうな案に思えてきた―――面倒を押し付けられる相手の意味で―――思考を、瞑目と共に切り離す。
しばらく先ならまだしも、今それを選択してしまえば、その場のセッティングや事後処理などによって、過労で死んでしまう。
たった一度の模擬戦闘でさえ、他の全ての予定を脇に退け、三日三晩に近い時間を費やしてまで対応しなければならなかったのだ。
それを。
―――私、この大地が水で満たされたら素敵だと思うの。
―――月の空がクリーチャーで埋め尽くされるのを見てみたいわ。
―――太陽って前々から眩し過ぎると思っていたのよね。半分くらいの大きさで良いんじゃないかしら。というか良い筈よ。
……などと、ワガママ月姫が降臨してしまう事だろう。
しかも、その願いは叶ってしまう可能性があるというのだから、タチが悪い。
なんだかんだで、彼も男だ。初めの印象こそ良好なものを受け付けられれば、あれが色目を使うだけで、簡単になびいて……引き受けてしまう事は容易に想像出来る。
(もし出会ってしまうのなら、絶対二人きりにはしないようにしないと)
永琳は、そう硬く決意しながら既に遠い過去になってしまったような、それでいて今も脳裏に焼き付いている事の発端を思い返した。
「豊姫。……今回の事、どう思う?」
これまでの会話の流れとは繋がらない、あまりに漠然とした質問は、本当に月の頭脳から発せられた言葉なのかと疑ってしまうものだ。
だがそれは、それだけ今回の出来事が、理解とは遠くのところにあるというものでもあった。
答える気力が無いのか、それとも聞こえていなかったのか。
しばらくの沈黙の後に豊姫は考えをまとめたようで、ぽつりぽつりと、永琳からの質問に自分の意見を述べ始めた。
「【大祖始】……でしたか。我らの有史以来、地上は勿論、外宇宙にすら確認された記録はありません。何処から呼び出されたのかも、彼が創造したのかも不明。……ですが、その力は紛れも無く本物。あらゆる攻撃を受け付けず、跳ね返し、視界に映す事すら困難。こちらの防御を紙切れ―――どころか、存在すらしないように透過させ、影響を及ぼす」
しばし、視線を宙へと這わせ。
「―――永琳様、フェムトファイバーが通用しない相手、というのは記憶に御座いますか?」
今回、最大の懸念材料となる問題を切り出した。
「……いいえ。主神の一角たる天照ですら傷一つ与えられなかった物を、ああも易々と無力化させている存在は過去に類を見ない。―――私でも、あれを使われれば対処に頭を抱えてしまうのに」
暗に『時間を掛ければどうにか出来る』とのニュアンスが含まれている言葉は、けれどそれ以外の問題が大き過ぎて、そこに疑問を持ち、解説を求めるだけの域には至らない。
月で絶対の信頼が置かれている、あらゆる穢れを排除し、防御する物質フェムトファイバー。
それは実際、その信頼に答えられるだけの実績と効果を発揮して、今まで月の民の心の拠り所として応えて来た。
「……絶対は無い。か」
九十九が戦闘直前に放った言葉を思い出す。
哀れだと。愚かだと。
録音機が辛うじて記録し、残っていたそれ―――月の最強クラスの戦力を、たった一言で切り捨てて、その力をまざまざと魅せつけた結末は、多忙を極めるこの現状を知らなければ、真実だとは勿論、冗談とすら思えなかった事だろう。
「検査の結果は……やはり何処にでも居る、地上人そのものです。生物的特徴は、あの島国の人々と類似している―――と。それだけの結果しか現れておりません。魔力も、妖力も、神気も、その他、超能力の類の傾向も、何もかも、一切検出される事はありませんでした」
永琳の呟きに、豊姫がそう返す。
その言葉には、少し省略されている部分がある。
実際には、彼からは多少の神気が検出されているのだが、それはあくまで付着レベルのものであって、彼自身から湧き出ているものでは無い。時が経てば、消え去ってしまう程度のものだ。故にそれはカウントに値しない。
「軍部ではその力を脅威と認識して、懐柔するよう要請が来ています。政治家達も同様で、新たな月の象徴として据えるべきだとも」
「―――それが叶わなければ排除してしまえ、との声も一緒に。でしょう?」
呆れるように洩らす永琳に、豊姫は言葉を返さない。
けれどそれは、如実に彼女の言葉を肯定していた。
―――永琳の目論見は、完膚なきまでに破綻してしまった。
押さえ込める存在をアピールする筈が、依姫ですら―――永琳自身ですら対処に窮するであろう存在を露見させてしまったのである。
ほぼ全ての面で突出した能力を披露する事になったあの地上人は、そんな事とは露知らず、今も暢気に真っ白な病室で、月の都の風景を眺めているのだろう。
月で五本の指に入る最強候補に勝利したというのに。あれだけ尊大な言葉を宣言したというのに。
事が終われば、そんな態度はなりを潜め、最初に出会った頃のように、何処にでも居る一般人へと豹変していた。
見えてこない。
一体何が目的で、どのような考えに基づいて、あのような態度を取っているのだろうか。
唯一の救いは、月に対して明確な敵意が無い事である。これでこちらを滅ぼす気概があったのなら、応戦どころか対抗手段を考え付く間もなく、この国の文明は幾億年の歴史に幕を降ろしていたかもしれない。
(出てしまった結果は変えようが無いわ。……今は、この状況を、どう最善へと着地させるか)
ふわふわと浮いた地上人の扱いに、綿月の姉と月の頭脳は、可能な限りの対応を行い、月側にも、地上人側にも要らぬ不安を与えぬよう最善を尽くしている。
猫の手も借りたい状態だが、事が事だけに、初めから全てを知っていた者にしか任せることが出来ず。必然、九十九を除けば三人だけという結果になってしまう。
それは永琳は勿論の事。綿月豊姫は当然であり、最後の一人が。
「そういえば。依姫は今、どうしているの?」
永琳はその最後の一人である、優秀な愛弟子を思い出す。
昨日の時点ではしばしの休息を必要としていた筈であるが、今はどうなっているのだろうか。
もし叶うのならば、この書類の山の一角でも担ってくれれば大分楽になるのだけれど。労力的な面もそうだが、特に気力的な方面で。
「それが……その……」
困惑する豊姫の態度に、永琳は疑問を覚える。
命に別状はなく、後遺症も確認されず、精神的な負荷も見受けられなかったと、そう記憶しているのだが。
よもや検査の後で、症状が悪化したのか。
時間差による状態異常など、数世紀前に克服したものだとばかり思っていた事で失念していた。
自身の血の気が引くのを感じ、すぐにでも彼女の元に向かう為にと腰を浮かせる永琳であったけれど、それは、他ならぬ姉の手によって止められた。
「お待ち下さい。恐らく、永琳様のお考えになられている事は杞憂です」
その言葉に永琳は体を止める。
向き直り、詳細な説明を求めるべく、豊姫へと体を向けた。
「……」
けれど、当の本人は沈黙したまま。
時折何かを言おうとはするのだが、どうにも頭の中でまとまらないような仕草を取っている。
口を開きかけ、また噤み。飴玉でも頬張っているかのように考えを口内で転がせながら、どうにかそれをまとめ上げようとしている風であった。
「……豊姫?」
あまりに答えが返ってこないものだから、とうとう永琳も痺れを切らした……というのもあるのだが、あの豊姫がこうも言いよどむ姿に困惑を覚えたからでもある。続きを促す為、催促の言葉を口にする。
これに対し、まとめる、という行為を破棄する事で、豊姫は説明を開始する。
状況のみを口にすれば、そこに思案という時間は存在しない。
「……一時間程前の時点では、地上人九十九、並び綿月依姫の両名は、中央通の繁華街を散策中。それに対し、監視と護衛を兼ねた玉兎の先鋭小隊一つを秘密裏に付けております」
休養中かとばかり思っていた考えであったので、予想外の回答に、やや思考が乱れた。
けれど、それは一体どういう状況なのだろう。
九十九は疲労困憊で、依姫は過度の疲れに加え、そこそこの手傷を負っていた筈。ここの医療技術を以ってすれば両者の完治にあまり時間が掛からない―――もう治っているのかもしれないが―――とはいえ、それでも繁華街へと足を運ぶだけの余力があるとは考え難い。
しかも、中央通とはこの都市で最も賑わいを見せる場所。それは義務の方面にではなく、娯楽の方面へと進化した憩いの場だ。二人が向かう必要性が見えてこない。
更に付け加えれば、あの地上人には静かにしておいて欲しいと告げておいた。これまでの行動や性格からして、自らの言葉を反故にされる事は考え難いのだが……。
「……待って豊姫。今、九十九さんと依姫の二人“だけ”で行っていると、そう言ったの?」
「はい……」
渋る豊姫に感じるところがあったようで、永琳は確信を得たいとばかりに事実の再確認を行う。
「……」
豊姫の沈黙に追随する形で、永琳も言葉を失った。
片方は呆れであり、もう片方は熟考というものではあるけれど、共に静寂を作っているのだから、そこに大きな差異はないだろう。
そして。
「……逢引?」
月の頭脳らしからぬ長考の果ては、思春期の者達であれば、ものの数秒で出すだろう答えであった。
「違います!!」
机を叩き、巻物が跳ね、幾本かが床へと落ちた。
反射的に応えた豊姫であるが、その表情はみるみる内に陰りを見せる。力強く言い切ったわりに、段々と自身の回答が間違いであったのだと察せられる弱り具合だ。
「……あ……いえ、その……行為自体は永琳様の仰る通り……では、あるのでしょうけれど……そこにあの子の本意はないと申しましょうか……。ではなかった、と過去形として報告すべきなのでしょうか……」
一向に要領を得ない話し方に、永琳は浅い息を吐く。
「豊姫、落ち着いて。あなたの本意でない状況であるのは分かったけれど、事実は正確に。客観性を重視し、主観は除外するか、後に付け足すだけ。それが情報伝達の基本です」
「は、はい……」
豊姫は、大きく深呼吸。
数秒の思案の後、自身のざわつく心を諌めながら、告げたくない……認めたくない事実を口にするのだった。
俺も男だ。美人さんとキャッキャする構図は憧れていたし、何度妄想したのかも分からない。
そんな思考とは別に、A4サイズの分厚いクリアファイルみたいな……棚に添えられた無色透明なパネルを一枚取り出し、テキトーに操作。すると衣服のサンプルデータがパネルに浮かび上がり、こちらの姿と衣類を合成したものを投影してくれた。便利なものだ。
(合成カメラ……の、完成形って印象だなぁ)
ドラえ○んの道具で似たようなのがあった―――あっちのが高性能だったような―――気がするが、その真相は記憶の彼方。さっさと流す事にする。
衣類を取り扱う店、というコンセプトが技術革新により用を成さなくなって、はや数千年。未だこのような店舗があるというのは、ここ月でも数える程しかないのだという。
ならば何故廃れたものが存在するかといえば、早い話、趣味だとか。
農業体験だとか、日光江戸村だとか、伝統工芸に触れようだとか。色々と間違っている気がするけれど、温故知新なんかの意味合いとかを含んでいるのかもしれない。
現にこの店に入る時には、自動ドアなどという便利なものではなく、ドアマン……ガール? ……が二人、重厚そうな木製の観音開き板チョコレートを開けてくれたのだから。
ようはこの趣味、金持ちの道楽なのである。中華と西洋の入り混じる店内は、ダークブラウンを基調とした造りの、シックなバーのよう。……いくら文化が違うとはいえ、間違っても、病院内で着る病衣やら検査衣やらで訪れて良い場所ではない筈だ。
「たまには悪くないな。こういう場所には疎かったが、存外楽しめるものだ」
片足に深いスリットが入った、例の特徴的な服装はそのままに。
アメジストの長髪、凛とした佇まい。動く度に微かに香る、落ち着いた匂い。陳列された品々を興味深く観察していく様は、楽しんでいるという言葉を裏付けるには充分であった。
帯刀こそしていないものの、こちらの葛藤やら羞恥プレイやらをものともしない……してくれない彼女、綿月依姫は、素晴らしいくらいに我が道をまっしぐら。こちらに対する配慮が微塵も……あぁいや、あるにはあるのだが、抜けている箇所が多過ぎる。俺の衣服の事とか、特に。
(ぶっちゃけ、未だに病衣でございます)
心の中の誰かに言い訳しつつ、不満を吐き出す事で、少しでも心の平穏を望んでみようか。……効果が無いので止めにする。
ここに訪れるまでの道中、こちらが疑問に感じたあれやこれやに全て答えてくれているのは、とても在りがたいし、助かるし、嬉しいしで、その点ではモリモリと感謝の念が沸いてくる。でなけれな、ここが服屋である事も、服屋という存在が希少であるという事も知らないままでいたのだから。
……など前向きに考えてはみるが、やっぱり恥ずかしいもんは恥ずかしい。出来れば即アバヨートッツァンしたい気分であるのだが、ここに来たのは俺の為であるというし、そういう訳にもいかないだろう。
唯一の救いは、場所が場所だけに、辛うじて二桁に届くそれ―――視線の絶対数が少ない事か。これが大衆向けの店であったのなら、百や二百の野次馬根性という名の熱視線によって、体中穴だらけになっていた筈だ。
(……えぇい。あぁ、もう)
ここまで来れば今更か。彼女の調子に付き合う事にし、溢れ出る好奇心を隠し切れない店員やらお客さんやらの視線によって生まれる羞恥心から目を背ける事にした。
なに。こういうものは、恥ずかしがるから恥ずかしいのだ。これが普通! と言わんばかりに自身満々で居れば、周囲も何とはなしに受け入れてくれるものである。……そう、信じる事にする。
「たまには、ねぇ。久々っぽい台詞の割りには色々と詳しいんだな。ここに来る前とか教えてくれたお菓子も美味しかったし。景色も眺めの良さそうなところばかり通って来たし」
ここに来るまでの道中を思い返し、良かった点を上げてみる。
悪かった点―――客寄せパンダ的な意味で―――を上げればキリがないので、前向きに事に当たると致しましょう。
所々に前世の……馴染みのあるあれやこれの名残を見たのは、ここの文化が、いずれは地上に根付いていくからだろうか。
いやはや、どこぞのウルク王の宝物庫を覗いた気分である。原点的な意味で。
「玉兎達の話を覚えていて良かったよ。何度か……いや、“も”。か……。誘われる事はあったのだが、他にやる事、やりたい事があったので、全て断りを入れてきた。……彼女達には悪い事をしたものだ。次からは優先的に受諾するとしよう」
「……その玉兎達の事は知らないけど、好意を受ける受けないを、業務の一環みたいな調子で言うんじゃありません。遊びとか娯楽とかの方面で考えなさい」
「? そのような気はないぞ?」
「なら受諾とか言うなっつーの」
「……?」
あ、こいつ分かってないっぽい。
辛いんだぞー、きっと。好意を寄せてた異性に『ずっと友達』とか笑顔でサラリと言われた日にゃあ、俺なら何日か立ち直れない自身がある。
「依姫。九十九はね、きちんと相手の真意を汲んで上げなさいと言っているの。今の応答じゃあ、まるで仕方がないから付き合う、と取られちゃうよ」
「そう、なのですか……。ありがとうございます。教えていただき、感謝致します」
「九十九も九十九さ。この子が愚直なの、もうある程度分かっているでしょうに。もっと直球で言ってあげないと、伝わるものも伝わらないよ?」
「うっ……」
「自分が傷つきたくないのは分かるけれど、度が過ぎると宜しくない。尤も、そこまでしてあげたくない相手。というのであれば、話は別だけれど」
ふふん、か。ニマリ、か。
背後にそんな疑問符が浮かび出そうな素敵笑顔を浮かべるのは、こちらの心情を分かっての仕草だろう。
途端、周囲から静かな桃色の声が上がるのだが、まぁ、気持ちは分からんでもない。普段はこの手の表情を見せないであろう人物が、からかいの度合いが強いとはいえ、妖艶に近い顔をしたのだ。とても理解出来る感情だ。
というか、一番ダメージを受けているのは間違いなく俺。何せその表情は、こちらに対して向けられている。これが戦闘とかお仕事とか、別の何かに集中している最中であれば被害は軽微であるのに、生憎と―――嬉しい事に……? ―――そうではない。
「諏訪子様……。そう唐突に表情をつくられますと、こちらも対応に困ります。お声のみで自重して下さればありがたいのですが」
「ふふん。神様ってのは、我が侭なものなのさ」
「一応、私も同族なのですが……」
和気藹々と行われるやり取りは、一人二役、俺の横に居る同一人物がしているもの。
不思議なもので、口を開いているのは依姫だというのに、時折聞こえる諏訪子さんの声は、紛れもなく月の軍神様から発せられている。
「……なんかこう……傍から見てると、出来の悪い一人漫才を観戦している気分になります」
「失礼な。これでも演舞には自身があるのだぞ?」
「そうじゃねぇよ!? 俺が突っ込みたいのはそこじゃないからね!?」
「むっ。九十九ってば、目上に対する接し方がなってないね。私達と居た時はそこまででもなかったのに、国から離れたら、敬う心まで離れちゃったのかな?」
「あっ、いえっ、そんな事は」
「まぁ、そう改まる仲でもあるまい」
優しい笑み。とても満ち足りた表情のままに……特大爆弾が投下された。
「―――あれだげ激しくヤりあったのだ。今更、言葉遣い程度で腹は立てんさ」
直後。周囲から上がる黄色い悲鳴。
それなりにセレブな方々であろうに、恥も外聞もなくキャピキャピしていらっしゃるのは、それだけインパクトが強い為か。
反応は神速。
両の肩に手を置いて、依姫をこちらへと向き直らせる。
人の身でありながら、よくぞここまで機敏に動けたものだと自画自賛。
目を丸くする依姫を前に。
「―――何言ってくれちゃってんですかこの人はー!?」
叫ぶ以外の選択肢が、俺にあるわきゃないのです。
この場合、『この人』などでなく、『お前』とか『あなた』とかな単語が適切なんだろうとは思うけれど、口を突いて出た台詞はそれであった。恐らく、依姫へと言い聞かせるよりも、周囲への言い訳づくりを意識していた為なんだろう。
それでも、一応はやるだけやってみるかと。
正面から伝えねば。という気持ちが合わさっての行動であったけれど……どうやらそれでもダメっぽい。まんまるオメメから変化せず、背後に疑問符が浮かび上がって見えそうなキョトン顔をされてしまった。
「……?」
「はははっ。依姫ってば、意外と大胆なんだね」
殺気と、歓喜と。
前者は案の定、野郎のものであり、後者はげんなりする事に、女郎のものである。ただ若干ながら、後者も殺気を含んでいるのは依姫らしいといえば依姫らしい、とても納得のいく反応であった。
(宝塚とか入団したら、一躍時の人とかになりそうだもんなぁ)
……まぁ、その辺りは個人の趣味だ。趣味は他者を冒さぬ限り、神聖にして不可侵。何も言うまい。俺個人としても似合うと思うし。
「けど、依姫……さ「依姫で構わん」……うぃ……。依姫は、その状態で大丈夫なのか? その、色々と」
これまでのチグハグなやり取りの正体は、依姫が降ろした洩矢諏訪子という神が、未だ彼女に宿り続けている為である。
どんな状態なのかと聞いてみると、自分という船の舵を、もう一人の別の者が握っているようなもの……らしい。
『神霊の依り代となる能力』とは、艦長は自分のまま、他の管制……エンジンだとか照明だとか通信だとかの機器を、まるっとその神様の持ち物と交換する感覚に近いのだという。
場合によっては持ち主(神様)ごとそれに換装するそうなのだが、今回はどういう訳か、危うく舵を乗っ取られそうになった……ようで。
「なにぶん、これまでそういった力を使用してこなかったからな。悪意、害意が自身の内面から発生するという経験はなかったし、対策も講じていなかった。勉強になる」
「まぁ、あの時は私も驚いたね。あまりに驚き過ぎて、つい自分の感情を優先させちゃったよ。『力を貸してほしい』なんて言われて頷いてみれば、目の前には九十九が居るんだもん。いやぁ凄いものが見れたよ。【大祖始】って言ったっけ? あんな奥の手があるなんて……もしかして九十九、神奈子とやり合った時には手を抜いてたの? というか、人間?」
「一応人間ですって……。手抜きどころか全力でしたよあの時は……。死にかけてましたし……」
「ほう。お前が死に掛け……る姿が容易に想像出来てしまった……。……すまない、忘れてくれ」
「最後まで言ってくれよ! 少しは褒めてくれてもバチあたりませんよ!?」
「あぁ、その、何だ……。……すまない……」
「そこまで言葉に窮するもんなのか俺を褒めるのは!」
これは泥沼だ。早急に脱出するのが吉だろう。
月の軍神様に謝罪の一択しか選ばせない俺の行動は、この際目を瞑る事にして。
「……これ」
「ん、決まったか。良し良し」
先程手に取った、サンプルデータの収められたパネルを依姫へと突き出しながら、ぶっきらぼうに答える。
―――今回こんな店に来ている理由の一端は、依姫が降臨させた諏訪子さんが、代価として、ここ月での行動の自由を要求した事を発端とする。
通常であれば神気なり霊力なりを対価として支払っていたそうなのだが、諏訪子さんはそれを拒否。強引に……半ば体の自由を乗っ取る形で、こちらの病室へと突撃して来た、という事だとか。
オラオラなスタンドさながらの、霊体風な形を取る事も出来るらしいのだが、何でも、それだと味気ないとかで。
(病室にロック掛かってたからって、何も力を使って抉じ開けんでも……)
文字通りの監禁状態……とまではいかずとも、部屋の出入りには管制室やらの承認が必要であったらしく、依姫がそれを行おうとした際、諏訪子さんの我慢が爆発したらしい。
結果、自動ドアを諏訪子さんの力でもって侵食させ、強制オープン。その足で賑やか外出コースと相成った……と。
「しかしまぁ、依姫はよくそれを了承したよな。こういうのは規則に沿って、ガチガチな行動を取るもんかとばかり思っていたけど」
レジというものが無いのか、依姫は一番近くで佇んでいた―――興奮冷めやらぬ目で―――女性の店員に声を掛け、こちらが差し出したパネルを渡していた。多分それが、会計します、という行為なんだろう。
受け取った店員は頭を下げ、店の奥へ。言葉こそないものの、『かしこまりました』とか幻聴が聞こえてきそう。実に高級感が漂う……堅苦しい事この上ない空間である。
だったら、少しでも気を逸らす事にしようか。
そう思い、依姫の方をチラと見れば。
「……む、むぅ」
目を逸らされ、頬を朱に染められて。言葉短く唸っている。
(照れてる?)
一体どうしてその反応なのか。思わず内心で首を傾げていると。
「……月の法は勿論、軍規に照らし合わせても、私がした行動は処罰の対象になるものだ。何せ、今のお前はこの月で、最大の重要と警戒を持つ人物。それを強引に連れ出し、連れ回しているのだ。いただけない事は重々に理解して……しては……いる……」
尻すぼみ、とはこの事か。
口数どころか音量すら絞りに絞られる依姫からは、自分の中の何かと激しく葛藤している印象を受ける。多分、自分で悪い事をしていると自覚があるんだろう。反応を見るに、悪戯程度のものだろうが。
「……だが、お前と良好な関係を築ければ、月は無論、姉上や永琳様が喜ぶのは間違いない。上層部も概ねその意見で一致している。事後承諾は容易だろう。後は、如何に友好を結ぶかの一点に尽きるのだが」
目を瞑り、何かを思案する素振りをし。
「―――なるほど。そこで九十九と懇意にしているであろう我ならば。と考えたが故……で、御座いますか」
これまでの親しみのある雰囲気など嘘のように。そこにはもはや綿月依姫ではなく、俺が出会った頃と同様の、人々に崇め奉られる存在の神、洩矢諏訪子が降臨していた。
口調こそ目上の者に対するそれだが、腹に一つ、抱えているものがあると察するには充分な声色。自分を、俺とのダシに使われているのが我慢ならないといった風であった。
「これまで一度として会わずとも、あなた様が私より格上であらせられるのは明白。然らばと此度の要求にもお応え申したが、それがこのような意図であれば、首を横に振らざるを得ませぬ」
「洩矢の神が自我を持つに至ったのは、我らがこの地に訪れ、地上に人が営みを築くようになり、幾分か後の事。綿月を知らぬのも無理からぬというものだ。が、神有月の出雲には、月の民の誰かが顔を出していた筈だが……」
「お恥ずかしい。私は土着神故、そちらには使者を」
「そうか。得心した。―――ただ」
言葉を区切り。
「洩矢様、私は始めに言いました。こやつと同様の扱いで構わないと。その言葉に偽りはなく、撤回する気もありません。ならば……」
「……はぁ~……。ま、願われればそれに応えるのが私であるんだけど、格上の相手からそう低姿勢で来られると、どうにも調子が狂っちゃうよ」
「すいません。どうにもこの手の関係は性分に合わず」
……ならば俺はどうなのだと問いただしたい気持ちがフツフツと込み上がるが、客観は勿論、主観でも敬語&尊敬語とは縁遠い自分であるので、仕方ないかと思っていると……どうやら凄く顔に出ていたらしい。依姫が、サトリ妖怪もかくやな読心術を披露して下さった。
「立場の問題だ。敬う相手と、導く者達と。お前は間違いなく後者だろう」
「……」
その二択以外の選択肢はないのだろうか……。まぁ、どちらかと言えば、そうだ。そこには大いに同意する。
間違っちゃいない。間違っちゃいないのだが、こうもスパンと言われた日にゃあ、例え不平不満を抱こうが、返す言葉もなくなるというもの。
疑問符すら挟まぬナチュラルな断言に、理解はしたが納得はしていない。との視線だけで抗議する。
ただ、そんなものはサラリとスルーされ、依姫は諏訪子さんとのやり取りへと、再度没頭し始めるのだが。
「口調についてはさて置くとして。―――依姫、九十九の事はどうするつもり?」
「友好を。叶うのならば、こちらに永住していただければ助かります」
「害を成す行為はしない。と解釈していいのかな?」
「はい。私は勿論、上の意向も……永琳様と姉上が是とすれば、どうとでもなるでしょう」
「……ふーん。……そうなってくれるよう、がんばってね? じゃないと、ほら。私って」
しばしの間の後。
「―――“事が起こった後”が本分だから」
こちらに向けられている言葉ではないというのに、ジワリと大粒の汗が一筋。ツゥと頬を伝い、落ちる。
間近とはいえ、第三者でこの威圧感。それが内面から生じているものであれば、それは当人にとって、喉元に死神の刃が添えられているに等しい。
そう、思っていたのに。
「我が御霊に誓い、決して」
「うん。宜しくね」
諏訪子さんの口調こそ軽やかなもの。けれど、依姫がその言葉の奥に潜むものを察知出来ない訳がない。
何せ、その手の感覚が愚鈍な俺ですら分かったのだ。この判断基準は自分の心にクルものがあるが、正解率は高めな自信がある。
だというのに、冷や汗どころか動揺の一つもせずに諏訪子さんの神気に耐えているのだから、綿月依姫という存在のスペックの高さを改めて意識するには充分であった。
ほんと、よくこんな御仁相手に一本取れたものである。【大祖始】様マジ感謝。母国のオロチな神話に習い、首の数だけ酒樽を振舞ってみようか。
と。
「……あ」
目の前の冷戦から視線を背けると、そこには今にも卒倒しそうな店員さん。両手に抱えている真っ白な袋は、頼んでいた商品か。足は勿論、今にも落としてしまいそうな程に体が震えていらっしゃる。それでも表情は一応笑顔を取り繕っていたので、プロ意識のハイレベルさに心の中で賞賛を贈っておく。
何度かこの手の重圧を経験している俺とは違い、あちらは月の民とはいえ、一般人に相違ない筈。店員さんの心情を否応なく察せられる。
ならばこのツンドラ空間と化した店内を、一刻も早く改善するべきか。
「……依姫、あっちあっち」
「ん? あぁ」
店員に近寄り、依姫は感謝の言葉と共に商品を受け取った。
踵を返し、その足で店の出口へと。それに習い、俺も後に続く。
ドアガールが開く扉を潜り、それが閉まる直後。つい最近耳にした、ドサリと何かが地面へと接触する音を聞いたが……床は柔らかい絨毯だった。ここは店員さんの名誉を優先し、見て見ぬ振りをしておこう。
「さて。……謝罪と、感謝と。言葉にすれば容易いが、こういうものは、行動で示すのも大切だ。故に私はお前が地上へと帰還を果たすまで、お前と諏訪子様の行動を黙認する。月に害のない限り、お前達の自由は私が保証しよう。そう長くは掛からんだろうしな」
「……そっか。だから私が依姫の体を動かそうとした時にも、抵抗はしなかったんだね」
「【大祖始】との戦いによって、私は満身創痍。然らば、祟り神の統括者に体の主導権を明け渡してしまった事もやむなし。地上に然したる脅威無しと判断し、永琳様に全てを押し付け、それ以上余力を割かなかった上層部の慢心こそ此度の原因ではなかろうか。と、そのような建前が出来ております。問題はありません」
……なんか色々と酷い建前だと思うのですが。
「うわぁ……詭弁にしか聞こえねぇ……」
「無論、詭弁だ。だがそれを発するのは、八意永琳その人。大衆がどちらを支持するかは明白だろう」
全くの嘘という訳でもないしな、と。
実に爽やかに言い切って下さった月の軍神様に、今のは聞かなければ良かっただろうかと逡巡。永琳さんの支持率の高さに内心頷きながら、それを採用した。
自宅と研究室の往復くらいしかこの月の都市を見ていないけれど、それでも、彼女がどれだけ大衆から好意を寄せられているのかが分かる程に人気者であった。
……お陰で、その横に付随していたワタクシは、興味と嫉妬と殺意のいずれかの視線が、常時刺さりっぱなしだったのだが。
「地上への転送装置の起動準備まで、まだ幾日かは掛かる。それまで、ここを楽しんでくれれば幸いだ」
豊姫さんの力使えばすぐに帰れるのでは。
そんな考えが頭を過ぎるが、折角穏便に事は集束へ向かっているのだ。幾日かの我慢で済むのなら、それを選んでも問題は少ないだろう。
「んーっ! ここの空気は綺麗過ぎてちょっとどうかと思うけど……たまにはこういうところも悪くはないかな。神奈子なら喜びそうな聖域だねぇ」
それに、最も気に掛けている問題は、既に解決しているのだ。
一番現状を報告したかった諏訪子さんが、こうして目の前に居る。次は僅差で勇丸へと報告しておきたかったけれど、その忠犬を始め、地上への面々の報告は、もう諏訪子さんがおこなっているのだとか。神霊の特徴だとか神の特性だとか色々言われたが、詳細はサッパリです。
などと考えていると。
「ほら」
すっと差し出される手は紛れもなく依姫のものだというのに、一瞬視界に映ったのは、紛れもなく諏訪子さんのもので。
何度か目を瞬き、事実を確認。
(疲れてんのかな……)
どう見ても依姫のものであるそれに、やはり先のは錯覚であったかとかぶりを振って、おずおずと手を重ねた。
暖かな感覚と、柔らかな感触と。それらを十全に感じる間もなく、こちらの体ごと依姫の方へと引っ張られる。彼女が主導権を明け渡したようには見えない。この行動は、純粋に諏訪子さんが取っているものだろう。
「ここは凄い。いつかは民達も、この叡智に辿り着けるだろうかと。そう思わずには居られない。だから、さ」
その表情は、祟り神の統括者とは程遠い。夏の向日葵さながらの眩しさを伴った、見た目通りの無邪気な笑顔。
「私がそれを知らないんじゃ話にならない。故にここは、十全に把握するまでしっかりと学ぶべきだと思うんだ」
「……本音は?」
「楽しそう!」
威厳と尊厳に満ちた雰囲気は微塵もなく。代わり、これまで得られなかった何かを無我夢中で吸収しようとする少女の姿がそこにあって。
こちらに促されてもらした本音に聞こえるが、冗談めかして付随されたそれなので、本音と建前の比率は半々くらいだろう。
その態度は、俺が望んだが故か。
それとも。
「……ん、了解です。……うっし! じゃあまずは……だだっ広い敷地の、あそこ。公園っぽいところから行ってみますか!」
「あぁ、あそこは一応軍の施設だ。今は……玉兎達が訓練を行っているのであったか。見学するのなら、許可を取っておこう」
依姫の助言を横に、『こうえん?』と疑問に思う諏訪子さんに応えつつ。依姫の―――諏訪子さんの手をより強く掴み、追いつけ追い越せと宣言するように、駆け出した。
「思ったより時間が掛かりそうだというのは分かったから、折角だし、地上の方の私には腰を据えて子づ……」
「こづ?」
「うっ、ううん! 何でもないよ! 九十九は案内役をきちんとこなしてね!」
何かの言いかけを強引に流す物言いに、まぁそこまで言うのなら。と、忘れて上げる事にする。
驚きの比率が高い周囲の喧騒をBGMに、じんわりと汗ばみ始めた手の平は……さて、どちらの……誰のものなのか。
足取りは軽く。今なら風になれると思いながら。
「……ただ、まずは着替えてからでいいッスか」
「?」
未だ病衣である事実に立ち返り、とりあえず、そこから始めようと提案するのだった。