―――星々の光が降り注ぐ月面に、また一つ。眩い花が一輪咲いた。
既に、彼らを覆う敷居は無い。
開始数分で粉微塵となった―――かつて壁や天井と呼ばれていた物らは、殆どその役割を果たす事は無かった。
一合交われば大地が割れ。一合交われば宙が輝き。形在るものは寿命を迎え、形無きものは元から存在などしていなかったかのように。
場所が郊外であり、月の都市からかなり離れていたから良いようなものの、そうでなければ大打撃……どころか壊滅……を通り越し、跡形も無く消し去ってしまっていたであろう、この戦い。
否。もはやそれは、個人対個人の戦争に他ならない。
月の都ではそれらの余波を可能な限り抑えるよう、フェムトファイバーを使った防御陣を引き直しているというが……さて、そもそのフェムトファイバー製であったドームを破壊し尽くした怪物の攻撃を、一体どう防ぐと言うのだろうか。
月の軍神たる片方は問題無い。
幾ら攻撃の規模が大きかろうが、威力が高かろうが、高位の神格を有していようが、彼らの技術の結晶である須臾の連続体によって、しっかりと防がれている。
だが問題は、もう片方。
根元の見えぬ五指に似た首を持つ龍は、威力こそ、もう片方と勝るとも劣らないものだが、その攻撃全てが、こちらのありとあらゆる防衛機能をすり抜けて、破壊の爪痕を淡々と各所へ刻み付けていた。
不可解である。不明瞭である。摩訶不思議なのである。
硬度というカテゴリを逸脱し、時間固定の域にすら達した物質を、一体、どのような効力を持たせれば突破出来るというのだろうか。
何の捻りもなく答えを出すのなら、同様の性質―――時間操作系の効力を持たせた攻撃を放っているのだろうが、観測の結果、そういった能力は付随されてはいない……というのが、辛うじて判明した。
「永琳様。西地区の退避、完了しました。……他の地区も避難完了。これで、あの子達の攻撃射程か戦闘地区の変更がない限りは、問題はありません」
「そう……」
カリカリと独特の音を立てる機器達が、灯るランプで控えめな自己主張を繰り返す。
どの機材も、既に稼動限界ギリギリの水準で働き―――けれど、その役割は殆ど果たされてはいない。
攻撃の余波が、月の絶対防御を誇っていたドームを破壊し尽くし、都市部へと拡散してから、はや数刻。
流れ弾であったそれが、都市に張られていたフェムトファイバーを突破し、郊外へと着弾した時には、これを見ていた月の誰もが我が目を疑い、思考を停滞させてしまった。
最も回復の早かった永琳が、即座に九十九と依姫へ対戦の中止を呼び掛けるものの……設備が壊れたせいか、熱中して耳へと届いていないのか。彼女の言葉は届くことは無く。
ならばと即座に都市へと避難勧告を発令。
戦闘を止める事よりも、避難を促す方が“色々と都合が良い”と判断した月の頭脳は、今も事の成行きを見守り続ける。
「……ダメです。全ての測定機器が、あの五つ首の龍を測定しようとすると、『認識出来ない』との解答が返って来ます」
永琳の手足として機能していた豊姫は、初めの頃と変わることの無い状況を、再び報告した。
ぼやけた画像。
解析どころか、ライブ映像ですら対象を映す事に不備を来たしているという、異常事態。
この度の事態によって、都市側―――軍部へと映像を転送しているのだが、そこで、また一つの異常が判明した。
その龍が見える者と、見えない者が出て来たのである。
この判明した事態に、彼女達は解決に努めようと、解明に努めようと、解析に努めようと試行錯誤を繰り返し―――今し方、それは全て不可能である、との解を、月の偉人二人は下した。
状況判断ではあるが、ある程度の力を持つ者でなければ認識すら許さないと思われる、不可視にして不可侵の龍。
地上どころか、彼女達が生まれてから一度たりとも、そのような存在は、見たことも聞いたことも無かった。
「豊姫」
「はっ」
顔はモニターに向けたまま、喜怒哀楽の、どれともいえない声色で、永琳は指示を出した。
「私の正装を用意させなさい。最高のものを。最良の状態で」
正装。
ここ数千年は着衣していなかったが、重要な式典や催しで間々見かけていたなと。豊姫は思う。
月夜を写し、太陽の色を溶かし込み、満天の星雲を散りばめたドレスは、月の誰もが見惚れるほどの出来栄えであり―――最大級の礼節を以って接する、敬意と誠意の現われでもある。
少しの間、乾いた喉を湿らせるように唾液を飲み込んだ彼女は、言葉を続ける。
「―――そして、私の戦闘兵装も用意させなさい。……最強のものを。最高の状態で」
何の感情も映さないガラス球になった眼球で、永琳は、モニターの奥の出来事を見続ける。
「永琳様……」
呟く豊姫に、永琳は応えない。
ごく自然体で直立し、優雅に腕を組むその佇まいにはただ一箇所、似つかわしくない部位がある。
組まれた腕。
互いの腕を掴む指先は、その肉に減り込んでしまいそうな程に、強く握り込まれていた。
それを見た豊姫は、無言を通す。
恐らくこの方は、今、自分の考えの甘さに打ちひしがれているのだろう、と。
分かる訳が無い。
億の年月を過ごしてきても尚、それらは前例が無いのだから。
それはもはや可能性すら皆無な、存在しない事象であった、と言ってもいいだろう。
不穏分子や不確定要素などという、生易しいものではなかった。
“あれ”は、決して無下に扱っていい対象では無い。むしろ、近づいてはならないレベルの存在であったのだ。
依姫でも、豊姫でも、永琳ですらも、その力は強大であるものの、様々な条件をクリアしなければ、月の都市を壊滅に追いやれるだけのものでは無い。
だが、あれにはそれが出来る。
唯一の弱点は、その五龍の召喚に、九十九の体力の殆どを費やしてしまっているようだが、この戦闘行為は既に数十分に及び、それだけの時間があれば、あの龍ならば、都市の一つ位は易々と壊滅させられるだろう。
そも、本当に彼が疲労しているのかどうかも疑わしい。
龍の方は相変わらず、視野に入れる事すら神経を使うというのに、それを呼び出したる者は、『本当にお前が?』と首を傾げてしまう。
これでは、今のあの様子は擬態か演技であり、こちらの油断を誘っているだけなのでは。との考えが浮かんで来るのも、致し方ないだろう。
―――決断は、今において他に無い。
本当に疲労しているのかも疑わしくなるが、それすら考慮に入れ始めたのなら、もはやこちらは何も出来なくなる。動けなくなる。
故に、今。
このチャンスを逃せば、全ては手遅れになるかもしれないと。
不退転の決意を以って、意思を固める彼女に、その弟子も、心の中で追随の意を固めた。
未だ戦闘は激しく。
息つく間もなく変わる展開に、有効な対策を練れないまま、時は過ぎる。
月の誰もが事の成り行きを見守りつつ、古えに決別した筈の恐怖を感じながら。
同時、彼らは少し……郷愁の念にも駆られていた。
それは遥か昔。
その者達が、地上で暮らしていた時の記憶。
皆一様に、天災が終わるのを……通り過ぎるのを、肩身を寄せ合い、ただ待つだけの心境に似て。
―――最も。
どんなに強大な存在を呼び出そうとも。
どんなに圧倒的な力を見せつけようとも。
それらを行った原因は―――その原因の心境は。
彼女達が始めに抱いた感想である、“何処にでも居る地上人”から、決して外れるものでは無かったのである。
この戦闘の後。建国以来、過去最大級の誠意と警戒を以って、再び彼と相対した、永琳含む月側の人々であったのだが。
あたふたと。ばたばたと。おたおたと。
ただひたすらに右往左往するばかりで……。思考力の限界に到達した結果、“とりあえず謝る”を選択&実行。終いには土下座までした地上人を見た事で、見た目と力のあまりの落差により、肝心な何かを色々と見誤っていた月側の行き過ぎた警戒心は、徐々に薄れていく事になるのだが。
……悲しいかな。それはまだ、今しばらく先のお話。
―――唐突だが、このような者をご存知だろうか。
『不動明王』
左手に、何人も逃れられぬ、絶対拘束の注連縄を持ち。右手に、あらゆる災いを弾き、一刀の元に穢れを祓う無名の宝剣を備えた、鬼神悪鬼の如き形相を湛える善の神。
直接的な戦闘描写が記載されている文献は少ないが、その力は、破壊と再生を司るインドの最高三神が内の一神、シヴァを正面から無傷で捕らえるだけの力量と、それら破壊神を踏み潰し、圧殺出来るだけの力があった。
絶対拘束の注連縄は、あらゆる降り掛かる不幸を退け、悪即斬を体言する宝剣は、敵のみならず、どんな困難をも打ち据え、切り裂く能力を有していた。
絶対正義の名の下に、須らくを断罪する、善の剣。
地上でこれに力で勝るには、それこそ世界を焼き払うアレであったり、混沌を切り裂き天地を創造したコレなどが要る事だろう。
派手さこそ無いものの、世界において最強の神の候補に上げてもおかしくないこの者は、事実、それだけの力があるのだから。
話は変わり―――
こう、思ったことはないだろうか。
『時と空間を操る』能力を持つ者と、『永遠と須臾を操る』能力を持つ者は、どちらの能力の方が強いのであろうか、と。
前者は呼んで字の如くな力である為、とても分かり易い。説明は不要であろう。
後者は言葉の解釈の幅が広い為に、若干難しいところはあるものの、この能力を創造した偉大なる酒好きの創造主曰く、要約すればこちらも前者と同様、時間を操る能力なのだという。
力関係は、それこそ使い方次第、状況による、前提条件の有無。と、何かしらの追加ルール一つで、容易く覆る。
だが、あえてここは一つの解を提示してみよう。
それは、“自力”が勝っているものが、同条件の他の能力よりも優れているのではないか、という身も蓋も無いものだ。
先に上げた例ならば、どちらも同じ、時を操る能力。つまりは同条件。
そして、その者達が能力によって働き掛ける対象は、当然“時”という事になる。
方や十数年程度しか生きていないであろう、能力以外は特出すべき点の無い生命体。
方や数百万年を優に超える時を過ごしてきた、心・技・体、どれもが前者よりも遥かに上回っている、絶対種。
この二者から“命令”された“時”は、さて、どちらの指示に従うであろうか。
自力の差は、火を見るより明らかである。
ルールとルールの潰し合いではない。如何に相手よりも多くのルールを従えさせられるのか。の戦いが、そこにはあった。
あらゆる悪を断つ剣は、けれど完全に効果を発揮する事なく、対象の肌を浅く傷つけるだけに止まり。
全ての災いを退ける注連縄は、辺りに漂う濃密な害意の悉くを払うことは出来ずに、決して無視出来ない程度の被害を受け続けていた。
一方は、一つの星の中で最高位に君臨する者。
一方は、数多の星々の中で最高位に屯する者。
後者を呼び出した地上人にとっては、それは当然の結果であり。
前者を呼び出した月の軍神や、それのみしか知らない月の民にとっては、それは儚い幻のような、受け止めきれない現実そのもの。
けれど、それを知るのは前者―――綿月依姫を含む月に住まう者達のみ。
後者―――九十九は、この出来事が終わるまで結局、それらの考察に行き着くことは無かった。
「はあああ!!」
視界が熱い。腕が重い。足が鉛のようだ。
振るう右手の感覚は希薄で、辛うじて何かを握っているという神経だけは繋がっているが……まだ余力はあるものの、それが途切れるのも、時間の問題だろう。
既に、幾人もの神々の力を借り受け、振るい続けている。
炎を、雷を、氷を。
神気を、妖力を、魔力を。
力を、技術を、経験を。
渾身とも言える一撃達は、その悉くが当たる事すら無く、仮に届いたとしても、その殆どが従来より数段劣った効力しか発揮していない。
最初に降ろした愛宕(あたご)の神はやけに―――“全くの力を消費せずに依り代にする事が出来た”のが不可解だが……それは後に考えるとしよう。
詰め将棋の如く、刻々と攻撃手段が―――逃げ道が塞がれて行く錯覚に襲われながら、けれど、それは間違いではないのだろうと確信する。
攻守共に自身が知りえる中で最高位の神、不動明王を最後の砦とし、先の見えない、終わりの無い戦闘行為を踏襲し続けていた。
また一首、五色の内の一色が襲って来た。
目の色は……黒。
闇色の穢れを纏いながら飛来する首を回避しながら、それでも当たりそうになる場合には、本来捕縛用である注連縄を盾代わりにして、決定打を避ける。
コレの攻撃には、継続ダメージがある。
毒のようにじわじわといつの間にか攻撃を受けていた、という場面が間々あった事で判明したそれは、呼び出した神の特性によって、取り返しのつかない事態こそ避けてはいるものの、決して蔑ろに出来るものではない。
雑多な妖怪や邪な存在など、触れるどころか近づくだけで消滅する神気の壁は、初めから存在していないとばかりに無視され続けている。
それも当然か。こいつはあのフェムトファイバーですら易々と破ってみせたのだから。
「ぐっ!」
巨大な黒い瞳を持つ首が頭上を通過する最中、突然、背中からとてつもない衝撃が、四肢をバラバラにせんと襲い掛かって来た。
だが、そこには何も見えない。何も居ない。何の存在も感じ取れない。
(今度は、青か!)
故に、思い当るのだ。
襲来する首達には、それぞれ扱える力が異なっている。
大まかな基準ではあるが、判明した能力の概要は、こうだ。
黒い瞳を持つ首は、毒や疫病といった、状態に変化を与えるもの。
赤い瞳を持つ首は、雷や炎などの、直接的な攻撃力の高いもの。
緑の瞳を持つ首は、身体能力の強化や、活力の操作。
白い瞳を持つ首は、光や浄化に、何かしらの行動の制約。
そして、この青い瞳を持つ首が得意にしているものが、幻術や催眠。現実の改竄。
どの首も独自の視点、思考、能力を有し、時として共有さえしているかのような行動に、こちらは何とか豪雨のような攻撃を凌ぎながら、辛うじて傷と呼べるだけの外傷を刻み続けるしか無かった。
確かに目を見張る威力―――炎や雷―――を伴った攻撃はあるのだが、それらは単純な破壊力だけならば、そうそう脅威になるものではなかった。
(一番の問題は、物理以外での防御が殆ど無効化されているという事だ)
都市部に着弾した流れ弾によって判明した事。
触れたものを分解する障壁も。
近づくものの意識を逸らせる結界も。
あらゆる穢れを防ぎ、時間停止の域にまで昇華した物質、フェムトファイバーですらも。
全ての防衛手段が、全くといって良いほどに役割を果たすことは無かった。
(唯一の救いは、“あまり”直接的な攻撃力が無い事だが……)
それでも小さな居住区画ならば数刻の間に灰燼に帰するだけの威力はあるのだが、ここ月ではその程度ならば、結界も障壁も無かったのなら、軍用車両数台レベルのものである。
この首達の攻撃は、一瞬で島を蒸発させたり、虚空に次元断層レベルの風穴を開けるような代物では、無い。
……無い、筈であるというのに。
(―――こやつには、根本となる能力がある)
濁流の如く迫り来る五指の首と、それらの能力による猛攻を往なしながら、私が考え付いた結論はそれであった。
大したものでない筈の攻撃が、絶対の信頼を寄せていたフェムトファイバー製の壁や天井を崩落させ、攻撃の余波の一端が町を覆っているフェムトファイバーの防御を突破してしまっているのだ。
恐らく、何かしらの加護や防御を無効にする能力“も”有しているのだろう。
絶対拘束を約束する注連縄は、そも相手に狙いを定める段階で意識が他所に向かってしまう、という事態に陥り。
こちらの攻撃も同様に、それでいて、仮に当てられたとしても何かの壁に阻まれたかのような手応えを感じ。
決して触れるな。目を向けるのもおこがましいと。
力を借受たる者が不動明王でなければ、恐らく傷一つどころか、視線すらも向けられないであろう、犯されざる聖域の具現化。自我を持ち移動する不可侵領域。
八つの首を持つ大蛇など比べようも無い―――龍種の頂点に立つであろう龍神は、依然と、その力を見せつけるかの如く悠々と動き、こちらを翻弄し続けていた。
ただ―――
(龍神の足元に居る九十九を攻撃すれば、全て終わりそうな気はするが……)
紙一重を連続する依姫が、“弱点”を視界に捕らえながら、内心で、他意の無い感想を漏らす。
悠然と大地に“崩れ落ちている”地上人に視線を向けて、依姫は―――しかし。
絶対の勝利にではなく、悠然たる強者と出会えた喜びに突き動かされて、自然と、『変身中には攻撃しない』系の“お約束”に身を投じるのであった。
それに、『手加減してやる』と宣言した手前、あまりにあからさま過ぎる弱点を突く行為に、敵意ある天変地異に襲われても、彼女はそれを活用する事は無かった。
―――ふいに。私の足は何かに囚われた。
何かに掴まれた訳でもなく、それが原因で致命傷を受けるようなものでもない。
本当に。
ただ私は、“何も無い場所で、何かに躓いた”だけであった。
(―――?)
いや、そんな問題など瑣末事。
今はそれよりも、目の前の龍神について意識を向けるべきであろう。
そうして、その出来事は私の中に、全く考慮しない案件として、深く沈殿していくのだった。
(やっべ……。これならまだ、大和の国で勇丸先導の片道10km強行軍してた時の方がマシだわ……)
……いや、今のは言い過ぎであったかもしれない。あれはあれで、死ぬかと思ったんだった。訂正致します。はい。
もはや四肢は完全に力が抜けて、過呼吸に近い状態で居続ける事、はや数分。合計で十分超えて少し経過した位かと思うのだが、生憎とそれを知る術であった壁に埋め込まれた時計は、とっくの昔に破壊してしまった。
腕時計の存在を、この時は切に願う。これが終わったら是非、メイド・イン・月な代物が欲しいものだ。
―――【プロテクション】
条件に合うのなら、あらゆる攻撃を防ぎ、あらゆる防御をすり抜け、個人対象の全ての術や能力から選択肢にすら上らない状況を作り出す、絶対の加護。
過去に出した【クリーチャー】である【霊体の先達】に付与されていた、【プロテクション(黒)】が最初に出した【プロテクション】持ちの【クリーチャー】であったが、あの時の効果は、天使達の自力の攻撃力不足を除けば、絶大の一言であった。
鬼からの攻撃を受け付けず、確実にダメージを与え、一人たりとも掠り傷すら負う者は居なかった。
条件さえ合えば強力な【プロテクション】であるが、それ故に、その条件を合わせる事が、これまた難しい。
まず当然の条件として、相手に詳しくなければならない。
鬼=【黒】、と安直に考えた末の【霊体の先達】だったが、もし鬼を部類する色に【黒】が含まれていなかったのなら。……俺自身は逃げ切れたかもしれないが、村は全滅していた可能性が高い。
それに、よくよく考えてみれば、MTGにおいて鬼という種族は、【赤】を代表する色であって、【黒】を含んでいる奴は、そうそう居るものではなかったのだ。
一歩間違えば自身の死は勿論、全滅、蹂躙、虐殺のオンパレードな展開が待ち受けていた事に恐怖した俺は、その経験を踏まえて、この、後ろに鎮座している【クリーチャー】を呼び出した。
【クリーチャー】、タイプ【伝説】【アバター(化身・権化の意)】の二つを持つ、召喚コスト初の二桁。ジャスト10マナ。
そしてこれも初である【マルチカラー】と呼ばれる、二種類以上の色が混ざった混色カード。
パワー&タフネス、どちらも過去最高である10/10の存在。
本来ならば、維持は兎も角、召喚など出来様筈も無いカード。
よって例の如く、他のカードを使用してルールを覆す。
【シナジー】から【コンボ】の域へと昇華した、とあるデッキを使用した。
組み合わせは幾通りでも。
巨大な【ファッティ】を難なく召喚するこのカードこそ、単体のカード名がそのままデッキ名となってしまった―――
(切り札その3で、コスト踏み倒しコンボその1。【Show and Tell】ってなもんよ)
【実物提示教育/Show and Tell(カード)】
3マナで、【青】の【ソーサリー】
全てのプレイヤーは自身の手札の中から好きな【クリーチャー】か【エンチャント】か【アーティファクト】か【土地】を一枚、場に出しても良い。
召喚出来るカードの種類が多い為、この汎用性の高さ故に様々なデッキに組み込まれ、多種多様の派生の根源に、あるいは、一端を担うに至っている。とあるカードの調整版。
【実物提示教育/Show and Tell(デッキ)】
数あるコンボデッキの中で、正規のカードコストを支払う事無く使用するコンセプトのデッキの一つ。ここでは【クリーチャー】による蹂躙を前提とした説明を記述する。
このカードを使えば如何なる高コストカードをも、【インスタント】【ソーサリー】【プレインズウォーカー】を除けば使用出来るという、一瞬、我が目を疑う能力を持つ。
しかし、この効果は全てのプレイヤーに影響がある為、迂闊に使用しようものなら、途端に不利になる可能性がある。
自分の持っているカードこそ最強、もしくは、使用したターン中に勝負を決するだけの準備が整っている。との気概でもなければ使用を躊躇う、一種のギャンブル要素を兼ね備えている。
これを必勝の域までに到達させる為には、単純に考えるのなら、それこそオーバーキルとでも呼べるカードをそれなり以上に採用しなければならないが、多く入れすぎれば序盤に腐る(使用出来ないカード)可能性が高く、少なくすれば、いざ使おうとしても、手札に強力なカードが無い場合が多くなるので、それらの兼ね合いがこのデッキを使用する際の肝。
即死コンボデッキでもない限りは、他のデッキと同様、使ったからといて必ず勝利出来るものでは無いので、他にも多種多様なサポートカードを盛り込み、勝率の安定性を高めるのである。
コスト無視のカードは幾つもあるが、これはその中でも、特に制限の薄いカードであり、コンボである。
『これ使う位なら他のカード使えばとっくに勝ってる』といったカード達を使用して勝利を掴みに行く、一種の浪漫カードであり、ギャンブルデッキであったのだが、近年登場し出したパワーカード達の影響によって、決して無視出来ない領域へと到達した。
“使えれば強い”と“使えないから弱い”が両立してしまっているカード達を、後者を解決する事で、一気に主役へと押し上げた、このコンボ。
この効果によって使えるカードはそれこそ数多もあるが、実際の勝負―――大会で“使われている”カード達は、片手で数えられるだけのものしか確認されていない。
―――これは、そんなパワーカードの内の一枚。
MTGにおいて、『最強のカードとは』の考案に一度は上がるであろう、このカード。その能力故に、数々のデッキのメインアタッカーの一端を担うこの【クリーチャー】こそ、公開当初、誰もがその目を疑い、最強という名の一端を垣間見た……、
(唯一無二の能力を持つ【大祖始】様の力、存分に楽しんでくれ)
色とりどりの攻防を、疲労の極みで霞み始めた視界に収めながら。
襲い来る天災とも言える中、舞を披露するかの如く優雅に踊る彼女へと向けて、心の中で呟いた。
【大祖始(だいそし)】
10マナ、10/10の、【青】【黒】【赤】【緑】【白】の全ての色を持つ、【伝説】【アバター】クリーチャー。
保持する能力は二つ。
墓地に置かれる場合は【ライブラリー】へと自動的に戻る機能が一つ。
そしてもう一つが、あまりに短文、あまりに簡潔。故に一目でその効果が分かる、【プロテクション“全て”】を有していた。
【プロテクション(全て)】とは、MTGのルール上ならば、
如何なるダメージも受けず。
ほぼ確実に相手の防御を掻い潜り、プレイヤーに直接ダメージを与えることが可能であり。
全ての呪文や能力の対象にならない【被覆】を備えている事になる。
究極的な【回避能力】の一種と考えられる。
召喚されたならば、対戦相手の寿命は秒読みに入ったようなもの。
『ぼくのかんがえたさいきょうカード』の一片が伺えるが、それでも絶対的な存在では無いので、召喚出来たとしても、油断は禁物である。
―――だが、このデッキは相手へのメリットをも与えてしまう。
今回の場合、八百万の神々の力を行使する存在相手には、あまりに分の悪い性質ではないだろうか。
太陽神ラー。主神オーディン。全知全能たるゼウス。極東の大神アマテラス。
仮にこれらを呼び出されていたのなら……。との考えが浮かぶものの、その為の【大祖始】であり、その為の【プロテクション(全て)】なのである。
(それに、全力を出し続けてもらわなきゃ困るしな)
もうそろそろ、【大祖始】との戦闘中、どさくさに紛れて使ったあるカードが、効果を発揮してきても良い頃合だ。
……頃合でなくては、困る。というか死ねる。
(もっと早くに決着が付いてる筈だったんだが……よっちゃんマジ半端ねぇ)
月人の……依姫の自力を甘く見ていた報いか。自分の思い描いたとおりの展開にはなってくれていない。
【大祖始】の 猛攻を掻い潜りながら、隙を見て反撃を加える彼女の真剣な表情には、やや愉悦の色が見て取れる。
まだまだ余裕だ、とも取れる様子に焦燥に駆られ、この選択肢は間違いであったのか、との後悔が脳裏を掠めた。
(どうする……残りのマナは、後1。カード枚数的にはまだまだ余裕あるけど……肝心のスタミナがこれじゃあ、なぁ)
そろそろ体力という名のタイムリミットが迫って来ている。
多分、もって後数分。
光の巨人が地上に居られる時間と、どっこいどっこいな感覚だ。
ここでさらに他のカードを使おうものなら、カップメンどころかコンビニで弁当を温めるレベルにまで時間が短縮されそうで。
コストの高い【ピッチスペル】は除外。3……いや、2以上のものを使おうものなら、一瞬で意識を手放すだろう。
(こっちの事態の好転か、あっちの事態の暗転か……)
数ある選択肢の中で思いついた、とある【インスタント】カード。
丁度、初めに使用したカードの能力との【シナジー】が見込める為、条件的にも悪くは無い。
ただ、それは呪文である為に、何処まで相手に効果を及ぼしてくれるのかに疑問が残る。
天の軍神、八坂神奈子を対象に使用した【お粗末】は、後に本人から聞いた話と比較して、大体、6~7割方、効果を発揮していた。
今回使おうとしている相手は、その天の軍神様よりも、色々な意味でさらに上な、月の軍神様。
良くて半分、この相手なら二~三割程度の効果、と考えておく方が妥当な線か。
ならば100%の効果が現れる、自身を対象にした方が最善ではないだろうか。
(……いや、こっちの全力に近い状態での現状がこれなんだ。ここでこっちが―――俺が“体力を回復したって”、状況を打破出来るとは思えない)
それに、俺が召喚した者達は、こっちの体力(制限時間)などお構いなし。あちらにはあちらの体力(スタミナ)が存在している。
様々な条件を照らし合わせ、俺は相手の“体力を減らす”方を選択した。
相手の体力が減れば、動きにも切れが無くなる事。
そうすれば、こちらの攻撃がより避け難く、裁き難くなる事。
よって、ほぼ拮抗状態に見える状況が、一気に新展開を迎えてくれるだろうと踏んでの決断だ。
そうなれば、もはや王手。
約束された勝利って奴だ。
だって、
(お前の体力―――“回復しない”だろうからな)
対象を視界に捉える。
未だ激しい攻防を繰り広げる場面に横槍を入れる形で……何となく、片手を上げて、人差し指を依姫へと向けた。
文字通り彼女を指差したこの指を、小さく、ゆっくりと、トンボでも捕まえるみたいに、くるりくるりと数回転。
残り少ない体力を消費して、しなくてもいい事をしている、との自覚と共に、こうさせるのはカードが悪いんだ、と決め付けて、誰に聞かせるでもなく、残り1マナを使って、呪文を行使した。
『まさかこんなカードを使う日が来るなんて』との思いと一緒に発動した呪文は……彼が思っていたよりもほんの少しだけ、効果覿面だったようである。
「廻れ廻れ。くるくるクルクル―――発動【ぐるぐる】ってか」
効果が対象を補足した感覚に少しの満足感を覚えながら、山場に差し掛かったであろう状況に、より一層の神経を研ぎ澄ます。急速に目減りする、体力という名の砂時計の砂と睨めっこをしながら。ここが根性の入れ時だと、自分自身に活を入れて。