薄暗い雲が空を覆い尽くしている下、森の中を進んでいる集団がある。だがそれは普通の集団ではなかった。皆、その手や肩に武器を持ち、どこか剣呑な雰囲気を放ちながら進軍していく。戦装束を着た者、法衣を着た者、その出で立ちも様々。だがそのすべてに共通していること、それは彼らが皆、妖怪と戦うことを生業としているということだった。
その中でもさらに異彩を放っている人物がいる。それは少女。恐らく十五、六歳程だろうか。物々しい集団の中に会って唯一の紅一点。しかしその装束、そして肩に担いでいる巨大な武器からその少女が妖怪退治屋であることが分かる。それが妖怪退治屋、珊瑚。里の中でも一番の手練である退治屋だった。
珊瑚は全く疲れを見せることなく森の中を進みながらも周りの者たちに目を向ける。自分たちと同じように退治屋を生業としている者、法力を使うのであろう坊主、法師。そして自分の前には退治屋の頭である父と、仲間たちの姿がある。仲間たちだけならいざ知らず、こんな大人数、生業も違う者たちが一同に介し、同じ目的のために動くことなど珊瑚はもちろん、その父、頭ですら初めてだった。
ある妖怪の討伐。
それが今回、珊瑚たちに依頼された任務。それ自体は珍しいことではない。だがその物々しさは異常だった。本来なら妖怪退治といっても里の手練が全員出てくることなどあり得ない。だが依頼主は一切の迷いもなく、それを要請してきた。いや、そうでなければならないと懇願してくるほど。それだけではない。自分たち以外の退治屋や、それに近い生業をしている者たちをこれだけ集めているのだから。だがそれには理由があった。それは最近、一つの国が滅ぼされたから。しかもそれはたった一匹の妖怪によって。それが今回の退治を依頼されている妖怪。
珊瑚はもちろん、この中に入る誰ひとりそれを真に受けてはいなかった。確かに国が滅びたのは間違いない事実らしい。だがそれをたった一匹の妖怪で行えるはずがない。妖怪によって滅ぼされたことが事実だとしてもそれは妖怪の大群によるものであることは間違いない。噂に尾ひれが付き、そんなことになってしまっているのだろう。しかし、今までの中でも一番大きな仕事になるのは間違いない。珊瑚はそれまでの思考を断ち切り、その手にある飛来骨に力を込める。余計なことは考えなくていい。ただ自分は退治屋としての本分を全うするのみ。そんな中
「いや、これは驚きました。まさかこんな所におなごがおられるとは。」
そんなどこか緊張感のない、陽気な声が自分に掛けられる。一体誰がこんな場違いな発言をしてきているのか。訝しみながら振り返った先には法衣を身にまとい、錫杖を手に持った若い法師の姿があった。恐らく二十歳前後だろうか。だがその姿と発言はとても法師とは思えないようなもの。
「……何? 女が居ちゃいけないっての?」
「いえ、逆ですよ。こんな中にあなたのような美しいおなごに出会えたことが嬉しいのです。」
ぶっきらぼうに、軽蔑のまなざしを向けているにも関わらず目の前の男は気にした風もなくしゃべり続けている。どうやら元からこういう性格らしい。それが法師、弥勒の姿。不良法師と呼ばれる所以だった。
「どうですか、この仕事が終わればどこかでお話でも……」
「……構わないけど、その前に妖怪にやられないように気をつけるんだね……」
呆れながらもそう伝えると弥勒は嬉しそうにはしゃいでいる。恐らくはこの場の雰囲気を変えるためにそういう発言をしたのだと受け取り、珊瑚もそれに乗った形。だが半分以上弥勒は本気だったのだが。
そんなやりとりをしながらも一団は森を超え、目指すべき場所へと辿り着く。一団の中に緊張が走る。それは武者震い。これから起こるであろう戦いに向けて己を奮い立たせる行為。例え百を超える妖怪の軍勢が相手であっても引けを取らない戦力が自分たちにはある。
だが彼らはまだ知らなかった。これから起こるものは戦いなどではなく、ただの虐殺、殺慄であることを。
地獄
それ以外にそれを表す言葉はない。もし地獄というものがあるとするならば、それは間違いなく目の前の光景を指すのだろう。
燃え盛る炎、その業火が村を、森を焼き尽くしていく。村であったものは既に形が無い瓦礫の山、荒廃した大地。
人。
人が、人であった者たちが辺りに散らばっている。それが人であったのかどうかすら定かではない。男なのか、女なのか。大人なのか子供なのか。なぜならそれらはただ一つも元の形を保ってはいなかったのだから。しかしそれが間違いなく人だと示すものがある。
それは血。まだ乾いていない深紅の色が、滴りが、匂いが辺りを覆い尽くしている。その光景に誰ひとり言葉を発することはできない。嘔吐する者、その場に倒れ込んでしまう者すらいる。だがそれを咎めることなど誰もできはしない。それほどの光景が、地獄がそこにはあったから。
だが珊瑚たちは気づく。虐殺されたのが人間だけではないことに。その残骸が妖怪も同じように葬られていることを示している。だが分からない。何故妖怪までそんなことになっているのか。共倒れになったのだろうか。いや、違う。この状況はそうではない。退治屋たちは、法師たちは悟っていた。これは人間の仕業でも、妖怪の仕業でもない。これは――――――
彼らの瞳が捉える。一人の青年を、妖怪を。
崩壊した世界の中で、唯一人その場に立ち尽くしている存在。
銀の長髪に金の瞳。そして犬の耳の様なものが頭にある。それはその青年が人間ではない証。外見は恐らくは二十歳程だろうか。その頬には痣の様な物がある。
その姿に知らず息を飲む。まるで一枚の絵画の様な雰囲気がそこにはあった。触れてはいけない、いや触れるべきではない物がそこにはある。
だがその存在が、妖怪がこの事態の原因であることは間違いない。それはその着物。赤い着物。だがその着物が元から赤かったのかすら分からない程、それは返り血に染まっていた。その長い爪を持つ手はその血によって真っ赤に、そして乾いている部分は既に黒ずんでいる。それが全てを物語っていた。しかしそれだけなら歴戦の退治屋達、法師たちはここまで驚愕することはない。その本当の理由。
それは眼。妖怪の眼、表情。そこには何もない。
感情も、意志も、光も。虚無。ただここではないどこかを見つめているかのようなその瞳。その光景に彼らは恐怖する。まるで死者の様なその姿。この世の不吉を全て孕んでいるのではないかと思えるような、そうまるで死神の様な、死の気配がそこにはあった。
だがそれを前にしながらも彼らは妖怪を取り囲み、戦闘態勢に入る。まるでそれらを振り払うかのように。だが全く勝算が無かったわけではない。それは数。いくら強力な力を持っていようともその数の差は圧倒的。加えて自分たちは妖怪を退治することを生業としている。その自負、そしてこの地獄をこれ以上広げるわけにはいかないという決意が彼らを突き動かしていた。珊瑚もそれに続くように戦闘態勢に入る。しかしそれを前にしても妖怪は身じろぎひとつせず、その虚ろな瞳を珊瑚たちに向けているだけ。そこには殺気も、妖気もない。
今まさに戦闘がはじまらんとしている中、弥勒だけはそれに加わることなくその妖怪をただ見つめ続けている。それは戦いに加わることを恐れてのことではない。それは妖気。自分はそれをここに来てから全く感じていない。だが殺気はまだしも、妖気を感じないということがあり得るだろうか。相手は間違いなくこれほどの惨状を生み出すほどの妖怪のはず。なのに何故。だが瞬間、弥勒は悟り、戦慄する。自分は妖気を感じていなかったのではない。それは
目の前の妖怪は自分では感じ取れない程の妖気を、力を持っていたということ。
瞬間、全てが消え去った―――――――
「…………え?」
知らずそんな声を上げていた。珊瑚は一瞬飛んでいた意識を取り戻しながらその光景を見る。そこには何もなかった。あるのは巨大な爪痕だけ。まるで地面を引き裂いたような破壊の痕。だがそこには確かにいた筈だ。そう、父が、仲間たちが。でもいない。誰ひとりいない。ついさっきまでそこにいた筈なのに。おかしい。そんなはずはない。どこにいってしまったんだろう。定まらない思考の中、その手が触れる。そこには――――があった。
「いやあああああっ!!」
珊瑚は理解する。全てを。父たちの行方を、そして自らの運命を。ただ悲鳴を、叫びを上げることしかできなかった。だがそれすらできなくなる。
「―――――――」
自分を見つめている妖怪。それに魅入られてしまったから。その瞳は先程と何も変わっていない。たった一振り、たった爪の一振りで父たちの命を奪い去った、刈り取ったにも関わらずそこには何の感情もみられない。幽鬼のように、死者のようにただそこにあるだけ。
珊瑚は悟る。目の前の妖怪にとって自分たちは何でもないのだと。そう、まるで道端に落ちている石ころ。眼に止めることもない、そんな存在なのだと。そんな絶望と恐怖が珊瑚を包みかけたその瞬間、
「早くこの場から離れなさいっ!!」
叫びと共に珊瑚を庇うように弥勒がその手にある札を放つ。それは弥勒が持ち得る霊力を込めた札。その力は法師の中でも上位に当たるもの。だがそれは妖怪に触れることなく消滅してしまう。その光景に弥勒は声を上げることすらできない。相手は何の動きも見せていない。その爪で斬り裂いたわけでも、振り払ったわけでもない。それはつまり、相手が無意識に放っている妖気すら自分の札は破ることができなかったということ。
弥勒は知らなかった。それが大妖怪の力。人間では決して超えることができない壁。それが眼の前に立ち塞がっていた。だがまだだ。まだあきらめるわけにはいかない。今の自分には自分だけではない、後ろにいる少女の命も背負っているのだから。その決意と同時に妖怪の爪がわずかに動く。それは先程と同じ。全てを切り裂く爪が振るわれる前兆。それを許すわけにはいかない。
「風穴っ!!」
それよりも早くその右腕の封印が解かれ、その力が解き放たれる。風穴。奈落によって与えられた呪い。全てを飲みこむ力。それを弥勒は己の命を代償に解き放つ。
その力が全てを飲みこんでいく。まるでブラックホールのように。その力に抗う術はない。破壊しつくされた村が、葬られた人間が、妖怪たちがその戻ることができない穴へと落ちていく。弥勒は左腕でそれを支えながら目の前の妖怪を吸いこまんと迫る。次第にその距離が縮まって行く。いくらどんなに強い妖怪でもこの力には通用しない。例え毒や瘴気を放ってきたとしても、例えこの命が尽きることになろうとも風穴を閉じることはない。その覚悟をもって弥勒は命を燃やし続ける。
その力がついに届くかに思われたその時、妖怪が動く。それは何かを振り切るかのような動き。そう、まるで刀を振り切るような――――――
弥勒はその光景に目を奪われる。そこには斬り落とされた腕がある。先程まであったはずの自らの右腕が。まるで刀に斬られてしまったかのように。
それは弥勒が望んでいたこと。風穴。その呪いから解放からされたことを意味していた。
例えそれが刹那であったとしても。
瞬間、弥勒はこの世から姿をなくす。制御を失った右腕、風穴の力に飲み込まれる。それが弥勒の最期。風穴に飲み込まれるという父と同じ運命だった―――――――
「あああああああっ!!」
絶叫と共に珊瑚はその手に飛来骨を持ちながら妖怪へと向かって行く。もはや恐怖も、絶望もない。その心にはたった一つの想いしかない。
生きたい
ただそれだけ。まだ自分はここで死ぬわけにはいかない。そうだ。ここで死ぬわけにはいかない。自分が死んでしまえば、死んでしまえばあの子が一人になってしまう。それだけは、それだけは絶対に―――――――
珊瑚が最後に見た光景。それはたった一人の弟。
そして切り裂かれた飛来骨と自分に迫る爪だった―――――――
それは時間にすれば三分にも満たない時間。その間に青年は、いや少年は全ての敵を葬り去った。息一つ切らさず、かすり傷一つ負わず。
それが今の犬夜叉の、少年の力。
四魂のカケラによって得た力。本来なら長い年月と鍛錬の末に辿り着くはずの姿と力。
大妖怪。かつての犬夜叉の父に匹敵する力。
少年が少年である証、意味である『心』を代償に得た力。
その絶望と、世界への憎しみの具現。
少年は歩きだす。ゆっくりと、目指す場所もなく、ただ前へと。だが、その足が止まる。それはこれまでの少年には見られなかった反応。それは感じ取ったから。その存在を。
森の中から現れる。静かに、それでも圧倒的存在感を持って。
腰を超える銀の長髪、鎧と二本の刀を携えた青年。まるで今の少年の姿と瓜二つの姿。
だが決定的に違うもの。それはその眼。その眼光は鋭さを、冷たさを備えている。
殺生丸。
今、逃れることができない犬夜叉と殺生丸の運命が交差しようとしていた――――――